【SS】エマ「女同士、離島」彼方「何も起きないはずがなく……」果林「何もないわよ」【ラブライブ!虹ヶ咲】

SS


2: 2021/05/01(土) 16:50:44.26 ID:kCcmYMdd
 
,,(d!.•ヮ•..)

青々とした空にもくもくと湧き立つ入道雲、いつもより少し涼しい夏休みの昼下がり。
同好会の練習も終わって、わたしと果林ちゃんは寮へおしゃべりしながら歩いていました。

「果林ちゃん、『おぼん』ってなに?」

練習が終わって、みんなで集まっているときにせつ菜ちゃんが『おぼんだから金曜日の練習はお休み』って。
知らない言葉だったから、わたしの頭の上にはハテナマークが出たんだけど……ついつい聞くタイミングを逃しちゃった。

「改めて聞かれると……どう説明したらいいのかちょっと難しいわね」

と、あごに手をあててうんうん唸る果林ちゃん。
少し間を開けて、

「お盆っていうのはね、ご先祖様をお祀りする日本の風習なのよ。この時期はみんな実家に帰省したり、お爺ちゃんお婆ちゃんの家に行ったりするのよ」

なるほど、だから練習もお休みになるんだ。
なんて素敵な風習なんだろう。

「果林ちゃんも実家に帰るの?」

「一応ね。親が戻ってこいってうるさくって」

強いられた、みたいな言い方をしつつも顔がほころぶ果林ちゃん。
この顔は間違いなくお母さんやお父さんのことを考えてる顔……だって、わたしも故郷のことを考えるとついつい頬が緩んじゃうから。
……あれ?そういえば、果林ちゃんの実家ってどこにあるんだろう?

3: 2021/05/01(土) 16:57:39.26 ID:kCcmYMdd
「果林ちゃんの実家ってどこにあるの?」

「八丈島っていうところよ」

ハチジョウジマ……シマ、島?
わたしがきょとんとしていると、果林ちゃんはグーグルマップを開いて場所を見せてくれました。

「ほら、ここ」

東京から真南、海の上に赤いピンが立っています。
本当に島なんだ!
画面には、八丈島を紹介する写真として、なぜか風景じゃなくて透き通った青い海とウミガメが。
果林ちゃんの故郷なんだもん、きっと素敵な場所なんだろうな。

「へぇ~!すごいね、なんだか良さそうなところ!」

「う~ん……こっちと比べたら何もないど田舎よ?」

日本の人って、地元や故郷のことを尋ねると決まって「何もない」とか「大した場所じゃない」って言うけど、どこまで本気なんだろう?
東京の景色には慣れてきたけど、田舎にはわたしの知らないものがまだまだたくさんありそうで、すごく興味をそそられるんだけど……。
果林ちゃんは謙遜して田舎だなんて言うけど、そんなはずない。
クチコミの評価だって……。

「星が4.3もあるのに?」

「まあ、離島の観光地でもあるしね。でも住んでたら不便で仕方ないわよ?特に一度こっちに出ちゃうと、なおさらね」

4: 2021/05/01(土) 17:04:41.65 ID:kCcmYMdd
やっぱり!観光もできる場所なんだ。
どうやって行くんだろう?どんな景色なんだろう?どんな食べ物があるんだろう?
一度湧いてしまった興味はそう簡単には尽きません。果林ちゃんの故郷となればより一層、気になってしまうのも仕方ありません。

本来はご先祖様に祈るため、家族と一緒に過ごす時間なんだろうけど……。
わたしの中で遠慮と興味の葛藤が起こっています。
もしわたしが「行ってみたい」って言ったら果林ちゃんはどうするかな。

きっと少し迷って、でも結局オッケーしてくれるような気がする。
そんな確信もあるから、果林ちゃんにちょっと甘えてみたいの。

「ねえ果林ちゃん」

「なに?エマ」

「もし果林ちゃんの迷惑にならなかったらだけど……わたしも、行ってみたいな。八丈島」

「えっ!?」

驚きと困惑の混ざった顔、『本気で言ってるの?』と少し物申したげな青い瞳がわたしを覗く。
でも、果林ちゃんがわたしを迷惑に思ってないことは分かる。

「う~ん……」

わたしの表情を見て、嘘や冗談じゃないことを悟った果林ちゃん。

「そうねぇ……」

「う~ん……」

果林ちゃんが悩んでる間、わたしたちの会話の空白を、練習中の運動部の子たちのかけ声とセミの鳴き声が埋めてくれています。

6: 2021/05/01(土) 17:09:48.91 ID:kCcmYMdd
「……」

「……」

「別に、いいけど……」

「ふふっ……やった~♪」

やっぱり、わたしの想像通りの展開。
イメージしていた果林ちゃんと現実の果林ちゃんが全く同じでつい笑っちゃった。

「いいけど、本当に何もないわよ?」

何もないなんて、そんなこと本当にあるのかな?
果林ちゃんはそう言うけど、絶対に素敵な場所だってわたしの勘が教えてくれてる。

「全然大丈夫だよ!」

日本に来てからしばらく経つけど、東京を出て遠くの場所へ行くチャンスなんてなかった。
旅行に行けるだけでも嬉しいのに、親友の果林ちゃんと遠出、それも果林ちゃんの故郷に!
嬉しすぎて小躍りしちゃう。

あと一年もしないうちにわたしはスイスに帰らないといけなくなる。
だから、いろんなことを経験してもっとたくさん思い出が欲しいっていう気持ちもあった。
せっかくの夏休みだもん、練習だけで終わらせちゃうのはもったいないもの。

8: 2021/05/01(土) 17:14:36.82 ID:kCcmYMdd
 
そのあと、果林ちゃんといろいろ相談して……。

行きは船で、帰りは飛行機の3泊4日の旅程になりました。
果林ちゃんは帰省するときいつもそうしているみたいで、わたしは果林ちゃんのいつもの帰省に同行させてもらう、そんなイメージです。

わたしがお邪魔させてもらうことについて、果林ちゃんのご両親からも許可をいただき、準備万端!

チケットも予約したし、あとは出発の日を待つばかり。
楽しみだな♪

あっ、そうだ。
せっかくだし八丈島について軽く調べてみようかな。

「八丈島……っと」

八丈島のウィキペディアを見てみる。

八丈島は東京の南方の海に位置する伊豆諸島の島のうちの一つ。
伊豆諸島は常春と呼ばれる気候条件にあって、一年を通して暖かくて過ごしやすいみたい。

10: 2021/05/01(土) 17:20:11.96 ID:kCcmYMdd
八丈島は八丈小島と八丈本島があって、人が住んでるのは八丈本島の方。
名物はくさや、明日葉、ハイビスカス、島焼酎……全部わたしの知らないものだ。

「でもどれも食べ物だよね……?んん~、気になっちゃう……早く行きたいな」

島の方言である八丈方言は大昔の日本語の特徴を残していて、
『本土方言のほとんどで失われた動詞・形容詞の終止形と連体形の区別があり、特に連体形は万葉集に記録されたものと同じく』……。

「……?」

ここは読まなくてもいいかな?
果林ちゃんも方言が出たりするのかな?ちょっと聞いてみたいと思ったり。

あまり調べすぎるのも良くないし、そろそろ八丈島の事前調査はおしまいにして寝ようと思ったとき、

――ピコピコッ。

彼方ちゃんからLINEがきて。


――――――――
――――――
――――

 

11: 2021/05/01(土) 17:24:36.27 ID:kCcmYMdd
 
(ζル ˘ ᴗ ˚ル


ゆりかもめに乗って、竹芝へ。

電車を降りて、スマホを改札にかざす。
――ピピッ。

「ふう……」

客船ターミナルは駅を出てすぐのところにある。

東京に出てきてしばらく経つけど、未だに乗換案内のアプリとグーグルマップは欠かせないのよね。
慣れた道でも、なんとなく安心感を求めてスマホに視線を落としてしまう。
実を言うと、地図に集中しすぎて自分が今どこにいるのか分からなくなるのがいつものパターンなんだけど。

そうはいっても、この距離なら迷いようがないわ。
……本当よ?
だって、ほとんど駅直結だもの。

13: 2021/05/01(土) 17:31:43.73 ID:kCcmYMdd
エマと一緒に行こうと思ったんだけど、なぜか断られちゃって。
理由を聞いてみると、なにか用事があるとかないとか。

「……」

蒸し暑い夏の夜に海風が心地いい。
コツコツと靴の音を響かせながらターミナルへと歩く。

エマももうきっと来てるわよね?
現在時刻は21時50分。出港の時間が22時30分だから、少し余裕をもってのこの時間。
エマには遅くとも22時には着いているように伝えたけど。

「……♪」

鼻歌交じりにターミナルへ向かう道を歩いていると、フレアスリーブの白いワンピースに身を包んだいつもの栗毛色のおさげの後ろ姿が見えた。

「……?」

……と、その横にもう一人、見慣れた人影が。

「……彼方?」

15: 2021/05/01(土) 17:36:07.95 ID:kCcmYMdd
えっ、ちょっと待って、どういうこと?
なんで彼方がここにいるの?と疑問に思ったのも束の間――。

「あっ、果林ちゃん!」

エマが私に気付いてそう声を出すと、隣の彼方も振り返って何食わぬ顔で手を振っている。
彼方は白のオーバーサイズのカットソーにデニムのオーバーオール、そして横にはちゃっかりスーツケース。
最初から一緒に八丈島に行くお話でしたよね?と言わんばかりの馴染みっぷり。

駆け寄って二人のもとへ。

「ちょっ、ちょっと彼方?どうしてここにいるのよ」

「おやぁ~?ダメでしたかい?」

ゆっくりな江戸っ子口調で彼方はそう私に返す。
彼方がこういう変な口調を使うときは決まって調子に乗ってるときなのよね。
船の予約券まで手に持って、行く気満々の人にダメなんて言えるわけもなく――実際、全然ダメじゃないんだけど。

「……はぁ、分かったわ。お父さんにもう1人増えるって連絡するわね」

「やったぜ~」

誰もいないところを向いてガッツポーズをする彼方……誰にアピールしてるの?

「ふふっ、ごめんね?果林ちゃん。彼方ちゃんに八丈島のことお話したら彼方ちゃんもついていきたいって」

「だったらもっと早く教えてほしいわ……」

「ごめんね、ちょっと果林ちゃんを驚かせたくなっちゃって」

17: 2021/05/01(土) 17:41:23.36 ID:kCcmYMdd
エマと彼方とは知り合って長い訳じゃないけど、今じゃすっかり仲良しの友達で。
そんな二人と島に帰るのは、少し恥ずかしい気持ちもあるけど、それ以上に嬉しさや楽しみに思う気持ちもあったり。

「本当にびっくりしたんだから。次はやめてよね?」

「ごめんなさ~い」と笑いながらぺこぺこ謝る二人。
二人の顔に反省の色は全く見られないけど……まあ、もういいわ。
ここで怒ったりしても仕方ないしね。

「さ、そろそろ時間だし行きましょ?」

「うん!」

「彼方ちゃん船なんて久々だよ~。ワクワクしちゃう」

ターミナルを抜けて埠頭に行くと、いつもの船が待ち構えていた。
船は二人よりは慣れてると思うけど、それでも乗船する瞬間は私もワクワクする。
夜だし、どことなく非日常感があって好きなのよね。
それが私が船で島に帰る理由の一つ。

19: 2021/05/01(土) 17:45:29.23 ID:kCcmYMdd
 
「わぁ~、おっきい!」

船を見て目を輝かせるエマ。
私たちが乗る船は大型の客船で、船体が真っ黄色に塗装されていてとても目を引くデザインになっている。

観光シーズンなのもあって、毎年この時期は汽船の会社も羽振りがよさそうで。
私みたいに帰省する人から、観光、そして釣りのために来る人まで客層は様々。

離島というだけあって、八丈島はダイビングや釣りといった海のレジャーも盛んなの。
シマアジやカンパチがよく釣れるらしくて、一年を通して釣り人がやってくる。
私たちの前にも釣り竿を持った集団がいて……あら?茶髪の華奢な女の人がいるわね。こういう人も釣りをするなんて、少し意外だわ。
なんて、お客さん達の姿を観察していると、

「ねえねえ果林ちゃん、早く乗ろうよー」

彼方に袖を掴まれた。

「ふふっ。そうね、行きましょ!」

楽しそうな二人を引き連れて乗船の待機列に加わった。
待機列と言ってもその流れはとてもスムーズで、続々とタラップに人が消えていく。
喋る間もなく、私たちも乗船した。

21: 2021/05/01(土) 17:50:28.69 ID:kCcmYMdd
今の時間は22時を少し回ったところ。
これからおよそ10時間半の船旅になる。
客船はいくつかの伊豆諸島の島に寄港したあと、終点の八丈島には朝9時頃に到着する。

船内は綺麗な印象で、廊下はちょっとしたビジネスホテルと比べても遜色ない。

「これからどうするの?」

とエマ。

「まずは部屋の鍵をもらって、荷物を置きに行きましょ」

客船には2等室、特2等室、1等室、特1等室、特1等和室、特等室が用意されている。
2等室は簡易な仕切りがあるだけの雑魚寝だからあまり私たち向きじゃないのよね。
特等室はシティホテルのような造りで、とても快適に過ごせそうだけど2人用の部屋だからこれも今回は却下。
ということで、私たちの泊まるのは特1等室。

「すごいね!彼方ちゃん!」

「すごいね~!」

小学生みたいな会話をしながら船内のあちこちを見回す二人を背にして、

「ほ~ら、早く来ないと置いてっちゃうわよ?」

23: 2021/05/01(土) 17:56:30.87 ID:kCcmYMdd
入り組んだ船内の廊下を抜けて――ピッ。
カードキーをドアに挿して解錠する。

「はい、着いたわ」

ドアを開けて二人に入るよう促す。

部屋は左右に二段ベッドがあって、正面の窓際にテーブルと椅子が4脚という内装になっている。
簡素だけど、きちんとシャワーやトイレも付いてるし、1泊するだけなら全然悪くない。
なんとなく、修学旅行や林間学校を思い出すような部屋ね。

「彼方ちゃんここにするね~」

部屋につくやいなや、左側の二段ベッドの下段を陣取って寝転びだす彼方。

「ちょっと、まだ寝ちゃだめよ?」

「え~?」

「じゃあわたしはこっちにするね」

と右側の下段に座るエマ。

「空いてるんだから二人とも上の方に行けばいいじゃない……」

本当は私も下の方がいいんだけど、譲らない二人に根負けして渋々上で寝ることに。

24: 2021/05/01(土) 17:59:11.45 ID:kCcmYMdd
荷物を置いて、部屋の椅子に座って少し休憩する。
今のうちにお父さんにも連絡しておかなきゃ。
外海に出ると圏外になっちゃうし。

お父さんの車は確か4人乗りだし、実家の部屋も狭いわけじゃないし、彼方が増えても問題ないはずだけど。
報連相は大切なの。
モデルのお仕事を始めてからこうした予定の変更には昔より気を遣うようになった。

「……」

トークを開いて、人差し指で文字を入力していく。
――お父さん、もう一人増えそうなんだけどいい?
すると、すぐに既読がついて『OK』のスタンプが返ってきた。

「ふふっ」

エマと彼方には内緒だけど、二人に八丈島を楽しんでもらいたいから、島内のいろんなスポットに連れていく予定なの。
最近はお父さんに、二人――といっても相談していたときはエマだけを想定していたんだけど――をどこに連れていくのがいいか、そんな相談をしていたわ。

昔は東京都のくせに人がまばらでおしゃれなお店もない島が退屈で、出たい出たいとばかり思っていたけど、
いざ島を出ると、やっぱり良い場所だったな、なんて時々思うこともあって。

二人が喜びそうな場所やグルメを考えるのは島民の私にとっては朝飯前で……二人の反応が早くも楽しみな自分がいたりする。
とりあえず島寿司はマストね。

そうこうしていると、カンカンと出航を知らせる鐘が鳴り始めた。
そろそろ甲板に出て、ナイトクルージングの醍醐味を堪能しなきゃね。

「二人とも、デッキに出ない?」

26: 2021/05/01(土) 18:05:45.67 ID:kCcmYMdd
部屋を出て甲板につくと、ちょうど船が動き出して、波止場が遠ざかっていくのが見えた。

船は少しずつスピードをあげてお台場の海を進んでいく。
右手を見ても左手を見ても、東京のビル群の明かりが夜空を飾っていて、東京タワーやニジガクの校舎も見える。
前方には青く照らされたレインボーブリッジが。

「わぁっ!」

手すりに捕まって身を乗り出して景色を眺めるエマ。
落ちちゃわないかしら……?と少し危なっかしく思う。

「夜景も綺麗だし涼しくていいねぇ……遥ちゃんに送ってあげよう」

彼方は彼方で夜景を背に自撮りを撮っている。
こっそり近づいて……彼方のカメラにフレームイン。

「おぉっ……エマちゃん、エマちゃん!」

すると、私の意図に気付いた彼方がエマを呼び寄せて、

「なに~?――あっ!」

エマも画角に収まりに小走りで駆け寄ってくる。
三人で肩を寄せ合って、可愛く撮れるように、そして夜景もきちんと入るように角度を試行錯誤して……。

――パシャリ。

「うん、いい感じだよ。あとで送るね~?」

28: 2021/05/01(土) 18:14:25.26 ID:kCcmYMdd
しばらくすると、船はレインボーブリッジの真下に差し掛かった。
私たちにとってレインボーブリッジはそんなに珍しい光景でもなんでもないけど、真下から見るのは二人にとっては初なんじゃないかしら?
私はこの橋をくぐるときが、旅行のスタートラインを切るっていうような感じがして好きなの。

「おお~っ」

「レインボーブリッジの下ってこんな感じなんだ~!」

橋を見上げる二人の首が一緒に動いてなんだか面白い。
ライトアップされて綺麗な橋だけど、真下から見上げると無骨な鉄の構造やコンクリートが見える。
だから何?っていう感じだけど、私も初めて見たときはテンションが上がったのを覚えてる。

「これも撮っちゃお」

「あっ、彼方ちゃん、わたしにも後でそれ欲しいな~」

「もちろん、送るね?」

その後も夜景を見ながら思い思いの時間を過ごした。

お台場を出発してしばらく経つと、街の灯りも遠くに消えて潮風に当てられた体が肌寒さを感じ始める。
私たちと同じように甲板に出て夜景を見ていた人が食堂や部屋に引き返し始めた頃……

「私たちもそろそろ部屋に戻らない?」

「うん、そうだねー」

29: 2021/05/01(土) 18:19:38.41 ID:kCcmYMdd
部屋に戻る前に、船内の自販機コーナーで道草。
お茶やジュース、お酒、スナックや菓子パンの軽食が売られている。
とはいえ、種類はそこまで。

特にお酒はビールばっかりでチューハイとかほろよいとかその類のものは皆無で……もちろん飲まないわよ?
ただちょっと……オヤジ臭いって……言ったら失礼になっちゃうかしら?

アメニティとして部屋にお水が用意されているんだけど、それだけでは心もとないし私も飲み物を買っておくことにする。

「何にしようかしら」

少し迷って、烏龍茶のボタンを押す。
烏龍茶って脂肪の吸収を抑えたり、むくみを解消する効果があるって聞くし……いつでも体型には注意を欠かさないようにしたい。

「わたしは……ちょっとお腹空いちゃったし」

と、誰かに弁明するように独り言を呟くのはエマ。
菓子パンを買ったみたい。

「じゃあ私も何か買っちゃおうかな」

エマにつられて彼方もスナックに手が伸びる。
……二人とも、こんな時間に食べて大丈夫なのかしら?

30: 2021/05/01(土) 18:22:29.46 ID:kCcmYMdd
私たちが部屋に戻ったのは日付が変わる少し前。
シャワーはエマと彼方が先に入って、私が一番最後。

シャワールームに入ると、むわっとした湿気とシャンプーやボディーソープの良い香りに包まれた。
ゆったり入るほどくつろげる空間でもないし、体の汚れを落とす程度にさくさくっと済ませてしまう。

「……♪」

ドライヤーで髪を乾かして、歯磨きを済ませて部屋に戻ると……

「すや~……」

彼方はすでに夢の中。
パジャマ姿のエマは少し困ったように私を見つめて笑った。

「彼方ちゃんもう寝ちゃったの……。お菓子も食べてないのに」

「ふふっ……まあいいじゃない。船の揺れって眠たくなっちゃうし。そういえばエマ、船酔いとかは大丈夫?」

「大丈夫、酔い止め飲んできたから」

「用意周到ね」

冷蔵庫で冷やしておいた烏龍茶を取り出して口に含む。
火照った体をほどよく冷ましてくれる。

「でしょ?……あっ、そういえばこれ、面白いね」

32: 2021/05/01(土) 18:30:01.67 ID:kCcmYMdd
エマが指差す方向に目を向けると、壁にかけられたモニターが。
モニターには日本地図と船の位置情報が表示されている。
北緯35度、東経139度……客船は鎌倉を過ぎ、横須賀を過ぎ、もうしばらくで房総半島を抜けて外海に出ようかというところだった。

「でも八丈島はまだまだ先だね」

日本地図から数センチ離れて、ポツンと表示されている私の故郷。

「そうね。でも眠って朝になればすぐよ?」

「えへへ、待ち遠しいなぁ」

そう言うエマは本当に待ち遠しそうに目を細める。
もう少しエマとお喋りしたいんだけど……そろそろ寝させた方がいいかもしれない。
というのも、明日の朝5時には三宅島に、6時には御蔵島に到着する。その騒ぎで船旅に慣れてない人だと目が覚めてしまうかもしれないから。
せっかく島内のスポットを散策するのに、眠くなったら本末転倒でしょ?

「エマ、そろそろ寝たら?」

私がそう促すと、少し眠たそうな顔のエマはゆっくり私の方を向いて、

「……うん、そうだね。歯磨きしてもう寝ることにするよ。果林ちゃんは?」

「エマが寝るなら私も寝るわ」

「そっか、じゃあ急ぐね」

エマはすくりと立ち上がって洗面台の方へ歩いていった。

33: 2021/05/01(土) 18:33:28.37 ID:kCcmYMdd
二段ベッドの梯子を上がって横になる。

船旅というと眠れるのかどうか気になる人もいるでしょうけど、
船の揺れとエンジンの音が意外と心地よくて、目を閉じても変な考え事が頭に思い浮かんでこなくて、安眠できるのよ?
その分早く起こされがちなのは……まあ、置いておいて。

歯磨きを終えたエマは、ベッドの上で改めて化粧水や美容液で顔のケアをしている。

「……よし、ごめんね果林ちゃん。お待たせ」

「全然いいわよ。じゃあ、電気消してくれる?」

「うん」

カチリと電気が消え、非常灯だけが足元をほのかに照らす。

「じゃあおやすみ、果林ちゃん」

「おやすみなさい、エマ」

二人の寝息を聞きながら目を閉じると、あっという間に眠りに落ちてしまった。


――――――――
――――――
――――

 

35: 2021/05/01(土) 18:36:20.59 ID:kCcmYMdd
 
ノレcイ´=ω=)

――ゴンッ。

「ん、んぅ……」

あれ?彼方ちゃん、遥ちゃんに美味しいお料理をたくさん食べさせてあげてたのに……。
甘くて楽しい夢は、大きな振動で突然「。」を打たれて。

そうだ、今は果林ちゃんとエマちゃんと一緒なんだった。

今、何時だろう?とスマホを見ると朝の6時。

『――次の寄港地はとなりますのは、終点八丈島で――』

部屋の外からは足音とアナウンスが聞こえていて、中継地点の島に到着したことが分かった。


……あれ?
昨日、エマちゃんと一緒に果林ちゃんがお風呂から上がるのを待って、それで……寝ちゃった?

「よいしょ、っと」

まだ眠っていたいと駄々をこねる体を無理やり動かして、歯磨きと洗顔をしに向かう。

36: 2021/05/01(土) 18:40:45.26 ID:kCcmYMdd
朝のあれこれを済ませた私は、すっかり目がさめて外の空気を浴びたくなった。

「おはよ~……二人とも」

二人を起こさないようにこっそりと朝の挨拶をして、部屋の外へ出る。
デッキへ出ると、澄んだ空気とどこまでも続く青くうねった海がお出迎えをしてくれた。

「おぉ~、すごい」

さっきまで停留していたであろう島はもうすっかり遠くの方に消えそうになっていて。
清々しい景色にますますしゃきっとしてくる。
つい深呼吸したくなる。

「すぅ~、はぁ~……」

椅子に座って一休みしていると、またアナウンスが。

『八丈島に向けまして航行中でございます。入港地は底土港を予定しております――』

底土港。

底土港って、そこどこー?

愛ちゃんが言いそうなセリフNo.1を私の中で受賞だよ。
でも私が果林ちゃんに言ったらはたかれちゃうかも。

37: 2021/05/01(土) 18:42:54.24 ID:kCcmYMdd
――彼方ちゃんの物語は数日前に遡る。

ある日の食卓、遥ちゃんが不意に、

「今度のお盆休みなんだけどね、東雲のお友達の実家にお泊まりさせてもらうことになったの」

なんて。
こんなこと、前もあったような気がするなぁ。

「いいなぁ、どこなの?」

「秋田に行ってね、2日間お世話になるんだ~!」

秋田!?
秋田っていうと、なんだい、あの東北の秋田かい?
……いや、それ以外にないだろうけど。

彼方ちゃんは今回もまた、遥ちゃんに置いていかれることになったのです。
部屋に戻り、椅子に座って考える。

「……ふむ」

遥ちゃんと久しぶりにどこかにでかけて遊ぼうかと思っていた私の計画は儚くも潰え、手持ち無沙汰なお盆休みになることが確定してしまいました。
同好会のみんなもそれぞれ実家に帰省したり用事があるだろうし、声をかけづらいなぁ。
う~ん、誰かいるかな。

「あっ……エマちゃんなら」

エマちゃんの故郷はスイス。
スイスにはお盆休みの概念もないだろうから、もしかして空いてるかも?
そう思った彼方ちゃんはエマちゃんにお盆の間に遊べないか打診をしたのです。

38: 2021/05/01(土) 18:46:57.26 ID:kCcmYMdd
ところが、

『ごめんね~、わたし、お盆は果林ちゃんのご実家に行くんだ』

なんと。
エマちゃんと果林ちゃんはもうそんな関係に?
……というのは冗談で、エマちゃんのお話を聞いてみると、思い出づくりの旅行も兼ねてのことらしい。

「っていうか、果林ちゃんって八丈島出身だったんだ」

いかにも洗練された都会っぽい印象のある果林ちゃんからはかけ離れたワード。
いや、あの実はぐうたらで道に迷いやすい果林ちゃんのおおらかさから連想すると、意外とマッチしてる?

果林ちゃんは八丈島出身で、エマちゃんは二人で八丈島で遊ぶ……予期しない新情報に呆気にとられていると、

『彼方ちゃんも来る?きっと果林ちゃんならオッケーしてくれるよb』

次の瞬間、彼方ちゃんはチケットの予約ページを見ていました。

あ……ありのまま、今、起こった事を話すぜ!
『おれは エマちゃんとLINEしていると
思ったら いつのまにかチケットを予約していた』
な……何を言っているのかわからねーと思うが 
おれも何をされたのかわからなかった……(以下略)

39: 2021/05/01(土) 18:49:35.21 ID:kCcmYMdd
よくよく考えてみたら、同好会の三年生で改まって遊んだりする機会なんて意外となくて。
エマちゃんに誘われて、ものすごく心が踊った。

……遥ちゃんと遊ぶのも良いけど、いやそれ以上に、エマちゃんと果林ちゃんと一緒に八丈島は……。

「魅力的すぎるよ……」

ごめんね、遥ちゃん。
浮気症なお姉ちゃんを許しておくれ……!

そして、去る昨日、エマちゃんと竹芝客船ターミナルで落ち合ったのです。
果林ちゃんがやってくるまで、何気ない会話をエマちゃんと積み重ねていました。

「いやぁ、それにしても果林ちゃんも寛大だよねぇ。飛び込み参加の私も連れてってくれるなんて」

「そうだね~……あっ、果林ちゃんにはお話したの?」

「えっ?エマちゃんが話を通しておいてくれたんじゃないの?」

「えっ?」

二人で顔を見合わせます。
おいおいおい、ちょっと待ってくれよ。

「彼方ちゃん、果林ちゃんに言ってなかったの……!?」

……突然の参加を許してくれた朝香果林大先輩には本当に頭が上がりません。
果林ちゃんをちょっとからかいたくて、エマちゃんと口裏を合わせてそんな素振りは隠したけどね。
恩返しはまた別の機会にたっぷりさせてもらうよ。

40: 2021/05/01(土) 18:51:26.20 ID:kCcmYMdd
回想はここまで。
時刻は7時を回って、腹の虫が食糧を求めてぐうぐうと騒ぎ出した頃、部屋に戻ると二人ももう起きていた。

「あっ、おはよう彼方ちゃん!」

「おはよう、彼方。どこ行ってたの?」

「おはよー。ちょっとデッキの方にね。海がすごい綺麗だったよー」

「そうだよね、青くてとっても綺麗で」

二人は朝ごはんを食べながら部屋の窓越しに海を眺めていたみたい。
果林ちゃんの隣に座って、私も朝ごはんを食べることに。

「……それ、朝ごはんにするつもり?」

「む~、だってねぇ……食べそびれちゃったから」

私は昨日寝落ちして食べそびれてしまったスナックを朝食代わりにお腹を満たすことにした。
モニターの位置情報を見ると、私たちは日本近海の黒潮の真上にいて、少し不思議な気持ちになる。
文明の利器ってすごいなぁと、朝には似つかわしくない食感と味を噛み締めながら人類の歴史に思いを馳せる彼方ちゃん。

朝食を済ませた私たちは下船に向けて、出した着替えや荷物を整理してスーツケースに荷詰めする作業に取り掛かった。
さらにそれが終わると、それぞれ髪をセットしたりお化粧をしたり……到着までそんなことをして時間を潰した。

41: 2021/05/01(土) 18:52:10.59 ID:kCcmYMdd
しばらくして、窓には二つの島が映るように。
一つは小さくぽつんと海の上に浮かび、もう一つは大きくて、ラクダの背中みたいに二つの曲線を描いている。

「わぁ~っ、あれが八丈島だよね……!」

窓に張り付いて楽しそうに言うエマちゃん。

「そう。隣の小さいのが八丈小島っていう無人島。で、あれが八丈本島よ」

へえ、あっちは無人島なんだ。

「ねえ、そろそろ出ない?わたし待ちきれなくって!」

窓越しの景色にしびれを切らしたエマちゃんが提案する。
私も果林ちゃんもノータイムで賛成。
潮風でセットした髪が乱れないようにキャップを被って、スーツケースに手をかける。

「二人とも、忘れ物はない?」

「わたしは大丈夫!」

「私も大丈夫だよ~、果林ちゃんも大丈夫?」

「ええ、いつでもいいわよ」

「じゃあ行こっ!」

ドアに手をかけて飛び出したのはエマちゃん。
嬉しそうな後ろ姿にこっちまで嬉しくなっちゃうよ。
果林ちゃんもそんな感じだね。

43: 2021/05/01(土) 18:58:46.60 ID:kCcmYMdd
波止場では船員の人たちが船を係留するためにせわしなく動いているのが見える。
あの鉄の杭って、なんて言うんだっけ?
エマちゃんと二人で島の雄大な山の景色に見惚れていると……。

『――本日はご乗船誠にありがとうございました。またのご利用を心より――』

「さ、着いたわ。行きましょ?」

「うんっ!」

他のお客さんの列に混じって、タラップの上をカタンコトンと歩く。
そして、陸地の、揺れてない地面に足がついた。

「うわっ……なんだが久々の陸で変な感じだよ……」

陸地なのにまだ揺れてるような……そんな感覚。

「陸酔いかしら?大丈夫?」

果林ちゃんは全く大丈夫なご様子……流石島民、強し。

そして、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、三年組、八丈島、上陸。

岸辺で少しだけ休んだあと、私たちは駐車場へ向かった。
道中、南国のヤシの木みたいな木(多分ヤシの木だよね?)が道に沿って植わってて……同じ日本、同じ東京なのにまるで他の国に来たみたいな。

「……ここが果林ちゃんのアナザースカイかぁ」

「バカにしてるでしょ、彼方」

「してないしてない!数年後には本当に出るかもよ~?先に練習しちゃう?」

「もう!エマもなんとか言ってやってよ」

「えぇ~?」

三人で横になって歩きながら笑い合う。私たちの八丈島の旅はそんな幕開けだった。
駐車場には果林ちゃんのお父さんがいて、私たちを迎えにきてくれてるらしい。

46: 2021/05/01(土) 19:11:05.31 ID:kCcmYMdd
今日はここまでで
連休中の暇潰しにのんびりやっていきます
もしよければお付き合いください

58: 2021/05/01(土) 23:10:03.20 ID:33SKrP8X
俺も八丈島行きたい

77: 2021/05/02(日) 19:46:57.39 ID:F2rbZILO
>>58
感染騒ぎがおさまったらぜひ
海関係レジャーだけじゃなく温泉もいい
時間に相当余裕あったら青ヶ島行くのもいいかもしれない

70: 2021/05/02(日) 19:14:30.77 ID:yWmedRTo

71: 2021/05/02(日) 19:25:06.02 ID:n9P+9YR0
>>70
かわヨ

72: 2021/05/02(日) 19:29:33.27 ID:EpFd3YX1
>>70
素敵じゃん…

73: 2021/05/02(日) 19:33:30.24 ID:ghkZoGXJ
>>70
うおおおおおおおおおお!可愛い

74: 2021/05/02(日) 19:34:03.89 ID:yAcChCob
>>70
最高かな?

75: 2021/05/02(日) 19:36:34.32 ID:CPAuDhXF
>>70
素敵やん

76: 2021/05/02(日) 19:39:01.09 ID:/crJA/lU
>>70
こういうのがいいんだよ

79: 2021/05/02(日) 20:05:06.45 ID:t/tK43cm
>>70
可愛すぎて感激しました、ありがとうございます!

81: 2021/05/02(日) 20:08:01.61 ID:t/tK43cm
 
私たちの方に手を振ってくる人の影が。
はは~ん、あれが果林ちゃんのお父さんだな~?
果林ちゃんと同じ濃紺の髪だからすぐ分かった。

「おかえり、果林」

「うん。お父さん、ただいま」

果林ちゃんはお父さんと会って、ほどよく力が抜けてるのが分かる。
読者モデルをしてるときや、私たちと喋ってるときとはまた違う表情の果林ちゃん。
なんというか、いつもより少し幼くて、自然体な感じ。

「あんな感じの果林ちゃん、なんかちょっと新鮮だね~」

こっそりエマちゃんに呟く。

親子の会話を済ませた果林ちゃんは私たちの方をくるっと振り返って、

「紹介するわね、エマと彼方よ」

私たちは果林ちゃんのお父さんにご挨拶をして、快く迎えてもらった。
そのあと、すぐに私たちは車に乗せてもらって。

助手席には果林ちゃん、後部座席は私とエマちゃん。
窓を開けて南国の風を感じながら――いざ出発!

82: 2021/05/02(日) 20:14:50.60 ID:t/tK43cm
八丈島内の移動は車がほとんど必須と言ってもよくて、観光に来る人たちもレンタカーやバイク、原付を借りるのがスタンダード。
一応町営バスはあるみたいだけどね。

車に揺られながら、

「わぁ~っ!ねえ見て、不思議な木だね~!」

エマちゃんは景色を撮ってる。
うんうんとうなずいて、私も外を見てみる。

私たちが普段にいる世界とは違って、高い建物が全くなくて開放感がすごい。
道の左右には本土では見ないような植生が生け垣みたいに鬱蒼と生茂ってて空の青との対比がいい。
しかも、そこにハイビスカスの赤のアクセントですよ。

「……遥ちゃんにも見せたいなぁ」

いい気分で思わず言葉がこぼれちゃう。
遥ちゃんも秋田、楽しんでるかな?

観光シーズンみたいだけど、道路は全然混んでなくて快適で、
私が免許を持ってたとして、こんな道を走れたら気持ちいいだろうな~……。

なんでも八丈島はその昔、海外旅行が気軽にできなかった時代に「日本のハワイ」なんて言われて人気があったんだとか。

83: 2021/05/02(日) 20:20:10.71 ID:t/tK43cm
果林ちゃんが座る助手席のシートに手をかけながら

「これからどこに行くの?果林ちゃんのお家?」

と尋ねるのはエマちゃん。

「……♪」

するとちょっと得意げな顔に変わった果林ちゃんは、

「その前に、軽く島内を案内してあげるわ♪」

「えっ、そうなの!?嬉しい~!」

「おおっ……!」

果林ちゃん、ノリノリである。

どんなスポットに連れて行ってくれるのかな。
現地の人しか知らないような穴場スポット?それともベタで王道な場所だったり?
他の人に計画を立ててもらうのって……彼方ちゃん好きだなぁ。
それに、何につけてもセンスのいい果林ちゃんなら間違いなしだよ。

5分ほど揺られていると、車は市街地からそれて山道へと入っていく。
民家らしい民家はほとんど見当たらないけど、道路はちゃんと舗装されてる。

車は勢いよく山を登っていく。

84: 2021/05/02(日) 20:24:31.69 ID:t/tK43cm
深い森の中を割るようにはしっていた道がだんだんと曲りくねった道に変わっていって。
――左にゆらり。
――右にゆらり。

カーブに差し掛かるたびに果林ちゃんもエマちゃんもゆらゆらゆらゆら。

険しい山道を車はどんどん登っていく。

「……♪」

そのうち楽しくなってきた彼方ちゃんは、左に揺られたタイミングでわざとエマちゃんの肩に頭をぶつけてみたり。
ふふっと笑ったエマちゃんも右に揺られるタイミングで私に仕返しをしてきたり。

「くすっ」

私たちのじゃれあいを、車のルームミラー越しに見て微笑む果林ちゃん。

そんな感じでまた5分ほど経つと、急に木々がなくなって視界が開けて、車は見晴台に停まった。
ここは登龍峠(のぼりょうとうげ)って言うみたい……すごい名前だよね。
来るまでの道があんなにうねうねしていたのにも納得。

「おぉ~、綺麗……」

水平線まで続く海と八丈島の大きな山、その麓にさっきまで私たちがいたはずの港が小さくなって見える。
雲ひとつない青空と島を一望できる眺望に、爽やかな気分にさせられてしまう。

「あそこがさっきわたしたちがいたところ?」

「そうね。で、あの山が八丈富士。その向こうにあるのが八丈小島で、今私たちがいるのは三原山ね」

果林ちゃんにガイドされながら、ふんふんと勉強熱心なエマちゃん。
八丈島は八丈富士と三原山の、二つの火山が合体してできた島なのです。

85: 2021/05/02(日) 20:32:10.59 ID:t/tK43cm
車は三原山をぐるっと周り、朝香親子に運ばれるがまま、次に彼方ちゃんたちがやってきたのは裏見ヶ滝。
また特徴的なネーミング、どういう意味なんだろう?
裏見ヶ滝……うらみがたき……恨み、敵……。その昔、流刑でこの島に流された罪人が……まあ嘘なんだけど。
彼方ちゃんの話を信じるか、信じないかはあなた次第だよ~。

案内板には裏見ヶ滝と温泉の方向を指し示す矢印が2つ。
滝方面は簡素な階段が森へと続いていて奥はどうなっているのか入り口からはよく見えない。

(彼方ちゃん、どっちかって言うと温泉の方が行きたいけどなぁ~)

と心の中で呟きながら、三人でシダに囲まれた南国のジャングルを冒険する。

「ふぅっ、ふぅっ……」

山道に悪戦苦闘する彼方ちゃんをよそに、果林ちゃんとエマちゃんはどんどん進んでいく。
エマちゃんのお家は牧場らしいし、なんとなく分かるけど……果林ちゃんももしかしてワイルドなタイプなのかい?

「ほらほら、頑張って彼方」

「ちょ、ちょっと待ってよぉ~……」

息を切らしながらも二人についていくと、だんだん道が平坦になってきて少しだけ余裕が出てきた。
さっきから島のあちこちで見かけるこのミニチュアヤシの木みたいな植物はなんだろう?

「ねえ果林ちゃん、この木さ、よく見かけるんだけど」

「あぁ、それはロベって言うのよ」

「ロベ……」

「正式にはフェニックス・ロベレニーだけどね」

「フェニックス……」

86: 2021/05/02(日) 20:35:48.05 ID:t/tK43cm
草木が生い茂るエリアを抜けて、裏見ヶ滝に到着。
滝が流れてる岩肌がえぐれていて、滝の内側に歩ける道ができてて……文字通り、滝が裏から見られるってわけだね。

「わぁっ、気持ちいいなぁ」

水しぶきを浴びて、クールダウン……♪
マイナスイオンを感じる……!

「マイナスイオン放出~ってやってほしいなぁ」

「いいよ~……すぅ~っ」

エマちゃんはすぅっと新鮮な空気を吸って気合をためて、

「マイナスイオン、放出~♪」

滝を背景に両手を前に広げて笑う。
水しぶきに光が乱反射してエマちゃんに後光が差してるみたいに見える。
神々しさと彼方ちゃんの許容値を遥かに超えるマイナスイオンにひざまずかずにはいられない!

――パシャリ。
そして、そんなシーンを撮る果林ちゃん。

「同好会のグループに送るわね」

……えっ、それはちょっと聞いてないなぁ。


――――――――
――――――
――――

 

87: 2021/05/02(日) 20:39:44.13 ID:t/tK43cm
 
,,(d!.•ヮ•..)

樹皮や土の香りを感じながら森を抜けたそのあとは、
果林ちゃんの好きなカフェに連れていってもらうことになりました。

「まだ歩くのぉ~……?」

少しお疲れ気味の彼方ちゃんをリフレッシュさせるためにも早くゆっくりしたいね。

緑と石垣に挟まれた小道を歩いて、
長く続いた石垣が途切れて、そのカフェが姿を現します。

「古民家を改装したお店なの。行きましょ?」

敷地に入ると、苔むした地面に長い年月を感じさせる古民家がぽつり。
木々に囲まれたお店は、どの障子も開け放たれていて、まるで京都のお寺みたい。
中にはちゃぶ台や囲炉裏があって、座布団に座ってお食事ができます。

お客さんはわたしたちだけ。
と思ってたら後から果林ちゃんのお父さんもやってきて、わたしたちが囲むちゃぶ台の空いてる座布団に座ります。
わたしたちの荷物を果林ちゃんのお家に置いてきてくれたみたい。

「……ちょっと、あっちで食べてよ」

うざったそうに文句を言う果林ちゃんに素直に従うお父さん。
後ろ姿は少し寂しそうでした……。

89: 2021/05/02(日) 20:43:21.67 ID:t/tK43cm
時間はお昼前で、お腹ももうぺこぺこ。

果林ちゃんは「私はもう決めてるから」と見ずにメニューを譲ってくれました。
というわけで、しばし彼方ちゃんと一緒にメニューとにらめっこをします。

「悩ましいねぇ、エマちゃん……」

「うん……」

お昼時だからがっつり食べたい気持ちもあって、でも甘いデザートも捨てがたくて……。
トーストもいいなぁ、スコーンもいいなぁ。
一つだけなんて選べないよ~と思ったとき、

「みんなで注文して少しずつ分けたらいいじゃない」

わたしの気持ちを察してか、果林ちゃんが鶴の一声。
ナイスアイディアだよ♪

注文を済ませてテーブルに並んだのは、ハーブティーにパッションフルーツのジュースが2つ。
そして、トーストにチーズケーキ2つに明日葉のスコーンが3つ。

まずは渇いた喉をジュースで潤します。

「ちゅーっ……ん!おいしい!」

パッションフルーツは甘い香りがして、でも味わってみると甘酸っぱくて。
種も食べられるみたいで、カリカリとかじる食感が楽しい。
島の人はパッションフルーツのことをパッションって呼んでるらしいんだ~。

90: 2021/05/02(日) 20:47:55.44 ID:t/tK43cm
そしてトーストをがぶり。

「ん~♪トーストもとってもボーノ……!」

彼方ちゃんもスコーンを割って、ぱくり。
果林ちゃんもチーズケーキをぱくり、チーズケーキは果林ちゃんとわたしではんぶんこで一緒に食べます。

店内は風通しがよくて、軒先に映る緑色の景色もあいまってとっても落ち着く空間。
車で移動してるときも思ったけど、お洒落なお店が結構あってどこも気になっちゃう。
今日も含めてあと3日しかいられないのがもうすでに心惜しくなってて。

ゆったりと、時々会話をはさみながら、食べ進めます。

そういえば、八丈島は大きく分けて三根(みつね)、大賀郷(おおかごう)、樫立(かしたて)、中之郷(なかのごう)、末吉(すえよし)っていう地区があるんだって。
今わたしたちがいるのが中之郷で、果林ちゃんのお家もこのエリアにあるみたい。
だから次こそは果林ちゃんのお家に行くのかな?と思って聞いてみると、

「あー、そうね。エマはともかく……彼方、水着って持ってきてる?」

そうだ、果林ちゃんと海で遊びたかったんだよね。
一緒に相談してたときからそれはお話してたの。
ということは、このあとは海に行くのかな?

「ふっふっふ。彼方ちゃん、こういうこともあろうかときちんと持ってきたよ~」

「そうなの?良かったわ」

抜かりない彼方ちゃんに安心した顔の果林ちゃん。

「このあとは一旦うちに寄るつもり。……で水着に着替えて、それからダイビングに行きましょう」

Che cosa? (なんて?)
今、果林ちゃん、ダイビングって言った……?

91: 2021/05/02(日) 20:51:04.39 ID:t/tK43cm
驚いたのはわたしだけじゃありません。

「えっ……!?」

彼方ちゃんも思わずスコーンを食べる手を止めて目を見開いています。

「わたし、てっきり浜辺でちょっと遊ぶくらいかと思ってた……!」

「ふふっ……」

笑って、ウインクをわたしに送る果林ちゃん。

わたしの生まれ故郷、スイスは陸に囲まれた内陸国で、日本に来るまでわたしにとって海は縁遠い存在だったの。
一応、スイスには沢山湖があって、そこで遊ぶ人も多いんだけど……わたしが住んでる場所は気軽に湖に行ける場所でもなくて。
そんなわたしは、浜辺に打ち付ける波を見るだけでも楽しいのに、このあと潜っちゃうの……!?
南国の海だから、きっとカラフルなお魚の群れが綺麗なんだろうな……。
だけど、わたしそんなに泳ぎが得意なわけじゃないし、大丈夫かな?

「かっ、彼方ちゃん、ダイビングなんてできるほど泳げないよ……?」

わたしと同じ不安を抱える彼方ちゃん。

「大丈夫よ。海の中でも呼吸はできるしインストラクターの人がしっかり教えてくれるから」

「そ、そうなの……?でもダイビングってライセンスが必要なんじゃないの?」

「ライセンスがなくてもできるダイビングがあるのよ。私も持ってないし」

「へ、へえ……そう、なんだ……!」

ドキドキとワクワクが入り混じった表情の彼方ちゃん。
わたしも今からドキドキで……!

92: 2021/05/02(日) 20:55:08.26 ID:t/tK43cm
お食事を済ませたわたしたちは、車に乗せてもらって果林ちゃんのお家へ向かいます。

小道を抜け、一旦大通りへ。
信号機も少なくて、車は快調に真夏の八丈島を駆け抜けていきます。

そしてまた、曲がって坂道。
そこをしばらく進んで、

「あれが私の家よ」

果林ちゃんのお家が見えました。
昔ながらの木造の平屋建てで、でも全然古いっていう感じがしなくて、とっても綺麗なお家です。
ヤシの生け垣やプランターに植えられたたくさんのお花のお陰で真夏でも気分はとっても涼しくなれそう!

「でっか……!贅沢な土地の使い方だねぇ」

と小さく呟く彼方ちゃん。

「田舎の特権よ」

それをしっかり聞いていた果林ちゃんが答えます。
そんなやり取りを聞いて果林ちゃんのお父さんがくすりと笑って。
優しそうに、穏やかに笑う姿は果林ちゃんに似てて、やっぱり親子なんだなぁ……と思ったり。

93: 2021/05/02(日) 20:58:42.82 ID:t/tK43cm
果林ちゃんのお母さんはちょうど買い物に行っていたみたいで、この時は出会うことができませんでした。
きっと美人なんだろうな。

「お邪魔しまーす」

他人の家の香りって普通ならあんまり落ち着かないけど、果林ちゃんのお家はとってもいい香り!
すーっと鼻で深く呼吸しちゃう。
そんなこんなですっかりリラックスモードになったのに果林ちゃんが、

「予約の時間もあるから急がないとダメね」

なんて言うから家の様子もあまり見れないまま、
水着を下に着たわたしたちはまた車に乗って移動です。
果林ちゃんのお部屋とか見たかったんだけど……それは夜までおあずけみたい。

車は住宅地を抜けて、また緑に囲まれた自然豊かな道に入って、そしてトンネルに入って――。
それを抜けると、凪いだコバルトブルーの海が目に飛び込んできました。

「わぁっ……あの海に潜るのかな?」

わたしがそう言うと、助手席の果林ちゃんが「そうよ」って答えてくれて。

道路のガードレールもトビウオ(かな?)のデザインが施されていて、車から眺めているとまるでそこに泳いでるみたいに映ります。
坂道を下ってわたしたちはどんどん港へと近づいていきます。

94: 2021/05/02(日) 21:03:03.13 ID:t/tK43cm
海沿いのダイビングショップに到着すると、日焼けして肌が浅黒くなったお姉さんがお迎えしてくれました。

「久しぶり、果林ちゃん!エマちゃんも彼方ちゃんもここじゃ暑いだろうから早く入って入って!」

お姉さんに促されるままに中へ入ると、
クーラーが効いていて涼しい店内には、壁中にダイビングの機材やウェットスーツが所狭しと並べられています。

これからダイビングすることも、そしてなぜかわたしたちの名前も伝わってて、全ては承諾済みという感じであれよあれよという間に機材や泳ぎ方のレクチャーが始まりました。

「ではこれから事前説明をしていきますね!しっかり守らないと命にも関わっちゃうからちゃんと聞いててね!」


わたしたちは海に潜るとき、水圧の影響を受けて耳や副鼻腔の空気が圧縮されて……。

ふむふむ、耳抜き……鼻を押さえて……。

マスクは……なるほど、耳にかからないように、ね……。

呼吸器を口にくわえて、口で呼吸をする……うんうん。

へえ~、そっかぁ……海水が入ってきても大丈夫なんだ。


そして、ハンドサインや実際に呼吸器をくわえてみる練習をして講習は終了です!
海で溺れても絶対に助けるって胸を張って言うお姉さんに乗せられて、わたしも彼方ちゃんも少し緊張がほぐれます。

お店の更衣室を貸してもらって、水着の上にウェットスーツを着て、

「海女さんみたい」

と言うのは彼方ちゃん。

95: 2021/05/02(日) 21:08:25.01 ID:t/tK43cm
ウェットスーツ姿でお店の外に出ると、改めて目の前に海が飛び込んできます。
ついに潜っちゃうんだな、と胸が高鳴って……!

(えま~)

「……?」

わたしの名前を呼ばれたような気がして振り返ってみると、タンクもマスクも呼吸器もフル装備の果林ちゃん!
呼吸器を咥えたままだから綺麗に発音できないけど、一応言葉を喋ることもできるんだよね。
せっかくの可愛い顔がほとんど見えなくて、ちょっとおかしくて彼方ちゃんと笑っちゃった。

「あはははっ!」

「ふふっ、ふふふっ……!」

「何がおかしいのよ」

呼吸器を外してわたしたちを咎める果林ちゃん。
そうは言っても、目の奥は優しくて、おどけながら怒る果林ちゃんでした。

わたしも彼方ちゃんも器具を装着して準備を整えます。
タンクは10kg以上あって、背負うとぐっと背中に重みを感じます。
これでも浮くんだから不思議だよね。

「じゃあロープに捕まりながらゆっくり潜降していって!」

傾斜のついたコンクリートの道が、そのまま海面へと続いていて、そこにロープが垂らされています。
クライミングの懸垂下降みたいに、ロープに捕まって後ろ歩きをしながら海に潜っていくんだ~。

(つめたっ……!)

海水に足が触れると、真夏の海でも冷たくて背筋がきゅっとなって。

96: 2021/05/02(日) 21:12:14.92 ID:t/tK43cm
海の中を見ると、遠くの方は淡い青、近くの方はエメラルドグリーンのグラデーション。
しかもすっごく透明で、遠くの方までよく見えるの!

(ふお~い!)

――ゴボゴボゴボッ。
海中の景色を見た彼方ちゃんが思わず「すごい」って感動の声をあげて、口から泡がぶわっと立ちのぼる。

(ふおいね~)

わたしも返事をして、口からこぽこぽ泡を吐く。
そして、お姉さんに連れられて浅瀬から少しずつ離れていくと……徐々にお魚の姿が見えてきて。

海底の岩にむした海藻を食べているのか、小さなお魚の群れが。
群れ全体が同じ方向に泳いでいくのはとっても壮観!

すると、とんとんっと果林ちゃんに背中を叩かれて。
呼吸器をつけてるのにすっごい笑ってる。そんなに口を開けて大丈夫かな……?
と思いつつ、果林ちゃんの指差す方向を見ると――。

ぷかぷかと優雅に泳ぐウミガメが!

(お~っ!)

こぽこぽと泡がゴーグルにあたっちゃう。

97: 2021/05/02(日) 21:16:01.26 ID:t/tK43cm
初めて見るウミガメに感動していると、その子は方向転換してわたしたちの方へ泳いできます。
ウミガメって人が怖くないのかな?ダイバーに慣れてるのかも。

甲羅についた海藻や傷が、長生きな貫禄を出していて。
まるでわたしたちに付いて泳いでくれてるみたい!

わたしたちのすぐ真下を真っ赤な南国っぽいお魚や背中にすっと黄色いラインの入ったお魚の大群が行ったり来たりしていて。

海の中ってこんなに幻想的なんだ……感動だよ。

すると突然、一緒に泳いでいたウミガメが……
――パクリ、パクリ
と、首を突き動かして彼方ちゃんを突っつきました。

びっくりした彼方ちゃん。

(彼方ちゃんは餌じゃないよ~!)

(ぶっ……!)

笑ってしまった私と果林ちゃん。
沢山海水が口に入ってきたけどすかさず水抜き……ううっ、しょっぱい!

98: 2021/05/02(日) 21:19:22.05 ID:t/tK43cm
海の中を見てると、わたしでも分かるお魚が時々いたり。
――あれはミノカサゴだよね?近づかないようにしなきゃ。
――あっ、クマノミ!かわいいな。

わたしたちはライセンスを持っていないから深いところまで行けないけど、浅いところでもこんなにお魚ってたくさんいるんだね……!

果林ちゃんと目が合うと、ゴーグル越しにウインクをしてくれます。
わたしはそれにピースで返して。
彼方ちゃんもわたしたちを見てにっこり。

――ぽこぽこ。

本当に感動……!
わざわざ予約してくれた果林ちゃんには感謝しなきゃね。

ターコイズブルーの海に、色とりどりの鮮やかなお魚。
水面を見上げると、波がぶつかりあって白いしぶきを上げて、それがまるで雲みたいなの!
泡と泡の間から太陽がきらっと差していて、海の中なのに空を泳いでるみたいな感じで――。

――ぽこぽこ。

30分の潜水時間はあっという間に終わってしまいました。
楽しい時間って一瞬で過ぎちゃう……。

お姉さんに先導されながら、浅瀬に戻っていってゆっくり浮上していきます。

99: 2021/05/02(日) 21:22:21.74 ID:t/tK43cm
陸に上がって着替えたわたしたちはお姉さんにお礼を伝えて、お店を後にしました。
海を見ると、夕焼け空に落ちた太陽が水面を黄金色に彩っていて……なんだかとってもエモエモな気分。

そして、再び果林ちゃんのお父さんの車に。
もしかしてずっと待っててくれたのかな?

「果林ちゃん、ありがとね……!わたしすっごい感激だよ~」

「ふふっ、良かったわ♪」

「果林ちゃんのお父さんも、ありがとうございます!」

最高に楽しかったけど、重たいタンクを背負いながら30分間泳いでたわけだから……くたくたに疲れちゃって。
車に乗ったわたしたちは、お喋りもせずに眠りこけてしまいました。

「くー……」

「すやあ……」

「すー……」


――車は来た時よりも控えめな速度で、三人は心地よく揺さぶられながら家路に就きました。

116: 2021/05/03(月) 05:44:45.17 ID:31vXg8FY
86 no title

90 no title

96 no title

106: 2021/05/02(日) 22:25:57.98 ID:49xHQnr4
橘号だっけ?
船内の様子が詳しく描かれてるし、島の雰囲気もよく伝わってきて面白い
もしかして出身者?

124: 2021/05/03(月) 19:50:32.41 ID:PYrRmX0C
>>106
出身者ではないです
旅行で訪れた記憶と色々なものを参考にしながら書いてます

>>116
素晴らしい絵をありがとうございます
頭の中のイメージがそのまま絵になったみたいで嬉しいです!

あれこれ言うのも野暮なのでこれ以上の返信のレスは控えようかと思いますが
沢山の反応をいただき本当にありがとうございます

107: 2021/05/02(日) 22:49:27.20 ID:t96bZTUm
クワガタ出てこい

114: 2021/05/03(月) 02:55:27.75 ID:JbJf1kGc
>>107
ハチコ ハチヒラ ハチノコか
丁度今くらいがシーズンだね 昔捕り行ったわ

119: 2021/05/03(月) 09:24:42.43 ID:lkvwFEBW
>>114
ハチノコ=長野のあっちではないよ

123: 2021/05/03(月) 13:34:12.43 ID:TfFTR5rt
>>119
もちろんハチジョウノコギリのことや
黒が強くて大型化しないやつ
石ひっくり返すと結構出る

108: 2021/05/02(日) 22:54:36.46 ID:M82474HX
八丈島行くラ板民が続出してまう

126: 2021/05/03(月) 19:53:01.59 ID:PYrRmX0C
 
お家に戻ると、果林ちゃんのお母さんが迎えてくれました。
予想通りの美人さんで、果林ちゃんの青い瞳はお母さん譲りなんだね。

「お母さん、魚は買ってきてくれた?」

「もちろん。見る?」

広々としたキッチンには両手でもたないといけないくらい大きなお魚がニ尾!
カンパチとメダイって言うそうです。

「おぉっ、これはすごいねー」

と海水で濡れてうねった髪の彼方ちゃん。

「今日はこれで島寿司を作るのよ?」

「わぁ~っ……!」

島寿司は八丈島の郷土料理。
寿司種を醤油漬けにして、わさびの代わりにからしを塗った握り寿司です。
絶対においしいに決まってるよ。

わたしたちは交代でお風呂をいただくことになって、その時々でお風呂に入ってない二人が役割分担をしながらお寿司作り。
お魚を捌く役目になった彼方ちゃんは一番風呂の権利を得て、その間、わたしと果林ちゃんが酢飯を作ることになりました。

と、その前に。
お部屋を移動して、わたしの荷物の中からとあるものを取り出します。

127: 2021/05/03(月) 20:02:10.85 ID:PYrRmX0C
取り出したのは――ピッツォッケリ。
出発する前に輸入食品店で買ってきたんだ。

イタリアのパスタの一種で、蕎麦粉を使っているのが特徴です。
お世話になっちゃうから、これはわたしのちょっとした気持ち。

「あのっ、これ、もしよかったら!」

そう言って、果林ちゃんのお母さんに差し出します。

「えぇ~っ、いいの!?エマちゃんっていい子ね!」

「もう、エマ?そんなに気を遣わなくてもいいのに」

スイスの名物と言えば本当ならラクレットあたりになるんだろうけど、チーズを持ち運ぶわけにもいかなくて。
いろいろ考えたんだけど、持ち運びのことや日持ちを考えてこれに。
もともとはイタリアのものだけど、地域的に近いからわたしの故郷でもときどき食べるの。

「ありがとね、エマ」

「いえいえ♪」

ではでは気を取り直して、島寿司作りのスタート!

128: 2021/05/03(月) 20:09:01.80 ID:PYrRmX0C
まずは酢飯を作っていきます。
ほかほかに炊けたお米をボウルに移して、お砂糖と混ぜて軽く煮立てたお酢を振りかけます。

「さあ、混ぜて混ぜて!」

お米に向かってうちわを扇ぐ果林ちゃんに促されて、しゃもじを急いで持ちます。

「どんなふうにしたらいいかな?」

「こう、こんな感じで……お米を切るようなイメージで」

うちわをしゃもじに見たててデモンストレーションしてくれて。

果林ちゃんがしてくれたように、見よう見まねでお米を切るようにほぐしていきます。

「こう?」

お酢がかかったお米はくっつかず、はらはらと簡単に混ざってくれます。

「そうそう、上手よ」

ぱたぱたと扇ぐ果林ちゃん。
お米の熱気が飛んでいってわたしの手も涼しい。

そんなこんなで、酢飯を作る工程は完了。
ラップをかけて、しばらくお米を休ませます。

するとタイミングよく、彼方ちゃんがお風呂から上がってきて――。

「じゃあ次はわたしね、行ってくるよ!」

早く髪の毛についた塩水を流しちゃいたいな。

――――――――
――――――
――――

 

129: 2021/05/03(月) 20:16:23.08 ID:PYrRmX0C
 
(ζル ˘ ᴗ ˚ル

「いいお湯だったよー」

お風呂を済ませた彼方の髪はいつも通りのふわっとなびく髪質に戻っていて。
羊の絵の上に、「Sheep」と某ブランドを彷彿とさせる赤いボックスロゴのTシャツ。それと紺色のショートパンツ。
……そんなのどこで買ってくるのよ。

「それじゃあ、お手並み拝見ね?」

彼方に柳刃包丁を手渡す。

「ふっふっふ……フードデザイン専攻を舐めるでないよ、果林ちゃん。彼方ちゃん、時々youtubeで魚を捌く動画を見てるからねー」

それって専攻とは何も関係なくない?と突っ込みたくなる気持ちを抑えて。
流石の彼方とはいえ、この大きさの魚を捌く機会は滅多にないはず。
捌き切れたら本当に大したものだけど……どうかしら?

「……」

漬けダレのためのお醤油と味醂を煮立たせながら彼方を見守る。

「まずはねぇ、梳き引きっていうのをしていくんですよ」

得意げに解説する彼方は、カンパチのヒレを落として順調な滑り出し。
包丁を横にして、鱗ごと薄く魚の皮を削いでいく。

「これで、こうやって……う、けっこう難しいな。ガタガタになっちゃった」

ところが力加減が難しいのか、苦戦してる様子。
――ぺたり、よれよれの皮がシンクに落ちる。

130: 2021/05/03(月) 20:19:03.43 ID:PYrRmX0C
すると、助け舟を出したのは私のお父さん。
カンパチを彼方に代わって捌いていく。

「ふむふむ……」

彼方はお父さんにコツを聞きながら熱心に観察している。
鱗や内蔵を落とし、三枚おろしにしてさく取りが終わるまでそう長い時間はかからなかった。

そのまま、お父さんはメダイのぬめりの処理をしていく。
メダイの名前ってそのまま、目が大きいことが由来なのよね。
つぶらな瞳がじっと虚空を見つめてる。
私はそれが少し苦手で。

下処理が終わって、包丁が渡った彼方はそんなメダイの懇願するような表情を気にもせず、再び台所へ立つ。

「ありがとうございます。……よーし、もう一回」

要領の良い彼方はお父さんのアドバイスをきちんと守って魚に切れ込みを入れていく。
何かコツを掴んだのか、さっきとはうって変わって筋の良い包丁さばき。
あっという間に四角い切り身ができてしまった。

「……すごいわね」

素直に感心してしまう。

「果林ちゃんのお父さんの教え方が上手だからだよ」

「果林は全く魚が捌けないのにな」

「余計なこと言わなくていいから」

「そうなの~?果林ちゃん」

にまにまとこちらを見てくる彼方。
それに加えて、親子のやり取りを友達に見られるのも恥ずかしいし……。

131: 2021/05/03(月) 20:26:33.95 ID:PYrRmX0C
彼方がさくに包丁を入れていって、寿司種ができあがっていく。

「へへっ、彼方ちゃん、結構センスあるかも。鮮魚コーナーに移動させてもらおうかな」

そのかたわらで、引き続き、私はそれらを漬け込むためのタレを作る。

「……♪」

ひと煮立ちしたお醤油と味醂に削り節を入れて、少し煮込む。
しばらくすると、アクが出てくるから、それを取り除いて……最後にざるで濾せばだし醤油のできあがり。
島寿司はだしを使わずに醤油と味醂の合わせ調味料で漬けることもあるけど、うちはだし醤油なの。

お刺身に火が入っちゃうと良くないから、冷蔵庫に入れて冷ましちゃいましょう。

そして、それが冷めたら彼方が切ってくれた種を入れて漬けにする。
漬け込む時間は1日や2日なんて、そんなに長くなくても大丈夫。
多分、私がお風呂に入っている間に酢飯も漬けもちょうどいい感じになるんじゃないかしら。

廊下の方から音が聞こえて――エマもお風呂から上がったみたい。
すぐに、ノースリーブのルームウェアを身に着けたエマがキッチンに戻ってきて、

「お風呂ありがと~!気持ちよかったぁ」

132: 2021/05/03(月) 20:33:40.96 ID:PYrRmX0C
酢飯と漬けの様子見は二人に任せることにして、私も脱衣所に。

廊下は二人のボディーソープの香りと、実家のにおいが混在して漂っている。
最後に帰ってきたのは去年の年末だったかしら、洋服を脱ぎながらそんなことを考える。

旅行用の小さな詰替えボトルに入れてきた、私の行きつけの美容室がプロデュースしてるシャンプーとコンディショナーを持ってお風呂場に入る。

そうそう、このお風呂――懐かしい。
と、言っても八ヶ月ぶりだから、そこまで感慨深くなっちゃうほど久しぶりってわけじゃないんだけどね。
実家のお風呂は寮のそれよりも広々としてるし、私が中学生の時にリフォームしたらしい檜の浴槽の香りも落ち着く。

「……♪」

海水できしきしになった髪を手櫛で梳きながらお湯を当てる。

「ゆっくりしたいけど……待たせるのも悪いし、急がないとね」

と、ぽつり。

ニ回シャンプーして、傷んだ毛先に浸透するように丁寧にコンディショナーを付ける。
濯いでしまう前に少しだけお風呂につかって。

「ふぅ……」

「……♪」

のんびりするつもりはなかったけど、いろいろ済ませてたら結局いつもと同じくらいの時間をかけちゃったわ……。

撮影でもらったルームウェアを着て、手早く髪を乾かして、そして二人のもとへ。

133: 2021/05/03(月) 20:41:06.78 ID:PYrRmX0C
 
『かわいい~!』

『かわいいかわいい!』

廊下を歩いていると、賑やかな二人の声がする。
……何かしら?

扉を開けると、テーブルに腰掛けた二人は楽しげに何かを見つめていて――。

「ってそれ私のアルバムじゃない!」

お母さんとお父さんが撮影した私が記録されてる水色のアルバム。
私が赤ちゃんだったときの写真から小学校を卒業するまでの写真が数えきれないほど。

駆け寄って二人からアルバムを取り上げる。

「ああっ~!」

名残惜しそうに手を伸ばすエマ。

「見せろ見せろ~!お友達のお家に泊まったら、ちっちゃい頃の写真を見るのはお約束でしょ~?」

彼方も手を伸ばして取り返そうとしてくる。

135: 2021/05/03(月) 20:48:03.04 ID:PYrRmX0C
「だーめ!」

アルバムをリビングの棚に戻す。
はぁ、恥ずかしいわ……。

ふと見ると、棚には、いつの間にか私が出ている雑誌やスクールアイドルのグッズが沢山追加されていて。

「もう……」

思わずそんな声が漏れてしまう。
きっと二人にアルバムを見せたのはお母さんね。

不満そうな二人は後ろでぶつくさ。

「せっかくかわいかったのにね。まだ小4だったのに」

「保存用の写真、小2までしか撮れてなかったよ~……」

「あっ、わたしにも後でちょうだいね!」

――他人の写真を勝手に複製しないでほしいんだけど。

136: 2021/05/03(月) 20:54:34.37 ID:PYrRmX0C
 
具材は全部準備が整ったから、あとは握るだけ。
「見せてくれるまで動かない」なんてテーブルにしがみついて二人がボイコットするから、こっちが持ってきちゃうわね。

漬けた魚、酢飯、からし、大皿、お酢を混ぜた水、手拭き用の布巾をテーブルに用意して、エプロンをつけて。
お酢を混ぜた水は握る前につけて、お米が手にくっつかないようにするためのもの。

片方の手のひらにネタを置いて、もう片方の手の人差し指でからしを少しだけすくって塗る。
そして、お米を潰さないようにふわっと拾って、ネタの上に。
形を整えて、くるっと回転させるとよく見るお寿司の形に。
最後に一手間、指をつかって形をもう一度整えたら――できあがり。

でも、正しい握り方なんてそんなのどうでもよくて、楽しく美味しく作れたらそれでいいの。

「エマちゃん、酢飯取りすぎじゃない?」

「ふふっ」

エマの手元には、ネタの幅と同じ大きさのシャリのお寿司が。
いかにも家で作りましたっていう感じで、これはこれで悪くないんじゃない?

「彼方ちゃんは上手だね」

「ふふ~、でしょ?もっと褒めていいよ~?」

リズムに乗って無駄に体を上下させながらお寿司を握る彼方。
本職でもそんな握り方はしないと思うけど……でも出来上がったお寿司の見た目は綺麗。

「果林ちゃんも上手!」

「そうかしら?」

私のお寿司の見栄えはエマと彼方の中間くらい。

テレビのバラエティをBGMに、雑談しながら作り進める私たち。
最後の方になってくるとエマも勝手が分かってきたみたいで、楽しそうに握ってて。

「いい感じね!」

だし醤油で照ったカンパチとメダイ、ニ色の島寿司が食卓に並んだ。

137: 2021/05/03(月) 21:00:23.94 ID:PYrRmX0C
島寿司を食べる二人の姿を見る。

彼方はワクワクした表情で一思いにぱくり。
しばらく味わうように咀嚼して、

「うんうんうん……うん!」

「すごくおいしい!私、なんなら普通のお寿司よりこっちの方が好きかもしれないよ」

そんなに言ってもらえるなら、一緒に作った甲斐もあったというもの。

彼方の食べる様子を見ていたエマは、
お箸で島寿司を持つと、目を輝かせながらしばらく眺めて……大きく口を開けてぱくっ。

「ん~!!」

「とっても、とーってもボーノ~♪」

「……んっ!んー!」

頬にあてていた手が鼻に移動する。
ふふっ、からしが効いたのね。

そんな様子を見ていて、私もたまらず箸を動かしてしまう。
――はむっ。

口に入れた瞬間に、だし醤油の香ばしさと新鮮な魚介の旨味が口の中に広がる。
少し甘い酢飯に、からしが程よくめりはりをつけてくれて。
大好きないつもの味。

「ん~……」

「うんまきゃ~♪」

……あっ。

138: 2021/05/03(月) 21:08:21.56 ID:PYrRmX0C
「「うんまきゃ~?」」

つい口を滑らせてしまった私の方言をリピートして言う二人。
次の瞬間には鬼の首を取ったような喜びようで、

「ねえ、それって方言!?それって方言!?」

「うんまきゃ~、かわいい!」

顔が熱くなる……。
はぁ、さっきからこんなのばかり。
二人にペースを乱されてる。

「他にはないの?方言……あむっ」

と島寿司をぱくぱく食べながら聞いてくる彼方。

「あ、あるけどそんなに使わないの。お爺さんやお婆さんの世代が使うくらいで」

「へえ~、そうなんだ。確かにお店の人たちも標準語だったもんね」

と、エマも反応する。
実際、八丈方言を若い人達はほとんど使わない。
私の「うんまきゃ」はなぜか出てしまう、数少ない方言の一つ。
方言がなくなっていくのはもったいない気もするけど、移住してくる人にとってはその分ハードルが低くなるんじゃないかしら。

二人は島寿司をぱくぱく食べて……。

「「うんまきゃ~♪」」


 

139: 2021/05/03(月) 21:14:16.77 ID:PYrRmX0C
夕食を食べ終わって、エマが

「わたし、果林ちゃんのお部屋がみてみたいな」

なんて言い出すから――不承不承案内してあげる。
それに、こういうときのエマの意思は結構堅いから……私が本気で嫌がりでもしない限りは取り下げてくれないだろうし。
本気で嫌だと思わないのは、アルバムも方言も見られてしまって、私の中のハードルが随分下がってしまったからかしら。

リビングを出て廊下を歩いて、いくつかの部屋を通り過ぎた先のドア。

「汚くても幻滅しないでよ?ちょっと埃っぽいかもしれないから」

ドアを開けて、二人と一緒に中に入る。
一人で帰省したときはこの部屋で寝てるんだけど、本当に帰省するタイミングでしか使わないから小学生のときの私をそのまま閉じ込めたような部屋で。

薄い水色の壁紙に、白を基調にした勉強机とベッドと棚がいくつか。
やっぱり机の上には少し埃が溜まってて。
でもクモの巣なんかは張ってないみたいで一安心。

「わぁっ」

「おぉ~。全然綺麗だよね?エマちゃん」

「うんうん!」

二人は早速、私の部屋を物色し始めた。

140: 2021/05/03(月) 21:18:56.71 ID:PYrRmX0C
そんなに沢山見るものがあるとは思えないけど。
二人が満足するまで、ベッドに座ってスマホでも見てようかしら。
……と思ったけれど、二人の反応が気になってしまってスマホよりも二人の背中に視線が行っちゃう。

机の脇の書棚にある小学校の頃の教科書を見つけて、

「うわっ、懐かしい……。これ彼方ちゃんも使ってたなー。ごんぎつねとか、うわぁ」

と、なぜか私の部屋はそっちのけで国語のお話を読み出す彼方。
私も私で、ついつい整理するのが面倒で、古い教科書を捨てられずに残してるのよね。
久々の帰省に、わざわざ掃除しようだなんてモチベーションも湧かないし。

「ねえ果林ちゃん、これは?」

エマがガラス戸のローシェルフの中身を指して私に聞いてくる。
中には着せかえ人形と、その人形のために作った衣装や裁縫道具、「はじめての○○」、「おさいほうの基本」といった子ども向けの裁縫の教則本。

「これはね――」

エマに、私の小さな時のこの着せかえ人形との思い出を語ってあげる。
細かい相づちを打ちながら興味深そうにエマは私の話を聞いてくれた。

「――じゃあこれは果林ちゃんの原点なんだね」

「そうかもしれないわね」

教科書を読んでいたはずの彼方もいつの間にか私の話を聞いていたみたいで、

「いよいよほんとにアナザースカイみがでてきたね」

なんて言ってきたりして。

「誰のせいよ……。あとあの番組って確か第二の故郷を紹介する番組じゃなかったかしら」

紹介するとしたらあなた達かもね。

141: 2021/05/03(月) 21:26:50.06 ID:PYrRmX0C
 
私の部屋じゃ狭いし、今日三人で眠るのは家の一角にある和室。
ふすまを引いて入ると畳のい草の香りがふわり。
お母さんが掃除してくれたみたいで、床の間の隅まで埃一つ見当たらない。

まだ眠らないけど布団を敷いて、エマ、私、彼方で川の字になって寝転ぶ。
サラサラとしたシーツの感触が心地いい。

「明日は何するの?」

と、くるっと寝転んで私を覗くエマ。

「二人はどういうことがしたいかしら?夜は花火大会があるから、それに行けたらと思ってるけど……それまではまだノープランよ」

本当にノープランってわけじゃないけどね。
頭の中にいくつかプランがあって、二人のやりたいことにあわせて案内してあげられたらいいなと思ったの。

八丈島では毎年8月に納涼花火大会がある。
打上数は本土の有名な花火大会に比べたら雀の涙かもしれないけど、至近距離で見れる分、意外と迫力があるのよ?
花火が始まるまでは露店もあるし、島の人達が催し物をしたりして、アットホームな雰囲気で。

「花火大会……夏の思い出全部乗せだねぇ」

枕を抱き抱えながら喋る彼方。

142: 2021/05/03(月) 21:30:25.40 ID:PYrRmX0C
「あっ、じゃあね、わたし……八丈富士に登りたいな」

「元気だね~……エマちゃんは」

彼方は目で何かを訴えようとしてる。
お疲れだものね、彼方は――けど、そうは言っても私はあなたに意外とタフな体力があることを知ってるのよ?

エマに聞き返す。

「でもどうして?結構大変よ?」

エマはスマホを弄って何かを検索していて――、

「えっとね……これ!『君の名は』のモデルになったみたいなの。とっても綺麗な山だから登ってみたいなぁって」

映画の中の風景と、八丈富士の火口が左右に並んだ画像を見せてくる。
……そうだったかしら?

「青ヶ島じゃなくて?」

「ん~、そっちも言われてるみたいだけど、こっちもそうみたいなの」

「ふふっ、何よそれ。こじつけじゃない?」

青ヶ島は八丈島から南に70kmほど離れた場所にある孤島で、
ここからは船かヘリコプターを使って行くことができる。
青ヶ島がモデルだっていう噂は聞いたことがあるような気がするけど……いつの間に八丈富士にそんな話ができたのかしら。

143: 2021/05/03(月) 21:35:05.62 ID:PYrRmX0C
「どうする?彼方」

今度は彼方に。

「う~ん……」

彼方は両手を使って枕をもふもふ弄りながら悩んで、

「いいけど、登るんなら彼方ちゃん、何がご褒美がほしいかも」

「ご褒美ね」

ご褒美、ご褒美……そうね。
八丈富士の中腹、登山口からも遠くない場所――。

「ふれあい牧場のジェラートやプリンはどう?」

「牧場?」

牧場っ子のエマがすかさず投げかける。

「ええ。乳牛が放牧されてるの。エマのところもそんな感じなのかしら?」

故郷のことを尋ねられたエマはいつも嬉しそうな顔をするのよね。

「うんっ!わたしの家でもね、大自然の中でストレスを与えないように育ててあげてるの♪」

144: 2021/05/03(月) 21:38:15.95 ID:PYrRmX0C
「牛さんと触れ合って、ジェラート、プリン……じゃあ、しょうがないね」

「やったぁ♪」

甘いものに釣られたようで、でも本当は、エマの熱量にほだされちゃったんじゃないかしら。
エマからとてつもない「自然に囲まれたい」っていう緑色のオーラが伝わってくるもの。

――花火のことも考えると、明日は結構早くから行動しないと間に合わないかも。
もう何年も登ってないけど……山を登って降りるのに3時間くらい見た方がいいわよね。
それから牧場へ行って、家に戻って――朝の10時くらいには山の入り口に到着していないと後が辛くなる。

「となると、明日は早めのスタートになるから、今日は早めに寝ましょ?」

それから、私たちは他愛ない話に花を咲かせたり、
なぜか家にあったジェンガで遊んだりして過ごしたり。

一日中、島を回って――そもそも船の上でそこまで長い時間眠れていたわけでもないし、
極めつけにダイビングの疲れもあって、22時を回る少し前には私たちみんな、エネルギーが切れて気絶するように寝入ってしまった。

――――――――
――――――
――――

 

145: 2021/05/03(月) 21:41:44.39 ID:PYrRmX0C
今日はここまでで

153: 2021/05/04(火) 04:17:21.37 ID:jJLAdEKC

155: 2021/05/04(火) 04:32:53.09 ID:zcShEN6D
>>153
すき

160: 2021/05/04(火) 11:27:31.54 ID:r4mne4Gp
>>153
最高かよ

164: 2021/05/04(火) 19:53:11.06 ID:dbo9+HM0
 
ノレcイ´=ω=)

――もぞもぞ。

「よく眠れた?」

目を開けると果林ちゃんの顔が飛び込んできました。
軒先に繋がる障子戸からは、さんさんと太陽の明かりが差し込んできています。

「うん……でもまだちょっと眠いよ」

寝ぼけ眼をこすりながら、スマホに手を伸ばします。
目の前に画面をもってくると――!!

近江 遥: 画像を送信しました。
近江 遥: 画像を送信しました。
近江 遥: 画像を送信しました。

そんな通知を出されちゃったら、彼方ちゃん起きるしかないよ。
視界がいっきにクリアになって、しゃっきりさんに。

遥ちゃんの満面の笑みとピース。
スワンボートに乗ってて……ここはどこなんだろう?

かわいいなあ。
かわいすぎるよ……!

165: 2021/05/04(火) 19:58:49.62 ID:dbo9+HM0
同好会のグループラインを開くと、こっちも写真が何枚も送られていて。

侑ちゃん、歩夢ちゃん、せつ菜ちゃん、愛ちゃんがどこかのカフェの窓際のテーブルに座って笑ってて――外には一面の海。
江ノ島に遊びにきてるんだって。

かすみちゃん、しずくちゃん、璃奈ちゃんは、涼しげな竹林の中で可愛いポーズをとってて――かすみちゃんが細かくポーズの指導をしたのが目に浮かぶよ。
鎌倉のお寺なんだ、渋いチョイスだね?

「くすっ」

みんなの楽しそうな姿に思わず笑みがこぼれちゃう。

「私たちに対抗して、なんですって」

と果林ちゃん。

「へぇ~……じゃあ私たちももっと楽しまないとね~?」

「うふふっ、そうね」

果林ちゃんは着替えながらウインクでお返事。
私も早く準備しなきゃだね。

「あっ、彼方ちゃん。おはよー♪」

ふすまが開いて登場したのは着替えも終わってもう準備完了なエマちゃん。

166: 2021/05/04(火) 20:04:35.70 ID:dbo9+HM0
 
山登りだから、今日は歩きやすい靴で。
熱中症にならないようにキャップを目深にかぶります。
スポーツドリンクの用意も完璧。

エマちゃんはレースのついたバスケットを手に提げていて。
私の視線に気付いたエマちゃんは、ふたを開けてちらりと中身を見せてくれました。

中には大量の保冷剤とラップにくるまれたたまごサンド、フルーツサンド各種とりどりのサンドイッチがあって。

「みんなで頂上で食べよう?」

……美味しそう、今食べちゃだめかな?
そう思っても口には出さないのが彼方ちゃんです。

「うわぁ、美味しそう……!いつの間に作ったの?」

「みんなよりちょっと早く起きて、キッチンをお借りしたの。果林ちゃんのお母さんにも協力してもらったんだ」

八丈島での2日目が始まります。

167: 2021/05/04(火) 20:09:39.29 ID:dbo9+HM0
 
果林ちゃんのお母さんの車に乗せてもらって、登山口を目指します。
車で7合目まで行くことができるんだって。

車はトンネルを抜けて、港を過ぎて、市街地を越えて、徐々に徐々に山の中へと入って行きます。

八丈島は亜熱帯気候だから、雨が多いはずなんだけど、
昨日に引き続き、今日も抜けるような青空が広がっていてね――こんな日はピクニックに行きたくなっちゃうよ。
それで木陰で一休みしながらすやぴできたら……。

今日はそんなにゆったりのんびりできそうではないんだけどね。

坂道はどんどん急になって、ちょっぴり雲も近づいてきてる気がして。

「みんな、もうすぐ着くからね」

果林ちゃんのお母さんがそう言って、数分経って車のエンジンが止まりました。

外に出ると、道の向こう側に生えた草の間から海が見えます。
標高が上がったからか、少し涼しくて。
でも、じりじりと照りつける夏の日差しは地上にいたときよりもダイレクトに肌を焼いてくるような感覚があって。

「日焼け止め必須だね~」

168: 2021/05/04(火) 20:14:56.11 ID:dbo9+HM0
登山口の道標には『富士山頂への路 お鉢めぐり分岐点50分』。
お鉢巡りの分岐点に行くまでに50分かかるっていうことだよね。

お鉢巡りっていうのは、火口の縁を一周すること。
八丈富士は火山だから、頂上にはぽっかりと大きな穴が空いているらしくて。

登山道に入ると、階段とその横にはスロープ状の坂がありました。

「いい天気だね~」

と、後ろから優しい声色を出すのはエマちゃん。

「そうねー」

先頭を任されたのは果林ちゃん。

「おっとっと……」

周りには少し背の低い樹木が生えていて、時々枝にぶつかりそうになります。
避けないといけないのがわずらわしいけど、その代わりに、直射日光を遮ってくれてもいるから文句は言えないね。

高いところにいる虫ってどんなのがいるんだろ?
時々頭の上をブンブンと過ぎ去っていくハチ以外にはまだ出会ってないけど。

登り始めて10分、20分――。
少しずつ石段が荒れてきて、太ももも疲れてきて、階段を使うのが苦しくなってきた。

169: 2021/05/04(火) 20:19:37.02 ID:dbo9+HM0
「一旦休憩にしましょうか」

と果林ちゃんの提案で、立ち止まって小休憩。
この時にはもう高さのある木が少なくなっていて、大海原や向こう側の三原山がよく見えるようになっていました。
遮るものがなくなって、気持ち強くなった風も今の私たちには恵みのそよ風。

「きれいだね~!」

エマちゃんが景色をパシャリ。

風に吹かれながら汗を拭いて、スポーツドリンクを飲んで――再出発。
私たちは階段を登るのをやめて、スロープの上を歩くことにしました。
足を高く上げたり、段で転ばないようにバランスを取らなくていいからスロープの方がだいぶ楽なことに気がついて。

最初からこっちの方を使っておけばよかったな~なんて思ったり。

「ふっ、ふっ……」

「はぁっ、はぁっ……」

8月某日――八丈富士。
強風、27度。
視界は良好。

遥ちゃんのことを想う。

食糧切りつめ……てない。

黙々と登りながら、彼方ちゃんはくだらないことを考えてました。

170: 2021/05/04(火) 20:24:57.98 ID:dbo9+HM0
何分経ったんだろ?
時間の感覚がなくなってきた頃……。

「ついたね!」

エマちゃんの声にはっとして周囲を見ると――。
目の前にはかっぽりと空いた火口、そこへと続く崖は草や低木の緑に彩られています。

その穴の中は台地みたいになっていて、鬱蒼としたジャングルが広がっていて。
火口、というよりは山の頂上にもう一つ小さな山と谷があるような感じで。

標高は850メートルくらい。

反対側には空と海。遠くに行くにつれて白くかすんでいます。

「おお~……」

雄大な景色に思わず息をのむ彼方ちゃん。

「ちょうどスペースがあるから、ちょっと早いけどお昼にしちゃおうかな?」

とエマちゃん。

「彼方はどう?」

「私も賛成~」

石に座ってエマちゃんが作ってくれたサンドイッチをいただきます。

171: 2021/05/04(火) 20:28:51.11 ID:dbo9+HM0
「あむっ……おいしい!」

疲れた体にフルーツの果汁がしみるぅ~。

「美味しいわ、ありがとね、エマ」

「ふふっ、いえいえ♪」

景色を見ながらサンドイッチをもぐもぐ……。
しばしのお食事タイムを終わらせた私たち。

「……」

「……」

「……」

お互いに顔を見合わせます。
ん?なに?
この沈黙はなんなんだい?

もしかして――。

172: 2021/05/04(火) 20:34:25.77 ID:dbo9+HM0
「降りよっか」

後ろめたそうにはにかんで言うのはエマちゃん。
顔を見合わせる私と果林ちゃん。

頂上からの景色とサンドイッチに、実は彼方ちゃん、もうすでにちょっと満足しちゃってて。
もしかして、考えることはみんな一緒かな?

「降りる?」

と果林ちゃん。

「……降りよう」

過ぎたるは及ばざるが如し、だよ。

お鉢巡りでさらに歩いて下山するとなると、ちょっと気が遠くなるもんね。
分かる、分かるよ……エマちゃん、果林ちゃん。

「……ぷっ」

謎の一致団結を見せた私たちは、意味もなく笑いがこみ上げてきて。
みんなでひとしきり笑ったあと、すたこらさっさと来た道を引き返しました。

173: 2021/05/04(火) 20:37:59.03 ID:dbo9+HM0
登山口まで戻ってきた私たち。

山をぐるりと囲む道路を10分ほど歩いて、ふれあい牧場に。

八丈富士の中腹にあって、島を一望できます。
風と日差しが気持ちいい大自然の中、牛さんたちはもしゃもしゃと牧草を食べております。
こんなところでご飯を食べて眠って……牛さんたちも幸せだろうなあ。

「あら、和牛もいたのね」

ふれあい牧場にいた牛さんたちは白黒模様のホルスタインじゃなくて、
黒毛和牛や、ベージュの毛並みのジャージー牛です。

「かわいいなぁ……」

首をうつむかせて牧草を食べる牛さんと目を合わせようと、かがみこんで眺めるエマちゃん。

風に牧草が揺れて、さわさわと音がして、時折「モー!」と迫力のある声が聞こえて。

牧場にはのどかな時間が流れています。
なんだか眠たくなっちゃうね……。

彼方ちゃんは柵越しにジャージー牛と見つめ合ったりして。

「ほ~……」

近くで見ると結構いいカラダしてる。
でも目はぱっちりしててかわいくて……ゆっくりまばたきする姿にちょっと果林ちゃんが重なったり。

そんな果林ちゃんは黒毛和牛の体を撫でたり押したり。

「……♪」

毛並みや筋肉の感触を楽しんでるのかな?

174: 2021/05/04(火) 20:42:34.14 ID:dbo9+HM0
牛さんに満足した私たちは売店へ向かいます。
ログハウス風の外観の売店にはイートインもあって、八丈富士の7合目からの景色を見ながら食べることができるんだよ。

店内のカウンターでお姉さんがジェラートとプリンを売っていて。
ジェラートは明日葉とバニラの二種類がありました。レモン味を置いてることもあるみたい。

「わたしは明日葉のジェラートにするね」

「私もそれかなぁ」

「私はプリンにしようかしら」

エマちゃんと私は明日葉のジェラート、果林ちゃんはプリン。
店内でいただきます。

ぱかっと蓋を開けるとパステルグリーンのジェラート。

「くんくん……」

甘い香りの中に、ほんのちょっと野菜っぽさがある感じかな。
スプーンでしゃりっとすくって食べてみます。
しゃり、しゃり――。

「うんうん……美味しいね。抹茶アイスに近いような」

「あぁ~、言われてみるとそうかも!冷たくておいしいね」

エマちゃんと二人でうなずきながら食べていると、物欲しそうな顔の果林ちゃんが視界にちらり。

「一口食べる~?」

彼方ちゃんは自分の口に運ぶ寸前だったジェラートを果林ちゃんに差し出してうかがってみます。
果林ちゃんは恥ずかしそうにほっぺたを人差し指でかきながら、しばらく目を泳がせて――ぱくっと。

175: 2021/05/04(火) 20:46:10.06 ID:dbo9+HM0
山登りで暑くなった体に程よい甘さと冷たさのご褒美――余は満足じゃ。

「……♪」

果林ちゃんのお母さんがお迎えに上がってくれるのをしばらく待つ時間。
エマちゃんと果林ちゃんは窓の外を眺めたり、時々スマホで撮った写真の色合いを調整したりしていて。

私はというと――にやり。
売店の棚で面白いものを発見しちゃった。

「これください」

と、ひそひそ声で店員のお姉さんに言うと、私の狙いを知ってか知らずか、
お姉さんもまたひそひそ声で対応してくれるのでした。

そして、彼方ちゃんが手に入れたのは……くさやパン。

「ねえエマちゃん、果林ちゃん。これ、じゃん負けした人が食べない?」

「うわっ」というような表情の果林ちゃんと、「なにこれ」と興味津々なエマちゃん。
反応がくっきり分かれます。

果林ちゃんがくさやとは何かをエマちゃんに説明すると……。

「名前は聞いたことあるけど……。へぇ~、臭いんだ……いいよ、じゃんけんしよ!」

臭いことが分かっているのになぜか乗り気になったエマちゃん。

「2対1だね、どうする~?果林ちゃん」

「はぁ……分かったわよ」

果林ちゃんは観念して渋々右手をグーにして差し出しました。

176: 2021/05/04(火) 20:49:53.80 ID:dbo9+HM0
一瞬の静寂と緊張が私たちの間に流れて――。

「「「じゃんけん、ぽんっ」」」

彼方ちゃんがグー、エマちゃんはパー、果林ちゃんはチョキ。
私とエマちゃんは「おぉ~」と声をあげて、三人とも前に出していた手を一旦引き戻す。

「……」

「……」

「……」

緩和した空気がまた張り詰めて――。

「「「あいこで、しょ!」」」

彼方ちゃんはチョキ、エマちゃんもチョキ、果林ちゃんはグー。

「よしっ!」

小さくガッツポーズの果林ちゃん。

「こういうのはね、大体言い出しっぺが負けるって相場が決まってるのよ」

勝ち誇った笑顔で私を見つめてきた。
ぐぬぬ……。

「……」

「……」

真剣な表情でエマちゃんと見つめ合います。

「「じゃんけん――」」

言い出しっぺの法則を覆してみせる。
北の地からお姉ちゃんに力を貸しておくれ、遥ちゃん……彼方ちゃんは――パーを出すぜ。

「「ぽんっ」」

177: 2021/05/04(火) 20:53:54.31 ID:dbo9+HM0
 
「やったぜ!」

「あぁ~っ!」

――うっかり勝ち申した。
グーを出した手をわなわなと震えさせるエマちゃん。

くさやパンの袋を破ったエマちゃんは顔を近づけて、恐る恐るくんくん……。

「……あれ?あんまり変な臭いしないよ?ふつうのパンの匂いだけど」

「え?そうなの?」

「割ってみてよ、エマ」

パンを半分に割ってみると中の具材が見えます。
焼き魚の身みたいなものが見えるなぁ、これがくさやか……エマちゃんは大胆にも顔を近づけて嗅いでみます。
次の瞬間――。

「ん~!!あ゛ぁ゛ぁぁぁっ――!」

足をパタパタさせながら身悶えるエマちゃん。
ふっふっふ、エマちゃんもたまにはこういう体を張ったことしないとね?

涙目のエマちゃんは……。

「うっ、うぅっ……くんくん」

ちょっぴりかわいそうだけど、貧乏くじを引いてしまったエマちゃんを見て笑いがこらえきれない私たち。

「やっぱりくさいよぉ~っ!」

爽快な夏の八丈島にエマちゃんの悲痛な叫びがこだましたような気がしました。

……でも結局、味は美味しいって言って帰りの車の中でちびちびと食べ進めるエマちゃんなのでした。

――――――――
――――――
――――

 

178: 2021/05/04(火) 20:57:18.24 ID:dbo9+HM0
 
,,(d!.•ヮ•..)

果林ちゃんのお家に帰ったわたしたちはお風呂に入って、そのあとはお祭りの時間までひと休み。

「んっ……」

あれ?わたし寝ちゃってたみたい。
縁側で猫さんみたいにお昼寝する彼方ちゃんを見て、わたしまで眠たくなっちゃったんだっけ。

「ふふっ」

彼方ちゃんはまだすやすやおやすみ中。
起こさないようにゆっくり動いて、縁側に腰掛けて足をぷらぷら遊ばせます。

わたしの上には、花火の絵が描かれた風鈴が。
潮風にちりんちりんと揺れて、つくつくぼうしの大合唱の暑苦しさをやわらげてくれています。

「……」

――ちりんちりん。

――ちりんちりん。

明日のこの時間にはもう空港の中かな。
ANA1896便、八丈島発、羽田着は17:30の出発予定です。
チケットはスマホの中にもう入れてるんだ。

――ちりんちりん。

――ちりんちりん。

179: 2021/05/04(火) 21:00:28.19 ID:dbo9+HM0
突然のお願いを快く引き受けてくれた果林ちゃん。
お父さんとお母さんもとっても優しかったし、彼方ちゃんともいろんな思い出を作れたなぁ。

「えへへ」

楽しい時間は本当にあっという間。
果林ちゃんとお盆のお話をしたのもまるで昨日のことのようなのにね。

今日はこれから花火を見て、それで――明日はどんなことが待ってるのかな?
楽しみな気持ちに負けないくらい、寂しい気持ちが今からもう溢れてて。

――ちりんちりん。

――ちりんちりん。

この旅はきっとわたしが日本にいる間の思い出の中でも、ひときわ輝いたものとして残ってくれる――そんな予感。
もっとたくさん、これからも、こんな思い出を作っていきたいな。

……ほろり。

目の奥がきゅっとなって、視界がぼやけてきちゃった。

「ううんううん!」

首を振って、人差し指で目をこすります。
なんでこんなに感傷的になってるんだろ?わたし。

だめだよね、気持ちを切り替えて楽しまなくっちゃ。

180: 2021/05/04(火) 21:03:14.00 ID:dbo9+HM0
あっ、そうだ。
果林ちゃんはどこかな?

和室を出て、声のするほうへ歩いていきます。

『――』

果林ちゃんの声は、リビングからじゃなくて、少し離れた部屋から。
入ってもいいかな?こんこんとノックをして、扉を開ける。

「果林ちゃん?」

中にいたのは果林ちゃんと果林ちゃんのお母さん。
お母さんは膝立ちで、果林ちゃんの帯を結んであげて――。

「わぁっ……浴衣だ!きれい!」

「もっ、もう!勝手に入ってきちゃだめじゃない!」

少し恥ずかしそうな果林ちゃん。
深い青に、白くて細い線で朝顔の柄が入った浴衣。品の良さそうな白い帯。
果林ちゃんが浴衣を着ると、すごく大人びて見える。

これでお祭りに行くんだね、いいなぁ……!

181: 2021/05/04(火) 21:06:33.07 ID:dbo9+HM0
「エマちゃんのもあるからね」

と、わたしにウインクする果林ちゃんのお母さん。

「えっ……!?」

果林ちゃんの浴衣があるのは分かるけど、どうしてわたしの分まで?
まさか、わざわざ借りてきてくれたりしたのかな?

驚いちゃって呆気にとられていると、

「果林、彼方ちゃんも呼んできてもらえる?」

「うん」

果林ちゃんは部屋を出ていきます。

「さて、エマちゃん。おばさんが勝手に選んできた浴衣だから……お気に召さなかったらごめんね?」

取り出してくれたのは、薄緑の生地にシンプルなトーンのあじさいが描かれた浴衣。
とってもお上品で、でもかわいくて。

「とっ、とってもとっても!大好きです!」

そう言うと、果林ちゃんのお母さんはくすりと笑って、

「じゃあ着せてあげるからね」

と、わたしに浴衣を着付けてくれました。

182: 2021/05/04(火) 21:09:40.24 ID:dbo9+HM0
すぐに彼方ちゃんもやってきて。

「目を開けたら浴衣姿の果林ちゃんがいるんだもん、びっくりしちゃったよ。エマちゃんのも似合ってるね」

「えへへっ、ありがとう♪」

浴衣を着れたのが嬉しくて、くるくる回っちゃう。

姿見に映ったわたしを撮ってたら――、

「撮ってあげるわよ、貸して?」

と果林ちゃん。
とびっきり可愛く撮ってもらっちゃった。

しばらくして、「二人とも~」と楽しそうな声の彼方ちゃん。
ひょこっと、両手を軽く広げて浴衣を見せるようなポーズの彼方ちゃんが出てきた。

「どう?」

彼方ちゃんは白地に、レモンとその葉っぱのボタニカル模様。
これはこれで、とっても似合ってて!

「いいっ!すごくいい!」

「うん、いいじゃない」

「へへ~、良かった良かった。果林ちゃんのお母さん、センスあるねぇ」

183: 2021/05/04(火) 21:12:49.57 ID:dbo9+HM0
浴衣姿のわたしたちは車に乗せられて、うきうき気分でお祭りへ。
車に揺られること20分、懐かしの底土港が見えてきました。

「それじゃ、楽しんでね!」

「「ありがとうございます」」

深々とお礼するわたしと彼方ちゃん。

お祭りだからか、港のあたりはにわかに色めき立っていて。

今日の夕焼けは不思議な色をしていました。
わたしたちの背中の方はオレンジ、港を見ると紫、雲はその中間のピンク色に染まっていて――こういうの、なんて言うんだったかな?
マジックアワーだったかな?

ヤシの木の下から空を撮ると、逆光になったヤシの葉が綺麗なコントラストを描いていて。
思わずその場で壁紙に設定しちゃった。

露店の賑わいや、島の人がお酒を飲みながらお話してたり、観光客の人たちもいて、いい雰囲気。

「ハチコ獲った!」

「いいなあ~」

島の子かな?
子どもたちが小さなクワガタを手に持ってる。

184: 2021/05/04(火) 21:15:52.06 ID:dbo9+HM0
わたしたちは露店でかき氷を買って――パシャリ。
海を背景に――パシャリ。
所かまわず、いろんな場所で、いろんなポーズで写真を撮りました。

「かき氷食べたら……あったかいもの入れたくなっちゃったよ~」

「そうね、ちょっと見て回ろうかしら」

わたしたちは夕ご飯を求めて露店のあたりをさらに見て回ることに。

「……あれ?」

果林ちゃんと彼方ちゃんと、一緒にいたはずなのにはぐれちゃった。
どこかな?

そんなに広いわけじゃないから、探せばすぐ見つかると思うけど……。
そう思っていると、不意に呼び止められました。

「お姉ちゃん!」

声の方を振り返ると――島焼酎の試飲?
普通の焼酎との違いが分からないけど……甘酒とかとは違ってきっとちゃんとしたお酒だよね。

「すごい綺麗な別嬪さんがいたから声かけちゃったわ、ごめんね」

と気さくに声をかけてくるのはカウンター代わりの長テーブルの向こうのおじさん。

185: 2021/05/04(火) 21:19:00.73 ID:dbo9+HM0
「お姉ちゃん可愛いから1、2杯サービスしちゃうよ!」

「えっ、えっと……」

わたし、高校生なんだけどな……。
でも、実はちょっぴり、ほんのちょっとだけ、お酒に興味があったり。
日本ではお酒は20歳からだけど、スイスでは18歳からなの。
……う、そんなの屁理屈だよね。
脳内の果林ちゃんに「まだ17でしょ」って言われちゃった。

「芋よりも麦がいいかな?」

わたしの返事も待たずに、使い捨てのプラスチックのコップにとぷとぷと焼酎が注がれていく。
そういえば、果林ちゃんのお父さんも飲んでたよね……。

「……」

ごくっ、と唾を飲み込んで喉が鳴っちゃう。
……美味しいのかな?

「ロック?水割り?」

「み、みずわり……」

「はいよ!」

あまりにもいい笑顔で手渡してくるから……しょうがない、しょうがないよね。
結露したコップに顔を近づけると、鼻をつんと刺すアルコールの香りと独特な何かの香り。
これが、焼酎のにおいなのかな?

「……」

――ちびり、と口をつけて。

202: 2021/05/05(水) 02:46:50.13 ID:EhjH+b2C
168
no title

174
no title

185
no title

207: 2021/05/05(水) 08:22:59.00 ID:Gv1wxoZr
>>202
三人とも可愛すぎる…
浴衣の柄とか芸が細かい

204: 2021/05/05(水) 03:03:12.14 ID:jqyBoszy
素晴らしい文章と挿絵で癒される…

206: 2021/05/05(水) 08:15:36.24 ID:aUzzldfx
イラスト可愛くて最高
読み返したくなるね

209: 2021/05/05(水) 11:53:32.94 ID:bALA49ZX
すばらしい

210: 2021/05/05(水) 12:00:28.40 ID:7hZ0ON/P
これもうフォトエッセイじゃん

214: 2021/05/05(水) 21:07:03.49 ID:oC0T0jFF
――ごくっ。

おいしい、かも。
喉を焼くようなお酒の刺激が過ぎると、
口に残ったのはほのかな甘味。そのあとでまろやかな麦の香りが鼻から抜けます。

――実を言うとお酒を飲むのはこれが初めてではありません。
スイスにいた頃、お母さんやお父さんが飲むワインを分けてもらったことがあったりして。
美味しいと感じたのはその経験があったからかな……?

おじさんはお酒の瓶を誇らしげに持ちながら

「どう?お姉ちゃん、美味しいでしょ」

「おっ、おいしいです……!」

わたし、やっぱりお酒が飲めるタイプかも?

「呑む姿も映えるねえ~、芋もあげちゃう!」

「えっ、えっ……!」

まだ飲み終わってもいないのに、二つ目のコップが差し出される。
こっちは、麦よりもこってりとした香りがして。

「芋焼酎っていうと米麹を使うのが普通なんだけどね、うちでは麦麹を使って――」

両手にコップを持ちながらおじさんの講釈をふんふんと聞きます。
米麹と麦麹の風味の違いなんて、ほかに焼酎を飲んだことがないわたしからしたら全然ピンとこないけど……。

215: 2021/05/05(水) 21:11:05.69 ID:oC0T0jFF
お祭りの会場には、だんだんと人が集まってきて。
わたしはというと、ステージで島の人が太鼓のパフォーマンスをするのを見ながら焼酎をちびちび。
どんどん、と太鼓の音色が体の芯に響きます。

「……はぁっ」

おいしいけど、こんなに飲むのはちょっと大変だね。
やっとの思いで麦焼酎を飲み干して、芋焼酎にも口をつけます。

――ちびちび。

「あっ、いたいた~」

「もう、どこいってたの?」

彼方ちゃんはイカ焼きを食べながら、果林ちゃんは手にたこ焼きを持ちながら。
たこ焼きには爪楊枝が3つ刺さっています。

「えへへ、ごめんね」

二人がわたしの隣に腰掛けて。

「おっ、お水じゃ~ん。一口もらっていいかな?」

「あっ!」

わたしが説明する前に、冷えた透明な液体が彼方ちゃんの口元に運ばれちゃって――。
お水だと思ってる彼方ちゃんは豪快にごくりっ。

「――!?」

「うえぇぇっ、これお酒じゃん!」

びっくりしてお酒を少しこぼしちゃう彼方ちゃん。
今は喉を押さえてむせています。

216: 2021/05/05(水) 21:16:11.78 ID:oC0T0jFF
「なんてものを飲んでるのよ!しかも二杯目なんて……」

わたしから焼酎を取り上げる果林ちゃん。
二人からいっぱい叱られちゃった。

「……もう、きちんと断らないとダメよ?」

「ごめんなさい。ちょっと美味しそうだったから……」

今度からは気をつけないとね。
二人に怒られて、しゅんとしちゃう。

「……」

わたしを見つめる果林ちゃん。
どうしたんだろ?と見つめ返していると、果林ちゃんは視線をちらりとコップに移して。
コップに口をつけたと思ったら、
顔を傾けて――!?

「んっ、んっ――ぷはぁっ……!」

残りの焼酎をぐいっと飲み干してしまいました。
突然の出来事に頭が真っ白になっちゃって。

「ふふっ……お水買ってくるわね?」

人差し指を唇に当ててお酒を拭うと、不敵に笑って自販機の方角へ華麗に去っていって。

「今の見た!?彼方ちゃん!」

「う、うん……。男前な飲みっぷりだった」

びっくり仰天なのは彼方ちゃんも一緒だったみたい。

217: 2021/05/05(水) 21:24:09.13 ID:oC0T0jFF
 
あたりはすっかり暗くなり、人口たった7,000人の島はすごい盛り上がり。
夜店のあたりにはもう、お店の照明が地面に届かないくらいの人だかりができています。

「早めにご飯買っておいて良かったわね」

「そうだねぇ~」

少し汗ばんで、髪の毛が額や頬についてる果林ちゃんと彼方ちゃんの浴衣姿は艶やかで。

「そろそろ移動しましょ?」

今の時間は19時45分。
花火の時間まであと30分くらいかな?

「どうせなら、一番良いところで見たいじゃない?」

と言う果林ちゃんに手を引かれるわたしと彼方ちゃん。
お酒が入ったわたしたちはいつもより浮かれちゃってて。

体がぽかぽかふわふわ。
これが酔うってことなのかな?

まだ人がまばらな岸辺に、体育座りで三人並んで花火が上がるのを待ちます。

218: 2021/05/05(水) 21:29:16.67 ID:oC0T0jFF
ふと頬に手を当てると――熱くて。

「ねえ、わたしって今もしかして顔赤い?」

すでに顔がりんごみたいになっちゃった彼方ちゃんに聞いてみます。

「いやぁ?そんなことないけどねぇ」

「あれ?そっかぁ。ちょっとほっぺたが熱かったから、赤くなっちゃったかなって思ってたんだけど」

気のせいだったかな。

「エマ」

不意に名前を呼ばれて、果林ちゃんの方を見ると、
――むぎゅっ、そして、ひんやり。
少しだけ頬がピンクに染まった果林ちゃんが両手でわたしの頬を触ってきて。

「どう?冷たいでしょ~?」

果林ちゃんの手はひんやりしてて。
そういえば、手が冷たい人は心が温かいって言うよね。

そのままわたしの頬でむにむに遊ばれて。

「もう、やめてよ~」

と、果林ちゃんの手をのけようとした瞬間。
びりびりっと腋に刺激が――。

「うりゃうりゃうりゃ~!」

彼方ちゃんがくすぐってきて。

219: 2021/05/05(水) 21:34:08.27 ID:oC0T0jFF
 
――どんっ!

みんなでじゃれていると、大きな音が耳をつんざいて。
わたしを弄ぶ二人の輪郭がくっきりと見えて。

「ふふっ、始まったわね」

――ひゅ~っ、どんっ!

火花を散らしながら夜空にはしる閃光はふっと消えたと思うと、
どんっ、と大きな音を立てて金色の傘を開きます。
花火の音は山々に反響して――ぶわんぶわんと余韻を残しながら消えていって。

本物の打ち上げ花火を初めて見るわたし。

――ひゅーっ、どん!

――ぱらぱらぱら……。

夜空に咲く花火は、きらきらと光り輝きながら空に落ちていきます。
花火の反射が、海をいろんな色に変えていって。

「た~まや~!」

彼方ちゃんは楽しそうに花火を見物してる。
隣に座ってる地元の小さな女の子とときどき「たまや」って叫んだりして。

「……♪」

果林ちゃんはうっとり、瞳を花火できらきらさせながら夜空に首を傾けてる。

――どんっ!

ばんっ――。

花火が落ちる寸前に赤や緑に色が変わってキラキラ光るものや、輪っかの形をしたもの、光の尾が柳みたいにずーっと下の方まで垂れていくものや――。

「きれい……」

つい夢中になって、写真を撮ることも忘れてしまいます。

220: 2021/05/05(水) 21:38:29.42 ID:oC0T0jFF
花火が一輪一輪開くたびに、わたしの中ではいろんな場面がフラッシュバックして。

――どんっ。
船から眺めた東京の夜景や八丈島。

――どんっ。
揺らめく海藻と鮮やかなお魚たち。

――ぱらぱら……。
果林ちゃんのお家での島寿司作り。

――ひゅ~っ、どんっ。
八丈富士や牧場の爽やかな緑と風。

花火が打ち上がる回数は決して多くはないけど、だからといって退屈にならないようなペースで。
最後は100連発で締めくくりになるんだそうです。

――どんっ、どんっ、どんっ!

その大きさの花火を連発しちゃうの?って考えちゃうくらい、
わたしの視界に収まりきらないくらいの大輪の花火がどんどんと夜空を彩って。

「――」

思わず息をすることも忘れて見入ってしまいます。

「おぉ~っ」とか「すご~い」とか、周りの人たちの歓声や拍手も一層激しくなって、
終わったかな?と思えばまだ続いて――島の人も「まだあるの!?」と嬉しそうに言うのが聞こえたりして。

空高く、大きな光が開いては尾を引きながら海に落ちる中、
その下では色とりどりの小さな花火がぱらぱらと間髪入れずに打ち上がり続けていました。

――――――――
――――――
――――

 

221: 2021/05/05(水) 21:41:03.60 ID:oC0T0jFF
 
ノレcイ´=ω=)

果林ちゃんのお母さんの車の中。

「はぁ~、すっごいよかったねぇ」

花火をあんなに近くで見たのはいつぶりかな。

小さい頃に東京の花火大会を、良いところで見ようとしたことがあってね。
あまりにも人だらけで――それがちょっとトラウマになっちゃって。
ああいうのは、彼方ちゃんの性に合ってないんだよ。
今日の花火は一番良い場所で見れたうえに、押し合いになるほど人が多いわけでもなくて……こういうのでいいんだよね~。

「うん、すっごいよかったぁ……」

しみじみと呟くエマちゃん。

「……」

助手席の果林ちゃんはくったりと目を閉じています。
あんなにグイっといって大丈夫だったのかな――果林ちゃんの顔色は赤いかそうでないか、よく分からなくて。

というのも、フロントガラスには花火大会から帰る車の赤いテールランプの行列。
その光に照らされて果林ちゃんの顔は赤いけど……それが酔ってるからなのかは分からないんだよね~。

果林ちゃんのお母さんに聞くと、今日は年に一度の、八丈島で渋滞が起きる日らしくて。

222: 2021/05/05(水) 21:44:42.65 ID:oC0T0jFF
車内にはエンジン音と、FMから流れる音楽が所在なげに響いていて。

「……」

「……」

「……」

お祭りのあとってちょっと寂しい気持ちにならない?

なんだろう――夏が終わっちゃうような気がするっていうかね。
まだまだ夏休みはあるんだけど、う~ん、なんて言ったらいいのかな。

文字通り、『祭りの後』ってこういう気持ちを表すために存在する言葉だよね。
『後の祭り』じゃないよ~?

「……」

エマちゃんはぼーっと窓の外の景色を眺めてる。

明日で帰っちゃうんだもんね。
エマちゃんは、どこか物憂げな佇まいで。

ま、帰ったら帰ったで遥ちゃんや同好会のみんなにも会えるからね。

遥ちゃんの土産話を聞きたいし、彼方ちゃんも遥ちゃんにいっぱい聞かせてあげたい。

同好会のみんなにもお土産を買ってあげたいし、多分彼方ちゃんたちへのお土産もあるんじゃないかな。

そう思えば、この旅が終わっちゃう寂しさも少しは薄らいでくれるんじゃないかな?

223: 2021/05/05(水) 21:48:30.51 ID:oC0T0jFF
いつもより倍の時間をかけて、車はお家に到着。
って言っても、彼方ちゃんは途中からすやぴしてたから体感5分くらいだったけどね。

「ごめんなさい、ちょっとうとうとしちゃってたわ」

果林ちゃんも回復したみたい。
月明かりに照らされた果林ちゃんの顔は、多少火照りが引いてるのが分かった。

車から出ると、お祭りや花火を名残惜しく思うのか、
どこかの家の子どもたちが手持ち花火で遊んでいるみたい。
火薬の煙たい香りが漂っていて。

「……くんくん」

煙のにおいを嗅いじゃうと私もなんだか、いろんなことが名残惜しくなっちゃうな。

ちょっとおセンチな気分になりつつ、お家に入ろうとすると、

「ねえ果林ちゃん、彼方ちゃん……えへへっ」

「どうしたの?……って、顔真っ赤じゃない?大丈夫?」

「大丈夫!」

そういってブイサインを出すエマちゃんだけど、頬は紅潮してて。
遅れてお酒が回ったのかな。
結構飲んでたもんね……飲み慣れなれてない人があんなに飲んだらやっぱり酔っ払っちゃうよ。

ふやけた笑みを浮かべるエマちゃんは、お家の敷地の外の方を指差して、

「ねえねえ、お散歩いかない?」

と言うのです。

225: 2021/05/05(水) 21:52:32.82 ID:oC0T0jFF
果林ちゃんのお母さんから「あまり遠くに行っちゃダメよ」と助言をいただき――。
私たちはお家からそんなに遠くない場所にある、海が見れる足湯に行くことに。

「エマ?辛かったら言うのよ?」

「大丈夫だってばぁ」

顔を赤くしながら、るんるんとステップを踏むエマちゃん。

そよそよと、風がみんなの髪を靡かせて。

「風が涼しくていいねぇ……」

夜風もいい感じだし、彼方ちゃんたち、結構画になってるんじゃない?
ふっふっふ~。

街灯がほとんどないから、うすらぼんやりとした月明かりを頼りに歩きます。
もし一人で歩いてたらちょっと怖くなりそうな道だけどね……。

「えへへ――」

――ぐいっ。

「うわっ」

急に、真ん中を歩くエマちゃんが彼方ちゃんの腰に手をかけてぎゅっと引き寄せてきた。

果林ちゃんもエマちゃんに手繰り寄せられて――酔っ払ったエマちゃんはいつもより甘えん坊さん?
ふわりと、エマちゃんのいい香りがして、でもその中に焼酎の男らしいにおいもあってちょっと笑っちゃう。

226: 2021/05/05(水) 21:55:37.74 ID:oC0T0jFF
「わたし、二人に出会えてよかった!」

なんて言って、私たちの腰をさらにぎゅっと抱きしめてくるエマちゃん。

夜の暗闇に目が慣れてきてくると、
エマちゃんは心底楽しそうに笑ってるのが見えて。

「ふふっ、もう、酔いすぎよ」

エマちゃんの言葉に満更でもない表情の果林ちゃん。

くっついた私たちは、お互いの足を踏まないように気をつけながら
歩調を合わせて歩きます。

海が近くなってくると、民家もまばらになってきて。
ヤシの木や、マングローブみたいな木々が空を覆い隠すほど生い茂る道に入っていきます。

「……♪」

月明かりに頼れなくなった私たちはスマホの懐中電灯で足元を照らしながら歩きました。

そんな道の途中に点在するコンクリートの建物は、廃墟なのか倉庫なのか分からなくて異様な雰囲気。
窓もところどころ割れてるし。
怖いけど、それがまた、なんとなく冒険してるみたいで。

潮風にそよぐ葉っぱがかさかさと音を立てる中、エマちゃんの鼻歌が聞こえてきて、

「――♪」

どこかで聞いたことのあるようなベースラインのメロディをなぞります。

227: 2021/05/05(水) 21:59:32.14 ID:oC0T0jFF
すぅっ、と可愛い声で息を吸ったエマちゃん。

「When the night has come
 And the land is dark
 And the moon is the only light we'll see♪」

スイッチの入ったエマちゃんの伸びやかな歌声が、ヤシの小道と夜のしじまに溶けていきます。

私と果林ちゃんはエマちゃんの歌に聞き入って――。
原曲よりも少しスタッカートが抑え目なエマちゃんの歌い方はとっても優しい。

エマちゃんはいろんな歌を知ってるんだよね。
一緒にお泊まりしたとき、子守唄を歌ってもらったのを思い出しちゃうなぁ。

「No, I won't be afraid
 Oh, I-I-I-I won't be afraid
 Just as long as you stand,
 Stand by me♪」

「線路があったら完璧だったね」

と彼方ちゃんが軽口を叩くと、

「残念だけど、鉄道はないのよね」

果林ちゃんはくすっと笑いました。

「So darlin' darlin',
 Stand by me♪」

――――――――
――――――
――――

 

228: 2021/05/05(水) 22:03:53.25 ID:oC0T0jFF
 
(ζル ˘ ᴗ ˚ル

――ちゃぽん。

浴衣をはだけさせて、お湯の中に足をつける。
山登りやお祭りでこわばった足の筋肉がゆるんで。

「あぁ~……気持ちいいね」

爪先を丸めたり大きく開いたり、グーパーさせながら月と海を眺める彼方。
海は静かで、遠くの方でおぼろげに光るのは灯台の明かり。

足湯きらめきは、海に臨んだ岸壁の上にある。
私がこの足湯を好きなのは、広々としてて足をまっすぐ伸ばせることと――、

「なにあれ!」

水面から水しぶきを吹き上げる、

「クジラね」

「えぇ~っ、すごいすごいっ……!」

「おぉ~……クジラさんまでいるんだねぇ」

鯨を見ることができることなの。

229: 2021/05/05(水) 22:09:13.13 ID:oC0T0jFF
お湯の温度は少し熱めだけど、沖から吹き付ける風に吹かれるから、汗をかくほど暑くは感じないのよ。

――ちゃぽ、ちゃぽ。
さざなみと、時々、私たちの誰かが足を動かして立つお湯の音。

「……」

「……」

「……」

友達の定義って何だと思うかしら?
正解はないと思うけれど、いつか誰かが言っていた、『沈黙すらも心地良い関係』が友達だとするなら、
今はとても心地よくて――。

「……」

「……」

「……」

――ちゃぽ、ちゃぽ。

230: 2021/05/05(水) 22:14:50.87 ID:oC0T0jFF
そんな沈黙を破ったのはエマで。

ぽつりと独り言のように、

「……日本とスイスがお隣だったらいいのにな」

と呟く。

「急にどうしたの?」

私が尋ねると、また沈黙が流れて。

「……」

「……」

――ちゃぽっ。

彼方が足で音を立てる。
薄闇の中のエマの目尻には涙が溜まっていて。
虚を突かれた私は、少し驚いちゃったけど……落ち着いて、エマの言葉を待つ。

しばらく経って、エマはゆっくりと言葉を紡いでいって。

「わたしね……果林ちゃんと彼方ちゃんと一緒にいれてこの2、3日の間すっごく楽しかったの」

「もちろん、同好会のみんなといる毎日もかけがえのない思い出なんだけど……もっと、もっと今日みたいな思い出を作っていきたいなって」

――ちゃぽ、ちゃぽ。

「でも、わたしが日本に居れるのは、数えてみたら……あと半年とちょっとしかなくて。帰っちゃったら、そんなに頻繁に日本に来ることはできないだろうし」

「そう思ったら、なんかね?ちょっと寂しくなっちゃって」

エマは、全てを包み込んでしまうような優しい雰囲気と、しっかりした芯の強さが同居するような女の子。
それは、やっぱり8人兄弟のお姉さんだからなんだろうなと思う。
私なんかよりもずっとしっかりしてて――うじうじする私を勇気づけてくれた大切な人でもあって。

でも、今のエマにそういう雰囲気はなくて、一人の、少し寂しがり屋な女の子みたい。

231: 2021/05/05(水) 22:17:48.21 ID:oC0T0jFF
――よしよし、と。

エマの頭を撫でてあげる。
彼方はエマの背中をさすっててあげてて。

「あはは、ごめんね……」

「――っ」

と言いながら、顔に手を覆って。
押し黙って震えるエマの手からは、大粒の涙がこぼれていて。

どれくらい経ったのか、鯨が遠くでざぶんと音を立てて海に翻る。

あと半年とちょっと、ね。
改まってそんなことを言われると、胸が苦しくなる。
エマがスイスに帰っちゃっても、同好会のみんながバラバラの将来を歩んでも、絆がなくなることはないって、それは断言できる。
それでも、想像すると寂しい気持ちになってしまう。

「離れ離れになっても寂しくないくらい――一緒の思い出を私も作りたい。エマが簡単に日本に来られないって言うなら、私がスイスに行くから」

と、気付いたら口に出してしまっていて。
それに彼方も同調してくれて、

「うんうん、彼方ちゃんも同じ気持ち。あと半年だったとしても、どんどん思い出を作っていこうよ。シルバーウィークも行こう?冬休みだって、春休みだって、どこかにお出かけしようよ」

そう言うと、エマはますます涙を流して。

「うんっ、うんっ――!」

こくりこくりと頷きながら、涙の粒は大きくなるばかりだった。
私たちはエマの泣いてる姿が見たいわけじゃないんだけどね……って、彼方とちょっとだけ苦笑して。

声を抑えきれなくなって、子どもみたいに泣きじゃくるエマの姿を見ていたら、なんだか私まで視界がぼやけてきて。
目に溜まった涙を乾かそうとして、遠くを見つめながらまばたきを我慢したの。

232: 2021/05/05(水) 22:21:11.31 ID:oC0T0jFF
 
――家に帰った私たちは、浴衣を脱いで、お風呂に入ったり、いろいろして。

「かっ……彼方ちゃ……もう限界だよぉ」

そう言い残して、彼方は布団の中に吸い込まれていってしまった。
エマも赤くなった目をこすりながら、

「ふふっ、わたしもそろそろおやすみしようかな。果林ちゃんは?」

「私はもう少しだけ起きるつもり。ちょっとだけ親と話をしようかと思って」

「そっか。分かった」

エマは彼方が眠る布団の中に入って、和室から出ようとする私を小さく手を振って見送ってくれた。

233: 2021/05/05(水) 22:24:51.67 ID:oC0T0jFF
リビングからはテレビの音がうっすらと漏れ聞こえていて。
入るとお父さんとお母さんは「情け嶋」と明日葉の天ぷらで晩酌をしていて。

久しぶりに、家族揃ってダイニングテーブルに座った。
物心ついたときからの、お父さん、お母さん、私の定位置は今でも変わっていなくて。

私がスクールアイドルを始めてからのあれこれを話したり。
逆に二人が島の出来事を話してくれたり。

明日は朝から仕事のお父さんは、空港まで見送りには来れないらしい。
「お友達を大切にな」なんて、別れ際みたいな台詞を吐いて――時々連絡取り合ってるのにね。

家族水入らずの会話に花を咲かせていたら、日付が変わろうとしていて。

そろそろ寝ないとね、夜ふかしはお肌に悪いから。
よくよく考えたら、二人に直接言うのはこの帰省で初じゃない?
なんて思いながら夜の挨拶を。

リビングの扉を開けて、

「おやすみ」

二人に向かってそう言うと、優しく向こうもこう言ってくれるの。

「「おやすみ、果林」」

 

234: 2021/05/05(水) 22:28:06.89 ID:oC0T0jFF
 
和室に戻ると、二人はもう夢の中。

「すやぁ……」

「すーっ……」

――パシャリ。
スマホのスピーカーの部分を指で押さえて、できるだけ音が鳴らないようにして。

二人の寝顔を写真に収めた。

「……」

二人の布団に入ろうか少し迷ったけど……。
しばらく考えて、やっぱりやめておく。

だって、普通に暑苦しそうじゃない?

そう思って、二人の横に布団を敷いて眠ったんだけど――。
夜中に目を覚ますと、なぜかエマに抱き抱えられながら、三人同じ布団に入ってて。

――はぁ、分かったわ。観念してあげる。

――――――――
――――――
――――

 

235: 2021/05/05(水) 22:31:19.09 ID:oC0T0jFF
 
,,(d!.•ヮ•..)

八丈島で過ごす最後の日は、どこに行くでもなく、ただ果林ちゃんのお家でまったり。
彼方ちゃんもわたしも、なんとなく「もういっかぁ」みたいな気持ちになっちゃって。

もう荷物の用意も終わっちゃってるの。

果林ちゃんのお母さんが、すいかを用意してくれました。
わざわざ氷がたっぷり乗っかった器に、切ったすいかを並べてくれてて。

お家の軒先に三人並んで、青空とヤシの木を眺めながら、

「「「いただきます♪」」」

きんきんに冷えたスイカをかじると、しゃくっと音がして、果汁があふれてきて。

「ん~♪ボーノ♪」

彼方ちゃんも、しゃくしゃく。

「おいしいねぇ」

果林ちゃんも、しゃくしゃく。

「……♪」

風鈴と蝉とすいかを食べる音。
のどかな時間が流れます。

236: 2021/05/05(水) 22:35:08.16 ID:oC0T0jFF
「そういえば、世の中にはすいかの種を飛ばす大会があるんだよ~」

と彼方ちゃん。
へぇ~……そんな大会があるんだ。
なんて思いながらすいかを食べていると。

「飛ばしてみる?」

と提案したのは意外にも果林ちゃん。
いいのかな?ここ果林ちゃんのお家だよ?

「あっ、じゃあさ~、一番飛ばなかった人は何かお土産を奢るっていうのはどうかな?」

くさやのときみたいな企み顔の彼方ちゃん。

「でも、お土産って……同好会のみんなへの?」

とわたしが聞き返します。

「ん~、いや……そうだねぇ、う~ん。あっ!お土産屋さんに置いてあるキーホルダーを3つ買うのはどう?」

「そんなの買ってどうするのよ?」

「スクールバッグに3人で付けるとか、どうかな」

それ、いい。
すごくいい――!

「いいねっ!」

彼方ちゃんに大賛成を贈ります。

238: 2021/05/05(水) 22:38:14.12 ID:oC0T0jFF
「う~ん……」

微妙な顔をしているのは果林ちゃん。
理由を聞いてみると、

「確かにお土産屋さんに行けばキーホルダーは置いてあるわよ?置いてあるけど……ああいうのって大体ダサくない……?」

「それがいいんじゃん」

――結局、果林ちゃんは押し切られて、キーホルダーの奢りを賭けた種飛ばし大会が始まりました。

一番手は彼方ちゃん。
大きく助走をつけて、「ぷっ!」と種を飛ばしたけど……。

「あっ」

「ふふっ、下手ね」

勢い余って角度を間違えて、種は地面に45度でぱしゅっと叩きつけられてしまいました。
記録は80センチ。
「うぅ~」とヘコむ彼方ちゃんを撫でて、果林ちゃんの挑戦を見守ります。

果林ちゃんはすいかから種を取ると、口に入れて――「ぷっ!」。

「おぉっ!?」

綺麗な弧を描いて落ちていく種に驚いて。
記録はなんと2メートル40センチ。

「どう?すごいでしょ」

「なんで!?」

納得いかない様子の彼方ちゃん。
次はわたしの番だね。
結果は……。


――――――――
――――――
――――

239: 2021/05/05(水) 22:41:40.09 ID:oC0T0jFF
 

種飛ばし大会のあと、島は突然のスコールに見舞われました。
大粒の雨が弾丸のように力強く降り注いでいて。

「飛行機……大丈夫かな?」

不安と、もしかして1日伸びたり?なんて淡い期待を抱いて果林ちゃんに聞いてみると、

「大丈夫だと思うわよ?すぐ止むから」

って。
わたしがスコールを経験したのは今回が初めてだったんだけど、
八丈島では日常茶飯事で、10分や20分で止んでしまうみたい。
逆に、雨が降らない日の方が珍しいくらいらしくて――わたしたちってラッキーだったんだね。

それで、本当に15分くらいで止んじゃって。

「ね?」

と外を見て言う果林ちゃん。
う~、そっかぁ……帰っておいでって神様も言ってるのかな。

「……ふふふ」

彼方ちゃんは遥ちゃんとLINEしてて。
なんだか急に日常に戻っていっちゃうなぁ……なんて思っていたら、

「そろそろ行こっか」

と果林ちゃんのお母さんが。

240: 2021/05/05(水) 22:45:02.51 ID:oC0T0jFF
玄関を出ると、雨上がりの匂いがして。
車に乗ったわたしたちは、特に何かを話すでもなく、それぞれ窓の外の景色を眺めていて。

「……」

「……」

「……」

――ピコッ。

わたしは景色を動画として残すことにしました。
外を流れていく空や、海や、草木や、道路の標識や……。

「ふふ、エマちゃん……ずっと動画撮ってるね」

「そうなの……全部記録しておこうと思って」

「そっかそっか……あっ!ねっ、ねえエマちゃんエマちゃん、あれみて!」

エマちゃんの方の窓を覗かせてもらうと、

「わぁっ――!」

八丈小島から八丈富士の向こうにかけて、虹がかかっていました。
太陽の傾きと、雨上がりで少し黄色がかった空と、そこにかかる虹の景色はとても幻想的で。

――パシャリ。
果林ちゃんもその景色を撮っていて。

241: 2021/05/05(水) 22:48:47.02 ID:oC0T0jFF
やっぱり、まだちょっとだけ後ろ髪を引かれるような気持ちがあって。
行かないでと思えば思うほど、車は速くなるような気がして。

市街地を越えて――あっと言う間に八丈島空港に到着してしまいました。

「着いちゃったね」

と彼方ちゃん。

空港の周りにはヤシの木が等間隔に植えられていて、駐車場には自動車が結構停まっていて。
小さな空港だから、駐車場からすぐに滑走路を見ることができます。

車はターミナルの『出発』と書かれた自動ドアの前に停まって――。

「楽しかった?」

と後部座席に振り向いて聞いてくれる果林ちゃんのお母さん。
また、なぜか、目の奥が熱くなって。
でも、涙を流さないように上を向いてしばらく待って。

「「楽しかったです♪」」

彼方ちゃんと一緒に。

243: 2021/05/05(水) 22:52:00.07 ID:oC0T0jFF
 
空港の中は小さくても、当たり前だけどカウンターだってお土産屋さんだってあって。
こぢんまりしてるのがかえって居心地のいい場所でした。

お土産屋さんで物色するわたしたち。

「これ、どうかな?」

二人に見せたのはくさやせんべい。
わたしだけじゃなくて、彼方ちゃんや果林ちゃん、同好会のみんなにもあの臭いを……なんて。

「ほら彼方、これが不幸の連鎖よ。お詫びとしてこれ買って家で食べたらどうかしら?」

果林ちゃんは真空パックされたくさやの干物を勝手に彼方ちゃんのカゴに入れます。

「かっ、勘弁してよ……」

本気の声で拒否する彼方ちゃんに思わず笑いがこみあげてきてしまいます。

旅行のお土産はやっぱり消え物がいいよね、っていうお話になって、同好会のみんなに買ったのは食べ物ばかり。
ちょっと紹介すると、しずくちゃんには島唐辛子パウダーとか、かすみちゃんにはパッションフルーツのジャムとか。

果林ちゃんはその他に、モデルのお仕事でお世話になっている人へのお土産。
彼方ちゃんは遥ちゃんと、バイト先のスーパーにあげるお土産をそれぞれ買って。

「じゃあ~、選びますか。エマちゃん」

彼方ちゃんに引っ張られてやってきたのは、いろんな種類のキーホルダーが掛けられた棚の前。

「あっ、もう選んでるの?」

とお土産のお会計を済ませた果林ちゃんがやってきます。

244: 2021/05/05(水) 22:55:27.65 ID:oC0T0jFF
不思議な模様のコインとか、確かにちょっと個性的なデザインが多くて。
果林ちゃんの言う通り、はっきり言ってダ――んんっ。

ふと目にとまったのは『八丈島』と書かれた、八丈富士や船の絵が描かれたキーホルダー。
手にとって、これどう?と果林ちゃんに見せると、

「却下。二人ならまだしも、私が着けてたら地元大好き人間みたいじゃない」

棚に戻されてしまいました。

すると彼方ちゃんが見せてきてくれたのが、レジンでできたウミガメのオブジェのキーホルダー。

「ね、これどうかな?」

甲羅の割れたそれぞれのところにトーンの違う青、紫、緑が配色されていて、ステンドグラスみたいになってて。
わたしは文句なし、果林ちゃんも文句なしで。

「あら、いいじゃない!」

「わたしもいいと思う!」

「でしょ?彼方ちゃんセンスあるからね~?それじゃ、エマちゃん。お買い上げ、よろしくお願いします」

悪い笑みを浮かべてわたしに3つ手渡してくる彼方ちゃん。
残念だけど、彼方ちゃん、これくらいならお安い御用だよ。
それどころか、喜んで買わせていただきますっていう感じなの。

――――――――
――――――
――――

245: 2021/05/05(水) 22:59:26.97 ID:oC0T0jFF
 

わたしたちの乗る飛行機は、滑走路をゆっくりと動き出しました。
窓の外を見ると、果林ちゃんのお母さんが柵ごしに眺めているのを発見して――。

「果林ちゃん果林ちゃん!」

わたしの後ろの座席に座る果林ちゃんに報告します。

「ふふっ、分かってるわよ。いつも見送ってくれるの」

お母さんを見つめる果林ちゃんの顔はすごく優しい顔で。

『皆様、当機は間もなく離陸いたします。シートベルトをもう一度お確かめ下さい。Ladies and Gentlemen, ――』

――ピン、ポン。
飛行機の音はにわかに激しくなって。

ぐぐぐっとシートに押し付けられるような重力を感じながら、機体はどんどん空へと登っていきます。
海へと飛び出した飛行機は、ゆっくりと八丈島の上空を旋回して、
わたしたちに島を見せてくれるみたいに、少し斜めに傾いて。

窓からは、海に浮かぶ2つの島や、小さくなった町が見えました。
底土港が、登龍峠が、裏見ヶ滝が、カフェが、八重根港が、ふれあい牧場が、八丈富士が、三原山が、足湯きらめきが、果林ちゃんのお家が、見えたの。
これが、果林ちゃんの故郷。
やっぱりわたしの思ったとおり、素敵な場所だった。

写真を撮ろうとすると、隣の座る彼方ちゃんが、

「それ、彼方ちゃんにもあとでちょうだいね」

「うん、もちろん♪」

しばらくすると、八丈島は見えなくなって。



果林ちゃんも、彼方ちゃんも目を閉じて……寝ちゃったのかな?
わたしも……ひと休みしようかな。


――次はどこに行こう?

246: 2021/05/05(水) 23:02:31.71 ID:oC0T0jFF
終わり

ありがとうございました

248: 2021/05/05(水) 23:06:26.02 ID:eHpbTSaV
乙乙
最高だった

249: 2021/05/05(水) 23:07:54.57 ID:zzk8hG0v
おつ
旅行の楽しさと帰る時の物悲しさを思い出した
又気が向いたら何か書いてくださると嬉しいです
スタンドバイミーは名曲

250: 2021/05/05(水) 23:08:45.80 ID:rpDodGRc
おつ、最高だった
ここ毎日楽しかったぜ
過去作とかあれば教えてくれ

251: 2021/05/05(水) 23:09:36.96 ID:ny0dTKN7

二人にありがとう

252: 2021/05/05(水) 23:10:52.95 ID:79yYBOFP

おかげさまで素晴らしい連休でしたわ
挿絵ニキ(ネキ?)もありがとう

253: 2021/05/05(水) 23:11:25.99 ID:0czer4ZJ
おつおつ
ほんと最初から最後まで雰囲気が良かった
八丈島は行ったことないけど、コロナ禍マシになったら行きたいなぁ……
こういうほのぼの旅行SSはほんと最高だ

255: 2021/05/05(水) 23:17:14.18 ID:/HKo5w1m
文句なしの名作をありがとう

257: 2021/05/05(水) 23:20:50.23 ID:WPbFnLd6

すごい良かった

259: 2021/05/05(水) 23:50:58.62 ID:VIkRkfAI

最高だったわ、SSで一番好きかも

しまむらは全レスに挿絵付けて、どうぞ

261: 2021/05/06(木) 00:13:03.21 ID:s7M81If7
おつでした。次はスイスまで

262: 2021/05/06(木) 00:13:14.09 ID:6t5Br+r/

久々に名作に出会った

264: 2021/05/06(木) 00:30:38.30 ID:H+/isADE
なんかもう泣きそうになったわ

引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1619855307/

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