【長編SS】人生リセットスイッチ【ラブライブ!虹ヶ咲】

SS


1: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:03:42.51 ID:VpZ0h6Rf
私には今の現実が受け止められなかった。
今の私は何もかも失ってしまった。スクールアイドルも。虹ヶ咲も。そして、歩夢も。
私はこれからどうやって生きていったらいいんだろうか。本当に、誰かに教えてもらいたい。そうでないと、生きる意味を見出せないから。
これが1周目の高咲侑だったら、人生こんなもんだと割り切れたかもしれない。
でも、私は2週目の高咲侑だ。おまけに1周目の記憶も残っている。
12人のスクールアイドルのマネージャーとして同好会をサポートし、イベントを企画し、
音楽科に転科して、自分の大好きを見つけて……
そしてなにより、自分の夢を見つけた。
そんな可能性、いや、現実があったという記憶。
1周目の自分が今の自分を苦しめる。
私は……私はもっとより良い人生にしたいと思っただけなのに。
皮肉にも現実はその真逆となってしまった。
 
3: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:07:22.00 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

スクールアイドルフェスティバルが終わり、同好会の活動もひと段落。

テスト期間とも重なり、練習はテストが終わるまで休止することになった。

でも、やっぱりちょっと寂しい。もちろん勉強はしないといけないんだけど。

そんなわけで私は璃奈ちゃんがいるとある倉庫へと向かった。

「璃奈ちゃんいる~?」

「あ、侑さん。」

ここは東棟の外れにある小さな倉庫。ここで璃奈ちゃんは暇なときに研究をしている。

もちろん許可されている部屋ではなく、使っていない倉庫を璃奈ちゃんが不法占拠しているんだけど……

こんなに大々的に使っているのに全く気が付かないほど校舎が広いから仕方がない。

部屋の中は機械油やはんだの独特なにおいが漂っている。

体には悪いのかもしれないけど、私はこの匂いがたまらなく好きだ。

倉庫の一番奥には机があり、その上には半田ごてやら電子部品やらがたくさん置いてある。

周囲の棚には沢山の発明品が置いてあって、よく遊びに来る私でさえもすべては把握しきれていない。

「勉強は進んで……ないみたいだね。」

どう見ても勉強をしていた痕跡はない。

「授業の内容は授業で理解しているから大丈夫。」

「文系の授業は?」

「……」

「教科書を丸暗記する装置つくるからいい。」

「それって不正なんじゃない!?」

そんなたわいもない会話がテスト期間のストレスを散らす。

いや、璃奈ちゃんならそんな暗記パンみたいな装置を作っちゃうかもしれないけど。

「あれ?このスイッチはなに?」

「あ~、それは人生リセットスイッチ。」

「なんかSFみたいな?」

「過去に戻っていろいろな選択をやり直すことができる。しかも記憶はそのままに。」

「えっそれって最強じゃん!」

「まぁ、といっても……」

「スイッチオン!」
 
6: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:10:37.41 ID:VpZ0h6Rf
辺り一帯が光に包まれる。

「えっ……ちょっと侑さん待って!」

そのまま、私は過去へと飛ばされた。

――――――――――――

気が付くと私は机に座っていた。でも、なんだか机がやけに大きい気がする。

私さっきまで何してたんだっけ?

確か学校で璃奈ちゃんの部屋に行って、新しい発明品を見せてもらって……

そうだ!過去に戻ったんだ! でも、一体いつに……?

ふと机の上に目線をやると、昔使っていたスマホが。

そうそう、中学生になったと同時に買ってもらったんだっけ。

ついつい遊びすぎて、何度も没収されちゃったけどね。今となってはいい思い出かな。

さて、私はいつの時代に戻ったんだろう?スマホスマホっと……。

よく昔の映画とかで「今は何年の何月何日だ~?」って聞きまわるシーンあるけど、現代だったらスマホですぐに調べられるよね。

えっとパスワードは……指紋を使えば、よし開いた!

えっと……2013年4月6日日曜日か……

2013年って言うと?今、というか私が元々いた年が2017年だから……中学1年生の張るってこと?ずいぶん昔に来ちゃったな~。



そういえば学校はいつからだろう?

そう思い、部屋を見渡してみる。高校生の私の部屋とそこまで変わらないけど、大きなベッドがあったり可愛い小物があったり、なんか歩夢の部屋みたい。

あったあった、カレンダー。えっと……げっ!明日が入学式じゃん!

制服は……クローゼットかな?

クローゼットを開けてみると、私の予想通りセーラー服がそこにあった。

「懐かしいなぁ……」

思わず言葉が漏れる。入学式の前日に制服が懐かしいとは、変人も良いところだ。

ピロン!

携帯が鳴った。
 
8: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:14:18.45 ID:VpZ0h6Rf
歩夢ちゃん:侑ちゃん明日の入学式の準備は大丈夫~?

そうそう!この頃は歩夢の事をまだちゃん付けで呼んでいたんだよね!

侑:持ち物何だっけ?

歩夢ちゃん:も~、侑ちゃんはしょうがないな~!

歩夢ちゃん:持ち物リスト送っておくね!

歩夢ちゃん:【プリントの写真】

侑:このプリントなくしちゃったから助かるよ!

歩夢ちゃん:もう中学生なんだから、しっかりしてよね!

侑:うん!本当にありがとね~

歩夢ちゃん:うん!じゃあまた明日!

歩夢ちゃん:寝坊はダメだよ!!

侑:わかってるって!

歩夢ちゃん:それじゃあ、おやすみ!

侑:うん、おやすみ!

この頃から歩夢、いや、歩夢ちゃんに頼りっぱなしだったんだ……ちょっと反省。

それはそうと、明日の準備をしないと……

なるほど……上履きに体育館履きに、入学関係書類!?そんなのどこにあるんだ?

部屋の中を見渡してもそれらしき書類はない。

まったく、中学生の私ったら、もっとちゃんとしてよね!

ほんと、やれやれだよ。

引き出しを開けてみると、何やら重要そうな封筒が……

「これかな?」

封筒を開けてみると、入学式の日に提出書類が入っていた。しかも未記入。

「これはヤバい……」

私が書くものもあるけど、ママに書いてもらわないといけない書類もたくさん……

せっかく面白そうでこっちの世界に来たのに、いきなりこんなのってないよ~!!

「ママー!この書類明日までに書いて~!」

ママがいるリビングへ泣きつきに行く。
 
10: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:17:31.83 ID:VpZ0h6Rf
「えっ?これ明日まで!?」

「なんでもっと早く言わないのよ!!」

「も~!いつも言ってるでしょ!提出物はもっと早く出しなさいと普段からあれほど……」

ママごめんなさい。必要書類をなかなか見せない癖は高校2年生の私も健在です。

「明日までに書いておくから、侑はもう早く寝なよ!」

「明日は入学式なんだから、寝坊しちゃだめだよ!」

「は~い、おやすみ!」

「はい、おやすみ」

駆け足で自分の部屋で戻る。

『静かに歩きなさーい!』

遠くでママの声が聞こえる。

ママがこっちの世界のままより若い!こんな時代もあったんだなぁ。

それに、普段から怒られ慣れているはずなのにちょっと若いママだといつもと違う感じでなんかときめいちゃう!

さて、私もいろいろ書かないといけないんだよね……

えっと、自己紹介カード?今年の目標?なんだか面倒くさいなぁ……

でも、少し懐かしい。さて、早く終わらせて早く寝るぞ~!

――――――――――――

チャンチャンチャカチャカチャンチャンチャカチャカ

あれ?もう朝?それに目覚ましの音ってこんな音だっけ?

部屋の時計を見るとまだ6時半。目覚ましは7時にセットしたはずなのに。

働かない頭で携帯の画面を見ると、『歩夢ちゃん』の文字。慌てて電話に出る。

「もしもし~?」

『あ、侑ちゃん起きた?』

歩夢の声が少し幼い。毎日一緒にいると気が付かないけど、歩夢は歩夢で毎日成長しているんだなぁ。

「ちょっと早すぎない?」

『だって今日は入学式だから……楽しみすぎて早く目が覚めちゃったよ!』

「あはは、相変わらず歩夢らしいよ。」

『ほら、早くベランダに出てきて!』

「わかったわかった」
 
12: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:20:45.00 ID:VpZ0h6Rf
『も~!わかったは1回!』

「は~い」

電話を切り、ベッドから立ち上がる。

高校生の私は当たり前のように毎日歩夢に起こしてもらっていたけど、まさか中学生時代から続いていたとは……

いやぁ、少し反省しないといけないな。歩夢を頼りすぎている

カーテンを開けるとまぶしい朝日が目に飛び込んでくる。なんだか強制的に目を覚まされるような気分。

ベランダに出ると、横にはすでに歩夢がいた。

「侑ちゃんおはよう!」

「おはよう、歩夢……、ちゃん。」

「あははっ。侑ちゃん寝ぼけてる?」

「そりゃぁ、まぁね。」

なんだかこの呼び方慣れないなぁ。

「でももう大丈夫。歩夢ちゃんが起こしてくれたから」

「これから毎日私が起こしてあげるね!」

「え~、悪いよ~」

「でもそうしないと侑ちゃん起きられないでしょ?」

「ま~、そうなんだけどね?」

「もし悪いと思うんだったら、今度は私の事を起こしてね!」

「うーん、がんばります……」

「なにその自信のない返事は」ニコニコ

「これからも歩夢ちゃんには頼りっぱなしになっちゃうかもね。」

「ふふふ。たっくさん私の事頼ってね!」

『歩夢~ごはんよ~』

「あっ、ママに呼ばれちゃった!じゃあまた後でね!」

「うん!」

「7時45分にいつもの階段のところだから!わかった?」

「分かったよ!」

歩夢は朝ご飯を食べに家の中へ戻ってしまった。
 
14: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:24:04.71 ID:VpZ0h6Rf
毎日の何気ないやり取りだけど、やっぱり安心する。

自然な感じでお話しできたかな?歩夢も全然疑っていないようだし、こんな感じで回りに合わせれば私が未来から来たってことは隠せそうな気がする。

そして何より今日は入学式!今の私の学力をもってすれば天才だって夢じゃない!

そうしたら歩夢にだって勉強を教えられるし、今からピアノを習えば1年生から虹ヶ咲の音楽科に入学できるだろうし、

私ってすごい人になっちゃうんじゃない?

もう、そう考えると胸のときめきが止まらなかった。

――――――――――――

その後私も朝ご飯を食べ、昨日ママに渡したプリントを受け取った。小言のおまけつきで。

「これ持った、あれ持った、そしてこれも持ったし、大丈夫かな?」

「さて、制服に着替えよっと!」

久しぶりのセーラー服。確かに虹ヶ咲の制服の方が可愛いけど、私はこっちの服も嫌いじゃない。

変に凝った装飾もなく、シンプルイズベストって感じ。こういうのでいいんだよ、こういうので。

鏡の前で回ってみる。スカートがひざ丈でうっとうしいけど、中学生だからしょうがないよね。

逆に虹ヶ咲のみんなは短すぎるよ……。私もみんなに合わせて短くしているけどさ。

そんな思い出に浸っているうちにもうすぐ出発時間。早く出ないとまた歩夢がむくれちゃう!

「いってきまーす!」

「はい、行ってらっしゃい!ママたちも入学式行くからね!」

「うん!」

春うららかな陽気の月曜日。マンションの前の木々はピンクの花びらを身にまとい、まるで私たちの新生活を祝ってくれているみたいだった。

そして、その木の下に美少女が一人。
「歩夢!ちゃ~ん!」

「あっ、侑ちゃん!」

「うぉぉぉぉぉぉぉ!」

「えっ?侑ちゃんどうしたの?」

「いや~、歩夢ちゃんのセーラー服姿があまりにも可愛すぎて驚いちゃった!」

「も~、うちのパパみたいなこと言わないでよ~!」

「歩夢のお義父さんの気持ちわかるよ~!こりゃあ中学生になって歩夢ちゃんも彼氏の一人や二人出来ちゃうかもね?」

「からかわないでよ~!私にはそういうのまだ早いから///」

「私なんかより、侑ちゃんの方がよっぽど似合ってるよ?」

「えっ私?ないない!そんなことないって!」
 
15: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:27:19.99 ID:VpZ0h6Rf
「まったく、侑ちゃんはもっと自分がかわいい子と理解したほうがいいよ?」

「そういってくれる歩夢ちゃんは優しいね!」

「そういうのじゃないのに~!」

そんな取り留めもない会話を繰り広げながら、私たちは中学校へと歩みを進めた。

「入学式の日にこんな桜がきれいに咲くなんて、なんだか私たちの入学式をお祝いしてくれているみたいだね!」

「それは歩夢ちゃんが普段からいい子にしているからだよ!」

「ちょっと~!からかわないでよ~!」

「ごめんごめん、中学生の歩夢ちゃんがあまりにも可愛くて。」

「侑ちゃんだって中学生でしょ~!何一人で大人ぶってるのさ~!」プクー

「ほら、頭に花びらがついてるよ!」

歩夢の頭に落ちた桜の花びらを取ってあげる。

「あ、ありがとう///」

表情がコロコロ変わる歩夢は中学生から健在!あぁ、可愛いなぁ。



私たちが通う中学校はほとんど小学校のメンバーと変わらない。

他の小学校からくる子もいないし、中学受験組がごっそり抜けるくらい。

だから、新しい学校といってもほとんど知っていることばかりなんだよね。

でも、私にとっては1年半ぶりに会う子がたくさんいて、同窓会ってこんな感じなのかな?みたいな気分を味わえた。

クラスは歩夢と一緒!実は歩夢とは中学校の3年間はずっと同じクラスだった。

入学式では校長や偉い人が長々と話をしていたが、何一つ覚えていない。

きっと、もう少し大人になってから中学生に戻ったら校長の話も有り難く感じるのかな?なんてしょうもないことを考えてみたり。

新入生挨拶は6年生の時の同じクラスだった子が任されていた。

テストはいつも100点。学校で1位2位を争う頭の良さって噂を聞いていたのに、受験しなかったんだ。ちょっと意外かも。

その後、生徒会長のあいさつがあり、入学式は終了。

卒業式はなんだか感慨深いけど、入学式ってあっさりしているよね。

期待半分不安半分とはよく言ったもので、みんなどこかソワソワしていた。

つい数週間前まで小学校の最高学年として学校全体に頼られていた私たちが、今となっては何も知らない新入生になっている。

そのギャップがとても面白かった。

私は昨日まで高校生だったけど……アセアセ
 
17: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:30:14.95 ID:VpZ0h6Rf
「侑ちゃん、ちゃんと起きてた~?」

教室への帰り道の廊下で歩夢に話しかけられた。

「さすがにちゃんと起きてたよ~。入学式で怒られたら目を付けられそうだし!」

「それならいいけど~、なんか侑ちゃん今日寝不足っぽいから……」

「あれ?分かる?」

「わかるよ~幼馴染だもん!」

「あははっ、さすが歩夢ちゃんだね!」

「どうせ今日提出しないといけない紙を書いてなかったんでしょ!」

「なんでそこまで?」

「やっぱりそうだったんだ……」

「あれ?ひっかけ!?そんなのズルいよ~!」

「でも用意してなかったのは本当でしょ?」

「まぁ……うん……」

「もうっ!中学生なんだから侑ちゃんももう少ししっかりしてよねっ!」

「分かってるって!中学では歩夢に教えられるくらいに勉強頑張るから!」

「期待してるね!」

勉強でトップを取って、ピアノを沢山練習して、作曲の勉強もする。

できれば何曲かスクールアイドルの曲も作っておきたい。

トレーニングやダンスの勉強もしておいた方がいいかな?

とにかくこの3年間はいっぱい勉強するんだ~!

そうすれば、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会はもっともっとパワーアップできるはず!!

がんばるぞ~!

――――――――――――

教室に戻ると、軽い自己紹介をした。

といってもさっき言った通りみんな顔は知っているのであくまで形式的なもの。

そのあと、新しいプリントが何枚か配られた。うげー、クリアファイル持ってきてないや。

お願い!折れないで!と祈りながら素の状態でカバンに入れる。

さらに教科書類も配られた。高校はタブレットの中に教科書が全部入っていたけど、そういえば中学はまだ紙の教科書だったんだっけ。

なんだか一つ一つが懐かしい。

パラパラとページをめくってみるとほとんど知っている内容だった。
 
19: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:33:23.03 ID:VpZ0h6Rf
でも、油断は禁物!今の私のレベルじゃなくて、歩夢の勉強を教えられるようになるところが私の目標なんだから!

それでも、心の中のウキウキは収まらなかった。ゲームの序盤でものすごい強い武器を手に入れたような、そんな高揚感に心が溺れた。

そんな感じで最初の1日は終わった。

先生が明日から授業が始まると言っていた。

入学したばかりなんだから少しは休めると思ったけれど、現実はそんなに甘くないらしい。

明日の科目は国語に数学に理科に社会に……体育!?これは参ったな……

どうしても体育だけは苦手なのに。

でも、歩夢がいるから頑張らないとね!

特に周りに不審がられることもなく、私の最初の1日は終わった。

当然、カバンの中のプリントはぐしゃぐしゃになっていた。



次の日。

今朝も歩夢に起こしてもらった。

私が歩夢を起こせるようになる日なんて来るのかな?そんなことを考えながらの朝ごはん。

テレビには総理大臣の記者会見の話題で持ちきりだ。

そういえばこの人は私が中学生のころから総理大臣だったんだ。

前は日本の総理はすぐ変わるってイメージが強かったけど、この人はずいぶん長いな。

そんなことを考えているうちに朝ご飯を食べ終えてしまった。

政治のことなんか考えずにもっと味を楽しめばよかったと少し後悔。

食べ終わると急いで学校へ行く準備をした。
 
21: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:36:44.68 ID:VpZ0h6Rf
授業は本当に退屈だった。

最初の方は自分が既に知っている内容を先生が一生懸命教え、周りの友達が一生懸命に勉強する姿にほんの少しの優越感を覚えたが、それも10分で飽きた。

それに、うちの中学はノート提出がある。だから、いくら知っている内容でも先生が黒板に書いたことはノートに書き写さないといけない。

高校受験は内申点も関係するから、勉強だけできればいい、という考えは通用しない。

東京都の場合は3年生の成績だけだから関係ないっていう人もいるけど、中学の成績は先生への印象が一番大事だったりする。

だから、1年生の時から勉強熱心でまじめな子っていうイメージを先生に植え付けて、気に入られる必要がある。

だからノートもきれいにとらないといけないけど、それがとても退屈で、面倒くさい。

何でこんな当たり前のばかばかしいことを勉強しないといけないんだろうか。

まるで修行のように心を無にして先生の板書を書き写し続けた。

なんだろう、自転車が使えないポケモンをプレイしている気分に似ているかも。

自転車を一度でも使う前は歩くのが当たり前のスピードだったのに、自転車を使うようになってからは歩くスピードにイライラする。

たぶんそんな感じに似ている。わからないけど。

とにかく授業のスピードが遅く感じる。

1分が10分にも20分にも感じる。

分からないことを永遠と話される授業も辛いが、理解していることを永遠と話される授業はそれ以上に辛いという事を初めて知った。

宿題も大量に課された。虹ヶ咲は自由な校風のおかげか勉強も自主性に任せられているため宿題は少ないほうだ。

宿題をわざわざ出さなくても自分で勉強できる人が集まっている……という事らしいけど、まぁ私は自立できてなかったかな……

でも、宿題は日頃の授業程大変ではない。量はあるが、内容は基礎的な問題ばかり。

目をつぶっていても解けるような基礎問題ばかりが並んでいる。

私は家で好きな音楽を聴きながら、その片手間で宿題をこなすようになった。

小学校の頃はよく宿題が終わらなくて歩夢に泣きついていたのに、中学生になってからは一人で全部こなすようになって歩夢も驚いていた。

もっともっと歩夢の事を驚かせてあげるんだから!!
 
22: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:39:56.46 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

とある日の放課後、廊下を歩いていると音楽室の鍵が開いていることに気が付いた。

ドアから中をうかがってみる。どうやら誰もいないみたい。

「誰かいますかぁ~?」

返事はない。恐る恐る入ってみる。

黒板の前にピアノが鎮座していた。ここ数日弾いていないせいか、無性に指がうずうずした。

「ちょっとピアノかりま~す!」(小声)

重々しい黒い蓋を開け、赤い絨毯のような布を取ると見慣れた黒と白の鍵盤が顔を出す。

「久しぶり!なんてね。」

そんな冗談を口にしながら、試しに鍵盤を押してみる。

トーン

良い響きだ。私の大好きな音。

椅子に座り、曲を弾いてみる。

♪CHASE!

アップテンポで元気が出る曲。でも、私はピアノで弾く少し落ち着いたCHASE!も結構好きだったりする。

ゆっくりとした流れの中で心地のいい和音が次から次へと連なる。弾いている私も気持ちよくなれる。

あぁ、せつ菜ちゃんに会いたいな。どこの中学校なんだろうか。

この時代にはもうあのマンションに住んでいるのかな?それとも中学校3年間の間に引っ越してきたのかな?

思えばせつ菜ちゃん、いや、みんなの事をよく知っていた気になっていたけど、実際には全然知れていなかったのかもしれない。

ちょうど1番のサビが終わりかけたとき、

「誰?勝手にピアノ弾いているのは?」

音楽の先生が音楽室に入ってきた。

「ごっごめんなさいっ!」

「あなた……新入生?」

「はい!1年B組の高咲といいます……」

「高咲さんね。私は音楽の授業を担当している桜内よ。」

「ピアノを使いたかったら私に一声かけてね。」

「はい!すみませんでした!」

「ところで……今の曲はなに?」

「あ、えっと、スクールアイドルの曲です。」
 
23: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:43:03.60 ID:VpZ0h6Rf
「スクールアイドル……、ピアノの先生に習っているの?」

「いえ、独学で。」

「独学でそこまで弾けるの!?」

「はい……一応。」

「他に何か曲は弾けるのかしら?」

「えっと……あまりレパートリーはないんですけど、自分で作った曲なら……」

♪NEO SKY, NEO MAP!

「……」

「えっと……どうでしょうか?」

「……何か変でしたか?」

「これ、本当にあなたが作曲したの?」

「はい……一応……」

「作曲を誰かに習ったことは?」

「2週間くらい集中して色々教えてもらったことはあります。」

「それでこの完成度……」

「あなたは是非ちゃんとした先生のもとで音楽を勉強すべきよ。」

「きっと、その方があなたのためになる。」

先生はとても興奮した様子で私の事をほめてくれた。

将来は音大に行くつもりはあるの?と聞かれたので、まだわからないと答えた。

でも、虹ヶ咲学園の音楽科に進んで高校では音楽の勉強をしたいことを伝えた。

「まだ1年生なのに自分が進みたい進路が決まっていることは凄いことよ。誇りに思いなさい。」

そういって先生は音楽室から出て行ってしまった。

実際は高校生になってからも迷いっぱなしだったんだけどね。

2年生の夏になって、ようやく夢を見つけた私には分不相応な誉め言葉だけれど、

タイムスリップしてきたからやりたいことが明確なんです!とは言えないわけで、その気持ちだけありがたく心にしまっておくことにした。

その日の夜、ママにピアノを習いたいという話をした。

私の部屋にピアノはないから独学で練習をしていた……という言い訳は使えなかったので、将来作曲をしたくて、そのためにピアノを習いたいと説得した。

最初は乗る気ではなかったママも、桜内先生とのやり取りを話すと

「じゃあ、とりあえず体験だけね?」

と重い腰を上げてくれた。
 
25: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:46:04.89 ID:VpZ0h6Rf
部屋に戻り歩夢に連絡をする。

侑:ちょっと話したいことがあるんだけど、今いい?

歩夢ちゃん:大丈夫だよ!

ベランダに出ると、隣の部屋から歩夢も出てくる。

「侑ちゃん、話ってなに?まさか宿題見せてとかじゃないよね?」

「ちがうよ~!全く歩夢ちゃんはひどいなぁ。」

「……」

「私ね、ピアノを始めようと思うんだ。」

歩夢には最初に言っておかないとね。隠し事してるといつか大変なことになっちゃうからね……

「侑ちゃんがピアノ?急にどうして?」

「まぁ、私にもやっとやりたいことができたかなって。」

「すごいよ!私、侑ちゃんのこと応援する!」

「ありがとう!もっと小さいころからやっている子にはかなわないかもしれないけど、それでも頑張ろうと思う!」

「うんん、侑ちゃんならすぐにうまくなっちゃうよ!曲が弾けるようになったら一番に聞かせてね!」

侑「うん、歩夢ちゃんに一番に聞かせる。約束だよ。」

数日後、我が家には私が前に持っていたような簡易型のキーボードが届いた。

私がピアノをやりたいという話を聞いてパパが買ってくれたんだ!

1周目は自分のお年玉貯金で買ったからすごくうれしい!

こうして私のピアノレッスン生活が幕を開けた。
 
26: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:49:27.18 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

とうとうこの時期が来てしまった。中間テスト2週間前。

私はどの部活動にも入らずにピアノを練習し、それ以外の時間を歩夢と勉強だけにつぎ込んできた。

中間テストはその成果を発揮する絶好のチャンスだ。

中学のテストは小学校までのそれとは別物だ。難易度が桁違いだ。

小学校のテストは特に対策をしなくとも満点を取ることは珍しくない。

しかし、中学校の定期テスト、特に主要5科目で満点を取ろうと思ったらかなりの努力をしなければならない。

ノー勉なんてもってのほかだ。

どうしてこんなに詳しいかって?それは1周目のこのテストで小学校のテストのノリで挑んだから……かな?

せっかく歩夢が心配して何度も一緒に勉強しよう?って言ってくれたのにそれを無視して遊び惚けていた。

結果はもうさんざん。テストを受けている時点でもうこれはダメだって分かったね。

点数も大方予想通りで、見たこともないような数字が並んでいた。

先生にも親にも怒られたけど、何よりも歩夢の悲しそうな顔が一番つらかった。

心配を蔑ろにしたにもかかわらず、そのうえで私の心配をしてくれていたなんて、やっぱり歩夢は天使だね。

それからのテストは歩夢の力を借りながらも一生懸命勉強するようになった。

でも、今の私は一味も二味も違うよ!!

さーて、まずは範囲の確認をしないとね!

勉強机に向かった瞬間、

ピロン

携帯が鳴った。

歩夢ちゃん:今日からテスト2週間前だよ!

歩夢ちゃん:侑ちゃん、ちゃんと勉強してる~?

侑:今しようと思ったところだよ!

自分で文章を書いていて悲しくなる。こんなの勉強をしていない言い訳みたいじゃん。

侑:いや、本当に今机に向かったところなんだよ?

返信が来ない……

まぁ勉強に関して信用されていないのは仕方がない……か……

歩夢ちゃん:だったら一緒に勉強しよ?

歩夢ちゃん:私の部屋来てよ。

きっと歩夢ちゃんは私がテスト勉強をしていないと思って呼んだんだと思う。私のことを心配して。
 
27: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:52:43.75 ID:VpZ0h6Rf
でも、その件には触れず一緒に勉強をしようと誘ってくれる。

もしかしたら私が本当に勉強を始めようとしていたかもしれない、という可能性まで考えているのだろう。

本当に歩夢は気遣いができるというか、私の扱いに慣れているというか、

本当にやさしい子だなと改めて実感した。

侑:うん!行くいく!

侑:今行くね!

私は5教科の教科書とノート、それから問題集と筆記用具をもって歩夢の部屋へと向かった。

ガチャッ

「歩夢ちゃん~来たよ~!」

「あっ侑ちゃん!入って入って!」

「なんか歩夢ちゃんの部屋、久しぶりな気がする!」

「本当?あー、でも最近は部屋に来てくれてなかったよね。」

「そうそう、ベランダで話すだけで。」

「小学校の時みたいにもっと遊びに来てくれていいんだよ?」

「じゃあテスト期間中は毎日来ちゃおうかな?」

「いいよ!私もうれしい!」

「冗談のつもりだったんだけど……」ポリポリ

「え~」プクー

「じゃあ、半分は私の部屋に来てよ!」

「うん!私も侑ちゃんの部屋行きたい!」

「じゃあ、約束だね!」

「うん!」

こうして私たちはテストの日まで一緒に勉強することになった。

「さて、じゃあさっそくテスト勉強始めようかな?」

「まさか本当に侑ちゃんが教科書持ってくるとは思わなかったよ」ニコニコ

「ちょっと、それってどーゆーこと!?」

「だって侑ちゃん、ついこの前まで一緒に宿題しようよって言っても、勉強道具は何も持ってこないくせにゲームはたくさん持ってきて……」

「そんなこともあったね……」ハハハ

「でも、中学生の私はちょっと違うよ!勉強も歩夢に負けないくらい頑張っているんだから!」
 
28: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:55:51.39 ID:VpZ0h6Rf
「そういえば最近ちゃんと宿題やってるよね!」

「そうだよ~!一回も忘れたことないよ~!」

「侑ちゃんが勉強やる気になってくれて私嬉しいよ……」

「だったら、もっと頑張らないといけないね!」

私にとっては歩夢の笑顔が何よりのご褒美だった。

「さて、早速テスト勉強を始めますか!」

そういって私は筆箱から付箋を出した。

「付箋……?何に使うの?」

「テスト範囲の確認だよ!」

「えっ……」

「そんなに驚いてどうしたの?」

「今日、私が侑ちゃんに教えてあげようと思ってたやり方なのに……」

「もしかして結構有名なの?」

「いや、分からないけど、どうなんだろう?」

そうだ、思い出した。このやり方は歩夢に教えてもらったんだった。

「やっぱり有名なのかな?私はお母さんから教えてもらったんだ!」

「歩夢ちゃんのお母さん、優しいね。」

「えへへっ」

教科書と問題集のテスト範囲のページの始まりと終わりに付箋紙をつける。

こうすることで自分の勉強がどこまで進んでいるのかを客観視することができる。

それに、意外と授業の進みがテスト範囲に追いついていないことも……

最初の1日はテスト範囲を確認するだけで勉強会はお開きになった。

でも、この作業は意外と時間がかかるし、全体を俯瞰して確認することはとても大切。

1日潰すだけの価値はある……と思う。1周目の歩夢もそう言っていた気がする!

でも、もう腰勉強したい気分だった。

私は自分の部屋に帰った後、数学の問題集のテスト範囲を一通り解ききった。

正直計算系の科目で分からない問題が出るとは考えにくい。

そうなると気を付けるべきは読み間違いやケアレスミスだ。

問題が解けるか?ではなく、自分がどこら辺をミスしやすいか?という部分に注目しながら問題集を周回した。

私が中1の事はテスト前になって慌てて死に物狂いで1周だけしたんだっけ。
 
30: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 22:59:08.65 ID:VpZ0h6Rf
とにかく、今回のテストで私は学年1位を取る!そして歩夢に喜んでもらう!それが私の目標!

全ては歩夢のために。すべては歩夢にすごいと思ってもらうために。

そして、私が歩夢をしっかりと支えられる人間になるために。



歩夢との約束通り、テストの日までお互いの部屋で勉強会をした。

初めは歩夢が勉強を教える気満々で勉強会をしていたが、段々と私が歩夢に勉強を教える場面が増えていった。

でも、あまり急に勉強ができるようになっても怪しまれるかもしれないと思って、歩夢が得意な英語は少しわからないふりをした。

きっと歩夢が優しい子だから、自分が教えてもらってばかりだと私の時間を無駄にしちゃってるんじゃないかって考えると思ってね。

まぁ、そこは上手くやるとして……

でも実際、数学のような計算方法を問う問題は結構覚えていたけれど、国語や理科社会のような知識を問う問題はなかなか苦労した。

まぁ、当然といえば当然かもしれないけど……

だって負の数の計算とかは高校でも使うけど、中学校で勉強する地理とか理科とかはあまり使う機会が無いんだもん!

一応毎日復習をしていたけど、やっぱり知識の抜けは多い。

正直あまり「2周目」のアドバンテージを活かせない部分だと思う。

でも、それで私は諦めたりしない。だって歩夢を支えるにふさわしい人間になるんだから。

もう歩夢に私のことで苦労させたくない。

歩夢はそんな苦労も苦労とは思っていないかもしれないけれど……それでも私はこの2周目で1周目の恩返しをしたいと思っている。

「歩夢の教え方がうまいからだよ?」

この言葉は半分は本当。でも半分は嘘。

私は2人の勉強会が終わった後に、それと同じ時間、日によってはその倍の時間1人で勉強した。

教科書に書いてあることはどんな些細なことでも暗記した。

自作の1問1答プリントは日に日に枚数が増え、書き込みで余白がどんどん黒くなった。

そんなボロボロの汚い紙切れを見るたびにテストに対する自信を感じ、それと同時に果てしない恐怖に襲われた。

私はこの中間テストで学年1位を目指している。

でも、本当にこの勉強量でいいのだろうか。

自分では死ぬ気でやっているけれど、他の人はもっともっと一生懸命やっているのではないか。

一周目で勉強から逃げてきた私にとって、トップがどれだけの勉強量をテストに注いでいるのかがわからなかった。

もしかしたらせいぜい30位くらいがいいところかもしれない。

もしかしたら私に勉強方法が間違っていて、途方もなく見当違いの勉強をしているのかもしれない。
 
31: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:02:15.33 ID:VpZ0h6Rf
敵の大きさがわからない中で対策をしなければならない状況が苦痛だった。

それでも、最初の中間テストというスタートダッシュでコケるわけにはいかない。

きっとここで2周目に相応しい成績を取らなければ、私の2週目は一周目と同じように落ちぶれて歩夢に頼りっぱなしの人生になってしまう、なぜかそう強く確信していた。

だから、ゴールデンウィークも全てを犠牲にして死ぬ気で勉強した。

結果、私は全教科1位の得点を以って中間テストを完全勝利した。

――――――――――――

掲示板にテストの順位が張り出される。

歩夢が目を丸くして驚いている。

「侑ちゃん……」

「侑ちゃんすごいよっ!」

「どうしちゃったの!?」

「いやいや、歩夢の教え方が上手なだけだよ。」

「もしかして私に隠れて勉強してた……?」

「まぁ、ちょっとは……」

「侑ちゃんがここまで勉強に一生懸命になってくれるなんて……、私嬉しいよ!」

「いやいや、これも歩夢が勉強の楽しさを教えてくれたおかげだよ。ありがとうね!」

「もうっ!侑ちゃんは優しいんだから~! もっと自分の努力を自慢してもいいのに……」

「でも、歩夢の頑張ったじゃん!」

「でも私35位だし……」

「いやいやその言い方は36位以下の人に失礼なんじゃ……」

ちなみに1周目の歩夢は50位くらいだった。もちろんそれでもすごいんだけど、今回は一緒に勉強したおかげか順位が上がっていた。

「次は侑ちゃんに負けないくらい、私もっと頑張る!」

「うん、一緒に頑張ろうね!!」

こうして中学最初の中間テストは終わった。

入学式で代表挨拶をしていた子は20点差で2位だった。
 
32: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:06:03.75 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

「たしかに、基礎がまだ固まっていないわね。」

中間テストが終わった週の土曜日、私はピアノの体験レッスンへ来た。

「基礎……ですか?」

「そう、ある程度曲は弾けているけど、指と指の間がくっついているのよ。」

「だから、たまに不自然な指使いになっている。」

「薬指と小指を極力使わないようにしているでしょ?」

「なんかうまく力が入らなくって……」

「最初はみんなそういうものなのよ。」

そういって先生は本棚から楽譜を取り出した。」

「これはHanonっていう練習曲集なんだけ、聞いたことある?」

「いえ……」

「こんな感じなんだけどね」

目の前に楽譜が置かれる。いかにも練習曲って感じの楽譜だ。目がチカチカする。

「ちょっと弾いてみようか。」



30分の体験レッスンはあっという間だった。

今までは自己流で弾いていたため気が付かなかった部分を先生は次々に指摘してくれた。

先生は自分一人ではどうしても気が付けないところを注意してくれるし、たくさんの練習方法を知っている。

やっぱり自己流にはかなわないんだなと実感した。
 
34: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:09:05.50 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

「それで、この前ピアノ教室の体験レッスンに行ったんです。」

「あら、よかったじゃない。どうだった?」

「自己流にはかなわないなと思いました。当り前ですけど……」テヘヘ

「まぁ、向こうもピアノを教えるプロでしょうし、しょうがないわね。」

「Hanonっていう練習曲を教えてもらって、今でも毎日弾いているんですが指のくっつきがなくなってきたような気がします。」

「Hanonね、私も今でも弾いているわ。」

「先生くらいのレベルでも?」

「プロも毎日弾いているわよ。練習の最初は必ずHanonを弾いて、そこから曲の練習を始めるの。ウォーミングアップみたいな感じかしらね。」

「なるほど~」

「で、これからも教室には通うの?」

「今回の先生もすごくよかったんですけど、一応もう1、2か所は見ておこうと思っています。」

「たしかにね、長く付き合うことになると思うから相性とかも大切よ。」

「ちなみに今回はどこのピアノ教室に体験に行ったの?」

「西木野音楽教室ってところです。個人経営みたいな感じで……」

「あら。」

「先生知っているんですか?」

「まぁ、高校の頃のでね。彼女は高校のころから何曲も作曲してたから、そっち方面に進みたいんだったら相談に乗ってくれるかもね。」

「そうなんですか!?でも音大出てないって仰ってましたけど……」

「そうね、彼女は結局……いや、個人情報だから本人から聞いたほうがいいわね。」

「でも、音大を出ていないからといって教え方も技術の下手なわけではないわ。というと身内を贔屓しているように聞こえてしまうかもしれないけれど。」

「いえいえ、すごい方なんですね!」

「ほかの教室も体験レッスンに行って、そのうえで彼女のところを気に入ってくれたらうれしいわ。」

「それじゃあ、私これから会議だから。終わったら片づけよろしくね!」

そういって先生は職員室へと帰っていった。



私はその後2つのピアノ教室の体験に行った。個人の先生と、楽器屋がやっている音楽教室の先生。

二人ともいい先生だったけれど、私は西木野先生を選ぶことにした。

桜内先生の紹介っていう部分ももちろんあるけど、やっぱり高校生のうちから作曲にかかわっていたというところに強く惹かれたのだ。

私はこれからの音楽生活に胸を躍らせた。
 
37: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:12:25.82 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

「歩夢ちゃん!明日からテスト2週間前だけど、どっちの家で勉強する?」

「侑ちゃん、期末テストからは別々に勉強しない?」

「えっなんで!?」

「いや……そのー」

「もー、歩夢ちゃんったら自分が足引っ張ると思っているんでしょ!」

「だって侑ちゃんは1位なんだよ!?私なんかと一緒に勉強していたら……」

「私がなんでこんなに勉強頑張っているかわかってる?」

「えっ……?」

「歩夢ちゃんを安心させるためだよ。小学校の時に色々心配させちゃったからね。だから、中学では頑張ろうって決めたんだ。」

「侑ちゃん……」

「それに、私だって歩夢ちゃんに恩返しがしたい。小学校の頃は散々たわしの事を性懲りもなく支えてくれたじゃん。だから、今度は私が歩夢ちゃんをサポートする番。」

「侑ちゃん……本当に良いの……?また一緒に勉強してくれるの……?」

「もちろんだよ!」

まったく、歩夢はこういう所で気が弱いんだから。

でも、この選択は中間テスト以上に自分を追い詰めることになるだろう。

今回のテストはディフェンダーとして挑む戦いだ。

前回悔しい思いをしたライバルが、その経験を活かした戦術を練ってくるだろう。

確実に前回よりも厳しい戦いになる。しかも、私は順位を落とすことは許されない。

もし私が順位を落としたら、歩夢は自分が勉強を見てもらったせいだと思い自分を責めるだろう。

きっと歩夢は悲しむだろう。

そんなことは私が許さない。

私は絶対に今回のテストでも1位を取って見せる。必ず。
 
38: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:15:48.71 ID:VpZ0h6Rf
今回は中間テスト以上に対策を入念に行った。

2週間前のテスト期間に入る段階でテスト範囲の予習はもちろんのこと、問題集もすべて終わらせた。

期末テストは実技系科目もあるが、これはほとんど暗記で乗り切れる。

移動時間や風呂の時間を使って徹底的に詰め込んだ。

正直、高校受験の時以上に毎日勉強に勉強を重ねた。

何時間勉強したかよりも、何時間勉強しなかったかを意識した。

睡眠時間も日に日に短くなっていった。

どうしても辛くなった時はベランダに出て気分転換をした。

「はぁ……、こんなときみんなの歌声が聴けたらなぁ……」

当然この時代にみんなはスクールアイドルとして活動していない。

エマさんはだ日本に来てすらいないだろう。

雑誌を見ても果林さんは見当たらない。果林さんもまだ中2だし、もう少し後のデビューなのだろう。

みんなの曲を聴くには、自分が弾けるようになるしかなかった。

もちろん歌声はないけれど、それでもだいぶ元気を出すことができた。

そんなことをぼーっと考えながら夜空を見上げた。

今日は珍しく雲が無い夜空だった。

それでも東雲の町は街灯が煌々と輝いていて星は数えるほどしか見えない。

「ちょっと部屋の電気消してみようかな。」

部屋の電気を消し、再び夜空を見上げる。

「あんま変わらないや」

普段は星空なんて見るようなタチじゃないのに……そんなことを考えてたらとたんに自分の行動が滑稽に感じて笑みがこぼれた。

「さーて、勉強の続きしますか!」

そう気合を入れ、部屋に戻ろうとしたとき、歩夢の部屋の明かりが目に入った。

この時間はいつもなら歩夢は寝ているはず……

もしかしてまだ勉強しているのかな……?

思わずスマホで連絡したくなったけど、その気持ちをぐっと抑えた。

邪魔しちゃ悪いし、明日あった時に聞くことにした。

「もうひと踏ん張り!」

部屋の電気をつけ、もう一度机へと向かった。

自作のテスト対策暗記プリントはこの時点で優に100枚を超えていた。
 
39: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:18:55.92 ID:VpZ0h6Rf
「歩夢ちゃん、最近夜遅くまで勉強していない?」

翌日、学校へ向かう道すがら歩夢に質問してみた。

「えっ……知ってたの?」

「いや、昨日の夜に気分転換にベランダに出たら歩夢ちゃんの部屋の電気がまだついてたから……」

「のぞきはダメだよ!!」

「のぞいてないし!!たまたま視界に入っただけだし!!」

「侑ちゃんが怪しいおじさんみたい」フフフッ

「も~!そんなに無理したらダメ!」

「だって侑ちゃんだって隠れて勉強してたじゃん?」

「~~、でも、でもダメなの!!睡眠時間削ったら体調崩すよ!!」

「それそっくり侑ちゃんにお返しするよ。」

「ぬぐぐ……」

「なんかね、侑ちゃんのこと見てたら、私も頑張らないとなって思えてきたの。」

「えっ?」

「だって、侑ちゃんがこんなに頑張ってくれているのに私だけ怠けてなんかいられないよ!」

「だから私、侑ちゃんに追いつけるように、侑ちゃんを抜かせるように頑張るからっ!!」

「それって……」

「うん!少なくとも2位、できれば1位。」

「侑ちゃんと順位の表で名前を並べてみせるから!」

「歩夢ちゃん……」ウルウル

なんだかとても嬉しかった。私の存在で歩夢を変えられたみたいな気がした。

でも、全てはそんなに上手くはいかない。

私は総合1位をとったものの数学と理科でケアレスミスをしてしまい全教科1位の座は譲ってしまった。

歩夢も総合9位、前回よりも順位を大きく伸ばして一桁順位に食い込んだものの目標の達成には至らなかった。

でも、私は所詮二周目だ。

一周目でここまで頑張れる歩夢は本当に凄い。何度も歩むには驚かされてきたけれど、その中でも特にびっくりだ。

もしかすると本当に1位まで上り詰めてくるかもしれない、いや、歩夢だったら成し遂げるはずだ。

それが次のテストになるか、またその次のテストになるかはわからないけれど、

私がその時まで絶対に1位の座は譲らない。

私がこの場所を譲るのは歩夢だけだ。
 
41: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:21:55.28 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

時は流れて夏休み。

最近感じた夏よりもいささか涼しい気がする。これは温暖化の影響なのかな。

1周目の私は夏休みも補習だらけでほぼ毎日学校に行っていたけれど、予定がすっからかん私は毎日家でピアノを弾いていた。

先生によれば驚異的なスピードで上達しているらしい。お世辞でもうれしい。

また、夏休みに入ると本格的に作曲の勉強にも手を出した。

まだ1曲作るのに途方もない時間がかかる。そして、ピアノレッスンの時に西木野先生に見てもらっている。

先生は私が数時間かけてやっと思いついたメロディや和音進行を超えるアイディアを数秒で思いつく。

そのたびに少し落ち込み、それでも負けないぞと奮起して次の曲に取り掛かる。

そして、歩夢が遊びに来た時には曲を聴いてもらった。

有名な曲も、私が作曲した曲も、弾けるようになったら約束通りまずは歩夢に聞いてもらった。

歩夢は私のピアノが好きだと言ってくれた。とても嬉しかった。

もちろん、音楽だけに没頭していたわけではない。夏休みはまとまった勉強時間を確保できる貴重な機会だ。

普段は授業でぼーっと外を眺めている時間も、自分で勉強が出来るこの期間はすべてやりたい勉強をすることができる。

夏休みの半分が過ぎたころには、もう中学1年生の範囲の予習と問題集の周回は終わっていた。まぁ、私にとっては復習なんだけど……

そして、待ちに待った林間学校はもう目前だった。
 
42: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:28:07.96 ID:VpZ0h6Rf
――――――――――――

私が通っていた中学校では1年生の夏休みに林間学校へ行く。

今は「通っていた」ではなく「通っている」という表現のほうが正確かもしれないけど……

1学期も終わり、クラスの親睦を深める目的があるとかないとか。

そんなわけで私たちはバスで山の中へと連れてこられた。

「え~、皆さん聞こえますかぁ~?」

先生の長い長い話が始まった。

要約すると、これから寝るためのテントを設営しつつ夜ご飯のカレーを作る。

昼は持ってきた弁当を好きなタイミングで食べてよい。でもあまり早弁はするな。

その後、キャンプファイヤーの後にレクをやって就寝。

ちなみにレクの内容は秘密と言っていたが、肝試しだ。

その時、1周目のある出来事が私の脳裏をよぎった。

歩夢はこの肝試しの途中で迷子になる。

まぁ、1周目は私が何とか歩夢の事を探し出したんだけどね!

怪我はするし先生には勝手な行動をするなとこっぴどく叱られたけど、今となってはいい思い出。

でも、今回は歩夢が迷子になることが予め分かっている。だから、私はそれを阻止すればいいだけだ。

……

……本当に?

そのとき心の中に悪い考えが浮かんだ。

あの事件以降、私と歩夢との距離は一気に近くなった。

歩夢の迷子が私たちの絆を強くしたのだ。

そんな重要な出来事を避けてしまった大丈夫なのだろうか。

この出来事がなかったら歩夢は将来私のもとから離れていってしまうかもしれない。

恩を売ると言ったらいい方が悪いけど……

いや、私の考え自体がものすごく悪いのは分かっている。

正直今の私と歩夢の関係は1周目以上に近いものになっている。

でも、それでも心配なんだ。歩夢がどこかに行っちゃうんじゃないかって。

2週目とはいえ、必ずしも1周目と同じ運命をたどるとは限らない。

それは私自身が証明している事実である。
 
43: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:31:35.31 ID:VpZ0h6Rf
それだったら、この思い出を繰り返すことも悪くはないのではないだろうか。

歩夢は怖い思いをしてしまうかもしれないけれど……

昔に歩夢とその時の話題になった時、

『まあ、今から考えてみれば迷子になって良かったのかなって思っちゃう。』

『真剣に探してくれたり心配してくれたりした先生のことを考えたら、こんなこと言っちゃいけないんだろうけどね。』

『でも、あの時の侑ちゃんは本当にかっこよくて……/// 今でも忘れられないよ……』

『きっと今の私たちの関係があるのも、あの出来事のおかげなのかもね?』

と言ってたし、しょうがない……のかもしれない……

そして、私は心を決めた。

――――――――――――

私は歩夢と同じ班だった。

ひと班8人で、半分は料理、もう半分がテントの設営をすることになった。

私はテントの設営をやりたかったが、みんなが「高咲さんは料理のほうがいいと思うな~」と口をそろえたので歩夢と一緒に料理を担当することになった。

そんなに力がないと思われているのかな?私。

全然大丈夫だと思うんだけど……それにしてもこの鍋重い!! 誰か助けて!!

料理のほうは歩夢のおかげでスムーズに進んだ。むしろほかの班員はほとんど手出しができなかった。

「も~みんな家で料理の手伝いしてないでしょ~?」

3人とも図星だった。

「早く歩夢ちゃんのカレーが食べたいなぁ~」

「も~、まだ4時半だよ?」

「だっておなかすいちゃったんだもん!」

「それは侑ちゃんがお弁当を早く食べ過ぎちゃうからでしょ!!」

「だっておなかすいたんだもん!!」

そんな他愛もないやり取りをしているうちに待ちに待った夕飯の時間となった。

ほかの班はカレーを焦がしたり、ご飯が固かったりとなかなかうまくいっていない様子だったけど、私たちの班は歩夢のおかげでおいしいカレーライスを食べることができた。

「いっぱい作ったからおかわりしてね~!」

本当に歩夢はママのような優しさと包容力があるなぁ。

歩夢の娘になってみたい、何度そう思ったことだろうか。
 
45: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:35:55.14 ID:VpZ0h6Rf
夕飯の片付けも終わったころ、キャンプ場の真ん中ではキャンプファイヤーが始まっていた。

最初小さかった火は風を送るごとに大きくなり、いつしか炎は私の身長以上に大きくなった。

炎から熱い風を感じる。頬は熱く、目がしょぼしょぼする。

ふと横を見ると、歩夢の頬がまっかっかに染まっていた。

「歩夢ちゃん、頬真っ赤だよ?」

「侑ちゃんもね!」

「あ、やっぱり?」

炎の光に照らされる歩夢の顔はなぜか特別感があった。

今までいろいろな表情の歩夢を見てきたけれど、きっとこの表情を見られるのは今だけなんだろうな、そう思うと優越感を感じると同時に少し悲しくなった。

「侑ちゃんどうしたの?」

「うん、ちょっとね。これからもずっと私と一緒にいてよね?」

「何それ告白~?」

「えへへっ。思ってることを言っただけだよ!」

「なにそれ~」

少し本心を言いすぎたかもしれない。

途端に恥ずかしくなってきた。

この時ばかりは目の前の巨大な炎に感謝した。

だって私の頬はこれ以上赤くなり得ないから。
 
46: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:39:09.72 ID:VpZ0h6Rf
その後、先生から肝試しの説明があった。

テンションが上がる子。本気で怖がる子。ヤラセだと冷めている子。

歩夢は本気で怖がっていた。と思う。

小学校の修学旅行でも一緒にトイレに行かされたくらいだからね。

『そこにいるよねっ?戻ってないよねっ?』ってトイレの中からずっと話しかけられて……

あの時の目にいっぱい涙を浮かべた歩夢は本当にかわいかったなぁ。

肝試しは2人1組であらかじめ指定したコースを一周する方式だった。

二人グループはくじ引きで男女がペアになるため、歩夢と一緒になることはできない。

くじを順々に引いていく。私の相手は1周目とは違う相手だった。

私は今回の件について何もしないことにした。でも、これは歩夢が迷子になることに目をつぶるわけではない。

2週目は必ずしも1周目と同じではない。だから、もしかしたら2週目では歩夢は迷子にならないかもしれない。

私の相手だって、1周目とは変わっている。

もし迷子になっても私が助けに行けばいい話だ。

大丈夫、大丈夫。

私は何も知らなかったんだ。逆に歩夢が迷子になることを知って動くほうが不自然だ。

すべては運命に任せる。そう、決意した。



私たちのペアは最初のほう、歩夢たちのペアは最後のほうの順番だった。

大体どこで先生たちが驚かせて来るかは知っていたし、ペアの人も全然興味ないし、特に何事もなく私たちの肝試しは終わった。

「侑ちゃんどうだった~?」

「え~ネタバレになっちゃうから内緒~!」

「でも侑ちゃん余裕そうじゃん!ってことはそんなに怖くないのかな?」

「さぁ、どうだろうねぇ?」

「え~!出発前くらい気持ちを楽にさせてよ~!」

そんな会話をしているうちに、歩夢たちのペアが出発する番となった。

「歩夢……大丈夫だよね……」

私は小さくつぶやいた。

そして物事はたいてい悪いほうへ悪いほうへと動くものだ。
 
47: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:42:17.40 ID:VpZ0h6Rf
歩夢が出発してから数分後、ペアの男子が慌てて帰ってきた。

「上原さんがっ!上原さんが……!」

歩夢がいない。そんな……まさか本当にそんなことになるなんて……

その男子が言うには、歩夢は草むらから聞こえるガサガサ音にひどく怯えていたようで、

その中から動物が飛び出した途端、パニックになってその場から泣きながら逃げ出してしまったらしい。

その男子も歩夢の姿を見失った後にその周辺を探したそうだが、見つからず急いで大人のいるこの場所へと戻ってきたとのこと。

1周目の歩夢の迷子とまるっきり状況が同じだ。

「みんなはとりあえずテントに戻って!いったん待機!!」

先生の指示で無理やりキャンプ地へと返される。

「え~私たちも探すよ!」

「歩夢ちゃんが心配だよ!!」

友達も協力を申し出るが、先生はかなく何それを拒否した。

「中学生を危険な夜に歩き回らせるわけにはいかない。」

もっともだった。でも。

「ごめん、私行ってくるね!」

信頼のできる固い友達数人にだけ言い残し、先生の目を盗んで私も森の中へ歩夢を探しに行った。

大丈夫。

大丈夫。

大丈夫だよ。

ここまでは想定の範囲内だ。

歩夢は迷子になっても私はそれを見つけられる。

でも、やっぱりこんな馬鹿な真似はするんじゃなかった。

少しだけ心の奥がちくりと傷んだ。

「きっと歩夢泣いているだろうな……」

そんなことをつぶやきながら、私は歩夢がいるはずの場所へと走った。
 
50: (もんじゃ) 2022/05/17(火) 23:45:39.05 ID:VpZ0h6Rf
ハァ・・・ハァ・・・

自分の体力の無さが悲しい。すぐに息切れをしてしまう。

「待っててね……歩夢!」

自分の大切な思い出とやらは意外とつぶさに覚えているようで、1周目に歩夢を探したときに通った道はなんとなく見覚えがあった。

「この先の太い木の根元のところだっ!!」

最後の力を振り絞って歩夢のもとへ駆け寄る。

「歩夢~!!!」

私は大きな声で叫んだ。呼び方を気にしている余裕はなかった。

「歩夢~!!迎えに来たよ~~!!」

大きな声を出しても返事はない。きっと恐怖で声が出ないのかもしれない。

自分の判断で歩夢に怖い思いをさせてしまった罪悪感と、これから急接近する歩夢との関係性からくる多幸感で、私の脳みそはドロドロに溶けてしまいそうだった。

きっと、これは人間としてダメな興奮なんだと思う。でも、今まで生きていた中で一番気持ちが良かった。

「はぁ……はぁ……、もう、歩夢ったら……」

息を切らしながらスマホのライトを向ける。

しかし、

「えっ……」


全身の血が逆流し、身の毛がよだつ。

嫌な汗が止まらない。

一生懸命考えようとしても、脳がそれを受け付けない。何も考えられない。






そこに歩夢はいなかった。
 
63: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:02:01.10 ID:jQ5/J2DZ
――――――――――――

とにかく必死に歩夢を探した。

何度転んだかはわからない。全身傷だらけだ。膝も、肘も、そして顔も。

顔は泥と涙で酷いありさまだった。でも、傷は全く痛まなかった。

歩夢を迷子にさせた罪悪感が、その何倍も心を痛めつけていたから。

いくら自分を責めても責めきれない。

「あっ」

足が木の根っこに引っかかり、足をひねって転んでしまった。

「はやく……歩夢を迎えに行かないと……」

足が痛くて動かせない。

起き上がろうとしても、うまく立ち上がれない。

「なんでよっ……」

「言うこときいてよっ!!」

いくら苛立ったところで状況は変わらなかった。

――神様、お願いします……

――もうこんな真似はしませんから、どうか歩夢を助けてください……

もう神に祈ることしかできなかった。



その後のことはよく覚えていない。

歩夢を探している先生に見つけてもらって、私は助けられた。

テントへ連れていかれる途中、私は終始歩夢の安否について尋ねたが先生は答えてくれなかった。

キャンプ地に戻ると傷口を洗うように言われ、私は水道へと向かった。

おぼつかない足取りで水道まで行き、蛇口をひねり、生ぬるい水がちょろちょろと流れ出す。

ひたすらに水が私の足を打ち付ける。なかなか土が落ちてくれない。

蛇口をひねって水流を強くしても、傷口に入り込んだ土は取れない。まるで私の罪のように。

仕方がないので手で傷口を擦って泥を洗い落とした。とても痛かった。痛かったけれど、その痛みが自分への罰のような気がして少し、ほんの少しだけ気持ちよかった。

こんな自傷行為未満の自己満足で勝手に罪悪感を消そうとしている自分に失望する。

汚れを落とし、先生に怪我の手当てをしてもらった。
 
64: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:05:12.13 ID:jQ5/J2DZ
「勝手に行動しちゃダメでしょ!」

「はい……すみませんでした……。」

「消毒するよ~! しみると思うけど、ちょっと我慢してね。」

「はい……イテテテテ」

「ずいぶん派手に転んだねぇ。」

「すみません……」

「いや、謝らなくてもいいんだけどね。でも、自分の体は大切にしなよ?」

「はい……」

「大丈夫、上原さんなら絶対に先生たちで見つけ出すから。」

「はい……」

「心ここにあらずって感じだね。」

「はい……」

「……っいえ!あの……」

「えへっ」

「先生という立場からは『ちゃんと先生の言うこと聞かないとダメでしょ!』としか言えないけど……」

「もしその立場から降りれるのであれば、あなたの行動も分からなくもないと言いたいわ。」

「……」

「私だって大切な幼馴染が迷子になったら先生の目を盗んで助けに行くもの。」

「……」

「だから、高咲さんの行動は決して褒められる行動ではないけれど、それと同じくらい誇っていい行いよ。」

「だから、少し元気を出しなさい。そうすれば上原さんもきっと見つかるはずよ。」

「はい……」

「じゃあこの話はおしまい!今の会話は高咲さんと先生の秘密だからね!」

先生はとても優しかった。

でも、違うんです。

私は……私はもっともっと……

もっと悪いことをしたんです。だから歩夢がもし見つからなかったら……それは神様が私に与えた罰なんです。
 
65: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:08:22.28 ID:jQ5/J2DZ
歩夢が迷子になってから3時間後、歩夢は警察の人によって保護された。

見つかった時には歩夢は涙が枯れるほど泣いていたという。

先生たちの会話が聞こえた途端、私はテントから飛び出した。

「歩夢!!!!!」

「ひっぐ……、ゆ、侑ちゃん?」

私は歩夢を抱きしめた。強く、強く。

「ごめんねぇ……ごめんねえ……」ボロボロ

極度の緊張からの安堵で涙が止まらなかった。

「そんなっ……侑ちゃんは何も……」

「私が悪かったんだ……私がっ」

周りの大人も私を止めようとするが、私のあまりの勢いに手の出しようがなかった。

「侑ちゃんは本当に優しいね。そこまで自分のせいだって思ってくれるなんて。」

きっと歩夢の本心だろう。それと同時に私の心を深く傷つけた。

私が歩夢の迷子を見逃したことを知ったら、歩夢は私を拒絶するだろうか。

それでも、それでも歩夢が戻ってきてくれたことの嬉しくてとにかく強く強く抱きしめた。

「なんだか侑ちゃんと一緒に居たら落ち着いてきちゃった。」

気が付けば過呼吸気味だった歩夢の呼吸が元に戻ってた。」

「ありがとう、侑ちゃんのおかげだよ。」ニコ

温かい笑顔だった。

「えっ……?侑ちゃんその怪我どうしたの!?」

「えっと……まぁ、そこらへんで転んじゃって……かな?」

「侑ちゃんが迷子になったらどうするの!!」

やっぱり歩夢の目は騙せなかった。

「もし私が助かっても侑ちゃんが無事で済まなかったら……」

「侑ちゃんは侑ちゃんだけのものじゃないんだよ!!ちゃんと考えて!もっと自分を大切にして!!」

「テスト勉強の時だって、侑ちゃん私に体を大切にしろって言ったでしょ!!それと同じ!!」

「侑ちゃんがもしいなくなっちゃってたら私……私……」ボロボロ

涙が枯れるほど泣いたはずの歩夢の目から再び涙があふれだす。

「ごめんなさい……」

久々に歩夢に真剣に怒られた。でも、嫌な気はしなかった。
 
67: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:11:34.29 ID:jQ5/J2DZ
次の日、私たちはみっちり先生から取り調べとお説教を食らった。

お説教は私に対してだけだったけど、歩夢が『侑ちゃんが起こられるなら私も怒られる!侑ちゃんから離れない!!』ってわがままを言ったせいで歩夢も一緒に怒られることに……

ついでにわがままを言ったことに対してもお小言が……

私は小学校の頃から先生には怒られっぱなしで慣れていたけど歩夢は落ち込んだかな?なんて心配していたら

「なんだか先生に怒られるのって新鮮かも!」

なんて余裕をこいていたので逆に良かったのかも。

「ぐちぐち言われて嫌じゃなかった?」

「一人だったら嫌だったけど、侑ちゃんがいたから何ともなかったよ!」

なにこの歩夢、可愛すぎる。こりゃ、私が男だったら確実に恋に落ちているね。

林間学校最終日の2日目は歩夢の迷子事件の後始末で右往左往しているうちに終わり、気が付けば帰りのバスで揺られていた。

帰ったら反省文だ。でも、それも歩夢と一緒だったら悪くないかもね。

そんなことを考えているうちに、重いまぶたが落ちてきた。

昨日は安堵と興奮で全く寝られなかったからね……

気が付けば隣の歩夢も眠そうだ。

「おやすみ、歩夢ちゃん。」

「うん、おやすみ。侑ちゃん。」

私たちはお互いの存在を確かめ合うように、そしてお互いがどこにも行かないように手を握り、眠りへと落ちた。
 
68: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:14:39.61 ID:jQ5/J2DZ
――――――――――――

今日は待ちに待った夏祭り。夏休み最後のイベントだ。

場所は虹ヶ咲の目の前の大きな広場!毎年恒例で小学校の頃はいつも歩夢と一緒に来ていた。

「じゃあ行ってくるね~!」

「早く帰ってくるのよ~!あと、また迷子になるんじゃないよ!!」

「迷子になったのは歩夢だも~ん!」

「ちょっと、反省が足りないんじゃないの!?」

「いってきまーす!」

いつも通りエレベーターを降り階段へ向かうと、そこにはまたいつも通り木の下に美少女がたっていた。

「歩夢ちゃ~ん!」

「あっ、侑ちゃん!」

「歩夢ちゃん浴衣似合ってるね!すっごくかわいい!」

「侑ちゃんも着て来ればよかったのに~」

「え~、私には似合わないよ~!」

「絶対そんなことないって!」

「じゃあ来年のお楽しみってことで!」

「それ毎年言ってるじゃん!!」

「え?そうだっけ?」

「も~!!!!」

今日もかわいい歩夢は健在だ。



会場までは都バスで一本。虹ヶ咲への通学で毎日使っていたなじみ深いバスだ。

「侑ちゃんどこ行きたい?」

「歩夢ちゃんが行きたいところだったらどこでも!」

「じゃあ、最初はりんご飴食べたい!」

「じゃあ、こっちかな?」

私たちはいろいろな露店を回った。

「このお祭りに来ると夏休みももう終わりだって気がするね。」

「ふふふ、小学生の侑ちゃんはやっと宿題に取り掛かるくらいだったもんね。」

「たしかに!今じゃ考えられないや。」
 
70: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:17:46.84 ID:jQ5/J2DZ
「もう、侑ちゃんの変わりようにはびっくりだよ。」

「それも歩夢のおかげだよ。」

「ちがうよ、侑ちゃんが頑張ったからだよ?」

「歩夢のために私は頑張ったんだから、歩夢のおかげでしょ?」

「そんなこと言ったら私だって侑ちゃんに影響されて変われたもん!」

「じゃあ、お互いのおかげってことで。」

「うん、それがいいと思う。」

「……」

「……」

しばしの無言の後、

「あの~、侑ちゃんさ、」

「急に改まってどうしたの?」

「いや、その……、怪我は治った?」

「怪我?あ~、林間学校の時の?」

「うん。」

「目立つところは治ったけど、思いっきり擦りむいた左膝ははまだかさぶたが取れていないかな。」

「ひねった足首は大丈夫?」

「足首は結構早く治ったよ。先生が早めに湿布を貼ってくれたのが良かったみたい。」

「ちょっと安心した。」

「だからそんなに心配しなくていいって。」

「私ね、迷子になった時とっても寂しかったんだ。」

心がチクリと痛む。

「でもね、」

「テントに帰ってきて侑ちゃんが駆けつけてくれて、本当にうれしかった。」

「それに、侑ちゃんが必死になって私のことを探してくれたことも嬉しかった。」

「落ち着いてお礼を言えてなかったなって。」

「そんな私はお礼を言われるようなことは何も……」

「侑ちゃん、ありがとう!」

そこには澄み切った歩夢の笑顔があった。

歩夢が満足するのなら、その気持ちを受け取っておいてもバチは当たらない、かな?
 
71: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:20:49.59 ID:jQ5/J2DZ
「もう絶対歩夢ちゃんは私のそばから離れちゃダメなんだからね!?」

「うん!」

私が歩夢の手を握ると、歩夢も私の手を握り返してくれた。

林間学校は散々な思い出だけど、歩夢との距離はもう触れ合う直前まで縮まっていた。

――――――――――――

「うわ~、混んでるね……」

お祭りも終盤、もうすぐ花火の打ち上げが始まる頃なんだけど……

「これじゃあ全然見えないよ~」

私たちは周囲の人に阻まれて花火が見える位置を確保できずにいた。

「どうする?ここで妥協する?」

「でもここじゃあまりよく見えない……」

「そうだよね……」

「あっ……」

私は1周目の高1のときに穴場を見つけたことを思い出した。

「こっちにいいところあるよっ!」

「えっ?」

私は歩夢の手を引っ張り人混みから抜け出した。



「はぁ、はぁ……ちょっと侑ちゃんいきなり走り出さないでよ……」

「ごめんごめん!!」

「というか侑ちゃんそんな体力あったっけ?」

「もしかして馬鹿にしてる?」

「だってついこの前まで体力が赤ちゃんレベルだったから……」

「くそ~!なにを~!」

「で、どこに行くの?」

「ちょっとお台場の方にね。まだ時間もあるし……歩ける?」

「大丈夫だよ。でもお台場まで行ったらそれこそ遠くなっちゃうんじゃない?」

「まぁ、それはついてからのお楽しみってことで!」
 
72: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:23:59.71 ID:jQ5/J2DZ
私たちはひたすら西に向かって歩いた。

夏の夜の生ぬるい空気が私たちの体を通り抜ける。

夏は暑いから苦手だけど、この時間のこの空気だけはなんだか嫌いになれない。

でも、ちょっと油断しているとすぐに秋の風になっちゃう。

月日が流れるのは本当に早い。

2週目が始まってもう5か月が終わろうとしている。

軽い気持ちで始めてしまったこの生活だけど、今のところ成功と言えるんじゃないかな。

私も歩夢も1周目よりも優等生になって、私はピアノと作曲の勉強も始められて……

ちょっと失敗しちゃうことはあるけれどね……

それでも、互いが互いを支えて切磋琢磨している感じがたまらなくうれしい。

1周目は歩夢が私の世話を焼いてばかりだったから。

この5か月で歩夢に少しは恩返しできたかな?

そんなことをボーと考えていた。

「ちょっと侑ちゃん、急に私の顔見てどうしたの?」

「あっ……いや、あまりに歩夢がかわいくて、さ。気が付いたら見入ってたよ。」

「もう……侑ちゃんったら……」

「ほら、こっちだよ!」

「えっ?観覧車?」

「そう。ここからだと何にも邪魔されずに花火が見えるんだ!」

「すごい!侑ちゃんよくこんな穴場知ってるね!」

「たまたまだよ、たまたま」

ヒューーーーーー  ドーン!!

「あっ、花火始まったみたいだね!早く乗ろっ!歩夢ちゃん!」

「う、うん!」

何度も乗ったことのある観覧車だったけど、この時間に乗るのは初めてだった。

少しずつ地面から離れ、空へと昇っていく。

「侑ちゃん高いところ大丈夫?」

「壁で囲まれていれば大丈夫だよ!」

「前は観覧車の中でぶるぶる震えていたのに……成長したね!」

「ちょっといつの話してるの!? ほら、花火見えてきたよ!!」
 
74: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:27:00.73 ID:jQ5/J2DZ
少し上っただけで有明方面に大きな花火が見えた。

「わー!!すごい!!きれい!!」

歩夢が夢中で観覧車の窓にかじりつく。

お台場のビル群が作る夜景の上に咲く花火は息をのむ美しさだった。

そして、花火と同じくらい歩夢の目も輝いていた。

この笑顔を守りたいな

そんな月並みな表現が今の私の心にはぴったりだった。

――――――――――――

「あーあ、もう終わっちゃったよ。」

気が付くと観覧車は地上へと戻っていた。

「上るときはゆっくりに感じるのに、下りはあっという間に感じるよね、観覧車って。」

「あ、それなんかわかる!速さは同じはずなのにね!」

「そうそう!」

私たちは観覧車近くのベンチで適当に時間をつぶしていた。

家に帰ってもいいんだけど、私はもう少し歩夢と話がしたかった。

そして、きっと歩夢も同じことを思っている気がする。幼馴染の勘。

「侑ちゃんさ……」

しばしの沈黙を破ったのは歩夢だった。

「なに、歩夢ちゃん?」

「私ね、小さいころからずっとずっと侑ちゃんのことは大切な友達だと思っていたんだけど……」

「林間学校の時に私の事を必死で助けようとしてくれて……その姿がかっこよくて……」

「その……王子様みたいだなって思ったの///」

「王子様!?私が!?」

「……うん///」

「そんなこと言われたらこっちまで恥ずかしいよ///」

「でもね、2学期になったらまた学校に行かないといけない。学校では侑ちゃんは私以外の友達ともいっぱい仲良くするでしょ?」

「それは……まぁ……」

「その光景を想像すると、心がざわつくようになったの。」

「とってもわがままだけど、侑ちゃんは私だけの王子様でいてほしい。私だけのヒーローでいてほしい。」

「こんな自分勝手な子……幻滅しちゃうよね……」
 
75: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:30:08.57 ID:jQ5/J2DZ
「うんん、そんなことないよ?」

私は歩夢の手を握った。

「そんなことない。」

もう一度優しい声で、歩夢を諭した。

「そんな風に、そんな大事に私の事を思ってくれて私とてもうれしいよ。」

「侑ちゃん///」

「じゃあさ、私たち付き合わない?そうすればお互いを独り占めできる。」

「正直さ、私も歩夢が他の人と話しているの見てなんか不安になるというか、嫌な気分になることが無いことはないんだよね……こんなこと言うの恥ずかしいけど///」

「えっ?侑ちゃんも!?」

「う、うん……」ポリポリ

「でっでもっ!私たち女の子同士だし、そういうのって……」

「そういうのは関係ないんじゃない?私は歩夢の事大好きだよ?」

「私も……侑ちゃんのこと……スキ...///」

「小さくて聞こえないなぁ?」

「私も侑ちゃんの事が好きです!!!//////」

「ちょっちょっちょ……周りの人見てるから!!!恥ずかしいから!!!」

「だって侑ちゃんが大きな声でっていうから……」

「ごめんごめん!私が悪かった!!」

私は覚悟を決めた。

「じゃあ、歩夢ちゃん。」

「私と付き合ってくれませんか……?」

心臓がバクバク震えている。

脈の音が脳に響く。

大丈夫。大丈夫。歩夢が断るはずはない。

「えっと……」





「……ご、ごめんなさい。」

「……えっ?」
 
78: (もんじゃ) 2022/05/19(木) 00:32:55.30 ID:jQ5/J2DZ
とりあえずここまで。
保守して下さりありがとうございます。
 
98: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:14:14.49 ID:lHjzupfL
「ええええええええええ????」

「ちょっと侑ちゃん大きな声出さないでよ……ほら、周りの人に見られてるよ……///」

「だって……だって歩夢ぅ……」

「あぁえっとね、違うよ?」

「やっぱり私じゃ違うんだ……」

「いや、そういう事じゃなくて!」

「うっ……ひっぐ……」

「ちゃんと最後まで話を聞いて!」

「ヤダ!!聞きたくない!!」

「聞いて!!」

「……はぃ。」

「私は侑ちゃんの事が好き。付き合いたいよ?」

「じゃあ何で……」

「きっと今付き合ったら侑ちゃんに甘えちゃう。私弱い子だから……」

「そんな、甘えてくれたって……」

「いや、ダメなの。これは私の中でのけじめ。」

「えぇ……」

「まだ私は侑ちゃんにふさわしい人間じゃない。」

「そんな私なんて……」

「わがまま言ってごめんね……」

歩夢の辛そうな顔は、決して私と付き合いたくない言い訳を並べている様子ではなかった。

むしろ、弱い自分を律しようと必死に自我を保っている。

そこまで自分の事を、そして私の事を考えてくれて嬉しいよ……

嬉しいけど、さ……

「テストで私が侑ちゃんに肩を並べられるようになったら……」

「うん、分かった。」

私は歩夢の気持ちを受け取った。

「その時まで返事は保留ってことで。そういう事だよね?」

「うん……ありがとう……」
 
99: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:17:25.69 ID:lHjzupfL
「でも、私は勉強で手を抜く気はないよ?歩夢ちゃん追いつけるかなぁ?」

「も~!馬鹿にしてるでしょ!! あと!侑ちゃんが順位を落としても無効だからね!!」

「えっ?」

「当たり前でしょ!1位は侑ちゃんじゃないとダメなの!!」

「もしくは歩夢ちゃん、ね。」

「ほんとに獲っちゃうからね?」

「やれるもんならやってみな~」

「む~~!!!覚えててよね!!」

「ははははは」

「ふふふふふ」

告白は成功しなかったけど。

でも、歩夢とのこういう時間がどうしようもなく楽しく感じた。

1周目は歩夢に引っ張ってもらうだけだったけれど、今は歩夢と学年の頂点を争うまで互いに成長できた。

こんなにも互いが互いを研鑽することが精神的に満たされる行為だとは思わなかったよ。

「早く帰らないとママに怒られちゃう!」

「だね!」

「また、来年もいっしょに来ようね!」

「うん!もちろん!」

「そっその時は……友達としてじゃなくて、恋人として来たいね……なんちゃって……///」

「歩夢ちゃん……それ反則。可愛すぎる///」

こうして私たちは電車で家まで帰った。

この日から、私たちは手を繋がないことにした。

手をつなぐのは、恋人になったその時までとっておくことにする。

こうして私たちの甘酸っぱい、いや、甘じょっぱい夏休みは幕を閉じた。
 
100: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:20:29.05 ID:lHjzupfL
――――――――――――

2学期。

始業式の後、席替えがあった。

1学期は名前順の席だったから歩夢と離れ離れだったけど、席替えで同じ班になれた。

残念ながら隣とか前後ろとかにはなれなかったけど……

ほんの少し、学校に対する楽しみゲージが上がった。でも授業は相変わらず退屈。

退屈ではあるんだけど、『一生懸命勉強しているところを見られたくない』という気持ちがあって内職は絶対にしなかった。

同じ理由で休み時間も自習はしなかった。

変なプライドだけど、ガリ勉で1位を取っていると思われたくないからね。

授業を受けているだけですべてを理解して1位を取っているクールキャラでいたいんだよ。

なぜか、一生懸命勉強する姿を見られるところ、

いや、それ以上に一生懸命頑張っているところを見られるのがなんだか恥ずかしくてね。

高校生の頃はそんなことなかったのにな……



音楽の方は順調で、猛練習の成果なのかだいぶ難しい練習曲も弾けるようになってきたんだ。

家のキーボードは本物と鍵盤の感触が全然違ってあまり練習にならないから、音楽室に足を運ぶ回数が1学期よりも増えた。

「確かにこのレベルまで来るとキーボードでは厳しいかもね……」

「というより、ここまでキーボードだけで来たのが驚きだわ。」

と桜内先生にも驚かれちゃった。

キーボードは鍵盤が軽く、力を入れなくても鍵盤を押すことができる。

しかし本物のピアノの鍵盤はずっと重い。

力が弱い薬指や小指で鍵盤を押そうとすると、キーボードでは弾けるのに鍵盤だとうまく押せない、みたいなことが頻発する。

「やっぱり普通のピアノは弾きにくく感じる?」

「正直、弾きにくいです。」

「高咲さんはマンションに住んでいるの?」

「はい、そうです。」

「それだとピアノは厳しいかしらね……」

「そうですね……」
 
101: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:23:41.63 ID:lHjzupfL
「最近は電子ピアノでも本物そっくりなタッチの機種もあるし、一回楽器屋に行ってみたらどうかしら?」

「高い買い物だから親御さんを説得しないといけないと思うけれど……」

「でもここまでひたむきにコツコツ練習している高咲さんの成長具合を見せてあげたら、きっと悪いようにはならないんじゃないかしら。」

「う~ん、どうでしょう……結構うちのママはシビアなところあるんで……。でも、とりあえず相談はしてみます!」

「それで、作曲の方の勉強はどうなの?」

「まぁ、ぼちぼちですね……」

「なんか弾いてみてよ。」

「えっと……これはこの前作ったばかりの曲ですが……」

♪未題8-5

「ど、どうでしょうか?」

「夏休み前よりもずいぶん上達しているわね。」

「えっ本当ですか?」

「えぇ、自分では気が付きにくいかもしれないけれど、明らかにいい曲になっているわ。」

「ありがとうございます!」ペコー

「これは作曲にどれくらいの時間がかかったの?」

「これも1週間弱くらいですかね……」

「アイディアを出すのに時間がかかっているの?」

「それもそうですが、アイディアが浮かぶたびに楽譜に書き起こしているので、その時間とアイディアの紙を整理する時間でかなりとられています……」

「なるほどね。パソコンを使った作曲には興味はない?」

「パソコン、ですか?」

「そう、楽器を使わなくてもパソコンで作曲ができるのよ。キーボードを接続すれば弾いた通りの楽譜を自動で作ってくれるの。ちょっとコツはいるけどね。」

「でも私パソコン持ってないですし……」

パソコンで作曲ができることは高校生になってから知った。

でも、私には難しそうだったから結局全てアナログで作曲をした。

「本格的に作曲をしたいなら、早めに使えるようになっておくといいわよ。」

「なるほど……」

「楽譜もきれいに印刷できるしね。売っている楽譜みたいに。」

「それは凄いですね!なんかちゃんとした曲みたい!!」キラキラ

「あなたの作った曲だってちゃんとした曲よ。」

「えへへ……ありがとうございます///」テレテレ
 
103: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:27:02.26 ID:lHjzupfL
「それじゃあ私はこのあと用事があるから、練習が終わったらいつも通り片付けをよろしくね!」

「はい!ありがとうございます!」

やっぱり本物のピアノは弾きにくい……

でもこの重さに慣れないと……



夜、お母さんに電子ピアノとパソコンの話を相談してみたけど……

「うーん、侑のやりたいことを応援してあげたいけど……急にはちょっと厳しいかな……」

ママは困ったような顔をしていた。やっぱりすんなりは買ってくれないよね。

「もちろん侑がピアノも作曲も頑張っているのは知っているわ。だからね、とりあえず1年間は頑張ってみない?」

「もし1年続いたら考えてあげる。」

うーん、やっぱり何十万もする買い物はすぐに首を縦に振ってくれない。

「そうだよね……急にわがまま言ってごめんね。」

「良いのよ。侑が中学入ってから勉強を頑張っているのはよく分かっているし、むしろ音楽と両立していて凄いと思うわ。」

「ありがとう、ママ!」

明るく振舞いながら、自室へと帰った。



部屋に電気をつけ、ベランダに出た。

「はぁ?、いけると思ったんだけどなぁ……」

小声で不満を呟いてみる。それで状況は変わるわけではないけれど。

ガラガラガラ

横の方から窓が開く音がした。

「えへへ、侑ちゃんこんばんは!」

「あっ歩夢ちゃん!こんばんはって今日会ったばかりじゃん!」

「夜に会ったのは初めてだから、こんばんは、だよ?」

「うん、こんばんは。」

「ため息なんてついちゃってどうしたの?」

「あー、えっとね……」

私は今日に桜内先生と、その後のママとのやりとりを簡単に話した。

「侑ちゃんこっんなに頑張ってるのにね!」
 
104: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:30:06.75 ID:lHjzupfL
「頑張るだけで上手くいくほど単純じゃないよ……」

「ふふっ。侑ちゃんなんか大人っぽい。」

「え、そう?」

「パパに相談してみたら?侑ちゃんがパパは侑ちゃんに甘々だもんね!」

「うーん、考えたんだけど、絶対途中でママのストップが入ると思う。」

「値段が値段だもんね……」

「そういえば侑ちゃんって侑ちゃんママにピアノを聴かせてあげたことあるの?」

「えっと……無いかな。練習のヘッドホンでやってスピーカーからは音出してないし……」

「一度ちゃんと聴かせてあげたら?そうしたらなにか変わるかもよ?」

「えっでも恥ずかしいよ……」

「いつも私には聴かせてくれてるじゃん!」

「それは歩夢ちゃんだからいいの!」

「そう言ってくれるのはうれしいけど……///」

「でもせっかくピアノ教室に通わせてもらっているんだし、やっぱりちゃんと親に恩返ししたほうがいいと思うな。」

「うーん、でも改まって聴いてっていうのも少し恥ずかしいなぁ……」

「あっ、じゃあさ、いい考えがあるんだけど……」

――――――――――――

とある日曜日、私は家族と歩夢、そして歩夢の家族と一緒にショッピングモールへと遊びに来ていた。

家ぐるみの付き合いで一緒にお出かけすることは何度かあったけど、中学校に上がってはなんだかんだで初めてだった。

まぁ、歩夢と私はよくお互いの家に遊びに行っているから親とはよく会っているんだけどね。

一通りショッピングが終わった頃、

「私、最後に行きたいお店があるんだけど!」

歩夢がわざとらしく言った。演技下手だなぁ……

「あら、まだ行くところあったの?また今度じゃダメ?」

「やだ!今日がいい!!」

「ごめんなさいね……もう少し付き合ってもらってもいいかしら……」

歩夢ママが申し訳なさそうに私のママに言うと、

「あらあらいいじゃない。善は急げだもの。さ!行きましょう!」

と返答。私のママって私にも甘いけど、歩夢に対しては甘いを通り越して何というかおばあちゃんみたいな感じだよねといつも思う。
 
106: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:33:13.09 ID:lHjzupfL
歩夢が向かった先には、一台のピアノ。

楽器屋ではなく、通路の広いスペースにドーンと置いてある、いわゆるストリートピアノというやつだ。

「えっ?歩夢ちゃんが行きたかったお店ってここ?」

私のママが困惑する。すると歩夢が私に目配せをしてくる。

『がんばって!』

そう歩夢が言っているような気がした。

ピアノまでは数歩の距離しかない。

それでも、今の私にとっては気が遠くなるような距離に感じた。

いざ演奏を聴いてもらって、がっかりしたような反応をされたらどうしようか。

ママやパパの期待を下回るような演奏だったらどうしようか。

桜内先生も歩夢も絶賛してくれるけれど、他人からの評価を受けたことはない。

本当は、私なんか下手っぴで聴くに堪えないような演奏なのではないだろうか。

そんな不安が頭をよぎった。

その時。ポンと背中を押された。

驚いて振り向くとそこには歩夢がいた。

「大丈夫だよ!」

言葉というのは不思議で、歩夢がたった一言諭してくれたおかげで私の心の靄はすーっと晴れ渡り、ピアノがすぐそこに感じられた。

そうだ、私には歩夢がいるんだ。

歩夢が大丈夫って言ってくれたんだから、きっと大丈夫。

「練習の成果、聴いてね。」

私はそう言うとピアノに座り、鍵盤に手をかけた。

♪NEO SKY, NEO MAP! ――Special Ver.

「ふぅ……」

弾く直前までは怖くて仕方がなかったのに、いざ弾き始めるともうそれは一瞬で……

自分でも本当に弾いたか心配になるほど時の流れが濃く、そして速く感じた。

パチパチパチパチ

ふと気が付くと、歩夢が拍手をしてくれた。

それにつられるように、パパやママも。

そして、足を止めて聞いてくれた数人の聴衆からも温かい拍手が。

私は急に恥ずかしくなって頬を染めた。
 
108: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:36:16.29 ID:lHjzupfL
「まさか侑がここまで弾けるとは思わなかったわ。だって家で全然聴かせてくれないんだもの……」

ママが嬉しそうで悲しそうな、そんな感情がぐしゃぐしゃになったような表情で私をほめてくれた。

「この曲はなんていう曲なの?」

「えっと……NEO SKY, NEO MAP!って言う曲で……」

「ネオスカイ……聞いたことないわね……」

「お義母さん。この曲は侑ちゃんが作った曲なんだよ。」

「えっ……この曲を!?侑が!?」

目を白黒させながらママはひどく驚いた。

「もしかして、天才!?」

「いやいや、これくらいできる中学生はたくさんいるよ……」

謙遜ではなかった。

むしろその現実を再確認し、現実に引き戻されたほどだ。

浮かれている暇はない。私はミアちゃんみたいに……みんなの心に届く曲をたくさん作りたいんだ……

いまだって実際に足を止めてくれる人は数人しかいなかった。

それだけでもすごいと言ってくれる人はいると思う。

でも、ミアちゃんだったら私の何十倍、いや、何百倍の人を魅了できるだろう。

もちろん、たとえ数人でも、私の演奏に耳を傾けてくれる人がいたことはとても嬉しかった。

今まではもっとうまくなってから、しっかり弾けるようになってから人に聴かせようと練習ばかりしていたけれど、それだけではうまくならない気がした。

曲を作る人がいて、弾く人がいて、聴く人がいる。

上手く演奏するためには沢山の人に演奏を聴いてもらう必要があるし、その体験の中からいい曲は生まれるんじゃないかな。

そんな音楽に対するヒントをもらった気がした。

「もしかして今日ショッピングに行きたいって言ったのって……」

「そう、私のピアノを聴いてほしいなって思って。歩夢ちゃんが計画してくれたんだ!」

「歩夢ちゃん、侑のために色々考えてくれてありがとうね~!」

「いえいえ、私は侑ちゃんのピアノの良さをちゃんと知ってもらいたいなって思っただけです。」

「歩夢ちゃんは本当にやさしいわね~」

「お嫁さんにもらいたいくらい!」

「おっおっお嫁さんですか!?」

「なによ~冗談よ~」
 
111: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:40:05.17 ID:lHjzupfL
いつもは軽く流せる冗談も、夏祭りの出来事の後という事もあってひどく動揺してしまった。歩夢も私も。

かくして私のゲリラステージは幕を閉じた。

パパもママのとっても喜んでくれて、少しは恩返しができたのかもしれない。

その後、わりとすぐに電子ピアノを買ってもらえることになった。

パパがママに強く働きかけてくれたみたいで、パパが3か月飲み会に行かないことを条件に許可が出た。

「侑は頑張っているからね!でもこれで学校のテストの成績が落ちたら怒るからね!?」

釘は刺されたものの、私は快適な練習環境を手にすることができた。

それにしても母……テストの成績は現状維持が下がるしかないのですが……

1周目では200位前後で怒られていたのに、今となっては1位陥落をけん制されるとは……すごい落差だな。いや、落ではないけれど。

まぁ、私は別の理由で成績を落とすわけにはいかないことになっているから、そこは安心してほしい。

私は1位を譲るつもりはない。

譲るとしたら歩夢しかありえない。

譲る気があるわけではない。

私は今回も全力で1位を狙いに行くよ。

戦いはすでに始まっているのだから。

――――――――――――

運命の中間テスト2週間前。

私は順位を維持しつつ、それに歩夢が追い付くことが出来なければ私たちは恋人になることができない。

歩夢ってホントに頑固だよ……

でも、テストの目標としては上出来だね!

今回も歩夢と一緒に勉強をした。

歩夢ちゃんの採点は私が、私の採点は歩夢やった。正直先生の3倍は厳しい採点基準で。

学校から帰るとどちらかの部屋で夕飯まで勉強。

夕飯の時間になったら互いの家に戻り、お風呂に入った後に再び集合。

睡魔に襲われるその直前までひたすらに勉強。

勉強しているうちに気付かず机で寝てしまうことも珍しくなかった。

授業中も授業を聞いているふりをしながら英語の教科書の文を丸暗記し、単語のスペルは指で太ももに書いて何度も確認した。

暗記系の科目の授業の時には教科書に穴が開くほど端から端まで知識の漏れがないか、自分が勘違いしてしまいそうなところはないかをひたすらに確認した。

もう、勉強以外の時間がもったいなくて仕方がなかった。
 
112: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:43:15.43 ID:lHjzupfL
それでも私は学校内では勉強をしている素振りを1ミリも見せなかった。

クールに1位を取る。これが高咲侑のやり方だ。

勉強道具が無くたって勉強はできる。

何も持ってなくても、交差点で信号待ちをしている時でさえ、頭の中のノートでテスト勉強はできる。3回目のテストにして初の境地に至っていた。

休みの日は比喩ではなく本当に頭が破裂しそうだった。

朝から夜まで勉強に勉強。とにかく勉強。

知識を詰め込み、知識を確認し、問題集でひたすらに手を動かし、自分のミスを見つける。

1学期のころは丸付けでバツが付くととても嫌な気分になったが、今では自分の弱点が分かることが快感だった。

テスト対策という知が完成形へと一歩一歩近づいている、そんな気分に興奮を覚えた。

以前は歩夢に遠慮していた勉強時間も、今回は一切の配慮をしなかった。

私が気が済むまで勉強をし、あとは気絶したように寝る。

そこに歩夢が眠そうだからもう帰るとか、歩夢がまだ勉強をしているからまだ寝ないとか、そんな遠慮はしなかったし、必要なかった。

なぜなら私も歩夢も本気だったから。

本気だったから、そんな些細なことを気にしている余裕は無かった。

私と歩夢の勉強量は誰にも負ける気がしなかった。

正直、今回のテストは私たちの完全勝利だと思っていた。
 
113: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:46:22.59 ID:lHjzupfL
――――――――――――

「3位、かぁ……」

掲示板に張り出された順位の紙を見て、歩夢は悲しそうにそうつぶやいた。

「やれるだけのことはやったのにな……」

「でも、前回から6位も上がったじゃん!すごいよ!」

「それでも私は侑ちゃんには届かなかった……」

けれど私は2週目だ。正直良い順位を取ったところでそれは不正のようなもの。本当の実力じゃない。

高校の内容まで理解しているし、頑張り方だってそこら辺の中学生よりも心得ている。

だから、そんな背景もなくここまで努力して3位を取る歩夢は本当に尊敬する。

歩夢が頑張るべき時に頑張れるっていう事は同好会の活動で知っていたつもりだったけれど、まさかここまでとは1周目の私は知らなかった。

「でも、私は歩夢ちゃんの頑張りをちゃんと見てたよ。」

私はちょっと背伸びをして歩夢の頭を撫でた。

歩夢に触れるのはいつぶりだろう……

「でもっ……結果がダメだったらそんなの意味ないよっ!」

「……そんな悲しいこと言わないでよ。」

歩夢の目を見ても、すぐに目を逸らされる。

「こっち見て!」

私は歩夢の両肩をつかみ、体を私の方へ向けた。

「う、うん……」

普段私が出さないような大きな声に少しびっくりしてるみたい。

「結果よりも過程が大事とは言わない。これは逃げの言葉だから。」

「でもね、たとえ結果が出なかったとしても、そこへの道のりを後から振り返って『やってよかった』って思えたなら、それはかけがえのない経験なんだよ!」

「だから、今回の歩夢の歩夢の努力を……」

「……意味がないなんて言わないでほしい。それだけで終わらせないでほしい。」

「ねっ?」ニコッ

「う、うん……」ポロポロ

私の言葉は歩夢に届いたかな?
 
114: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:49:30.48 ID:lHjzupfL
歩夢は目標に一歩届かなかった。

それでも、こんなにも努力ができる歩夢だったら……

こんなにも悔しい思いをした歩夢だったら……

――次こそは抜かされるかもしれない

決して希望的観測ではない、心からの確信だった。

――――――――――――

家に帰ると、机の上に積み上げた大量の紙とノートが夕日でオレンジに染まっていた。

全て今回のテスト勉強で消費した勉強道具だ。

いつも歩夢とローテ―ブルで勉強をしているから勉強机はめったに使わない。だから、気が付くと物置のようにどんどんいらないモノがたまっていく。

「これも捨てないとなぁ……」

玄関から紐とはさみを持ってきて、一束一束ずつ丁寧に縛っていく。

チラシの裏に書いた計算問題の記述を見ると、その時の記憶が鮮やかによみがえる。

この日はテスト何日前で……私は何を飲みながら勉強をしていて……そのとき歩夢がどんな勉強していて……

たかが計算用紙とはいえ、真剣に問題に向き合えばその1枚1枚ですら愛着が生まれる。

そして、この薄い1枚1枚の紙が重なることによってできるタワーは私の努力と結果を象徴しているようだった。

この時間、つまりテスト勉強の後片付けをする時間が、

テストというイベントの中で、私はこの時間が、一番嫌いだ。

私が努力の跡を取っておかない理由は2つある。1つは部屋が狭くなるから。

でもこれは大した理由ではない。

もう一つは、その跡に甘えてしまうから。

自分はこんなに勉強したんだ。こんなに努力したんだ。

勉強の痕跡を見ると、いくらかの多幸感に浸ることができる。

でも、それを見るとついつい自分の弱いところが出てしまう。

――こんなに勉強したんだから、少しくらいさぼっても大丈夫だよね……

私がその心の隙を許したのは1学期の中間テスト、すなわち最初の定期テストの後だった。

その時のタワーは今回のタワーよりも全然小さかったけれど、それでもあんなに勉強をした定期テストは私の人生で初めてだった。

自分の勉強の痕跡が目に見えて分かり、ひどく興奮し、そして満足感に酔いしれた。

結果、期末テストでは総合1位は撮れたものの理系科目でケアレスミスをしてしまった。

そんな私が許せなかった。
 
115: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:52:44.81 ID:lHjzupfL
私は満足感や優越感を得るために勉強をしているわけじゃない。

だから、そんなものをくれるこの痕跡は私にとって不要な産物なんだ。

自分が運べる量の計算用紙やノートを縛り、一つ一つ纏めていく。

今後も使えそうなまとめプリントやノートを少しだけ残し、私は残りをごみ集積所へと持って行った。

作業が終わり、私はやけにこざっぱりした勉強机に座りながら夕日の落ちた窓の外を眺めていた。

冷蔵庫の麦茶を持ってきたはいいもの全く飲む気が起きず、気が付けばコップは汗まみれになっていた。

なんだか心に穴が開いたような、そんな気分だった。

――歩夢はどうしてるんだろう……?

歩夢は本当にすごい。歩夢は勉強している時、絶対に弱音を吐かない。

難しいとか、疲れたとか、もうやめたいとか……

本当に強い子だ。

だから……



ずっと心に抱えている心配の種があった。

歩夢は1周目よりも何倍も勉強を頑張り、何倍も良い結果を残してきた。

中3になると、私たちは受験をする。つまり、進学先の高校を自分で選ぶ。

今の歩夢の成績を考えると、正直虹ヶ咲は物足りないレベルだ。

虹ヶ咲の魅力にひかれて桁違いに頭のいい子は少しは入ってくるけれど、その選択をするかは歩夢次第だ。

すなわち、歩夢は虹ヶ咲に行かない選択だってあり得る。

その時、私はその現実に耐えられるだろうか。

いや、それ以前に歩夢が他の高校を選ぶときに私という存在が足枷になるかもしれない。

私が虹ヶ咲に行くという意思が歩夢の選択の幅を狭めてしまうかもしれない。

受験はまだまだ先だからとなるべく考えないようにしてきたけれど、いつかは真剣に向かい合わないといけない問題だ。

私はすっかりぬるくなってしまった麦茶を一気に飲み干した。

――――――――――――
 
117: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:56:04.47 ID:lHjzupfL
――――――――――――

「もう無理もう無理もう無理~~~!!!」

「ほら、もっといけるでしょ!!」

「痛い痛い痛い痛い!!」

「も~じゃあちょっと休憩ね?」

「ちょっと歩夢強すぎ……。」

「えい」ギュー

「ああああああああああ痛いっ痛いっ!!!」バンバン

暑さもすっかり下り坂の2学期中ごろ、私の心はどんより曇っていた。

その原因が……そう。運動会。

小学校から高校に至るまで、運動会という単語を聴くだけで憂鬱だった。

体力もないし、運動神経もないし。いつもクラスの迷惑になるだけで……

もちろん2週目だからと言って体力が向上するわけでも、運動が得意になるわけでもない。

むしろ高校の時よりも年相応に体力が落ちている。

そんな時、歩夢が運動会に向けて一緒に運動しようと誘ってくれた。

歩夢も私ほどではないにしても運動は苦手な方だ。でも、

『せっかく参加するんだから、楽しいほうがいいじゃん?』

だってさ。ポジティブだなぁ……。

運動会の種目は個人競技の100 m走、クラス対抗の全員リレー、そして学年種目の大縄跳びだ。

大縄跳びは一人のせいで縄が引っかかってしまえば最初からだし、全員リレーは自分の番で後ろから抜かされたらと思うと怖くて仕方がない。

100 m 走は遅くても自分が目立つだけだから大きな迷惑は掛からないけど……

そんなわけで今は朝の5時。怪我防止とウォーミングアップを兼ねて体の柔軟をしていたんだけど……

「も~、侑ちゃん身体硬すぎない?」

開始早々、歩夢に呆れられていた。

「じゃあ歩夢はどうなのさぁ~」

「ほら」

「全然曲がってないじゃん!」

「侑ちゃんよりかは曲がってるよ!!」

運動音痴が二人集まったところで、ただのどんぐりの背比べだ。
 
118: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 21:59:19.15 ID:lHjzupfL
「じゃあもう一回背中推すよ!息を吸って~」

「はいて~」ギュ~

「フー……」

「痛い痛い痛い!!」バンバンバンバン!!!

「ちょっとさっきよりも強くない!?」

「でもさっきよりも少し柔らかくなったんじゃない?」

「もしかして歩夢ってごり押す脳筋タイプ?」

「…」イラッツ

「……」ギュー

「無理無理無理無理限界限界限界!!!!」

「私、脳みそ筋肉だから聞こえないなぁ~」

「ごめんなさ~い!!!」

こうして私たちの運動会特訓週間が幕を開けた。

――――――――――――

「はぁっ……、はぁっ……」

「侑ちゃん大丈夫?ちょっと休む?」

「いやっ、大丈夫っ。限界はっ、まだ先っ……」

「うおぉぉぉぉぉ!!!」タタタタタタ

「ちょっと侑ちゃん!そんな急に無理したら!」

「あぁっ、やっぱりっ、ちょっとっ、休む……」

「ほら……だから言ったのに……」

軽い(軽くない!!) ストレッチのあと、私たちはマンションの周りをランニングした。

初めのうちは1周も走りきることができなかったけど、日を経るごとに走れる距離もどんどん伸びてきた。

とにかく、歩夢が私のペースに合わせてくれるのが申し訳なくて、ついつい自分の限界以上頑張っちゃって……、でもそれが結果的に良かったのかもしれない。

1人だったら辞めてしまいそうな負荷のちょっと先まで頑張ることで、私の体力は見る見るうちに向上した。

そしてランニングが終わると腕立て、腹筋、背筋のトレーニング。

腕立ても最初は膝をついて3回が限界だったけど、毎日トレーニングを重ねるうちに膝をつかなくても出来るようになった。

普通の人からすると当たり前のことかもしれないけれどね……
 
119: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 22:02:45.87 ID:lHjzupfL
学校でも放課後はみんな集まって練習をした。

最初の方は私の体力が無さ過ぎてジャンプし続けられなかったけれど、歩夢との朝の特訓をするうちにだんだんと体力がついてきたようで引っかかる回数が少なくなった。

足の速さは急には変わらないけど、それでもなるべく順位を落とさないように0.1秒で速く走れるように、いろいろな本やネット上のサイトで勉強した。

それに、バトンの受け渡しも前後の人と何回も、何回も練習した。

しつこく練習を頼んでも嫌な顔をせずに快諾してくれて、本当に嬉しかった。

思えば1周目の私は嫌だ嫌だと言うばかりでこんな努力はしてこなかったな、とちょっとばかし反省した。

こんな生活を送っているおかげで1日が終わるともう疲れで動けない。

丸一日勉強した後も体が疲れて動けなくなるけど、それとはまた別の疲れだった。

だから夜はすぐに布団に入るんだけど、意外にもすぐに爆睡!とはならない。

なんか興奮してるというか、体は疲れて脳は寝たいって思っているのになぜか目が冴えちゃう。

結局いつも通り音楽を聴きながら、気が付いたら寝ているといった感じ。

そうそう、勉強で疲れている時も意外とすぐに寝られないんだよね。

頭がずっと回転しっぱなしというか、なんというか……

そんな日々を送るうちに運動会前日になった。

なぜかベランダに歩夢がいるような気がして外に出てみると……

「あ、やっぱり歩夢ちゃん外にいた。」

「えっ?何で分かったの?」

「う~ん、なんとなく?」

「幼馴染のカン?」

「あっそれいいね!」

「幼馴染でいいの?」

「もうっ!今は幼馴染でいいの!!」

「今は、ね!」

「言葉尻をとらえないで!!」
 
120: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 22:05:47.84 ID:lHjzupfL
「……」

「……」

「明日はとうとう運動会だね……」

「うん。中間テストが終わってから、本当にあっという間だったね。」

「はぁ~あ……」

「憂鬱?」

「憂鬱じゃないと言ったらウソになるかな。」

「何その変な言い方。」

「でも、たぶんいままででいちばんたのしい運動会になる気がするよ。練習に付き合ってくれた歩夢ちゃんのおかげだねっ!」

「私もっ!侑ちゃんのおかげ!!」

「じゃあ今日は明日に備えて早く寝ないとね!」

「そうだね!体痛いところない?」

「大丈夫だよ!」

「それじゃあまた明日、頑張ろうね!」

「うん、おやすみ!」

「おやすみ!」

今日は少しだけ早く床に就いた。

――――――――――――

「あ~、も~、筋肉が痛いよ……」

「だから整理体操をまじめにやらないとダメってあれほど言ったのに!!」

「だって面倒くさいんだもん……」

「そういう所は抜けているんだから……」

「そういえば歩夢は余裕そうだね?」

「侑ちゃんよりも体力あるから!!」

「ふーん……」

「話聞いてる!?」
 
121: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 22:09:00.91 ID:lHjzupfL
運動会が終わった後、私たちは歩夢の家で一緒にお風呂に入っていた。

歩夢も最初は恥ずかしがっていたけど、私が無理矢理押しかけたらなあなあで受け入れてくれた。


「今日は泊まってく?」

「うん、最近歩夢ちゃんとゆっくりお話しできてなかったし。」

「だから急にお風呂に押しかけてきたの?」

「ま~、そうかな~?」

「ちょっと急すぎない?」

「なにが?」

「最近手も繋いでなかったのに……その……///」

「歩夢ちゃんは私とお風呂入るの恥ずかしいんだ?」

「そんなこと……ないけど……(小声)」

「じゃあ湯舟入るね!!」ジャバーン

「ちょっともっと静かに入ってよ!!」

「ごめんごめん!!」

「なんか、二人でお風呂入るの久しぶりだね!」

「ほんとだよ……なんで急に?///」

「うーん、頑張った自分へのご褒美?」

「私に無許可で?」

「最近歩夢ちゃん成分が足りてなかったからね。このままじゃ期末テストを乗り切れない。だから歩夢ちゃんパワーを充電!」

「何なのそのパワー……」

運動会では足を引っ張ることもなければ活躍することもなく、特に見せ場の無い結果となった。

それでも、周りに後ろめたさや罪悪感を感じないだけで、運動会はそこそこ楽しいイベントだった。

ほんの少しだけ、運動会が好きな人たちの気持ちを理解できた気がする。

来年はもっと身体を鍛えて、クラスに貢献できるようになったらいいな、そんなことを感じた1日だった。

その日は歩夢と遅くまで2学期に入ってからの楽しかったことや愚痴を夜まで話し、気が付いた時には次の日の夕方まで寝ていた。
 
122: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 22:12:13.55 ID:lHjzupfL
「歩夢ちゃん……起きて?」

「ん~??」

「もう4時だよ?」

「あしゃの?」

「夕方の。」

「……」

「っえっ!!??」

歩夢は携帯で時間を確認し、目を白黒させている。

「随分寝ちゃったね……。次の日はゆっくりしようって話はしていたけど……」

「ちょっとゆっくりしすぎちゃったね……」

「明日は月曜日、もう学校か……」

「いや侑ちゃん、明日は振替休日で休みだよ?昨日は土曜日だったでしょ?」

「あれ?そうだったっけ?」

「だからもう1日休みだよ!」

「じゃあ今日も歩夢の家に泊まっていこうかな?」

「うん!でも……今日は寝られそうにないね……」

「勉強でもする?」

「……もうちょっと休憩したいかな?」

「じゃあ、一緒にアルバムでも見て話そうよ!!」

「それいいね!さすが侑ちゃん!!」

こうして私たちの運動会は終わり、季節は秋を通り越して冬に差し掛かろうとしていた。
 
123: (もんじゃ) 2022/05/20(金) 22:15:23.45 ID:lHjzupfL
――――――――――――

「期末テストは……私一人で勉強してもいいかな?」

私たちのテスト週間は、そんな歩夢の言葉を皮切りに始まった。

「えっ……なんで……?」

「いやっ……別に侑ちゃんが嫌ってわけじゃないし……むしろ一緒に勉強したいし……むしろずっと一緒に居たいくらいなんだけど……」

「う……うん……///」

「でもたぶん、私は侑ちゃんと一緒に勉強しているとそれだけで安心しちゃうんだと思う。」

「どういうこと?」

「侑ちゃんは本当にたっくさん勉強してて、私も侑ちゃんの影響を受けて頑張れてきたけど……」

「きっとたくさん勉強している侑ちゃんと一緒に勉強しているだけで私も、侑ちゃんと同じくらい勉強しているだって安心しちゃうんだと思う。」

「だっておかしいよね。今まで私の方が低い順位だったんだから、私は侑ちゃん以上に頑張らないといけないのに……」

「だから、今回は一人で頑張ってみたいと思う!」

「歩夢ちゃんがそういうなら……わかった。今回は別々に勉強しよう。」

「ありがとう侑ちゃん!」

「大丈夫、歩夢ちゃんだったら今回こそは絶対に目標を達成できるはずだよ!!」

「うん!でも侑ちゃんも順位落とさないでよね!?」

「分かってるって!!」

1人っきりの勉強は少しだけ寂しかったけれど、やることは同じ。

ひたすらインプットとアウトプットを繰り返す。時間が許す限り何回も、何回も。

2学期は1学期よりも長く、その分実技科目の範囲も広くなる。単純に暗記量が多くなる。

暗記系はお風呂で勉強をしていたが、何度ものぼせかけた。

時には部屋の中をぶつぶつ言いながら歩き回ったり、外のベンチで勉強したりした。

色々な場所で色々な行動をしながら覚えると、忘れにくくなる気がした。気のせいかもしれないけれど。

それでも、2, 3日に1回はどうしても辛くなってしまうときがあって……

何度も何度も、歩夢に電話をしたくなって携帯を手に取って、

そのたびに歩夢の努力の邪魔はできないと自分に言い聞かせた。

ベランダの柵に反射する歩夢の部屋の電気の明かりが、私の心を支えてくれた。

いっしょに過ごす時間が減り、私にとって歩夢がいかに大切な存在かを嫌なほど痛感した。

早くこの地獄のようなテスト期間が終わってほしいという気持ちと、テスト勉強を完璧に仕上げるための時間が欲しいという二つの相反する欲求で私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。

しかし時間は無情にも淡々と過ぎ、テストも終わり、運命の順位発表の日となった。
 
139: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:06:38.89 ID:s57fJqMl
――――――――――――
「私の事は名前で呼んでほしいな。」

それが私の彼女の最初のお願いだった。



順位発表の日、私たちはいつもより少し早く学校へ向かった。

結果は朝から掲示板に貼りだされている。

私が1位で、歩夢が2位。

長い長い紙の一番右側に、私たち2人の名前は肩を並べていた。

「……」

「……うぅ」

「……ひっぐ……あぁ……ぐすん……」ポロポロ

「よしよし。よく頑張ったね。」

私は歩夢の頭をそっと撫でた。

「よがった……やっと……、……」

「うんうん。」

「私……やっだよ……」

「うん、歩夢ちゃんすごいよ……すごい。」

「私……すごい?がんばっだ?」

「うん、私がみとめる。歩夢ちゃんはすごいし、歩夢ちゃんはがんばった。」

「うわぁぁぁぁぁ。」ボロボロ

大粒の涙が右から左から、滝のように流れてくる。

私はいつしか、歩夢を抱きしめていた。

私の肩で泣く歩夢。

そんな歩夢が愛おしくてひたすらに抱きしめた。

周りから見られている気がする。

きっとこれから生徒がどんどん登校してくるだろう。

でも、良いんだ。歩夢は文字通り死ぬ気で、死ぬ思いでここまで頑張ってきた。努力してきた。

この努力が報われたこの瞬間を、一秒でも長く歩夢と享受したかった。

こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいのに……

そんなありきたりな常套句が、今の私の心にはぴったりだった。
 
140: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:10:01.76 ID:s57fJqMl
「歩夢ちゃん!2位おめでとう!!」

「掲示板見たよ!すごいよ!歩夢ちゃん!!」

「えへへ……ありがとう!」

クラスではすっかり歩夢が2位を取った話題で持ちきりだった。

いや、1位もここにいるんだけど!!

もっとみんな騒いでくれてもいいんだよ!?

確かに最初のテストのころはちやほやしてくれたけどさ……

正直1位をキープする方が難しいんだから!!もっと私も褒めたたえてよ!!!

当たり前の事みたいに流さないでよ!!私悲しいよ!!!

そんな嫉妬心を抱きつつ、クラスメイトと談笑する歩夢を眺めていた。

「いや~、でも正直それ以上にアレはびっくりしたよね~?」

「そうそう!朝からお熱いですなぁ~!!」」

「こっちまで恥ずかしくなっちゃったぞ?」

「ヒューヒュー!!」

「その話は恥ずかしいから//////」

もちろんセットで朝の号泣も話題の中心だ。

「こっちまでドキドキしちゃったよ~!!」

結構な人に見られていたのか……。私もちょっと恥ずかしくなってきた。

「ほらほら~旦那が歩夢ちゃんのこと見てるぞ~?」

「えっ?侑ちゃん!?」

やべっ!見てるのバレた!!

「ミテナイヨ?」

「どこから見ていたの?」

「からかわれて顔を赤く染めている可愛い歩夢なんてミテナイヨ」

「見てるじゃん!!!!」
 
141: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:13:04.91 ID:s57fJqMl
「でも歩夢ちゃんを抱きしめてる侑ちゃんもかっこよかったよ~!私が歩夢ちゃんだったら絶対惚れてた!!」

「わかる!!」

「それな!!」

「えぇ……」

相変わらず中学生は全部恋愛に結び付けたがるな……

まぁ、私も当時はそうだったっけ……

そんななんとなく浮足立った空気の中、1日が終わった。

担任の先生は自分のクラスから1位と2位が出たことを喜んできた。

他の先生に自慢できるぞ~!だってさ。

こっちまで誇らしく感じた。少しだけね。



「歩夢ちゃん……その……」

帰り道。私たちにはまだやり残したことがあった。

「えっ……ここで?」

「いやっ、ちょっと落ち着いてからがいいかな……」

「そっ……そうだよね。大切な話だもんね……」

「……うん///」

夏休みに私は歩夢に告白した。

それはまるで昨日の事かのように、今でも鮮明に思い出される。

歩夢がテストで私と肩を並べらえるようになるまで返事は保留。その約束だった。

そして今日、高咲侑の名前の隣には上原歩夢があった。

事実、歩夢は夏休みよりも何倍も、いや何十倍も勉学に真摯に向き合った。

いや、それだけじゃない。

歩夢はテストを通じて自分、そして自分の弱さにも真正面から向き合い、人間として大きくなった。

とうとうこの日が来たんだ。

興奮から体が震えた。
 
143: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:16:17.39 ID:s57fJqMl
上手く会話が進まないまま、気が付けば私たちのマンションについてしまった。

本当に、こういう恋愛ごとに関しては下手っぴだよな、私も歩夢も。

「あはは……こりゃ困っちゃったね……」

「すこし、お出かけしない?」

そんな歩夢の提案で、私たちは夕方の街へと繰り出すことに。

いったん家に荷物をおいて、着替えてから再集合。

「あれっ?歩夢ちゃん早くない?」

「今きたところだよ……///」

「ちょっと自分で自爆するのやめてよ///こっちまで恥ずかしくなっちゃったじゃん///」

「も~!早くいくよ!!」

私たちは駅まで歩いた。

「歩夢ちゃん、その服って……」

「そう、侑ちゃんと一緒に選んだ服だよ。私のとっておきなんだ!」

「あ、ありがとう……」

私がパパとママにピアノを聴いてもらった日にショッピングセンターで一緒に選んだ服だった。

全体としては落ち着いている大人びた印象なのに、細かいところは可愛い装飾やこだわりが散りばめてあって……

幼いながらも大人になろうとしている歩夢にぴったりの服だった。

「とても似合ってるよ。」

そう付け加えた。

「侑ちゃんも、いつもより気合入ってるね?」

「ま、まぁね……」

大切な日だからちゃんとした服を着ないと……と思ったんだけど、考えれば考えるほど分からなくなっちゃったんだよね……

終いには歩夢を待たせちゃうし……

これで良かったのかな……?

「どう?似合ってる?」

「侑ちゃんらしくていいと思うな。」

「えっ?それって誉め言葉?」

「どうだろうね~♪」

「えぇ……」
 
144: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:19:24.68 ID:s57fJqMl
どうやら服選びは失敗のようだった。

うぅ……ファッションの事はよくわからないよ……



特に相談することなく、私たちはお台場方面の電車に乗った。



お台場に着いた後はなかなか本題を切り出せないまま、いろいろなお店を回った。

そして日も暮れたころ、

「ちょっと行きたいところあるんだけど、いい?」

歩夢は私をある場所へと連れ出した。



ギギギギギ……

鉄の箱がゆっくり地上から離れていく。

私は親友と一緒に観覧車に乗った。

もうすぐ冬至。まだ夕方の時間なのに、空はすっかり薄暗く街灯が街を照らしていた。

夏の景色も綺麗だったけど、空気が澄んでいる冬の景色も違った味わいがある。

風が吹き、僅かにゴンドラを揺らす。

そんな揺れには物ともせず、観覧車は上へ上へと登っていく。

心臓が痛いほど鼓動が速い。

揺れのせいではない。

もちろん高さのせいでもない。ちょっと怖いけど。

「ここからの花火、とてもきれいだったね。」

沈黙を破ったのは歩夢の方だった。

「うっ、うん!そうだね!」

「侑ちゃんやっぱり観覧車怖かった?」

「いや、全然怖くないよ!?」

「無理やり誘っちゃってごめんね?」

「だから、全然怖くないよ!?透明なゴンドラでも余裕だったし!!」

「侑ちゃんさ……」

その一言で空気が変わった。
 
145: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:22:30.10 ID:s57fJqMl
「うん。」

一気に静寂が再来し、鉄が擦れる音だけが残った。

「侑ちゃん……ここまで待たせちゃってごめんね……」

「うん、大丈夫だよ。私はいつまでも待つって決めていたから。」

「ありがとう……」

観覧車はぐんぐん空へと昇っていく。

「……、なんて言えばいいか、難しいね……」

「こういうの初めてで……」

「うん、ゆっくり、歩夢の言葉で聞かせてほしいな。」

「……」

「侑ちゃんが告白してくれて、とても嬉しかった……です。」

「だから……その……」

「ふふっ……いっぱい何を言おうか考えてきたのに……全部忘れちゃったよ……」

私はおもむろに立ち上がり、歩夢の隣へ座り直した。

「そんなに緊張してくれてるの?」

「だって……ずっとこの日を待っていたから……」

歩夢は覚悟を決めたように喉をゴクリと鳴らすと、ずっと下を向いていた顔をぱっと上げた。

歩夢と目が合う。

目の前に歩夢の顔。

ビー玉のようなきれいな目玉。

どんな事でも受け入れてくれそうな優しい目元。

少し熱を帯びたようにほんのり赤に染まった頬。

不自然なほどに近い距離なのに……私は身体を動かすことができなかった。

そこには私が初めて見る表情の歩夢がいた。

「私ね――」

観覧車は頂点に差し掛かろうとしていた。
 
146: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:25:39.01 ID:s57fJqMl
その後、も観覧車は回り続けた。

ゆっくり、ゆっくりと。

――上るときはゆっくりに感じるのに、

――下りはあっという間に感じるよね、観覧車って。

そして鉄の箱は無事空の旅を終え、

私は恋人と一緒に観覧車を降りた。



なんというか、幸福感というか、充実感というか、

そんな幸せ成分が頭の中でいっぱいになってうまく物事が考えられない。

頭は色々考えているようで、なぜかぼーっとしてしまう。

ただ、観覧車に乗っていただけなのに、全身がへとへとに疲れている。

あの観覧車の中の15分間は、私の人生の中で一番濃い時間だった。

観覧車を降りて少し歩くと、私が歩夢に告白したベンチが見えた。

相談をすることもなく、私たちはそのベンチへ座った。

「ふぅ……」

思わず声が漏れる。

「歩夢ちゃん……」

特に意味もなく、歩夢を呼んでみたくなった。

「どうしたの?」

「呼んでみたかっただけ~」

「ふふふっ……なんか恋人みたいだね。」

「もう、恋人でしょ?」

「///」

「……あのね、侑ちゃん……」

「呼んでみただけ?」

「違うよ~。あのね……、」

「私の事は名前で呼んでほしいな。」
 
149: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:28:49.34 ID:s57fJqMl
「えっ?もう名前で呼んでるじゃん。」

「そういう事じゃなくて……呼び捨てで……」

「歩夢って呼んでほしい……///」

「別にいいけど、急にどうして?」

「侑ちゃん、何回か私の事歩夢って呼んでくれたよね。」

「あれ?そうだっけ?」

「そうだよ。」

「1回目は林間学校で私が迷子になったとき。」

「私がみんながいる場所へ帰ってきたとき、侑ちゃんは一番にテントから飛び出して『歩夢!!!』って私と頃に来てくれたよね。」

「そんなこともあったね……」

「そして2回目は2学期の中間テストの時だね。」

「努力が無駄と決めつけるのには早すぎるって、侑ちゃん怒ってくれたよね。」

「その時、侑ちゃんは覚えていないかもしれないけど私の事を歩夢って呼んでくれた。」

「いつもみんなに歩夢ちゃんって呼ばれているから、なんか特別感があって……」

「すごく、『歩夢』って呼び方がドキドキするんだよね……」

「だから……侑ちゃんさえ良ければ……」

「歩夢って呼んでほしいな///」

「うん、わかったよ。歩夢。」

「うん///」

「ところで……、私は侑って呼んでくれないの?」

「それは恥ずかしいから無理。」

「え~!!歩夢だけズルいよ~!!」

「それはまた……心の準備ができてからね。」

「じゃあ私も歩夢ちゃんって呼ぶ!!」

「侑ちゃんは彼女との初めての約束をそんな簡単に破るの?」

「……わかりました私の負けです。歩夢の勝ちです。」

「よろしい。」
 
151: (もんじゃ) 2022/05/23(月) 23:32:08.46 ID:s57fJqMl
「それじゃあママたちが心配するし、そろそろ帰ろうか。」

「そうだね。ほんとはずっとこのままここに居たいけど。」

「大丈夫だよ。私たちはこれからずっと一緒なんだから。明日の朝もモーニングコール頼むよ?」

「1日くらい侑ちゃんが私を起こしてもいいんだからね?」

「それは……善処します。」

「そんな難しい言葉使ったってごまかされないんだからね!」プンプン

「でも、明日は本当にお願いするよ。」

「きっと、今日は興奮して眠れそうにないから……」

「うん。でも私も自信ないから目覚まし時計もしっかり準備しておいてね。」

「私も今日は眠れそうにないよ……」

私たちは久しぶりに手をつないだ。

歩夢の温かい手。優しい手。すべてを包み込んでくれるような手。

夏休みまでは何の気なしにつないでいた歩夢の手だけど、

今はこの手を私が独占できることに、若干の優越感を覚えた。

いつもよりもちょっとだけ近い距離感が、私たちの関係性の変化を如実に表していた。

あの下りの観覧車の中で告白の返事を歩夢から受け、互いの愛を囁きあった。

うまく言葉が出てこなかったり、恥ずかしさが邪魔をしたり、正直不格好だった。

それでも、私が歩夢の事が好きという感情で歩夢が幸せを感じられるのであらば、

私は歩夢のそばにいることができて本当に良かったと思う。

そして、これからもずっとそばに居たい。

歩夢の存在を感じたくなり、歩夢の手を強く握った。

すると、歩夢は微笑みながら握り返してくれた。

「大丈夫。どこにも行かないよ。」

こうして、私の告白は4か月の時間を経て成功に終わった。
 
163: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:09:02.52 ID:DvcOS3od
――――――――――――

「ピアノ弾ける人、ちょっとこっちに集まって!」

音楽の授業が終わった後、桜内先生はこう呼びかけた。

「あれ?侑ちゃん行かないの?」

「私はまだまだだから……まだ弾けるってレベルじゃないよ……」

そう言って音楽室を出ようとすると

「ちょっと高咲さん、なんで無視するのよ!」

「え……だって私そんな弾けるって程のレベルじゃ……」

「いいから来て!」

「は、はい……」

「ごめんね歩夢、先戻ってて。」

そう歩夢に言い残し、先生のもとへと引き返した。

先生の周りにはすでに2人のクラスメイトがいた。

「私はまだ弾けるレベルじゃない~とか思ってたんでしょ?」

「だって……私そんなにうまくないし……」

「あなたはもう十分にピアノが弾けるって言って過言じゃないレベルよ。」

「高咲さんにとって今一番必要なのは自信かもね。」

「自信……ですか……」

「さて、本題に移るわね。何の話が分かるかしら?」

「合唱コンクールの伴奏の話……ですよね……」

クラスメイトが面倒くさそうに先生に聞いた。

「そう!その通りよ。」

合唱コンクール。

3月の第1週に行われるイベント。小学校では合唱で技術を競うことはなかったけれど、中学ではコンクールの名に相応しく上位3クラスの順位が発表される。

運動会と並ぶ中学校の2大行事だ。

もう一人のクラスメイトが質問する。

「伴奏って……、先生が弾くんじゃないんですか?」

「うんん、クラスの中から奏者を選ぶの。どうしてもいなかったらCDになるけどね。」

「ちなみに指揮者もクラスの中から選ぶのよ。」

「そんな本格的なイベントなんですね……」
 
164: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:12:19.88 ID:DvcOS3od
「私、ただ歌うだけかと思っていました……」

そう、私も中1のころはその程度の認識だった。

あの頃は音楽に関心があまりなく、練習のやる気もいまいちだったけどね……

「それで、この3人で誰が伴奏を弾くか相談してほしいの。」

「課題曲と自由曲。それぞれ2人でもいいし、どうしても出来そうになければ1人が2曲弾いてもいいわ。」

「自由曲は今日の6限の総合の時間で決めることになっているわ。」

「楽譜はみんなが持っている歌集に載っているから、相談するときの参考にしてね。」

「期限は来週の音楽の時間までね。それすぎちゃうと3学期になっちゃうから。」

「それじゃあ、話し合い、よろしくね!」

「は……はい……」




音楽室を出ると、歩夢が待っていた。

「あれっ、歩夢?先行っていてよかったのに。」

「良いの!私が待ちたかっただけだから!」

「歩夢は今日も可愛いなぁ……」

「褒めたって何も出ないよ~?」

イチャイチャしていると後ろから視線が……

「侑ちゃんと歩夢ちゃんって前から仲良かったけど、最近妙に距離感近くない?」

「怪しいですなぁ……?」

「あっ……えっと……、その……」

「おやおや、侑ちゃんが動揺していますぞ~?」

「これはますます怪しいですなぁ~?」

「ちょっと侑ちゃん……」

「まぁ、かわいそうだし今日は追及しないでおいてあげるよ。」

「そうだね。じゃあお二人でごゆっくり~!」

「もう、そんなんじゃないって!!!」

二人は別ルートで教室まで帰っていった。もう、変な気を遣っちゃってさ!!
 
165: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:16:05.09 ID:DvcOS3od
「侑ちゃん……」

「ごめんね……これからはもっと周りをよく見て……」

「そんなんじゃないってどういうこと?」

「あっ……えっと……」

たとえごまかすためとはいえ、そんなんじゃないって言葉は良くなかったな。

?をつくにしても、ついていい嘘とついちゃだめな嘘がある。

今のは、特に歩夢の前ではついちゃいけない?だった。

「今の誤魔化し方は良くないよね……ごめん。歩夢の気持ちも考えずに……」

「あっ、いや……そこまで責めているわけじゃないんだけど……。ただ、ちょっと寂しかったかなって。」

「そうだよね。ごめん……」

私は歩夢の手を握った。

「ちょっと学校では……」

「大丈夫。廊下に誰もいないから、バレないよ。」

「でも急に誰かが出てくるかも……」

「そしたら離せばいいよ。」

「え~離しちゃうの!?嫌!!」

「だって、手を繋いでいたら私たちが付き合っていること、みんなにバレちゃうかもよ?」

「それは嫌!!」

「歩夢はわがままだなぁ~」

そんな馬鹿話をしながら、私たちは学校の廊下でほんの少しスリリングな時間を楽しんだ。

きっといつかはみんなに知れ渡ってしまうだろうけど……ほんの少しだけ、この秘密の関係を楽しみたい、そう思った。
 
166: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:19:08.18 ID:DvcOS3od
6時間目の授業が始まる直前、先生がCDラジカセを教室に持ってきた。

MDも再生できる優れものだ。使う機会はないだろうけれど。

こんな機材があるのは学校くらいだろう。少し懐かしい気分になった。

「はい、今日は合唱コンクールの自由曲の曲決めをします。」

「音楽の桜内先生が選んでくださった候補曲10曲を今から順に流すので、それを聞いたうえで歌いたい曲を1位から3位まで紙に書いて提出してくださいね。」

候補曲はどれも聞いたことがあるような無いような曲で、

結局私たちのクラスが1周目で歌った曲を第1希望に書き、2位と3位はなんとなく気に入った曲で埋めた。

「帰りの準備をしておくように。」

先生が票を集計し、教室から出ていく。

他のクラスの結果とすり合わせて曲を決めるのだろう。

帰りが遅くなるかな、と心配したころ、先生が戻ってきた。

どうやら全クラス第1希望の被りが無かったそうだ。

自由曲は私の第1希望、すなわち1周目でこのクラスが歌った曲と同じ曲に決まった。



放課後、音楽室で呼ばれたピアノ組3人で集まり、誰が伴奏を弾くかの会議をした。

「歩夢、先帰ってもいいんだよ?」

「うん!待っているね!」

「……話聞いていた?」

「私が待ちたいから待つの」

「じゃあ、なるべく早く終わらせてくるね!」

早く終わらせる、そう歩夢に約束したけれど……

「……」シーン

みんな消極的で、一向に会話が始まらない。

「ふっ二人は、弾きたいな~っていう気持ちはある?」

言ってから、何ともはっきりしない質問だなと後悔する。

「うーん、正直面倒くさいというかなんというか……」

「私、あまり人前で弾くのが苦手で……」

二人とも後ろ向きのようだった。

「侑ちゃんはどうなの?」

「私はまだ……初めて1年もたってないし無理だよ……」
 
168: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:22:15.86 ID:DvcOS3od
「えっ、侑ちゃんって中学からピアノ始めたの?」

「うん、そうだよ?」

「えっ……それにしては上手くない?」

「そうなの!?びっくりしちゃった!」

「えへへ……そうかな……」

「すごいよ!天才!」

「天才だから伴奏もなんてことないよ!!」

「そうかなぁ~。じゃあ~……って!そんな簡単に乗せられないんだからね!?」

「無理だったか~」

「侑ちゃんちょろいからいけると思ったんだけどなぁ~」

「誰がちょろいだと~!!!」

「でも、初めて1年って言うのは、本当にびっくりだよ。」

「みんなは小学校のころからやってるの?」

「私は幼稚園から。」

「私は小2からやっているよ。さぼりっぱなしで全然進んでないけどね……。いつもママと先生と大喧嘩してる……」

「そ、そうなんだ……」

西木野先生も怒るときには怒るのかな……

なんか本気で怒ったらすごい怖いんだろうなって感じする。わからないけど。怒らせないように練習頑張らないと……

「幼稚園からってすごい長いね!」

「まぁ、もうピアノをやっている時間の方が長いくらいかな。」

「それなのに面倒くさいの?」

「面倒というか……ちょうど合唱コンの時期にピアノのコンクールがあって、両立が厳しいんだよね……」

「ピアノのコンクール!?すごい!!」

「別にコンクールは申し込めば誰だって出られるしそんなすごくないよ。」

「じゃあ、伴奏は厳しいね……」

「そうすると私たちで伴奏をしないといけなくなっちゃうわけだけど……」

「これは……マジでヤバいね。」

「……うん、ヤバいね。」

「それじゃあ、私はここで失礼するとするよ。お先にごめんね~」

そう言って彼女は帰った。ピアノのコンクールがあるんじゃ、仕方がないよね。
 
169: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:25:23.43 ID:DvcOS3od
「さて、課題曲と自由曲、どっちがどっちをやるかだけど……」

「これ絶対自由曲の方が難しいよね……」

私は楽譜を見てつぶやいた。すると彼女は

「私……小学校からピアノやっているって言っても、全然練習してないし……」

「ここ最近教室さぼってばかりで指もくっついちゃっているし……」

「できれば課題曲やらせてほしいんだけど……」

申し訳なさそうにそう言われた。

「でも、私にこれは無理だよ……」

「本当っ!一生のお願い!!」

「ね?ほら、もし無理だったらCD流せばいいんだし!!」

「学年1位の侑ちゃんが難しい曲を弾いた方が、みんな喜ぶって!!」

「それに、侑ちゃんはどんどん上達しているし、そういう成長期に難しい曲を経験することはとてもいいことだと思う!たぶん!」

「ね?だからやってくれないかな?」

「う……うん……。わかった……。頑張ってみるよ……」

「やった~!。それじゃあお互い練習頑張ろうね!」

そう言うと彼女もそそくさと教室から出て行ってしまった。

押し切られてしまったけど、本当に大丈夫かなぁ……

なんか心がもやもやする。

きっと、うまく弾けるか不安な気持ちがそうさせているのだろう。

そうに違いない。

「侑ちゃん?」

「えっ歩夢!?」

「あ、そっか、待っていてくれるって言っていたもんね……」

「うん。」

「いつもみたいに校門にいるかと思っていたからびっくりしたよ。」

「侑ちゃんがなかなか来ないから戻ってきちゃったよ。」

「そ、そうなんだ……」
 
170: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:28:46.39 ID:DvcOS3od
「侑ちゃん、大丈夫?」

「なっ何が?」

「私、さっきの話し合い聞いていたよ。」

「まぁ、『話し合い』なんてものじゃなかったと思うけどね。」

「歩夢……」

「そんなに怒らないでよ……あの子たちも悪気があるわけじゃないんだろうし……」

「それでも、無理なものは無理ってしっかり伝えないとダメだよ!」

「侑ちゃんはみんなに気に入られたくてピアノをやっているの?」

「侑ちゃんはそんなに周りから良い人に思われたいの?」

「それは……」

「でもさ、きっと成長できるかもしれないし……」

「それは侑ちゃんが本当に思っている言葉なの?」

「あの子たちの受け売りじゃなくて?」

「難しい曲を押し付けられたことに対して、自分を納得させようとしているんじゃないの?」

「それは……」

「……」

私は何も答えられなかった。

全て図星だった。

無理難題を押し付けられて……

忙しいのはみんな一緒なのに……

そもそも伴奏なんてボランティアだ。別にやらなければならない義務はない。

目立ちたがり屋でなければ、そこまでしてやりたいと思うものではない。

それを自分で納得させようと相手の言葉で自分を騙し……

これで良かったと思い込もうとしている……

言葉が、出てこなかった。



歩夢は怒っていた。

そんなわがままを私に押し付けた彼女らに対して。

そして、その事実を自分自身に対してごまかそうとしている私、高咲侑に対して。
 
172: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:32:32.60 ID:DvcOS3od
どれくらいの時間がたっただろうか。

遠くで運動部の掛け声が聞こえる。

反対からは吹奏楽部の金管楽器の音が聞こえる。

いくら時間が経とうとも、歩夢は私の目をじっと見つめていた。一瞬のまばたきすら許さないような、強い視線。

怒りと悲しみと、そして心配。そんな感情が歩夢の目から伺えた。

思わず、涙がこぼれた。



「よしよし」ナデナデ

「歩夢……」

「大丈夫だよ……」ナデナデ

「ちょっと……恥ずかしいんだけど……」

私は歩夢の膝の上で抱きかかえられるように座っていた。

「だって侑ちゃんが急に泣き出しちゃうから……」ナデナデ

「それは……」

「もう、びっくりしちゃったよ……」ナデナデ

「そんなに私怖かった?」ナデナデ

「いや、そうじゃなくて……」

「なんか、歩夢って私の事を一番に考えてくれるんだなって思ったら、なんか嬉しくなっちゃって。」

「あの子たちは自分が一番で……まぁ、そういう人も普通だと思うし私も場面によっては自分の事を一番に考えちゃうことがあるけれど……」

「でも歩夢はいつも私を一番に考えてくれるなって思ったら……」

「なんだかわからないけど涙が止まらなくなっちゃった……」

「侑ちゃんもちょっと疲れているんじゃないかな?」ナデナデ

「そんなことないよ!ピンピンしているよ!?」

「身体だけじゃなくて、心が、だよ。」

「テストだったり運動会だったり、ちょっと無理しちゃったのかもね。」

「そ、そうなのかな……?自覚ないけど……」

「そういうのは自覚がないものなんだよ……」

「急に泣いちゃうくらいだから限界寸前だったと思うよ……」

「よしよし」

「ありがとう……」
 
173: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:35:49.53 ID:DvcOS3od
「でも……誰かに見られたら……」

「見られてもいいじゃん。」

「え~、歩夢に慰めてもらっているところなんて見られたら恥ずかしいよ~」バタバタ

「ちょっとおとなしくしてて!」

後ろから腕を回されがっちりつかまれる。抜け出せない……

「はい……」

諦めたように力を抜くと、歩夢の拘束も緩む。

今だっ!!

そう思い恥ずかしい体勢から抜け出そうとするが再び歩夢の腕に力が入る。

歩夢から離れられない……

「侑ちゃんの考えていることなんて、お見通しだよ?」

「ぐぬぬ……」

逆らってもきっと無駄だ。

私はこの可愛い悪魔にしばらく捕まっておくことにした。



「私はね、別に難しいことにチャレンジすることが悪いなんて思ってないよ。」

「でもね、それは侑ちゃんが納得したうえで、チャレンジしたいものに対してチャレンジするべきだと思うな。」

「うん……」

「だから、他人に無理やり押し付けられ手しょうがなくやるとか、他人にいい顔をしたいためにするチャレンジはちょっと違うと思う。」

「確かに難しいことにチャレンジすれば成長できるかもしれない。でも、それはチャレンジする側の言葉。」

「自分が受けたくない面倒な役割を人に押し付ける人が言ってはいけない言葉だよ。」

「うん……」

「うん、うんって、ちゃんと聞いているの!?」

「うん、聞いてるよ。」

私は歩夢に抱きかかえられているのでお互いにどんな顔をしているか見ることはできない。

でも、なんとなく今どんな顔で歩夢がしゃべっているかは見なくともわかる。

幼馴染の勘、なのかな?

「だから、侑ちゃんがもしも伴奏を受けたくないんだったら明日ちゃんと抗議しよう。私もいっしょについていくからさ。」

「うん……、でも、ちょっと考えさせて。」

「侑ちゃんがそういうなら。」
 
174: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:38:57.89 ID:DvcOS3od
「心配してくれてありがとうね。」

「別に……私は侑ちゃんが便利に使われているのが嫌なだけで……」

「それを心配って言うんだよ。」

「……もうっ///」

「私、目が覚めたよ!」

「ちょっと話したい人がいるんだけど、付き合ってもらってもいい?」

「侑ちゃんの頼みなら、どこだってついていくよ。」

「ありがとっ!」

そう言って私たちは職員室へと向かった。きっとこの時間ならここにいるはず……



コンコン

「失礼しまーす! 1年の高咲です。桜内先生いらっしゃいますか?」

「……」

「桜内せんせ~、生徒が呼んでいますよ~」

「は~い、今行くから外で待ってて!」

「ありがとうございます!失礼します。」

職員室で先生を呼んだ時の静寂、本当にやめてほしい。

なんで先生は一瞬無視するんだろう……

そんな不満に腹を立てていると、

ガラガラ

「高咲さん、どうしたの?」

「ちょっと伴奏の事で相談したいことがあって……お時間いいですか?」

「いいわよ~。じゃあ、音楽室行こうか。」

「ありがとうございます!」

私たち3人は音楽室へと向かった。
 
176: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:41:51.82 ID:DvcOS3od
「あなたは……上原さんね。いつも高咲さんと仲がいいわね。」

「なんか改まって言われると恥ずかしいです……」

「高咲さんも上原さんも、いい友達を持ったわね。」

「えっ?」

「見てればわかるわよ。以心伝心って感じで、お互いわかりあっている感じだし。」

「そ、そうですかねぇ……」

「そういう友達は努力して作れるようなものじゃないから、大切にしないとダメよ?」

「中学生の時点でそんな友達に巡り合えるなんて、ほんと幸運ね。」

「実は私たち幼馴染なんです……」

「へぇ、幼馴染。ふ~ん、なるほどね……」

桜内先生は私の『幼馴染』という単語に何かを感じ取ったようだったけど……

まさか私たちの今の関係性までバレてないよね??

なんか先生って全部見透かされてそうで……ちょっと怖い……

「せっ先生、忙しいところわざわざありがとうございます……」

「良いのよ別に。テストの採点も終わって、暇だったのよ。職員室の空気もあまり好きじゃないし。」

「先生もそうなんですか?」

「なんかみんな他人というか……誰かが先生を呼ぶとき一瞬の間があるでしょ?」

「みんな自分には関係ないって感じで……。その気まずい空気に耐えられなくなった入口に近い先生が用事のある先生を呼び出す。」

「みんなもっと早く反応してくれればいいのにね。」

「それ!本当にわかります!!」

「私も学生時代はあの感じが嫌だったわ。」

「先生が中学生の時から変わっていない……というかどこも同じなんですね……」

「あら、私が中学生だった時なんて、ほんの数年前よ?」

「え?だって先生になるためには……」

「数、年、前。よ?」

「はっ、はいぃ……」

そんな会話をしているうちに音楽室に着いた。
 
177: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:44:47.64 ID:DvcOS3od
「それで、相談って?」

「それが……」

私はさっきの伴奏者決めの話をした。

「うん、なるほどね……。状況はわかったわ。」

「で、それが本題じゃないんでしょ?」

「はい、それで……、私がこの曲に挑戦する意味があるのかが分からなくなって……」

「もちろん、やれば経験になるのは分かっています!結果いい方に転ぶか悪い方に転ぶかは分かりませんが……」

「それでもやってよかったって思える挑戦だったらやってみたいんです。」

「でも、私にはこの山の高さはわからない……」

「もし失敗しちゃったら……私だけじゃなくてクラス全員に迷惑をかけちゃう。」

「クラスの役に立ちたいけど……でも……もし失敗したらって考えると……」

「もしかしたら初心者がエベレストに登るような、そんな無謀な挑戦をしようとしているのかもしれない……」

「だから、先生の意見が聞きたいんです!」

「そんなのは自分で考え って言われるかもしれないけれど……でも、もう分からなくって……」

「すみません……こんな一生徒の話を聞いてもらっちゃって……」

「ふふっ、良いのよ。生徒の相談に乗ってあげる、いや、寄り添ってあげるのも先生の仕事だもの。」

「先生……」

「高咲さんは2つ勘違いをしているわ。」

「勘違い……ですか?」

「まず、伴奏はクラスのためにするものではないわ。」

「クラスの……ためじゃない?」

「そう。」

「あ、私がここから言う話は内緒でお願いね!」

「教師としての発言として聞かれると色々問題になるかもしれないから……」

「そんな危ない話を私たちにしちゃっていいんですか?」

「高咲さんの音楽に対する真剣さは理解しているつもりだし、そんな高咲さんと相思相愛な上原さんだったら、十分信頼に足るわ。」

「それに、聞くところによると1年生のトップ2らしいじゃない!」

「いや、勉強と信頼は別問題だと思いますけど……」

「あら、厳しいのね。でも、相思相愛は否定しない……と。」

「あっいや……えっと……」
 
178: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:47:43.97 ID:DvcOS3od
「確かに侑ちゃんとは仲良しですけど……///」

「良いのよ誤魔化さなくても。わかっているから。」

「何が分かってるんですか~!!」

「中学生をからかうなんて先生卑怯ですよ~!!」

「あらあら、可愛いわね。」

「それで本題に戻るけどね。音楽家って言うのは、どこまでいっても自分のために音楽を奏でるの。」

「それは……」

「それは違う。そう言いたいんでしょ?」

「はい……」

「もちろんそれが間違いとは言わないわ。そういう答えがあってもいいと思う。」

「でもね、他人は変わってしまうものなのよ。」

「変わる……ですか……?」

「そう。今心が通じ合っている相手だとしても、10年後も同じとは限らない。」

「もちろん、関係性が変わらないことがあるかもしれない。」

「だから人生は楽しいんだけどね。」

「でもね、そんな不確実なものを心の支えにしていたら……音楽家は務まらないわ。」

「音楽家っていうのはね、いくらでも替えが利くのよ。音大にはプロに勝るとも劣らない才能の塊がたくさんいるわ。」

「でも、その中でプロとして食べていけるのはたった数パーセント。運がものをいう世界よ。」

「演奏だけじゃない。作曲だって、音楽にかかわる人材は飽和状態。」

「そんなギリギリの世界の中で、他人を心の支えにできると思う?それだけで長年食いつないでいけると思う?」

「それは……」

「最後は自分なのよ。自分しか信じられる人はいないのよ。」

「もしあなたが音楽の道に進むことを考えているのならば……」

「誰か他人の為じゃない。自分のために音楽に向き合う。」

「いまからその覚悟を持ってほしいと、私は思うわ。」

「だから、もしあなたがクラスに貢献したい、他の2人の負担になりたくないという理由で引き受けるのならば、私はやめた方が賢明だと思うわ。」

私は先生のこんなにも真剣な表情を初めて見た。

きっと、この話は先生が自分の目で見て、肌で感じた実情なのだろう。

どの本に乗っているありがたい話よりも、どの動画サイトのインタビューよりも、

全く着飾らない、現実味溢れる話だ。
 
179: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:50:43.50 ID:DvcOS3od
「少し厳しい話をしてしまったかもしれないわね。」

「はい……なんだかまだうまく消化できないというか……」

「まぁ、そんな簡単に覚悟を決められるんだったら苦労はしないわね。」

「それに、あいにく進路を決めるまでにはまだ時間があるわけだし、中学校の合唱コンクールでそこまで思いつめることはないと思うわ。」

「でも、きっとあなたが将来音楽の道に進むのであれば、きっと役に立つ話だと思うわ。」

「ありがとうございます!」

「そして2つ目は、高咲さんあなた自身の話よ。」

「私、自身?」

「確かにあなたはピアノを始めて1年もたっていないかもしれないけれど、明らかに普通に人よりも何倍も早く上達しているわ。」

「もちろんマキちゃ……。ゴホン 西木野先生の手腕もあるけれど、あなたの練習量、そして練習に対する問題意識の成果よ。」

「練習に対する問題意識……ですか?」

「そう。普通は『ここを20回練習して』と言われたら、何も考えずに20回弾くものなの。早く20回終わらないかな~って考えるのが関の山ね。」

「でもあなたの場合はどう?」

「そうしてここを20回弾けって言われたのかを考えて、この練習にどういった意味があるのかを考えます。」

「そう。そこまで考えて練習する人は稀といっていいわ。」

「特に練習を“やらされている”と思っている生徒はまずそういったことを考えない。」

「それに、高咲さんは作曲の知識もある。」

「そんな知識って言っても……演奏には役に立たないですし……」

「あら、そんなことはないわよ?」

「ちょっとピアノに座ってみて?」

「え? はい……」

私が腰かけると、先生は歌集の中の自由曲のページを開いた。

「ちょっとゆっくり弾いてみて。」

「えっ、いきなりですか??そんな無理ですよ……」

「ほら、1小節目。左手は?」

「ミ♭、ソ、シ♭、ミ♭……」

「あれ?これってE♭の分散和音ですか?」

「そうよ。じゃあ次は?」

「えっと……B♭/Dで……」

「あれ?意外と簡単?」
 
181: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:53:57.26 ID:DvcOS3od
「そうよ。合唱曲の楽譜って難しい見た目をしているけれど、中身は意外と単純なの。」

「コードとか和音の概念が無い子たちは一から譜読みして覚えないといけないけど、高咲さんは一発でしょ?」

「でも楽譜長いし……」

「それが合唱の楽譜もいっしょに書いてあるからよ。ピアノだけの楽譜にしたらそんなに量は多くないわ。」

「なんなら似た形が何回か出てくるし、最後は転調するけど高咲さん得意でしょ?」

「まぁ、転調は……できますけど……」

「その返答も普通じゃないのよ。普通にピアノを習ってきた子にとって転調が一番の難所なのよ。」

「そうなんですか?」

「そうよ!せっかく転調前の曲を覚えたのに、それとよく似た転調後の音符の並びも一から覚えないといけない。まっさらな状態から譜読みするより地獄よ?」

「それにJ-POPなんて最後の方で転調しておけばいい、みたいな感じだし! 私も中学生のころは泣いたものよ。」

「先生にもそんな時代があったんですね……」

「ここ最近だけどね?」

「は、はい……」

「まぁ、高咲さんにはそんなアドバンテージがあるからエベレストってほど難しい山じゃないわ。」

「でも、それはあくまで譜読みの問題の話。実際に手を動かす部分には何のアドバンテージもない。」

「つまり、どれだけ弾きこめるか。これにかかっている訳。」

「高咲さんの努力次第ってことね。」

「それは……私の努力次第では攻略不可能じゃないってことですね?」

「えぇ、それに大勢の前でピアノを弾くことはいい経験になると思うわ。」

「高咲さんは発表会とか大きな舞台でピアノを弾いたことはある?」

「いえ……ショッピングモールのストリートピアノをちょっと弾いたくらいで……立ち止まって聞いてくれた人は身内以外だと5人くらいでした……」

「合唱コンクールでは全校生徒、全教師、そして多くの保護者の方が注目する舞台で演奏することになるわ。」

「もちろん合唱にとってピアノは脇役だけれど、それでも前奏や間奏はあなたの独壇場よ。」

「なんか聞くだけで緊張してきました……」ガクブル

「まぁ、そうなるわよね。でも、一回経験しておくのもいいと思うわ。」

「きっと戻れなくなるから……」

「戻れなく……なる?」

「まぁ、それは舞台が終わった後のお楽しみってことで!」

キーンコーンカーンコーン

「ほら、最終下校時刻よ!早く帰りなさい!」
 
182: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:56:45.61 ID:DvcOS3od
「先生!今日はありがとうございました!」

「私、伴奏頑張ってみようと思います!!」

「えぇ、応援しているわ。」

「あと最後に言い忘れていたことなんだけどね……」

「これはプレッシャーになっちゃうかもしれないけど、」

「普通は伴奏者って人気で、高咲さんのクラスのようなことは珍しいの。」

「えっそうなんですか!?」

「えぇ、だから毎年伴奏者になりたくてもなれない人がいる、そのことを覚えておいてほしいわ。」

「なんか、重い責任を感じます……」

「それだけ重役ってことよ!頑張りなさい!」

「はいっ!ありがとうございました!」

「わっ私からも!ありがとうございました!!」

「上原さんもしっかり高咲さんをサポートしてあげるのよ?」

「わかりました!……っえ?サポート?」

「話を聞くだけでも、愚痴を聞くだけでもそれだけで十分お助けになるわ。」

「何なら一緒にいるだけでも、ね。」

「なるほど……参考になります……」

「それじゃあ今度こそ、さっさと帰りなさいね。」

「「は~い、さようなら~」」

「はい、さようなら」

こうして今回の騒動は私の中で心の整理がついた。

とりあえず自分のために、自由曲の伴奏を頑張ってみようと思う。

そして、歩夢のためにも。
 
183: (もんじゃ) 2022/05/25(水) 23:59:49.64 ID:DvcOS3od
――臨時国会は今日会期末を迎え……

――委員長の席に詰め寄る野党議員が……

――国民の知る権利が……

「なんかニュースが最近騒々しいわねぇ……」

テレビのニュースを見ながらママがぼやいている。

「侑、これ何のことかわかる?」

「さぁ……」

「もっとニュースに関心持ったらどうなの?面接とかで質問されるんじゃないの?」

「受験まだまだだし……」

「うかうかしているとあっという間なんだからね?」

「そもそも推薦使うかわからないし……」

「ごちそうさま~!」

「あっちょっと自分の食器くらい流しに運んでっていつも言ってるでしょ!!」

「今日遅刻しそうだから~」

「次はちゃんと片付けてよね~!」

「は~い!」

「返事だけはいいんだから……」

私は特別浮足立っていた。

今日は12月24日火曜日。2学期最後の終業式の日だ。

でも、私のトキメキはそこじゃなくて……

話は1週間前、私が自由曲の伴奏を引き受けた日の翌日まで遡る。

「侑ちゃんさ……」

「どうしたの?」

「私たち……付き合ってからその……まだ行ってないよね?デ、デートに……」

「あ~、確かに。いつも一緒にいるけど、確かに特別どこかに出かけたりしてないね……」

「ごめんね、気がきかなくて。」

「いやっ……侑ちゃんもここずっと忙しかったし、バタバタしてたし、しょうがないというか……。だからその……」

「来週の終業式の日とか……どうかな?」
 
184: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:02:36.22 ID:+I71QwhJ
「特に予定はないけど……終業式の日って……。あっ、イブの日か。」

「そう///」

「なるほどね!わかった。一緒に出掛けよっか!」

「うん!///」

かくして私たちはクリスマスイブ、つまり今日の放課後に二人でデートすることになった。



終業式、大掃除、HRと2学期最終日はあっという間に終わった。

「じゃあ歩夢、帰ろうか!」

「うん。」

今にも走り出したい。それくらい私の心は踊っていた。

私たちはいったん家に帰り、荷物を置いて着替えてから待ち合わせた。

「あっ侑ちゃんその服!」

「そう、この前歩夢に選んでもらったやつ!私ファッションのことはよくわからなくてさ……」

「うんうん!すごく似合っているよ!」

「侑ちゃんが私が選んだ服を着てくれてうれしい!」

「そっそうかなぁ……///」

「侑ちゃんは私の服を選ぶセンスはすごいのに、どうして自分のことになると……」

「そりゃあ歩夢は可愛いから選ぶのが楽しいけど、私なんかが……」

「侑ちゃんだってかわいいよ!!」

「ありがとう……でも……恥ずかしいから///」

「あっ……ごめん///」

「歩夢も、その服に合っているね。新しい服?」

「うん、この前ママに買ってもらったんだ!ほんとは侑ちゃんと一緒に選んだ服を着てこようと思ったけど、この前と同じような服になっちゃうから……」

「歩夢ママが選ぶ歩夢の服も大好きだよ!なんか可愛くって本当に歩夢に似合っている。!

ちょっと幼い感じもいいよね。本人には言えないけど。

「そ、そうかなぁ……ありがとう……」

そんな会話をしながら、私たちはお台場へと向かった。

「またお台場でいいの?もし歩夢が行きたいところがあればそこでもいいんだけど。」

「いや、そんな気を使わなくて大丈夫だよ。いつもの場所だからこそ、侑ちゃんとの思い出がたくさんあって私は好きだよ。お台場が。」

「それに、あまり遠くに行くと早く帰らないといけなくなっちゃうからね。家から近い場所のほうがいいよ。」
 
185: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:05:40.25 ID:+I71QwhJ
「それもそうだね。」

電車に揺られて2駅。お台場は私たちの家からすぐ近くだけど……

「うわっ……」

「すごい混んでるね……」

「こんな混んでいるの初めて見たよ。」

「クリスマスだし、しょうがないかぁ……」

いつもの5倍は人がいるんじゃないかと思うくらい、見渡す限り人。人。人。

「みんなクリスマスだからって、デートに来すぎだよ!!」

「それ私たちが言う?侑ちゃんもその一人でしょ?」

「えへへっ。まぁ確かにね。」

でも、まだ夕方前だ。これから夜にかけて人は増えるはず。どうなっちゃうんだろう……

「今日ね、歩夢と何かお揃いのもの買いたいなって思ってたんだけど、どうかな?」

「……っ」

「えっどうしたの?」

「いやっ……すごく嬉しくて……。私もそういうのほしいって思ってたから……」

「とってもいいと思う!賛成!」

「じゃあそこら辺のお店を見て回ろうか!!」

「うん!」

こうして私たちは人混みをかいくぐるように抜け、行きつけの雑貨屋へと向かった。



「うーん、何か記念になるものがいいよね~」

「そうだね~」

かれこれ30分。一通り商品棚を見て回ったけれど、いまいちピンとくるものがない。

マフラーとか手袋はこの時期にしか使えないし……

スマホケースはスマホを変えたら使えなくなっちゃうし……

アクセサリー?は学校では使えないしそもそも私には似合わないし……

「ずっと使えるものがいいよね。」

「だよね~。侑ちゃんは今欲しいものとかある?」

「う~ん……、時間?」

「世知辛すぎるよ……」
 
187: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:08:53.78 ID:+I71QwhJ
「うーん。本題とはずれちゃうけど、歩夢との写真が欲しいかな?」

「写真?」

「うん、ほら、私たち小さいころからいっぱい一緒に写真撮ってきたじゃん?」

「懐かしいね~。」

「でも、その……かっ……」

「付き合ってからはまだちゃんとした写真撮ってないじゃん?」

「いま彼女って言おうとしてやめた?」

「だって……まだ慣れなくて恥ずかしいんだもん……」

「意外と侑ちゃんのほうが照れ屋なんじゃない?」

「なんで歩夢はそんな物おじせずにいえるのさ……」

「だって、侑ちゃんが好き、だからかな?」

「//////」

「そんな照れてる侑ちゃんもかわいくて好きだよ?」

「追い打ち攻撃しないで//////」

「じゃあ、今日写真撮ろうよ!イルミネーションがとびきり奇麗なところで!!」

「それは……思い出の写真になるね!」

「あっ……」

「え……? あぁ……」

「「それだ!!」」



まだ日が落ちるまで時間があったので、私たちは人が少ない海に面した公園に来た。

階段状になっているコンクリートの地面に並んでぺたりと座り込む。

「いや~、人が多くて疲れちゃったね……。侑ちゃん大丈夫?」

「ほんと、こんなに人が多いお台場は初めてだよ!でも、歩夢と一緒なら全然へーき!」

「たしかにお台場ってデートスポットってよく聞くもんね。」

「いつも24日も25日も家でゆっくりしていたから、まさかこんなになっているとは思わなかったよ……」トホホ

「でも、大切な思い出ができて私はうれしいよ?」

「うん、私も!」

あの後、私たちはおそろいの写真立てを買った。

今日のデートの思い出の写真をそれに入れて飾っておいたら、とっても素敵だなって。
 
188: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:11:58.04 ID:+I71QwhJ
可愛いデザインが好きな歩夢とシンプルなデザインが好みの私はしょっちゅう意見が食いちがうけれど、ちょうど二人とも気に入るデザインの商品があって本当に良かった。

「まだイルミネーションまで時間があるし、ちょっとここで休んでいかない?」

「そうだね、また駅のほうに行ったら人がすごいもんね。」

お台場の中心から少し離れたこの場所は、先ほどの騒々しさが嘘のように静かで、

目の前の海から聞こえるわずかな波の音だから響いている。

遠くには大きな船が見え、そこから少し視線を上にずらすと、今まさに東京を離れようとしている飛行機が飛んで行った。

鉄塔には海面をじっと見つめている鳥。狩りの途中だろうか。

「なんか、すごく落ち着くね。」

そう私が言うと、歩夢も同意してくれた。

「侑ちゃんにはもっとこういう時間が必要だと思うな。」

「私が落ち着きがないってこと!?」

「ううん、そうじゃなくて……」

「最近の侑ちゃんがいろいろなことを頑張って、もちろんそれは悪いことじゃないんだけど……」

「いつもどこか必死そうで……無理して笑っているなってわかるときがあるから……」

「だから、心配で……」

「そっか……、歩夢にバレちゃってたか……」

「当り前じゃん!幼馴染だよ!?」

「彼女、じゃなくて?」

「これは幼馴染の力なの!」

「そっか……」

「だから、少しは心を休ませる時間を大切にしてほしいなって……」

「あはは……わかってはいるんだけどね……」

「でも、ついつい無理をしちゃうというか……」

「そんな侑ちゃんも大好きだけどね。」

「不意打ちやめてよ……照れちゃうじゃん///」

「私はね、侑ちゃんにとってのこの場所みたいな存在になりたいと思てる。」

「え?海になりたいってこと?」

「ち~が~う~!」
 
189: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:15:28.27 ID:+I71QwhJ
「侑ちゃんは頑張り屋さんで、ついつい頑張りすぎちゃうから……」

「私がいつもそばにいて、侑ちゃんに寄り添って、」

「侑ちゃんが落ち着くことができるような場所、そんな彼女になりたいなって、思う。」

「そんなこと言ったら……歩夢だって極度の頑張り屋さんじゃん!」

「……うん、だから、侑ちゃんも私を支えてくれる?」

「はははっ」

「何がおかしいの?」

「いやっ……っ、私たち本当に似た者同士だなって!」

「も~!真剣な話をしているんだよ?」

「わかっているけどっ……ごめんっ……。でも……」

「お互い周りが見えなくなるほど頑張っちゃって、でも、頑張りすぎないためにお互いがいるって……」

「本当にお似合いだなって思う」ケラケラ

「でも、それは同時にとっても素敵な関係だと思うな。だって、私たち2人一緒なら、どこまででも支えあいながら頑張れるってことでしょ?」

「ふふっ、そうだね!」

「私、侑ちゃんの為だったら何でもするから……。だから、辛くなったときは何でも言ってね?」

「それを言うなら、私だって歩夢の為だったら何でもするよ?たとえ火の中でも水の中でも歩夢の為だったらどこでも駆けつける!」

「本当に……本当に侑ちゃんはうれしいことを言ってくれるんだから……」ホロリ

「あれ?歩夢泣いてる?」

「泣いてるよ。嬉し泣き。」

「それは良かった。」

私は歩夢を抱き寄せ、頭を撫でた。

「私、侑ちゃんに頭撫でてもらうの、好き。」

「私も歩夢の頭を撫でるの、好き。」

「じゃあ、win-winの関係だね?」

「いつでも撫でてあげるよ?」

「ありがとう//////」

今日の歩夢はいつもよりも正直で、いつもよりも甘えん坊だった。

歩夢の髪はサラサラで、触っていてとても気持ちがいい。

それに、髪の毛というデリケートな部分に触ることを許されている、むしろ歓迎してくれているこの状況が、私と歩夢の特別な関係性を肌で感じられるような気がして……

――気持ちが良かった。いろいろな意味で。
 
190: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:18:27.26 ID:+I71QwhJ
太陽は地平線に差し掛かり、辺りは夕日に染まっていた。

周囲には先ほどとはまた違った空気が漂い、少しロマンティックな気分になってしまう。

もっと歩夢を感じたい。

もっと歩夢に近づきたい。

――精神的にも、肉体的にも……



「歩夢さ……」

「なに?侑ちゃん?」

「サイキン、ツカレチャッテサー」

「何その棒読みなセリフは……」

「歩夢さっきさ、私の為だったらなんだってしてくれるって、言ってくれたよね?」

「まぁ、侑ちゃんの頼みなら……」

「本当に疲れちゃってさ……、これは歩夢がアレをしてくれないと復活できそうにないんだよね~」

「あれってなに?」

ポカンとする歩夢。そんな歩夢の耳元で

「キ、ス。」

小さく囁いた。

夕日に照らされてほんの少し赤みがかった琥珀色の歩夢の目がぴたりと止まり、遅れて頬が上気する。

「あっ……えっ……///」

「どうしたの?やっぱり無理?」

わざと意地悪く聞いてみる。

「あーあ、じゃああれは嘘だったのかぁ?。残念だなぁ?」

「いやっ……嘘じゃないけど///その……いきなりキスって……///」

「わたしたちまだ中学生だし……///」

「中学生でもしている人はしているよ?」

「でも……お昼食べてから今日は磨いてないし今はダメだよ……!!」

「も~しょうがないな~!じゃあほっぺでいいから!!」

「それなら……」

「いいの?それじゃあはい、どうぞ~」

私は顔を横に向け、歩夢に頬を突き出す。
 
191: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:21:30.44 ID:+I71QwhJ
歩夢は困ったような、恥ずかしそうな表情をしている。

「今日はせっかくのクリスマスイブだしな~」

「歩夢がキスしてくれたらすっごくいい思い出になるな~」

「今心の準備をしているから待ってて!!」

歩夢が目をつぶり、心を落ち着けている。

どれだけの時間がたっただろうか。

やっぱり少し早かったかな。

もっとゆっくり、私たちのペースで進むのもいいかもしれない。

焦りすぎてしまったのかもしれない。

――やっぱりもう少したってからにしようか……

そう歩夢に言おうと、顔の向きを変えた瞬間……

「……!!」

「……!!!!」

「……//////」

私の唇に、歩夢の唇が重なっていた。

目の前に歩夢の顔。

当たり前だけど、今までで一番歩夢を近くに感じた。

キスするときってこんなに距離が近いんだって、初めて知った。

歩夢はまだびっくりした様子で離れる様子もなく……

まだ何が起きたか理解していないのか、はたまた……

「……」

「……」

「ぷはっ……」

「あ、歩夢……ごめん……///」

「いや……私も勢いよく突撃しちゃったから……///」

「……」

「……」

まだ心臓がバクバクしている。

まともに歩夢の顔見れないよ……///
 
192: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:24:32.37 ID:+I71QwhJ
「その……ありがとう//////」

「元気、出たよ//////」

「それは……力になれてよかったよ……//////」

「……」

「その……歩夢の唇……」

「柔らかかったです。」

「っちょっと侑ちゃん恥ずかしいこと言わないでよ!!」

「え~、だってせっかくキスできたんだし~。歩夢はどうだった?」

「……」

「侑ちゃんもっと唇の手入れをした方がいいと思う///」

「初めてのキスがそんな感想ですか~!!」

「だって……、思い出すだけで恥ずかしいんだもん///」

「いきなりの事で……正直頭が真っ白で……///」

「じゃあ、もう一回やっとく?」

「――侑ちゃんがそこまで言うなら……」

「はいはい。私が歩夢とキスしたいから、キスしてください!」

「侑ちゃんの頼み事だったら、しょうがないね。」

私は地面に置かれた歩夢の右手に左手を重ねた。

「歩夢、大好きだよ。」

「私も、侑ちゃん大好きだよ。」

「んっ……ちゅ……」

「ん……」

自分の大好きな人が隣にいて、自分を愛してくれて、隣にいることができる。

私が今感じている幸せは、きっと今までの関係性のままでは得られなかったものだ。

歩夢がいるから、私も頑張れる。

歩夢が私を好きでいてくれるから、私は私に自信が持てる。

私が勇気を出して、歩夢が受け入れてくれて、

本当に良かった。

2週目をやって、本当に良かった。
 
194: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:27:29.60 ID:+I71QwhJ
「こっちこっち!」

「侑ちゃんちょっと待ってよ~!」

私たちは大きなテレビ局の隣にあるショッピングモールのデッキを目指していた。

「ここからだと……ほらっ!!」

「すっ……すごいね……」

目の前にはクリスマス限定で七色にライトアップされたレインボーブリッジ。

その奥には数えきれないほどの高層ビル群と赤く輝く東京タワーも見える。

「この背景で写真撮るの、どうかな?」

「うん。すっごくいいと思うよ!」

「あそこらへんがすいているし、今がチャンスかも!」

スマホを取り出し、自撮りをしようとしていると親切な人が撮影役を引き受けてくれた。

歩夢と私のツーショット。きっと一生の宝物になるだろう。

「早くあの写真立てに入れて飾りたいね!」

そんなことは話しながら夜景を眺め、気が付けばいい時間になっていた。

「そろそろ帰ろうか……」

「うん、そうだね。侑ちゃんの家は家族でクリスマスパーティーするの?」

「多分ね。歩夢の家も?」

「お父さんが張り切っちゃってね……」

「じゃあ早く帰った方がいいね。」

「侑ちゃんのパパも帰ってくるの楽しみにしてるんじゃない?」

「ははは……。早く帰らないとね。」
 
195: (もんじゃ) 2022/05/26(木) 00:30:35.09 ID:+I71QwhJ
今日のデートはきっと一生忘れることがない1日になるんだと思う。

だって……こんなドキドキを感じたことは今までで初めてだったから……

帰り道も手を繋ぎながら帰った。お互い離れ離れにならないように。

毎日握っている歩夢の手だけど、今日は少し違う握り方をしてみた。

最初は歩夢も戸惑っていたけれど、こっちの方がよりお互いを感じられるような気がして、

そして、何より私たちの心の距離の近さを象徴しているようで、

傍から見ればなんということはない日常の一コマだけれども、

私はとっても幸せだった。

そして、この幸せをずっとずっと守り続けたいと、心の奥から強く願った。




中学最初の冬休みは伴奏練習とテスト対策をしているうちにあっという間に終わってしまった。

そして三学期始業式。

教室に入るや否や、クラスメイト数名に詰め寄られた。

他のクラスメイトも好奇の目で私たちを見てくる。

正面に立っている友達がスマホの画面を見せつけながら、問いただした。

「これ、どういうこと?」
 
206: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:32:35.04 ID:xvx+78TF
「そっそれは……」

そこには私と歩夢が指を絡めて手を繋いでいる写真。

この服装は……イブのデートの日だ。

知らなかったわけではない。

気がついていなかったわけではない。

でも、都合の悪いことには目をつぶっていた。

――女と女が付き合うのは……異常だってこと

私たちは普通じゃない。

今まで誰にも知られていなかったから糾弾されなかっただけで……

いざ大衆の目に晒されれば、嫌悪感を抱く人は当然現れる。

私と歩夢のことを気持ち悪いと感じる人がいても何も不思議ではない。

服の中を嫌な汗が流れる。

「えっと……」

まずいまずいまずいまずい

1年間私が築いてきた人間関係が、

1年間私が気づいてきた信頼関係が、

崩れていく音が聞こえた。

まだ誤魔化せるか……

いやっ……でも、他の証拠があるかもしれない……

だってあの日は……

あの瞬間をとられていたら、もう言い逃れはできない……

どうしようどうしようどうしよう

考えても考えても答えは出ない。

するとスマホを持った子が、口を開いた。





「も?付き合ってるんならもっと早く教えてよ?!水くさいなぁ!!」

「えっ……」
 
207: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:36:43.75 ID:xvx+78TF
文字化けがあったのでもう一度






「そっそれは……」

そこには私と歩夢が指を絡めて手を繋いでいる写真。

この服装は……イブのデートの日だ。

知らなかったわけではない。

気がついていなかったわけではない。

でも、都合の悪いことには目をつぶっていた。

――女と女が付き合うのは……異常だってこと

私たちは普通じゃない。

今まで誰にも知られていなかったから糾弾されなかっただけで……

いざ大衆の目に晒されれば、嫌悪感を抱く人は当然現れる。

私と歩夢のことを気持ち悪いと感じる人がいても何も不思議ではない。

服の中を嫌な汗が流れる。

「えっと……」

まずいまずいまずいまずい

1年間私が築いてきた人間関係が、

1年間私が気づいてきた信頼関係が、

崩れていく音が聞こえた。

まだ誤魔化せるか……

いやっ……でも、他の証拠があるかもしれない……

だってあの日は……

あの瞬間をとられていたら、もう言い逃れはできない……

どうしようどうしようどうしよう

考えても考えても答えは出ない。

するとスマホを持った子が、口を開いた。





「も~付き合ってるんならもっと早く教えてよ?!水くさいなぁ!!」
 
209: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:40:13.33 ID:xvx+78TF
「えっ……」

「そうだよ?というかいつから?なんか前々から怪しいと思ってたんだよ?」

「いつから?ねぇいつからなの?」

「なんで黙ってたのさ~!」

「なんか最近やけに距離が近いと思ってたんだよね~」

「1位と2位で付き合ってるなんて、なんかすっごく素敵だよ~!」

一瞬頭が追い付かなかった。

もしかして、受け入れられている?

「も~!照れてないでなんか言いなさいよ~!」

「えっと……」

歩夢を見ると、顔を真っ赤に染めて恥ずかしがっていた。

「言っても、いいかな?」

そう歩夢に尋ねると、こくんと小さくうなずいた。

「実は……期末テストが終わったあたりから付き合って……ます///」

「ヒュ~!」

「お熱いねぇ!」

「ちょっと恥ずかしいからそんなに騒がないでよ!周りに聞こえちゃうじゃん……」

「み~んな知ってるよ?」

「えっ?そうなの?」

そう聞くと、教室にいた友達が拍手をしてくれた。

「ちょっと恥ずかしすぎるよ……///」

「おぉ……照れてる侑ちゃんもかわいいなぁ。」

「これを独り占めできるなんて……歩夢ちゃんがうらやましいぞぉ~!」

「……//////」

「ねぇねぇ、どっちから告白したの?」

「え~、それは侑ちゃんじゃない?」

「でも歩夢ちゃんもやるときはやる女だよ?」

「確かに~!」

クラスがどんどん盛り上がる。
 
210: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:43:11.92 ID:xvx+78TF
「で、どっちなの?」

「ちょっ……それはひ!み!つ!」

「えぇ~!」

「ぷらいばしーの問題だから!だめなの!」

「じゃあ、どこまで進んでいるの?」

「ほら~、手をつなぐとかいろいろあるじゃん?」

「例えば……」

「キス、とか。」

「きききき、キスっ!?!?!?」

「お~、侑ちゃんだいぶ動揺していますな~」

「これは怪しいですねぇ、警部ぅ。」

「違う違うっ!べっべつに動揺?してないし?余裕だし?」

「まぁ、その反応で分かったからわざわざ言わなくていいよ」肩ポンポン

「ちょっとわかったってどういうこと~!?!?」

「歩夢もずっと恥ずかしがってないでなんとかしてよ~!」

以降私たちの関係はクラス周知の事実となった。

ちょっと歩夢に話しかけるだけでも周りの視線を感じ、正直やりにくかった。

登下校もいつも一緒だし……

でも、最悪の事態にならなくて本当に良かった。

みんながみんな、私たちのクラスメイトのように理解がある人間ではない。

そのことを忘れないようにしないと、悲しいことが起きてしまうかもしれない。

今回は運が良かった。

同じ失敗はしないように気を付けないと。

歩夢を傷つけてしまったら……

そう考えると、何をしようにも怖気づいてしまう。

「なんで私たちみたいな人間は堂々としちゃダメな世の中なんだろう……」

私はだれにも聞こえない小さな声で、そうつぶやいた。
 
211: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:47:21.01 ID:xvx+78TF
♪自由曲

「どうでしょうか?」

「うん、いいんじゃないかしら。十分合唱と合わせられるレベルだと思うわ。」

「ということは……」

「そうね。次の授業でためにに合わせてみようかしら。」

私は伴奏練習の進捗を報告するために音楽室へ来ていた。

冬休みのほとんどを返上してピアノにかじりついていたこともあって、何とか形にすることはできた。

「あれ?その絆創膏、どうしたの?」

「あぁ、これは爪が割れちゃって……」

「ピアノで!?」

「ちょっと鍵盤の隙間に引っかかっちゃって……」

「中学生とは思えない練習量ね……。爪が割れるまで練習って私も物語の中でしか見たことがないわよ……」

「痛かったですけど……なんか音楽やってるって感じでちょっと嬉しかったです!」

「高咲さんは本当に……すごいというか変わっているというか……」

「まあ、安心したわ。でも、気を抜かずに頑張りなさいね。」

「でも本番は指揮に合わせて弾かないといけないんですよね……?私そんな経験ないし……できるか不安です。」

「まぁ、指揮者が合わせるから大丈夫じゃない?」

「えっ?伴奏が式に合わせるんじゃないんですか!?」

「本当はね。でも中学校の合唱コンは指揮者も歌ってるほうもみんなピアノに合わせているわね。だからあまり気にしないほうがいいわ。」

「えぇ……」

「逆にあなたのテンポが崩れると全体のテンポも崩れることになるから、そこは注意ね。」

「はい……ますます緊張してきました……」

「そんな気を負わずとも大丈夫よ。意外と合わせたらうまくいくかもしれないし。」

「はい!」
 
212: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:50:30.13 ID:xvx+78TF
そしてクラスでは指揮者決め、そして放課後の教室での本格的な合唱練習が始まった。

「侑ちゃんは伴奏者だから、外から聞いて感想を言ってほしい。」

と、合唱コン実行委員に言われてしまい、私はなくなく指揮者のさらに向こう側へと座った。

まぁ、教室にピアノを持ち込むわけにはいかないし、しょうがないよね……

私の目の前には指揮者。そしてその前には向かい合うようにクラス全員が2段に並んで立っている。

みんな指揮者を見ているはずだけど、なんだか自分が見られているような気がして気まずい……

視線から逃げるように私は手元の譜面に視線を落とす。

CDの伴奏が流れ、指揮者の合図で合唱が始まる。

みんな声も出てて、しっかり歌えている。

でも、何かが違う。

ピアノの練習のために何度もCDを聞いた。そこに収録されている合唱と今私が聴いている合唱は、違った。

もちろんプロと中学生の違いはあると思う。でも、それだけじゃない……

圧倒的に、聴いていてつまらないのだ。

どこが違うんだろう……

私は楽譜とにらめっこし、西木野先生のある言葉を思い出した。

――表現っていうのは、自分が思っている10倍は他人に伝わらないものなのよ。

――例えば高咲さんは甘く、優しく弾いてくれていると思うけど、それは私がそれを知っているからわかるの。

――きっと赤の他人を連れてきて、この人はどんな感情をこめて弾いていますか?って質問したらきっと回答はバラバラになるわ。

――だから、これで伝わるだろう、と思う10倍は大げさに表現しないと聴き手には伝わらないのよ。

――伝わらない表現はやっていないのと同じだわ。そんな中途半端な表現ならやめてしまったほうがいい。

これだ……

私は答えを見つけた気がした。




「で、どうだった?」

実行委員が私に感想を求める。

「えっと……」

「いいよ?正直に言って。」

さすがに『つまらない』と直接言うのはよくないかな……?

「表現がね、ちょっと弱いと思った。」

私は自分が感じたことと西木野先生の教えをみんなの前で説明した。
 
213: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:53:28.55 ID:xvx+78TF
「え~、でもかなり強弱とか気を付けてるよ?」

「もっとやったら逆に不自然じゃない?」

ぽつぽつと、反発意見が出てくる。

「じゃあ、ちょっとこれ聴いてみて。途中からだけどね。」

私はスマホで録音したさっきの合唱を再生した。

「……」

「……」

「……確かに、意外と伝わってないかも……」

「なんか、平坦というか、」

「つまらなく感じるね……」

「確かにっ!」

「それだっ!」

歩夢、ナイスアシストだ。

「じゃあ、もっと大げさに強弱とかつけたほうがいいのかな?」

「でも、あまり弱くしすぎると聞こえなくなっちゃうんじゃない?」

「え~、じゃあどうしたらいいの~?」

「じゃあそれ、今度の音楽の時間に桜内せんせーに相談してみようよ!」

「それいいね!賛成!!」

これがきっかけとなり、私はみんなの合唱の指導役になってしまった。合唱の勉強なんてしたことないのに……

それでも、クラスの合唱が日に日に上達していく様子を見ていると、そんな苦労も悪くないなと感じた。

音楽の授業では私が実際にピアノを弾き、指揮者が指揮をし、桜内先生がたくさんの問題点を指摘してくれた。

それを私がかみ砕き、毎日の練習で一つ一つ問題点をつぶしていった。

最初はモチベーションが低かったクラスメイトも、自分たちの合唱が日に日に美しくなっていることが分かるとやる気を出し、練習に協力的になった。

学年でも私のクラスの合唱のレベルが高いことが噂になり、その評判自体が私たちの志気を底上げした。
 
215: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 21:56:43.18 ID:xvx+78TF
そして練習期間はあっという間に過ぎ、合唱コンクール当日となった。

もうすぐ歩夢から電話がかかってくるころかな、なんて考えていたら

♪(着信音)

「もしもし?」

『あれ?出るの早いね!もしかして起きてた?』

「あんまり緊張で眠れなくてね……朝も目が覚めちゃった……」

『そっか。じゃあ、いったん切るね。』

私はいつも通りベッドを出てベランダに出た。

「おはよう、侑ちゃん。」

「うん。おはよう、歩夢。」

私たちはこの習慣を、中学に上がってからは1日も欠かさず続けてきた。

「侑ちゃん寝不足?」

「まぁ、ちょっとね。」

「侑ちゃんが電話する前に起きてるなんて、びっくりだよ。」

「なんか目が冴えちゃって……」

「せっかく侑ちゃんに起こしてもらえるチャンスだったのにな……。別にゆうちゃんから電話してくれても良いんだよ?」

「でも、なんか歩夢からの電話が無いと1日が始まったって感じがしないんだよね。」

「確かに、私も侑ちゃんに電話を掛けないとなんかむずむずするかも。」

「もう習慣になっちゃったよね~」

「ね~」

「じゃあ、また下の階段でね。」

「うん。」

部屋に戻り、リビングへと向かった。

「ママおはよ~!ご飯は~?」



合唱コンクールは学校から少し離れた小さなホールで行われる。

小さいといっても全校生徒と見に来る親が全員座れる程度の広さはあるけれど。

そんなわけで、私たちはいったん朝早く学校へ集合し、まとまってホールへ向かう。
 
216: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:00:00.57 ID:xvx+78TF
学校へ着くと、教室では早速自主練が始まっていた。

「おっ!今日も二人で登校ですか~!」

「も~、そういうの良いから!今自由曲やってるの?」

「うん、最後の調整、頼んだよ?」

私は楽譜を見なくとも、合唱の指示が出せるようになっていた。

といってももう当日の朝。新しいことは言わず、みんなが忘れがちなところや重要なポイントをおさらいしていく。

そして全員が集まり、課題曲と自由曲の通し練習が終わったところで、移動の時間となった。



「ひっ広い……」

会場に着くと、伴奏者が一度舞台の上に集められた。

開会前にひとり1分だけ自由に弾いていいとのこと。

確かに1周目の時もそんな時間があった気がする。

私は客席側でずっと隣の席の人と話をしてあまり印象に残ってないけど。

ホールとしては小さいはずなのに、いざ伴奏者として舞台に上がると、客席の数が全く違って見える。

こんなにもたくさんの人の前で、私はピアノを弾くんだ……

気が付くと膝が震えていた。

トン

肩をたたかれた。

「今弾いてる彼女の練習が終わったら高咲さんの番よ。」

「はっはい……」

「客席を見て、緊張してる?」

「はい……」

「なに、そんなの気にしなくていいわ。本番は電気が消えるからそんな客席は見えないわ。あなたは指揮者でも見てればいいのよ。」

「そんなもんですかね……」

「そんなものよ。」

「まぁ、適度に緊張するのも悪くないけどね。」

「え?」

「緊張なんてスパイスみたいなものよ。」

「どういう事ですか?」

「終わればわかるわ。」
 
217: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:03:03.61 ID:xvx+78TF
「さぁ、時間は1分間よ。弾いてらっしゃい。」

「は、はい……」

何を引いたらいいか分からなく、とりあえずHanonを少しだけ弾き、ピアノの鍵盤の感覚を掴んだ。

「鍵盤重いけど……先生のところのピアノよりかは軽いかな?」

そのあと自由曲の最初の部分と転調する部分、さらに一番盛り上がる部分を何回か弾き、練習は終わった。

いつも弾いているピアノとは感覚が違って戸惑ったけど、一つだけ分かったことがある。

このピアノは響きがいい。高音が抜けるように遠くへ飛んでいく。

そして、このピアノ。絶対高い!

「ステイ……ソンズ……?ん?」

良く知らないメーカーだった。



その後2年生、3年生の伴奏者のリハーサルが終わり、合唱コンクールが始まった。

まずは1年生、2年生の順に合唱の発表を行い、昼休憩。その後3年生の発表になる。

学年の中の順番は実行委員が弾いたくじの順番であらかじめ決められている。

私たちのクラスの順番は最後だ。よくわからないけど、西木野先生曰くいい順番らしい。

次々に前のクラスの発表が終わっていく。

大丈夫。大丈夫。

気が付くと、無意識に握りしめていた両手の手のひらに汗がたまっていた。

こんなに手汗ってかけるモノなんだ……

身体が見せる初めての反応に自分が自分に若干引いてしまった。

そしてとうとう、私たちのクラスの順番が回ってきた。



舞台にあがり、客席を見渡す。

先生の言った通り、舞台の外側は暗くてよく見えなかった。

まずは課題曲。

1周目の時よりもこのクラスの合唱は何段階もレベルの高いものになっている。

歌っていて気持ちがいい。

練習では指導するために合唱の外側にいる時間が長かったけれど、

やっぱりみんなと一緒に歌うのって楽しい。
 
218: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:06:10.72 ID:xvx+78TF
私の声と隣の子の声が重なり、

その重なりがパート全体に広がり、

それがパートごとの重なりになり、

その響きがピアノ伴奏に乗って響き渡る。

響きが教室や音楽室とは大違いだ。

歌っていて楽しい。

もっと歌いたい。

もっと、響かせたい。

私たちの声は――こんなにも綺麗だったんだ……

練習、技術、努力、そして環境。

これらがすべて整い、私たちの合唱は今日、初めて完成した。

曲は終わりを迎え、最後の伸ばしの音だ。

直前の息継ぎポイントで思いっきり横隔膜を下げ、腹と肺にできる限りの空気をため込み、そしてそれを太い息として放出する。

指揮者が気持ちよさそうに両手を上げ、伸ばしきったところで止める合図。

声は止まり、残響だけが尾を引く。

どのクラスよりも長く伸びる、きれいな残響。

それが完全に消えるのを待たずして拍手が起こる。

掴みは最高だ。
 
219: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:09:19.67 ID:xvx+78TF
指揮者と伴奏者が交代する。

私は合唱の列から離れ、ピアノへ向かう。

その一歩一歩に重みを感じる。

――でも大丈夫。

ピアノの椅子の高さを調整し、一度座ってみる。問題ない。

――そう、大丈夫。だって……

ちらっと歩夢を見ると、歩夢が私を見て軽くウインクをしてくれた。上手くなったじゃん。

――歩夢が支えてくれるんだから、私は大丈夫なんだ!

指揮者が右手を上げる。

私も鍵盤に指を置き、こくりとうなずく。

静かに指揮者が手を動かし、曲が始まった。

ざわざわしていた客席がシーンを静まり返った。

みんなが私のピアノに集中している。

前奏のたった十数秒だけど、私の世界に引き込むには十分だ。

指揮者が左手を上げる。合唱が入る合図だ。

私のピアノに合唱の響きが混ざり、一つの世界を作っていく。

聞き手が飽きない表現、聞き手に伝わる表現を徹底して突き詰めてきた私たちの合唱は、観客が聴き入るのに十分すぎる物語性を持っていた。

観客の興奮が伝わってくる。

まるで何千本もの針の束で背中をツンツンされているような、そんな感覚。

私が初めて感じる感覚であり、初めて感じる興奮だった。

――きっと戻れなくなるから……

――緊張なんてスパイスみたいなものよ。

桜内先生の言葉の意味が分かってしまった。

きっとこの興奮を超える経験はないだろう。

このを手に入れるためには、舞台にあがり続けなければならない。

頭が痛い。

意識がふわふわする。

脳の細い血管が何本か切れているような気がする。

でも、私は鍵盤から指を離さない。

この音楽を途中で終わらせるくらいだったら――いっそのこと死んだほうがいい。
 
220: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:12:23.47 ID:xvx+78TF
曲は最高潮の盛り上がりを迎え、その後ピアノだけの静かなアウトロへと向かう。

私はこの時間を終わらせたくなかった。

私はこの曲を膨大な時間をかけて練習してきた。きっと数百時間は下らない。

ある日は上手く弾けないストレスで楽譜を破り捨て、

ある日は何度も同じミスをする自分に苛立ち鉛筆を折り、

ある日は上手く動かない左手が憎くて自分を自分で痛めつけた。

そんな私の数か月の練習の成果は、このたった5分でしか表現することができない。

音楽というものは儚い。

音楽は一過性の産物だ。

今ある響きは、次の一瞬にはもう存在しない。

どんなに高級な機材を使おうとも、その響きを完全に再現することは不可能だ。

自分のすべてを賭してその一瞬一瞬の響きを作り出す。

でも、そのうちの1つでも失敗してしまったら……

名演は名演でなくなってしまう。

あのミスさえなければよかったのにな。

そういわれてすぐに忘れられてしまう。

本番で100%の実力を出すことは難しい。

それでも、その本番1回きりの出来で評価は決まる。

なんと儚い芸術なのだろうか。

私の数百時間が、たった今終わりを迎えようとしていた。

私は100%の力を出せたのだろうか。

練習に苦しんだ過去の高咲侑は報われただろうか。

遅くまで残って練習をしたみんなの努力は報われただろうか。

最後の音を弾き終わったとき、私の頬は涙で濡れていた。
 
222: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:15:26.83 ID:xvx+78TF
その後、私は上手く立ち上がることができず舞台裏へ運ばれた。

「侑ちゃん大丈夫!?」

「あれ?みんなの退場って反対側じゃないの?」

「裏から回ってきたの。それより……」

「大丈夫だよ。ちょっと力が入りすぎちゃって……」

「先生も座って落ち着けば大丈夫だろうって。ちょっと頭に血が上りすぎちゃったみたい。」

「それでも心配だよ~」

「高咲さん、大丈夫?」

「あっ桜内先生!」

「よく本番や実践でとんでもない成長をする主人公っているけれど、あなたもそのタイプみたいね?」

「え?どういうことですか?」

「わかったんでしょ?舞台に立つってことがどういうことか。」

「……わかっちゃいました。」

「それで今は十分よ。」

「桜内先生はもしかして私にこれを知らせたくて……背伸びをさせたんですか?」

「さぁ、どうでしょうね。」

「じゃあ、私は2年生の審査があるからもう行くわね。あなたたちも落ち着いたら自分の席に戻りなさい。」

先生は颯爽と去って行ってしまった。

「歩夢。」

「なに?」

「私ね、高校は虹ヶ咲の音楽科に行くよ。」

「……うん、分かった。」

「応援しているね。」
 
223: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:18:30.38 ID:xvx+78TF
その後の3学期は本当にあっという間だった。

合唱コンが終わるとすぐに学年末テスト週間になり、また狂ったようにテスト勉強に没頭した。

また一人で勉強かな?と思っていたら、私の部屋に勉強道具を持った歩夢がやってきた。

前回のテストでけじめはついたみたい。もし順位が下がったらまた次から別々に勉強だってさ。これはがんばらないと。

もう5回目ともなると先生のテストの癖が分かるようになり、それに合った勉強ができるようになってきた。

そして、私1位の歩夢2位でフィニッシュ。

有終の美を飾って1年生を終えることができた。

気になることがあるとすれば……前回よりも歩夢との点差が縮まったところかな。

本当にいつか抜かれる日が来るかもしれない。

通知表を受け取り、私の2週目の中学1年生は幕を閉じた。
 
224: (もんじゃ) 2022/05/27(金) 22:21:37.13 ID:xvx+78TF
「幸せの総量は決まっている。」
一見虚しく感じるが、この言葉には続きがある。
「だから、悪いことは続かない。嫌なことがあっても次はいいことがあるよ。」
不幸な出来事の後には幸福が訪れる。だから気を落とすな。世界はそんな幸不幸のバランスを保って動いている。

でも、どうして私はその逆に気が付かなかったのだろう。

たくさんの幸福を得た後には……その反動があるはずなのに。
最初の1年間は本当に奇跡のような時間だった。努力は報われたたくさんの栄光を手にした。歩夢と特別な関係になることができた。
人生で一番幸せな時間だった。
だから、次の1年があんなになってしまったのも、しょうがないことだ。
私は幸せの前借をしてしまったのだから。
歩夢がいなかったらこの1年間を耐えることができなかっただろう。

歩夢がいてくれて、本当に良かった。

歩夢がいなければ……いや、



私がいなければ、本当に良かったのに。
 
237: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:01:10.91 ID:x5rltJ2R
春。新学期。

私が中学生に戻ってからしてからちょうど1年がたった。

今の生活を楽しみたいという気持ちと、早く虹ヶ咲へ行って同好会のみんなと再会したいという気持ちが私の中でせめぎあっている。

まぁ、入学したところでみんなとは初めましてからの関係になっちゃうけど……

それでもみんな魅力的でとてもいい子だし、1周目以上の関係を築けるんじゃないかなって思ってる!

そんな近そうで遠い未来のことを考えながら階段を降りると、視線の先には美少女が……

「歩夢~!」

「あっ侑ちゃん!おそいよ?」

「ごめんごめん、今日提出のプリントが見つからなくってさ!」

「も~、侑ちゃんは相変わらずなんだから……」

「ほら、頭に花びらが付いているよ。」

「ありがとう///」

「じゃあ、行こう?」

「うん!」

歩夢が私の手を握ってきた。

「誰か来たら離すからね?」

「うんうん。」

歩夢が甘えてくるのは珍しかった。

きっと久しぶりの学校で気分が高揚しているのだろう。

くっついたり離れたりを繰り返しながら歩いているうちに学校へ着いた。



「あっ!同じクラスだよ!」

「ほんとだ!!」

「今年度もよろしくねっ!侑ちゃん!」

「こちらこそ、よろしくね!」

新学期の難関ポイントであるクラス替えを最高の形でクリアすることができた。

1周目は3年間ずっと歩夢と一緒だったが、2周目も同じ未来になるとは限らない。

私は心の底から安堵した。
 
238: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:04:25.18 ID:x5rltJ2R
ガラガラ

新しいクラスに入り、黒板に貼ってある座席表を見て席に座る。

あいうえお順なので歩夢とは離れてしまった。

仲が良かった友達は……ほとんど他のクラスだ。

といっても同じ小学校から上がってきた子ばかりだから全く知らないという子はいない。

そこはこの小学校で本当に良かったと思っている。

「小学校○年生ぶりだよね~今年もよろしくねっ!」

そんな挨拶を周りの席のことしているうちに、担任の先生が入ってきた。

どうやら新任の先生らしい。

普通は学年が上がっても担任の先生はそのまま持ち上がって3年生まで一緒のことが多いが、この先生は定年で学校を後にする先生の代わりとして私たちの担任に組み込まれたらしい。

若い先生で、美人さんだ。きっといいひとなんだろうなぁ~

そんなことをぼんやり考えているうちにHRが終わって始業式となった。



退屈な校長のありがたいお話を聞き、生活指導の先生が生徒に釘を刺し、進路指導の先生が3年生はもちろんだが2年生も受験は始まっている!とかなんとかよくわからない話をして始業式は終わった。

その後のHRは自己紹介と班の中での役割分担の話し合いをした。

歩夢と班が分かれちゃったから掃除の週も別々になっちゃった。

少しでも一緒にいたいのに、残念だ。

そして最後に教科書類が配られ、今日の学校は終わりとなった。

ペラペラページをめくるとすでに見覚えがある内容。

2年生の内容の予習も春休みに着々と進めてきた。教科書がある分、これからはもっと効率よく進むと思う!

今年度に私を待ち構える5回のテスト。どれも強敵になるだろう。

でも、だからこそいい。

その壁の大きさを感じ、私は武者震いした。

絶対に頂上に立ち続けてみせる、と。
 
239: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:07:34.24 ID:x5rltJ2R
相変わらず授業は始業式の翌日から始まった。

2年生になったからと大きく変わったことはなく、1年生の時と同じように毎日授業を受け、家に帰れば音楽と勉強で毎日が消化されていった。

クラスのみんなとも良い関係が築けていた、と思っていた。

最初は兆候に全く気が付かなかった。

私の学校では、放課後の掃除の際に机の上にあげた椅子は翌日の朝に各自が降ろす方式だった。

私も教室で自分の席に向かい、椅子を下ろしたその瞬間、

学 校 に 来 る な

椅子で隠れていた机の天板に、鉛筆で書かれた文字が目に飛び込んできた。

「えっ……」

周りを見渡してみるが、私を見ている人はいない。

誰の仕業?質の悪いドッキリ?いやがらせ?

いくら考えても答えは出なかった。

今まで人から明確な敵意を向けられたことなんてなかった。だからこそ、とても怖かった。

私は目立たないように筆箱から消しゴムを取り出し、その文字を消した。

「あれ?侑ちゃん机に落書きしたの?」

歩夢が私の席の近くまで来ていた。焦って全然気が付かなかった。

「いや、ちょっと汚れがついてて……」

「ふ~ん、そうなんだ。それでさ!……」

その後歩夢はお台場にできる新しい雑貨屋の話をした。

私はらくがきの事が歩夢にバレてないかひやひやしたが、どうやら大丈夫そうだった。

その日はそれ以降、特にトラブルもなく終わった。
 
240: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:10:42.98 ID:x5rltJ2R
翌日。

上履きに履き替えたんだけど何か違和感。

少し考え、その違和感の正体が中敷きが抜き取られていることだとわかった。

教室について自分の席に座ると、今日も昨日と同じ落書きが天板に書いてあった。

そして机の中には大量のゴミ。

「侑ちゃん、一緒に行かない?」

「あっごめん家で行ってきたばっかりだから……」

「そう、じゃあ私一人で行くね?」

歩夢がトイレへ行ったことを確認し、机の中につまっていたごみを捨てる。

ごみ箱の中には私の上履きの中敷きが捨ててあった。

誰がこんな嫌がらせを……

周囲を見渡すとクラスのみんなが私のことをチラチラ見て嫌な笑顔を浮かべていた。

教室の空気が一気に冷たくなり、私の背筋が凍った。

この中に犯人がいるのだろうか……

それとも……

「誰がやったの?」

意を決してクラスのみんなに問いかける。

しかし、みんなニヤニヤ私を見るだけで誰も返事をしない。

「何か知ってるなら教えてよっ!」

だれも答えない。ただただ面白がるように笑うだけ。

教室の空気が止まる。

「あれ?侑ちゃんどうしたの?」

歩夢が教室に帰ってきた。

「あ、うん。なんでもないよ?」

歩夢に心配させるわけにはいかないと咄嗟に誤魔化した。

歩夢が帰ってきた後のクラスの雰囲気は元に戻っていた。

それはまるで何事も起きていなかったかのように。

さっきの出来事がまるで嘘だったかのように、

クラスはいつも通りの平穏を取り戻していた。
 
241: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:14:11.30 ID:x5rltJ2R
移動教室から帰ると机の中に1枚の紙が入っていた。

放課後に一人で視聴覚室に来い、そう書かれていた。

きっと私に嫌がらせをしている連中に違いない。

どうしてそんなにも私を嫌っているのかは知らないが、きっと何かの勘違いだろう。

それをこの場で証明して見せる!

そう思い、帰りのHRが終わると

「先生に呼び出されたから先に帰っていて」

と歩夢に?をつき、視聴覚室へと向かった。



視聴覚室には誰もいなかった。

勝手に入っていいのかな……先生に怒られたりしないかな……と恐る恐る中に入った。

呼び出しておいて誰も来ないとか失礼にもほどがあるよ!

5分が経ち、10分が経ち、しびれを切らして帰ろうとしたとき、私を呼び出した相手が部屋にやってきた。

「ゆ……結葉ちゃんっ!」

「なれなれしく呼ぶなクソ女。」

結葉ちゃんは私に近づくやいなや思いっきり私のおなかを膝で殴った。

「ぐはっ……」

経験したことの無い痛みが腹の底からこみ上げる。

あまりの痛みに目からは涙が溢れ、呼吸が激しくなる。

視界がゆがみ、とにかく、気持ちが悪い。

今にも胃から何かがこみ上げてくるような感覚に襲われた。

「うう゛っ……。結葉ちゃん……なんで……」

私はあまりの痛みにお腹を抱えながら床に倒れこんだ。

誰かに殴られるなんて、私の人生で初めての経験だった。

全身から嫌な汗が噴き出す。心臓が動くたびに、下腹部に強烈な痛みが走る。

「ぁ……ぅ……」

結葉ちゃんはうずくまって痛みに耐えている私の髪の毛を根元から掴んで引っ張り、上半身を起こさせた。

殴られたお腹の筋肉が無理矢理伸ばされ、頭皮の痛みと相まって私を苦しめる。

「あ゛ぁ……」
 
244: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:17:46.56 ID:x5rltJ2R
「何度も言わせるな」

その体制のまま背中の左側を膝の先で思いっきり蹴られる。

「うぐっ……」

ドッ

髪の毛は離され、私は前方へ飛ばされ床に強く打ち付けられた。

「ぐすっ……なんで……」

「皆星……ちゃん……」

皆星ちゃんは床に倒れこんだ私の上に足を乗せ、さっき膝で蹴り飛ばした部分を足の先でもてあそぶ。

ぐりぐりぐりぐり

ぐりぐりぐりぐり

何も言わず、ただ単に私の背中をいたぶる。

ぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐり

ぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐり

一度痛めつけられたところを何度も何度も痛めつける。

集中的に、効率的に、

私を痛めつける。

「い゛だいよ……」

「そりゃそうでしょ、痛くしているんだから。馬鹿には分からないか。」

「あと、皆星“さん”な。本当は苗字すらあなたに呼ばれたくないけど。」

「……」

「わかったら返事しろ!」

皆星さんは背中から足を離すと、私の横腹をつま先で思いっきり蹴った。

足が腹にめり込み、胃液がこみ上げる。

勢いで私の体は回転し、仰向けの姿勢になった。

「ん゛……ぐはっ……」

「わかったよ……」

上を向いたことで皆星さんと目が合う。

「あとお前、私のことチクるなよ?」

「なんでそんなこと……」

何とか立ち上がり、皆星さんから距離をとる。
 
245: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:20:58.76 ID:x5rltJ2R
「自分がいじめられているって、歩夢ちゃんに知られたくないみたいだね。」

「えっ……」

「そりゃあ彼女だし心配かけたくないよね~?」

皆星さんはスマホを操作し、ある写真を私に見せつけた。

「これは……」

去年のクリスマスに海岸線の公園で歩夢とキスをした時の写真……

「正月に前のクラスで話題になった写真あるでしょ?その写真撮ったやつ、このキスの写真も撮っていたのよ。」

「さすがに本人もこの写真をばらまくのはまずいと思って思いとどまったらしいわ。」

「じゃあなんで……」

「あなたが憎いからに決まっているじゃない!」

「なんでよ……私そんな悪いことしてないじゃん!」

「あなたのそういうところが、みんなの神経を逆撫でするのよ!」

皆星さんは一瞬の隙をついて私に近づき、足の裏で思いっきり私のおなかを蹴り飛ばした。

それは一発目とは比べ物にならないくらい体の奥までめり込む、強烈な蹴りだった。

「お゛え゛っ……」

私の体は軽々と後方へ飛ばされ、背中と後頭部を床に打ち付けた。

全身を強く痛めつけられ、涙と鼻水が止まらなかった。

「あなたのせいでどれだけの人が絶望したと思っているのよ!」

「……」

「ちょっと私も取り乱したわね。」

「とにかく、今日の教室の空気を見ればわかるでしょ?クラス全員、あなたのことを嫌っているのよ。」

「なんでよ……」ポロポロ

「それが分からないところが、あなたの一番イライラするところなのよ。」

「とにかく、このことを周りの誰かにチクったらこの写真をばらまくからな?」

「そ、そんな……」

「アンタのせいで自分のキス写真がクラスに出まわったら、歩夢ちゃんどう思うかなぁ~?」

「しかも、もちろんそれだけじゃない。」

「お前にとっての一番の弱点は何か、よく考えておくといいと思うよ。」

最後に私に脅しをかけ、皆星さんは部屋から出ていった。
 
247: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:24:00.03 ID:x5rltJ2R
緊張の糸が緩み、私は地面に座り込む。

「なんでよ……なんでよ……」ポロポロ

――あなたのせいでどれだけの人が絶望したと思っているのよ!

そういわれても、私のどこに落ち度があったのかわからない。

もし私が悪いことをしてしまったのなら謝りたい。謝りたいけど……

その理由がわからない以上、私には何もすることができない。

理不尽な暴力を振るわれ、私は心までボロボロになった。



「――帰らないと……」

痛みと心が落ち着き、私は家へ帰ることにした。

蹴られた部分は上履きの底の跡がくっきり残っていたが、何度かはたくことで奇麗になった。

トイレにそのまま入る上履きだからいい気はしないけど……

地面に打ち付けられてついた埃も一通り落とし、制服はいつもの状態を取り戻した。

まだ体は痛むけれど、これなら帰れる。

なるべく明日のことは考えないようにした。

歩夢に会いたい……

もしかしたらどこかで待っていてくれているかもしれない……

私は祈るように歩夢を探した。

結局、歩夢の姿を見つけることはとうとうできなかった。

お風呂に入ると、全身が痣だらけになっていた。

痣を作ったのなんて何年ぶりだろう。

小学校の頃に転んだとか、遊具から落ちたとか、たぶんそれ以来。

白い肌に赤黒い斑点が何か所も出来ている。

その醜さが、いじめの陰湿さを表しているようでずっと見ていると気分が悪くなり、目をそらしてしまった。

しかも痣は全部服で隠れる場所にある。

その意図を理解した瞬間、私は背筋が凍った。
 
248: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:27:01.71 ID:x5rltJ2R
翌日からも私に対する嫌がらせは続いた。しかも皆星さん以外の子からも手が下されるようになった。

足を引っかけられて転ばされたり、話しかけても無視をされたり。

しかしそれは歩夢の目を盗むような場所でのみ行われた。

きっと私を孤立させるためだろう。

もし歩夢の目前でいじめを行えば、歩夢は無条件に私に味方する。

しかし、私のプライドを考えればいじめられていることを自分から歩夢に言うことなどできるはずがない。

中学生のくせに、よく考えている。

私は歩夢の前では完璧な高咲侑でいる必要がある。

その信念を逆手に取ったのだ。

しかも脅しをかけられている。

このいじめのことを周りに話したら――

その“周り”に歩夢が入っているかもしれない。

もし私が歩夢に助けを求めたら――

不確定な以上、私は歩夢にさえ……

いや、歩夢だからこそ助けの手を伸ばすことができなかった。
 
249: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:30:36.56 ID:x5rltJ2R
「まだ4月後半なのに今日は暑いね~」

季節は春だというのにまるで夏のような気温の日が続いている。

「本当にね。地球温暖化ってやつなのかな?」

歩夢もこの暑さには参っているみたい。

「こんな日に体育なんて最悪だぁ~」

「こらこら、侑ちゃんわがまま言わないの!」

「は~い」

同じクラスに歩夢がいて本当に良かった。

体育の授業は頻繁に好きな人とペアを組まされる。

もし歩夢が居なかったら……わたしは一人ぼっちになっていたかもしれない。いや、なっていた。

歩夢がいてくれるだけで私へのいじめは一時的なくなる。それだけでも本当にありがたかった。その状況こそが私を苦しめているのだけれど。

授業が始まり、準備体操、柔軟へと進んだ。

「ん~~~」ノビー

歩夢の背中を少しだけ力を入れて押す。

去年の運動会の時よりもだいぶ体が柔らかくなっていることが分かる。

歩夢に触れていると、なんか安心する。

なんだか、歩夢の背中が大きく感じた。

「交代~!」

先生の指示で役割を交代する。

今度は私が足を延ばして座り、歩夢が私の背中を押す。

「じゃあ押すね!」

といって歩夢が背中に触れた瞬間、激痛が走った。

「イタッ」

「え?そんなに身体硬くなっちゃった?」

「いや、気のせい気のせい。」

「大丈夫なの?押し込むよ?」

「う、うん。」
 
250: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:33:42.54 ID:x5rltJ2R
歩夢は私の背中の痣を押し込むように体重をかけてきた。

涙が出るほど痛いが、バレるわけにはいかない。

私はひたすら痛みに耐え続けるしかない。

こんな目にあと何回合わないといけないんだろう……

何でこんな体にされちゃったんだろう……

体育の授業が本当に憂鬱だ。



授業が終わり、制服に着替えて教室へ戻る。

「疲れたね~」

「ほんと、体育の授業って何であるんだろう……?」

「侑ちゃん最近体育の授業好きじゃなかった?また嫌いになっちゃった?」

「いやっ……ほら……、最近暑いし?」

「まぁ確かにここまで暑いとやる気もなくなっちゃうよね……」

「水分補給水分補給っ♪」

私の中学校では水筒の持ち込みが許可されていた。

今日は暑くなること、そして体育の授業があることが分かっていたので氷たっぷりの麦茶をママに用意してもらっていた。

ふたを開け、飲み口を口に付けて水筒を傾けると、キンキンに冷えた麦茶が……

私は一瞬動きが止まった。

――違和感。

いつものママの麦茶の味ではなかった。

そして何より、臭いが変だった。

臭い。生臭い。

私は口に入れた麦茶を水筒の中に戻し、急いでトイレへと向かった。
 
251: (もんじゃ) 2022/05/31(火) 22:36:49.33 ID:x5rltJ2R
「はぁ、はぁ……」

トイレの水道で口をゆすぐ。

本能がこの液体は口にしてはいけないものだと訴えかけていた。

「ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ……ぺっ」

「ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ……ぺっ」

なんどすすいでも何かが残っているような気がする。

「腐っていたのかな……?」

中身を確認するために水筒の蓋を開けてみると……そこには信じられないものが入っていた。

「まさか……ね……」

私は恐る恐るその物体を持ち上げてみる。

そこには予想通り、汚れたボロボロの雑巾があった。

「うっ……」

雑巾が入った麦茶を一瞬でも口に入れてしまったことに気が付き、全身に拒否反応が走る。

「うえぇぇぇ」

胃に吐くものもないのに、喉が嘔吐しようと止まらない。

誰が……誰がこんなことを……



いや、わたしは別の心配をするべきだった。

歩夢がいれば私への直接的ないじめは起こらない。

しかし、私は今、歩夢を教室に置いて一人でトイレに来てしまった。

嫌な記憶が蘇り、恐怖から手が震える。

早く戻らないとっ!!

もう一度だけ水道の水で口をゆすぎ、急いでトイレを出ようとしたまさにその瞬間――

ギギー

トイレの扉が開き……



――そこには皆星さんの姿があった。
 
265: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:37:00.56 ID:SqI85sxA
「そんなところで何をしているの?――高咲さん?」

皆星さんはにやける表情を抑えられない様子でトイレの中に入ってきた。

「ははっ……いや、なんでもないよっ!」

「へぇ、今は歩夢ちゃんと一緒じゃないんだ?」

「う……うん……」

全部知っているくせに。

私の水筒にボロ雑巾を入れたのも、

トイレに私一人しかいないことも、

全部知っているくせに。

「つまんないんだよね~!」

「ひぇ……」

皆星さんはいきなり大声を張り上げたので、思わずビビってしまった。

「つまんないって……なにが?」

「いや、教室の中で吐くくらい面白いことしてくれても良かったじゃん。」

「教室の真ん中で、歩夢ちゃんの目の前でみっともなくお茶を吹きだしたら面白かったのに――」

「せっかく私がわざわざ味付けしてあげたのに、本当につまらない。」

「……何を言っているの?」

「もっとさ、私たちを楽しませてよ。みんながっかりしてるよ?」

「そんなこと言われても……」

「ほら、その水筒全部飲めよ。」

「えっ……」

「飲めって言ってるの。」

「だってこれは雑巾が……」

「お前より雑巾の方が全然綺麗だろ。気取ってんじゃねぇぞ?」

「こんなの……飲めないよ……」

放課後の掃除でいつも床を拭いている雑巾は真っ黒でゴミや髪の毛が数えきれないほどついている。

掃除が終わった後、水道で何度洗っても茶色い水がいつまでも出てくる。

いつも生乾きでひどいにおいが付いている、雑巾。

そんな汚れを溜めに溜め込んだ布切れが、今、私の水筒の麦茶の中で漂っていた。
 
266: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:40:17.84 ID:SqI85sxA
「ふーん。逆らうんだ?」

「……」

「じゃあ、この歩夢ちゃんのキス顔はフリー素材ってことで、」

「ネットに晒していいってことかな?」

「それはダメっ!!」

「そうだよね?ネットの海に流したら一生消せないもんね~?」

「だから……それだけは……」シクシク

「私の写真だったら良いから……歩夢の写真だけは……お願いします……」

「うーん、学年1位は日本語が分からないのかなぁ~?」

「いやなら全部飲んで私を楽しませろって言ってるの。本当に送信しちゃうよ?」

「……」

ポチ

「えっ……ぁ……」ボロボロ

「なに泣いてるの?マジ引くんだけど」

「今のはメールだけど、次は本当に拡散するから」

「わかった?」

「――はい……」

私は震える手で持っている水筒に目を落とした。

まるで雑巾を洗うバケツのような水筒。

人間の飲み物じゃない。いや、動物ですら口にしない。

「休み時間終わるから早くしろよ?チャイム鳴ったらアウトな?」

「う……うん……」

歩夢を、歩夢を悲しませるわけにはいかない。

私が今ここでちょっと……、ほんのちょっとつらい思いをすれば……それで歩夢は悲しい思いをしないで済む。

どうして私がいじめられているかは分からないけれど、きっとそれは私の責任だ。

このゴタゴタに歩夢を巻き込むわけにはいかなかった。

「はやく~はやく~」

水筒が顔に近づくにつれて雑巾の生臭いにおいが強くなってくる気がする。

もう、たとえ臭いが無くともそこに悪臭が漂っているように感じてしまう。

水筒に口をつける。あと少し手を上げればお茶が――いや、汚水が流れ込んでくる。
 
267: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:43:21.30 ID:SqI85sxA
眼からは涙が、体からは汗が流れる。

ここまで追い詰められても、私の覚悟は決まらなかった。

身体が硬直する。

命令に従わないと歩夢が大変な目に……でも……

「ほい」

皆星さんが私の水筒をひょいと持ち上げた。

だらしなく空いていた私の口に大量の水が流れ込んでくる。

口の中に広がる異常な味と臭いに思わず吐き出しそうになる。

何度もこみ上げてくる吐き気を何とか抑えつつ、私は頬を膨らまして何とかその水をため込んだ。

「(無理無理無理無理無理無理)」

「(飲み込むなんて無理だよ!!)」

私は心の中で必死に訴えたが、皆星さんは何も言わず……

――おもむろに私の鼻を強くつまんだ。

口は雑巾の水をため込んでいるから呼吸はできない。

鼻もつままれているから呼吸ができない。

私が呼吸をするためには……口の中を空にするしか方法が無かった。

10秒が経ち、20秒が経ち、1分が経ち……

次第に呼吸の限界が近づいてきた。

「んんんんんんん!!!!」

「あら、顔を真っ赤にしてバカみたい」

「ずっとその顔だったら面白いのに」

脈がどんどん強くなり、頭の中でガンガン鳴り響く。

こんなの死んじゃうよ……

死ぬくらいだったら……

ゴクリ

ゴクリゴクリゴクリ

「っはーはーはー!!!」ゼエゼエ

「うっぷ……」
 
268: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:46:23.33 ID:SqI85sxA
胃が飲み物ではないと拒絶している。

喉や食道にゴミが付いているような異物感がある。

舌もザラザラしている。いくら唾で汚れを取ろうとしても取れない。

そもそもこの唾液は本当に唾液なのだろうか。

雑巾で汚れた水かもしれない。

私の口はひたすら唾液を出して汚れを流そうとして、口の中が唾でいっぱいになる。

気持ち悪いけれど、それも飲み込む。

「……これで、良いの?」

「は?」

「だって……飲んだよ?」

そう言うと、皆星さんは私の水筒を取り上げて思いっきり振った。

ジャブジャブと残りのお茶が音を立てる。

それと同時に、雑巾について汚れやごみがまたお茶に溶け出す。

「ほら、最後まで飲め。」

「は……はい……」

皆星さんがちらりとスマホの画面を見る。

「チッ。もうすぐ休み時間終わりじゃん……」

解放される!  ――そう思った私が甘かった。

「30秒で全部飲め。」

「30、29、28……」

頭が追い付かない。それでも皆星さんはカウントを止めない。

私の手には泡立った雑巾入りの麦茶。さっきの一口でもキツかったのに……その何倍もの量が、そしてさらに雑巾の成分が溶け込んだお茶が水筒に残っていた。

「19、18、17……」

時間だけが過ぎていく。

冷汗で制服が身体に張り付く。

「13、12、11……」

歩夢……

歩夢……

歩夢……ッ!!
 
269: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:49:29.30 ID:SqI85sxA
「10」

私はその瞬間意を決し、水筒の水を口に注ぎ込んだ。

今までとは比べ物にならないほどの拒絶感を味わいながら、ただひたすらに、何も考えずに、胃に流し込み続けた。

次第にお茶の量が減り、上唇に雑巾が当たる。

それでも私は躊躇せず、水筒の中を空にした。

「ゼロ」

「まぁ、少しは面白かったわ。」

ピロン

「なっ何の音?」

「カメラの音だけど?なかなか面白い映像が取れたわ。」

「ちょっと消してよ!!」

「は?」

皆星さんはそう威圧すると、トイレを後にした。

「……」

「……おえっ」

「……んごおえっ」

胃がキュルキュル収縮し、飲み込んだ水筒の中身が食道を逆流してきた。

私は急いで個室に駆け込み、顔を便座にうずめた瞬間……

「んっぷジャバビチャビチャビチャビチャ」

「ゲホゲホ……はぁはぁ……」

「あっぷおえゲボビチャボチャ……ポタポタ」

「うげえぇぇぇぇぇ」

胃に固形物が入っていなかったこともあり、私はほぼ水だけのゲロをしばらく吐き続けた。

「なんで私が……」

「なんで私がこんな目に遭わないとといけないの……!」

汗と涙と吐瀉物で私の顔はぐちゃぐちゃだった
 
271: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:53:52.56 ID:SqI85sxA
吐き続けているうちにいつの間にか授業が始まっていた。

私は何回も何回も口をゆすぎ、何とか平常心を取り戻してから教室へと戻った。

大丈夫、大丈夫。

でも、自分の席に着いたとたん皆星さんと目が合い……

その瞬間、私の胃は雑巾の味を思い出して吐きそうになった。

胃の中には何も入っていなかったのが幸運だ。

私はやはり具合が悪いから保健室に行くと言い、教室を去った。

急いでトイレに駆け込み、無い胃の中身を何とか吐き出そうとした。

吐いても吐いても空気しか上がってこない。

その空気も雑巾のような生臭いにおいのように感じる。

「もうこんな口じゃ……歩夢とキスなんてできないよ……」

私は授業が終わるまでひたすらえずき、ひたすら泣いた。
 
272: (もんじゃ) 2022/06/03(金) 22:57:13.47 ID:SqI85sxA
それからも私への嫌がらせ……いや、いじめは歩夢を目を盗むように続いた。

私が話しかけてもひたすら無視してみたり……

特に意味もなく私の体を殴ったりつねったり……

わき腹や背中、そして太ももは健康なところが無いくらい、一面痣だらけになった。

それに加え、私は良く突き飛ばされた。

立っていても歩いていても、いきなり誰かに体を強く押される。

小柄な私は為す術もなく派手に転ぶ。

その姿が滑稽に映ったらしく、ところ構わず誰かにぶつかられた。

それでも絶対に服で隠れるところ以外には一切の跡を付けられなかった。

最初のうちはお風呂の鏡で毎日痣の位置を確認していたが、今ではそれもやらなくなった。

数えるのも意味ないし、何より自分の体を見るのが嫌になった。

手や足は綺麗な肌色なのに、体の中心部に向かうにつれて赤黒い痣で埋め尽くされている。

痣で埋め尽くされたところを毎日のように殴られ、つねられてはいつまでたっても治らない。

そればかしか痛みはどんどん強くなる。

痣の上に痣ができ、走る激痛に歯を食いしばる毎日。

それでも、私は耐えることしかできなかった。

だって私が歯向かえば……歩夢が悲しい思いをしちゃうから……

未来から来た私が、歩夢の未来を潰すなんて絶対にできない。

絶対に歩夢を危険な目にさらさない……私はあの時に決心したんだから。
 
284: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:06:27.31 ID:QDyxGNkx
――――――――――――
「侑ちゃん、外に出て大丈夫なの?」

結局私はあの後、学校を早退した。

しばらくベッドの上でYoutubeの動画を垂れ流していたが、面白いと思える動画は何一つなかった。

ただ時間だけがゆっくり流れていく。勉強する気も起きない。

だから私は時間を潰すためにベランダで外の空気を吸っていた。

耳にはイヤホンを付けてよく知りもしない曲を永遠に聴き続けた。

とにかくいろいろな情報を頭に入れたかった。

もしそれが途切れてしまえば……さっきの出来事を思い出してしまいそうだったから。

そうしているうちに、歩夢が学校から帰ってきたのだ。

「侑ちゃん、外に出て大丈夫なの?」

ベランダ越しに心配そうな表情を浮かべる歩夢。

「う、うん。もう調子戻ったみたい」

「なんか顔色悪いけど……もう少し休んでいたほうがいいんじゃない?」

「うん、ありがと」

「心配したんだからね?」

「うん……。学校であの後何かあった?」

「いや、特にないよ。特にプリントも連絡事項もなかったよ」

「そうなんだ。よかった」

「……」

「……」

「侑ちゃん……なんかいつもと違う気がする」

「えっ?」

「元気が無いのは体調のせいなんだろうけど……雰囲気がいつもと違うというか……」

「侑ちゃんが風邪ひいたときの元気のなく仕方とちょっと違う気がするの。なんか、落ち込んでいるというか…… あっ、気のせいだったらごめんね?」

「でも……なんか悲しいことがあったのかなって……」

歩夢は分かっている……いや、勘づいているのだろうか……。

でも……歩夢に本当のことは言えない。だって……
 
285: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:09:32.45 ID:QDyxGNkx
「え~?そんなことないよ? ただ体調が悪いだけだって!」

私は笑顔でそう答えた。歩夢はしばらく疑っていたが、

「笑顔で『体調が悪いだけ』って嬉しそうに言う人初めて見たよ」

といって笑い出した。なんとか誤魔化せたのかな……?

歩夢にバレなくて本当に良かった。

それと同時に、歩夢に嘘をついてしまったことをひどく悔やんだ。

歩夢に嘘をついたことなんて今までなかったのに……

――――――――――――
1学期中間テスト。

私が勉強に真剣に向き合うようになってから1年が過ぎたことになる。

何も相談をしていないはずなのに、学校から帰るな否や歩夢が私の家に押しかけてきた。

「一緒に勉強しよ?」



「私ね、定期試験は嫌いなんだけど試験勉強は好きなんだ~」

「え?歩夢勉強好きなの?」

「勉強は嫌いなんだけどね……、試験勉強している時は……その……」

「侑ちゃんと一緒に居られるから……///」

「歩夢……///」

「最近学校でも侑ちゃんどこか行っちゃうこと多いし、一緒に帰れない日もあるし寂しかったんだもん!」

「そ、それは……、本当にごめん」

「良いの良いの!侑ちゃんも用事があるんだろうし、こうやって……」

歩夢は私の横に座り込み、私の右手の上に左手を重ねた。

「隣にいてくれれば、それでいいから」

「歩夢……」

「私も、ずっと歩夢の隣に居たいよ」

「侑ちゃんがそういってくれるだけで、私は幸せだよ?」

私は身体を寄せ合い、つかの間の幸せを享受した。
 
286: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:13:23.26 ID:QDyxGNkx
「さて!勉強するよ!」

「うん!歩夢はどこまで進めた?」

「私は範囲の問題集を全部解いてわからない問題をピックアップするところまでやったよ。」

「あ、私と同じだ」

「え~!今回はスタートで侑ちゃんに差を付けられると思ったのに~!」

「歩夢が追い付くのは100年早いよ?」

「100年たったら中学校卒業しちゃうじゃん!!」

「ははっ、確かにね?」

「でも、それって100年後もいっしょに競争してくれるってこと?」

「もちろん」

「100年後は……113歳かぁ」

「私はもう少しで114歳だね」

「私たち、長生きできるといいね」

「そうだね」

穏やかな空気が流れる。

「そういえば……、この前早退しちゃった数学のノートを写させてほしいんだけど……」

「あぁ、あの日のやつね。ちょっと待って……はい!」

「ありがとう!えっと……」ペラペラ

「この部分かな?」

「うん、そこらへん」

「歩夢のノートは綺麗で字がかわいくて読みやすいなぁ~」

「からかわないでよ~!そもそも侑ちゃんその部分も理解しているでしょ?」

「いやそうなんだけど……、ノート提出があるじゃん?だから書いておかないと……」

「あ~、確かにそうだね。あれ面倒くさいよね……」

「ほんと!テストの点だけで評価付けてくれればいいのに」プクー

「小学校の頃の侑ちゃんだったら成績が大変なことになっちゃうよ?」

「それは……。たしかに……」

「まぁ、さっさと写させてもらおうかなっ!」
 
287: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:16:30.42 ID:QDyxGNkx
私は自分のノートが入っている鞄を開けて数学のノートを取り出し、ペラペラページをめくると……

―― 一生学校に来るな

――ブス

――頭でっかち

――ゴミはゴミ箱へ

――気持ちが悪い

――あなたが来るとみんなが不幸になる

沢山の落書きが私の目に飛び込んできた。あまりの不意打ち攻撃に涙がこみ上げてくる。

他にも私を模したであろう落書きや「死」を連想させるような文言が色とりどりのペンで書き連ねられていた。

それは私が書いた文字が見えなくなってしまうほどに……

「侑ちゃん、どうしたの?」

「……あっ、いや何でもない!」

「ノート、学校に忘れちゃったみたいで……」

「今持ってるそれは?」

「あぁ、これ前のノートで、新しいほうをね……」

「そうなんだ。明日までノート貸してもいいけど?」

「うーん…… あっ!写真撮らせてもらってもいい?」

「うん、全然いいよ?」

「ありがとう!」

私はその忌々しいノートを急いで鞄にしまった。




「ノート作り直さないとなぁ……」

歩夢が部屋に帰った後、私はノートを見返してため息をついた。

元々私はノートを作るのが嫌いだ。知っている内容を綺麗にまとめても何の得もない。

意味のない、効率の悪い勉強方法だと思っている。でも、内申点がある以上提出物をさぼって先生の心象を下げるわけにはいかない。

「あ~あ」

私は大きくため息をつき、新品のノートを引き出しから取り出した。

――数学

――高咲侑

表紙に科目と名前を書き、テスト範囲分のノートをイチから書き直す。
 
288: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:19:41.45 ID:QDyxGNkx
時刻はすでに深夜1時を回っていた。でも、無意味な作業はテスト直前の大切な時期にしたくない。今のうちの終わらせておきたかった。

落書きが激しく、よく見ないともともと何と書いてあったか読めない。

でも、ノートをじっくり見れば見るほど、私への悪意に心が痛くなる。

数学の板書を読んでいるつもりでも、気を抜くと私への悪口が頭に入ってくる。

気持ちが悪い。ブス。汚い。臭い。チビ……

1回分の授業のノートを写し終わったところで私の心が限界に達した。全部で20回分はあるというのに……

「ううっ……なんで……」ポロポロ

「もう……学校行きなくないよ……」シクシク

私は机の上にあったイヤホンを耳に突っ込み、大音量の音楽で悲しみを紛らわせた。

耳が、鼓膜が、痛い。

痛いけれど、

痛いけれど嫌ではなかった。

だって、音楽は私を傷付けないから。





結局その後も音楽を聴きながらノートを写し続け、気が付けば朝になっていた。

「1時間だけ寝ようかな……」

そうつぶやき、ベッドに横になった時点で私の意識はもうなくなっていた。

♪(着信音)

♪(着信音)

♪(着信音)

「ん……」

ピッ

「あゆむ?」

「侑ちゃん?大丈夫?」

「?」

「いや、いつも一回で出るのに今日は全然電話出なかったから……」

「あぁ……ちょっと寝るの遅くて……ただの寝不足だよ」

「うーん、じゃあベランダで待ってるよ?」

「うん!」
 
289: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:22:52.34 ID:QDyxGNkx
電話を切り、いつものようにベランダへ出る。

「歩夢、おはよう!」

「うん、おはよう侑ちゃん。あの後も勉強してたの?」

「う~ん、勉強って言うか……ちょっとね?」

「も~無理しないでよ?」

「わかってるって!」

「あと、2度寝もダメだよ?」

「わかってるって!」

「本当かなぁ」

歩夢が困った顔をしている。

「じゃあ、また後でね」

「うん」

歩夢との日常は本当に変わらない。

この場所だけが、私にとっての心の拠り所だった。

――――――――――――

「侑ちゃん、今日は私の部屋で勉強しない?」

「うん!いいよ」

あれから数日後、テストはもう目前まで迫っていた。

最近は私の部屋でいつも勉強をしていたが、今日は歩夢が自分の部屋で勉強をしようと提案してきた。

「それにしても急にどうしたの?」

「いや、気分転換にいいかなって思って」

「確かに、去年の学年末テストの勉強以来、歩夢の部屋に行ってないもんね」

「うん!まぁ、私は侑ちゃんの部屋も好きだけどね///」

「ふーん」

ちょっと恥ずかしい。

「あっ……いや、部屋だけじゃなくて侑ちゃんのことも好きだよ?///」

「いやそういう意味じゃ……」

「でも、私も歩夢のこと好きだよ。」

「ありがとう///」
 
291: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:26:03.10 ID:QDyxGNkx
「じゃあ、着替えたら歩夢の部屋行くね!」

「うん。待ってる!」

私は自分の部屋に着くや否や私服に着替え、勉強道具をもって歩夢の家へ駆けこんだ。

「歩夢~来たよ~?」

「入っていいよ~!」

「お邪魔しま~す!」

歩夢の部屋に入ると、良いにおいがした。

「ちょっと侑ちゃん!何じろじろ見てるの~!」

「あっいやっ……見てないよ?」

「……」ジー

「ただ……いい香りだなって……」

「もっと恥ずかしいよ!!///」

「あはは……」

「ほらっ!早く勉強するよっ!」

「う、うん」

試験勉強も佳境を迎え、作業はアウトプット中心となっていた。

別に教えあう必要な無いけれど、それでも歩夢と一緒に勉強する時間がとても楽しかった。



3時間くらいたっただろうか。

日は暮れて夕飯の時刻になった。

「じゃあ、私ちょっとご飯食べてくるね」

「うん!」

「お風呂も入ってくるから、1時間後くらいに戻るね」

「は~い」

私は勉強道具を歩夢の部屋において自分の家へと戻った。

「ママ~ご飯は?」

「うーん、あと30分くらいかかるかも」

「じゃあお風呂先に入っちゃうね」

「どうぞ」
 
292: (もんじゃ) 2022/06/05(日) 03:29:07.53 ID:QDyxGNkx
お風呂に入り、さっきよりもラフな部屋着に着替える。

最近暑くなってきたし、下は短めの丈でいいかな?

リビングで暗記系の勉強をしつつ、ごはんができるのを待つ。こういう勉強机以外での勉強の方が意外と暗記しやすいのだ。

その後ご飯を食べ、再び歩夢の部屋へ。そこから夜の12時まで勉強をした。

「今日はこんなものかな?」

「そうだね。明日も早いし早めに寝ないと…… 侑ちゃん最近寝不足気味みたいだし」

「えへへ、そんなことないよ~ よいしょっと……」

立ち上がろうとした瞬間、私の上半身がバランスを崩し、歩夢の方へと倒れこんだ。

「危ないっ」ガタガタ

「ゆっ侑ちゃん!?」ドン!

「いたたた……ごめん歩夢」

私は歩夢の体の上に乗るように倒れてしまった。

「やっぱり体が疲れてるんじゃない?」

「そうなのかな…… ごめんねっ 今どくから」

「侑ちゃん?」

歩夢から離れようとした瞬間、呼び止められた。

「――その痣、どうしたの?」
 
302: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:03:50.86 ID:6198Vp5c
「え……」

油断していた。

今日は丈の短いズボンを履いていたんだった……

背中に一筋の冷汗が流れる。

何個見られた?

1つだったら誤魔化せるかもしれいけど、3つ4つ見られていたら言い逃れができない……

どうしよう……どうしよう……

でも、ここで墓穴を掘るわけにはいかない……

「ちょっと歩夢ったらどこ見てるのさ~」

「どこって……」

「そんな足をジロジロ見るなんて、歩夢ってもしかして変態さん?」

「違うよっ! それより……」

「あ~これ? 別に大したことじゃなくて、ちょっとこの前の掃除のときに机の角に太ももをぶつけちゃったんだ~」

「えっ?大丈夫なの?」

「うん、大丈夫大丈夫!すぐに治るよ。だいぶ痛みも引いてきたし……」

「そうなんだ……心配したよ~。も~!侑ちゃんはおっちょこちょいなんだからもっと気を付けてよね?」

「う、うん……そうするよ……」

何とか誤魔化せた……かな?

それにしても部屋着は全体的にゆるくてで短めだから気を付けないといけないな。

今日は何とか誤魔化せたけど……

これから歩夢の家に行くときは丈が長めの部屋着を着るようにしよう。
 
304: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:07:13.54 ID:6198Vp5c
――――――――――――

「ふぅ……」

「ちょっと侑ちゃん? 反応が薄すぎない?」

「ごめんごめん。歩夢、2位おめでとう!」

「それもそうだけど……まぁ侑ちゃんにとっては1位はもう当たり前の順位なのかな?」

「いや、そういうわけじゃないけど……嬉しいというよりも、安心って感じかな?」

「さすが、侑ちゃんは落ち着いているね」

「そんなことないよ。内心ヒヤヒヤだったんだから」

「本当かな~」

無事私たちはそれぞれの順位を守ることができた。

1年生のころは長時間の勉強が苦痛でしょうがなかったけれど、最近はその生活にも慣れてきた。

その甲斐あってかテストに対する苦痛の総量はだいぶ減った気がする。

勉強が好きとまではいかないが、勉強に慣れたという事なのかな。

「さて、期末テストに向けて頑張るか~!」

「侑ちゃん気が早いよ~」

そんな冗談をかわしつつ、私たちは教室へ戻った。

――――――――――――

「あれ?どこ行ったんだろう……?」

帰宅後、私は今回のテストの解答用紙を探していた。

「このクリアファイルに入れたはずなんだけどなぁ……」

解答用紙は私の努力の結晶だ。ただの紙切れかもしれないけど、90代後半の点数が軒並み並んだ解答用紙を目の前にならめて見渡すととても気分が満たされる。

最近自分に対しての自信を失っている私にとって、愉悦の時間だったりする。

そして何より、それは私のコレクションでもあった。私が頑張った、2週目で自分を変えた自分の証。

最初のテストから、順番にファイリングしてある。

今日はその整理をしようと思っていたんだけど……

「学校に忘れてきたのかな? でも今日はあのクリアファイル出してないし…… どこも行くはずないんだけどなぁ……」

そう言ってもう一度鞄の中を見てみると、丸められた紙がいくつか入っていた。

「これ、何のゴミだろう?」

不審に思いながらもその丸まったごみを広げると……

――それは私の国語の解答用紙だった。
 
305: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:10:17.13 ID:6198Vp5c
「え…… なんで……」

しかもご丁寧に消えないペンで上から落書きされている。

カッターやはさみで切った跡もある。

それは単に私が嫌いというレベルを超えた、私に対する巨大な憎悪の感情があるように思えた。

何で私の解答用紙が……

まさかっ……

恐る恐るかばんに入っていた小さく丸まった他の紙屑も見てみると、それらも私の中間テストの解答用紙だった。

国語数学理科社会英語

そのすべての解答用紙に、所せまいしと私に対する悪口が、そして、

歩夢に対する悪口が書かれていた。

「なんでよ……歩夢は悪くないじゃん……」

その刃物のように鋭い暴言が私の心をずたずたに切り裂いた。

自分のことだったら何とか耐えられた。

でも、歩夢のことを言われるのは許せないよ……

きっと犯人は皆星さんだ。

でも、確証が無い。私へのいじめはクラス全員で行われている。

皆星さんを問い詰めてもはぐらかされ、暴力で黙らされるのがオチだろう……

「私……どうしたら良いかわからないよ……」

「悔しいのに……悔しいのにっ!」

「私は何もできない……」

私はその解答用紙を粉々に破り、部屋に落ちていたレジ袋にすべて入れて硬く封をしてからゴミ箱へ捨てた。

これは誰にも見られちゃいけない。特に歩夢には、絶対に見せられない。

私と付き合っているせいで、歩夢が悪く言われる。

私のせいで、歩夢が悪く言われてしまう。

「歩夢…… ごめんね……」
 
307: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:13:20.39 ID:6198Vp5c
――――――――――――

中間テストが終わってからというもの、私へのいじめはさらに悪化の一途をたどった。

ある日、私が授業を受けていると急に後ろから襟を引っ張られた。

「えっ……?」

思わず声が出ると

「騒ぐな」

と言い、私の顔の近くにライターの火を近づけてきた。

少しでも動いたら顔がやけどしてしまう、それくらいの近距離。

少し風が吹いたら髪の毛に燃え移ってしまうのではないか……そうしたら私は……

恐怖で足が震え、頭が真っ白になった。

「う、うん……」

私は小さく返事をすると、後ろの子はライターをしまった。

この授業の先生は板書量がとにかく多く、いつも文字を書いているからめったに生徒の方を向かない。

いつも黒板に向かって文字を書き、文字を書きながら話し続ける。

だから、この授業はいつも私へのいじめの恰好の機会になっていた。

でも襟を引っ張っただけ……? 何だったんだろう?

そう疑問を感じつつノートを取ろうとした瞬間、もう一度襟を引っ張られ、何かが私の背中に入れられた。

その物体は背中とインナーの間の隙間を落下し、スカートのウエスト部分で止まった。

何だろう?背中にゴミでも入れられたのかな?

最初はそう思っていた。実際この前も校庭の砂を授業中に入れられて一日中不快な思いをした。

それに比べたら今回はゴミが一つ。これだったら……と思った瞬間、

その物体が動き出した。

「ひえぇっ!」

あまりのくすぐったさに思わず声が出る。

「ん~、どうした~?」

先生が怪訝そうな目をしながらこちらを振り向く。

「いえっ……何でもないです……」

「授業中は静かにな~」

先生は何事もなかったかのように授業を再開する。
 
308: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:16:25.89 ID:6198Vp5c
カサカサ

カサカサカサ

私の背中で何かがうごめいている。

「(なに……!? 何なの……!? 虫っ!?)」

私はパニックになった。私は虫が大の苦手だ。

カサカサカサ

背中に入った虫は私の横腹辺りに移動してくる。

虫と分かった瞬間、くすぐったさは全く感じなくなり、それと同時に全身に鳥肌があった。

気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い

蟻かな……いや、もっと大きい……

バッタ?それとも……

まさか芋虫とかじゃないよね……

どんどん嫌な汗が流れてくる。

インナーの中に入り込んだ虫が自力で外に出ることはほぼ不可能だ。

虫のとがった部分が肌をチクチク刺す。そのたびに悪寒が全身を走る。

「(早く出て行ってよ……)」

その願いもむなしく、しばらくの間私の服の中を虫はさまよい続けた。

「(そうだ……教室を出てトイレで虫を外に出そう!)」

そう考えた私は先生に退出の許可を得るために手を上げようとした……その瞬間

カチッ

全身が一瞬でこわばった。

カチッ

ダメ押しの一回。

「おい誰だ~ボールペンの音うるさいぞ~」

先生が注意をするが、これは決してボールペンのノック音などではない。

私の後ろの生徒が鳴らす――ライターの音だ。

私は先ほどの1回で、たった一回きりの脅しで、

ライターに恐怖するようになってしまった。

その音を聞くだけで体がこわばり、次は顔を焼かれるのではないかという恐怖を体が先に思い出す。

私はもう、逆らうことができなかった。
 
309: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:19:28.85 ID:6198Vp5c
ブブー

ポケットに入れていたスマートフォンにメッセージが届く。

何だろうと思い画面を見てみると、私の後ろの席に座っている子からだった。

メッセージを開くと、そこには一枚の写真があった。

小さくて良く見えなかったのでその写真をタップして拡大してみると……

――そこには1匹のゴキブリの写真が写っていた。

ははは……まさかね……

まさか、まさか……そんなわけないよね……

写真をよく見るとその背景は教室、しかも黒板には今日の授業の内容がびっしり書かれていた。

まさに私が数分前にノートに書き写した内容だった。

ということは……

今私の体を這いずり回っているのは……

この禍々しく黒光りしている……ゴキブリ……?

考えうる限り最悪の結論に全身がさらにこわばる。

せめて動かないで……という私の願いもむなしく、逆に体に汗をかいたことによりゴキブリは積極的に移動し始めた。

無意識に全身に力が入る。背筋を伸ばし、できるだけ服と体の間の距離を取ろうとするが、どうやってもゴキブリは私の体から離れてくれない。

授業は始まってまだ20分しかたっていなかった。

無理無理無理無理

やめてやめてやめてやめて

誰か……誰か助けてよ……

私には泣きながらそう願う事しかできなかった。

結局ゴキブリは残りの授業時間を使って存分に私の上半身を弄繰り回したのち、残り5分という所で私の袖口から出ていった。

私は最後の最後まで自分の体に触れていた虫がゴキブリだと思いたくなかったから見ないようにしていたが、虫が出て言った瞬間クラス中がゴキブリが出たと騒動になったので私はその最悪の結論を認めざるを得なかった。

その日、私は泣きながら体を何度も洗った。

何度洗ってもその穢れは取れる気がしなかった。

そして、それ以降私はゴキブリがいるような感覚にたびたび襲われた。

家でも学校でも、ゴキブリが肌を這いずり回るようなチクチクカサカサするような感覚が私の上半身を襲った。

もちろんいくら確認してもそんな虫はいない。

でも、確かめてからしばらくするとまたその感覚に襲われる。

地獄だった。
 
310: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:22:31.73 ID:6198Vp5c
起きている時も寝ている時も、私はその幻覚に悩まされた。

ただ、歩夢といるときだけはなぜかその症状は出なかった。

でも、歩夢と触れ合うたびに私の心が痛んだ。

私の体は日々どんどん汚れていく。

こんな穢れた体で歩夢に触っていいのだろうか……

穢れが歩夢に伝染しちゃうんじゃないか……

それでも、私は歩夢に依存することを辞められなかった。



また別の日。

いつもは給食だけど、今日は給食センターの清掃日らしく臨時で弁当の日になっていた。

「歩夢~、お弁当食べよ?」

「ごめん侑ちゃん、今日は選挙の話し合いがあって……」

わが校ではもうすぐ生徒会選挙が行われる。

歩夢はその候補者のうちの一人から推薦人を頼まれていたのだ。

「推薦人演説の件?」

「そう! 一応原稿ができたから見てもらおうかなって。せっかくお弁当だし昼休みの時間を有効に使わないとね!」

「なるほど、歩夢は賢いね」

「えへへ、それじゃあ行ってくるね~!」

歩夢は立候補者と会うためにお弁当と数枚の書類をもって他のクラスへ行ってしまった。

さてと……

クラスに負の空気が立ち込める。いつものことだ。

この空間にいつまでもいたら何をされるかわからない。

私もお弁当を持ち、素早く教室を後にした。

「どこで食べようかなぁ……」

あまり人目に付くところだとまた見つかってしまうかもしれない。

校庭……は雨降ってるし、屋上……も屋根ないし、そもそも入れないし、

廊下……は人目がなぁ……

空き教室とかあればいいんだけど……理科室とかはさすがに勝手に入ってお弁当食べてたら怒られるよね? もし万が一見つかったら教室で食べない言い訳ができないし……

うーん……
 
311: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:25:42.06 ID:6198Vp5c
あまり考えたくはなかったけど……

トイレ……しかないかなぁ……

周囲に誰もいないことを確認してからそーっとトイレに入る。

専科教室が集まる側の校舎のトイレなだけあって中には誰もいなかった。

臭いは少し気になるけど……誰かにちょっかいをかけられることを考えると我慢するしかないかな。

私は恐る恐る一番奥の個室に入った。いや、ビビる必要な無いけど……

「(よし! こういう時は気分を明るくしないとね! せっかくママが早起きしてお弁当を作ってくれたんだし!)」

私はポケットから出したイヤホンを耳にははめ、スマホで大好きな音楽を再生した。

♪♪♪

嫌な気分も吹き飛び、テンションが上がってきた。

本当に、ここが便座の上じゃなかったら最高だったのに……

そんなことを考えながら持ってきた弁当の蓋を開ける。

私の大好きな卵焼きとハンバーグ。それにそぼろのかかったご飯。

いつも小学校の遠足で持たせてもらっていた弁当だ。

私は懐かしくて涙がこぼれそうになった。

高校に行ってからはコンビニか学食、去年の1年間は弁当の日が無かったからママの弁当は本当に久しぶりだ。

冷めることを見越して少し濃いめの味付けになっているお弁当のおかずが、

冷えて粘り気が強くなったご飯のもちもち感がとても好きだったことを思い出した。

あの味をもう一度味わえるんだ……

望むことならば、教室で歩夢と一緒に楽しく食べたかったな……

そう思い箸をつけた瞬間――

ザッパーン

何が起こったのかわからなかった。

気が付いた時には髪の毛から水滴がとめどなく滴り落ちていて、

イヤホンはいつの間にか外れ、

膝の上に乗せていたお弁当箱の中には水がなみなみ溜まっていた。
 
312: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:28:44.46 ID:6198Vp5c
「ククククク」

「ハハハハハ」

個室の扉の向こう側で笑い声が聞こえる。

「逃げたって無駄だからな~!」

「早く不登校になっちぇよ!」

「逆にクラス全員から嫌われているのにまだ学校に来れるって、逆に神経太すぎない?」

「頭おかしいんじゃないの? あっ、おかしかったか!」

「ギャハハハハ」

下品な笑い声が遠のき、トイレに私一人だけが残される。

膝の上には水浸しのお弁当。

水に浮かぶハンバーグと卵焼き。

ご飯粒はさらさらになって私の大好きなもちもち感はもうそこには無い。

せっかく……せっかくママが作ってくれたのに……

せっかく私の為に……久しぶりのお弁当だからって早起きして作ってくれたのに……

楽しみにしていたお弁当なのに……

「ううっ……ぐすっ……」

「もう……食べられないよ……」

私は泣きながらお弁当の中身を便器の中に捨てた。

「……っ、あぁ……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「ママ……本当にごめんなさい……」

「ああああああああああああああああああ」

私は絶叫しながらトイレのレバーをひねった。

タンクにたまっていた水が私のお弁当を飲み込んでいく。

瞬く間に、便器は何事もなかったかのようにいつもの様子を取り戻す。

「あぁ……うえっ……ぐずっ……」

私は膝から崩れ落ち、便器を抱えるようにつかまりながら泣き続けた。

涙が枯れるころにはその日の授業はすでに終わり、気が付けば制服も乾いていた。

ただ、ひたすらに涙をぬぐい続けた袖だけはぐっしょり濡れていた。

その日は教室に寄らずに家まで帰った。
 
313: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:31:47.16 ID:6198Vp5c
――――――――――――

そんな地獄のような灰色の生活を送るうち、気が付けば期末試験の時期がやってきた。

試験期間に入ると私へのいじめは毎日行われるようになった。

特に放課後に呼び出されて遅くまで殴られたり蹴られたり……

暴言を浴びせられたり屈辱的な言葉を言わせられたり、その様子を動画に撮られたり……

とにかく拘束時間が長くなった。

もちろんその分勉強時間が削られる。でも勉強時間は削れない。

結果的に私の睡眠時間はどんどん短くなり、教室でも隙さえあれば寝るような生活になった。

授業中にも寝てしまうことが増えた。

でも、私は今の順位を死守するしか選択肢はなかった。

こんな姑息な手段に負けるわけにはいかない……

私はご飯を食べる時間や通学路を歩く時間でさえテスト勉強に当てるようになった。

「最近侑ちゃん頑張りすぎてない?学校の帰りも遅いし……なかなか一緒に帰れないし……」

「ごめんごめん、ちょっと先生に頼まれごとしててさ」

「テスト前に生徒に頼み事ってどうなの……?」

「その代わり先生に勉強見てもらってるんだ!」

「え~それは羨ましいな~」

「何が出るか、とかはさすがに教えてくれないけどね」

「それが知りたかったのに!」

「あはは、真面目にコツコツ勉強するしかないよ」

学校でさんざん体を痛めつけられて、その後かえって勉強。

次の日になればまた暴力を振るわれ、満身創痍の状態で帰宅し勉強。

毎日、明日が来るのが怖くて仕方がなかった。それでも歩夢と一緒に勉強しているこの時間だけは幸せで、自然と笑うことができた。

そんな無理な生活をしていたせいだろうか。

最後のテストが終わった金曜日、私は家に帰るとそのまま布団に倒れこみ、気が付いた時には日曜日の昼だった。

窓の外を見たときにはてっきり土曜日の昼だと勘違いした。

「んっと……いたたたたた」

長時間寝続け、私の体はバキバキに固まっていた。
 
314: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:34:53.95 ID:6198Vp5c
「ママ~?」

「あら起きたの?」

「なんで起こしてくれなかったの?」

「テスト期間中、あなたずっと無理してたでしょ? だからゆっくりさせてあげようと思ったのよ」

「昨日丸一日寝ていたのはさすがにびっくりしたけどね」

「私もびっくりだよ……」

「シャワー、浴びたら?」

「あっ、そうだね」

私はまだ制服のままだった。



シャワーを浴びた後、私は歩夢に電話をした。

金曜日の夜から何度かメッセージを送ってくれていた。

侑:今さっき起きたよ。

歩夢:おはよう!

歩夢:ずっと返信来ないから心配したよ!

侑:私はびっくり笑

歩夢:明日の学校は大丈夫そう?

侑:いっぱい寝ちゃったから、逆にこんばんは寝れないかも

歩夢:たしかに、それはどうしようもできないね

侑:まぁ、勉強なりピアノなりをしようと思うよ

歩夢:テスト終わったばっかりなのに勉強って、侑ちゃんらしいね

侑:そうかな? じゃあまた明日ね!

歩夢:うん。じゃあ、おやすみ?

侑:うん、おやすみ

結局私は一睡もせずに月曜日を迎えた。
 
315: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:37:56.95 ID:6198Vp5c
――――――――――――

1週間後

今日は終業式の日であると同時に、期末テストの順位発表の日でもあった。

「侑ちゃん自信満々だね~」

「う~ん、そうかな?」

歩夢の前では見栄を張っていたが、正直今回は今までで一番自信が無かった。

とにかく今回は勉強時間が取れなかった。いや、こんなことを言うのは言い訳じみていた癪だけれども。

しかし、私の不安は全くの無駄だった。

結局私たちの順位変動はなし。

1科目当たりの平均点は少し下がって歩夢との差が縮まったけど、3位とはまだまだ差があった。

1位 高咲侑
2位 上原歩夢

うん、この並びを見ているだけで心がスカッとする。私たちの名前がいつも先頭に並んでいる。

この絶対王者感がたまらなかった。

「そういえば3位って誰なんだろう……?」

そう疑問に思い、歩夢の横の名前を見る。思えば私は自分と歩夢の順位だけが気になってそれ以外の名前に注目したことが無かった。

「えっと……、え?」

「も~、侑ちゃんったらもっと周りに関心を持った方がいいよ? クラスメイトなのに知らないってちょっと失礼だよ?」

「まぁ、私だけを見てくれている侑ちゃんはそれはそれで嬉しいけど……///」

そんな歩夢の言葉が頭に入ってこないほど、私の頭は混乱していた。

いや、なぜ今まで気が付かなかったのだろうか……

入学式の日から私は知っていたはずなのに……

「ねぇ歩夢、もしかして私の下の順位っていつも……」

「ん? あぁ、私が2位になるまではずっとこの子が2位だったね。私が2位になった後もずっと3位にいるんじゃないかな……」

「へぇ……、そうなんだ……」

1位の私から10点低い点数で歩夢が2位の座にいて、

そこからさらに20点低い3位の座には……

――皆星結葉の名前がそこにあった。
 
316: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:41:02.45 ID:6198Vp5c
「ぁ……、ぇ……」

「なに?声も出ないの?」

「やめ……て……」

「またおしっこ漏らさないでよ?」

「やめてやめてやめてやめて!!」




順位発表の日の放課後、私はまた皆星さんに呼び出されていた。

「今日という今日は許さない」

その言葉を言うや否や私の背中を正面から抱えるように持つと、膝でおなかを思いっきり殴った。

「ぐえっ……」

予期せぬ暴力に力を込める隙も無く、まともに食らってしまう。

「……うえっ」

吐き気がこみ上げてきてまともに立てない……

「何を……」

「なに?反抗する気?」

私を鋭く睨みつける皆星さん。その手にはガムテープが握られていた。

「ほら、この椅子に座れよ」

そこにあったのはどこにでもあるような教室の椅子。私は動かない体に鞭を打ち、何とか立ち上がる。

きっとあの椅子に座ったら今以上に酷いことをされる。そんなことは分かり切っていた。

でも、今日の皆星さんはいつも以上に機嫌が悪かった。今までで一番機嫌悪いと言っても過言ではないかもしれない。

「は、はい……」

私は素直に従う。

なるべく皆星さんを刺激しないように。なるべく事を大きくしないように……

ストン

椅子に座ると皆星さんはガムテープをペリペリ剥がし、私の足と椅子の足をぐるぐる巻きにした。

「えっ……」

動かそうとしてもびくとも動かない。

足の拘束が終わると私の両腕を後ろ手で巻き上げ、さらに二の腕と椅子の金属の骨組みとをガムテープでぐるぐる巻きにした。
 
317: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:44:07.86 ID:6198Vp5c
やばい……完全に動けなくなった。

顔もおなかも横腹もがら空きだ。

避けることも攻撃を防ぐこともできない。

「その顔いいねぇ……」カシャッ

また写真を撮られる。

「大丈夫、今日は殴らないから。ふへへへへへへ」

そういって嬉しそうに諸星さんはカバンの中からひも状のものを取り出した。

「これ、なんだと思う?」

「え……」

その物体の先にはコンセントプラグが付いていた。

「延長、ケーブル……?」

「正解☆」

そういうと諸星さんはそのプラグをコンセントに刺すと、そのもう片方をもって私のほうへと近づいてきた。

ペタペタ

ペタペタペタ

徐々に近づく足音一つ一つが、私に十分すぎる恐怖心を与えた。

――電気使って何をされるのかな……

――痛いのは嫌だな……

――この前みたいな刃物みたいなやつは……体に傷が残るからできればやめてほしい……かな……

――それとも性的なやつだったら……それを動画に撮られたら……

悪いほうへ悪いほうへと思考が進む。

鼓動が早く、そして強くなる。

喉がカラカラに乾く。

そして諸星さんが私の目の前に立ったところで、私はある違和感に気が付いた。

延長ケーブルの先にはプラグを指す部分がなく、配線がむき出しになっていたのだ。

「え……」

まさか、まさかね……

そんな使い方するわけないよね……

全身がガタガタ震える。
 
318: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:47:16.97 ID:6198Vp5c
「うるさい」

そう一蹴して皆星さんは私のすねをつま先で蹴った。

「あぐっ……ううう……」

「あ~、ごめん。椅子を蹴ろうとしたらあなたを蹴っちゃったわ」

「ぅぅぅぅ……」

「まぁ、椅子を蹴るよりもあんたを蹴ったほうが生産的かもね?」

皆星さんはおもむろにポケットからミノムシクリップを取り出した。

「これ、理科室から今日もらってきたのよ。あなたのためにね」

「いちおう、心臓から遠いところにしてあげる。感謝してよね?」

そういうと、私の人差し指の先にミノムシクリップを挟み、ガムテープでとれないようにぐるぐる巻きにした」

「ぇ……やめて……」ポロポロ

私は何も考えられず、襲い掛かる恐怖に泣くことしかできなかった。

「じゃあスイッチを『入』にして……」

「ほら、もうここまで電気来てるよ?」

皆星さんが手に持っていたコード途中のON/OFFスイッチをONにする。

「さて、学年1位の優秀な高咲さんに問題です。このクリップとコードの先端をつないだら、どうなるでしょう?」

「だめっ……! それだけは……死んじゃう!!死んじゃうから!!!」

皆星さんはもう片方のクリップを開き、コードの先端へと近づける。

「手は……ピアノがあるからやめて!!それ以外だったらどこでもいいから!!!」

「3」

「やめてっ!」

「2」

「だめだめだめだめ!!!」

「1」

「なああああああああああああああああああ!!!」

「ゼロ」

その瞬間クリップとコードが接続される。

私は全身に力を込めて必死に耐えようとした……けれど、

けれど何も起こらなかった。

「ぎゃははははっ!!!! あんた馬鹿ねぇ!」
 
319: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:50:19.50 ID:6198Vp5c
「片方だけコードつないだって電気流れるわけないじゃない。そんなことも秀才さんは分からないのかなぁ?」

「はぁ……はぁ……はぁ……」

呼吸が浅くなる。

「で、ここからが本番ね」

そういうと同じ指にクリップを挟み、いったんスイッチを『切』にした状態でコードと接続した。

「これで私の指先一つであんたに電気が流せるってわけ」

「いつスイッチ入れちゃおうかな~」

「やめて……ください……」ガクガク

「は? やめるわけないじゃん。これが楽しみで楽しみでテスト終わってから眠れなかったんだから!」

「なんで……なんでよ……」

「はぁ~、あんたのそういうところが本当にむかつくんだよね。今回だって……」

「今回?」

「うるさい」カチ

「あああああああああああ」

「はい」カチ

「え…………」

初めての経験だった。

実際には1秒にも満たない時間だったのかもしれない。でも、私にとってはいつ終わるかわからない無限の地獄のように感じた。

電気が流れているのは指先だけのはずなのに……

びりびりする感覚が肘辺りまで上がってきて……

そして意図せず腕が激しく曲がろうとする。

そして何よりも、電気が体を流れたという不快感が強かった。

痛いというよりも、痺れて気持ちが悪い。

「うえっ……もう……もうやめてよ……」

「痛いよ……ビリビリするよ……」

「あんたさ、自分が周りをどれだけ不快にしているかわかってる?」

「え……不快……?」

最初に諸星さんに呼び出された時にも同じようなことを言われた気がする……

でも、生まれてからそんなことを誰かから言われたのは初めてだった。
 
320: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:53:00.06 ID:6198Vp5c
「あんたさ、周りを馬鹿にしてるでしょ」

「……してないよ」

「嘘つけ」カチッ

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

カチッ

腕が強く曲がり、ガムテープが体に食い込む。

「馬鹿にしてるんだよ!! その態度が!!」

「私の苦労も知らないでっ!!」

「苦労……?」

「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

「あなたが憎いのよ!!!!」

取り乱した皆星さんは足を大きく上げると私の横腹を思いっきり蹴った。

「うぐっ……」

避けることも抑えることもできない。

でも、私は見てしまった。

舞い上がるスカートの下に、普段目にさらされない太ももに、

私と同じ、痣が付いているところを。

「皆星さ

「うるさいうるさいうるさい!!! しゃべるな!! 空気を吐くな気持ち悪い!」

カチカチカチカチカチカチカチカチ

細かくスイッチをオンオフし、そのたびに私の体は細かく跳ね上がる。

「もうっ」ガタ

「やめっ」ガタッ

「てっ」ガタッ

「わたしっ」ガタガタッ

「しん……」ガタッ

「じゃう……」ガタッ

「は? 笑わせるな!! これくらいで死ぬわけがないだろ!!」

「もっと地獄を見せてやるよ!!」

それから私は日が暮れるまで殴られ蹴られ、時には電気を流され、意識が朦朧とするまでひたすらに殴り続けられた。
 
322: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:55:23.06 ID:6198Vp5c
気が付くと私は夕方の視聴覚室に一人取り残されていた。

拘束は解かれ、椅子の上で眠るように気絶していた。

「いたたたた……」

手を動かしてみる。幸い違和感は無い。

立ちあたろうとした瞬間、頭に激痛が走る。

「痛っ……」

激しい頭痛。いつも頭痛なんてインフルにかかった時くらいしかならないのに……

そして殴られた痛みで全身が重い。そして、電気を流された右腕はその中でも群を抜いて重く感じた。

だるく、力が入らなかった。

「帰ろう……」

私はそう小さくつぶやき、ゆっくり部屋を後にした。



帰っても食欲がわかず、親に通知票を渡すとシャワーを浴びて早々に部屋に籠った。

味わったことの無いようなだるさ。少し熱っぽい気もする。これも電気のせいなんだろうか……

ピロン

歩夢:侑ちゃん、帰ったの?

侑:うん。今さっきね。

歩夢:ちょっとベランダでお話ししない?

侑:ごめん、ちょっと調子悪くて……今ベッドの中

既読はつくが返信が来ない。

おかしいな……そう思っていると私の部屋に歩夢がやってきた。

「侑ちゃん? 大丈夫?」

「あっ歩夢? どうしたの?」

「いや、侑ちゃんが体調悪いっていうから……お見舞い?」

「なんで疑問形なのさ……」

「あまり考えずに来ちゃったから……」

「ははは、歩夢は優しいね」

「なんか侑ちゃん元気そうで安心したよ。じゃあ私はもう帰るね?」

「えぇっ……もう帰っちゃうの?」

「だって侑ちゃん病人だし……、長居すると悪いでしょ?」
 
323: (もんじゃ) 2022/06/07(火) 23:57:54.23 ID:6198Vp5c
「私は歩夢がいてくれたほうがむしろ嬉しいよ? 調子悪いっていっても頭痛だけだし、たぶん風邪じゃないと思うから移すこともないと思う」

「侑ちゃんがそういうなら……」

「もうちょっといてくれる?」

「うん///」

「……」

「……」

「1学期、もう終わっちゃったね……」

「うん。歩夢はあっという間だった?」

「そうだね。1年生って何もかもが初めてであたふたしちゃってたから長く感じたけど、今年はそういうのもないし」

「たしかに、だんだん中学生活に慣れてきたのかもね」

実際私もこの1年でだいぶ中学の生活に慣れてきた。

むしろ私が高校生だった頃を忘れてしまうくらい。

このまま思い込みが激しくなって、逆にタイムスリップした事実が勘違いだったんじゃないか、そんな風に考えてしまう日が来ることが怖かった。

「来年は受験だから、のびのび遊べるのも今年までだね……」

「うん。寂しいな……」

「侑ちゃんは虹ヶ咲の音楽科だよね?」

「うん、歩夢は?」

「まだ考え中。でも、私も虹ヶ咲かな?」

「歩夢の実力だったらもっと上の学校目指せるんじゃない?」

「まぁ、そうなんだけど…… 家から近いほうがいいじゃん?」

「確かにそうかもね。私が親だったら怖くて歩夢を電車に乗せられないよ」

「それってどういうこと?」

「歩夢が可愛いってことだよ」

歩夢との会話が盛り上がってきたところで私はベッドから起き上がろうとした。

「よいしょっと……」フラッ

「あっ……」

体に力が入らず、上半身が大きくよろける。

「侑ちゃんっ!?」

歩夢が咄嗟に私の上半身をつかむ。

「痛ったい!!」
 
324: (もんじゃ) 2022/06/08(水) 00:00:32.55 ID:Ro2lAW1x
「あっ……ごめん強く握りすぎたね……」

「いや、ごめんごめん。そんなに痛くないよ」

「でも……今本気で痛がってたし……」

「そんなことない。それよりさ、……」

私はベッドから起き上がり、そのまま体をずらすようにしてベッドに座る。



なぜ私は気が付かなったのだろう。

体勢を変える際に私の部屋着のズボンが引っ張られ、布が足の付け根のほうまでめくりあがっていた。

「ゆ……うちゃん……?」

いつもニコニコしている歩夢が、見たこともない表情をしていた。

歩夢がくぎ付けになっている視線の先には……私の痣だらけのふとももがあった。

「侑ちゃん……それ……」

「もぉ~! そんなところ見るなんて、歩夢はえ ちだなぁ!」

「いや……それ……」

「ちょっとぶつけちゃってさ……」

「誤魔化さないでよ!!」

「いや……」

こんなにも怒ってる歩夢の姿を見るのは初めてだった。

「上、脱いで」

「え……?」

「さっき私が体をつかんだ時、侑ちゃん痛がったよね?それも痣のせいなんじゃないの!?」

「いや……」

「脱いで。見せてくれないなら、しかるべき場所に連絡するよ」

「……」

幾何の時間が流れただろうか。

私はひたすらに床を見つめていた。歩夢に合わせる顔がなかった。

でも、歩夢はずっと、まっすぐに、私の目を見ていた。

いくら時間が経とうとも、歩夢は全くといっていいほど動かなかった。

その歩夢のまっすぐで強い視線が私の心に突き刺さる。私が折れるまで、歩夢は絶対に折れないだろう。

これは、幼馴染の勘。いや、確信だ。
 
325: (もんじゃ) 2022/06/08(水) 00:03:04.70 ID:Ro2lAW1x
負けだ。私の、そして私たちの、負け。

私はTシャツの裾を胸のところまでまくり上げる。

「いま下着付けてないから……これでいい?」

きっと歩夢の目には傷ついた私の腹部が映っているはずだ。

自分で目をそらしたくなるくらい、醜い体。

「……ありがとう」

歩夢は声にもならないようなかすれ声で囁くと、その場に倒れこんだ。

眼から大粒の涙が次々にこぼれ、床の絨毯にいくつもの染みを作る。

「なんで歩夢が泣くのさ……」

「だって……だって私……、こんな近くにいたのにずっと気が付いてあげられなかった……」

「違うよこれはこの前派手に転んじゃって……それで……」

「中間テストの時から、足に痣あったよね」

「それは……」

「それに、たとえ転んだとして、なんでそんなに服で隠れる場所ばっかりに痣が付いたの?」

「えっと……」

「誰にやられたの? 先生? クラスの人? 誰!?」

「だから違くて……」

「私はもう、誤魔化されないよ」

歩夢の視線が、言葉が、すべてが鋭く私に突き刺さった。

「ごめん……でも私言えないよ……」

「なんでっ! 弱みを握られてるの?」

「ごめん……」

「わかった」

「わかってくれるの?」

「侑ちゃんが話したくなるまで、ずっとここにいることにする」

「えっ……?」

「侑ちゃんがどうしても話したくないって言うなら、それは仕方がないよ。きっと私にはわからないような事情があるんだろうし」

「でも、もしかしたら侑ちゃんが話す気になってくれるかもしれない。その時に、私は侑ちゃんのすぐそばにいたいから。だからここにいる」

「でもだって帰らないって……」

「うん、ずっとここにいるよ?今日から夏休みだしね」
 
326: (もんじゃ) 2022/06/08(水) 00:05:52.22 ID:Ro2lAW1x
「えぇ……」

「だから……」

「だから、もし話したくなったらいつでも言ってね」

そこにはいつもの優しい歩夢の笑顔があった。



刻々と時間が流れる。

夜が更けても、一向に歩夢は帰ろうとしない。

私はベッドで横になっているふりをしているが、こんな状況で寝られるわけがない。

「歩夢さ……」

「なに?」

「起きてたんだ……」

「だって侑ちゃんが寝てないもん」

「寝てないの、バレてた?」

「バレバレだよ。侑ちゃん寝るときは半目開けて寝るのに、今はしっかり瞼が閉じてた」

「そ、そうなんだ……」

幼馴染、怖いっ!

「侑ちゃん、寝られない?」

「……うん」

「じゃあ、1学期を頑張った侑ちゃんに特別ご褒美をあげよう!」

「ごほうび?」

歩夢は私のベッドに乗ると星座で座り、トントンと膝をたたいた。

「どうぞ♪」

「どうぞって……」

「む~、察しがわるいんだから!」

「ひひひ、ひざまくらしてくれるの?」

「ほかになにがあるの……」

「じゃあ、いただきます」

「ぷっ……、いただきますって侑ちゃんったら……」

静かに頭を歩夢の膝に下ろす。近くで歩夢の匂いを感じる。
 
327: (もんじゃ) 2022/06/08(水) 00:08:26.50 ID:Ro2lAW1x
ナデナデ

「歩夢っ!?」

「侑ちゃんはいい子だね~」ナデナデ

「ちょっと……恥ずかしいよ……」

「誰も見てないから大丈夫だよ」ナデナデ

「歩夢が見てるじゃん!」

「私が好きでやってることだから良いんだよ」ナデナデ

「こんなみっともない姿、恥ずかしいよ……」

「何をいまさら……」ナデナデ

「いまさら?」

「私は小学校、いやもっと小さいころから侑ちゃんの恥ずかしい姿とか、ダメなところとか、たくさん見てきたよ」ナデナデ

「もちろん侑ちゃんも私のそういう所、いっぱい知ってると思う。むしろ私が自覚していないところまで含めてね」ナデナデ

「最近の侑ちゃんは立派でかっこよくて……まるで別人みたいになって……」ナデナデ

「正直寂しかった。自分が置いてきぼりにされちゃったみたいで」ナデナデ

「でも、たまに侑ちゃんが見せてくれる弱い部分があると、なんか安心しちゃうんだよね」ナデナデ

「あっ、侑ちゃんは侑ちゃんのままだなって」ナデナデ

「だから、侑ちゃんは私にいっぱい甘えてくれていいんだよ?」ナデナデ

「頼ってくれていいんだよ?」ナデナデ

「いつもかっこいいところをいっぱい見せてもらってるから、ね?」ナデナデ

「たまにはダメで情けない侑ちゃんもいてほしいな。そんなところも全部含めて、私の大好きな侑ちゃんだから」ナデナデ

「あゆむ……」

――歩夢の為にしっかりしないといけない

――歩夢を支えられるような、頼れる人間にならないと

――歩夢に迷惑をかけちゃいけない。私は完璧じゃないとダメだ

そんな私の心の堰を最後まで支えていた言葉たちが消え去り、感情が濁流のように流れだす。

「歩夢っ!!」

無意識のうちに私は立ち上がり、歩夢に抱き着いていた。

「侑ちゃん!?」

「あゆむぅ~!!」ポロポロ
 
328: (もんじゃ) 2022/06/08(水) 00:11:53.93 ID:Ro2lAW1x
今まで歩夢の前で我慢していた分の涙が滝のように、右から左から流れ落ちる。

「うんうん、頑張ったね」ナデナデ

歩夢は左手で私の体を優しく包み、右手で頭を撫でてくれた。

私は1学期にあったいじめのことを全部歩夢に話した。

歩夢が危険にさらされるかもしれないことも含めて。

「あああああああ~~~~」

「よしよし、大丈夫だよ」ナデナデ

「もう゛…… わだしっ…… げんがいでっ……」

「うんうん」ナデナデ

「わたじっ……歩夢の前ではちゃんとしてなきゃだめだっで思っで……」

「だがら……言えなくて……ごめんなさい……」

「わたしも……ごめんなさい……」

「なんで歩夢が謝るの」

「こんな近くにいたのに、全然気が付けなかったから……」

「何よりも大切な侑ちゃんのピンチに……全然気が付くことができなかった……」

「私っ……恋人失格だよ……」ポロポロ

「ううん、そんなことない。隠してたのは私だから……」

「でもっ!」

「それに、歩夢はいま、私を助けてくれたじゃん!」

「それで、十分すぎるよ」

「侑ちゃん!!」

「歩夢!!」
 
329: (もんじゃ) 2022/06/08(水) 00:14:31.34 ID:Ro2lAW1x
私たちは強く抱きしめあい、そして泣いた。

自分の不甲斐なさと相手への申し訳なさ。

その後悔の量を表すかの如く、私たちの涙は永遠に流れ続けた。

「侑ちゃん、痛くない?」

「大丈夫だよ」

「痛いけど、歩夢に抱きしめてもらえるなら痛くない」

「なにそれ」

「歩夢が大好きだから」

「私も、侑ちゃんのこと愛してるよ」

「ありがとっ」

互いに弱い部分を見せあった私たちは、その晩、初めての長い長い夜を共に過ごした。
 
348: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 22:54:05.72 ID:FJp0O950
夏休みはどこに行くわけでもなく、ほぼ一日中自分の部屋に引きこもっていた。

音楽科受験に向けたピアノの練習と、音楽理論の勉強。

もちろん普通の授業の内容も勉強する。音楽科への進学は普段の勉強をさぼる言い訳にはならない。

そんな変わり映えのしない毎日の中の楽しみが、やはり歩夢だった。

「侑ちゃん~!」

「歩夢!」

毎日歩夢は私の部屋に来てくれた。

とりとめのない話をだらだらする。これが私にとって一番の楽しみだった。

「侑ちゃん、体の傷はどう?」

「学校がないおかげでだんだん直ってきたよ。ほら」

「そんな恥ずかしげもなく体を見せないでよ///」

「なに?照れているの?」

「それほかの人にやったらだめだからね?」

「歩夢にだけだよ」

「もぉ!そういえばいいって思っているでしょ!」

「あはは……」

「でも歩夢、歩夢がこの事を知っているって外でバレるような行動しちゃだめだからね?」

「わかってるって」

「今度は歩夢がこんな目に合っちゃうかもしれないんだから……」

「本当に侑ちゃんは優しいね」

「だって歩夢に何かあったら!」

「私のことを大切に思ってくれてうれしいよ」

「えへへ」

「ふふふ」

歩夢と話すだけで私のすさんだ心は回復していった。

「そういえばさ、歩夢は皆星さんについて何か知らない?」

「そもそもずっと気になっていたんだけど、どうして侑ちゃんは皆星なんかのこと『さんずけ』で呼ぶの?」

「あ~……、なんとなく?」

「嫌いじゃいの?」

「嫌いだけど……」
 
349: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 22:57:36.44 ID:FJp0O950
「まぁ侑ちゃんがそれでいいならいいんだけどね」

「で、なにか心当たりとかない?」

「うーん、成績が良いってこと以外は良くわからないよ……」

「確かに、入学式の日にも新入生の代表だったもんね」

「小学校でも結構いい成績だったし」

「なんで中高一貫に行かなかったんだろう?」

「それみんな気になっているみたいだよ。でもなんかその件については触れにくいみたいで……」

「ふーん……」

「あと、家が厳しいらしいよ。遊びに行っても門限が厳しいから早く帰らないといけないって……」

「そ、そうなんだ……」

「どうかしたの?」

「いや、終業式の日に見ちゃったんだけどさ。皆星さんの体にも痣があったんだよね」

「えっ? 私そんなの見たことないけど……」

「私と同じで……普段見えないところに」

「それって皆星も誰かにいじめられているってこと?」

「もしくは……家族のだれかに……」

「虐待……ってこと?」

「わからないけどね。でももしも皆星さんの親が優秀な成績を望んでいるのならば、辻褄が合うかもしれない」

「どうしてそう考えるの?」

「クラスメイトから見た私ってどんな感じだと思う?」

「涼しい顔で優秀な結果を残すすごい友達、かな?」

「侑ちゃん、人前で努力を見せるの嫌いだし。私は侑ちゃんがどれだけ努力して、どれだけ苦しんでいるかを知っているけどね」

「でもさ、もし一生懸命勉強をしている人が私みたいな人に抜かされたらどう思うかな?」

「まぁ、すごいなって思うんじゃない? それか……」

「自分で言うのも驕りかもしれないけど、嫉妬する人も出てくると思う。少なくとも私の周りに全く努力していないような様子で自分以上の点数を取るクラスメイトがいたら尊敬もするし、たぶん嫉妬もすると思う」

「確かにそうかもしれないね……」

「その感情が良い方向に向くか、悪い方向に向くかはその時になってみないと自分でもわからない。でも、きっと本当に些細な出来事でそのどちらかは決定づけられると思う」

「で、去年のクラスは本当にたまたまいい方向に傾いただけなんだよ」

「みんなは私に良くしてくれて、ほめてくれたし尊敬もしてくれた」

「でもそれは当たり前じゃなかったんだ。人や環境が変わればそれを悪く思う人だって絶対に出てくる」
 
350: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 23:00:43.77 ID:FJp0O950
「私、皆星さんに言われたんだ。『あなたのせいでどれだけの人が絶望したと思っているのよ!』ってね」

「きっとそういう事なんだと思う」

「そんなの……!」

「悪意の核になる人間がいたから、ここまでクラスの風向きが早くに決まったのかもね」

「それが皆星ってこと?」

「憶測だけどね。でも、きっと彼女がクラスのみんなの揺れている心を押し倒したんだと思う。悪いほうに」

「そんなの!侑ちゃんはがんばっていたのに!」

「しょうがないよ。結果を残すってことはそういうこと。必ずしも良いことじゃないんだよ」

「私が上手く立ち回れなかった。もっと努力している姿をみんなに見せるべきだったね」

「だってそれは侑ちゃんが人に見せたくない部分なんでしょ!?」

「自分の理想像が、必ずしも万人受けするとは限らないよ……」

「……」

「侑ちゃんは大人すぎるよ……」

「なんでそんなに冷静に分析できるの!侑ちゃんはいじめられているんでしょ!」

「私は……」

「私はクラスのみんながそんなことをする人じゃないって信じたい、からかな。だから理由を見つけることに必死になっているもかもしれない」

「そんな! たとえ理由があろうとも、原因があろうとも侑ちゃんに手を出した時点で私はあんな人たちのことを許せないよ!」

「うん、ありがとう……」

でもね、本当はみんないい子たちなんだよ。

私は1周目のみんなを知っているから。みんな本当にいい子たちなんだよ。

たくさんたくさん思い出もあって、いっぱい写真を撮って……

だから、そんな私の1周目の思い出を壊したくない、そんな気持ちもあるのかもしれない。

どっちにしても自分勝手、なのかな。

「で、問題はなんでそんなに皆星さんが私の事を嫌っているか、だと思う」

「それで、家庭が原因だと思っているの?」

「それが自然かなって。家庭が厳しいってことは成績もそれなりにチェックされているはずだし。実際小学校の頃は中学受験組と張り合うくらいの学力だったんでしょ?」

「その実力もあってか入学式では代表に選ばれた。これってつまり入学者の中で一番成績が良かったってことだよね」

「確かにそうなるね」

「それが定期テストで毎回私に負けて……しかも当の本人はあまり勉強をしている様子もない……」

「多少の点差はあるものの、テストであの点数を取るためには向こうも相当の努力をしていると思う」
 
351: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 23:04:01.90 ID:FJp0O950
「親からプレッシャーをかけられ、死ぬ思いで勉強をして、それで1位の座を取られたらやっぱりいい気はしないよね」

「しかも、もし仮に親から暴力を受けていたならばその不満が私に向くことは当然、かな?」

「分かるけど……分かるけど分からないよ!」

「そもそも仮説だし! もしそれが正しかったとしても侑ちゃんを傷付けていい理由になんかならない!」

「そもそも侑ちゃんがなんで加害者の事をそこまで考えてあげられるのか」

「私には分からないよ……」

「私の事なのに自分のことみたいに真剣になってくれて、歩夢は本当にやさしいね。そういう所が好きだよ」

「私、今日は誤魔化されないからね」

「それより、絶対に私から嫌がらせの話を聞いたってバレちゃだめだからね?歩夢が悲しい思いをするのは絶対に嫌だから!」

「やだよ……私侑ちゃんをいじめる人と仲良くなんてできないよ……」

「だーめ。表面上だけでもいいから」

「それに、歩夢といれば私は殴られないしそんなに気にしなくて大丈夫だよ!」

「侑ちゃん……」

歩夢の目は悲しみで染まっていた。

本当にこの子は優しいなと思う。そばにいてほしい時に、そばにいてくれる。

今の私にとってそれが何よりも心強かった。
 
352: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 23:07:15.30 ID:FJp0O950
――――――――――――

8月も中旬。

身体の傷はほとんどなくなり、注意して見ないと気が付かない程度まで回復した。

「侑ちゃん?」

「なに、歩夢?」

「いつまで引きこもっているつもりですか?」

「……2学期まで」

「夏休みの間ずっと引きこもっているつもり?」

「……だって外暑いし。あと、夜コンビニに行ってるから引きこもりじゃない。ピアノのレッスンにも行ってるし」

「侑ちゃんが本物の引きこもりみたいなこと言ってる」

「だから本物も何も引きこもりじゃないって」

「明日が何の日か覚えてないの?」

「え?夏休み?」

「ち~が~う!! 明日は夏祭りの日だよ! 去年、来年もいっしょに行ってくれるって約束したでしょ!?」

「えっ……もうそんな時期だっけ?」

「そうだよ?もうすぐ夏休みも終わりだよ?」

「楽しい時間は過ぎるのが速いなぁ」

「ずっと家にいたのに?」

「毎日歩夢が来てくれたからね」

「たまには侑ちゃんが私の部屋に来てくれてもいいんだよ?」

「だっていつも私が行こうとする前に歩夢がうちに来るじゃん」

「なんか私がせっかちみたいで恥ずかしいんだけど!」

「えへへ。でもそっか、明日はお祭りか……」

「よし! じゃあ3時過ぎくらいに集合でいいかな?」

「うん!ちょうどいいと思う!」

そんなこんなで私たちは夏祭りに一緒に行く約束をしたんだけど……

「えっ……こんな人多かったっけ?」

あまりの人の多さに私は愕然としていた。

「侑ちゃんずっと家にいたから…… 人混みに疲れちゃった?」

「確かに、最近大人数の人間と会ってなかったからな……」
 
353: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 23:10:24.19 ID:FJp0O950
「大丈夫?」

「うん……ちょっと休んでもいい?」

「もちろん」

「ごめんね」

「いいよいいよ。私は夏祭りに行きたかったわけじゃなくて、侑ちゃんとお出かけしたかっただけだから」

「そう言ってくれると嬉しいよ」

「ちょうど侑ちゃんが告白してくれて1年だね」

「あはは……なんか長かったような早かったような……。あの日は絶対に成功するって思っていたんだけどな……」

「そりゃ私も『はい』って答えたかったよ?」

「本当に歩夢が頑固なんだから……」

「もしかして苦情?」

「いや、誉めてる」

「そうは聞こえないけど……」

その後もこの1年の事を色々振り返った。

テストのこと。クリスマスデートのこと。合唱コンクールのこと。

話しても話しても思い出話は尽きなかった。

「侑ちゃん、だいぶ顔色良くなったね」

「うん、ありがとう。でも、もう日が暮れちゃったね……」

「もうすぐ花火の時間……」

「じゃあさ!」

歩夢は立ち上がり、笑顔でこう言った。

「あそこ、行こうよ!」



ギギギ……

この音を聞くのもちょうど1年ぶり。

観覧車は地面を離れ、高く高く上がっていく。

本当は観覧車の中で告白しようと思っていたけど勇気が出なかったのは歩夢には内緒。

1年もたったら話せるようになるかな?と思っていたけれどまだ無理そう。

「わ~、花火きれい!!」

歩夢の目に花火の光が映り、キラキラ輝いている。
 
354: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 23:13:32.78 ID:FJp0O950
「やっぱりここから見るのが落ち着くね」

「うん」

去年は互いにに向き合うように座ったけれど、今は同じ側に座っている。

そんな小さな変化がとても嬉しかった。

観覧車に向かっている途中で花火が始まり、私たちが乗り込んだ時にはもう既にクライマックスに差し掛かっていた。

「どんどん打ちあがっていって綺麗だね……」

「歩夢は本当に花火が好きだよね」

「侑ちゃんはそうでもないの?」

花火に夢中だった歩夢は悲しそうな顔をして私に顔を向けた。

「いや、好きだよ。でも、すぐに消えちゃうのが悲しいかな」

「確かに花火がずっと空で光り続けてくれたらなって、思わないって言ったらウソになるかな。でも、消えるからいいんだよ、たぶん」

「消えるから、良い?」

「潔く消えるから、また来年も見に行こうって思えるんじゃないかな」

「なるほどね」

空には最後の大花火と言わんばかりに大小、色、形、様々な花火が打ちあがる。

「侑ちゃん、また来年もいっしょに来てくれる?」

「歩夢さえ良ければ、ね」

「ありがとう!」

その約束のタイミングを見計らっていたかのように最後の大きな花火が一発打ちあがり、今年の花火大会は幕を閉じだ。
 
355: (もんじゃ) 2022/06/13(月) 23:16:55.95 ID:FJp0O950
「なんか、さっきまであんなに空がカラフルだったのに……、急に真っ暗になると変な感じだね」

「寂しいの?」

「寂しいね。これが普通のはずなのに」

「ふふっ。確かにこれが普通なんだもんね……」

私たちは手を繋ぎながら帰路に就いた。どこか哀愁漂う空を見上げながら。

「今度は星を見に行きたいな。満天の星空」

「侑ちゃんにしてはロマンチックだね」

「ちょっとそれってどういこと?」プンプン

「とっても嬉しいってこと」

なぜ私は今までこの事態が起こることを予想していなかったのだろう。

私たちが住んでいる地域で一番大きな夏祭り。

私や歩夢が来ているように、他の中学生が来ていても何もおかしくはない。

「あれ?上原さん!あと……高咲さんも。二人でデートのところお邪魔しちゃったかな?」

私たちはクラスメイト数人のグループと鉢合わせてしまった。
 
361: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:32:26.90 ID:TC8YYePz
「あ……え……」

突然の対面に思わず狼狽してしまう

「あれ~?高咲さんどうしたの~?」

張り付いたような笑顔でこちらに迫ってくる。

怖い。

歩夢の前だから何もされないはず。そう思っていても体はこわばり、手が震える。

夏休みが長いとはいえ、一度体に刻み込まれた恐怖が抜けるほどではない。

あの悪夢の1学期が頭をよぎる。

怖い。怖いよ……

そう思った瞬間、歩夢が私の前に一歩踏み出し、手を広げてこう言い放った。

「侑ちゃんに近づかないで」

初めて見る、歩夢が本気で怒っている顔だった。

「あっ……歩夢……?」

歩夢が私のいじめを知っていることがバレちゃうかもしれない。そんな心配を嬉しさが覆い隠してしまった。

今までずっとひとりだったから。

今までずっとひとりで耐えてきたから。

今までだれひとり私を守ってくれる人はいなかった。

でも、いま、歩夢が私の前で私を守ってくれている。

「上原さん、急にどうしたの?」

クラスメイトはへらへら笑っている。

「いやっ……これは違くて……。歩夢?急にどうしちゃったの?」

冷汗をだらだら流しながら何とか誤魔化そうとするが、歩夢の表情は緩むことはなかった。

「あなたたちの話は全部聞かせてもらったから。だから、二度と侑ちゃんに近づかないで」

「ふーん……そういう事ね」

「わかったよ。この話はみんなに伝えておくから」

「良かったね。仲間ができて。『侑ちゃん』」

彼女らはすぐにその場から立ち去った。

まずいまずいまずまずい……

このことが知られたら……私だけじゃなくて歩夢もいじめの標的になっちゃう。
 
362: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:36:03.61 ID:TC8YYePz
「歩夢っ!」

「侑ちゃん、ごめんね……」

「なんで、なんであんな態度とったの!歩夢が危険な目に遭ったらどうするの!」

「大丈夫。私はきっと大丈夫だよ」

「それに、侑ちゃんだけがつらい目に遭うなんて許せないよ。二人で戦おうよ、侑ちゃん?」

「歩夢……」ポロポロ

「私のせいでこんなことに巻き込んじゃって……本当にごめんね……」ポロポロ

「私、いったでしょ?侑ちゃんがいるところだったら火の中でも水の中でも、どこにでも行くよって。それが私の幸せだから」

「だからこれでいいの」

「でも……もしいじめられちゃったらどうするの……?」

「それは困るかなぁ~」

「じゃあ何で!」

「その時はさ、侑ちゃんが守ってよ」

「うん!」

私たちは手を繋ぎ、帰路へと就いた。

歩夢が私と同じ目に遭ってしまうのではないかという不安と、

歩夢が一緒にいてくれるのならもう少し頑張れるのではないか、

そんな巨大な不安と小さな期待を胸に私たちは歩いた。

歩夢。本当にごめんなさい。

そして、

歩夢。本当にありがとう。
 
363: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:39:16.71 ID:TC8YYePz
――――――――――――

2学期。想像の通り私へのいじめは引き続き、さらにその手は歩夢にまで襲い掛かるようになった。

私たちのツーショットは教室の中でばらまかれ、もはやフリー素材と化していた。

様々な悪意に満ちた落書きやイタズラが施され、それらは歩夢や私の目につくような場所にわざと貼られた。

毎朝、私たちの上履きはたくさんの画鋲でそれらの写真が刺し止められていた。特に私たちの目や顔、さらには身体に集中的に穴が開くようないやがらせ付きだ。

その写真も誰が撮っているのかは分からないが、日に日に種類が増えていった。

いすや机には大量の落書きがされていたり、正体の分からない液体がかけられていたり。

トイレに入れば濡れたトイレットペーパーを上から投げ入れられた。

私は毎日制服が濡れる恐怖とそこからくるストレスに耐えながら、なるべく目立たないように学校生活を送った。

私を孤立されるという目的を失った彼女らにとって、私たちへのいじめを阻む障害はもうなに一つ残っていなかった。

最初は私が憎いという理由でいじめていたクラスメイトも、今では私に危害を加え、傷付けることそもそものが目的になっているような雰囲気だった。

きっと、最初の理由なんてどうでもよかったのだろう。

共通の敵を見つけ、それを全体で攻撃することによって自分たちが上の存在であると思いたいのだ。

ましてや私たちはテストの成績で上位だ。そんな人間を下に見られるなど、さぞかし気持ちのいいことだろう。

それと同時に、その人間性の低さにひどく軽蔑した。

きっとこの人たちは1周目の彼女らとは違うのだろう。そう私は心の中で整理をつけることにした。

さらに時を同じくして、私は一つの疑問を抱いた。

――学校に行く意味って何だろう。

勉強は授業を受けなくても困らない。

音楽だって学校に行く必要なんてない。

ふと冷静になると、自分がなぜここまで頑張って学校に執着していたのかが分からなくなる。

思えば1周目の私は学校でしか会えない友達とのおしゃべりが楽しくて学校へ行っていた。

今の私にはそんな存在はいない。

今の私にとって会いたい人は歩夢だけだ。

歩夢になら学校に行かなくたって会うことができる。

じゃあ私は……なんで学校に行っていたんだろう……

「違うっ!」

もし私が学校に行かなくなったら歩夢が一人ぼっちになっちゃう。まるで1学期の私みたいに。

歩夢にそんな辛い思いをさせるわけにはいかない!これが私が学校に行く理由だ。
 
364: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:42:23.82 ID:TC8YYePz
――――――――――――

「うっ……」

「おえ゛っ……」

「ぐえ゛っ……」

また私はいつものように全身を殴られていた。

せっかく夏休みで痣が消えたのにな……

「おまえさ、なんで未だに学校来るの?馬鹿なんじゃないの?」

「そんなの関係ない」

「お前を見ると不快になるんだよっ!」ボコッ

「うぅ……」

あまりに痛みに涙が頬を伝う。

「泣くくらいだったら来なければいいのに」

「……だって歩夢が……」

つい、口が滑ってしまった。

「え、あぁ、上原がいるから学校に来るわけね」

「確かにお前が来なくなったらこの標的があいつに向くかも知れないもんなぁ!」ドスッ

強烈な踵蹴りが決まった。

「あ゛っ……う゛……」

「こんな感じに、な?」

一度蹴ったところを執拗につま先で執拗にグリグリえぐられる。

「ああああああああああああああ」

「はははっ」

全身から脂汗が吹きだす。でも、私はひたすら耐えるしかなかった。

「じゃあさ、お前が学校に来なければ上原にはもう手を出さない。こう言ったらどうする?」

「そんなのっ、信用できない」

「は?」

「よく考えてみろよ。私たちはお前が憎くてこんなことをしているの」

「上原を可愛がっているのも、その姿に心を痛めているお前が面白くてやっているの。お前がいなくなったらやる意味が無い。だから、もう手を出さない」

「だからさ、本当にもう学校に来ないでくれる?不愉快だから」
 
365: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:45:32.68 ID:TC8YYePz
「あなたがいるとみんなが不幸になるの」

「上原も含めて、ね」

「……」

私は黙ることしかできなかった。

私はどうするのが正解なんだろうか。

「話聞いてんのかっ!!!」

皆星は髪を根元から思いっきりつかむと私の頭を大きく揺さぶった」

「ごめんなさい……」

私はひたすらに誤ることしかできなかった。

本当に私は学校に行かないことが正解なんだろうか。

私が学校に行かなければ歩夢はもうこんな目に遭わない……

本当なんだろうか……

私の心が揺らいだ瞬間、私はもう学校に行くことができなくなってしまった。

――――――――――――

毎朝歩夢から電話がかかってきて、ベランダで話して、朝ご飯を食べて。

いざ制服を着ようとすると、そこから動けない。

どう頑張っても足が制服に向かず、自然にベッドへと向かってしまう。



私が不登校になってからというもの、私は毎朝歩夢にしつこく質問をした。

なにか嫌がらせはされていないか。いじめかれていないか。

歩夢は決まってこう答えた。大丈夫。もうそんないじめられることはなくなったよって。

「みんな飽きちゃったんじゃないかな。さすがに仲良くはできないけど、今までみたいに画鋲を入れられたり、無視されたり、足を引っかけられたりってことはなくなったかな」

「大丈夫だって! 私にだって他のクラスに友達はいるし」

「侑ちゃんも、また元気になったらまた一緒に学校に行こうね」

「うん、ありがとう」

私は歩夢の言葉に安心してしまった。

いや、心のどこかでは気が付いていたのかもしれない。

歩夢はいつもニコニコ笑っていた。

今の歩夢も笑っている。でも、目は笑っていなかった。
 
367: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:48:40.68 ID:TC8YYePz
それでも、私は無意識のうちに、その事実に気が付かないようにしていた。

きっと勘違いだ。きっと考えすぎだ。

だって、このままずっと自分の部屋に閉じこもっていれば殴られることも蹴られることも、汚い水をかけられることもないとても幸せな生活が手に入る。

夏休みで一旦その幸せを知ってしまった私にとって、昔の生活に戻るなんてもう不可能だった。

しかも、私がいなくても歩夢は大丈夫。

それならば、もう学校に行く意味すらも失ってしまった。

こうして私は本格的に不登校生徒となった。

――――――――――――

定期テストの日。

私は別室でテストを受けることを許可された。

何故か不登校の原因については何も聞かれなかった。

それは私を気遣っての優しさなのか、単に面倒ごとを抱えたくないからなのかは分からない。

どっちにしろ、その件に触れられたくない私にとっては好都合だった。

全ての科目のテストを受け終えて、私は周りの生徒と会わないように一足早く昇降口から学校を出た。

その時、私のクラスの靴箱の一つにゴミらしきものが詰め込まれていた。

私はそれに気が付いた瞬間、とっさに目をそらした。

きっと私の靴箱に違いない。

そう、あれは私の靴箱だ。

だってこのクラスにはもういじめはないんだから。

自分に言い聞かせるように私は学校を後にした。

それ以降、いくら歩夢にしつこく迫っても『何もされていないよ』の一点張りだった。

それでも、歩夢の表情はどんどん1学期の私と同じ顔つきになって言っているような気がした。

周りがすべて敵に見え、周囲のちょっとした笑い声にもおびえてしまう、そんな精神状態。

でも、きっと気のせいだ。

だって歩夢がいじめられるわけないんだもの。

もしいじめられているならば……それは私が原因で……

そんなことは考えたくはなかった。いや、考えられなかった。

真剣に考えて答えを見つけてしまったら……

私は必死に、気を逸らすように勉学と音楽に励んだ。

でも、嫌な予感はたいてい的中するものだ。
 
369: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:51:44.63 ID:TC8YYePz
時は一気に流れて期末テスト。

日々の勉強の成果を遺憾なく発揮して1位を確信したその帰り道、ふと普段人がいない校舎の棟に足が向いた。

人と会うのは御免だったけれど、この時間はもう誰もいないはず。こんなに堂々と校舎を歩けるのは2年生になってからは初めてだった。

私が向かったのは音楽室。

桜内先生がいたら話したいな、それくらいの気持ちで寄り道したけれど音楽室には鍵がかかっていて誰もいなかった。

わざわざ職員室に行くほどでもないなと思い、来た道を引き返そうとすると

「やめてよ!!」

歩夢の声が聞こえた。

一瞬聞き間違えかなと思った。

でも、音楽室の先には視聴覚室。私がいつも皆星に呼び出されていた、あの視聴覚室だ。

いや、中に歩夢がいると決まったわけじゃない。私の幻覚かもしれないし、似ている人の声かもしれない。

そもそも中に皆星がいるとも限らない。

だって歩夢は言っていたから。もういじめはないって。

ボゴッ

ドスッ

「う゛ぅ……」

うめき声が聞こえる。まるで彼の日の私のように。

帰ろう。そう私は思った。

視聴覚室の中で起きていることを知っても私は不幸になるだけだ。

今なら勘違いで済まされる。

そう思い踵を返そうとしたが、私の足はまるで錘がつけられているかのように重く動かなかった。

決して見たくはないけれど、中を見ないと一生後悔する気がした。

そっと部屋に近づき、中をのぞく。

私の目に全く想像をしていなかった光景が、いや、むしろ想像通りの光景が飛び込んできた。

そこには椅子に縛り付けられて何度も何度も殴り、蹴られ続けている

まるで少し前の私のような

歩夢の姿があった。
 
370: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:55:14.21 ID:TC8YYePz
歩夢の目は涙が今にもこぼれそうで、

でも必死にその堰が崩れるのを我慢しているようだった。

私はあまりの光景に頭が真っ白になり、何も考えられないままその場を後にした。

私は歩夢を守ると決めたのに、一番肝心なところで、私は動けなかった。

――――――――――――

家に帰った後も、私はひたすらに自分を責め続けた。

なぜあそこで部屋に入って聞けなかったのか。

なぜすぐに先生に報告しなかったのか。

私が何か動いたところで状況が好転するとは限らない。

でも、私が歩夢を見放したことだけは確かだった。

私は歩夢を守るって決めたのに、

歩夢は私のせいで傷付けられ、

そんな歩夢を私は見て見ぬふりをした。

こんなはずじゃなかったのに……

自分で自分に失望する。

自分自身を心底嫌った。

何でこんな人間が生きているんだろう。

私なんていなければいいのに。

――――――――――――

それからも毎朝歩夢は学校で怒っている悲惨な現状を悟らせないための笑顔で私を接してくれていた。

いくら追及しても

――もうそんなことはないよ。

――侑ちゃん、考えすぎだってば。

――侑ちゃんが不安になっていることが不安だよ。

そんな言葉で誤魔化された。

その服の下には数えきれない痣と傷跡があるはずなのに。

それでも私がいち早く立ち直れるように、必死に耐えているんだ。

なんて歩夢は優しい子なのだろうか。

そして、私はなんて最低な人間なんだろうか。
 
371: (もんじゃ) 2022/06/15(水) 21:58:26.14 ID:TC8YYePz
毎日ストレスに苦しみ、気が付けば髪の毛を常に引っ張っていた。

手首の傷跡も日に日に増えていった。今が冬で本当に良かったな。

せっかく体の傷跡が治ったのに。でも、どうしてもこの行為を私はやめられなかった。

その痛みが自分を罰してくれているような気がして、少しだけ気持ちが楽になれた。

そしてある日、私は決心をした。

歩夢と別れることを。
 
380: (もんじゃ) 2022/06/16(木) 22:20:35.95 ID:QF3hLo3k
――――――――――――

歩夢が不幸になったのは全部私のせいだ。

私と付き合ってしまったから、歩夢はあんな目に遭うようになった。

だって1周目の歩夢はあんなにも幸せそうだった。

きっと私たちは幸せになりすぎたんだ。

前に彼方さんに教えてもらったことがある。

あれは私が企画したスクールアイドルのイベントが雨天中止になっちゃったとき。

せっかくの準備がすべて無駄になってしまった。

そして何よりも、みんながその日に向けて一生懸命練習してきたその努力が無駄になってしまった。

私はひどく落ち込んだ。なんで雨が降る可能性を考えなかったんだろうって。

そしたら彼方さんが慰めてくれた。

「幸せの総量ってね、ちゃんと決まってるんだよ~」

最初は意味が分からなかった。どうして彼方さんはこんなむなしい言葉を私に語り掛けるのだろうって。

彼方さんは続けてこう言った。

「だからね、悪いことはずっと続かないんだよ。嫌なことがあった後には、ちゃんと良いことがあるの」

彼方さんはその温かい手で私の頭を撫でてくれた。

「今は悲しいけれど、きっと近い将来、侑ちゃんには幸せが訪れるはずだから。だからあんまり落ち込まないでね」

「そしたらその侑ちゃんの幸せパワーで、すごいイベントを成功させちゃうよ!」

不幸な出来事の後には幸福が訪れる。だから気を落とすな。世界はそんな幸不幸のバランスを保って動いている。

そんなことを彼方さんに教えてもらった。

確かに今までの人生は良いことが半分。そして残りは辛く、悲しいことだったような気がする。

そしてそれらは折り重なるように互い違いに私のもとへとやってきた。

でも、どうして私はその逆に気が付かなかったのだろう。

たくさんの幸福を得た後には……その反動があるはずなのに。

最初の1年間は本当に奇跡のような時間だった。努力は報われたたくさんの栄光を手にした。歩夢と特別な関係になることができた。

人生で一番幸せな時間だった。

だから、今がこんなになってしまったのも、しょうがないことだ。

私は幸せの前借をしてしまったのだから。

歩夢がいなかったらこの1年間を耐えることができなかっただろう。
 
381: (もんじゃ) 2022/06/16(木) 22:24:09.30 ID:QF3hLo3k
歩夢がいてくれて、本当に良かった。

でも、歩夢は私のせいで不幸になった。

私がいなければ、本当に良かったのに。

私と付き合ったから歩夢は不幸になった。

私と別れれば歩夢は幸せになれる。

簡単な問題だった。

不幸の後には必ず幸せが訪れるんだ。

そうに違いない。絶対その通りになる。

それ以上の事を考えられる元気は、もう私には残っていなかった。

この決断は歩夢の為だ。

そう、決して私の為じゃない。

私が罪悪感から逃げるためじゃ……ないよね……

――――――――――――

今日はクリスマスイブ。私と歩夢が付き合いだしてから1年とちょっとが過ぎた。

別れ話は電話で済ました。直接会って話すと気持ちが揺らいでしまいそうだったから。

なかなか電話をかける勇気が出ず、結局日が落ちてからやっと発信ボタンを押すことができた。

電話で話していても、涙が目からあふれ出て、何度も通話をミュートにした。

泣いていることを悟らせないように。

私の本心を知られないように。

誰よりも歩夢と一緒に居たいのは、私自身なのに。

「侑ちゃんを支えてあげられなくてごめんね」

歩夢は最後にそう言い残し、電話を切った。

支えてあげられなかったのは私の方なのに。

電話を切って初めて、歩夢との関係が終わった実感が沸いた。

考えれば考えるほど、私の心は張り裂けそうな絶望感でいっぱいになった。

私は逃げるように家を出て、近くの川辺まで歩いた。

今は少しでも歩夢から離れたかった。

歩夢の気配を感じると、それだけで気が狂いそうだった。
 
382: (もんじゃ) 2022/06/16(木) 22:27:14.77 ID:QF3hLo3k
私は誰もいない川辺で思いっきり泣いた。

橋の通行人から見られてたってかまわない。

気が狂っていると思われてもかまわない。

自分が手に入れた幸せを、自分から手放してしまった。

出来ることなら私だって歩夢と一緒に居たかった!

でもそれは歩夢を不幸にしちゃうんだ!

歩夢に辛い思いをさせてまで……私は一緒にいることはできないよ……

私はその場に倒れこみ、気が済むまで叫び、涙を流した。

気が付けばもう日が変わっていた。

――――――――――――

それからの私の中学生活は灰色の毎日だった。

これは比喩ではない。

毎日部屋に引きこもっていたせいか、はたまた黒のペンと白のノート、そして白黒の楽譜と鍵盤だけを一日中眺めていたせいか、私は色彩感覚を失ってしまった。

そんな孤独で地獄のような日々の中で、学力と音楽の腕前だけが私の最後の頼みの綱だった。

虹ヶ咲に行けば、きっとこの生活は変わる。

歩夢とだってきっとやり直すことが出来る。

またあの幸せな高校生活を送ることだってできるんじゃないか。

自分勝手なことは分かっている。それでも、虹ヶ咲という場所は私にとっての成功体験そのものであり、

そこにさえたどり着けば何もかもうまくいくと思い込んでいた。

いや、思い込むことで今私は生き延びることができていた。

隣の部屋で歩夢の生活音が聞こえるたびに、私の心は狂い壊れそうになった。

あれだけ近くにいた歩夢が、今ではとても遠くに感じる。

たった1枚の壁のはずなのに。

当然、朝の電話どころかあれ以来一言も会話をしていない。

時間が経てば寂しい気持ちにもなれる。忘れる。そう思っていたのに、

その気持ちは時間の経過とともに増大していった。

大丈夫。最後には歩夢は私のところに帰ってきてくれるはずだ。

散々傷付けたけど、歩夢は分かってくれるよね。

毎日歩夢の事を思っては泣き、その悲しみを紛らわせるために机に向かった。
 
383: (もんじゃ) 2022/06/16(木) 22:30:21.48 ID:QF3hLo3k
でも、そんな都合のいいように世界は進んでくれない。

梅雨の時期に3年生は修学旅行へ行く。

私は当然行く気が起きず、参加は見送った。

音も声も、歩夢を感じる刺激が何一つない。

皮肉なことに、歩夢が遠くに行くだけで私の心に平穏が戻った。

ピロン

珍しく私の携帯の通知音が鳴った。

「誰だろう……」

差出人は歩夢からだった。

歩夢:今日、□△君から告白されて、付き合うことにしたよ。

歩夢:侑ちゃんに報告しようか迷ったけど、一応教えておくね。

歩夢:この通り私も前に一歩一歩踏み出しているから、侑ちゃんも元気になったら学校に来てね!

「え……」

「あ……」

「ははっ……」

「……」

「ぁ……」

言葉にならない。きっとこの言葉は今の私の為にある言葉だと確信した。

視界が歪みながら回転する。スマホが私の手から滑り落ちる。

なんで?

どうして?

歩夢が……別の人のものになってしまった。

なんでよ。歩夢はいつも私の隣にいたのに。

どうして!!

いくら考えても答えは一つしか出てこない。

私があまりの苦しさに、歩夢が私のせいで苦しんでいる現実に目をそらしたくて、

歩夢を手放してしまった。

そんなの、愛想をつかされて当然だった。

もう終わりだ。
 
384: (もんじゃ) 2022/06/16(木) 22:33:29.49 ID:QF3hLo3k
本当の意味で、歩夢はどこか遠くへ行ってしまったような気がした。

私の手の届かない、もっと先の世界へ。

当然、その後の夏祭りのお誘いの連絡が歩夢からくることはなかった。

――――――――――――

最後の1年間は受験の為だけにすべてをつぎ込んできた。

歩夢は虹ヶ咲を受けるのかな?

もしまたやり直せたら……、なんてムシが良すぎるかな。

それに虹ヶ咲にはみんながいる! そこで私はスクールアイドル同好会のマネージャーとして頑張るんだ!

順調とは言えない2週目の中学生活だったけれど、それでもすべてはこの場所のため。

みんなの夢を応援する。それが私の夢であり目標だった。

勉学も音楽知識も、もちろん昨今のスクールアイドルに関する知識も1周目とは比べ物にならないくらい詰め込んだ。これで最高のマネージャーになれる!

そのためには受験を突破しないとね!

でも今の私の実力だったら絶対に大丈夫!

そう思っていた時の矢先だった。

虹ヶ咲の試験日の3日前、私はおたふくかぜを発症した。

当然受験はできない。

虹ヶ咲は人気校だ。2次募集なんてない。

それが分かった瞬間、私はこの世界のすべてに絶望し、何も考えることができなくなった。

ママや先生は一生懸命に他の高校も2次募集があるから大丈夫だよって説明してくれたけれど、どういう事じゃない。

私は虹ヶ咲に行きたかった。

そして

私は虹ヶ咲に行けなかった。

そのための2週目、そのための3年間だったのに……

私の今までの時間は、いったい何のためだったのだろうか。

きっと神様が罰を与えたんだと思う。

2週目というズルをしながら気持ちよくなっていた私に対する罰。

結局私は2次募集があるレベルの高校を受験し、合格した。

得点はトップだったそうだが、そんなことはどうでもよかった。

虹ヶ咲の合格発表の時は歩夢とこれでもかというほど喜んだっけ。

それが、こんなにも暗く、嬉しくない合格発表があるなんて、ね。
 
385: (もんじゃ) 2022/06/16(木) 22:36:46.78 ID:QF3hLo3k
新しい高校生活には期待も不安も何もなかった。何も感じない。虚無。

当然スクールアイドルなんて活動していないような高校だ。

学校名すら未だに覚えていない。

私には今の現実が受け止められなかった。

今の私は何もかも失ってしまった。スクールアイドルも。虹ヶ咲も。そして、歩夢も。

私はこれからどうやって生きていったらいいんだろうか。本当に、誰かに教えてもらいたい。

そうでないと、生きる意味を見出せないから。

これが1周目の高咲侑だったら、人生こんなもんだと割り切れたかもしれない。

でも、私は2週目の高咲侑だ。おまけに1周目の記憶も残っている。

12人のスクールアイドルのマネージャーとして同好会をサポートし、イベントを企画し、

音楽科に転科して、自分の大好きを見つけて……

そしてなにより、自分の夢を見つけた。

そんな可能性、いや、現実があったという記憶。

1周目の自分が今の自分を苦しめる。

私は……私はもっとより良い人生にしたいと思っただけなのに。

皮肉にも現実はその真逆となってしまった。

―――――共通√ここまで―――――
 
412: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:00:38.10 ID:lay9L1DA
今日は新しい高校の制服採寸の日だった。

学校はボロボロで、雰囲気もあまりよくない。

周りの新入生も、私とは合わないタイプの子ばかり。

全てがくだらなく思えてくる。

制服も地味でダサくて、まるで中学の延長線のような制服。

全然おしゃれじゃないし、可愛くもない。

まぁ、私なんかがそんないい制服を着たところで何にもならないけれど。

それでも、虹ヶ咲の制服に袖を通したかったな。



やっぱり虹ヶ咲への未練は消えることはなかった。

歩夢はどこを受験したのだろうか。

私という足枷がなくなったのだから、虹ヶ咲よりもっと難しい学校を受験したのかな。

彼氏と一緒の高校を受験したのかな。

ひとりで歩いていると、どうしても色々と余計なことを考えてしまう。

気を紛らわせよう。私はいつものようにポケットの中からイヤホンと携帯を探した。

ガサガサ

ゴソゴソ

「あれ?」

イヤホンをどこかに落としてしまったみたい。

「はぁ……」

「くそっ!」

安物のイヤホンだったけれど、いつも私を外の世界から守ってくれた大切なものだった。

「本当についてないな」

本当についていない。

イヤホンのことも、それ以外のすべてのことも。

まだ寒さが残る3月の風が私の体を通り抜ける。

「うぅっ……」

私は歩くスピードをあげた。
 
413: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:04:02.97 ID:lay9L1DA
「1、2、3、4!」

「1、2、3、4!」

川辺から声が聞こえてくる。

何か部活動の練習かな。

部活動。その言葉を聞くと地獄の学校生活を思い出して嫌な気分になる。

やっぱり外の世界は怖い。イヤホンをなくした日に限ってこんな場所に出くわすなんて。本当についていない。

私は目をそらしながらさらに足のスピードを速めようとしたその瞬間

「あっ!」ドスン

「大丈夫!?」

その集団の一人が大きな声を出しながら転んだ。

私は思わずその子達の方を見てしまった。

まさにそれは神様のイタズラだったのかもしれない。

「いたたたた……。でも大丈夫!」

「本当に?痛くない?」

「痛い!だけどお尻打っただけだから!」

「少し休んだ方がいいんじゃない?」

「大丈夫だよ!それにラブライブ予選までもう時間ないし、少しでも練習しないと!」

「ほんと、そういう所頑張り屋さんだよね!」

「じゃあアタマからもう一回通すよ!」

――ラブライブ……?

ということはあの子たちはスクール……アイドル……?

学校名はおろかグループ名も分からなかった。でも、彼女たちの練習姿は確かにスクールアイドルだった。

スクールアイドルに触れると虹ヶ咲を思い出して辛くなってしまう。

そんな理由からずっとスクールアイドルに関する情報を自分から遠ざけていた。

でも、やっぱりスクールアイドルはときめいちゃう。それは私の隠しきれない、本心だった。

気づけば私は土手の上から彼女たちの練習を食い入るように見ていた。



「1、2、3、4!」

「1、2、3、4!」

「1、2……あれ?」
 
414: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:07:09.51 ID:lay9L1DA
リーダーらしき子と目が合った。

まずい……ずっと見ていたのバレちゃったかな……

私は気が付かれていないことを願いながら後ずさるが、

「お~い!そこの君!良かったらもっと近くで見ていってよ!」

全てお見通しだったみたい。

「すみません……勝手にジロジロ見ちゃって……」

「むしろ見てくれて嬉しいよ!あなたが観客第1号だね!」

「第1号……?」

「実は私たち、グループを始めたばっかりなんだ!だからまだイベントとか舞台に立ったことが無くて……」

「だから、あんな真剣に私たちの事を見てくれて、とっても嬉しかった!」ニコッ

「始めたばっかりなんですか!?」

「うん……いまはラブライブ予選に向けて練習しているんだけどね……、なかなかうまくいかなくて」

「そうだったんですか……」

「あなたは何年生?」

「今は中3で、次の春から高校生です」

「えっ?大人びて見えるから高校生かと思ったよ!」

「そうですか?私身長小さいし……」

「いや、雰囲気とか?なんか大人っぽい!」

「そうですかね……」アセアセ

「お姉さんたちは?」

「私たちはすぐそこの××高校の生徒だよ!」

「そうなんですね……でも、結成したてとは思えないくらい上手でした!!」

「君中学生なのにお世辞も言えるなんてすごいね~!」

「お世辞じゃないですよ!さっきのこの部分とか、ここの振り付けとか!あとこの部分の動きが全員でぴったり合ってるのがすごく見てて気持ちよかったです!!!」

「……」ジワッ

「あっ……私また暴走して変なこと言っちゃいました……?ごめんなさい!!」

「いや、違うよ……」

「友たち以外にはじめて感想を言ってもらえて……すごく嬉しくて……」

「伝わってほしいところがちゃんと観客に伝わるって……こんなに嬉しいものなんだね……」ポロポロ

「ちょっとリーダー泣くの早いって!!」
 
415: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:10:19.30 ID:lay9L1DA
「ごめんね~?リーダー涙もろくて」ホロリ

「逆に、何か気になったところとかある?」

「気になったところですか……」

日が暮れるまで振付について、表情について、曲についてたくさんのアドバイスをした。

1周目のマネージャーとしての知識、そして2周目で身に着けた音楽の知識、それらを総動員した。

指摘した瞬間に良くなるところもあれば、なかなかすぐには活かせないアドバイスもある。

でも、私のアドバイスによって彼女たちのパフォーマンスはみちがえるほど良くなった。

「ほんっっっとうにありがとう!!」

何度も何度もお礼をされた。こっちが申し訳なく感じるくらいに。

でも、お礼をしたいのはむしろ私の方だった。

私はスクールアイドルが好きだ。

でもそれと同じくらい、スクールアイドルを支える私自身も好きだったんだと気が付いた。

私は直接ファンのみんなに何かを表現することはできない。

でも、スクールアイドルのみんなを通して、スクールアイドルのみんなと共に自分を表現することができる。

それは企画だったり、曲だったり、詩かもしれない。

演者の悩みに一緒に寄り添うことかもしれない。

いっしょに放課後寄り道することだって、その要素になりうるかもしれない。

そうやってみんなと一緒にステージを作り上げること、みんな、そして何より自分が大好きだったんだなってやっと気が付くことができた。

虹ヶ咲に入れなかったからってなんだ!

私の高校にスクールアイドルがいないからってなんだ!

そんなの堕落の理由付けにすらならない!

どんな環境だって、どんな所属だってスクールアイドルに関わることはいくらだってできる!

私はやっと、すこしだけ前を向くことができた。
 
416: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:13:21.81 ID:lay9L1DA
――――――――――――

あの日以降、私は自分の人生に対して前向きに考えられるようになった。

調べたところ、高校生になると東京都高等学校ラブライブ連盟という団体に入って大会運営のボランティアができるらしい。

まずはその活動を通していろんなスクールアイドルと関係を作って、後々は直接スクールアイドルに協力出来たらな良いなって考えてる。

まだ上手くいくかは分からないけどね。

それに歩夢に関してはまだ心の整理がついていない。

もう少し心が回復したら、ちゃんと話さないとなって思ってる。

「さてと!作曲の続きでもしようかな~」ノビー

ピアノに向かおうと勉強机と立った瞬間、辺り一帯が光に包まれた。

「えっ……?」

そう、それはまさに、ちょうど3年前のあの日のように……

そして意識が徐々に遠くなり、

バタリと床に倒れこんだ。
 
417: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:16:31.51 ID:lay9L1DA
――――――――――――

どこか懐かしい匂い。

この匂いは……機械油とはんだの匂いだ……

「……さん?」

この匂い好きだったけど……前に嗅いだのはいつだったっけな?

「……うさん!」

あれ?誰かが呼んでる?

「ゆうさん!」

「侑さん!!」

「えっ?」バサッ

「侑さん、やっと起きた」

「えっ?璃奈ちゃん!?なんで!!!」

「なんでって……侑さんがちゃんと説明をする前にボタン押しちゃうから……」

「璃奈ちゃんボード[やれやれ]」

「え……だって私虹ヶ咲には……」

「だから、これはあくまでシミュレーター。過去に戻って別の選択をしていたらどうなっていたんだろうって確かめる装置」

「えっ……?じゃあこの世界はどこ……?」

「ここは侑先輩がボタンを押した3時間後の世界。過去に戻った世界とは別」

「じゃあ、あの世界はなくなったの?」

「なくなったというより、あれは幻想」

「本当じゃなかったんだ……」ポロポロ

「侑さん……泣くほど向こうの世界が良かったの?」シュン

「うんん……逆だよ……」ポロポロ

「あれが嘘で……本当に良かった……」ポロポロ

「よくわからないけど、悲しい思いをさせてごめんなさい。また私の発明で侑さんを悲しませちゃった」

「璃奈ちゃんは悪くないよ……悪いのは私だから……」

「あっ!歩夢は!!??」

「歩夢さんなら……そこでゲームを「歩夢!!」

「え?あ、侑ちゃんやっと起きた「歩夢!!!!!!!!!!!」

ソファーに座ってゲームをしている歩夢に私はとびかかるように抱き着いた。
 
418: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:20:16.11 ID:lay9L1DA
「ゆ、侑ちゃん急にどうしたの?」

「あゆむ~~~!!!」ポロポロ

「あゆむ!!!!」ポロポロ

「歩夢がいてくれてよかった!!!」ポロポロ

「さっきまで寝てると思ったら急にベタベタして……怖い夢でも見たの?」

「うん……だからしばらくこのままでいさせて?」

「璃奈ちゃんに見られてるよ?」

「わかってる」

「侑ちゃんは甘えん坊さんだなぁ」

歩夢は私の頭を優しくなでてくれた。

「人生リセットスイッチ、だっけ?侑ちゃんが推したボタン」

「うん。中学生に戻ってた」

「そこで悲しいことがあったの?」

「……うん」

「私と喧嘩しちゃった?」

「だいたい、そんな感じ」

本当のことなんて言えるわけがなかった。

「私と仲直り出来なかったの?」

「うん……だから私にとって歩夢と話すのは1年ぶりくらい」

「えっ……。私だったらそんなの耐えられないよ……」

「だから、しばらくこのままで、良い?」

「侑ちゃんの気が済むまで、このままでいいよ」

「あゆむ……」ポロポロ

「今日はいっぱい泣いていいよ」

「ありがとう」ポロポロ

「怖かったんだね」

「うん」ポロポロ

「寂しかったんだね」

「うん」ポロポロ
 
419: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:23:21.70 ID:lay9L1DA
「歩夢……」

「なに?侑ちゃん?」

「どこにも、行かない?」

「どこにも行かないよ」

「本当に?」

「本当に」

「どんなことがあっても?」

「もちろん。もし侑ちゃんと一緒にいることで世界を敵に回すことになったとしても……」

「それでも私は侑ちゃんの隣からいなくなることはないよ」

「なんでそこまで言えるの?」

「それは、侑ちゃんがとっても大切だからだよ」

「だから、そんな大好きな侑ちゃんに『離れて』って言われたら、たぶん私はたくさん悩んで、たくさん泣いて、それでも侑ちゃんの気持ちを大切にして離れると思う」

「私が侑ちゃんから離れるのは、きっとその時だけ」

その瞬間、いかに自分が愚かであったかを理解した。

「ぁ……ぇ……」ポロポロ

それまで以上に歩夢を強く、強く抱きしめた。もう絶対に離さない。

一度止まった涙が堰を切ったように流れだす。

再会を喜ぶ涙でも、渇望した1周目に戻った嬉し涙でもない。

歩夢の対する贖罪、そして自分への失望の涙だ。

「えっ……ちょっと侑ちゃん本当に大丈夫!?」

「歩夢……ごめんなさい!本当にごめんなさい!」ポロポロ

「私は取り返しのつかないことを……」ポロポロ

その後も泣き止まない私を、歩夢はそっと抱きしめてくれた。



璃奈ちゃんも歩夢もそれ以降私に何も聞かなかった。

きっと察するところがあったのだろう。

歩夢が私のそばにいてくれる。虹ヶ咲の生徒として同好会のマネージャーでいられる。

こんな当たり前がどれだけの奇跡の上で成り立っているのだろうか。

もう一度あのボタンを押したとしても、次も全く別の未来へ行ってしまうかもしれない。
 
420: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:26:28.36 ID:lay9L1DA
でも、やっぱり歩夢がいない人生なんて私には考えられない。

やっぱり、私は歩夢がいるから頑張れる。



2周目の猛勉強の貯金のお陰か、その後のテストでも私は好成績を取ることができた。

歩夢は目を丸くして驚いていた。それでも歩夢の成績には遠く及ばなかったけどね。

今となってはあの経験も少しは良かったのかなと思えるようになってきた。

別にテストの点が上がったからじゃないよ?それくらいのメリットじゃ死にたくなるほど辛いあの経験が良かったなんて思うことはできない。

後から璃奈ちゃんに聞いた話だけど、向こうの世界で私が死んだらずっと戻ってこれなかったみたい。

受験から卒業までの期間は精神がボロボロだったから本当に危なかったかも。

私は2周目の中学校生活で勉強なんかよりもずっとずっと大切なものを学んだ。

努力の方法。人間関係の大切さと難しさ。

そして何よりも、大切な歩夢の事を全然見えていなかった。

いつも一緒にいたのに、肝心なところは何一つ分かってあげられていなかった。

歩夢はどんなことがあっても私の事を一番に考えてくれる。

でも私はどうだろう。いざとなったら自分を守ることを優先してしまう人間だ。

私は歩夢と肩を並べる資格が無いのかもしれない。罪悪感がどうしてもついて回る。

でも、それを理由に逃げたりなんかしない。

そんなの歩夢に対する最大の冒涜だ。

私は歩夢の隣で、歩夢に似合うだけの人間になれるように頑張ることにするよ。



中学生に戻った時、私は2周目のアドバンテージを活かせる部分はほとんど無いって思っていた。

でも、それは違ったんだ。

ボタンを押す前の私は本当に人間として薄い、何も持っていない人間だった。

だから2周目に持ち込めるものも、ほとんど何もなかったんだ。
 
421: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:29:48.23 ID:lay9L1DA
でも、その代わり私はあの世界でたくさん成長することができた。

今はその経験をこの世界で活かすことしか考えられない。それほど私の2周目は価値のある時間だったんだと思う。

もちろん辛いことはたくさんあったけれど、最初からシミュレーションってわかってたらあそこまで本気になれなかったと思う。

だから、経験も結果的には良かったのかなって、今では思える。

2周目で経験した出来事は結局璃奈ちゃんにも歩夢にも話していない。

話したところで、みんなを不幸にするだけだ。

もしかしたら将来歩夢に話をする時が来るかもしれないけれど、それはきっと今じゃない。

それまでは心の中にしまっておくことにするよ。

気が付けば朝陽が部屋の中に差し込んできた。

すっかり一人で起きられる身体になっちゃった。



私はスマホを手に取り、電話をかける。

「もしもし歩夢?朝だよ、起きて!」



――――― √あゆむのもとへ 完 ―――――
 
422: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:32:59.61 ID:lay9L1DA
★以下共通√から

今日は新しい高校の制服採寸の日だった。

学校はボロボロで、雰囲気もあまりよくない。

周りの新入生も、私とは合わないタイプの子ばかり。

全てがくだらなく思えてくる。

制服も地味でダサくて、まるで中学の延長線のような制服。

全然おしゃれじゃないし、可愛くもない。

まぁ、私なんかがそんないい制服を着たところで何にもならないけれど。

それでも、虹ヶ咲の制服に袖を通したかったな。



やっぱり虹ヶ咲への未練は消えることはなかった。

歩夢はどこを受験したのだろうか。

私という足枷がなくなったのだから、虹ヶ咲よりもっと難しい学校を受験したのかな。

彼氏と一緒の高校を受験したのかな。

ひとりで歩いていると、どうしても色々と余計なことを考えてしまう。

気を紛らわせよう。私はいつものようにポケットの中からイヤホンと携帯を探した。

ガサガサ

ゴソゴソ

イヤホンを耳にはめて外の世界を遮断する。



いつからだろう。人が幸せそうにしている姿を見るとイライラするようになった。

そして、そんな心の狭い自分が心底嫌いだ。

外にいてはダメだ。私がダメになってしまう。

歩くスピードを速め、一目散に家へと向かう。

そんな時に限って赤信号で足止めされる。

「……」イライライライラ

まさにその時だった。

向かい側の歩道を歩く歩夢の姿が見えた。

「あっ……」

驚きから出る声を押し〇した。
 
423: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:36:06.33 ID:lay9L1DA
歩夢の隣には、私の知らない女の子がいた。



歩夢だって切り替えてまた頑張っている。それを私が邪魔をする権利なんてない。

歩夢の友好関係は歩夢の自由だ。

でも、歩夢の隣は私だけの場所だった。それなのに……それなのに……

いつかは歩夢とまた親友に戻れるんじゃないかって考えていた。

その時まで、歩夢の隣は空席のまま。

だって私だけの歩夢だから。

そんな希望を勝手に妄想していた。

でも現実はそんなはずもなく、歩夢は歩夢で自分の人生を切り開いている。

そんなことはちょっと考えればわかるはずだったのに……

いや、考えなかったんじゃない。考えられなかったんだ。

歩夢の隣こそが、私に残された最後の居場所だったから。

でも、その幻想は今、目の前で打ち砕かれた。

私の居場所は、もうないんだ。



いつかはこうなるんじゃないかって思っていた。

でも、今日やっと決心することができた。

でも未練がひとつ。

「おじゃましまーす」

この時間は家に誰もいない。昔に貰った合鍵を使って歩夢の家に入る。

歩夢の部屋は前に来た時からほとんど変わっていなかった。

家具も、匂いも、小物も。

でも一つだけ違う所がある。写真立てた。

クリスマスにお揃いで買った写真立てだけが、歩夢の部屋から姿を消していた。

「ははっ……そうだよね……」

心の最後のピースが壊れる音がした。

「さようなら」

そう部屋に言い残し、振り返った私の視界に虹ヶ咲の制服が飛び込んできた。

「そっか……歩夢は虹ヶ咲に……」
 
424: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:39:16.02 ID:lay9L1DA
右目から、左目から、とめどなく涙が流れてきた。

私が人生に失敗しなければ、また歩夢と一緒に虹ヶ咲に通えていたのかな。

同好会で一緒に活動することができたのかな。

大粒の涙がぼたぼたと音を立ててカーペットに大きな染みをつくる。

「あゆむ……」

「あゆむぅ……」

「歩夢と一緒に居たかったよぉ……」

私は膝から崩れ落ちた。

制服を見るだけで、1周目の楽しかった思い出が走馬灯のように流れる。

「あゆむ……」

「あゆむぅ……」

いくら望んでもここに歩夢はいない。

でも……
 
425: (もんじゃ) 2022/06/21(火) 22:42:26.49 ID:lay9L1DA
――――――――――――

最後はこの場所って決めていた。

私にとって一番大切な場所だから。

私は歩夢の制服を着ることで歩夢と一緒になることができた。

そのお陰か先生に止められることもなくこの場所まで来ることができた。

虹ヶ咲学園、屋上。

潮の香りを乗せた強い風が懐かしい。

自然と恐怖は全く感じなかった。

一歩一歩、前へ進む。

私は歩夢と一緒。

また一歩。

永遠に、歩夢と一緒だ。

さらに一歩。

次の一歩を踏み出したらもう終わりだ。

でも、歩夢に包まれて死ねるのなら、こんな幸せはない。

歩夢。せっかくの制服を勝手に貰っちゃってごめんなさい。

歩夢。幼馴染としてずっと一緒にいてくれてありがとう。

歩夢。私のせいで不幸な目に遭わせてごめんね。

歩夢。わがままな幼馴染からの最期のお願いだよ。

歩夢。こんな私を許してほしい。

そして願わくば……

歩夢。こんな幼馴染がいたことを悲しまないでほしい。

歩夢。今までありがとう。そして、

さようなら。

――――― √あゆむとともに 完 ―――――


おわり
 

引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1652792622/

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