1: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:11:19.39 ID:etP54eo5
2: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:13:22.86 ID:etP54eo5
カランカラン。ドアの上部に付いたベルが鳴った。やはりこの時間だ。入ってくる足音に耳を澄ます。
4: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:17:51.94 ID:etP54eo5
「いらっしゃいませー」
いつもの客かと言わんばかりに、マダムが視線をポットに戻す。キッチンの方から、エプロン姿のロマンスグレーが、一瞬顔を出した。あれがマダムの旦那様か。
6: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:19:49.74 ID:etP54eo5
「エスプレッソを、ホットで」
この一言が、耳にこびりついている。違う、こびりつくとは言っても、決して不快感のある表現ではなく。この言い方一つ、発音一つ、緻密な美しさを耳に染み込ませているということで。
それほどに、彼女のことを好いているということだ。
◇
7: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:23:26.92 ID:etP54eo5
彼女と言葉を交わしたのはあれが最初で最後になるだろう。確か雨が強く降っていた。
8: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:25:32.59 ID:etP54eo5
店は珍しく雨宿りの客で賑わっていた。テーブルは全て埋まっていたと思う。僕はお気に入りの、一人がけのソファに座っていた。その日は何となく、読みかけの本を片付けるつもりだった。
9: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:28:38.33 ID:etP54eo5
「いらっしゃいませー」
女が一人、僕の席を過ぎていった。後ろ姿でも人目を引く、背の高い女だ。女は奥の席まで見渡してから、カウンターに座った。
10: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:32:17.84 ID:etP54eo5
「エスプレッソを、ホットで」
この暑いのに、ホットとは。好奇心をくすぐられた僕は、その女を見ていたくなった。
「はい、お替りです」
マダムが慣れた様子でカップを置いていく。試作品らしい、小さなカヌレをオマケに付けてくれた。不格好なパンケーキを焼いていた旦那様もまあ成長したものだ。そうしている間に、女は被っていたベージュのキャスケットを取った。
12: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:35:35.68 ID:etP54eo5
長い金髪に碧眼、椅子から床に降ろした脚が美しかった。あの女は芸能人か何かだ、体を冷やさないようにすると聞いたことがある。合点がいった。
13: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:40:05.87 ID:etP54eo5
要するに一目惚れだ。かかっているレコードの音楽も、客の賑やかな話し声も、聞こえない。彼女と二人きりの世界に居るようだ。
僕は古臭い鞄から、スケッチブックを取り出した。カップを持つ彼女の横顔を見ながら、鉛筆を滑らせる。しばらくして彼女は時計を見ると、店を出ていった。
彼女が出ていった後も、夢中で絵を描き続けていたために、僕は彼女が忘れ物を取りに戻ってきたことに気づかなかった。
「それ……私ですか?」
14: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:43:15.95 ID:etP54eo5
声がした方を見ると、まさに彼女が立っていた。予想外のことに固まってしまった僕は、ええ、そうですと答えるのが精一杯だった。
15: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:47:21.56 ID:etP54eo5
「もうやめてくださいね」
困ったように笑った彼女はやはり、美しかった。
16: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:49:27.75 ID:etP54eo5
以降、彼女とは何の交流も無い。あれを交流と呼んでいいとは流石に思っていないが、とにかく無いのだ。背後から入ってくる足音だけで、注文をする一文字だけで彼女だと分かるのに。
17: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:51:58.27 ID:etP54eo5
彼女は水曜日と金曜日に決まってここに来るようになった。恐らく仕事用と思わしき、そこそこの大きさの可愛らしい鞄をいつも持っている。殆ど高さのない靴を履いているのに、偶に脚をさするのは、職場でヒールに履き替えるからだろう。癒しの一時を邪魔するほど僕は軟派な男ではない、しかし。
18: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:54:05.42 ID:etP54eo5
何かきっかけはないかと常に思っている。思っているのだ。
19: (らっきょう) 2023/11/07(火) 22:56:11.90 ID:etP54eo5
「はい、エスプレッソ」
考えた末に、とりあえず飲み物を真似てみることにした。僕が今飲んでいるのも少しぬるくなってしまったエスプレッソだ。マダムは少し悲しそうだったが。
20: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:00:22.14 ID:etP54eo5
彼女がメニューを見始めた。珍しい、小腹でも空いたのだろうか。ここの軽食は重いものばかりだ。サンドイッチもパンケーキも、この時間では夕食に響くだろう。彼女が大食らいには思えない。
「……」
悩んでいるようだ。僕と彼女しか客は居ない。コーヒーセット二つではどう転んでもヒントにはなり得ない。
21: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:02:22.28 ID:etP54eo5
マダムがこっちを見た。何だ、僕に行けと言うのか。メニューを見る。なんだ、良いのがあるじゃないか。
「カヌレがお勧めですよ」
店員であるかのように自然を取り繕って、言葉を発した。少し声が震えていただろうか。
22: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:05:44.22 ID:etP54eo5
「……そうなんですね」
彼女はそのままカヌレを注文した。今丁度しようとしていたのかもしれないと思うと、余計なことを言った気もする。それに席に座ったまま、この距離で会話するのも不自然だったに違いない。
とはいえ二ヶ月ぶりに彼女と口がきけたのだ。ありがとうマダム、お替りは冷めないうちに頂くよ。
23: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:07:45.32 ID:etP54eo5
会計を済ませた後、彼女は、ありがとうと僕に一言かけて出ていった。僕は舞い上がっていた故にエスプレッソを三回お替りし、文字通り眠れぬ夜を過ごした。
◇
24: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:12:41.25 ID:etP54eo5
カランカラン。エスプレッソを、ホットで。彼女はカウンターの方に直接注文をしてから、席に行くようになった。彼女の優しさと常連になったという自負から来るものだろう。しかしながら、いつものなどと偉そうに言いたがる爺さんたちとは違い、覚えていて欲しいという図々しさは無い。性格まで美しいものだ。
25: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:14:31.52 ID:etP54eo5
彼女が座るのは、決まって奥の窓際の席だ。あそこは一番大きな窓から、花屋、パン屋、雑貨屋と続く、年頃の女が好きそうな小洒落た店構えが見える。この店が甘い菓子に染まってきているのもあの一帯の影響だろう。
26: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:16:54.34 ID:etP54eo5
とにかく、お気に入りの席があるのは分かる。僕が気になっているのは、その首元に光る、小ぶりなネックレスだ。
「はい、エスプレッソね」
間違えて焼いたから、とまだ熱そうなカヌレを二つも置いていく。マダム、あからさまだと辛い。カヌレは焼き置き出来るものだと僕は知っている。お勧めしておいて、いざ聞かれた時に何も知らなくては事だから、カヌレに関する情報はかなり仕入れたのだ。間違った努力だって? 知っているとも。
27: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:19:37.14 ID:etP54eo5
それよりもだ、この前はしていなかった、白い首筋に金色の鎖が、僕にはこれでもかと主張するように見える。ハート、イニシャル、それとも宝石だろうか。この距離では分からない。美しい、美しいんだけれども、純粋な気持ちで見ることが出来ない。
28: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:22:14.21 ID:etP54eo5
はたと気づく。まだ十月だ、クリスマスなんかじゃないのだから、誕生日や日頃のご褒美にと、自分で買っていてもおかしくは無い。少し前にそういう流行りがあったはずだ。そうだそうだ。しかしあの美しさで恋人が居ないなんてことがあるだろうか。
29: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:25:25.47 ID:etP54eo5
自分の愚かしさとおこがましさに頭を打ちつけたくなる。恋人が居るかと初めから考えもしなかった。その時、聞き慣れない着信音が鳴った。
「はい、絢瀬です」
彼女はアヤセという苗字なのか。綾瀬、絢瀬。彼女に相応しい響きだ。これくらいで浮かれている。さっきまでの自分との温度差に、笑いそうになる。
30: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:27:16.77 ID:etP54eo5
「出るから、少し待って」
電話を切ると、彼女は急いでコーヒーを飲み終え、店の外でまた電話をし始めた。まだ暖かいとはいえ、この慌てようは恋人だろうか。いや、最初に彼女は名乗った。恋人ではなく仕事関係ではなかろうか。
31: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:29:20.14 ID:etP54eo5
>>30
訂正
コーヒー
↓
エスプレッソ
訂正
コーヒー
↓
エスプレッソ
32: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:31:44.07 ID:etP54eo5
悪いとは思いつつ、すぐに店を出た。少しでも会話が聞こえるのを期待して。
「びっくりしたわ。にこから連絡してくるなんて」
遅すぎず、速すぎず通り過ぎる。嬉しそうな声だ。ニコ、イントネーションからしても苗字では無さそうだ。恐らく女、旧友か何かだろう。しかし珍しい名前だ。外国人だろうか。どこかで聞いた気もするが、まあいいか。
一先ず安心する。気まぐれに高い食パンを買って帰った。彼女は、食パンは好きだろうか。家に帰っても彼女のことを考えていることに、嬉しさと恥ずかしさを覚えた。
◇
33: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:34:09.72 ID:etP54eo5
十一月に入り、少し肌寒くなるかと思いきや、半袖を着れるくらいには暑い。言い訳を失ったカップルが、半袖一枚で、寒いなどとはしゃいでいる。あんな風に羞恥心を乗り越えてこその恋愛なのだろうか。
いつもより早く着いたな。店のドアを開けると、彼女はもう店に来ていた。何事も無かったようにエスプレッソを頼む。
34: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:36:07.42 ID:etP54eo5
彼女は三人の女を連れていた。いや、一人は彼女の向かい側に座っているが、あとの二人は立って何やら話している。どういう状況だろうかと耳を澄ませる。
35: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:38:08.70 ID:etP54eo5
「ありがとうございますっ」
「宝物です、一生大事にします」
サイン色紙だ。立っている女二人が、彼女と座っている女にサインを書かせている。やはり彼女は有名人だったのだ。立っていた女二人が名残惜しそうに去っていく。ちらちらと振り返りながら二人の女は店を出て行った。
36: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:40:43.64 ID:etP54eo5
「見つかっちゃったね。絵里ちは目立つから」
「あなたが一緒だからよ、希」
ノゾミと呼ばれた女がコーヒーを一口啜った。
37: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:42:04.30 ID:etP54eo5
「穂乃果ちゃん家のお饅頭でも買ってく?」
「あんまり甘すぎるのは苦手かも、お祖母様」
「そっかあ」
エリチ、ノゾミ、ニコ、ホノカ。思い出した。僕はスルーしていたが、そんなアイドルグループが居たな。そう言われればこんな子達だった気がする。
38: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:43:41.82 ID:etP54eo5
「……何?」
「んーん、やっぱり似合うなって、それ」
「ふふ、ありがとう」
「ウチ、次は二人で選びに行くのも良いかなって思ってるんよ」
「あぁ……にこが言ってたわね。来年は私もそうさせてもらおうかしら」
「もうそれ、二人でショッピング行ってるだけやん」
「ふふっ、そうね」
そうか、ネックレスはこの女からのものだったのか。なんだ、なんだ女だったのか。余程仲が良かったんだろうな。ここ最近僕を悩ませていた問題が解決し、安堵の声が漏れそうになる。彼女たちは楽しそうに店を出て行った。
39: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:46:01.37 ID:etP54eo5
僕も帰るか、あのアイドルグループを調べてみないと。店を出る。
僕の数メートル前で、彼女たちは手を繋いでいた。
40: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:48:04.94 ID:etP54eo5
「あっ、ごめん。忘れ物しちゃった。鍵もかけてくる」
「待ってるわ」
ノゾミという女が向かいの花屋に入っていく。
41: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:49:11.84 ID:etP54eo5
彼女はいつもこの席から、あの女を見ていたのか。いつもいつもいつも。
42: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:50:54.20 ID:etP54eo5
女。女か。どす黒い感情が沸き起こる。
このまま彼女をどこかに連れ込んで、男らしく犯してやって。女の本能に訴えかければ。振り向いてくれるだろうか。
いや、泣いている。止めろと泣き叫び、侮蔑の目を向け、手当り次第に抵抗するのだろう。
43: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:52:53.71 ID:etP54eo5
「お待たせ。絵里ち、行こっ」
女たちと反対方向に歩き出す。窓際の女、それ以上でもそれ以下でもない。
44: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:54:30.66 ID:etP54eo5
その辺のごみ収集所にスケッチブックを放り投げる。管理人と思わしき女が何か言っているが、聞こえない。
しばらくエスプレッソは飲めないな、とぼんやりした頭で歩き出した。
45: (らっきょう) 2023/11/07(火) 23:55:07.93 ID:etP54eo5
終わりです。長々とありがとうございました。
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51: (らっかせい) 2023/11/08(水) 10:27:18.35 ID:9Od7RDjm
読んだでー
不思議な感じだった
正体を明かさない一人称系雰囲気出るな
不思議な感じだった
正体を明かさない一人称系雰囲気出るな
56: (たこやき) 2023/11/08(水) 17:15:11.22 ID:g0hM3mL4
国語の教科書にありそう
引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1699362679/