【SS】侑「大好きな歩夢と、大嫌いな上原歩夢」【ラブライブ!虹ヶ咲】

SS


1: (もも) 2023/02/08(水) 21:38:15.99 ID:Msb+Qqv2
間接的な暴力表現とシリアス展開あるので苦手な方はご注意ください
あと若干ホラーです
 
2: (もも) 2023/02/08(水) 21:39:24.20 ID:Msb+Qqv2
 私の一番古く、一番大切な記憶。

歩夢『わたしと、ともだちになってくれる?』

侑『わたしとあゆむはもうしんゆうじゃん!ほら、あっちであそぼ?』

 私の物語はここから始まった。侑ちゃんと出会い、幼稚園、小学校、中学校とずっと一緒の時間を過ごした。

 でも、スクールアイドル同好会に入って全てが変わった。紆余曲折を経て、私はその変化を受け入れた。

 侑ちゃんから貰ったローダンセの花。進む道は別々であっても、私たちが互いを想い合う気持ちは変わらない。

 第一回SIFが終わり、すでに半月が経過していた。あの燃えるような熱気はどこへやら。通常の学園生活、同好会の活動が再開していた。

 今日も次のライブに向け、同好会の皆と一緒に練習をした。スクールアイドルとして夢を追うと決意してから、より身の入った練習ができるようになった気がする。

 日々の練習メニューは辛いけれど、私一人じゃないから頑張ることができる。ソロアイドルだけど一人じゃない。スクールアイドル同好会は私にとって大切な居場所だ。

 今日のことを少しだけ回顧しながら、私はベッドに入った。充実した毎日。日々成長を実感できる毎日。今が人生の中で一番楽しい。こんな日々がいつまでも続いたらいいのに──

『──侑ちゃんを返して』

 唐突に、私の頭に声が響いた。

歩夢「誰……?」

 上体を起こし、暗い室内を確認したが誰もいない。けれど確かに、ハッキリと聞こえたのだ。勘違いのはずがない。

 不気味に思いながらも、私はもう一度毛布にくるまった。私は何となく、壁に顔を向けて瞼を閉じた。壁の向こうには侑ちゃんがいる。何となく、そう考えたら熟睡できる気がしたから。

 私の不安は徐々に霞のように消えていく。これならぐっすりと眠れそうだ。睡魔も徐々に強まり、意識が落ちる寸前。もう一度だけ頭に響いた声を思い出す。

 あれは……私の声だった。
 
3: (もも) 2023/02/08(水) 21:40:26.18 ID:Msb+Qqv2
──

 今朝は特に異常の無い目覚めだった。いつも通り洗面台で顔を洗い朝食を摂る日々のルーティン。

 何か違和感があるとすれば一つだけ。顔を洗う際、蛇口から出る冷水に手が触れた時、少しだけ沁みた。奇妙に思って右手を確認すると少しだけ赤く腫れているようだった。

 寝ている最中どこかにぶつけたのかもしれない。特に気にも留めずに朝の準備を進めた。

 学園へ向かう為の準備が整い外へと出た。

侑「あ……歩夢。おはよう」

歩夢「あ、侑ちゃんおはよう。私よりも早いなんて珍しいね」

 マンションの廊下にはすでに侑ちゃんが待機していた。いつもは私が待っている側なのに珍しいこともあるものだ。

 珍しいと言えば侑ちゃんの表情。何か言いたげな視線を私へと向けていた。

歩夢「どうしたの侑ちゃん?調子でも悪いの?」

侑「その……昨日のことなんだけどさ」

歩夢「昨日?」

 昨日。何か特別なことがあっただろうか。いつも通り学園に登校して、授業を受けて、放課後は同好会の活動に精を出して……。

 あれ。靄がかかったように同好会の練習だけが上手く思い出せない。

 そう言えば、昨日私はどうやって家に帰ったのだろうか。
 
4: (もも) 2023/02/08(水) 21:41:31.35 ID:Msb+Qqv2
侑「嘘、だよね?冗談でしょ?歩夢……」

歩夢「……嘘?冗談?どういうこと?」

 何も理解できなかった。侑ちゃんは言葉を選びながら話している。それに沈痛な面持ちだ。右手が固く握りしめられている。

侑「え?覚えてないの?」

歩夢「えーっと……ごめんね。昨日はちょっと疲れてたみたいで、よく覚えてないんだ」

侑「覚えて……ない」

歩夢「うん。何か大切なこと?」

侑「……いや、蒸し返したくないことだからいいよ。バスの時間に遅れそうだし、そろそろ行こう」

歩夢「あ、うん……」

 何だったんだろう。あれほど真剣な顔つきな侑ちゃんを見るのは久々だ。問い質したい気持ちもあったけど、パンドラの箱を開くようで……やめた。
 
5: (もも) 2023/02/08(水) 21:42:31.87 ID:Msb+Qqv2
──

 授業はいつも通り進行した。クラスメイトから怪訝な顔をされることも無く、いつも通りの学園生活だった。

 しかし放課後の同好会の活動。それが近づく度に、言い知れない不安が鎌首をもたげつつあるのを感じていた。

 放課後、私は同好会の部室のドアに手を掛けた。何もないはず。だって、授業中は何も無かったのだから。大丈夫。いつも通り賑やかな同好会の日々がそこにはある。

 ほら、ドア越しにも賑やかな声が聞こえてくる。きっと大丈夫だ。きっと……。

 私は意を決して部室のドアを開けた。

歩夢「……」

 ドアを開けた瞬間、部室内の視線が一気に私に注がれた。瞬間、賑やかで楽し気だった部室内の雰囲気が変貌したのが分かった。

 ねばつくような緊張感が私を包む。

歩夢「えっと……どうしたの?」

 私は頬を掻きつつ尋ねた。本当に何も覚えがない。それとも、私は知らない内に誰かの地雷を踏んでいたのだろうか。

 私の疑問に対し、まず声を上げたのは愛ちゃんだった。

愛「歩夢。今日は大丈夫なの?」

歩夢「え……大丈夫って何が?」

愛「何がって……本当に言ってる?」

 明らかに愛ちゃんは私に対して良くない感情を持っている。敵愾心、とまではいかなくとも明確に警戒心を持っていた。警戒する理由なんて無いはずなのに。

 私は困惑したまま愛ちゃん以外に視線を移した。未だに同好会全員が集まっているわけでは無かったけど、今いる全員が私に対して警戒していた。
 
7: (もも) 2023/02/08(水) 21:43:33.50 ID:Msb+Qqv2
 そこで一つ。引っかかりを感じた。

 せつ菜ちゃんの頬にガーゼが貼ってあった。私の記憶にあるせつ菜ちゃんは頬に怪我なんてしていない。

 そこに気づいた瞬間、私の心臓が早鐘を打つ。言い知れぬ不安の正体はこれなのだろうか。錆び付いたように開き辛い口を無理やり開き、私は疑問を口にした。

歩夢「せつ菜ちゃん……そのほっぺ、どうしたの?」

 自分の頬を指差しながら口にした。

 すると、せつ菜ちゃんは大きく瞼を開いた。驚愕。その二文字が合致する表情だった。

せつ菜「あ、歩夢さん……何を言っているんですか……?」

歩夢「え……」

愛「歩夢……。ふざけてるの?」

歩夢「な、なに言ってるのみんな。私はふざけてなんか──」

愛「歩夢がせっつーを殴ったからこうなってるんでしょ!?何しらばっくれてるのさ!!」

歩夢「うぐっ」

 愛ちゃんに胸倉を思い切り掴まれる。少しだけ息が止まった。

 私は愛ちゃんの言葉を理解できていなかった。

 私が……せつ菜ちゃんを殴った?そんなわけ、ない……。

 だが、私の右手に痛みが走った。せつ菜ちゃんを殴った証明のように、右手がジンジンと痛んだ。

 この痛みって……。
 
8: (もも) 2023/02/08(水) 21:44:41.27 ID:Msb+Qqv2
せつ菜「愛さんっ!やめてください!暴力はいけません!」

愛「離してよせっつー!私は謝りもしないし、殴ったことを認めない歩夢のことが許せない!まずは謝りなよ歩夢!!」

せつ菜「愛さんっ!!!!」

歩夢「……」

 私は何も口に出せなかった。

 今起こっている光景を、どこか遠くから眺めているような、そんな非現実感を覚えていた。

 愛ちゃんって……こんな恐い顔もするんだ。

 初めてぶつけられる純粋な敵意を前に、身が竦んだ。一触即発の雰囲気が場に流れる中、ドアが開く音がした。

侑「おっすー……って、何やってんの!?」

 首だけを動かして見ると、そこには驚倒する侑ちゃんがいた。

愛「ゆうゆもなんか言ってあげてよ!歩夢ってばせっつーを殴ったことをとぼけてるんだよ!?」

侑「えっ。歩夢、それって本当……?」

 ぞわりと、背筋が冷える感覚があった。誤解だ。全ては誤解。侑ちゃんには誤解して欲しくない。

歩夢「ち、違うよ!私せつ菜ちゃんを殴ったなんて嘘だよ!そんなことした記憶ないもん!信じて侑ちゃん!」

侑「歩夢……」

 私は叫んだ。けれど、侑ちゃんにはちっとも響いていなかった。

侑「その時、せつ菜ちゃんの一番近くにいたのは私なんだよ?どうしちゃったの歩夢……」
 
9: (もも) 2023/02/08(水) 21:45:37.34 ID:Msb+Qqv2
歩夢「う、そ……」

 なんだこれ。なんなんだこれ。私の中に知らない私がいる。その知らない私がみんなの中にいる。

せつ菜「あの……愛さん」

愛「……なに?」

せつ菜「歩夢さんの様子を見ていると、これは単にしらばっくれてるだとか、とぼけている訳では無く、本当に知らないのではないですか?」

愛「……」

 呆然自失となっている私を尻目に、そんな会話があった。愛ちゃんはゆっくりと私を掴む手を緩めた。愛ちゃんはなんだか……バツの悪い表情をしていた。

 人に敵意を向けるというのは、息を吸うようにできるものじゃない。

侑「……そう言えば歩夢。今朝も言ってたよね。疲れてて昨日のことがよく思い出せないって」

歩夢「え、うん……」

侑「まずはそこから考えよう。みんな、一旦落ち着いて」

歩夢「……」
 
10: (もも) 2023/02/08(水) 21:46:38.65 ID:Msb+Qqv2
──

 それから、興奮状態の愛ちゃんと、呆然としていた私が落ち着くまで少し時間を要した。

彼方「はい。歩夢ちゃん。彼方ちゃん特製の紅茶だよ」

歩夢「あ、ありがとうございます……。美味しい」

 彼方さんから紅茶を貰うと、少しだけ気分が落ち着いた。

侑「じゃあ歩夢。昨日は私と一緒に登校したよね?」

 そうして、私の尋問が始まった。

 昨日の登校から始まり、学校の授業風景、昼休みに何を食べたか、午後の体育など、詳らかに昨日の出来事が振り返られていく。たまに細かく思い出せないこともあったが、それは枝葉末節で特に気になる部分でも無かった。

 そして、昨日の振り返りは遂に同好会へと移る。

歩夢「昨日の同好会は……あれ、どんな練習したんだっけ……。あれ、そもそも練習……」

 頭に手を当てて必死に思い出す。スクールバッグを持って部室に入って、それから練習着に着替えて……。

歩夢「これから練習するぞ、ってなって……」

 各々が自らの練習メニューをやり始めようとした時……。そうだ。確かアレはせつ菜ちゃんが……。

~……~

せつ菜『侑さん、どうですか?この髪飾り。昨日目に付いちゃって衝動買いしちゃったんですよ』

侑『わ~っ!すっごい似合ってるよそれ!せつ菜ちゃんの新たな魅力に気付いちゃった!』

せつ菜『ありがとうございます!侑さんにそう言っていただけると嬉しいです!』

~……~

 歩夢「せつ菜ちゃんが髪飾りを侑ちゃんに見せて……ぐッ……」

 脳に鋭い痛みが走る。その先の記憶がどうしても思い出せない。頭が沸騰したように熱くなったところまでは思い出せる。

 けれどその先。一番大事なところが思い出せない。
 
11: (もも) 2023/02/08(水) 21:47:40.57 ID:Msb+Qqv2
愛「……そうだよ。微笑ましいなぁ、って見てたら突然、歩夢がせっつーに殴りかかったんだよ」

歩夢「……そうなんだ。じゃあこの右手の腫れはそういう……」

 私は左手で右手をさすった。すると、腫れた部分からやけに熱を感じた。

 せつ菜ちゃんの方を見た。視線が合うと自然に外された。

 覚えていないし記憶も無い。けれど、他の人の証言と私の右手の痛みを考えるとどうやら本当にせつ菜ちゃんを殴ってしまったらしい。

歩夢「せつ菜ちゃん、ごめんね……。なんで殴っちゃったのか分からないけど、でも私が殴っちゃったみたい……」

 私は素直に謝罪した。頭を下げてできる限り誠意を示した。

果林「……覚えていないのに謝罪、ね」

 果林さんから突然呟かれた言葉が深く突き刺さる。

果林「ねえ歩夢。本当に何も覚えていないの?殴った記憶を忘れるなんて、都合が良過ぎるとは思わない?」

エマ「果林ちゃん、それは……」

果林「黙ってエマ。みんなも感じていることでしょう?『私には非が無いけれど、場を治めるために仕方が無く謝罪しています』としか見えないわ」

 実際その通りだ。耳が痛い話だが、私も果林さんの立場なら同じことを考える。

 けれど、本当に覚えていないのだ。殴ったのは私の手でも、私の意志じゃない。

 私の中で沸々と理不尽な状況への怒りが膨れ上がる。
 
12: (もも) 2023/02/08(水) 21:48:42.97 ID:Msb+Qqv2
歩夢「だって……本当に覚えていないんですよ。覚えていないけど、私の手は腫れてるから殴ったのはきっと私です……。だから謝るしかないじゃないですか!これ以外の選択肢なんてあるんですか!?」

侑「あ、歩夢、落ち着いて」

歩夢「落ち着いてなんていられないよ!私が一番わけわかんないもん!せつ菜ちゃんを殴りたいわけないのに、どうして殴ったかなんて私が一番知りたいよ!!」

 言葉が止まらない。今日は今朝からおかしかった。侑ちゃんが何かを言いにくそうにしていたし、みんなから身に覚えのないことで糾弾されるし。説明して欲しいのは私の方だ。

歩夢「誰か説明してよ!どうして私はせつ菜ちゃんを殴らなきゃいけなかったの!?ねぇどうして!!」

 言い終わると、呼吸をし忘れていたことに気づいて肩で息をした。

 みんなは思い思いの表情をしていた。私を怪訝な目つきで見る人。私を怒気を孕んだ目で見る人。顎に手をやって思案に耽る人。

 私のキャパを越えたのか。瞼に涙が浮かび、頬へと伝わり落ちる。

歩夢「うっ……ぐすんっ。ごめん、なさい……。本当に、本当に……分からないんです……。何が起こっているのか、本当に分からないんです……」

 両手で顔を覆うと視界が暗闇に支配される。今はみんなの顔を直視するのが怖い。だからこの暗闇が心地よかった。

せつ菜「歩夢さん」

 せつ菜ちゃんの優しげな声が聞こえた瞬間、私は春のような温かさを感じた。

せつ菜「私は歩夢さんの言葉を信じます。歩夢さんにも私に拳を振るった理由が分からないなら、それでいいです。原因は別にあります。だから、泣かないでください」

 見えないけれど、抱きしめられていると分かった。優しくあやすように、頭も撫でられていた。私はその温かさに、より涙腺が刺激されてしまった。

せつ菜「大丈夫です。きっとすぐに分かります。分からなくても……大丈夫です。今はそれ以上にやることがあるはずです」

歩夢「や、る……こと?」

 決壊したダムの如く流れる涙を流しながら、消え入りそうな声で呟いた。

 せつ菜ちゃんの顔は、先ほど目を背けたようなバツの悪い表情では無かった。太陽のように周囲を照らす、スクールアイドル優木せつ菜の笑顔だった。

せつ菜「ここはスクールアイドル同好会の部室です!次のライブの練習をする以外、やることはないじゃないですか!」

歩夢「せつ菜、ちゃん……うっ、うあああああああああああっ!!」

 そうして私はもう一度、大粒の涙を流した。
 
13: (もも) 2023/02/08(水) 21:49:42.20 ID:Msb+Qqv2
──

 その後、歩夢さんは涙が涸れ切るまで泣いた。あの場で一番大人だったのは、当の本人であるせつ菜さんだった。いや、せつ菜さんだったからこそ、あそこでああ言えたのだと思う。

 愛さんはまだ少し思うところがあったみたいだけど、せつ菜さんが許したのだから何も言えなかった。

 果林さんはあの後、詰め過ぎたことを素直に謝罪していた。歩夢さんも同じように頭を下げていた。

 そしていつも通り……とはいかなくとも、何とか同好会の練習は再開できた。今日は基礎練と個人練だけやって終わった。

侑「ねえ璃奈ちゃん、ちょっといいかな」

 帰り支度をしていた時、私は侑さんに呼び止められた。侑さんは明るい表情をしていたけれど、それが無理をしていることはすぐに分かった。

璃奈「なに?」

侑「璃奈ちゃんを巻き込むのはいけないことだって分かってる。それを踏まえてお願い」

璃奈「……うん」

侑「部室に監視カメラを設置するの手伝って欲しいんだ」

 部室に監視カメラ……。侑さんの提案の背景はすぐに分かった。恐らく、次に歩夢さんが何かをした時のための記録だろう。

 歩夢さんが問題を起こしたという証明……。今日はせつ菜さんが許したけれど、問題が抜本的に解決したわけじゃない。

 だから……侑さんの意見には賛成だった。

璃奈「いいよ。私も何か、手を打たなきゃいけないって思ってた」

侑「よかったぁ。それじゃあまずは買い物からだね」

璃奈「うぅん、問題ない。私がプライベートで使ってた監視カメラがある」

侑「え……。なにそれ」

 私の家には数台の監視カメラが使われずに放置されている。

璃奈「パラノーマル・アクティビティって映画を見てから、私の家にも確認されていないだけで心霊が住んでるんじゃないかと思って買ったんだ」
 
15: (もも) 2023/02/08(水) 21:50:45.85 ID:Msb+Qqv2
侑「へ、へぇ……。ま、まぁいいや!とりあえず渡りに船だね!今から璃奈ちゃんの家に行ってもいいかな?」

璃奈「うん。大丈夫だよ。璃奈ちゃんボード『無問題ラ』」

 私と侑さんはその後、監視カメラを回収して部室に設置した。私と侑さんは身長が大きい方ではないので設置に苦労したけど、何とか予定通りの場所に設置できた。

侑「ふぅ……お疲れ璃奈ちゃん」

璃奈「疲れた……。練習の後にこれは過酷……」

侑「ごめんね、付き合わせて。お返しにコンビニで何か奢るよ」

璃奈「えへへ。その言葉を待ってた」

 そして私と侑さんは帰途に着いた。

 帰り道、私は侑さんとお喋りしながら別のことを考えていた。

 この監視カメラが杞憂に終わればいいな、ということ。そしてもう一つ、パラノーマル・アクティビティの言葉が出たからだろうか。これが心霊に関わる事件で無ければいいな、とも思った。

 学園の校門に差し掛かったところで、私は人の気配を感じた。すでに時刻は夕飯の時間を過ぎている。私と侑さん、それと教職員の人しか残っていないはず……。

侑「どうしたの?」

 侑さんがきょとんとしていた。

璃奈「……うぅん。何でもない」

 今明らかにする必要は無い。全ては明日、白日の下へと晒される。

 それに、帰ってから調べたいこともできた。

 忘れないよう、私は調べたいことをボードに書き込んでから帰った。
 
16: (もも) 2023/02/08(水) 21:51:46.56 ID:Msb+Qqv2
──

 朝の陽ざしに目を覚ます。少しだけ重い瞼越しに見る私の部屋はいつも通りだった。少しだけ安堵の息を吐く。

 しかし、まだ安心していられない。私はゆっくりと昨晩の出来事を思い出していく。

歩夢「あれから……家に帰って、お夕飯を食べて、課題をやって……。よし、全部覚えてる」

 記憶に欠落は無い。私はもう一度安堵の息を吐いた。昨晩は何も無かったらしい。

 ベッドから降りると、微かに足が痛んだ。

歩夢「……まさか。誰かを蹴って?」

 昨日は誰かに拳を振るったから右手が腫れていた。今日は両足がじんわりと筋肉痛のように痛んだ。

 いや……よくよく考えれば昨晩、寝る前に足が筋肉痛になっていたから揉んでいた。昨日はあまりいい精神状態ではないまま練習したから、普段通りの動きができず変な足の筋肉を使ってしまったのだろう。

歩夢「ふぅ……。あれ……課題のノートは鞄に入れたような……」

 胸を撫でおろした矢先、勉強机に一冊の大学ノートが目に入った。昨晩は確かに課題用のノートを使った。そしてそれを忘れないよう鞄に入れた記憶もある。

 じゃあこのノートは……?

 私は手汗が少し滲み始めていることに気づいた。心臓の鼓動も自然と早くなる。

 杞憂だ。杞憂に決まっている。このノートにはとりとめのない、面白味も無いことしか書かれていないはずだ。

 ノートの表紙をつまみ、中を開いた。

歩夢「……なに、これ」

 ノートには覚えのない記載と、理解できない文字の羅列があった。
 
17: (もも) 2023/02/08(水) 21:52:48.70 ID:Msb+Qqv2
『哀れな稚児』『一人孤独に溺れて死にゆく存在』『未練に執心し常世を拒む』『自らの欲望を他人の器に期待する寄生虫』

 一つ一つの単語は分かる。だが、前後の文脈が一切無いため何を表しているのかさっぱり分からない。まるで、小説のカットアップを見ているようだ。

 しかし一つだけ分かることがあった。

歩夢「私の、字……」

 それは紛れもなく、私の字体だった。やや丸みを帯び、ハネが足りない上原歩夢特有の字体。一朝一夕で真似できるようなものではない、再現性が困難なもの。

 寒気が全身を走り、思わず身震いしてしまう。

歩夢「ひっ」

 窓の向こうで何か物音がした。恐る恐る目を向けると、そこには雀が立っていた。ベランダの手すりに雀が立っているなんて珍しくも無い。

 けれど、私は寒気が止まらなかった。得体の知れない恐怖から逃れようと、もう一度ベッドに戻ろうとした。

 けれど、もう一つの違和感に気づいてしまう。ペン立てに入っている飾り気の無いシンプルな鋏。そこに一本の糸くずが付いていた。

歩夢「糸……?」

 それは黄色い糸だった。上手に繊維を切断できなかったのか、鋏に糸くずが付いてしまっている。だが、おかしい。私は最近黄色の服なんて着ていない。

 それなら、ここに黄色い糸くずがあること自体おかしい。そもそも私は、直近で鋏を使った記憶が無い。

歩夢「じゃあこの糸くずは何なの……?」

 その時、スマホから通知音が鳴って体が跳ねた。

 もうこれ以上、理解の範囲外の出来事が起こって欲しくなかった。しかし、今の状況を打破する何かがスマホにあるのかと思うと、無視することができなかった。

 震える手でスマホを開くと、それはLINEの通知だった。

侑『おはよ!昨日は何もなかった?』

歩夢「侑ちゃんっ……」

 ただ一つ。わけのわからないことばかりの中で届いた侑ちゃんからのメッセージは、燦然と輝いていた。恐怖が徐々に消えていき、理由の無い安心感は瞼に涙を浮かばせる。

 私はまだ、一人じゃない。胸に手を置いて深く深呼吸をする。朝のひんやりとした空気が肺に入って心臓の鼓動が通常通りになる。

 私は机の上にある不気味な文章が書かれたノートを鞄に入れ、朝のルーティンをこなすことにした。
 
18: (もも) 2023/02/08(水) 21:53:50.56 ID:Msb+Qqv2
──

侑「おはよう歩夢。今日の調子はどう?」

歩夢「うん。ちょっと足が筋肉痛だけどそれ以外は平気だよ」

侑「そっか。昨日はやっぱり練習させずに帰らせた方がよかったかなぁ……」

 侑ちゃんは困ったように頬を掻いていた。見慣れた侑ちゃんの顔。昨日のように緊張感を持った態度は無かった。

 その変わらなさが、私にとっては救いだった。

歩夢「あのね侑ちゃん。ちょっと見て貰いたいものが──」

 鞄に手を入れてあのノートを取り出そうとした瞬間、侑ちゃんのスマホが鳴った。

侑「おっと、ごめん歩夢。璃奈ちゃんから……え、これは……」

 スマホの画面を見た瞬間、侑ちゃんの顔が蒼白に変化した。侑ちゃんはゆっくりと私の方へと視線を移して口を開く。

侑「歩夢……昨晩はどこにいたの?」

 昨晩?昨晩は普通に家に帰ってきて、お夕飯を食べて、学園の課題をやって……欠落した記憶など一つも無かった。

 いや……待て。そもそも前提条件から崩れている。知らない文章が書かれたノートがあったんだ。その時点で、私の知らない私が行動していた証明になる。

歩夢「……わかんない」

 私の口から漏れた言葉は、そんな力無き返事だった。

 突然、足元の地面が消えたような感覚に襲われる。私は全身に力が入らなくなっていた。

侑「歩夢っ!」

 肩を強く掴まれる。目の前には焦燥に駆られた侑ちゃんの顔が見える。

侑「大丈夫。大丈夫だよ歩夢。私が傍にいるからね」

 力強く、頼もしい言葉だった。まだ私には寄る辺がある。まだ……折れるには早い。だって、まだ何も分かっていないんだから。

 そう言えば……侑ちゃんは何を見たの……?

歩夢「ねえ侑ちゃん……」

侑「なに?歩夢」

歩夢「そのスマホには……何が映ってたの……?」

侑「……っ。歩夢、とりあえず学園に行こう。全部、それで分かる」

歩夢「……うん」

 私は覚束ない足取りのまま学園を目指す。学園が近づけば近づくほど、足は鉛のように重くなっていた。
 
20: (もも) 2023/02/08(水) 21:54:52.46 ID:Msb+Qqv2
──

かすみ「うぇえええええええんっ!どうしてかすみんの衣装がぁ……ぐすぐす」

しずく「酷すぎます……どうしてこんなことが……」

 同好会の衣装が全て置いてある部屋は愁嘆場と化していた。かすみちゃんが自分の衣装を抱いて号泣し、しずくちゃんは悲しみより怒りを感じているようだった。

 衣装室は一言で言えば荒らされていた。私たちの思い入れのある衣装はズタズタに切断されていて、衣装だった物がそこかしこに散乱していた。

 同好会の衣装は一つたりとも無事では無かった。そう、一つたりとも、だ。

 私の衣装もまた、みんな同様に切断されていた。

しずく「歩夢さん……これもあなたがやったんですか……?」

 しずくちゃんがかすみちゃんを宥めながら、怒気の籠った瞳を向けた。

 二日連続で敵意の籠った目線を貰う。私の日常は崩壊していた。

歩夢「ち、ちが……」

 違う。そう素直に言えたらどれだけよかったのだろうか。けれど恐らく……この衣装を切断したのも私だ。私ではない、違う私の意志で行われている。

 思い出すのはペン立てにある黄色い糸くずが付いた鋏。あの糸くずは恐らく……いや間違いなく、かすみちゃんの衣装の繊維だ。

しずく「どうしてこんなことするんですか!?せつ菜さんを殴るだけじゃ飽き足らず、みんなの想いが込められた衣装をっ……。どうしてこんな酷いことができるんですか!?」

歩夢「……」

しずく「同好会が嫌いなんですか!?心の底では疎んでいたんですか!?それならハッキリとそう言えばいいじゃないですか!方法が陰険すぎます!!」
 
21: (もも) 2023/02/08(水) 21:55:56.20 ID:Msb+Qqv2
 しずくちゃんから浴びる数々の強い指摘の言葉。私の心はそのどれも否定している。けれど、この場を作り出した張本人という意識が、私に二の足を踏ませていた。でも、一つだけ、一つだけは絶対に否定したかった。

歩夢「嫌いなわけ……ないよ。私にとって同好会は大切な場所で──」

 けれど、その言葉はさらにしずくちゃんに燃料を注ぐ結果となった。しずくちゃんの長く艶やかな髪の毛は、怒気で膨らんだように見えた。

しずく「大切ならどうして!どうして大切な場所を穢せるんですか!?自分の衣装まで引き裂いたのは、自分に責任がいかないようにしただけですよね!?ふざけないてくださいよ!!」

歩夢「あ……う、ぁあ……」

 正論だ。正論だけに、私は二の句を継げなくなってしまう。

 だから、私は助け船を欲した。誰かに助けて欲しくて周囲を見渡した。けれど、私の味方はここに一人たりともいなかった。

 昨日私のことを許してくれたせつ菜ちゃんも、泣きそうな顔で私のことを睨んでいた。

歩夢「私、じゃ……ない、のに……。違う私が……やったのに……なんでこんなことに……」

しずく「被害者ぶるのもいい加減にしてください!!歩夢さんに何かが憑りついて──」

 しずくちゃんがもう一度声を荒げようとした瞬間。衣装室のドアが開けられる。

 そこにいたのはここにいなかった璃奈ちゃん、そして侑ちゃんだった。

璃奈「──しずくちゃん。もしかしたら、その可能性がある」

 思わぬ一言に、しずくちゃんは面食らっていた。
 
22: (もも) 2023/02/08(水) 21:56:57.26 ID:Msb+Qqv2
──

 昨日、監視カメラを仕掛けて侑さんと別れた後、私は今回のことを振り返っていた。

 歩夢さんがせつ菜さんに拳を振るったことから端を発した事件。そもそも、歩夢さんはせつ菜さんを殴るような人ではない。けれど、実際に起こってしまった。

 私はその瞬間を目にしたわけでは無いけれど、当の本人であるせつ菜さんと侑さんが証言しているのだから事実なのだろう。二人が結託して嘘を吐いてでもしない限りは。

 だから前提条件として、歩夢さんがせつ菜さんに拳を振るったとして、そうなるにはどのような理由があるのか考えてみた。

 すると……恥ずかしい限りだが、どんな可能性よりも非科学的な可能性が最も現実的だった。

 即ち、心霊・怪異と言った超常的な存在が憑りついている。

 私はその線で調べていくことにした。本気でやるなら図書館に出向いて民族伝承にまで手を伸ばしたかったが、すでに閉館時間だったので断念した。

 ネットの海をしばらく泳いでいると、一つの怪異へとたどり着いた。

 その怪異の名は──

──

璃奈「──ポムダマ」
 
25: (もも) 2023/02/08(水) 21:58:00.48 ID:Msb+Qqv2
エマ「……なんだか可愛い名前だね」

 今朝、衣装室で起こった一件の後、私たちは解散した。もうすぐ授業が始まる点、みんなの心が乱れているから冷静に話しができない点、私も冷静とは程遠かったので良かった。

 現在は放課後の部室だ。私もしずくちゃんも、顔を合わせ辛いけど冷静になっている。

 けど……まさか幽霊の話になるとは思わなかった。もしそれが本当なら怖いけど……。あまりに現実離れ過ぎていて恐怖が追い付かない。

果林「璃奈ちゃん。心霊話もいいけれど、まずは衣装室の件からじゃないかしら」

璃奈「まあ、そうだね。朝の一件が歩夢さんのせい、と決まったわけじゃない。今のままじゃ状況証拠でしか無いからね」

侑「うん。だから歩夢、一つだけ聞くよ。歩夢は衣装を切り裂いた記憶はある?」

歩夢「……うぅん。無いよ。本当に」

 黄色い糸くずが付いた鋏。不気味な文章が書かれたノート。幾つもの状況証拠はあれど、私自身身に覚えのない話だ。

侑「歩夢は……嘘を吐くような人じゃない。幼馴染の私が一番分かってる。そのうえで、この映像を見て欲しい。璃奈ちゃん」

璃奈「うん」

 侑ちゃんに言われ、璃奈ちゃんはバッグから大きなタブレットを取り出した。そして画面を操作していくと、一つの動画が流れ始めた。

 薄暗い室内だが、編集で補正を掛けているのかそれなりにハッキリと映る。その室内には見覚えがある。今朝見たばかりの衣装室が映っていた。

しずく「これは……衣装室に監視カメラを仕掛けたの?」

璃奈「うん。同好会に関係のある場所にも幾つか」

しずく「……そうなんだ」

 映像は変わらない。物静かな室内が映っているだけだ。けれど、その時は来た。

歩夢「私だ……」

 ドアを開け、入ってきたのは私だった。薄暗い映像ではあるが、それが私であることに疑いようも無かった。
 
27: (もも) 2023/02/08(水) 21:59:02.46 ID:Msb+Qqv2
愛「鋏……。あれでみんなのを……」

 映像に映る私は鋏を持っていた。

 私は一直線に同好会の衣装が置いてある場所へと移動し、まずは自分の衣装から切断し始めた。鋏で雑然と、けれど確かな悪意が分かるような切り方だった。

 執拗に何度も何度も刃先を入れ、私の衣装は見る影も無くなっていた。今朝は気づかなかったが、よく考えてみると一番酷い裂かれ方をしていたのは私の衣装だったかもしれない。

 その後、手際よく次々に衣装を切り裂いていく私の姿を、居心地の悪い静かさの中見ていた。

璃奈「この通り、歩夢さんがどれだけ否定したとしても、下手人は歩夢さん。映像として残っているんだからこれだけは覆らない」

 淡々と、台本でも読むように璃奈ちゃんが言う。心が鉛を帯びたように重くなる。

侑「でも、これは歩夢じゃない。こんなことを、歩夢がするわけないっ!」

 ダンッと、侑ちゃんが思い切り机を叩く。直後、叩いた手が痛いのか、瞼に涙を浮かべていた。その侑ちゃんの信頼が、嬉しくも辛かった。

かすみ「……それじゃあ、この行きようのない感情はどこにぶつければいいんですか?」

 かすみちゃんが絞り出すように告げる。

 たとえ私が自分の意志でやったのではなくとも、衣装はこうしてバラバラになってしまっている。それだけはどうしようもないことだ。

 だからこそ、余計にかすみちゃんの言葉が辛かった。

エマ「かすみちゃん」

 そんな重々しい雰囲気を破ったのはエマさんだった。

かすみ「何ですか……」
 
28: (もも) 2023/02/08(水) 22:00:02.93 ID:Msb+Qqv2
エマ「衣装が台無しになっちゃったのは私も悲しいよ。私の思いと、みんなの思いがたくさん詰まった思い出だもん」

かすみ「……はい」

エマ「それはね、私もかすみちゃんも辛いし……歩夢ちゃんも辛いことなんだよ」

 ハッと意識が覚めるような思いだった。エマさんは……衣装を切った張本人の私でさえ、被害者の一人に数えている。その事実に、自然と目頭が熱くなった。私は一体、何度涙を流せばいいのだろうか。

エマ「でも私たちの中の思い出が消えたわけじゃない。私たちの心の中に、大切に入ってる」

 エマさんはそう言って、私とかすみちゃんをまとめて抱きしめた。温かなお日様のような香りと温かさを感じた。

エマ「かすみちゃん。それに、一番悲しいことは、もう一度同好会のみんなが離れちゃうことだと思うんだ」

かすみ「……っ」

エマ「それに比べたら、他の全部なんて何ともないよっ!」

 その言葉は……エマさんだからこそ重みのある言葉だった。

かすみ「うっうぅ……。ぐすんっ。は、はいぃ……っ。その通りだと、思いますっ。ぬぅううう……っ」

 かすみちゃんは嗚咽に言葉が詰まりながらも、乱暴に涙を腕で拭った。

かすみ「そうですねっ!かすみんは部長ですから!こんなことで挫けたりしません!歩夢先輩も!いつまでも泣かないでください!思い出はこれからもいっぱい作っていきましょう!!」

 そう言って未だに涙を流しながらも、かすみちゃんは満面の笑顔を向けてくれた。

 侑ちゃん以外から何の衒いも無い純粋な笑顔を向けられるのは、ずいぶん久々のことのように思えた。

 強いなぁ、かすみちゃん……。

 そう思うと同時に、かすみちゃんとエマさんの優しさに、私はさらに泣いてしまった。

エマ「ごめんね歩夢ちゃん。歩夢ちゃんがあんなことする娘じゃないって分かってたけど、疑っちゃった……。先輩なのに情けないよね……」

歩夢「え、ま、さん……うっうわあああああああああっ!」

 エマさんの胸を借りて、私は泣いた。エマさんの制服をびしょ濡れにしてしまったが、何も言わずに抱きしめてくれた。その優しさがさらに沁みて、余計に泣いてしまった。
 
29: (もも) 2023/02/08(水) 22:01:05.16 ID:Msb+Qqv2
──

璃奈「それじゃあ……涙も流し終えたということで……続きに移ってもいいかな?」

侑「ぐすぐす……。うん、おっけーだよ璃奈ちゃん」

 侑ちゃんは涙を最後に拭いながらそう言う。けれど、鼻水が鼻から出ているので、私はポケットティッシュを渡した。

 かすみちゃんと私が泣いたせいで、その涙は広く伝播した。簡単に言えば、もらい泣きと言う奴だった。璃奈ちゃんの話の腰を折りまくっていて申し訳なかった。

 話は璃奈ちゃんの言っていたポムダマに戻る。今起こっていることに心霊が関わっているなんて考えられないけど、今の状況に理由が付くなら心霊でもよかった。

果林「確か、ポムダマ、だったかしら?どこかで聞いたような気もするわね」

璃奈「うん。ポムダマ。どういう字を書くのかって言うと、歩み無き魂と書いて“歩無魂”」

果林「歩み無き魂……。なんだか哀しい名前ね」

 歩無魂……。それがどうやら私に憑りついている怪異の名前らしい。勿論聞いたことは無いし、そもそも本当にそれなのかすら分からない。

果林「正直まだまだ半信半疑なのだけど……どうして歩無魂が憑いているという結論に至ったのか、説明して貰える?」

璃奈「勿論。璃奈ちゃんボード『むんっ』」

 私は佇まいを正した。

璃奈「まず、そもそも歩無魂とは何かから説明していくね。ネットにも詳しくは書かれていなかったんだけど……歩無魂は子供の怪異のことだよ」

彼方「ねえ璃奈ちゃん。一つ聞かせて欲しいんだけど、幽霊と怪異って、何か違いがあるのかなぁ?」

璃奈「人や動物が死んだら魂だけの存在になって、それが幽霊だって私は定義づけしてる。それに対して怪異は、現世に生きる私たちに悪さをするようになった幽霊のことだと思う」

彼方「そっかぁ。ありがとね」
 
30: (もも) 2023/02/08(水) 22:02:05.88 ID:Msb+Qqv2
璃奈「うん。話を続けるよ。歩無魂は子供の怪異。つまり、生前は子供の時分で死んじゃった可哀想な怪異。でも、それだけじゃあ賽の河原にいるような子供と変わらない」

璃奈「歩無魂が歩無魂たらしめるのは、その孤独故。誰かと繋がりたい、誰かと仲良くなりたい、そういう思いを抱えながらも孤独に死んでしまった子供。人に歩み寄ることが無かった魂……。だから歩無魂って言われてる」

 一人孤独に死んでしまった子供の怪異……。頭の中で何かが引っかかりを感じた。

璃奈「さっき怪異の話をしたよね。じゃあ歩無魂はどんな悪さをするのか。一言で言えば、憑りついたその人の人格を奪っちゃうらしい」

愛「人格を奪うって……。りなりー、つまり今の歩夢は、歩無魂に人格を乗っ取られつつあるってこと?」

璃奈「うん。話を総合するとそうなる」

愛「いや……でもそれだけじゃ歩無魂だって確定できなくない?人格を乗っ取る怪異ってなると、色々ありそうじゃない?」

璃奈「それは当然の疑問。でも歩無魂の怪異としての特徴は、『人格を奪った後、友人関係に強い執着を見せる』ってことなんだ」

愛「友人関係に強い執着を……?」

璃奈「うん。生前誰とも繋がれなかったから、人一倍友人関係に拘泥するらしい。ここまでしか調べられなかったけど、これで一つの仮説が立った」

璃奈「歩夢さんに憑りついた歩無魂は……侑さんと離れたくないんじゃないかな」

侑「……え、ここで私?」

 侑ちゃんは突然名前を呼ばれてきょとんとしていた。私としても寝耳に水な話だった。

璃奈「友人関係に執着する歩無魂にとって、侑さんと歩夢さんの幼馴染という関係は非常に強い絆だと思う。だから手放したくないし、離れたくない。まあ……論より証拠かな?ちょっと我慢してね歩夢さん」

歩夢「え、うん……」

 璃奈ちゃんはソファから立ち上がり、どこから持ってきたのか、とあるロープを取り出した。それを私の上半身にぐるぐると巻いていき、足首にも巻きつけられた。私は身じろぎ一つできない格好となった。

璃奈「よし、少し痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してね」

歩夢「うん……」

 気分はどこかへ移送される囚人のようだった。
 
31: (もも) 2023/02/08(水) 22:03:07.62 ID:Msb+Qqv2
璃奈「じゃあかすみちゃん。いつもみたいに侑さんに抱き着いて甘えて」

かすみ「……え。ここでかすみん?」

璃奈「うん。いいからほら」

かすみ「えぇ……雑だなぁ、りな子……。まぁいいけど」

 かすみちゃんはブツブツと呟きつつも、侑ちゃんの方へと歩いていく。

侑「えっと……カモン?」

かすみ「あ、はい……。なんだか、甘える気が無い時に甘えるってなんだか……」

璃奈「こっちを見ない。ほら早く」

かすみ「うん……」

 かすみちゃんは額に二本指を当てて表情を変え始める。なんだろうあれ。気持ちの切り替えでもしてるんだろうか。

かすみ「あ~んっ♡侑先輩好き好き~♡」

侑「わおっ。すごい変わり身の早さ。よしよし……」

かすみ「衣装がバラバラになって、本当に辛いです~。慰めてくださいよぉ。うるうる」

侑「うんうん。かすみちゃん、衣装に込められた以上の思い出を──

 かすみちゃんが侑ちゃんに抱き着いた瞬間、カッと私の頭が熱くなる──
 
32: (もも) 2023/02/08(水) 22:04:09.65 ID:Msb+Qqv2
──

歩夢「──侑ちゃんから離れてッ!!」

 怒号が空気を切り裂いた。目の前のかすみちゃんが肩をビクつかせた。

 声の張本人である歩夢は、見たことも無い表情を浮かべていた。青筋を浮かべ、眉は吊り上がり、射〇さんばかりにかすみちゃんを睨みつけている。いや、この表情は確かせつ菜ちゃんの時にも見た覚えがある。

 つまり、ロープで固定していなければ今頃……。

かすみ「な、なんですかぁ!?突然」

歩夢「侑ちゃんも早く離れてよ!なんで離れないの!?侑ちゃんは私以外と触れ合わないで!早く……ぐっ、この縄解いてよ!!」

 余りの変容ぶりにみんなが何も言えずにいた。しかしその中でただ一人、こうなることを分かっていた璃奈ちゃんだけは冷静だった。

璃奈「侑さん、歩夢さんを抱きしめてあげて」

侑「……うん」

 璃奈ちゃんの言葉に、私は何となくこの事件のロジックが分かったような気がする。

 縛られている歩夢の元へと移動する。

歩夢「侑ちゃんっ」

 かすみちゃんへは〇意さえ籠った視線を向けていたというのに、私に対しては慈愛の籠った笑顔だった。この変貌ぶりには寒気さえ感じたが、私はゆっくりと歩夢を抱きしめ始める。

侑「歩夢……大丈夫。私はここだよ」

歩夢「侑ちゃん……。うん。ここにいるって分かるよ。ずっと、ずっと一緒だよ侑ちゃん……」

 歩夢の口から告げられる声音、言葉。その全てが歩夢から発せられているというのに、私の心は歩夢ではない、と叫んでいた。これが……歩無魂。

歩夢「好き、大好きだよ侑ちゃん……んっ」

 私が思案していると不意に、唇へと温かな感触があった。

侑「え、今何を……」

歩夢「ふふっ……」

 最後に満悦の表情を浮かべた後、歩夢は数秒間目を閉じた。

歩夢「あ、え……?侑ちゃん、何でここに……?」

侑「……おかえり。歩夢」

 歩夢は、歩夢へと戻った。
 
33: (もも) 2023/02/08(水) 22:05:11.65 ID:Msb+Qqv2
──

愛「──歩夢、ごめん!愛さん、歩夢を信じ切れなかった……本当にごめん!」

しずく「私こそ、すみません歩夢さん……。あの時は私もどうかしていました。本当に申し訳ありません……」

歩夢「え、え……?突然どうしたの?」

 気づいたら侑ちゃんが目の前にいて、しずくちゃんと愛ちゃんが私に謝罪していた。

 私は困惑を隠せずに狼狽するばかりだった。一体何が……?

侑「歩夢……今のこと覚えてる?」

 侑ちゃんがやや頬を赤らめつつ言う。どうして赤くなってるんだろう?

歩夢「今って……ロープにぐるぐる巻きにされたところしか覚えてない……って、今何か起こったの?」

侑「あぁ~。まあ、うん……。歩夢らしからぬ暴言を吐いて、ね……」

 侑ちゃんは困った顔をしていた。嘘は言っていないけど、大事なことを隠しているような、そんな表情。

璃奈「歩夢さん。つまりこれ」

 璃奈ちゃんからスマホを渡される。そこに映っていたのは縛られている私がいた。映像が始まってすぐ、私は出したこともないような声音でかすみちゃんを威嚇していた。

 そして侑ちゃんが私を宥めるために近づいて……私が侑ちゃんの唇を奪っていた。

歩夢「え、えぇ……?」

侑「あ、あはは……。の、ノーカンだよ歩夢!大丈夫!歩夢の唇はどこに出しても恥ずかしくない柔らかさだったよ!」

歩夢「そ、そうかなぁ……。って、何言ってるんだろう私たち……」

 部室には妙な空気が流れた。普通に考えて、何者かに乗っ取られたことはこれで証明できた。けれど、証明の結果が思わぬ副産物を産んでしまった。

 私の中に何か……歩無魂への怖さより、羞恥の方が勝ってしまっている。どうしよう……。

璃奈「──とりあえず、これが歩無魂で無くとも、何かしらの心霊的な存在が歩夢さんに憑りついていることは分かった」
 
35: (もも) 2023/02/08(水) 22:06:12.85 ID:Msb+Qqv2
侑「そ、そうだね。原因が分かったのなら、後は対策するだけだね」

 侑ちゃんと璃奈ちゃんの尽力により、何とか場の空気を戻すことに成功していた。しかし、対策と言ってもどうすればいいのだろう。幽霊が関わる問題への対抗策なんて……。

歩夢「除霊をする、ってこと……?」

果林「除霊……ね。何とも非科学的な話になってきたけれど、それが一番現実的な選択肢ね」

彼方「璃奈ちゃん。除霊の方法とかは分かるのかな?」

璃奈「申し訳ないけど、除霊の方法までは分からなかった。そもそも歩無魂に関する情報がネットには余り転がってない」

 方法は分からない、か……。

 私も歩無魂という言葉は初めて聞いたし仕方が無いのかも……。あ、そう言えば、あのノートのことを忘れていた。

歩夢「みんな、言い忘れてたことがあるんだけど……このノートを見て欲しいの」

 私は鞄からあのノートを取り出し、該当のページを開く。みんなの視線が一手に集まった。

『哀れな稚児』『一人孤独に溺れて死にゆく存在』『未練に執心し常世を拒む』『自らの欲望を他人の器に期待する寄生虫』

エマ「えぇと……哀れな……これ何て読むのかな?」

愛「ちご、だね。小さな子供の意味だよ。それも、生まれたばかりの子供から幼稚園年長さんくらいまでの子供。……古文でよく頻出する単語だから覚えてたんだよ?」

しずく「言い回しは少しまだるっこしいですが、先ほど言った璃奈さんの特徴に合致していると思います」

かすみ「え、そうなの。分かりやすく説明して欲しいんだけど……」

璃奈「……なるほど。バラバラの文章の羅列に見えるけど、時系列順に並んでいる」

歩夢「時系列順?どういうこと?」
 
36: (もも) 2023/02/08(水) 22:07:15.28 ID:Msb+Qqv2
璃奈「哀れな稚児が、一人孤独に死ぬ。だけど、人と繋がれなかった未練によってあの世に行くのを拒んだ。その結果、歩無魂としてこの世に残り続けた。そして、歩無魂として他人に寄生して、人と繋がりたいって欲望を叶えようとしてるって……ことだと思う」

歩夢「なるほど……」

 腑に落ちた。一見するとカットアップのような文章に見えるけど、実は歩無魂について書かれていたんだ。

果林「これでより、歩夢に憑りついた存在は歩無魂であるという可能性が高まったわね。でも、どうしてわざわざ身分を明かすような真似をしたのかしらね。そこが謎だわ」

璃奈「うん。怪異が自己紹介するなんて自〇行為だよ」

侑「自〇行為……。確かに。歩無魂だって分かれば、ネットに対処法とか載ってるかもしれないしね。自ら身分を明かすのは自〇行為だね」

璃奈「それに……」

 そう言って、璃奈ちゃんは顎に手を当てて眉を顰める。

璃奈「この文章は、どこか引っかかる。どうしてだろう。何か重要な見落としをしている気がする」

 見落とし……。私はこれが時系列順に並んでいるとも分からなかったから何も引っかからなかったけど、聡明な璃奈ちゃんが言うのだからそうなのかもしれない。

かすみ「ねぇりな子。単純にさ、面白がってるだけじゃないの?このぽんだま?って幽霊はさ」

璃奈「面白がってる……?どういうこと?あと、ポムダマね」

かすみ「あぁうん。さっき侑先輩にキッ……をしてたところを見ると、考えられる頭を持ってるっていうか……理性があるわけでしょ?」

璃奈「うん」

かすみ「だとしたら、わざわざ自己紹介して歩無魂だって分かるようにして……。自分は絶対除霊されないぞ!って自信があるからこそ、面白がって自己紹介したんじゃないの?」

璃奈「……その線も、無くは無い」

愛「怪異が愉快犯気取りってわけ?なにそれ、ムカつく……」

彼方「ん~、でもさぁ、仮にそうだとして、その自信ってどこから沸いてくるんだろうね」

 自信……。かすみちゃんの話がもしそうだとして、それならその自信はどこから……。

 私が怪異なら……歩無魂なら……そんな面白がる行動ができる自信は……。

歩夢「もしかして……私にはもう時間がないのかな……」

 口に出して、ハッとした。時間が無い?私の人格はもうすぐ歩無魂に完全に乗っ取られちゃうってこと?

 血の気が凍った。私の人格が完全に上書きされる。つまるところそれは……私の死を意味する。
 
37: (もも) 2023/02/08(水) 22:08:17.00 ID:Msb+Qqv2
侑「歩夢……っ。大丈夫。大丈夫だよ。私たちが絶対何とかするから!大丈夫!」

 侑ちゃんに抱きしめられる。壊れてしまいそうなくらい強く。

歩夢「……こ、怖いよぉ。こわいよ侑ちゃん……。私、まだ死にたくない……」

侑「大丈夫。大丈夫だよ歩夢」

 侑ちゃんの言葉は一切の根拠が無かった。けれど、少しだけ安心できた。まだまだ恐怖は背中を這いずり回っているけれど、まだ私は大丈夫だって思えた。

愛「歩夢。私も精一杯のことはするつもり。絶対歩無魂なんかに歩夢の体は渡さないよ!」

エマ「うんうんっ!歩夢ちゃんが欠けちゃったらとっても悲しいし、同好会が同好会じゃ無くなっちゃうもん!」

歩夢「エマさん、愛ちゃん……」

 私はそれから、みんなからたくさんのエールを貰った。胸の中が温かく、頼もしい気持ちへと変化していくのが分かった。それはやがて、勇気と呼ばれるものに変化する。

せつ菜「とりあえず、件の話を聞く限り、歩夢さんは侑さんの近くにいれば無問題なんですよね?」

璃奈「うん。歩無魂は侑さんへ執着してる。他の人に取られるかもしれないって気持ちがトリガーだとすれば、侑さんの近くにいるのが一番安全」

せつ菜「そうですか……。それなら、歩夢さんと侑さんは今日一日中、ずっとくっついているのが正解ですね」

璃奈「うん。歩無魂の対処法に関しては私たちに任せて。璃奈ちゃんボード『むんっ』」

歩夢「……うんっ。ありがとうみんなっ!」

 まだ解決策は一切分からないけど、同好会のみんななら絶対にどうにかしてくれるって思った。歩無魂が私を乗っ取る絶対的な自信があるのなら、同好会のみんながきっと何とかしてくれるって自信がある。

 だから、まだ私は上原歩夢のままでいられる。大丈夫。大丈夫だ。

 私はその後、侑ちゃんと一緒に家へと帰った。侑ちゃん以外といると、何がトリガーとなってもう一度乗っ取られるか分からないからだ。
 
39: (もも) 2023/02/08(水) 22:09:17.94 ID:Msb+Qqv2
──

 家に帰って荷物をまとめた後、侑ちゃんの部屋へと向かった。歩無魂に主導権を握られないため、侑ちゃんと一緒にいない時間を限りなくゼロにするためだ。

 だから自然と、今日は侑ちゃんとお泊りすることになった。こんな状況で何だけど、ここ最近侑ちゃんは忙しかったから一緒にいられる時間があまり取れなかった。だから、素直に嬉しかった。

 今は侑ちゃんの部屋に布団を敷いて二人並んで寝ている。すでに夕食とお風呂は済ませた。侑ちゃんのソファベッドで寝るという選択肢もあったが、二人で寝るには窮屈過ぎた。

侑「なんだか……久々な気がする。ここ最近は音楽科への転科試験で忙しかったし……」

歩夢「そうだね。でも、ちょっぴり役得かも、なんて」

侑「あはは。いいね歩夢。気持ちに余裕がちょっとでてきたんじゃない?」

歩夢「……うん。侑ちゃんが近くにいてくれるからだよ」

侑「そっか……。じゃあもっと近づいた方がいいね」

 もぞもぞと動き、侑ちゃんの顔が目と鼻の先にまで近づいた。少し近づけばキスさえできる距離だ。

侑「はぁ、歩夢の体温ってほんと癒しだね」

 侑ちゃんが私の胸へと埋めるように動く。

歩夢「ちょっと侑ちゃん……さすがに恥ずかしいよぉ」

侑「いいじゃん別に。璃奈ちゃんも言ってたし、こうやってくっついているのが一番安全なんだよ」

歩夢「だからって遠慮が……」

侑「へへ、そう言いながら私の頭撫でてるじゃん。体は正直ですなぁ~」

歩夢「も~……」

 ちょっぴり羞恥を感じつつ、形のいい侑ちゃんの頭を撫でる。髪を下ろした侑ちゃんの髪の毛はサラサラとしていて、撫でているだけで気持ちがいい。久しく撫でていなかったから余計に味わうように撫でてしまう。

 ……そう言えば、最近まで忘れてたな。侑ちゃんの髪の毛って……手櫛で梳いても一切引っかからないってこととか、頭を撫でている間は猫みたいに目を細めるとか。そういう……侑ちゃんと私だけしか知らない、二人だけの思い出。

 私と侑ちゃんは同じ同好会にいるけれど、目指す夢の道は交わっていない。やりたいことが違うってことは、こういう二人だけの思い出が徐々に薄れていくってことかもしれない。
 
40: (もも) 2023/02/08(水) 22:10:19.99 ID:Msb+Qqv2
歩夢「侑ちゃん……私、ね……やっぱり寂しいよ。目指す夢が違うって」

 だから。二人の時間はこれからどんどん取れなくなっちゃうから。今しか聞けない弱音を吐いた。

歩夢「こうやって……侑ちゃんの髪の毛を撫でるだけでも心が満たされるとか、侑ちゃんだけの体温を忘れちゃうとか……。そうやっていつも傍にあったものが薄れていくって……やっぱり怖いよ」

 侑ちゃんの表情は見えない。私が抱えるようにして撫でているからだ。

侑「──歩夢。いいんだよ、それで」

歩夢「え……?いいって……侑ちゃんは私との時間が減っても寂しくないの?」

 だとすれば、私は泣いてしまうかもしれない。侑ちゃんにとって私とは、その程度の存在だったのだろうか。

侑「そういうことじゃないよ。私と歩夢は、初めて夢と呼べるものを見つけて、それに向かって走っていって、色んな大切な物に出会ったよね」

歩夢「うん……」

侑「私の人生の中で見つけた大切な物は、スクールアイドル。音楽。そして歩夢だよ」

歩夢「……」

 その三つに数えられると恥ずかしかったけど、それ以上に嬉しい思いが勝った。

侑「大切な物が増えれば増えるほど、一つに注げる時間はどうしても少なくなっちゃう。でもその分、私はより歩夢を想えるって……そう思うんだ。あはは、思う想うって、なんだかちょっと変かな?」

 大切な物が増えれば増えるほど、一つ一つの大切な物がより大切に思える。

 私にとってスクールアイドルが大切な存在になった時、侑ちゃんとの時間はより大切だって思えるようになった。

 確かに、寂しいと思う気持ちは感じるかもしれない。でもだからこそ、侑ちゃんを想う私の気持ちが本物だって感じられる。

 大切な物が増えれば増えるほど、一つ一つがより大事に思える。それってすごく……。

歩夢「そっか……大切な物が増えるって……素敵なことだね」

侑「そうだよ、歩夢。だから、心配しなくてもいいよ。私はずっと、歩夢の傍にいる。歩夢もね、私の傍にずっといるんだよ」

歩夢「侑ちゃん……。うん。私と侑ちゃんの夢は交わらなくても、侑ちゃんはずっと私の中に──」

 と、言葉が出かかった途端だった。

 侑ちゃんへの寂しさへ、決着が着こうとした瞬間だった。

 何かが全身を這いずり回って、頭をむしゃむしゃと食べられるような感覚が体を襲った。

 そうだ。これは。

 意識が私ではない誰かへと切り替わる、忘れていたあの感覚だった──
 
41: (もも) 2023/02/08(水) 22:11:22.92 ID:Msb+Qqv2
──

侑「……歩夢?どうしたの?急に黙っちゃって」

 歩夢と寝る前に会話していたら、突然歩夢が黙りこくってしまった。どうしたんだろう。

 私は顔を上げて歩夢の表情を確認する。

侑「あゆ、む……?」

 私が見た歩夢の目は、不自然に妖艶な色を宿していた。いつもの歩夢なら見せない色だ。その色は一言で言ってしまえば……色欲の色だった。

侑「んぁっ……」

 瞬間、私は歩夢に両肩を抑えられた。自動的に、歩夢が私の上に乗り、私が下の状態が作り上げられた。

 身動きを取ろうにも、完全に押さえられていて動けなかった。

歩夢「ねえ侑ちゃん……。夢なんてさ、忘れちゃいなよ。世界に必要なのは、音楽でもスクールアイドルでも無い。私と侑ちゃん、ただ二人だけでしょ……?」

侑「歩夢……?何言って……」

 一瞬にして雰囲気が変化した歩夢に困惑した。だが、歩夢の纏う雰囲気には覚えがあった。あれは、せつ菜ちゃんに拳を上げた日の歩夢と同じ雰囲気。

 帰り道、今の歩夢からは絶対に出ない言葉を吐いた時と同じだ……!

侑「あゆ……いや、君は……歩無魂、だね?」

 歩夢は完全に人格が切り替わっていた。
 
42: (もも) 2023/02/08(水) 22:12:24.62 ID:Msb+Qqv2
歩夢「……ふふっ。そう思う?侑ちゃん?」

 でもなぜ……歩夢の人格から歩無魂へと変化したんだ?私と歩夢はずっと一緒にいたはずだ。他の人間など入り込む余地なんて無かったはずだ。

 会話にだって、私と歩夢以外出てこなかったはず。

歩夢「全く、侑ちゃんが悪いんだよ?夢、スクールアイドル、音楽なんて雑音に魅かれちゃうんだから……」

 そう言って歩夢は凄い力で私を押さえつけながら、耳元まで口を寄せた。

歩夢「私だけを……歩夢だけを見て、侑ちゃん」

 囁く妖艶な声が耳朶を打つ。誘惑するような、魔力でも帯びていそうな声音で思わず引きずり込まれそうになる。だが気力を強く持ち、冷静さを心掛けた。

侑「で、できない。歩無魂になんて歩夢を渡さない……っ!」

 そう言い放つと、歩夢は私を見下ろす位置にまで戻った。その表情は、ひどくつまらなそうだった。

歩夢「歩無魂、歩無魂ってさ……。そんな昔のことはいいじゃん。今は私と侑ちゃんだけの時間なんだよ?他のことを考えないでよ」

 昔……?歩無魂が昔ってどういうこと?

歩夢「侑ちゃん。そんなにあっちの私がいいの?どうして分かってくれないの?私はこんなにも侑ちゃんが大好きなのに……」

 歩夢は悲しそうな表情をしていた。捨てられた子犬のような表情だった。人を乗っ取ってしまう怪異的な怖さは、そこには無かった。

 せつ菜ちゃんを殴って、大事な衣装を切り裂いた張本人である歩無魂、いや、この娘に、私は憐憫を抱きつつあった。

 頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。歩夢と人格が入れ替わったことへの混乱。昔のことと言い張る歩無魂。私が思い通りにならず悲哀の表情を見せるこの娘。
 
43: (もも) 2023/02/08(水) 22:13:26.87 ID:Msb+Qqv2
歩夢「私、本当に何もいらないんだよ?侑ちゃん以外に何もいらないの。ずっとずっと……もう一度侑ちゃんに……触れたかった」

侑「……っ!?」

 混乱する私の隙を突いて、歩夢にキスをされた。これで奪われるのは二度目だ。もう余計に思考がまとまらなくなってしまう。

侑「や、だ、だめだよ、こんな、こと……」

 だから……私はこんな弱々しい抵抗の台詞しか吐けなかった。だが、私の台詞が効いたのか、歩夢は目に見えて狼狽していた。

歩夢「ご、ごめんね侑ちゃん……私、舞い上がっちゃって……。でも、だって……だって……もうすぐ消えちゃうって考えたら私、私……っ!」

 歩夢は両手で顔を覆った。同時に、私の肩への拘束が外れる。

 歩夢は泣いていた。強気だったり、キスをするほど強引であったり、かと思えば私に嫌われたくないのか、弱気になって泣いていた。ひどく情緒不安定だ。この不安定さは人とは違う怪異だからそうなのだろうか。いや、違う。

 今正に言っていた通り、もうすぐ消えてしまうのかもしれないのだ。

 歩夢が消える可能性があるということは、歩無魂も消えてしまう可能性があるのだ。今同好会のみんなが総出で歩無魂を除霊する方法を考えている。

 少なくない人が集まって、一つの人格を消す為に知恵を出し合っているのだ。恐怖に涙を流し、情緒不安定になっても仕方がないのかもしれない。

侑「歩夢……」

 私が思わずそう呟くと、歩夢が覆う手をどけた。涙で瞼を腫らしながらも、微笑を浮かべていた。

歩夢「うん、うん……っ!私が歩夢だよ!侑ちゃん!」

 ぱあっと歩夢は明るい笑顔を見せた。そして歩夢は、肩を抑えるのではなく私に抱き着いてきた。

歩夢「大好き……大好きだよ侑ちゃん。ずっとずっと……いつまでも一緒にいようね侑ちゃん……」

 熱い抱擁だった。絶対に離さないという強い意志を感じた。

侑「……」

 けれど、徐々にその力は弱まっていく。今なら私の力でも押しのけられそうなほどに弱まっていた。

歩夢「あ……だ、め……。きえ、た、く……い、ょ……」

 その言葉を最後に、歩夢から全身の力が抜けた。マリオネット人形の糸が唐突に切れてしまったかのようだ。
 
44: (もも) 2023/02/08(水) 22:14:27.43 ID:Msb+Qqv2
侑「……歩夢?」

 上に乗っている歩夢の背中をぽんぽんと叩いた。すると、微妙に鈍い反応が返ってきた。

歩夢「……あれ、侑ちゃん……?なんで私……」

 もう一度、歩夢は歩夢に戻っていた。

侑「……大丈夫だよ、歩夢。今日は色々あって疲れたでしょ。ゆっくり眠ろう」

 私は優しく歩夢を上から降ろして毛布を掛けた。寝ぼけまなこのような表情を浮かべる歩夢は私の言葉に従った。まだ人格の切り替えが上手くいっていないのだろうか。切り替わり方がやや鈍くなっている気がする。

歩夢「……うん。ありがとう侑ちゃん……。おやすみ……」

 歩夢は微笑を浮かべ、そのまま瞼を閉じた。先ほどまで泣いていたから少しだけ腫れていた。

 それから少しして、安らかな寝息が聞こえた。先ほどまでの状況が嘘のように静かになった。

侑「……歩夢と、歩無魂」

 歩夢が完全に寝静まったのを見てから、私はその二つの言葉を口に出した。
 
45: (もも) 2023/02/08(水) 22:15:28.99 ID:Msb+Qqv2
侑「どちらかを私は選んで、消す決断をしなきゃいけないんだ……」

 そう、片方を選ぶということは、片方を切り捨てるということだ。

 私にできるんだろうか。瞼に涙を浮かべて、私のことを痛いくらいに想ってくれる歩無魂を切り捨てることなんて。

 歩無魂は小さな子供の魂だと言う。それも、誰とも仲良くなれずに死んでいった悲しき末路を迎えた魂。

 そんな子が、消えたくないと、離れたくないと、私に縋りついて泣いているのだ。

 私はそんな子供を切り捨てることなんて、本当にできるのだろうか……。

侑「……」

 歩夢の髪を撫でる。手先に伝わる細やかな感覚が気持ちいい。歩夢は少しだけ声を漏らして寝返りを打った。

 歩夢と歩無魂の人格の移り方が鈍くなったのは、恐らくもうそんなに時間が無いからだろう。元々は歩夢の方が主人格だったのが、どんどん歩無魂の方の人格の方が強まっている。だから人格の切り替えが上手くいかなくなってきている。たぶん、こういうことだと思う。

 だから、私に悩む時間は無い。そして、相談する相手もいない。

 これは私が決めなければならないことだ。歩無魂が想っているのはただ一人、高咲侑という私だけだ。

 歩無魂も……私以外の人に決めて貰いたくは無いだろう。

侑「……明日、か」

 明日、全てに決着が着くと根拠無く思った。でも、間違ってもいないと思った。

 朝になるまではまだまだ時間がある。答えを出すには長いようで短い。

 でも、私の腹はすでに決まっているような気もした。

 だから後は……覚悟を決めるだけだって、そう思った。
 
46: (もも) 2023/02/08(水) 22:16:30.42 ID:Msb+Qqv2
──

 微睡む意識の中、スマホのバイブレーションで目を覚ます。結局悩みに悩んでしまい一睡もできなかった。画面を見ると璃奈ちゃんからの着信だった。朝日が薄く室内を照らしているため、今は早朝らしい。

 隣で眠る歩夢を起こさないよう、声を控えめにして喋ることにした。

侑「おはよう、璃奈ちゃん」

璃奈「おはよう侑さん。歩夢さんの様子はどう?」

 私の脳裏には消えたくないと泣く歩無魂が過る。

侑「歩夢は……一度歩無魂に変わったよ。昨晩は私以外部屋にいなかったのに……」

璃奈「そっか。侑さんだけでも……」

侑「うん。やっぱり歩無魂に人格が乗っ取られつつある、ってことなのかな……」

璃奈「……ちなみに、人格が変わった直前の会話って思い出せる?」

侑「直前の会話……ちょっと待ってね。えぇと……」

 昨晩は確か……夢の話をした。大切な物が増えると、元々あったものに注げる時間は少なくなるけれど、だからこそより大事に思える……。

 だから安心してそれぞれの夢を追ってもいい。そんな話をした。私はかみ砕いて璃奈ちゃんにそう伝えた。

璃奈「なるほど……」

侑「どうかな。ピンとくる?」

璃奈「恐らくだけど、歩夢さん……いや、歩無魂が嫉妬するのは人間だけじゃない。侑さんと歩夢さんを引き離す物なら、それが夢とか目標とかでもダメ……なのかもしれない」

侑「……っ!なるほど。それは盲点だった」

 私と歩夢の今の関係性を壊しかねない存在。私と歩夢の仲を引き裂きかねない人間だけでなく、音楽とスクールアイドルという夢もトリガーになりかねないんだ。璃奈ちゃんの言っていることは的を射ていると感じた。

 あれ……そう考えてみると、歩無魂の人格が出てきたタイミングが最近ってことは、トリガーはつまり……。
 
48: (もも) 2023/02/08(水) 22:17:35.70 ID:Msb+Qqv2
璃奈「──それで、私たちが調べた結果について話したいんだけど、大丈夫?」

侑「あ、うん……。璃奈ちゃん達もお疲れ。ありがとう」

 意識を歩無魂への対処に戻す。

 今考えるべきは過去ではない、未来だ。

璃奈「私たちは歩無魂自体の情報じゃなくて、歩無魂への対処、除霊の仕方について重点的に調べた。そして新たに、二つの情報が手に入った」

 なるほど。歩無魂自体の歴史とか民族伝承を調べるのではなく、除霊法を調べる方が合理的だ。

璃奈「一つ。歩無魂は対象に憑りついてから一定期間経過すると完全に乗っ取ってしまうらしい」

侑「……なるほど。今の歩夢は正に、そのタイムリミットが間近ってことなんだね」

璃奈「うん。一定期間について詳細な記述は無かったけれど、除霊をするなら手遅れになる前に早くした方がいい」

侑「そうだね。今のままじゃ、乗っとる乗っ取られるの前に、普通の生活も送れないもん。それでもう一つは?」

璃奈「もう一つは、歩無魂自体はそこまで労せずに除霊が可能ってこと」

侑「え……」

 耳を疑った。除霊が労せずに可能?私たちにとっては嬉しい悲鳴だが、余りにも都合が良過ぎるような気がした。

璃奈「霊魂が成仏できなくて現世に留まるケースは色々あるけど、その中にも未練の大小があるんだよ。想い人を無残に〇された人の未練と、一生恋人ができずに死んでしまった人の未練。どっちの方が大きいと思う?」

 突然、未練の大小に関する話になった。疑問を挟むより、素直に解答した方がよさそうだ。

侑「えぇと、やっぱり前者の想い人を無残に、って方じゃない?」

璃奈「まあ、そうだよね。歩無魂の未練は、誰とも親密になれずに孤独に死んでいった子供の霊魂。未練の程度で言えば、そこまで大きくない……というか、大きくなりようがないんだ」

侑「なるほど……。つまり、歩無魂が抱える未練は一般的に言えばそこまで大きくないから、除霊も難しくは無い、ってことかな?」

璃奈「その認識で合ってる」

 ……やや抽象的な話だが、何となく理解した。例えば、想い人を無残に〇された人の恨みは、〇した相手に向くだろう。しかし、歩無魂の恨みはどこへ向くのだろうか。友人関係を築けないまま死亡した無念さはあれど、特定の一人に恨みが向くとは考えづらい。

 強い怨恨を持つ怪異を祓うのは困難だが、怨恨ではなく現世に無念のみを持つ怪異の方が祓いやすい。璃奈ちゃんが言っていることは恐らくこういうことだと思う。
 
49: (もも) 2023/02/08(水) 22:18:35.97 ID:Msb+Qqv2
 希望が見えてきた。見えてきたが、そもそも除霊の方法を知らなければどうしようもないことに気づく。

璃奈「それと、除霊法については任せて」

侑「えっ!そこまで調べがついてるの!?」

璃奈「うん。神社庁から取り寄せた祓詞。太陽光をしっかり吸わせた清めの塩。常香炉の煙を吸わせた清めの塩。等々、仏具店とか近くの神社に行って買ったり譲ってもらった」

侑「おぉ……流石だよ璃奈ちゃん達」

 情報収集から道具の準備まで、全て抜かりない。でも、欲を言えば除霊を専門の人にして貰いたかったけど……。

璃奈「流石に専門家は用意できなかった。近くの神社の神主さんは専門外だったし、除霊師とか霊媒師は逆に信頼できない」

侑「まあ……確かに。でも、ありがとう璃奈ちゃん。後でみんなにも言うけど、一応ありがとうって伝えておいて」

璃奈「分かった。それで……侑さん。決行の時間を決める前に、一つ聞いておきたいことがある」

侑「……何かな」

 璃奈ちゃんからの質問は、何となく予想できた。それは、私が今抱える最大の問題点だ。

璃奈「歩無魂にとって私たちは、侑さんとの仲を邪魔する厄介者でしかない。けど、侑さんにとってはその逆。そんな歩無魂を、侑さんは祓える?」

侑「……」

璃奈「今回の除霊には、侑さんが矢面に立って行うのが一番効果的。歩無魂が一番離れたくないのは侑さんなはずで、だからこそ、侑さんからの拒絶の意志が最も引き離しやすい」

侑「……うん」

璃奈「一方的であったとしても、想ってくれる人に引き金を引くって辛いと思う。でも引かなきゃ、歩夢さんは救えない。侑さんは、歩夢さんだけを本当に選べるの?」

 歩夢か、歩無魂か。

 その二択は、昨晩ずっと考え続けたことだ。

 どちらかを選ぶかなんて造作も無かった。何のためらいも無く、私はその片方を選ぶことができた。

 後は……璃奈ちゃんの言う通り、その引き金を引く覚悟の有無。ただそれだけだ。

 その覚悟に要する時間は、十分にあった。だから、私は璃奈ちゃんに告げられる。

侑「──私は、歩夢だけを選ぶよ」
 
50: (もも) 2023/02/08(水) 22:19:37.50 ID:Msb+Qqv2
──

歩夢「う~ん。これ……いや、こっち……うぅん……」

 歩夢は布を手に取ってはうんうんと唸っていた。手芸に関してさっぱりな私にとっては布の違いが全く分からない。

 除霊の前に、私と歩夢は手芸屋さんに来ていた。璃奈ちゃんが道具を準備して『場』をセッティングするのに時間が掛かる、と言っていたからだ。

 正直な話、私以外の人がいる場所にいるのは得策では無い。けれど昨日のように人と会わなくとも歩無魂に変わる可能性は十分にあり得る。それならば、歩夢の好きなようにさせた方がいいだろう。

侑「ふむ……」

 私は適当に近くにある布をサワサワしてみる。よく分かんないけどいい感じだ。

歩夢「侑ちゃん。今はリネンの布を探すのが先だよ。そっちはコットンリネン」

侑「……?コットンリネン?もリネンじゃないの?」

歩夢「全然違うよ。衣装に使うんだからこの辺はこだわり抜かないと……」

 そう言って歩夢はまた睨めっこを始めた。正直何も分からないから歩夢に任せるのが吉だ。歩夢の隣から離れるわけにもいかないので除霊が上手くいくよう、心の中で祈っておくくらいしかやることがない。

歩夢「……まずは、璃奈ちゃんのから、かな」

 心の中で手を合わせていると、歩夢がそう呟いた。

 そもそもこの手芸屋さんに来た意味は、みんなの衣装を歩夢が作り直そうと考えているからだ。歩夢ではなく歩無魂がやったこととはいえ、鋏で切断したのは間違いなく歩夢の体だ。

 いくら私が歩夢のせいじゃない、とは言ってもそれは本人の問題だ。気の済むまでやるのが一番だと思う。
 
51: (もも) 2023/02/08(水) 22:20:38.83 ID:Msb+Qqv2
侑「歩夢」

歩夢「……なに?侑ちゃん」

 布の選び方も分からない私にとって、できることは一つしかない。

侑「明日から、衣装作り頑張ろうね」

歩夢「……うんっ」

 歩夢が力強く頷き、そして笑った。

 明日。そう、明日だ。

 今日を乗り越えて、歩夢と一緒に衣装作りを手伝うんだ。

 そんな明日という未来を掴むために、今日は絶対に成功させる。

 そう決意した時、ポケットのスマホが震えた。

侑「……歩夢。時間だよ」

歩夢「……っ。うん。それじゃあ、これ買ってくるね」

 歩夢は一つの布を抱えてレジへと向かった。

 私は一度ため息を吐き、これから間違いなく来るであろう修羅場に備えた。
 
52: (もも) 2023/02/08(水) 22:21:40.41 ID:Msb+Qqv2
──

 『場』。それは私の部屋に作られた。私と歩夢がいない内に璃奈ちゃん達がセッティングしてくれた。

 四方には清めた塩が置かれ、ドアの前にはお札が貼ってある。塩もお札も怪異を閉じ込める役割を持っている。歩無魂が歩夢から剥がれたとしても、近くにいる人に憑りついては意味が無い。

 歩無魂が檻の中にいる間に、誰にも乗り移らせず、完全に除霊をする。それが今回の達成すべき目標だ。

 私の家には璃奈ちゃんと歩夢と私がいる。本当なら璃奈ちゃんもいない方が歩無魂を刺激しなくていいのだが、璃奈ちゃんには一つの役割がある。

 それは、大祓詞を言う役割だ。大祓詞とは、神様へと奏上する祝詞のこと。体に付いた穢れや罪などを祓う効果があるとされる。

 日本には古来より言霊が信じられており、大祓詞とは、昔から伝えられてきた強い言霊が集まったものだ。通常なら神社、若しくは神棚に対して行うものだが、除霊の効果もあるとされる。

 私と歩無魂が対峙する時、璃奈ちゃんにはずっとこれを読んでもらう。そうして檻の中から出られない歩無魂へ対処する。

 これが本当に除霊の方法として合っているのか、正直言えばさっぱりだ。だが、私が信じる同好会のみんなが結集して編み出した対処法だ。私は同好会のみんなを信じる。

 璃奈ちゃんが持参した薬品で歩夢を眠らせ、『場』へと歩夢を運んだ。すると、寝ているはずの歩夢の息が荒くなっていった。檻とはいえ、鉄格子代わりの塩は神聖なものだ。中にいる歩無魂が苦しんでいるのかもしれない。

 歩夢には悪いけど、それなりに強い拘束をさせて貰った。歩無魂が暴れて強引に塩やお札を散らかしたら意味が無いからだ。

 璃奈ちゃんから貰ったお札が手汗で滲むのを感じつつ、一回だけ深く呼吸をした。このお札が、歩無魂が私へと乗り移るのを防いでくれるらしい。
 
53: (もも) 2023/02/08(水) 22:22:41.84 ID:Msb+Qqv2
侑「璃奈ちゃん。それじゃあ、始めよう」

璃奈「……うん。絶対、歩夢さんを取り戻そう」

侑「勿論!」

 璃奈ちゃんは部屋から出てドアを閉めた。

 私の部屋はしわぶき一つしない静かな空間となった。鳥の声も、車が走る音も、人の声も何も、聞こえない。世界から隔絶されたような、そんな気分になる。

 だが、ドア越しに言葉が聞こえた。

璃奈「高天原に神留り坐す 皇親神漏岐──」

 聞き慣れない単語に、聞き慣れない発声法。やや間延びしたように聞こえる祝詞は、ドア越しだと言うのによく聞こえる。

歩夢「……っ」

 歩夢が苦悶の声を漏らした。璃奈ちゃんの見立ては正しかったらしく、中にいる歩無魂に効いているらしい。

侑「……よしっ」

 璃奈ちゃんの祝詞を聞きつつ、両手で頬を叩いた。何となく気合が入った気がする。

 私がこれからやるのは、歩無魂に対して拒絶の意志を示すことだ。人間関係を第一に考える歩無魂にとって、最愛の人から拒絶されるのは何よりも効く……らしい。

 でも、そう単純ではない。『嫌い』『消えろ』『絶交だ』なんて言っても、恐らく効果は薄い。そこには説得力が不足しているからだ。

 私がどれだけ歩夢を想い、歩無魂が邪魔なのかを伝えれば、それが際立って拒絶の意志として現れる。

 こめかみに薄く汗が流れ落ちるのを感じつつ、私は口を開いた。
 
54: (もも) 2023/02/08(水) 22:23:43.20 ID:Msb+Qqv2
侑「歩夢。歩夢と初めて会ったのは幼稚園の頃だったね。当時の記憶なんてほとんど不鮮明だけど、歩夢との思い出だけはなぜか覚えてる」

 歩夢の傍らに座りながら、私は髪を撫でる。少しだけ汗ばんでいるけれど、梳き慣れた感覚が伝わった。

侑「何となく……歩夢とはずっと一緒にいるんだって思ってた。実際、初めて会った時から今に至るまで、私と歩夢は一緒だったわけだしね」

侑「──でも、私たちはやりたいことが違った」

 そこで、歩夢の体に一際大きな反応があった。震える指先がもがくようにして動いていた。けれど、拘束されているため満足には動かせない。

侑「私は音楽の道。歩夢はスクールアイドルの道。私たちの道はここで離れた」

歩夢「……んぅっ」

侑「昨日……歩夢は言ったよね。私と離れることが寂しいって。私はスクールアイドルや音楽って言う大切な物に出会ったおかげで、より歩夢が大切に思えるようになったって言ったけど……」

 一拍、大きく呼吸をする。正直ここからは私の恥ずかしい話だ。当の本人である歩夢に聞かれるのは恥ずかしい。でもだからこそ、歩夢を想う気持ちがどれくらいか伝わる。

侑「たぶん私の方が、歩夢と離れたくないよ。ずっと隣にいて欲しいし、私の傍に一生いて欲しい。歩夢と一緒にこれからもずっと……年を取りたい」

侑「離れてても想いは同じ。でも……想い合ってるならさ、隣にいて欲しいって思うのは当たり前だよね」

侑「音楽を始めてから今はさ、すごく楽しいんだ。日に日に世界が広がって、私がどんどん拡張されていく感覚があるんだ」

侑「でもそこに、歩夢はいない。音楽を続ければ続けるほど、歩夢はより遠くになっていく。でも私は、音楽をやめられないし、歩夢もスクールアイドルはやめられないんだよね」

 自嘲気に笑う。

侑「我慢できないんだ。いくら寂しくても、離れたくなくても、私のときめきが叫んでるんだもん。進み続けろって」

侑「それに……私はスクールアイドルとして、みんなを笑顔にさせる歩夢が大好きなんだ。離れたくないけど、私は離れていく歩夢が大好きなんだっ!」

侑「これからもずっと、歩夢には夢を追い続けて欲しい!私と離れて寂しいかもしれないけど、そのときめきには嘘を吐けないから!」

侑「だから、本当に……今までありがとう、歩夢」

 いつの間にか、頬に熱いしずくが伝っていた。暫し、除霊のことを忘れて没頭し過ぎていたらしい。
 
55: (もも) 2023/02/08(水) 22:24:45.32 ID:Msb+Qqv2
 雑に涙を拭った後、私はもう一度歩夢へと向き直る。歩夢の身じろぎは徐々に激しさを増していき、強い苦悶の表情を浮かべていた。

 私はさらに、歩無魂へ畳みかける。もう、今しかない。罪悪感なんて覚える間もなく、歩無魂を拒絶するんだ。

侑「だから……歩夢の夢の邪魔をしないで!歩無魂は私のことを想ってくれているかもしれない。でも、私が大好きな歩夢は……っ、元々の人格の歩夢なんだよ!!後から乗っ取った歩無魂じゃない!!」

 ハッキリと、拒絶の意志を告げる。すると、歩夢の目が突然開眼した。

歩夢「あっ……ぐ、ぐぅ……っ」

 目を見開き汗を大量に搔きながら、歩夢は確かに苦しんでいた。

歩夢「あ〝ぁああっ、ああァぁあああアッ……!!」

 ここが勝負の際だと感じた。私はさらなる追い打ちをかける。

侑「返して!元の歩夢を!歩無魂になんて、絶対に歩夢を乗っ取らせない!早く体から出て言ってよ!!」

歩夢「うっ、ぐぅゥぅううウウ……っ」

 そして最後に、一言。決定的な言葉を告げる。

侑「──大嫌いだよ歩無魂!!早く消えてっ!!」

 半ば絶叫しながら、私はその言葉を吐いた。その言葉に込められたのは、拒絶と激しい怒り。今まで吐いたことも無い言葉。でも……それは本心から来る言葉だった。

 大好きで大切な歩夢を穢す歩無魂という存在。口に出して初めて分かった。私は歩無魂を、嫌っていた。

歩夢「ア……ぁっァぁああ……っ」

 すると、突然歩夢は体を硬直させた。開眼した瞼からはいつの間にか涙が大量に溢れ出ていた。

 その眼は、ゆっくりと照準を定めるように動き、私と視線が交差した。

歩夢「ユ……う、チャ、ん……」

 私は歩夢から、いや、歩無魂からの視線を外さなかった。歩無魂の最期。それを見届ける義務が私にはあると感じた。

歩夢「ダ……いす、キ……よ……」

 そう言うと、くたっと歩夢は全身から力が抜けた。

 それはまるで、魂が抜けたかのようだった。
 
56: (もも) 2023/02/08(水) 22:25:47.82 ID:Msb+Qqv2
侑「歩夢……?」

 私はゆっくりと歩夢の拘束具を外していく。そして何も縛る物が無くなった歩夢の胸に、耳を当てた。

 どくんどくんと、歩夢の鼓動が聞こえた。決して弱々しくない、生命の強さを感じる鼓動の音だった。

侑「……歩夢。よく頑張ったね」

 歩夢の目に掛かる前髪を整えつつ、そう呟いた。すると、歩夢はゆっくりと瞼を開いた。

歩夢「侑……ちゃん?」

 意識が戻った歩夢は、力なく周囲を見渡していた。上体を起こそうとしていたが苦戦していた。疲労困憊なのも無理はない。

侑「私だよ。歩夢。全部、終わったんだ。安心して、眠っていいんだよ」

 そう口にすると、歩夢は安堵の息を吐いた。それから、緩慢な手つきで私の手を握り、瞼を閉じた。

歩夢「ぜんぶ、おわったんだ……。ま、た……むか、し、みた、い……」

 歩夢は全てを言い終わる前に、意識を無くした。

 けれど、歩夢の手からは握力を感じる。歩夢は戻ってきて、そしてちゃんと生きてる。

侑「おわ、った……。はぁ……なんだか、疲れた……」

 長いようで短い、私と歩無魂を巡る一件は終わりを告げた。脱力して、大きくため息を吐いた。

侑「……ふふっ。おかえり、歩夢」

 最後に、歩夢へとそう告げた。
 
57: (もも) 2023/02/08(水) 22:27:30.88 ID:Msb+Qqv2
──

 歩夢さんが安らかに寝ている姿を見た後、私は侑さんの家を出た。外は生憎の雨だったものの、傘を差すと外界と隔絶された感じがして落ち着く。

 それにしても、寄せ集めの知識で準備した除霊だったけれど、上手くいってよかった。歩無魂には悪いけど、私たち同好会の皆が残って欲しいのは歩夢さんの人格だ。

 成仏したであろう歩無魂は、今頃天国にいるのだろうか。私は傘越しに暗雲蠢く空を見た。自然と地面への意識が疎かになり、私は石に躓いた。

璃奈「っとと……あぁ、やっちゃった」

 よろけた拍子にバッグから色々と出てしまった。今回使った除霊用の道具、筆記用具、そして大学ノート。その大学ノートは歩夢さんの物だった。除霊の参考の為に借りていた。

 大学ノートは濡れた地面に落ち、自然と開いた。

『哀れな稚児』『一人孤独に溺れて死にゆく存在』『未練に執心し常世を拒む』『自らの欲望を他人の器に期待する寄生虫』

 歩夢さんではない、歩無魂が書いたページだった。そう言えば、私はこのページを見てどこか引っかかりを感じていた。

璃奈「……まぁ、全部解決した後だし、別に気にしなくてもいいかな」

 しゃがんでノートを取る。ぐしょりと、余り気持ちのよくない感触が手に伝わる。なんだか嫌な気持ちが喉からせり上がる。

 一体私は何に引っかかっていたんだろうか。ただの歩無魂の自己紹介みたいなページに……。

璃奈「……自己紹介?」

 これは歩無魂に関する特徴が時系列順に書かれたノート。まるで自己紹介のような文章。

 あれ……。でも待って。これがもし自己紹介だとしたら……。

璃奈「──どうしてこんな他人事みたいに書かれてるの?」
 
58: (もも) 2023/02/08(水) 22:28:00.77 ID:Msb+Qqv2
 哀れな稚児。自らを表現する時、こんな他人目線みたいな書き方をするだろうか。

 それに、他人の器に期待する寄生虫……。この一文はまるで、歩無魂に憎しみを抱いている人が表現しそうな文章だ。

 もしかして、私はとんでもない思い違いをしているのではないだろうか。私の中で一つの仮説が音を立てて組み立てられていく。

 でも、まだ材料が足りない。この仮説に説得力を付与するには、もっと多くの歩無魂に関する情報が必要だ。

 私は家に帰る足を止め、別方向を目指す。国会図書館。あらゆる本が所蔵されている場所。そこならもしかしたら……。

 ただ、今私が立てた仮説が正しければ……。

璃奈「これが真相なら……事前に知っていようがいまいが、侑さんにとって辛い結果になる……」

 鉄鎖が付いたように重い足を無理やり動かし、私は真相究明に向かった。
 
59: (もも) 2023/02/08(水) 22:29:03.99 ID:Msb+Qqv2
──

 結果から言うと、私の立てた仮説は正しかった。正しくあって……欲しくなかった。

 私は国会図書館に入館し、地域の文化・風俗・民族伝承等について調べられるだけ調べ上げた。歩無魂に関する記載は少なかったけれど、情報を継ぎ接ぎさせて欲しい情報と結果は得られた。望ましい結果であったものの、望んでいた結果では無かった。

 歩無魂とは、子供の霊魂が怪異化した存在だ。人と繋がりたいのに、人と仲良くなりたいのに、孤独に死んでいった哀れな魂。

 他人に憑りつき、人格を奪う。そして生前叶えられなかった人間関係を持つことを目的にしている。

 しかし、それほど強い怪異ではなく、専門家では無い私たちでも除霊できるほどには弱々しく儚い存在。それが、私と同好会の皆が探し当てた歩無魂像だ。

 そして私が新たに取得した情報を、これに継ぎ足す。

 追加情報一つ目。歩無魂に憑りつかれた人が、完全に人格を乗っ取られるタイムリミットはいつなのか。

 約十年。十年前後で歩無魂の人格は完全に定着する。

 追加情報二つ目。歩無魂は除霊以外で成仏が可能。

 それは、人間関係に一つの決着が着くこと。卒業式、死別、婚姻関係の破棄、等々。それまであった人間関係が、別のステージになること。

 つまり、仲の良かった人と別れたり、逆に結婚したり、ある程度の人間関係を経験すると満足して成仏するのだ。

 追加情報三つ目。歩無魂が他人の人格を乗っ取るのは怪異の本能的行動であり、自らが人格を乗っ取ったという意識は無い。

 自分が元々主人格であったと考え振る舞う。ただ、それまでの人格とは全く別の存在になるため、周囲の友人、両親はすぐに気が付く。気が付くものの、大抵は病気という推測を建てる。

 以上、三つ。この三つが、新たな歩無魂に関する情報だ。

 分かってしまったからこそ、何もかもが手遅れだったのだと気づいた。

 侑さんと歩夢さんが虹ヶ咲学園に入学しなければ、若しくはスクールアイドル同好会に入部しなければ、侑さんが悲しむことにはならなかったのかもしれない。ただ、これは結果論だ。誰にもどうすることができなかった。

 一つ言えることは……私たちが歩無魂だと思っていた存在は、自分が歩無魂であるかのように振る舞っていた、ということだけ。

璃奈「侑さん……」

 図書館からの帰り道。私は虚空に向かって呟いた。その呟きは誰にも届けられることなく、孤独に消えた。
 
60: (もも) 2023/02/08(水) 22:30:05.36 ID:Msb+Qqv2
──

 買い物を済ませ、家に帰ってきた。除霊によって歩夢は疲れ切っていたため、私は夕飯の買い出しに行っていた。炊事場に立つ経験なんてほとんどないけど、私にだってお粥くらいは作れる。

 玄関のドアを開けると、歩夢の靴が消えていることに気づいた。

侑「あれ?歩夢~?いるんでしょ?」

 靴を脱いで歩夢に呼び掛けたが返事は無い。私は不可解に思いながらも自分の部屋へと戻る。しかし、そこに歩夢はいなかった。

侑「歩夢……?」

 他の部屋をくまなく探したが、私の家のどこにも歩夢はいなかった。胸の中で焦燥が強くなっていくのを感じた。

 その時、隣の部屋から物音が聞こえた。何かが衝突したような、割れるような、そんな音だった。物音の出所は隣の部屋、つまり歩夢の部屋だ。

 歩夢は自分の部屋へと帰っているらしい。私は買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞った後、歩夢の部屋へと向かった。

侑「あれ、開いてる……。不用心だなぁ……」

 歩夢の家の鍵は開いていた。私はしっかりと施錠した後、歩夢の部屋を目指す。部屋のドアノブに手を掛けると、もう一度何かが壊れる音がした。

侑「……」

 開けてはいけないような、そんな気がした。けれど開けなければいけない、そんな気もした。

 意を決してドアノブを捻り、中へと入った。

 歩夢の部屋に入った瞬間、私は驚愕した。

侑「な、に、これ……」

 部屋の中には歩夢がいた。夕暮れをバックにしているため、歩夢の表情はよく見えない。けれど、口を三日月に歪めて笑っているような気がした。
 
61: (もも) 2023/02/08(水) 22:31:06.30 ID:Msb+Qqv2
歩夢「あっ!侑ちゃん!」

 歩夢は私の元へと喜色満面の笑みで近づいてきた。ぐしゃぐしゃと、床に散らばった物を無造作に踏みつけながら。

 歩夢の部屋は……まるで空き巣被害にあったかのように荒れていた。蛇のぬいぐるみは無残に切り裂かれ、本棚やクローゼットは倒されているか凹んでいた。

 歩夢の手には一つの金鎚が握られていた。恐らく、いや間違いなく、あれでこの現状を作り出したのだろう。

 私はいつの間にか、体が震えていた。寒い訳では無い。状況の空恐ろしさに身が竦んでいた。解決策は一つだけ。この状況を理解し、納得することだけ。

侑「あ、歩夢……。これは……どういうこと?」

 震える唇で何とか言葉を紡ぐ。すると、歩夢はこの場には似つかわしくない笑みをより深めた。

歩夢「あっ、ごめんね侑ちゃん。突然でビックリしたよね?どうしてこんなことになったのか!全部全部ぜ~~~んぶっ!説明してあげるね!」

 歩夢はころころと笑う。私の胸は嫌にざわついた。

歩夢「──侑ちゃん達が歩無魂だと思ってたのはね、元々の人格の歩夢なんだよっ!」

侑「……え?」

 喜劇の中の演者のように、愉快に歩夢は語り始める。
 
64: (もも) 2023/02/08(水) 22:33:25.97 ID:Msb+Qqv2
歩夢「えっと……始まりは幼稚園の年長組の時だったね。侑ちゃんと幼稚園のお庭で遊んでた時、突然人格を奪われたの。その時は私も幼かったからよく分かんなかったけど、あの時あの場所で、歩無魂に人格を奪われたの。いや~、ビックリしたなぁ。だってお母さんに一度だけ言われたことあるんだよ?悪い子にしてると、ポムダマサマに食べられちゃうよ~ってね。私は等身大の子供みたいに怖がったけど、迷信みたいな話が現実になるなんてさ、信じられないよね!それからずっと……十年弱、私は歩無魂に人格を奪われたまま過ごしたんだよ?うぅん、奪われたのは人格だけじゃないよね。私と侑ちゃんとの甘い甘い、お砂糖みたいな時間。私は間近で見ていたのに、触れることも話すこともできずにずっとずっと泣いてた。助けて!って私はここにいるよ!って、何度も何度も助けを叫んだんだよ?でも侑ちゃんは気付いてくれなかったよね。うぅん、別にいいよ。分かってくれない、気付いてくれない侑ちゃんを恨んだ時もあったけど、それはお門違いだってすぐに分かったからね。悪いのはアイツ。横から入ってきた癖に、侑ちゃんを自分の幼馴染みたいに振る舞った図々しいアイツ。心霊だか怪異だか知らないけどさ、本当に酷い奴だよね。私が感じるはずだった幸福も、私が侑ちゃんに与えるはずの幸福も全部、アイツが奪っていったんだから。それからはずっと、歩無魂への怒りだけを抱えて生きてきたよ。侑ちゃんと仲良くする姿を見た時は何度も〇意に頭がおかしくなりそうになったけど、人格を閉じ込められている中じゃあ発狂することもできなかった」
 
66: (もも) 2023/02/08(水) 22:34:13.31 ID:Msb+Qqv2
歩夢「自傷することも、誰かを傷つけることで発散することもできなかった。ずっとずっと……溜めこんできた。そんなある日ね、気付いたんだ。私、どんどん消えてるじゃんって。日を追うごとに私の人格は薄れていったんだ。このままじゃ、本当に侑ちゃんを奪われちゃうって、怒りよりも恐怖が勝ったなぁ。あの時は本当に困ったよ。人格を維持する方法が何か分からなかったから。でも、方法は簡単だったよ。怒りと憎しみを燃やし続ければ、私は私の輪郭を維持できた。幸い、燃料となる焚き木はたくさんあったからね。歩無魂と侑ちゃんは幼稚園、小学校、中学校を卒業してもずっとずっと一緒だったから。幼稚園からずっと、変わらないまま幼馴染を続けていたから、私は私でいることができたんだ。でもね、それももうすぐ終わっちゃうって分かったんだ。あと一年もしない内に、私は完全に人格が消えちゃうって。たぶん歩無魂によって違うんだろうけど、私に憑りついた歩無魂は十年で完全に人格が定着するタイプだったんだろうね。そのタイムリミットが迫ってるって、虫の知らせが働いたのかな?分かったの。でも私にはどうすることもできなかった。だって、侑ちゃんと歩無魂は変わらないんだもん。幼稚園の時からずっとずっと、何も変わらなかった。私が入り込める隙間なんて無かった。その時は、そう思ってた。でもね、侑ちゃんが同好会に入って、歩無魂がスクールアイドルをやり始めてから、隙間はでき始めたんだ。歩無魂の心に侑ちゃんだけじゃなくて、スクールアイドルが住み始めたの。決定的だったのはあの日、ローダンセの花を歩無魂にプレゼントした時。あの日、歩無魂の中で侑ちゃんは絶対的なものじゃ無くなった」
 
67: (もも) 2023/02/08(水) 22:35:14.56 ID:Msb+Qqv2
歩夢「スクールアイドルが同程度に大切な物として住み始めたの。つまり、以前と同じ関係のままではいられなくなった。私はようやく、十年弱ぶりに外に出られたんだ。まあ嬉しさよりもまず、怒りが先走っちゃったけどね。せつ菜ちゃんだっけ?私の侑ちゃんに勝手に近づいて媚びてるんだもん。ああいうのを女狐って言うんだろうね。侑ちゃんを守るために、拳が痛かったけど殴ったんだよ?手が痛かったけど、久々にスカッとしたなぁ。ストレスの発散っていう意味では、せつ菜ちゃんはいいサンドバックになってくれたね。十年以上の鬱憤が込められた拳。どんな痛みだったんだろう。ふふっ、ちょっとおかしいね?それで……同好会なんてくだらない場所にいたくなかったから無理やり侑ちゃんを連れて帰って……。それで寝たんだよね。自分の体を動かせるって本当に素敵だよね。思い通りに動くってだけでなんだか楽しかったなぁ……。でも次に目覚めた時、私は人格を奪われてた。歩無魂は消えてなかった。たぶんだけど、まだスクールアイドルと侑ちゃんの間で決着が着いていなかったんだろうね。それと、私の人格の時、侑ちゃんと一緒に過ごしたから、歩無魂の力が強まったのかも?ま、そんなことはいいよね。問題は私の人格をどうやって取り戻すのか、ってことだよね。もう一度人格が戻った時、私が本当の歩夢だよ!って侑ちゃんに伝えようと思ったけど、それは難しいと思ったんだ。理由は簡単だよ?歩無魂に侑ちゃんが騙されてるからだよ。本当の幼馴染は私。でも、歩無魂は十年間って言う私よりも長い年月をかけて幼馴染って言う嘘を侑ちゃんに信じ込ませた。だから、私がいくら自分のことを上原歩夢であることを言ったって、侑ちゃんには響かないだろうなぁって思ったんだ。あ、大丈夫だよ?侑ちゃんは悪くないから」
 
68: (もも) 2023/02/08(水) 22:36:01.72 ID:Msb+Qqv2
歩夢「悪いのは全部歩無魂。勝手に人の人格を乗っ取って、幼馴染を奪った塵芥みたいなアイツが悪いんだから。全く、死んでるって言うのに〇したくなっちゃうよね。あはは、これ、笑うとこだよ侑ちゃん?それでね、一つの案が思い浮かんだの。私が歩無魂だって、悪辣で、卑劣な歩無魂のフリをすれば、きっと侑ちゃんは退治してくれるって。これは私にとって博打だった。もうすぐ何もしなくてもタイムリミットが来て、私の人格は完全に抹消されちゃう。だから一縷の望みをかけた、人生最大の大博打だった。それからは色々考えたなぁ。次は何をすれば、私が歩無魂だって分かって貰えて、尚且つ除霊に踏み切るくらい緊急性を持ってくれるかって。私はアイツが夕飯を取り終わった後、人格を取り戻した。たぶん、一回人格に隙が生まれたら、蟻の一穴みたいに完全に塞ぐことなんてできないんだろうね。それでまず、使ってない大学ノートに歩無魂の特徴を書いたんだ。お母さんの言ったことを思い出しつつ、怖い話風にしてね。次は衣装を鋏でビリビリに破いた。行く途中に侑ちゃんと璃奈ちゃんが見えて、思わず持ってる鋏でズタボロにしそうになっちゃった。でも私って我慢強いから、鋏で突撃~~っ!みたいなことはしなかったよ。それで衣装だけど、私にとっては特に思い入れの無い、どうでもいい物だったけど選んで正解だったな。みんな泣いてたし、嬉しかったなぁ。私って悪戯っ子なのかも?」
 
69: (もも) 2023/02/08(水) 22:36:35.61 ID:Msb+Qqv2
歩夢「それでね、私ってばおっちょこちょいでさ、私が破いたって証拠を残してなかったんだよね。でもそこは嬉しい誤算。侑ちゃんが監視カメラを仕掛けてくれたから、私がやったって証明できた。もう一つ、嬉しい誤算があった。璃奈ちゃんって子がノーヒントで歩無魂の仕業だって辿り着いた。聡明なんだろうけど、バカだよね。裏を読もうとしないんだもん。でも、私のために踊ってくれた道化って考えると、拍手の一つでも送りたくなっちゃう。後で感謝の言葉くらいはあげようかな?それで……私はもう一度人格が戻って、かすみちゃんって子に威嚇した。歩無魂の害悪さを示そうと思って演技したけど……かすみちゃんは本当にウザかったから真に迫った演技しちゃった。あはっ。ほんと、あの同好会って神経を逆撫でするような気に障る奴しかいないよね!でも、侑ちゃんとキスができて、嬉しかったなぁ。侑ちゃん見ちゃったら怒りよりも大好きの気持ちの方が溢れちゃったんだもん。仕方がないよね。その後は、侑ちゃんの部屋で人格が戻って、もう一度キスをしたね。でも、私もギリギリだったから、ちょっと取り乱しちゃった。もう後どれくらい猶予が残ってるのか分からなかったんだもん。砂時計で言えば、上の砂が本当に僅かしか残っていない状態だったの。泣いちゃって歩無魂に対して憐憫を感じちゃったみたいだけど……最後には歩無魂の方を消すって選択してくれてよかったぁ」
 
70: (もも) 2023/02/08(水) 22:37:06.93 ID:Msb+Qqv2
歩夢「あははっ、それにさ、最期の歩無魂ってば本当にバカだよね。自分を本当の上原歩夢だって思い込んで、自分は歩無魂だって理解してないんだもん。除霊して消えるのはお前だよ~?ってくすくす笑っちゃった。ここまではいいよね?それで今、どうして私がお部屋をこんなに荒らしちゃってるのか!簡単だよね!私の部屋なのに私以外の物があるんだもん。そんなの壊さないと気が済まないよ。本当ならバラバラに砕いて焼却炉にでも放り込みたいところだけど、それは難しいよね。私が手に入れるはずの思い出を奪ったんだもん。歩無魂の思い出を壊す権利くらい、私だってあるよね?あ、でもね、私と侑ちゃんの映った唯一の写真。懐かしいなぁ、この『ぱ』のTシャツ。これだけは壊さなかったよっ!あぁ~、それにしてもようやくスカッとしたなぁ。十年だよ侑ちゃん。十年。本当に、本当に……長かった。こんな思いを抱えたまま消えちゃうのかな?って思ったけど、侑ちゃんがあの時、優木せつ菜ちゃんのライブを見てくれてよかったぁ。そのおかげで同好会に入部して、それで私が解放されるきっかけになったんだから。璃奈ちゃんだけじゃなくて、せつ菜ちゃんにもお礼言っておこうかな?」
 
72: (もも) 2023/02/08(水) 22:37:56.17 ID:Msb+Qqv2
侑「……」

 私は……何も言葉を口にできなかった。

 歩夢から語られる言葉全て、私に深く突き刺さる。

 何が、悪かったんだろう。歩夢の人格を乗っ取った歩無魂?でも、私が大好きな歩夢は歩無魂の人格だったらしい。人格を乗っ取られた歩夢こそ、私が歩無魂だと思っていた本当の歩夢だったんだ。

 歩夢は被害者だ。でも、歩夢はせつ菜ちゃんを殴り、思い出の衣装を切り裂いた張本人だ。私と歩夢の、大切な思い出を穢した本人。でも、その大切な思い出を奪われたのも、歩夢本人なのだ。

 誰が悪くて、誰が好きで、誰が嫌いなのか、私は結論が出せなかった。

 そんな時、不意にゴミ箱が目に入った。ゴミ箱には、まだ新しい紙袋が無造作に捨てられていた。

 その紙袋には見覚えがある。歩夢が衣装を作り直そうと思って買った布が入っている。明日……つまり今日から始めるはずだった、衣装をもう一度作り直す計画。その材料となるものであり、今はもういない、大好きな歩夢と約束した証明の品。
 
73: (もも) 2023/02/08(水) 22:39:01.54 ID:Msb+Qqv2
歩夢「──ね、だから侑ちゃん」

侑「……っ」

 ハッと、意識が戻る。歩夢は未だ、ニコニコと愉快そうに微笑んでいた。心底楽しそうに、心底嬉しそうに。

 歩夢の口が、次なる言葉を紡ぐために変わり始める。次に歩夢が口にする言葉は、何となく分かった。

 それは、歩夢がせつ菜ちゃんを殴った日、帰り道に言われた言葉と同じだったから。

歩夢「──同好会、一緒にやめよ?」

おわ離
 
74: (もも) 2023/02/08(水) 22:40:07.98 ID:Msb+Qqv2
ラストの歩夢の台詞は1レスで済ませたかったのに長文規制でだめだった……

読んでいただきありがとうございました
 

引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1675859895/

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