【長編SS】しずく「ハンカチ、落とされましたよ」【ラブライブ!虹ヶ咲】

SS


1: (茸) 2022/05/16(月) 21:48:46.19 ID:EFoLSInc
特別なことなんて何一つない日々だった。

頭を揺らすアラームで目を覚まし、表示された【月曜日】という単語に憂鬱にさせられながら、今日もまた仕事かと悪態をつく。

ギリギリまで眠っていた顔に冷や水を叩きつけて意識を引っ張りだして、買溜めしておいた200ml程度の野菜ジュースを紙パックを握り潰すように胃に流し込むだけの朝食

ずぼらに歯磨き、最後にクリーニングに出した記憶さえ曖昧なヨレたスーツに着替えて家を出て、満員電車に揺られ、押し出され、前が詰まっていたのに舌打ちをされる

電車の中から見えた流れていく景色のように、自分の人生もその他大勢と溶け込んでいて、いてもいなくても変わらないのではないかと考えてしまう。

そんな日々――

「ハンカチ、落とされましたよ」

――そんな日々に、赤い色が差した。
 
3: (茸) 2022/05/16(月) 21:54:17.98 ID:EFoLSInc
「えっと……違いました?」

赤色――目を惹く赤色の大きなリボンを着けている少女は、きょとんとした表情で手を差し出してきた。手にはアイロンもかけていないしわくちゃのストライプ柄のハンカチがある。

左の尻ポケットに触れ、いつもの感触がないことを確認してから、礼を言ってハンカチを受け取る。

「いえ、お気になさらず」

お礼はいらないと、歳上で、男、少女から見れば大柄であろう姿にも物怖じせずににこりと笑うと、そのまま足早に電車へと戻って行く。アナウンスがかかり、ドアが閉まっても、少女の乗り込んだ車両から目が離せなかった。小窓から見えた赤いリボンが、その他大勢の中で一際鮮やかに見えたからだ
 
8: (茸) 2022/05/16(月) 22:07:07.17 ID:EFoLSInc
小柄ではあったけれど、恐らくは高校生らしい制服を着ていた少女。去り際、翻った髪から漂った匂いはとても甘くて、久しぶりに気持ちの良い高鳴りを感じた。

手に持っていた時間は僅かだけれど、確かに触れていたそのハンカチ。今度は落とすまいと胸の内ポケットに押し込んで、あの制服はどこの高校だろう……なんて、考えても無駄なことを考えながら電車を待つ。

控えめに言っても、可愛らしい容姿だったと思う。それでいてハンカチなんかを拾ってくれて、声をかけてくれる優しい子。思えば声も可愛らしかった……と、慌てて首を振る。

成人して、会社勤めのくたびれた男が、親切にも声をかけてくれた女子高生のことを考えているなんて、おかしいと思ったからだ。
 
10: (茸) 2022/05/16(月) 22:17:50.10 ID:EFoLSInc
いつもは会社に着くのが一番早いため、コーヒーメーカーの準備をしたりといった作業を押し付けられる。

自分が使うかどうかは関係ない。やって当然で感謝はなく、やらない叱責だけがあるそんな雑務。

少し遅れた今日は他の人がやっていたからか、遅刻したわけでもないのに良い身分だと陰口を叩かれながら仕事が始まり、昼までにやってくれと11時過ぎに仕事を任されて、15時過ぎに昼食。

定時の19時が近づくと、出来れば今日中に。と、頼むの一言もなしに仕事が割り振られる。出来ればで良いのならなんて帰り支度をすれば、終わったのか? と暗に睨まれるから、今日中に終わらせようとどうせ削られる残業時間を気にも止めずに、22時過ぎに退社する。
 
12: (茸) 2022/05/16(月) 22:25:55.48 ID:EFoLSInc
眠ってしまいそうな電車の揺れを感じながら、少女が拾ってくれたハンカチを握りしめる。今朝のたった二言三言は、事務的な営業文句や仕事を投げられる以外では、久しくなかった自分に向けたものだった。

それは会話とは呼べない代物で、けれど、嬉しかった。ただ偶然にハンカチを落としただけだったのに、気づかなければそのままで、別にどうでも良かったのに。

あの声を聞きたいと思ってしまう。もう一度……自分のための声を聞きたいと思ってしまう。もう一度、ハンカチを落とせば拾ってくれるだろうか。声をかけてくれるだろうか。今度は……もう少し親しみを持った会話ができるだろうか。

そうやって、あり得ないことばかりを考えてしまう。
 
15: (茸) 2022/05/16(月) 22:38:21.45 ID:EFoLSInc
そうして、少女に会うための日々が始まった。アラームが鳴るよりも少し早く目を覚まし、シャワーを浴びて、菓子パンを齧り、野菜ジュースで飲み下す。

歯を磨き、申し訳程度にアイロンをかけたスーツとワイシャツを着込んで、必ずハンカチを持っていく。

少女に会ったとき、スーツがヨレているのが嫌だった。疲れた顔をしているのが嫌だった。そう思うと、不思議とその生活が出きるようになっていた――けれど、話しかけることはできなかった。

成人男性と、女子高校生は逆はあっても男性から声をかけるなんてあり得ないからだ。ましてや仕事ではなく、知人でさえもなければなおのこと。

出来るのは、ただただ同じ時間、同じ車両に乗る少女を見ていることくらいだった。
 
18: (茸) 2022/05/16(月) 22:55:29.11 ID:EFoLSInc
あの子は自分が乗る駅よりも前の駅から乗っていて、決まった時間の決まった車両に乗ってくる。

日常的に繰り返す行動はある種の決まりごとが生まれ、固定化されて、例外が介入しない限り不変的なものとなる。

その結果、少女がいつも変わらない時間、変わらない車両に乗ると分かってからは自分も必ずその時間、その車両に居合わせるようにした。

声はかけられないし、触れられない。けれど、その姿を見ているだけであの時かけてくれた声が頭の中で繰り返される。自分にだけ向けた言葉、自分だけを見てくれていた瞳。

手に入らないと分かっていても、求めて止まない気持ちがふつふつと沸き上がってきて、誤魔化すようにスマホに夢中なふりをした。

会社に行くため、彼女を残して電車から降りる。ふとスマホの画面を見ると、彼女の姿がそこにはあった。会社で使うからと入れさせられたグループチャット用アプリ。その消音機能のあるカメラが、知らない間にその役目を果たしていたのだ。
 
20: (茸) 2022/05/16(月) 23:03:48.63 ID:EFoLSInc
消すべきだとすぐに思った。これは盗撮だ。別の目的のために、ついでに同じ場所に居合わせるのとは訳が違うと。理性では良く分かっていた。

けれど、消せなかった。悪趣味なことに使う訳じゃない。SNSにあげられている写真や動画を保存するのと変わりない……悪用しなければ良い。

そんな考えを持ってしまった。

保存して、壁紙にもロック画面にもせずにただギャラリーにしまいこむ。持っているだけ、偶然手に入れた写真を、ただ持っているだけ。

何気なくスクショした画像で溢れかえるフォルダの中に、一枚だけ制服を着た少女の写真がある。見ていると元気が出る、頑張ろうと思える写真。欲しい気持ちを我慢するためにも、それは消してはいけないんだと、思った。
 
24: (茸) 2022/05/16(月) 23:27:34.72 ID:EFoLSInc
朝、その姿を見ていることしか出来なかった日々から、スマホを見れば見られる日々に変わった。その姿は変わらないし、動きもしない。

声も音も匂いもないけれど、あのたった一度感じた声と匂いを頼りにその動きを想像して、声をかけてくれて笑ってくれる。そんな姿を常に想った。

それで満足出来るだろうと思った。けれど、出来るわけがなかった。一つ手に入ればもう一つ、もう一つと、欲求は高まるばかりで、余計に辛くなっていくだけだった。

だから――魔が差した。

彼女の写真を加工し、背景と顔を完全に分からなくして、匿名掲示板に妹だと偽って写真を載せる。顔は? というものや、嘘乙といった疑いに溢れる中で、待ち望んでいた言葉が出てきた。

【虹ヶ咲の生徒?】

自分では学校を調べられない。けれど、誰かが知っている。

虹ヶ咲で調べて出てきた虹ヶ咲学園。その制服は間違いなく彼女と同じもので、思わず笑ってしまう。

ここなら絶対に、彼女の制服から学校名を引き出してくれるという目論見が――あまりにも上手くいってしまったからだ。
 
33: (茸) 2022/05/17(火) 07:18:43.38 ID:TVYlOQ2f
ただの女子高生から、虹ヶ咲学園の女子高生になると、気分が高揚した。本来ならなにも知り得なかった彼女の情報が手に入ったからだ。

幸運なことに、虹ヶ咲学園は学年ごとにタイの色が違っているらしく黄色……クリーム色と言うべきだろうか。彼女のその色合いは、今年で言えば1年生だということもわかった。

高校1年生と分かれば、おおよその年齢も推測できる。基本的には15~16歳で、留年を加味しても17歳。でも、あの子の雰囲気からして留年をするようには思えないから、15~16歳だろう。

満16歳の虹ヶ咲の女の子とまで、一気に進展すると、なんだか元からある程度知り合いだったかのように思えそうになる。

普通に会話したり、遊んだりするような仲ではないけれど、近所に住んでいて、ただ挨拶をする程度の関係性。

そう思うと、もう少し頑張れば名前を知ることも出来るんじゃないかと……考えてしまう。
 
35: (茸) 2022/05/17(火) 07:30:25.00 ID:TVYlOQ2f
次第に、仕事中にも彼女のことを考えることが多くなった。他人に向けたものではあったけれど、愛らしい笑みを見せてくれた女の子。胸に響くような声で話しかけてくれた女の子。

職場で飛んでくる理不尽な怒号や叱責には含まれていない温もりが感じられるほんの一時の思い出は、生きていこうと思わせてくれるから。

けれど、思い出は擦れていく。慣れていく。たった数分のリピートは、不満を募らせて、欲求を高める。彼女の声をまた聞きたい。自分に向けた優しい声を……もっと。と

声をかけて、名前を聞くことは出来るだろうか。いいや、無理だろう。いや、もしかしたら……なんて、考えて、考えて、煮詰める。

話題だ。彼女が引かずに答えてくれそうな話題を探すべきだ。そう思った。
 
36: (茸) 2022/05/17(火) 07:44:18.25 ID:TVYlOQ2f
自分が彼女について知っていることはほとんどない。乗る電車の時間、乗る車両、大体の居る位置、15~16歳で、虹ヶ咲学園の1年生ということくらいだ。

そこから話題を作るとすると、まず電車についてはNGだと思う。そんなことを言えば、彼女は間違いなく電車の乗車位置を変えてしまうだろう。時間さえ変えてしまうかもしれない。それを探すのは骨が折れる。

そして年齢もNGのはずだ。ただハンカチを拾って上げただけの相手に年齢を言い当てられるなんて恐怖以外の何物でもないし、彼女を怖がらせたり傷つけたいわけじゃない。ただ、もう少し仲良くなりたい……いや、そこまでは求めない。

ただもう一度、声を聞きたいだけだから。

とすれば、虹ヶ咲学園に関する話題になる。ネットで虹ヶ咲学園と検索するとその学校についての情報が色々と手に入るが、とりわけ目を引いたのは、SIF――スクールアイドルフェスティバルというものだった。

虹ヶ咲学園のスクールアイドル同好会が主催で開かれたそのイベントは、いくつかの高校が協力し、スクールアイドルと呼ばれる子達がライブを披露するという賑やかなものだった。

これなら彼女も知っているんじゃないか。と、動画サイトに上がっているものを見ようとしたところで、目を疑った。

そこには、彼女に似た女の子がスクールアイドルとして映っていたからだ。
 
37: (茸) 2022/05/17(火) 07:55:19.43 ID:TVYlOQ2f
アイドルらしい衣装を身に付け、歌を歌い、踊る彼女。イヤホンから聞こえてくる彼女の声はハンカチを拾ってくれた時よりも凛としていて、可愛いよりも格好良く感じられる。

自然と……涙が溢れた。何で知らなかったんだろう。何で見向きもしなかったんだろう、こんな簡単に声が聞けるのに、こんな簡単に姿を見られるのに。と、後悔をして。そして、はからずも彼女の名前さえも知ることが出来た。

【虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会所属、桜坂しずく】

それが彼女の素性だった。もしかしたら芸名として別名を使っているかもしれないけれど、それは別に良かった。自分が知ることの出来る情報で、彼女を呼ぶことの出来る要素であれば、本名ではなくても良かった。

スクールアイドルの桜坂しずくちゃんだよね。

そう声をかければ、ライブを見た一人のファンとして見てくれるかもしれない。あの時のように優しい声で可愛らしい笑みで、会話に応じてくれるかもしれない。
 
39: (茸) 2022/05/17(火) 08:29:22.87 ID:TVYlOQ2f
いや、急に声をかけても警戒されるだけだ。それも、電車の中でなんて一歩間違えれば痴漢にも間違われかねない。彼女に話しかけてもある程度は不審じゃない場所と時間を考えないといけない。

家を出て駅に着き、電車に乗って学校の最寄駅で降り、そこから学校へ。基本的にはこんな行動パターンだと思う。虹ヶ咲学園だとすると、どこかで乗り換えが必要だろうけれど。

この中でしずくちゃんに会えるのは、電車に乗ってから最寄駅で降りるまでの電車内という僅かな時間だけ。しかし、この時間に声をかけるのはリスクがあるから変えなければいけない。となると……しずくちゃんが電車に乗るまでの待ち合い時間を狙いたい。

偶然出会い、見覚えがある。スクールアイドルの……と、トントン拍子に杜撰なシナリオを考える。それを突き詰めるのはしずくちゃんの最寄駅が分かってからで良い。
 
41: (茸) 2022/05/17(火) 08:59:31.77 ID:TVYlOQ2f
そこからの行動は早かった。まずは自分としずくちゃんが乗る時間の電車がどこの駅でどの時間から動いているのかを確認する。

始発列車なのか、そうではないのか。それを調べて、自分の住む場所の最寄駅から手前の人が多そうな主要な駅を調べる。

虹ヶ咲学園に向かう方向としては、一番手前が久里浜になるが、普段の電車は逗子発の電車のため、それ以降の駅はしずくちゃんの最寄りから除外できる。

時間帯から逆算すると自宅から逗子発のその電車に乗るのは朝一番の電車に乗っても最悪の場合間に合わず、そもそも朝が早すぎるとなれば、やることは一つ。

前日に自宅に戻らず逗子駅に行き、駅周辺のホテルに泊まる。これ以外にはないだろう。そうしていつもの電車、いつもの車両に乗って、しずくちゃんが乗って来るのを待つ。

多少お金はかかるけれど、日々を仕事に費やし、ただ蓄積されていくだけの命の代価の宛先としては十分な理由だった。
 
51: (茸) 2022/05/17(火) 18:37:49.85 ID:Ed744dTv
しずくちゃんに出会ってから、ただ機械のように動くだけだった日々ががらりと変わった。朝起きる憂鬱も、仕事に向かう息苦しさも、また翌日を迎える苦痛も、全てが嘘のように消え、しずくちゃんのことを考えるような生活に変わったからだ。

毎日変わる大きなリボン。一際目立つあの日と同じ赤色になるたびに、胸が熱くなっていることを伝えてみたい。でも、伝えない。それは秘めているだけで良いと、いつもと違う、ホテルの布団にくるまりながら切り替える。

明日でしずくちゃんの最寄駅は分かるだろうか。分かったらすぐに話しかけに行くべきだろうか。いや、いっそのこと――

微睡みに沈む間も、頭の中はしずくちゃんで一杯で。休む暇のない頭は、けれど、とても幸せだった。
 
53: (茸) 2022/05/17(火) 19:03:41.25 ID:Ed744dTv
いつもよりも少しだけ早く、見慣れないホテルの一室で目を覚ます。起きたばかりでも頭ははっきりとしていて、手短に身支度を終えて足早に駅へと向かう。

ここに来た昨夜、道は確認してあったけれど、不足の事態が起きないとも限らないためだ。

目的の電車からニ本前の電車が到着する頃にいつもの車両、いつもの乗車位置に合わせた場所で待機する。場合によってはしずくちゃんが逗子に住んでいることもあるかもしれないと、目だけは光らせておく。

電車が一つ去り、二つ去り、目的の電車が来て乗り込む。けれども終始しずくちゃんの姿はなく、逗子駅を出る。

とはいえ、しずくちゃんの予定次第では以降の駅でもしずくちゃんに出会えない可能性はあるし、まだ候補から外れたわけではない。最寄駅を知ることが出来るまで、繰り返そうと考えた矢先――

次の停車駅である鎌倉駅で、赤色を見つけた。

――あの日にも見た、赤色を。
 
54: (茸) 2022/05/17(火) 19:28:07.43 ID:Ed744dTv
見間違えるはずもない赤色が、自分が乗っている電車、その車両に乗り込んでくる。人混みに紛れていても決して見逃すことのない赤色。その姿を目で追いながら、破裂しかねない心臓が埋まっている胸を手で抑える。

高揚が収まらない。絶対に知るつもりだった情報だから、知り得て当然ではあるものの、知ることが出来た昂りは果てしなかった。

しずくちゃんのことをまた一つ知ることが出来たこと。赤の他人から最寄駅を知る人へと少しずつ、けれど確実に距離感が縮まっていること。その気の高まりのせいか、声をかけたい欲求に駆られる。

人混みをかき分けて、しずくちゃんに並んで、ハンカチを拾ってくれたこと、学校のこと、スクールアイドルのこと……話せる限りのことを話したい。

もしも引かれたって大丈夫だろう。最寄駅が分かったならいつでも会える。いつだって……

いや、違う。と首を振る。話したいんじゃない……優しい声を聞きたい。笑顔が見たい。だからこうして慎重に距離を縮めているのに、一時的な熱に浮かされては全部台無しになってしまう。

しずくちゃんの怯える顔も、嫌悪する顔も、見たくはなかった。
 
58: (茸) 2022/05/17(火) 20:25:00.35 ID:Ed744dTv
お台場にある虹ヶ咲学園の1年生で、15~16歳。スクールアイドル同好会に所属していて、動画サイトにもその姿を上げている、最寄駅は鎌倉駅で、毎朝同じ時間の電車の同じ車両に乗り込んでくる、桜坂しずくちゃん。

ただハンカチを拾ってくれた女の子から、一気に情報が集まってきて、気づけば友達しか知らなそうなことまで分かってしまった。忘れないようにスマホのメモ帳にその情報を書き留めていると、後ろから小突かれる。

昼休みのはずなのに追加の仕事の依頼だった。他に手が空いている人がいるだろうし、昼休み明けでもいいだろうに、わざと昼休みに仕事を振ってきて、自分はその分休みを延長し、こっちが休みを延長したら叱責してくる。いつもの流れ。

しずくちゃんのことを知ることが出来た高揚感も次第に冷めて、現実が身に染みる。毎朝、しずくちゃんに出会える幸せがあったとしても、それ以外の時間が苦しかった。

早く明日になって欲しい。そんなことばかりを考えさせられる。
 
59: (茸) 2022/05/17(火) 20:51:54.00 ID:Ed744dTv
23時を回ろうかという時間、自宅の最寄駅を通り過ぎた先にある鎌倉駅で降りる。さすがにこの時間にしずくちゃんに会えるとは思っていないし、むしろ会えてしまったらそんな危険を許している親に苛立ちを禁じ得ない。

部活動の一環とはいえ、アイドル活動をしている娘を深夜に出歩かせるなんてとんでもないことである。自分が鎌倉に来たのは、癒されたかったからだ。

時間も時間で暗く、静けさが勝る場所だが、このどこかにしずくちゃんがいるのだと思うと、空気がより一層美味しく感じられる。そうして近場のホテルに向かっていると、たくさんの物件情報が貼り出されている不動産屋を見つけて足を止めた。

いっそ、鎌倉に引っ越してしまうのはどうだろうか。今のアパートの家賃では、お近い条件の部屋を借りれそうにはないけれど、もう少し上乗せすればどうにかなる。

借家手当のない会社だから、通勤費さえ一部区間自腹にしてしまえば会社への報告だってしなくて良い……というよりしたくない。

したところで引っ越しで休むな、交通費が上がるのは嫌がらせか……などと、ぶつくさ不満をぶつけられるだけだし。と、広告に目を通しながら思う。

どうせなら――しずくちゃんの家に近いところに住みたい。と。
 
62: (茸) 2022/05/17(火) 22:28:43.38 ID:FRnvXlBj
次の週末、鎌倉に物件探し――には、来ていなかった。その代わりに、お台場のとある会場に来ている。というのも、今日はここでしずくちゃんが所属している虹ヶ咲学園のスクールアイドル同好会のライブが行われるからだ。

基本的にはソロアイドルとして活動しているしずくちゃん達だけれど、時折、ユニットを組んでライブを行うことがある。今日はそのユニットライブの日で、しずくちゃんが所属しているのは、【A・ZU・NA】と呼ばれるグループ。

メンバーはAの上原歩夢、ZUのしずくちゃん、NAの優木せつ菜の3人グループ。しずくちゃんを除いた二人は一つ上の二年生らしく、委縮してしまっているんじゃないか……なんて心配は杞憂で、ライブに出てきた三人はとても仲良さげな様子を感じさせた。

「みんな~今日も来てくれてありがと~」

ピンクを基調とした衣装の子が明るい声で会場に来ていたファンのみんなへと声をかけると、歓声が上がって、それに応えるようにしずくちゃん達が手を振る。

しずくちゃんは会場を見渡すと、

「リピートしてくださった方も、初めて来てくださった方も、今日はぜひ、私達のステージを楽しんでいってくださいね」

アイドルからファンに向けている。優しい声でみんなに向けてそう言った。みんなを見て、みんなに向けている。そう分かっているのに、どうしても、しずくちゃんと目が合ったような気分になる。あの日、見つめ合ったあの瞬間が、脳裏に刻み込まれているからだろうか。

「それでは――A・ZU・NA LAND……開園ですっ!」

水色を主とした色合いの衣装の子が元気よく高らかに宣言すると、待っていましたと言わんばかりに、ライブが始まった。
 
64: (茸) 2022/05/17(火) 22:49:13.20 ID:FRnvXlBj
しずくちゃんが所属するA・ZU・NAのライブで歌われた曲は明るくはっきりとしたものもあれば、少し暗い、遊園地で言えばホラー系のアトラクションを彷彿とさせるような曲調のものもあったり、合いの手を意識しているのか、所々でそれを求めるような仕草を取り入れているような場面があったりもして、年甲斐もなく、楽しむことが出来てしまった。
しずくちゃん達が去っていき、会場の熱もだんだんと収まりつつあると……思わず、周りを見てしまう。周りには自分よりもうんと若い年代の人や、女の子達が多い。

友達を連れていたり、恋人を連れているような人もいる中で、いつもの使い古したスーツではないものの、場違いにも思えるような格好で一人立っていたからか、疎外感を感じてしまって足早にその場から離れる。
しずくちゃんのライブは可愛らしかった。楽しかった。夢のようだった。けれど、その場に自分はいてはいけないのではないかと、思わされてしまった。

楽しかったからこそ、明るく、賑やかで、それこそテーマパークと言えるような雰囲気に、自分はあまりにも不釣り合いだと自覚させられる。
足早に駅へと向かう途中、店先に見えるポップに気づいて足を止める。普段自分が行くことのないようなそのお店には、スクールアイドル関連の品物が置いてあるとのことで、無視していくことは出来なかった。

虹ヶ咲学園があるお台場、そこにあるお店で、スクールアイドル関連の商品。となれば、もしかしたらしずくちゃんの何かもあるんじゃないかと、そう思ったからだ。

お店に入って、中の案内に従って進みスクールアイドル関連の商品が置いてある場所にたどり着く。藤黄学園や東雲学院といった学校のスクールアイドルに関するものが置かれている一角に、それは置いてあった。
 
67: (茸) 2022/05/17(火) 23:37:54.45 ID:FRnvXlBj
虹ヶ咲学園のスクールアイドルを映したアクリルキーホルダーや缶バッジ、ポストカードと言ったものがある中に、しずくちゃんの分が間違いなく置かれていた。

夢ではないかと悩み、自分が買ってもいいものなのかと考え、けれど、結局はしずくちゃんに関するものは全て手に取った。缶バッジも、ポストカードも、アクリルキーホルダーも、全部。

A・ZU・NAとして展開したのは最近なのか、まだその関連は置かれていないようで、ひとまずはそのくらいで収まり、一万円もかからずに済んでしまった。

しずくちゃんのグッズが、たったそれだけの安値で買えることに驚きつつも、つい気になって――CDはないか。と、レジを担当してくれた店員に尋ねる。

店員によれば、そういったものは虹ヶ咲学園に限らずどこも販売していないそうで、ネット上で公開されているものが全てなのではないかという話だった。

なぜ、スクールアイドルとしてライブを重ね、こんなグッズまで販売しているのに、その曲を聴くことは出来ないのだろうか。可能ならCDを買いたいし、CDジャケットに直筆のサインだって入れて貰いたい。

なんて、自分が子供の頃、実家でサイン入りのCDジャケットを父が自慢げに見せてくれたことを思い出して、考える。

だからか、グッズは販売するけれど、CDは販売しない。今はもうそういう時代なのだろうかと、少し寂しく感じさせられながら、店を出る。

空を見れば夕焼けが広がっていて、こんな空の下をしずくちゃんと歩けたら幸せなんだろうな。と思い、ライブ会場でしずくちゃんを出待ちしていたら出来たのでは……なんて今更ながら後悔したものの、ひとまずは諦めて、帰路につくことにした。
 
73: (茸) 2022/05/18(水) 06:20:57.48 ID:X3QoPycj
しずくちゃんのグッズを鞄に着けていたら、しずくちゃんは気づいてくれるだろうか。気付いたらどんな反応をしてくれるのだろう。

喜んでくれるのか、照れ臭そうに見ないようにするのか、気付いていない振りをするのか……それとも、声をかけてきたりするのか。

そう考えながら、しずくちゃんのアクリルキーホルダーを自宅のパソコン横に立てかける。さすがに、いきなりそんなことはできない。

しずくちゃんのグッズを身に付けること自体はなんの問題もないけれど、大人の男が自分のグッズを持っているなんて、もしかしたらしずくちゃんは怖いかもしれないから。
 
74: (茸) 2022/05/18(水) 06:34:52.72 ID:X3QoPycj
いつもの時間のいつもの車両。そこに乗れば、しずくちゃんが待っている。スクールアイドルなんてもので顔出しをしているのに、周りの人は全然気付いていないのか、それとも自分のようにひっそりと見守っているのか、声をかけられることもないようだった。

あんなに可愛いのに、あんなに良い声をしているのに。鳴かず飛ばずのアイドルのような状態なのはなんだか勿体ない気がしてしまう。かといって、自分にはどうすることも出来ないのが、口惜しい。

しずくちゃんに声をかけたい。動画で見たよ。スクールアイドルのライブ凄かったよ。可愛いかったよ。良い曲だったよ。

――好きだよ

はっとする。そんなこと言えるわけない。いきなり大人の男に好きだなんて言われたってしずくちゃんは怖いだけだろうから……せめて大人じゃなかったら、しずくちゃんに喜んで貰えたんだろうか。と

今日もこっそりと、電車に揺られるしずくちゃんを見守りながら思う。
 
75: (茸) 2022/05/18(水) 07:30:01.14 ID:X3QoPycj
心身を磨り減らす仕事を終えて、帰路に着く23時の電車内。流石に人も少なく、どこにでも座れるけれど、朝、しずくちゃんが居た場所の隣に立つようにして目を閉じる。

目を閉じれば、しずくちゃんの姿が鮮明に思い浮かぶ。今日はこの色のリボンだったとか、
ちょっぴり寝癖が残ってるところがあったとか、スカートのシワだとか、
鞄に付けていたストラップが減ったとか増えたとか。

昨日は良いことがあったのか、それとも、今日が楽しい何かがある日なのか、嬉しさを隠せていない表情
その逆なのか、浮かない表情をしていることだってある。

その全部が、鮮明だった。
 
77: (茸) 2022/05/18(水) 08:18:57.32 ID:X3QoPycj
しずくちゃんの隣に並びたいと、思ってしまう。

浮かない表情の時はどうにかしてあげたいし、嬉しそうな時はそれを共有して欲しい。

ただ電車で隣り合ったというだけでなく、どちらかの目的地に着くまで、他愛のないことでも良いから雑談していたい。

些細なことでも楽しげに笑うしずくちゃんが見ていたい。自分以外の誰かとではなく、自分と一緒に。

そんなことを考えていると、気づけば鎌倉駅にまで来ていて、慌てて降りる。今はまだ鎌倉に引っ越していないために家は数駅前だったけれど、反対のホームにはいかずに駅を出てホテルに向かう。

予定はしていなかったものの、丁度良いと次の行動に移ることにした。
 
80: (茸) 2022/05/18(水) 08:42:16.47 ID:X3QoPycj
翌朝早朝、鎌倉駅の改札を通った中でスマホを弄りながらしずくちゃんが来るのを待つ。

鎌倉駅には西口と東口の二つの入口がある。西の銭と東の鶴で、それぞれ有名どころを指して出たい方角に出ていくのが一般的らしい。

なれない身では、タクシーまたはバスなら東、それ以外は西でも良いのではと思うが。さておき、二通りの入場手段があるためどちらか一方を見ていれば良いわけではないからだ。

しずくちゃんの乗車位置から考えると、中央階段から登ってきている可能性があると考え、西口改札寄りに立って待機する。

西口にはもう一つ、江ノ電と呼ばれる江ノ島電鉄線があり、場合によってはしずくちゃんはそれを経由している可能性も考慮してのことだ。
 
81: (茸) 2022/05/18(水) 08:57:42.42 ID:X3QoPycj
いつもしずくちゃんが乗ってくる時間が近付くに連れて、緊張が走る。最寄駅がここであることは分かっているから何度でも挑戦できるけれど、それはそれとしてドキドキする。

しずくちゃんが来る方角が分かるだけで、よりしずくちゃんに近付くことが出来るからだ。友人以上しか知らなそうな情報、ファンでは知り得ない情報。

それが、今目の前にまで来ているということがたまらなく――心踊らせた。

しきりに見渡し、しずくちゃんを探していると、駅員が訝しんだ表情でこっちを見ているような様子が見えて、一度電話をする振りをする。

まだ来ないのか、ここであってるのか。知り合いに対する悪態のようなものをつきながら、目だけは西口側に向ける。最低でも西口側かどうかだけでも確認して起きたかったからだ。
 
83: (茸) 2022/05/18(水) 10:17:48.98 ID:X3QoPycj
西口ではないのか、東口なのか。時間を確かめるためにスマホへと視線を落とし、もう一度顔をあげたところで――それが見えた。

赤ではなく桜色の大きなリボン、束ねられたダークブラウンの髪と、虹ヶ咲学園の制服。見間違えるはずもないしずくちゃんが、江ノ電乗り換え口から入ってくる。

鎌倉駅周辺ではなく、さらに遠い場所から来ているのかと驚きつつそのあとを追いかける。

ここまでは来られたけれど、江ノ電まで追いかけるのは時間的に厳しいんじゃないかと、少し悩む。お金についてはどうだって良いことだが、時間が足りない。

乗りなれている電車なら調整は簡単だけれど、違う電車と乗り換えが加わると途端に難しくなってくる。会社に間に合わないかもしれない……。

いや……今まで散々、仕事で諦めてきたのに、しずくちゃんまで諦めたらなんのために生きてるのか分からなくなってしまう。

しずくちゃんともっと近づきたい。しずくちゃんのことをもっと知りたい。それを諦めるなんて、出来るわけがない。
 
95: (茸) 2022/05/18(水) 18:02:54.91 ID:X3QoPycj
普段は鎌倉駅からしばらく進んだ先にある駅で乗り込むため、しずくちゃんのことは遠くから眺めているのが精一杯だった。

けれど、今日は違う。一緒に鎌倉駅から電車に乗り込んだため、少し動いた先にしずくちゃんの姿がある。

バランスの良い顔立ち、すらりと下りている髪の一本一本、しなやかな手首と、細い指、整えられた爪、腕よりも魅惑的な膨らみのある足。

全部がはっきりと見ることが出来て――フローラルな香りがする。香水ほど強くはなく、制汗剤ほど刺激もない。優しい香り。

混雑しているせいか、時折、暑そうに手でパタパタとしては、額に浮かぶ汗を拭っている。

胸が熱くなる。目が離せなくなる。有象無象に埋もれる自分と違って、しずくちゃんは混ざっていなかった。

切り取られているかのようにはっきりとしていて……何人たりとも踏み込むことの出来ない先にいるようにも見えた。

けれど、触れたい。側にいたい。その目を向けて欲しい。声を聞かせて欲しい。そんな欲求が募り、余計に諦めきれない気持ちが強くなった。
 
98: (茸) 2022/05/18(水) 18:17:49.93 ID:X3QoPycj
しずくちゃんへの気持ちが強まって、いても立ってもいられず、仕事を早急に終わらせ、定時後の業務を断り、刺さる後ろ指なんて気にすることなく足早に鎌倉駅へと向かう。

鎌倉駅周辺の路線図と時刻表そして、江ノ電についての路線図と時刻表。それぞれを確認するためだ。

しずくちゃんは虹ヶ咲学園に通うために、鎌倉から横須賀線に乗って、新橋辺りで乗り換えているはず。

そしてその鎌倉駅に行くために江ノ電を利用している。江ノ電……江ノ島電鉄線の主要駅は、鎌倉駅、江ノ島駅、藤沢駅だろうか。

重要なのは鎌倉駅ではなく、藤沢駅からでも東海道本線の上野東京ラインを利用することで虹ヶ咲学園に行くことが可能という点だ。
 
100: (茸) 2022/05/18(水) 18:40:05.09 ID:X3QoPycj
多少運賃が上乗せされるものの、誤差の範囲のうえ、誤差で言えば藤沢駅からの方が早い。

ということはである。しずくちゃんの家は藤沢駅に行くより、鎌倉駅に行く方が楽と考えるべきだ。

それが金額的か時間的にかというものもあるが、互いに比例して増えるものと想定し、江ノ島電鉄線の藤沢駅から鎌倉駅までの時間的中心点の鎌倉高校前駅、そこから+1した腰越駅を基点として考えるべきだろう。

そこまでを調べてから、早速江ノ電に乗り換えて腰越駅へと向かう。あと少しでしずくちゃんの住所も知ることが出来る。

住所が分かれば引っ越せる。引っ越せばしずくちゃんと長く一緒にいられる。もしマンションやアパートだったら隣室に入ってご挨拶したり、日常的な生活を知ることも出来て親しくなれる。

起きる時間、寝る時間、食事、トイレ、入浴……そういった普段の生活習慣を知ることが出来たら、それはもう身内のようなものだ。

そう思うと――どうしてか、目頭が熱くなった。
 
102: (茸) 2022/05/18(水) 19:04:11.92 ID:X3QoPycj
腰越駅からは少し距離があるものの、ホテルを見つけて一泊する。これから暫く連泊する可能性もあるけれど、予算に問題はない。

今日しずくちゃんが乗ってきたであろう電車時間から逆算し、明日乗る目的の電車を決めておく。その一本前の時間から腰越駅で待機して……と、やることは最寄駅と変わらない。

明日乗る予定を決めてから、キャリアではないメールサービスの受信箱を開く。この前の週末にしずくちゃんのライブを見てからの習慣だった。
 
107: (茸) 2022/05/18(水) 19:33:05.84 ID:X3QoPycj
スクールアイドルフェスティバル。通称、SIFの主催となっている虹ヶ咲学園は、その参加高や一般のライブ観覧者からの参加申込等を受け付けるための公式サイトを開設している。

しずくちゃんのライブに参加して、専用の店にグッズはあるがCDがないという状況を知ったため、ライブ曲のCDや、ライブのDVD/BDとしての販売予定はないのだろうかという質問を送ったため、その返事を待っているのである。

ネット上に公開されているから。というのも分かるけれど、やっぱり現物として欲しい気持ちがあったからだ。

特に、しずくちゃんの写っているジャケットがあるなら絶対に。

現物は劣化するし、動画サイトのサムネがあるだろう。と言われることもあるだろうが、劣化しない良さもあれば、劣化することで趣深く感じられるという良さだってあると思う。

それが過去に生まれた思い出であるという指標は、劣化とは言いたくない。
 
109: (茸) 2022/05/18(水) 20:37:40.63 ID:X3QoPycj
いくつかの企業メールの中に、SIFサイトからのメールが紛れ込んでいるのを見つけて、開く。

【~
CDまたはDVD、BDでのライブ映像及び楽曲の販売につきましては、現在のところ企画しておりません。
~】

その言葉と共に、リンクページから各学校ページまたは動画サイトにアクセスしたり、ライブに参加していただければ。という文が添えられている。

企画していないなら、企画してくれたりはしないのだろうか。所謂、自主制作的なものを依頼することは出来ないものだろうか。

お断りの連絡が来たにも関わらず、諦めがつかなくて、考えて、妙案を導き出す。

高校生はアルバイトができるから、しずくちゃんに個人的なライブを依頼して――

いいや、流石にそれは難しいだろう。と、すぐに却下する。いくらなんでも怪しすぎるし、受けて貰えるはずがない。

だからやっぱり……しずくちゃんと仲良くなりたい。

もっとしずくちゃんを知って、もっと近付いて……しずくちゃんが側にいさせてくれるような関係になりたい。
 
112: (茸) 2022/05/18(水) 21:25:24.08 ID:X3QoPycj
そうしていよいよ、しずくちゃんの本当の最寄駅を知るときが来た。

江ノ島電鉄線は、都内などで見かけるような8両や10両~といった長い編成ではなく、最大でも4両編成ととても短い。

基点にした腰越駅にいたっては4両編成の場合、乗降出来ない車両があるといった徹底っぷりである。ここでしずくちゃんを待つのはあまりにも簡単だった。

目的の1本前の電車がくる前に腰越駅に足を運び、駅前で時間を潰す。これだけ。

鎌倉駅と違って出入口がひとつの閑散とした駅のため、しずくちゃんの歩いて来る方向すら知ることが出来る恵まれた場所。

とはいえそう簡単な話ではなく、余裕を持った1本前の電車が出発し、目的の電車が来てもしずくちゃんは姿を見せてくれなかった。

仕方なく、4両編成の真ん中、全車両が見通しやすい場所に陣取って次の駅を待つ。
 
113: (茸) 2022/05/18(水) 21:47:25.40 ID:X3QoPycj
腰越駅を出ると、次は鎌倉高校前駅い停車する。

しずくちゃんがどうしてここではなく、わざわざ遠い虹ヶ咲学園を選んだのか知らないけれど、その理由がなければ通っていたかもしれない高校の近くだ。

もしもそうだったらしずくちゃんに逢うことも出来なかったと思うと、その理由に感謝に堪えない。

涙ぐむのを我慢しつつ、しずくちゃんが乗ってくるのではないかと念入りに確認する。学生達が降りたり乗ったりと入り乱れている中に、しずくちゃんの姿はなかった。

横須賀線でもそうだけれど、今日会えないからといってその駅が候補から外れるわけではない。

しずくちゃんの体調などで前後することもあるだろうから、今日はいないだけの可能性も残っている。

でも、会えないということは鎌倉駅にもいない可能性があるためか……少しだけ動悸が激しくなる。
 
116: (茸) 2022/05/18(水) 22:20:04.86 ID:X3QoPycj
次の駅は七里ヶ浜駅というところで、鎌倉高校前と比べると内陸部にある駅のためか、腰越駅に比べると利用客数も多く見える。

とはいえ、普段利用する横須賀線に比べればまるで大したことはない――と、考えていたところで、ふっと……呼吸が止まった。

いや、時間が、音が、何もかもが止まったかのような感覚に襲われる。

まばらに動く人影は多く見えるのに、まるで聴覚を失ったかのように静けさに満ちて、そして、揺れる大きなリボンを目で追いはじめてようやく感覚が戻ってきた。

それは間違いなくしずくちゃんだった。虹ヶ咲学園の制服、ダークブラウンの髪――そして、私を見てと言わんばかりの比較的大きなリボン。

見間違えるはずもない姿が、一つ奥の車両に見える。

しずくちゃんのやや庶民とは一線を引いた雰囲気からして不釣り合いな駅なのに、しずくちゃんはそれを最寄駅として使っているのだ。

実は庶民的な暮らしなのかもしれない。思っていたよりも格安のアパートなどに住んでいるのかもしれない。

そんな希望に浮かされながらも、しずくちゃんの乗り込んだ位置を記録し、駅を記録し、絶対に忘れることがないようにと肝に銘じる。
 
118: (茸) 2022/05/18(水) 22:34:36.53 ID:X3QoPycj
隣の車両にしずくちゃんがいる。友達とではなく、一人で。

他にも学生がいて、その子達の多くは友達か部活仲間のような相手がいるのに、しずくちゃんは一人ぼっちだった。

声をかけたい。友達に……いや、まずはファンとアイドルの関係でもいい。

少なくとも、赤の他人という関係性を脱して、しずくちゃんに覚えて貰えるようになりたい。

でも、今はまだ出来ない。準備が整うまでは、しずくちゃんの隣には並ぶべきではないと考え直して……その気持ちを匿名なのを利用してISFのお便りページで書き殴る。

しずくちゃんのライブをもっと見たい、もっと聞きたい、もっと色んな衣装が見てみたい。

たくさんのスクールアイドルの中で一番好きで、大のファンなんだとありったけの気持ちを送りつける――のはどうにか踏みとどまって、息を吐いて気持ちを落ち着けた。
 
119: (茸) 2022/05/18(水) 23:01:04.45 ID:X3QoPycj
江ノ電鎌倉駅に到着し、降りたしずくちゃんの少し後ろを追いかける。

歩くたびにひらひらと舞うスカート、ふりふりと揺れる髪、目を釘付けにするチャームポイントのリボン。

今までは全然見られなかったしずくちゃんの姿が良く見えて、風下のような位置関係だからかいつもの優しい匂いも漂って来ていて、誘われてしまう。

ついつい足早になって、ぴたりと後ろにくっつきそうになるのをどうにか押さえて、数人間に挟んで歩く。

JR鎌倉駅のホームに着き、しずくちゃんの右後ろ3人分の間隔を開けて並ぶ。本当ならしずくちゃんの隣に並びたいし、後ろに並びたい。でもまだ……もう少し。

仕事の憂鬱なんてすっかり吹き飛んで、しずくちゃん、しずくちゃん、しずくちゃん。頭の中はそればっかりで、けれど、幸せだった。
 
120: (茸) 2022/05/18(水) 23:12:17.26 ID:X3QoPycj
いつもよりもずっと近くでしずくちゃんのことを見守る。

虹ヶ咲学園の制服はもうすっかり見慣れたけれど、しずくちゃんだからか飽きるというものがまるで感じられない。

匂いを感じられるほど近くに来ているから、その表情はより鮮明に見てとれてしまう。

そのせいか、しずくちゃんがスクールアイドルをやっていることや、七里ヶ浜駅で江ノ電に乗って来ていること。

何もかもを知らなそうな人達に奥へと押しやられていく姿が酷く痛ましく、苦しげに見えて歯噛みする。

自分だったら絶対にしずくちゃんだった守るのに。潰さないよう、押し込めないよう、苦しい思いをしないようにって、気遣うのに。

誰もしずくちゃんを気遣ってあげる様子がないのが…酷く腹立たしかった。
 
121: (茸) 2022/05/18(水) 23:36:33.71 ID:X3QoPycj
その苛立ちが残ったままの仕事は辛かった。

残業もせずに帰ったことの当て付けのように、午前中にやれ。と、特別、期限もなく緊急性もない業務をいくつも投げられ、終わらせた側から、1分も立たずにやり直しと返却。

ものの数分で見られる内容でもなければ、どこが訂正すべきなのかさえ不明瞭。聞けば頭を使えと叱責され、時間の無駄だからと手を加えることなく再提出してみれば、承認。

仕事をせずに、している振りをしているだけの上司から回される業務を片付け続け、気付けば22時過ぎ。

今日中にやれと言った人はすでに退社済みなのはどういうことなのか。なんて無駄なことは考えずに、最終退勤チェックをして、22時50分頃に電車に乗る。

七里ヶ浜駅で降り、近くのホテルに向かう。

本来の時間は大幅にずれているものの、事前に連絡をしておいたお陰ですんなりとチェックインを済ませて部屋にいき、そのまま休む。
 
122: (茸) 2022/05/18(水) 23:52:13.84 ID:X3QoPycj
翌朝、やっぱり早い時間に飛び起きて素早く駅に向かう。しずくちゃんの家が近いこともあって、連泊のため、チェックアウトはせずに急ぐ。

七里ヶ浜駅は不運なことに出入口が2箇所有るためホームで待って……しずくちゃんがどっちから来るかから確認する必要がある。

ここまで来たならもういっそ、待つのではなく追うのも手ではないかと少し悩む。仕事を休むと次が怖いが、しずくちゃんを知るためなら多少は仕方がない。

だけど、そんなストーカー行為なんて許されるものなのだろうか。付けられていると感じたしずくちゃんが怯えないだろうか、不安にならないだろうか。

気付かれた場合、全部ダメになってしまうのではないか。そう思うと踏みきれず……しずくちゃんの来る方向を確認することに集中した。
 
134: (茸) 2022/05/19(木) 07:08:02.78 ID:q1FEpGjt
昨日、奥へと押し込まれていったしずくちゃんは、今日は乗ってからすぐに接合部の方に移動していく。

そのあとを追いかけて、しずくちゃんの隣に並ぶ。会話は普通ではないけれど、隣に並ぶ、後ろに並ぶ。そんなのは誰だって出来ることだと今さら思う。

意識しすぎているから、してはいけない、出来ないだなんて思い込んでいるだけで。

しずくちゃんの反対側からくる圧力には下半身に力を混めてどうにか対抗し、しずくちゃんに負担がかからないように気を配る。

しずくちゃんが快適に過ごすためなら、一人二人くらい乗れなくなったって別に構わないだろうと思ったからだ。

そもそも無理矢理乗るから遅延するんだろう。次に乗ってくれ。と、しずくちゃんのための空間は決して譲らない。

しずくちゃんが隣にいるから、匂いが一際強く感じられる。ほんの少し肩が触れあうだけでどきどきとさせられて、熱がこもっていく。

しずくちゃんはきっと知らないだろう。仕草一つ、声一つ。たったそれだけに癒されている人がいることも、その香りに胸を躍らされている人がいることも。

しずくちゃんはきっと、もう覚えていないだろう。ハンカチを拾ってあげた相手がこんなにも近くにいることを。

まだ会話は出来ないけれど、隣に並ぶ。それだけでじんわりと達成感に似たものが広がっていくのを感じる。
 
135: (茸) 2022/05/19(木) 07:24:01.92 ID:q1FEpGjt
しずくちゃんは、電車の中ではあまりスマホを弄ったりはせずに音楽か何かを聴いている。

離れていて聴こえないのは当然だけれど、隣にいるのにまったく音漏れしていないせいで、しずくちゃんが聴いているものがなんなのかが分からない。

疲れているときに下手に音漏れしている人がいるのは不快だし、しずくちゃんが音漏れしないように聴いているのはしっかりしていて良いけれど、でも、残念だった。

しずくちゃんの良く聴いている曲が知りたい。

次のライブのために自分の曲を聴いているのかな。同好会の他の子の曲を聴いているのかな。それとも……次の新曲を聴いているのかな。

それとも……。と、気になってしまう。
 
136: (茸) 2022/05/19(木) 07:30:31.78 ID:q1FEpGjt
スマホだって、しずくちゃんになら弄っていて欲しい。

いや、弄らずに姿勢良くしているのはしずくちゃんらしくて良いし、そんなしずくちゃんがやっぱり、好きだ。

だけど、しずくちゃんのことを知る機会が損なわれているのは残念で仕方がない。

しずくちゃんの身長と自分の身長その位置関係的に隣や後ろからならしずくちゃんのスマホ画面が見られる。

起動時のパスワードを知ることが出来れば、もしかしたら誕生日を知ることが出来るかもしれない。それでお祝いしたい。してあげたい。

交友関係とかだって見られるかもしれないし……もっと深くしずくちゃんのことを理解できるからだ。
 
137: (茸) 2022/05/19(木) 08:22:42.74 ID:q1FEpGjt
しずくちゃんのことが知りたい。もっと多く、もっと深く。叶うならしずくちゃんの全部が知りたい。

しずくちゃんは、そんな想いを抱いている人がいると気付いているのだろうか。

ただ一度、親切心で近付いた相手を、こんなにも慕わせてしまうほどの魅力が自分にあるんだって、しずくちゃんは理解しているんだろうか。

電車の揺れで髪が靡く、香りが舞う。横目に見れば、揺れた瞬間にしずくちゃんの体が小さく跳ねたりしてて……愛らしさが増す。

大人でも揺られて慌てることはあるけれど、しずくちゃんはより小柄だから影響が大きいのかもしれない。

そして――がたんっと強い揺れが襲う。

「きゃぁっ」

つり革を掴んでいても足を取られてしまう揺れに可愛らしい悲鳴が上がったかと思えば、軽い力で足が踏まれた。

「すみませんっ、ごめんなさい……」

しずくちゃんの声がした。どこかに向けてではなく、間違いなく自分に向けた声だった。すぐに、大丈夫。と答えてあげると、もう一度「すみません」としずくちゃんは言って会釈し、ちょっとだけ距離を取る。

その気はないと思っていたのに、しずくちゃんに踏まれたのが胸に響いてしまう。しずくちゃんになら全然構わない。むしろもっと踏んでくれてもいいと。

でも何より、またしずくちゃんの声を聞くことが出来たことが嬉しくて、高揚感に包まれた。
 
138: (茸) 2022/05/19(木) 08:48:51.73 ID:q1FEpGjt
手早く仕事を済ませて、定時後の今日中業務を任される前に退社する。しずくちゃんの足踏みは存外に健康に良かったようで、仕事があまりにも捗ったためだ。

迷うことなく七里ヶ浜駅に向かい、ホテルで着替え、またすぐに外出する。七里ヶ浜駅に戻り、しずくちゃんが歩いて来た道を辿り、街頭に照らされている夜道を歩く。

どこに分かれ道があって、行き止まりはあるのか。行き止りがあれば、その周辺の表札を確認して候補から消す。

ここ数日見てきたしずくちゃんの体つきと歩幅、そして平均的な歩く速さを考慮しつつ、1時間ほど散策して、ある程度の道を潰した。

そのうえで、しずくちゃんが来るかどうかの待機場所を決めておく。
 
142: (茸) 2022/05/19(木) 09:13:10.95 ID:q1FEpGjt
翌朝、余裕を持ってホテルを出発し、予め決めておいたチェックポイントで待機する。

何もない場所で突っ立っているのは不審者極まりないため、自販機などがおいてある場所を待機位置とし、人が来たらちらっと確認する。

この道ではない可能性も有るため、いつもの電車に乗り遅れない時間までを限度としてしずくちゃんを待つ。

早く来てくれないかなと期待して待っていたものの、ギリギリになってもしずくちゃんが姿を見せることはなく、走って駅へと向かう。

いつもの電車が到着する頃に駅に着くと、しずくちゃんの姿は既にあって、まったく見当違いだった。と、候補を削りながらしずくちゃんの隣の車両に乗り込んだ。
 
147: (茸) 2022/05/19(木) 18:04:27.54 ID:q1FEpGjt
横須賀線では、昨日と同じようにしずくちゃんの後ろの続いて、車内では隣か後ろになれるように上手い具合にキープする。

最初は離れていても平気だったけれど、昨日しずくちゃんの隣を経験してからは、もう譲りたくなくなってしまったからだ。

しずくちゃんの身体を平気で押す人もいるし、潰してしまう人もいる。そんな目に遭うしずくちゃんが可哀想ではないか。そんなにも無関心なら譲って貰いたい。

それに、しずくちゃんの匂いがそんな人達に奪われていくと思うと我慢ならなかった。

あわよくば携帯を覗いたり、痴漢しようとする人だっていないとは限らない。いや、しずくちゃんのことだから、したがってる人は多いかもしれない。

だから、自分が傍にいるべきだと信じて疑わなかった。
 
149: (茸) 2022/05/19(木) 18:25:13.77 ID:q1FEpGjt
相変わらずの無理矢理な乗車による圧力に腕も足も痛みを訴えてくるけれど、しずくちゃんのことを守ってあげているからこそのものだと思えば、堪えられる。

その痛みが、今しずくちゃんが隣にいることを現実のものとしてくれているから、むしろ感謝さえ出来るかもしれない。

離れて見守っていたとき、揉みくちゃにされ、息苦しそうだったしずくちゃんは昨日今日と居心地が良さそうに音楽を聴いているように見える。

目を閉じて、音楽を聴いているしずくちゃん。音漏れさせず、口ずさむことなく、静かで華奢なしずくちゃんの姿は、どうにかして抱き締めたいと思わせてくる。

目を瞑っていたら危ないよ。と、電車が揺れたときに抱き寄せたり……そんなことを思い浮かべながら、欲求を振り払う。

そういうのは、せめて会話する間柄にまで至ってからで有るべきだ。と、今はまだ、しずくちゃんの匂いを感じるだけに留めた。
 
150: (茸) 2022/05/19(木) 18:45:26.09 ID:q1FEpGjt
定時退社出来るのは、定時内に仕事を切り上げて帰り支度をしているからだろう。ちゃんと仕事をして退社するべきだ。

そんなよくある難癖レベルの叱責で午前中を潰され、業務怠慢だとして昼休み中に始末書の提出を言い渡される。

業務を定時に問題なく終了させ、キリがいい状態での定時退社も認められないのかと思うが、自分が終わっているからといっても周りが終わっているとは限らないのだから、まず帰っていいか聞くべきらしい。

そうして、最低でも1時間は残業するべきだと。見込み残業代が含まれているわけでもないのに。

表面上は取り繕いつつ、しずくちゃんと比べれば社員との関係なんて掃いて捨てるゴミ同然だと内心、吐露する。

しずくちゃんも、あと数年したらこんな世界に入っていくのかと思うと、不安になる。

しずくちゃんはパワハラだけでなく、モラハラやセクハラの被害にまで遭いかねない。

元スクールアイドルということを知っている上司がいたりしたら……。想像して、吐き気が込み上げてきた。

こんな社会にしずくちゃんが進んで行くのを、ただ見ているだけで良いのだろうか。本当に、良いのだろうか。
 
159: (茸) 2022/05/19(木) 20:51:34.81 ID:q1FEpGjt
残業させられながらも、どうにか日を跨がずにホテルへと戻る。連泊で組まれているためチェックインしなくて済むのはいいが、さすがに限度があるだろう。

かといってしずくちゃんの住所を知ってからでないと引っ越し先が決められない。どうせ引っ越すならしずくちゃんの近くがいいし、まるで違う場所に引っ越したら心が折れてしまうかもしれない。

しずくちゃんと一緒に駅に向かって、電車を待って、乗り換えて、それで――

降りる自分に向かって、しずくちゃんと「行ってきます」とか「行ってらっしゃい」とか手を振ってくれる。そんな日がいつか……

でも、良いのだろうか。しずくちゃんを守ってあげなくても。そんな光景も確かに魅力的だけど、一番はしずくちゃんが幸せになれることだ。

しずくちゃんが幸せになるには、社会はあまりにも腐ってる。しずくちゃんを苦しめ、傷つけ、壊そうとする。

そんなことは許されない。だから、しずくちゃんを幸せにしてあげるためにも……もっと、もっと、深く、広くしずくちゃんのことを知るべきだと、思った。
 
160: (茸) 2022/05/19(木) 21:13:47.48 ID:q1FEpGjt
そうして迎えた朝、前回の候補地点とは真逆の辺りに足を運んでしずくちゃんが来るのを待つ。

昨日の場所はギリギリになってもしずくちゃんが姿を見せず、慌てて駅に戻ったらもうすでにしずくちゃんがいるという状況だった。

ここ数日見てて思ったことだが、しずくちゃんは暑がりか汗っかきな体質なのだろう。よくよく扇いでいたりタオルやハンカチで汗を拭うことがある。

しかし、昨日のしずくちゃんは雲の薄い日だったにも拘らずさほど汗をかいているようには見えなかった。

ということは、送って貰った。あるいは汗をかくほどの距離ではないと推察できる。もちろん、かなりの余裕を持って家を出た可能性もあるけれど。

送迎有りになると一気に範囲が広がってしまうことを考えると、しずくちゃんの家は思ったよりも駅に近い場所にあると考えられる。
 
164: (茸) 2022/05/19(木) 21:48:57.30 ID:q1FEpGjt
しずくちゃんの家が分かったらまず引っ越そう。出来れば隣に住みたいけれど、贅沢は言わずに近所に住めればそれで構わない。

とはいえ、しずくちゃんのことを知らなきゃ守ってあげられないし、最低限、家を出るスケジュールくらいは把握しておくべきだろうか。

とすれば、しずくちゃんの向かいや、上下左右辺りが望ましい。しずくちゃんが一軒家ではなくアパートやマンションだったら話が早い。

けれどあのしずくちゃんの親がこの地域でマンションやアパートなんて生活をしているとはどうにも思えない……やっぱり、一軒家か。

そんなことを考えつつ、観光マップを開いて道に迷った振りをしていると、しずくちゃんが角を曲がって出てきたのが見えて、すぐに隠れる。

しずくちゃんが来たのは内陸側ではなく、海岸に続いてる方の開けた道で、そこはマンションやアパートというよりも、一軒家の建ち並ぶエリアだった。
 
165: (茸) 2022/05/19(木) 21:59:14.64 ID:q1FEpGjt
しずくちゃんはやっぱり、一軒家に住んでいるのかもしれない。と、嬉しいような残念なような気持ちで時間を確認する。

しずくちゃんはある程度の余裕を持っていてくれるから少しだけ家の確認が出来ると考えて、影から出ていく。

1軒目を確認し、2軒目へ向かう。しずくちゃんの行動パターンはある程度確認が取れているから焦る必要はない。

そもそも、こんな場所でしずくちゃんのすぐあとを追うように歩いていたら、ストーカーみたいになってしまう。

しずくちゃんが怖がるし、不安になるからそれは避けたい。と、時間を気にしながら通り際に1つずつ表札を確認していったが、結局、しずくちゃんの家は見つからなかった。
 
166: (茸) 2022/05/19(木) 22:18:46.89 ID:q1FEpGjt
いつも通りに鎌倉駅まではしずくちゃんとは別の車両に乗り込み、横須賀線でしずくちゃんの後ろに並んで電車を待ち、いつもと同じ時間の同じ車両に乗る。

珍しく接合部付近が込み合っていたため、中央付近で立つことになって、唐突に試練が訪れた。

しずくちゃんが目の前にいるため、優しい匂いがとても強く感じられるうえ、電車の揺れでしずくちゃんの身体が何度も触れてくるという……非常に辛い誘惑。

抱き締めたくなる気持ちをどうにか堪えて北鎌倉で降車客のために一度降り、もう一度乗ると、今度はしずくちゃんを窓際に追い詰める形となって……どきどきさせられる。

けれど――試練はそれだけでは終わらなかった。
 
168: (茸) 2022/05/19(木) 22:33:29.00 ID:q1FEpGjt
鎌倉駅の乗降は右側の扉で、北鎌倉は逆に左側となる。そのため、一度降りて乗ったしずくちゃんは左側のドアに密着していて、それを庇うように自分がいるといった状態になっていた。

そして、次に停まる大船では到着する番線によって降り口が変わるが、この列車は右側が降り口で変わらない。となればしずくちゃんも自分も外に出て仕切り直しが出来ないのである。

そのうえ――

【非常停止ボタンが扱われたため――】

――駅構内、列車内に流れるすし詰め告知。

悪態を着く客もいる中に、また一人、また一人と無理矢理に乗り込んで来ること数分。普段よりも混雑した状態で出発し、次の戸塚駅でまた雪崩れ込んで来る。

その結果――しずくちゃんを押し潰させられそうになって列車の窓に手を付くと、思いの外力が入って、大きな音が鳴ってしまう。

「ひぁっ……」

びくっと身体を震わせたしずくちゃんが怯えた声を漏らしてきゅっと身を縮ませてしまって……怖がらせてしまった。と、すかさず、すみません。としずくちゃんに謝る。
 
169: (茸) 2022/05/19(木) 22:45:37.97 ID:q1FEpGjt
幸か不幸か戸塚を含めて6駅ほど進んだ西大井までは、出入口がすべて右側である。

そのせいで人が乗れば乗るほど、追い込まれ、押し込まれ、圧迫され……どうしてもしずくちゃんとの距離が近くなる。

人口密度が増した蒸し暑さと、全身に力を入れ続けている疲れとで汗が吹き出てきてしまう。

その蒸し暑さはしずくちゃんも感じ、頬や首筋などに汗を浮かばせながらほのかに熱を帯びた呼吸をしていて、妙に艶っぽく感じる。

もういっそ触れてしまおうか……混雑に流されただけであるかのように。しずくちゃんは驚くかもしれないが、この混み具合なら仕方がないって思ってくれるはずだ。

だから、抱いてしまおう。汗の滲むしずくちゃんの身体をぎゅっと抱き締めて、押されていて動けないからって胸やお尻を――

いいや、違う。そんなことがしたいわけじゃないと、必死に堪えながら、前を向く。

その瞬間、窓に映るしずくちゃんの目と、あった気がした。
 
170: (茸) 2022/05/19(木) 22:58:26.01 ID:q1FEpGjt
度重なる遅延によるあまりの混雑で周りが押し潰されたりしていくなか、意地でしずくちゃんのことを死守し続けた。

職場の最寄駅は通りすぎたし、腕も足も痛くて汗だくになってしまったけれど、しずくちゃんのことを守れたならいいか。と納得して、西大井でしずくちゃんと一緒に降りる。

もういっそこのままお台場まで行って、しまうべきか、いや、そこまでしてしまうと仕事が……と悩んで、反対側のホームに行くべきだと頭を切り替えようとしたところで、声がかけられた。

「あの……」

聞き間違えるはずがない、しずくちゃんの声だった。
 
171: (茸) 2022/05/19(木) 23:05:59.61 ID:q1FEpGjt
さっき顔を見られていた気がしたけれど、もしかして、他の場所でも良く良く見かけた。とでも気付かれて、ストーカーと間違われたのか……と、冷や汗が滴り落ちる。

ストーカーしていないと言っても、しずくちゃんを不快にさせてしまったことに変わりはない。

戸惑いつつも、ひとまず否定するべきだと口を開こうとしたところで、しずくちゃんが先に動いた。

「……良ければ使って下さい」

しずくちゃんはそう言って、ハンカチを差し出して。

「私が怖がったから、ずっと、無理させてしまっていたみたいで……すみません」

しずくちゃんは、押し潰されたりなんだりとされないよう無理をしていたのは、最初に悲鳴を上げたりしてしまったからだと思ったようで、ややふらついたのを案じてくれているようだった。
 
173: (茸) 2022/05/19(木) 23:16:12.02 ID:q1FEpGjt
自分自身の欲求があったし、しずくちゃんがどうであれ、守るつもりだった自分としては、しずくちゃんが謝ることではないと思う。

けれど、しずくちゃんはそんなことを知らずに大丈夫かどうかを聞いてくるものだから、大丈夫。と答えて、一応ハンカチを受けとる。

しずくちゃんは「本当に大丈夫ですか?」と、心配そうにしていたけれど、これ以上、しずくちゃんを困らせたくないと気丈に振る舞って、大丈夫だと繰り返す。

しずくちゃんはそれでも……といった様子ではあったものの、執拗なのはとでも思ったのだろう。引き下がって、笑顔を見せてくれた。

「庇って下さってありがとうございました。でも、無理なさらないでくださいね」

しずくちゃんはそう言って踵を返す。しずくちゃんの笑顔と優しい言葉に魅了され、少ししてからしずくちゃんから受け取ったハンカチがそのままだと思い出して慌てて声をかけた。
 
174: (茸) 2022/05/19(木) 23:28:49.73 ID:q1FEpGjt
ハンカチはどうしたらいいのかと訊ねると、「使ったら捨ててしまっていいですよ」と、とんでもないことを言われて、首を振る。

捨てられるわけがない。あり得ない。そう思って首を振ると、しずくちゃんは少しだけ考える素振りを見せた。

「お礼ということで大切に使ってください」

しずくちゃんは微笑んで、「ありがとうございました」ともう一度言って今度こそ電車に乗ろうと歩き出す。

せっかくの会話、せっかくの繋がり……逃したくなくて、精一杯に声を投げた。

ちゃんと返したい。と。

しずくちゃんはそれにはさすがに驚いて、困った様子だったけれど、電車の発車ベルが鳴り始めたところで答えてくれた。

「なら……もしまた、次の機会があったら返してください」

しずくちゃんは長い髪を振り、赤いリボンを揺らしながら電車の中に消えていく。しずくちゃんはきっと、次の機会なんてあるはずもないからそんなことを言ったのだろう。

でも、心配は要らない。だってしずくちゃんの乗車駅、乗車時間、乗車位置……全部知っているのだから。

次の機会には、ちゃんとしたお礼を用意しようと、心に決めた。
 
191: (茸) 2022/05/20(金) 07:19:36.32 ID:sZ31T/WH
当然のことではあるけれど、しずくちゃんのハンカチは使わなかった。自分のハンカチがあったし、それがなかったとしても使うことはなかっただろう。

せっかく手に入れたしずくちゃんの私物。盗んだり奪ったのではなく、しずくちゃんが厚意……もしかしたら好意でくれた物だ。

それを汚してしまうわけにもいかなくて、密封パックを買って可能な限り保存状態を良くしておく。

もうすっかり遅刻確定ではあったが、しずくちゃんとの交流ができたのなら遅刻や手足の疲れなんてどうでも良くなった。

しずくちゃんはやっぱりとても良い子だ。優しくて、気遣いが出来て、礼儀正しくて、こんな自分のことも案じてくれる。

だから余計に心配になる。悪い人に目をつけられたりしないだろうか。酷く濁ったこの社会で心を壊すことなく、しずくちゃんのままでいられるだろうか。と。
 
192: (茸) 2022/05/20(金) 07:32:40.20 ID:bSIFF1nv
元々電車遅延していたことや、駅を通りすぎてしまったということもあって、会社には30分程度遅刻することになった。

出社するや否や、呼び出しを受けて叱責を受ける。電車が遅刻したからと言って堂々と遅刻して良いわけではないのだと。

事前に連絡していようがいまいが、少しでも早く来るように走って来るべきだ。と。

電車が動かないならタクシーなりなんなりの交通手段を使ってでも来いと。

そもそもの話、30分~1時間程度の遅れを想定しての出社をするべきで、向上心や意欲が足りていないのではないか。と。

そんなことを言われたって、知ったことじゃない。やることはやっているし、普段は遅刻なんてしない。

意欲や向上心があったって、ここでは何も変わらないじゃないか。とは、言えなかった。

やっぱり、しずくちゃんが心配だ。こんな自分を心配してハンカチまで渡してしまうような心の優しさが、悪用されたり、踏みにじられてしまうのではないかって。

しずくちゃんには今のまま、綺麗で可愛いままでいて欲しい。改めて強く、そう思わされた。
 
193: (茸) 2022/05/20(金) 07:45:54.79 ID:bSIFF1nv
遅刻した分、少しだけ残業をしつつも必要以上には残らず、そそくさと帰路に着く。

しずくちゃんのハンカチを入れた袋を少しだけ開いて、匂いを嗅ぐ。しずくちゃんそのものの匂いがするかと言われれば少し違う。

しずくちゃんは汗をかいていたり、香水……とは違う、けれどそれっぽい優しい匂いのする何かを使っているから、ただ洗濯されただけのハンカチは別物とさえ言える。

けれど、これはしずくちゃんの生活の一部の匂いだ。洗ったばかりの肌着や下着、靴下……しずくちゃんが身につけるほとんどがこの香りを発している。

だから、薬局で同じ洗剤あるいは柔軟剤がないかを探すことにした。

同じものを使えば、擬似的にしずくちゃんと同じ生活圏内にいる感覚になることが出来るし、このハンカチからしずくちゃんの匂いが失われてもまた元に戻せるから、大事なことだろう。
 
196: (茸) 2022/05/20(金) 08:23:56.65 ID:bSIFF1nv
閉店までの1時間程度の時間を惜しみなく使い尽くして洗剤と柔軟剤を物色する。
薬局の店員には少し怪しまれていたような気もするけれど、気にすることはない。

普段は絶対に使わない場所にある薬局で、ブラックリスト載って出禁になろうと何も問題はないからだ。

その甲斐あって、しずくちゃんが使っているだろう洗剤と柔軟剤の候補がいくつか見えた。

絞りきれないのは、洗剤の匂いと、それを使って乾燥させた際の匂いが微妙に異なっている可能性があるからだ。

完全な特定は実際に衣類を洗濯して乾かしたあとにならないと難しいと考えて、ひとまずその候補をすべて買うことにした。

仕事疲れの身体には鞭を打つことになるが、しずくちゃんと距離を縮めるためならこれくらい、なんてことはないと踏ん張っていつものホテルに帰った。
 
197: (茸) 2022/05/20(金) 08:40:44.86 ID:bSIFF1nv
帰ってから、改めてコンビニに出掛け、手頃なハンカチを数枚用意し、ホテルで別けて手洗いし、水を切って部屋干しする。
これで乾けばさらに候補が絞れるだろう。

それからしずくちゃんのハンカチを取り出して、汚さないように気を付けながら広げてタグを確認する。

発売元を検索してみたが、しずくちゃんのハンカチは、高級ブランドとかではなく、ネット通販で売られてもいないような市販品だった。

薄水色を基調とし、白いレースのような刺繍が周囲に施されていて、広げた際の右下に当たる場所に、犬の刺繍がある。

シンプルで、可愛らしいというよりも、清楚なイメージを感じさせられるデザインだ。

しずくちゃんの匂いがする。いつもは朝しか感じられないしずくちゃんの匂いが、今は手元にある。
そのせいか、興奮してしまう。もっと感じたい、味わいたいと思ってしまう。

けれど、貴重なその一枚を一時の気の迷いで無駄にしてしまうべきではないと必死に堪えて、ハンカチの匂いを1度だけ大きく吸い込んでから密封パックに戻した。
 
198: (茸) 2022/05/20(金) 08:57:51.54 ID:bSIFF1nv
しずくちゃんはたぶん、犬が好きなんだろう。

今回くれたハンカチに犬の刺繍があるし、しずくちゃんが汗を拭くときに使っていたハンカチも、デフォルメ化した犬のプリントがされている可愛らしいデザインだったことがある。

となれば、しずくちゃんへのお礼も何か犬に関連した要素があった方が良いだろうか。
喜んで貰えそうだし、邪険に扱われることなく大事に扱って貰えそうだ……なんて、少し邪な思いもある。

可能なら高級ブランド品を用意したいけれど、しずくちゃんが困るだろう。そういうのはもっとこう、誕生日を一緒に祝えるような関係になってからの方がいい。

ここは社会人としての意地ではなく、しずくちゃんの心を考えた物を用意するべきだ。

だから品物はネット通販で、下手な包装はしない。ギフト包装などしていたら、中身が怖いだろうし、下心があるように思われかねない。

犬の刺繍があったから、犬が好きだと思った。と、犬の要素があるハンカチを、本来の簡易包装のまま渡す。今は、これでいい。
 
207: (茸) 2022/05/20(金) 18:21:37.80 ID:bSIFF1nv
そして日を跨ぎ、しずくちゃんが家から駅に向かう途中の一角で鳴りを潜める。
しずくちゃんが海側の一軒家の多いエリアから来ていることはわかったものの、そこから先がまだ分かっていないから、まだまだ終わらない。

今日こそはしずくちゃんの家を特定しておきたいと、感覚を研ぎ澄ませてしずくちゃんが姿を見せるのを待つ。

その間、SIFのサイトから虹ヶ咲学園のスクールアイドル同好会のページに飛んでスケジュールを確認する。

やっぱり、多くの人に見て貰いたいという気持ちがあるからだろうか。
どこの学校でもそうだが、スクールアイドルは、いついつどこでライブを開催します。という情報を公開している。

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は、他の学校に比べて開催数が多い。
というのも、虹ヶ咲はスクールアイドルの基本とされるユニットを組んでの活動の他、ソロでもライブを開催するからだ。

しずくちゃんのソロはもちろん、可能な限り、A・ZU・NAのライブ日程も確認しておきたい。
 
208: (茸) 2022/05/20(金) 18:45:40.84 ID:+3ahH7yO
可能なら参加したい……とは思う。けれど、前回がそうだったように、周囲が若々しくてどうにも居心地の悪さが感じられてしまう。

しずくちゃんの普段の制服姿から打って変わったきらびやかなアイドル姿は、動画ではなく生で見たい。明るく、楽しく、弾むような歌声を直に聞きたい。

けれどあれは、場違いにもほどがあった。しずくちゃんのステージを暗くしたくないという思いもある。

何か対策を講じないといけないなと考えながら、時間を見て顔を上げる。この路地に来ることだけは確定しているため、時間的にはそろそろ通るはず……。

その予想に反することなく、しずくちゃんが分かれ道のひとつから歩いてくるのが見えた。
 
209: (茸) 2022/05/20(金) 19:39:57.82 ID:+3ahH7yO
もう顔をはっきりと見て記憶にも残っているだろうからと、しずくちゃんには会わないように細心の注意を払って移動する。

しずくちゃんが路地を抜けて駅の方向へ向かっていく。
その背中を確認し、しずくちゃんが来た道を確認し、もう一度しずくちゃんを確認してから、一目散にしずくちゃんが来た道へと向かう。

しずくちゃんが来た道を戻って周囲の表札を確認していくと、高いブロック塀にぶつかった。

他にも敷地が広いところはあったが、それらとは明らかに違うと、武家屋敷を彷彿とさせる塀の造りが感じさせる。

塀からわずかに顔を覗かせる入母屋造りの屋根瓦がその格式の高さもそれを増長し、ぐるりと回る覚悟で塀をなぞっていくと、入り口と思われる門にたどり着く。

そして……門の傍には、古風な字体で【桜坂】と書かれた表札があった。
 
213: (茸) 2022/05/20(金) 20:30:30.37 ID:+3ahH7yO
アパートやマンションではないと思ってはいたものの、一軒家は一軒家でもかなりの広さの家屋。

周囲には引っ越せるような場所が見当たらないため、しずくちゃんの隣人になるのは到底無理そうだ。

しずくちゃんが生活に困窮するような暮らしをしていないことは喜ばしいことだが、隣人になることが出来ないのは惜しい。

道中にアパートはあったからそこにするべきか……いや、不動産屋にでも行って、
もっと好条件の物件を探してみるべきだろう。

ひとまず、しずくちゃんの住所が分かったのは良かったと思うべきだ。

これでしずくちゃんのことを見守りやすくなったし、毎朝早起きして、しずくちゃんを怖がらせるような危険を冒す必要もなくなったのだから。

時間を見て、そろそろ急がないと電車に乗り遅れると見て走る。古き良き日本家屋……しずくちゃんは、箱入り娘なのだろうか。

だから、こんな自分にも平気で声をかけて、優しく出来るのだろうか。

だとしたら――やっぱり、心配だ。
 
214: (茸) 2022/05/20(金) 20:46:00.71 ID:+3ahH7yO
今日は、しずくちゃんの隣に行きたい気持ちを押さえて、以前のように遠くから見守ることにする。

他のだれかが隣や後ろにいて、肘や鞄でぐいぐいとしずくちゃんに意地悪をしているのは見ていて腹立たしいが……我慢しないといけない。

しずくちゃんへのお礼がまだ準備できていないこともそうだが、
認識されてしまった今はこの人数の中でしずくちゃんと再会するのは、
ストーカーのようで怪しまれてしまいそうな気がする。

だから、暫くは我慢だ。しずくちゃんが辛そうにしていても、苦しそうにしていても、嫌そうにしていても、辛そうにしていても……。

そんなしずくちゃんを見ていると、自分こそが傍にいるべきだという気持ちが強くなってくる。

そのためにも手早くしずくちゃんの家に近い賃貸に引っ越して、地元の人間としてしずくちゃんとの距離を詰めなければ。と、通勤の時間を使って、賃貸を探すことにした。
 
215: (茸) 2022/05/20(金) 21:08:57.95 ID:+3ahH7yO
定時退社を絶対に許さないとする底意地の悪い業務命令をこなしながら、今ごろしずくちゃんは家に着いているのだろうか……と、時間を見て思う。

あの見るからに広い、武家屋敷のような家に。
もしかしたら、家政婦などもいるのだろうか。あの敷地で掃除をするのは骨が折れるだろうし、お手伝いさんがいてもなんらおかしくない。

つまり……しずくちゃんは家事が出来ないドジっ子のような属性がある可能性がある。

清楚な雰囲気で、可愛らしいしずくちゃんが箱入り娘なあまり料理が苦手で、掃除もあんまり得意ではなくて……いつも、照れ臭そうに笑って誤魔化そうとする。

そんなしずくちゃんとの暮らし。それは、どれだけの徳を積めば出来るというのだろうか。

もっとも、しずくちゃんのことだから既に花嫁修業を終えていて良妻賢母を体現してくれるかもしれないが――それはそれで、良い。
 
217: (茸) 2022/05/20(金) 21:37:56.48 ID:+3ahH7yO
しずくちゃんとの叶うはずもない生活を妄想しながら過ごしていれば、
残業もまったく苦にはならず、清々しい心持ちでホテルへの帰路に着く。

明日は休みだから、近くの不動産屋にでも行って引っ越し先でも探そう。

可能な限りしずくちゃんの家に近くて、最低でも駅までの通り道に建っている物件がいい。

スマホでいくつか候補は見つけたけれど、不動産屋に行って確認した方が良いはず。

あと少し、あと少しで準備が整う。

そう思っていたのに――

「まさか、ここで会うとは思いませんでした」

――翌朝の七里ヶ浜の砂浜で、出会ってしまった。
 
219: (茸) 2022/05/20(金) 21:59:36.28 ID:+3ahH7yO
今日は仕事のない週末で、しかし、身体に馴染んだ早起きの習慣は休んではくれず、早くに目が覚めた。

不動産屋が開くまではまだ数時間もあるため、
二度寝してしまっても良いのだが、眠気が足りず渋々起きて、しずくちゃんのハンカチの匂いを再現出来たものがあるのかを確かめる。

密封パックに入れておいたしずくちゃんのハンカチの匂いを嗅いで、
洗っておいたハンカチの匂いを嗅いで、またしずくちゃんのハンカチの匂いを嗅ぐ。

それを繰り返して、十数枚ほどあった中からたった一枚を選び抜く。
完全に一致しているかと言えば、残念ながら違う。

やっぱり、しずくちゃんが持っていたものということや、しずくちゃんの家とホテルの匂いの違いというものがあるからだろう。

けれども、しずくちゃんの家で使われているであろう洗濯用洗剤と柔軟剤を特定することは出来た。

もしかしたら違うかもしれないし、今後も調査は必要だろうけれど、これで擬似的にしずくちゃんの匂いが再現できると思うと胸が熱くなった。
 
221: (茸) 2022/05/20(金) 22:16:09.62 ID:+3ahH7yO
しずくちゃんの匂いが再現できたのも束の間、ホテルのフロントから、ホテル受け取りにしたしずくちゃんへのお礼が届いたとの連絡が来て、受けとりに行く。

昨日はしずくちゃんの住所が特定でき、
今日はしずくちゃんの匂いの再現ができたうえ、お礼のために頼んでいたハンカチまで届いた。

あとは引っ越し先を見つけて定住し、少しずつしずくちゃんとの距離を縮めていくだけだ。と、
晴れ晴れした気持ちで外に出て、せっかくの良い天気なのだから。と、海岸の方にまで行ってみようと考えた。

行ってみようと考えてしまったというのが正しいかもしれない。それが、良くなかった。

雲1つない青空から注がれる日の光を浴び、砂浜を踏み締めながら水平線を眺めていたところに、それは近づいてきた。

大型犬――恐らくはゴールデンレトリバーを連れて、シンプルな青色のワンピースを着た少女。

最初は大きい犬だなぁ……くらいにしか思っていなかったが、潮風に靡かせられる長い髪と揺れるリボンを見せられて、それが誰であるのかを察して。

「……あっ」

けれど、逃げるよりも先にその少女――しずくちゃんが、こっちに気づいてしまった。
 
223: (茸) 2022/05/20(金) 22:25:01.73 ID:+3ahH7yO
気づかれていなければどうとでもなったけれど、気づかれ、あまつさえ目があってしまったともなれば、もう逃げ道はない。

大型犬を連れて近づいてきたしずくちゃんは、最初はまだ信じきれていないといった様子だったが、
近くにまで来てハンカチを渡したあの男性だと確信を持ったようで、目を見開いた。

「まさか、ここで会うとは思いませんでした」

しずくちゃんは本気で驚いたように呟いて、足を止める。
素直に一緒になって足を止める大きな犬は、躾がしっかりしているんだろうな。なんて逃避して……しずくちゃんから向けられる視線に根負けする。

「あの……もしかして、この近所に?」

しずくちゃんは自分のことを見守るために引っ越そうとしているだなんてこれっぽっちも考えてはいないらしい。

近所に住んでいて、偶然ここで再会することになってしまったとでも考えているようだった。

それに便乗して、取り敢えず、前からここに住んでいた……という体で話をする。
 
225: (茸) 2022/05/20(金) 22:39:22.43 ID:+3ahH7yO
「そうだったんですね……全然気がつきませんでした。こっち側にはあまり来ていませんよね?」

砂浜の方にまで来ることはなく、いつもならこの時間は仕事疲れで寝ていると思う。と、嘯くと、しずくちゃんは少しだけ心配そうな顔で笑う。

「お仕事大変なんですね……お疲れ様です」

大した仕事じゃないよ。と、首を振る。
実際、世間に大きく関わるような仕事をしているわけではないし、
言ってしまえば、自分なんていてもいなくても変わらない。
他の誰でも出来る仕事を、ただ、自分が請け負っているだけでしかない。

そう思う自分とは対照的に、しずくちゃんは納得がいっていないようで。

「大したお仕事ではなかったとしても――頑張っていることには変わりないじゃないですか」

しずくちゃんは、ちょっとだけ悲しそうな顔で言う。

「労られたって良いと思いますよ」

たった一度、ハンカチを差し出すほどの交流があったからだろうか。
しずくちゃんはこっちに萎縮したりはせず、穏やかに話を聞いて、優しい言葉を返してくれる。

「だから、お疲れ様です」

しずくちゃんはそう言って笑みを浮かべた。
 
239: (茸) 2022/05/21(土) 16:05:41.35 ID:VZze9F6m
しずくちゃんはとても可愛らしく笑う。まだ子供だからそう感じるのかもしれないけれど、
しずくちゃんはきっと、大人になったって可愛らしく笑えるだろうし、
綺麗な笑顔を浮かべることだって出来るだろう。

思わず、まじまじと見つめてしまっていると、
しずくちゃんは照れ臭そうに頬を赤くして、顔を反らし、水平線の方へと目を向けた。

「あんまり見つめないでください……恥ずかしいです」

ぼそりと呟かれて、どきりとする。
怒られたり嫌がられたりではなく、恥ずかしい。だなんてしずくちゃんがあまりにも愛らしいことを言うから。

横に並んで立ってくれている優しく可愛らしいしずくちゃん。
けれどその横顔は、どこか大人びた印象を受ける美しさが感じられる。

もっとこの時間を続けたい。ずっとこんな時間が欲しい。しずくちゃんが傍にいて欲しい。しずくちゃんと一緒にいたい。

……離れたくない。

手が動く。しずくちゃんの何も持っていない左手を掴みたいと、握りたいと、繋ぎたいと。
けれど、まだ知人程度なのにそれは出来ないだろう。と、もう一方の手で抑え込む。
 
241: (茸) 2022/05/21(土) 16:17:45.03 ID:VZze9F6m
離れたくない、離れて欲しくない。だったら、今は頑張って話せば良い。

しずくちゃんはきっと付き合ってくれるだろうから、
しずくちゃんが答えられるような何か、喜んでくれそうな何かを。

けれど、しずくちゃんがなぜそんなことを知ってるのかって気味悪がったりしないようなことを……。

そういえば。と、思い出したように、何かどこかで見たことあるような気がする。なんて、切り出す。

「ふふっ、なんですか? ナンパですか?」

しずくちゃんは楽しげに笑って窺うように見上げてくる。
ナンパなんてするつもりじゃなかったせいか、みっともなく慌てる様を見せてしまって。

「冗談ですよ。ごめんなさい。駅や電車で見かけていたのでは? 言われてみると、確かに、初めてではないような気がしますし」

しずくちゃんは少し悩みながらそう答えた。実際、しずくちゃんとはハンカチを貰う以前に会話したことがある。

ほんの一瞬で、一言二言だったし自分は印象深くても、
しずくちゃんにとっては取るに足らない善意を向けただけのできごとだろうから、覚えてなくても不思議じゃない。
 
242: (茸) 2022/05/21(土) 16:39:18.90 ID:VZze9F6m
だけど、言いたいのはその事じゃない。しずくちゃんと一番話したいのは、スクールアイドルのことだ。

しずくちゃんは興味を持ってくれるだろうし、楽しく明るく話す姿を見せてくれるかもしれないから。

本当に見たことあるような気がする。と言って、
もしかして、モデルとかアイドルとかやってる? なんて、
ちょっと言うのが恥ずかしくなって小さい声にはなってしまったけれど、踏み込む。

しずくちゃんはとても驚いた顔を見せたけれど、こっちをじっと見て、小さく笑い声を溢した。

「あははっ、本当は知ってるんじゃないですか? 私をどこで見たのか、どうして見たのか……だとしたら、私の名前も」

心臓が破裂しそうなほどに強く脈打った。今までのことを全部見透かされて、問い詰められているような……そんな感覚。

でもきっと、それは勘違いで、しずくちゃんはただ、
スクールアイドルについて知っているのかを窺っているだけなのだと信じる。

なんのこと? と考える素振りを見せると、しずくちゃんは「とぼけてます?」なんて可愛いことを言って。

「モデルやアイドルなんて、大それたことはやっていません。スクールアイドルです」

しずくちゃんが本当は知っているくせに。とでも言うかのような雰囲気で言ってから、ああ。と、得心がいったとばかりに頷く

「演技としてはダメダメですね。わざとらしいですよ」

しずくちゃんからはかなり不評だったけれど、気味悪がられたりはしていないようで、ひとまず安堵しつつ笑って誤魔化した。
 
243: (茸) 2022/05/21(土) 16:54:56.11 ID:VZze9F6m
しずくちゃんは笑って誤魔化したのが気に入らなかったのか、ムッと頬を膨らませているのが横目でもわかる。

こんな大に大人相手に、怖がらず、可愛らしく普通に話せているのは、
やっぱり、しずくちゃんが箱入りで、純真で、優しくて……まだ子供だからなのだろう。

しずくちゃんの無垢さに誤魔化しきれなくて、知ってると白状する。
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会。これだけ言えば十分だろう。
さすがに、面と向かって名前を呼ぶのは気恥ずかしかった。

「ほらやっぱり、知ってるじゃないですか」

しずくちゃんの追及にはもう、抗えなくて謝罪する。
本当は知っていた。と。
けれど、自分からそれを言うのは気味悪がられると思った。とも、言い訳をする。

「気味悪がるなんて、そんなことは……」

しずくちゃんはそうだろう。優しいから、純粋無垢だから。
けれど世間的には、違う。

大の大人それも男が、女子高校生で組まれたスクールアイドルに興味を持っているなんて、
気味が悪いことなんだよ。と、答える。

しずくちゃんは寂しそうな顔をして…足元の砂粒を爪先で弄る。

「そういう、ものなんですね……世知辛い話です」
 
244: (茸) 2022/05/21(土) 17:12:04.35 ID:VZze9F6m
しずくちゃんは黙ってしまって、流石に空気を悪くすることを言ってしまったのかと思ったが、
それに謝る前に、しずくちゃんは顔を上げた。

「私は嬉しいですよ。大人でも子供でも、男性でも女性でも。私達スクールアイドルを見て興味を持ち、楽しみ、喜び、日々を明るく過ごしてくれているのなら……」

しずくちゃんはそう言いながら、またこっちに顔を向けて、笑顔を見せる。

「笑顔を届けるスクールアイドルとしては、冥利に尽きる。というものです」

しずくちゃんは、「だからこそ寂しいです」と首を振る。

「男性でも女性でも、男の子でも女の子でも……好きなものは好きで良いはずなのに」

しずくちゃんが言っているのは、理想だ。子供だから許される理想論。
大人になったら心苦しくても隠さなければ爪弾きにされるような。

「だから、私は嬉しいですよ。あなたがスクールアイドルを好きで、私のことを見て、知ってくれていることが」

しずくちゃんは笑顔だった。可愛らしく、無邪気な笑顔。

「だって、ファンになってくれてるってことですよね?」

優しくて、純真で、他人を慮ることの出来てしまうしずくちゃん。
そのままのしずくちゃんでいたら、大人になったときに壊されてしまう。踏みにじられてしまう。
だけど、そのままのしずくちゃんでいて欲しい――

だからこそ、守ってあげないといけない。
 
253: (茸) 2022/05/21(土) 23:21:29.68 ID:GoIdtsIP
しずくちゃんは可愛らしく、草臥れた大人を労わり、男のファンを喜んでくれて、
何より、こんな自分と普通に会話してくれる優しさがある。

だから、その気持ちを向けてくれる分、大人として子供であるしずくちゃんを守ってあげたい。

優しくて可愛らしくて、純真無垢なしずくちゃんを傷つけようとするものから、苦しめようとするものから、辛い思いをさせるものから……。

「……もしかして私じゃなくて他の人のファンだったりします?」

急に、しずくちゃんからそんなことを言われてはっとする。
何を言っているのかと思えば、しずくちゃんはちょっぴり悩まし気な表情を浮かべながら、じぃっとこっちの顔を見つめていた。

整った顔立ちの、可愛らしいしずくちゃんの眼差しに年甲斐もなく動揺してしまって堪らず顔を逸らしてしまう。

「誰ですか? 同好会ですか? それともほかの学校のですか?」

聞かずにはいられないと言った様子で問い詰めてくるしずくちゃんの声にだけ耳を傾けながら、どうしてそんなことを聞くのかと聞き返すと、しずくちゃんは「だって」と、口を開いた。

「恥ずかしいじゃないですか……私のファンだと思ってあんなこと言ったのに、実は違う人のファンでした。なんて……」

しずくちゃんは、横目で見ても分かるくらいの、耳を赤くして。

「知らない人を友達と間違えるのと同じくらい……ばつが悪いです」
考えに耽ってしまっていたから、しずくちゃんは自分のファンではないとでも勘違いしてしまったのかもしれない。
 
254: (茸) 2022/05/21(土) 23:47:07.42 ID:GoIdtsIP
反応があまりにも可愛らしくて、抱きしめて、そんなわけがないだろう。なんて言ってあげたくなるけれど、
今の自分に出来るのは、せいぜいが誤解を訂正することくらいだろうと、
誰か他のスクールアイドルのファンだなんてそんなことはない。と、はっきり否定する。

初めて見たスクールアイドルはしずくちゃんだったし、初めて見たスクールアイドルの動画ももちろんしずくちゃんだった。
初めて生で見たライブは、A・ZU・NAだったけれど。
3人で組んだユニットではあったものの、見ていたのはしずくちゃんのことだけ。

だから――

「それなら、私が誰か言ってみてください」

――ひゅっと、息が引っ込んだ。

「ファンなら名前くらい知っているし、言えますよね?」

しずくちゃんはむっとした表情で、非常に意地悪なことを言う。
ちゃんと知っているけれど、言えるかと言われれば……言えない。だって、しずくちゃんは女の子だ。
自分とは年の離れた女の子。普通は縁がなくて、話すこともできないような相手。

それなのに名前を呼ぶなんて普通じゃできないし、気恥ずかしさも過ぎると言うものだ。
ましてや、本人にまじまじと見つめられている前でなんて。

だけど、しずくちゃんは子供だから、そんなことなんてまるで気にしていないのだろう。

大人の男に名前を知られていることや、呼ばれてしまうことよりも、ファンだと確信を持つことができて、
羞恥心を拭うことができるのを優先している辺りが、本当に子供らしくて、なにより愛らしい。

厄介なファンだったら、交際の申し込みをしてしまうくらいに。
だけど、自分はそんな最低な連中とは違う。しずくちゃんのことを一番に考えているからだ。

とはいえ

――お、桜坂……しずく……さん

なんて、非常に情けない声だったうえに、顔を見ては言えなかったけれど。
 
255: (茸) 2022/05/22(日) 00:06:59.17 ID:7lBPt+NL
自分では情けなくて堪らないと、穴があったら入りたくなるほどだったけれど、
ちょっぴり怒りん坊。でもとてもかわいいとしか思えない姿を見せてくれていたしずくちゃんには、喜ばしいものだったらしい。

「ふふっ、ふふっ……あははっ」

心の底から嬉しい。というより、楽しいと言った様子で、そしてやっぱり可愛らしく笑いながら「ごめんなさい」と言う。

「意地悪……でしたよね。でも、ありがとうございます。我儘に付き合ってくれて」

本当に。と、ため息をつく。赤の他人に見られたら、警察に通報されていたっておかしくない。
何も疚しいことはなくたって通報されたら駄目になってしまうのが大人の世界だ。

だけど何もなかったし、しずくちゃんの誤解が解けて何より嬉しそうに笑ってくれたから良かった。と、納得する。

だけど、もう呼ばないから。と、しずくちゃんには言っておく。

「どうしてですか? ライブとかでファンのみんなは呼んでくれますよ?」

しずくちゃんは本当に純真な子だと感心しつつ、ライブには参加できないよ。と、首を振る。
 
256: (茸) 2022/05/22(日) 00:21:40.94 ID:7lBPt+NL
大人の男が女子高校生のアイドルグループに入れ込んでいるのは、世間体的にみるとはっきり言って受け入れられたものではない。
だからこそ表に出すことは難しいし、ましてやライブに参加するなんて無理な話だ。

一度参加しただけでそれは十分に思い知ったし、仮に参加できたとしても、スクールアイドルと同年代や、
さほど変わらない年頃のカップルばかりの中に、大人の男一人は無理がある。

「じゃぁ、ライブには一度も?」

一度だけ参加したことはある。と、正直に言う。A・ZU・NAのライブ。それに参加してみたからこそ、そう思うのだと。

しずくちゃんは目を見開いて、瞳を揺らがせて顔を背ける。

「ごめんなさい」

とても悲しそうな声だった。聞きたくない声、出させたくない声。
きっと、顔を見てしまったら、しずくちゃんを抱かずにはいられないだろう。

「……そんなこと、一度も考えたことありませんでした。誰でも楽しめる。スクールアイドルはそういうものだって、思っていたのに」

しずくちゃんは泣いているのだろうか。泣いていなくても、悲しんでいる。
優しいから。純粋だから。無垢だから。けれど、しずくちゃんはそこで考えを改めようとはしなかった。

顔を上げて、こっちをまっすぐ見る。

「みんなと相談して、男性でも気軽に楽しめるようなライブを何とか考えてみます」

そんなことを考えるよりも、本来のファンを大事にするべきだと思う。そう言ったって、しずくちゃんは考えを変えてはくれない。そんな強い目をしている。

しずくちゃんはきっと、可愛くて優しいだけではなく、真面目で努力家なのだろう。実情を知ったからって諦めるのではなく、変えられないかと考え行動しようとする。

本当に良い子で――好きだ。
 
257: (茸) 2022/05/22(日) 00:38:08.41 ID:7lBPt+NL
しずくちゃんはふと、腕時計を確認すると退屈そうにしていた大型犬を「オフィーリア」と呼んで、頭を撫でる。

「ごめんね。そろそろ行こっか」

もう少ししずくちゃんと話したいけれど、
あんまり執拗だと困らせてしまうだろうから、気を付けて。と見送る。

しずくちゃんは可愛らしく一礼すると

「貴重な意見ありがとうございました。もしまた、会うことが出来たらお話聞かせてください」

そう言って、しずくちゃんは去っていく。この再会は本当に偶然だったけれど、
偶然だったからこそ、こんなにもいい経験が出来たのだろうと思わず笑みをこぼしてしまう。

そうして、大きな声が飛ぶ。

「あのーっ!」

声の発信源はしずくちゃんで、
もう声をかけられるとも思っていなかったせいか驚いて戸惑ってしまう。
そんなことなんて全く知らずに、しずくちゃんは声を張る。

「可能だったら、ぜひライブに来てください! 影から見てくれているだけでも構いませんからーっ!」

次はいつライブがあるのか、まるで、こっちがそれを知らないと思っているかのように教えてくれて、
手で作ったメガホンもどきから、大きく手を振って満面の笑みを見せてくれる。

絶対に行くとは言えず、ただ笑っただけだけれど、しずくちゃんはそれでも笑顔を浮かべたままだ。
しずくちゃんは本当に、可愛らしくて、優しくて、思いやりがって、真面目で、努力家で――。

「ぜひーっ!」

気恥ずかしい気持ちを抑え込んで手を振り返してみると、しずくちゃんも振り返してくれる。
もっと近づきたい、大切にしたい、守ってあげたい、幸せにしてあげたい。
そんな気持ちが大きく、とてつもなく大きく膨れ上がっていくのを感じた。
 
274: (茸) 2022/05/22(日) 16:25:26.31 ID:UUMcDesU
しずくちゃんと出会えたのは僥倖だったけれど、
日々のお散歩コースなのであれば、引っ越しは手短に行わないと不味いだろうと、
早急に不動産屋へと向かった。

事前に検討していた物件と、それに近しい条件での物件を出して貰い、
可能な限り即日で済ませたい……と、やや無理なことをお願いする。

いくつかの物件を内見し、しずくちゃんの通学コースを確認できる一角にすることにした。

可能なら隣人になりたかったけれど、しずくちゃんの家が大きすぎて離れているし、
そもそもあの周辺には一軒家しかない。

いくら資金に余裕があると言っても、
一軒家を手に入れられるほどの資産はまだないし、
確認したところ空き家も空き地も無かった。

だから、限りなくしずくちゃんの家に近く、通学やお出かけを確認できる場所にすることにした。
問題は以前の家だ。

契約の関係上再来月までは退去不可なため家賃的には手痛いが、
そのままにしておいて少しずつ荷運びして、退去するしかない。

ひとまず立てたスケジュールは、不動産屋からしたら何か裏があるのではと疑いたくなるほど性急だったようだが、
仕事の都合でご迷惑おかけします。と、取り繕っておいた。
 
275: (茸) 2022/05/22(日) 16:42:56.86 ID:UUMcDesU
即日入居可能とはいえ、週明けまでは正式には移れないため、
前の借家についての手続きを終えてから、ホテルの宿泊を延長する。

いよいよ、しずくちゃんと同じ地域に住めると思うと、興奮と同時に緊張もしてきてしまう。
砂浜で出会ったように、これからはいつどこでしずくちゃんに会うか分からないからだ。

仮にそうなったとき、自分は平然と受け答えできるのだろうか。
オフィーリアの散歩という理由無しに、
隣から去っていこうとするしずくちゃんを止めずにいられるのだろうか。

いられないかもしれないが、いなければならない。
しずくちゃんは子供で、こっちは大人だから。
しずくちゃんは女の子で、こっちは男だから。

理性を欠いた瞬間に全てが水の泡となって崩壊してしまうし、
あの笑顔も、優しさも。きっとしずくちゃんは向けてくれなくなってしまう。
 
276: (茸) 2022/05/22(日) 16:55:00.98 ID:UUMcDesU
だから、もっとしずくちゃんと親密な関係になりたい。

触れ合うことも許されるほど、意味なく名前を呼ぶことが許されるほど、
予定がなければ付き合って貰えるほど、自分と一緒の予定そのものを作ってくれるほど
こちら側から声をかけてもしずくちゃんが平然と答えてくれるほど……は、たぶん、あの様子だと今でもしてくれそうではあるけれど。

とにかく、もっと親密な関係になりたい。

その為にも、引越しは手早く済ませる必要があるし、可能なら休みの日は砂浜に遊びに行くことにしたい。
しずくちゃんの家や、しずくちゃんのお出かけルートを見守っておくよりも、自然な形で接点を重ねていくのが一番だ。

であれば。と、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のスケジュールを見る。

見るのはもちろん、しずくちゃんのソロと、しずくちゃんが所属しているA・ZU・NAのライブ……と言いたいところだが、
しずくちゃんはたぶん、同じ同好会に所属している友達のライブを見に行っている可能性が高い。

しずくちゃんがライブそのものに参加しない場合、観客席から見るはず。よくある関係者席と呼ばれるものがスクールアイドルのライブにもあるかもしれないが、
そうではなかった場合、一緒に見ることが出来るのではないか。と、少しばかり下心がある。

それに、自分が誘った後から、勇気を出してライブを見に来てくれたと言うことを、しずくちゃんは喜んでくれるだろうから。

きっと「来てくれたんですね」と、嬉しそうに笑ってくれるはずだ。

だから、行くべきは――次週のライブだ。
 
277: (茸) 2022/05/22(日) 17:31:54.04 ID:UUMcDesU
翌朝、しずくちゃんにお返しするために用意したハンカチを持って砂浜へと出ていく――なんてことはしなかった。

昨日は偶然会うことが出来たが、今日も向こうに行ってしずくちゃんに会ってしまうと、
しずくちゃんに会いに来た。なんて思われるからである。

しずくちゃんの性格からして、それを気味悪がることはしないだろう。
むしろ、その可能性を思っても「もしかして、会いたかったんですか?」なんて、可愛らしくからかってくる気がしてならない。

しずくちゃんはただでさえ可愛らしいのに、結構おちゃめな節がある。
それは名前を呼ばせたがった辺りからも感じ取れる。
あれは本当に、危険だ。

まだ知人程度でしかない自分にさえ、どこまで心を許してくれているのかと不安になるほどに。
下手をすれば、酷い目に遭いかねないと言うのに……しずくちゃんは本当に、箱入りなんだろう。

ただ、しずくちゃんにとっては疑うことのない出来事であり、むしろ、話のタネになるという程度の認識であっても、
その話を聞いたしずくちゃんの友達が同じように取ってくれると言う保証がない。

場合によってはしずくちゃんに警戒するように言うかもしれない。

確かに、しずくちゃんはかなり無防備ではあるけれど、誰も彼をも疑わせるような教えは好感が持てないし、
しずくちゃんの純真無垢な愛らしさが、疑り深い不安定なものに歪まされるのは我慢できるはずがない。

だから、可能な限りそういうのはこっちから教えてあげたい。
なにより、しずくちゃんの友達だって子供だ。大人である自分の方がたくさんのことを知っているし、向いているだろう。
 
281: (茸) 2022/05/22(日) 18:13:35.55 ID:UUMcDesU
ひとまずは元の家に帰り、荷造りをする。
家具を含め、新居でも使う予定のものに関しては精査し、
新調しても大してお金がかからないものについては処分又は、リサイクルショップに売ってしまうべきだ。

というのも、引越しは本来、引越し業者を使って荷物を移送するものだが、
短時間で終わらない作業の為、引越し作業を見られてしまう可能性があるからだ。

それをしずくちゃんに見られるのはよろしくないし、地域の繋がりがまだ不透明だ。
どこから、あの人は引っ越してきた人だ。という情報がしずくちゃんに伝わってしまうか分からない。
可能な限りリスクは排したい。

となれば、必然的に荷物は全て宅配で送る必要が出てくる。
引越し業者が作業しているのはあからさまな引越しだが、
宅配業者が荷物を運んでくるのは、ただの配送と思われる可能性が高い。
そういった先入観などは、利用していくべきだ。

そうして、日曜日は荷造りと配送依頼に費やし、ホテルに戻ってから、
しずくちゃんの匂いを模したタオルを大きく丸めたものを使って、心身を癒す。

しずくちゃんの匂いが分かったのは、本当に幸運だった。

実際に触れられない物足りなさは募るが、多少の紛らわしとしては非常に効果的だし、
今日のように会えなかった場合にも、疑似的に会えた気分になることが出来るからだ。
 
285: (茸) 2022/05/22(日) 19:01:31.38 ID:UUMcDesU
そして、週明け。有給なんて概念が存在しない為、病欠と偽って連絡をするだけして会社を休む。

一応、入居日になっている為、色々とやらなければならないとこが多々あるからだ。
引越しを悟られるわけにはいかないが、かといって、
同じアパートに住む居住者に何一つないと言うのも問題の為、
ある程度の範囲には挨拶が必要だろう。

後は、新居の内部の確認等だ。
内見の時点で綺麗にはされていたが、気持ちとしては綺麗にしておきたい。
なにせ、いつかはしずくちゃんが来るかもしれないのだから。
清潔にしておいて損はない。

そして諸々の設備の確認や、様々な証明書等を含めた役所手続きなど。
それと、引越し業者ではなく、宅配業者の待機と家具家電の購入もある。

しずくちゃんが学校に行っている間に必要なことはさっさと終わらせてしまって、
他の時間は全部、しずくちゃんのために使いたいと考えていた。

長くお世話になり、意外と親しみを持ってしまったホテルのフロントスタッフに別れを告げて、出る。
しずくちゃんはもう、電車に乗って鎌倉駅に向かっている頃だろうか。

張り切って準備を終わらせよう。と、意気込んだ。
 
288: (茸) 2022/05/22(日) 19:40:02.96 ID:UUMcDesU
全部の作業が終わったのは、夕方を過ぎたあたりだった。
最悪しずくちゃんが下校してくる可能性も考えて、荷物の受け取りなどは午前中に済ませて、
昼以降に役所手続き等を行ったのだが、幸いにもしずくちゃんと出くわしてしまうようなことはなかった。

可能であれば防犯カメラを設置して、しずくちゃんの下校時間をモニタリングしておきたかったが、一軒家でもない為、それは不可能だ。

代替案として、長時間の録画を可能としているビデオカメラを購入し、窓際から撮影することにした。
多少どころか、かなりの出費にはなってしまったが、しずくちゃんのことを知るため、守るためであれば、
数十万円の出費はさほど問題にはならない。と、割り切る。

自ら外に出て、画面に映り、外からカメラに気づくかどうかを確認し、
角度や周辺の置物を調整して、発覚しにくく、確実にしずくちゃんを抑えられるように設置する。

こういう場合、窓際にはぬいぐるみを置き、その中にカメラを仕込んで撮影しておくという手法もあるのだが、
はっきり言って露骨なため知っている人は知っている。
特に警察などは気づいて最悪の場合は「ちょっとお話よろしいですか?」とドアが叩かれることもある。

なにしろ、ぬいぐるみを飾るほど好きな人は日焼けするような窓際には基本的に置くことがないからである。
よほど無頓着か、置き場がないか、ぬいぐるみそのものに興味はないが、必要だから配置している。と考えられてしまう。

そんな無意味なリスクは負いたくない。
 
292: (茸) 2022/05/22(日) 20:20:01.70 ID:UUMcDesU
夜になると、夜の帳もすっかりおりた道をしずくちゃんが歩いてくるのが見えた。

声をかけたい気持ちはやまやまだが、夜道で大人の男に声をかけられたりなんてしたら、
しずくちゃんはきっとびっくりしてしまう。

すぐに知人だと気づいてくれるかもしれ合いけれど、怖がらせるのは本意じゃない。
ここは冷静に見守ることに徹して、
もしも万が一、その後ろをつけ回すようなストーカーがいた場合に対処するべきだろう。

ビデオカメラは、夜でもしっかりと綺麗に撮影出来ている。
といっても、赤外線ライトではなく、設定で強引に明るさを引き出している為、
昼間の撮影と比べると荒さが目立つが、数十万円のビデオカメラであれば、十分な綺麗さで撮ることが出来る。

暗い夜道、特に明かりの少なめな道では赤外線を使う方が良いのだが、
最悪の場合、赤外線の光がばれてしまうので、影から見守る際は使うことが出来ないというデメリットがあるのである。

部屋の中で、その設置したビデオカメラの映像を見る。
そこに映し出されているしずくちゃんを見守りながら、しずくちゃんに似た匂いがするハンカチを嗅ぐ。

目の前にいるわけではないけれど、匂いがすぐそばにあると、
今、隣にはしずくちゃんがいて、楽しく話している……そんな感覚に浸ることが出来るからだ。

何か危ない目に遭いそうになったらすぐにでも助けるから。と、
歩いていくしずくちゃんをじっと見守った。

幸いにも、しずくちゃんをつけ狙っているような悪漢はいないようで、胸を撫でおろした。
 
293: (茸) 2022/05/22(日) 20:47:23.66 ID:UUMcDesU
そうして翌日、しずくちゃんがいつも家を出るだろう時間に家を出る。

しずくちゃんの家と自分の家それぞれの家から駅までの距離を考えると、
当然ながら同じ時間に家を出たとしてもしずくちゃんより先に駅につくことが出来るようになる。

別に、しずくちゃんのあとに駅に到着するように調整しても構わないのだが、
しずくちゃん次第では、こちらが焦らなければならなくなる可能性もあるため、先についている方が都合がいい。

それに、こちらからしずくちゃんに声をかけるのは難しいけれど、
しずくちゃんから声をかけてきてくれたら……その時は話が出来るからだ。

しずくちゃんがいつも江ノ電で乗っている乗車位置に立って、電車を待つ。
しずくちゃんが知っているだろうスーツを着て、しずくちゃんが拾ってくれたハンカチで汗を拭いながら、
電車と、しずくちゃんが来てくれるのを待つ。

今まではしずくちゃんと同じ乗車位置を避けてきたが、今日からはそれを取りやめて同じ乗車位置に変えたのには理由がある。
というのも、偶然にも砂浜でしずくちゃんとお話しすることが出来たからだ。

そのおかげで、しずくちゃんとは知人くらいの関係にはなることが出来たと思っているし、
しずくちゃんの記憶にも残っていることだろうから、認知してもらえる可能性が高い。
ここで認知してもらえれば、この駅から、普段の最寄り駅までの間傍にいさせてくれる可能性だってある。

それがなくても、偶然の出会いを演出しておきたいからだ。
 
294: (茸) 2022/05/22(日) 21:02:07.58 ID:UUMcDesU
しずくちゃんと同時に家を出たため、自分から数分足らずでしずくちゃんは駅に着く。
この駅は元から利用客数がさほど大きくはないため、出入り口を逐一確認したりしなくたって、誰が来ているのかくらいは分かる。

特に、しずくちゃんの歩き方の癖やローファーはもう知っているから、
当然足音だって聞けば、しずくちゃんが来たのだと察知できる。

1分、2分……3分ほど経ってから、しずくちゃんの足音が聞こえてきて、息を飲む。
しずくちゃんは見慣れない男がいるのを見て、他の場所から乗ろうとしたりしないだろうか。
今空いている、自分の隣に立ってくれるだろうか。

そして、気付いてくれるだろうか。気づいてくれなかったら、話しかけたりする気はない。
それは当然、話しかけられる立場にないからである。

女子高生に声をかける大人など周囲から見れば結構危ないため、周りの人達は警戒する。
けれど、しずくちゃんから話しかけていくなら、知り合いなんだと思い、警戒を解いていてくれる。はずだ。

そして――しずくちゃんは乗車位置を変えなかった。
いつものように歩き、いつもの場所に近づいて、立ち止まる。
普段は他の誰かがいるのかもしれないが、今は自分がいる、その隣へと。
 
295: (茸) 2022/05/22(日) 21:12:54.17 ID:UUMcDesU
ちらりと横を見る。しずくちゃんの頭が見えて、後ろに流れていく髪が見えて、水色のリボンが見える。
風が吹くと、しずくちゃんの匂いがする……どこか、いつもと違うような感じのする匂い。

普段は優しい匂いだが、今日はその普段の匂いよりもきつく感じられる。
匂いはそこまで変わっていないが、余計に使ったのだろうか。
刺激があるほどではないものの、匂いが濃い。

今日は機嫌が悪いのだろうか。それともたまたまぶちまけてしまったのだろうか。
もしかしたら寝ぼけて余計に使ってしまったのかもしれない。

そう思いながら、匂いがキツいことを不快に感じた人のような反応をしてしずくちゃんの方に顔を向けて見る。
理由なく目を向けると不審だが、理由があればそれは正当なものとなる。胸を張ってしずくちゃんを見ていると、
その視線に気づいたのか、しずくちゃんは顔を上げて、目が合った。

「あっ……おはよう、ございます。珍しいですね」
 
296: (茸) 2022/05/22(日) 21:19:24.28 ID:UUMcDesU
ちゃんと挨拶してくれたものの、いつもより元気がないというか、声が弱いしずくちゃん。
それを案じつつ、毎朝頑張りすぎるから疲れるんだと思って時間を変えてみた。と、答える。

実際、今まではしずくちゃんのために毎朝頑張っていたので、嘘ではなかった。

普段のしずくちゃんだったら「それが良いと思います」とか「労わるのは大事ですから」とか、笑顔を見せてくれそうなものだが、
しずくちゃんは「そうなんですね」と簡素にしか返してくれなかった。

流石に何かがあったのかもしれないと、具合が悪いのかと訊ねる。

「いえ……大丈夫です。ありがとうございます」

しずくちゃんはにこりと笑う。笑ってはくれたけれど、かなり無理しているような感じがして、不安になる。
やっぱり体調が悪いのではないか、熱があるのではないか。
それでも、学校を休ませてくれない厳しい両親なのでは……などと考えたが、
流石にそこまで追求するわけにもいかないだろうと息をつく。

辛いなら自分の影に入っていていいよと。一歩前に出て日差しを遮る。

「ありがとうございます……また、助けて頂いて」

本当に、あまり元気がない。
抱きしめたりして支えてあげられればいいけれど、それもやっぱり、まだ難しいだろうから。

せめてこれくらいはと、日差しを受けた。
 
297: (茸) 2022/05/22(日) 21:39:29.03 ID:UUMcDesU
しずくちゃんから以前のできごとか切り出されたため、そう言えば。と、鞄からお礼のハンカチを出して、しずくちゃんに見せる。

「……これは」

以前、ハンカチを貰ってしまったお礼だと、答える。洗って返そうとも思ったが、
それはそれで不快なのではないかと考えて、新品のを改めて用意したのだと。

犬のデザインは、貰ったハンカチがそうだったからだと付け加えて、しずくちゃんに向ける。

「そんな、良いって言ったじゃないですか」

しずくちゃんは手間をかけさせてしまったと思ったのか、申し訳なさそうな顔をしていたが、
受け取って貰えないと困るよ。と言うと、しずくちゃんは受け取ってくれた。

申し訳ないとは思いつつも、デザインは気に入ってくれていたようで、
受け取った瞬間に見せた嬉しそうな笑みは、とても可愛らしかった。

「ありがとうございます。助けて頂いたお礼なのに、お礼なんて」

お礼にお礼の繰り返し。それを続けていたら永遠に終わらない為、このお礼は考えたりしないで欲しいかな。と、冗談っぽくいってみると、

「そう言われると、考えたくなってしまいます」

なんて意地悪なこと言って、小さく笑う。けれどやっぱり、元気がないようだ。
 
298: (茸) 2022/05/22(日) 22:00:24.27 ID:UUMcDesU
しずくちゃんは電車の中で、時折吐きそうな顔をする場面があったが、
体調を聞いても「大丈夫」と答えるため、ひとまずは見守るだけにしておく。

けれど、そうして見逃せるのも比較的人の少ない江ノ電くらいだ。

殆ど確実に押しつぶされる可能性のある横須賀線においては、具合の悪そうなしずくちゃんを野放しにしておくわけにはいかなかった。
たとえしずくちゃんが大丈夫と言っていてもだ。そこで見逃して何かがあったら、それこそ……もう二度と見逃すまいと手を出さずにはいられなくなってしまうからだ。

「……先に行っても、平気ですよ?」

しずくちゃんは乗り換えの道でもいつもより遅く歩いていたため、どうしても自分より遅れる形になる。
そのたびに立ち止まっていたからか、しずくちゃんはそんなことを言うが、首を横に振って。

――前に元気を貰ったから、放っておきたくない。

なんて、もっともらしい理由をつけてしずくちゃんと一緒に歩き、電車を乗り換える。
いつもの乗車位置に行くためには多少歩く必要もあったため、階段ではなくエスカレーターで移動し、すぐ近くの車両を選ぶ。

しずくちゃんを庇うように電車に乗り込んで、圧し潰されにくい、優先席側の方しずくちゃんを進ませる。

「……すみません。身内でもないのに」

しずくちゃんはとても申し訳なさそうだったが、気にすることはないと笑ってみる。
しずくちゃんは元気をくれる、笑いかけてくれる、優しい声をかけてくれる、労わってくれる。その姿に、自分は救われている。

身内ではなくても、自分はファンだから。と、答えた。
 
299: (茸) 2022/05/22(日) 22:13:31.14 ID:UUMcDesU
本来なら、しずくちゃんは具合が悪くても大人の男に安易に身をゆだねるべきではないと思うし、
適切な距離感を保つのなら、自分はここまでしてはいけないとも思う。

けれど、見捨てられるわけがない。見逃せるわけがない。
しずくちゃんが苦しんでいるのを放置しなければ関係が続けられないのなら、
しずくちゃんを助けて関係を終わらせてしまう方が、自分の理にかなっている。

車内は酷く蒸し暑く、息苦しさを感じさせる。それがしずくちゃんを余計に苦しませてしまっているように思えて……いてもたってもいられなかった。

もしかしたら嫌われるかもしれない。嫌がるかもしれない、二度と会話が出来なくなるかもしれない。けれど、それでもと、一歩踏み込んだ。

優先席に座っている会社員に声をかけて、具合が悪そうなので座らせてあげてくれないだろうか。と、願い出る。

自分も社会人だ。朝だろうが何だろうが疲れている気持ちは分かっているつもりだ。
会社に着くまでの通勤時間を楽に過ごしたい気持ちも理解できる。
けれど、だからと言って、それはしずくちゃんより優先されるべきものではない。

これはエゴかもしれないけれど、周囲に白い目で見られようともしずくちゃんを一番に思う。

声をかけた会社員は、まるで気づかなかったかのように無反応だったが、
その反対側に座っていた人が、次で降りるから、と、しずくちゃんに席を譲ってくれた。
 
300: (茸) 2022/05/22(日) 22:27:35.59 ID:UUMcDesU
譲ってくれた女性は「優しいお兄さんなのね」なんて嬉しそうに笑う。
だが、しずくちゃんは妹ではないし、自分は兄なんかではない。ましてや親戚ですらも。
けれど、しずくちゃんはそれを否定はしなかった。

「はい……優しいです」

と、兄妹については言及せずに答えて笑みを浮かべるだけだった。

兄ではないと否定したら、だったらどんな関係なのかと追及される可能性もあったため、
そうなったら面倒だからしずくちゃんはひとまずは否定せずにいただけかもしれない。
あるいは、今はそこまで考える余裕がなかっただけかもしれない。

でも、否定されなかったこと、しずくちゃんを優先しても嫌悪されなかったこと。
それはとても嬉しくて、頑張ったかいがあると、思う。

可能だったらしずくちゃんともっと話したいが、それ自体が負担になる可能性もあると、
無駄話は控えて、自分が降りる駅に到着する寸前に、降りることだけを手短に伝えてしずくちゃんを残して出社する。

本当なら、最後まで付き添いたかったけれど、身内でもないのに、それは歪だ。
だからこそ思う。本当にしずくちゃんの身内だったらよかったのに。と。
 
314: (茸) 2022/05/23(月) 07:27:25.62 ID:2yDfoNDJ
真実か否かは関係なく、病欠してしまったことは事実であるために、
朝から体調管理も仕事のうちだ。と叱責を受ける。
そんな無駄なことに時間を使っておきながら、
仕事が溜まっているだの、期日が近いだのボヤいて、責任を擦り付けて来る。

だがそんなことはどうでも良かった。

しずくちゃんはちゃんと学校に着けただろうか。
あのあと悪化したりしてしまっていないだろうか。
悪い人に騙されて介抱と偽って酷いことをされたりしていないだろうか。

そんな不安ばかりで、無意味なモノラル音声は右から左へと流れていくだけだった。

しずくちゃんは咳をしたりしているわけではなかったから、風邪ではないはず。

人酔いや車酔い、あるいは熱中症とかだったのだろうか。
飲み物でも買って飲ませてあげるべきだったのでは……。

頭の中はしずくちゃんで一杯で、仕事がまったく手につかなかった。
 
315: (茸) 2022/05/23(月) 07:36:58.55 ID:2yDfoNDJ
休憩中、自販機で飲み物を買っていると、
仕事の姿勢としてはあまりにも体たらくだったからか、
いつもは話しかけてくることもない先輩社員が、苛立たしげに「あのさぁ」と刺々しく口を開いた。

ちゃんとやってくれないとアイツがうっさいから困るんだけど。と、
アイツ――上司がいないことを良いことに悪態をついて。

どうせ病欠するなら2日3日休むのが普通、どっちにせようるさいから。なんて言いながらタバコに火をつけた。

具合が悪いなら帰っちゃえよ。とまで言われたが、流石に今ある分を放り出すわけにはいかないと首を横に振ると、
社畜め。と、煙を吹かれて咳き込む。
 
316: (茸) 2022/05/23(月) 07:50:18.15 ID:2yDfoNDJ
特に親しい相手でもないが、アイツに対して不満があるという点では同志のため、
告げ口されることもないだろうと、病欠は自分ではないと打ち明ける。

先輩が話を聞いてしずくちゃんの症状を言い当てられるとは思えないが、
自分で考えても分からないし、どうせなら聞いてみようかと、実は妹が。と、切り出す。

先輩は一応話を聞いてくれたが、「知らね」と興味無さそうに吐き捨てる。
期待はしていなかったため、
仕方がないと割りきって戻ろうとしたところで、「親いないの?」と聞かれて、頷く。

しずくちゃんにはいるはずだが、自分の傍にはいない。
だから嘘ではないと思っていると、先輩は火を消して携帯灰皿に放り込む。

女には良くあるやつだよ。多分ね。と、先輩は小さなポーチから薬と何かを出してこっちに投げ渡してくる。

同じもの買ってやりなよ。と、先輩はそれが何かも教えてくれずに去っていく。

それがなんなのか、なぜ必要なのかを調べられたのは仕事が終わってからだった。
 
318: (茸) 2022/05/23(月) 08:20:45.01 ID:2yDfoNDJ
家に帰ってからすぐビデオカメラの録画を確認する。
しずくちゃんが早退した可能性も考えて、最後に別れた時間辺りから最後まで。

しずくちゃんの様子から見て早退したかと思ったが、
特に早退などはせずに学校終わりから直帰してきただろう時間に歩いてくるのがしっかりと映っていた。

とはいえ、昨日より大分早い時間なのは、やっぱり体調が良くないからなのだろう。

けれど、大きな病気等では無さそうなことにひとまず安堵した。
先輩がくれたものの使い道であるなら、しずくちゃんが「大丈夫です」というのも頷ける。

先輩は買ってあげなよ。と、言って製品をくれたが、買うだけ無駄である。

しずくちゃんが常用しているものなら、しずくちゃんを知るために購入することも検討するが、
流石にしずくちゃんが常用しているものを調べることはできないだろう。
それに、これを使いなよ。なんて、渡せるような代物でもないからだ。
 
319: (茸) 2022/05/23(月) 08:31:08.81 ID:2yDfoNDJ
それにしてもしずくちゃんにもちゃんとあるんだ……と、安心する。
自分は女の子ではないため、いつ来て、どうなっていくのかという知識はない。
学生時代の保健体育でやったような気もするが、薄れた記憶だ。

だから、しずくちゃんにそれが来ていない可能性もあったし、来ている可能性もあったが、
そもそも、そんなことを考えてすらいなかった。

そう思うと、自分は本当にしずくちゃんについて全然知らないんだな。と、腹立たしくなる。

そんな状態でしずくちゃんを守ってあげられる。と、
助けてあげられる。と、本気で思っていたのか。と。
 
321: (茸) 2022/05/23(月) 08:41:20.07 ID:2yDfoNDJ
スマホを使ってそれについて調べていき、しずくちゃんの状態からいつ頃来たのかを逆算できないか考える。

土曜日に出会ったしずくちゃんはまだ平気そうだった。
あの時点で多少感じるものはあったのかもしれないが、
問題はなさそうに見えたため、日曜日か月曜日からなのかもしれないと想定しておく。

平均的には5日間程度で、約1ヶ月おきに来るらしいので、
日曜始まりから5日と予備で+1の6日間をしずくちゃんの日数と仮定し、
そこから1ヶ月をしずくちゃんの周期としてみる。

だがこれは仮定でしかない。

しずくちゃんの体調の良し悪しの全ては把握できなくても、
こういう周期的なものに関してくらいはちゃんと把握しておいてあげないとダメに決まっている。

そんなことも調べてあげられないでどうやってしずくちゃんを守ってあげるのかと、意思を固めた。
 
323: (茸) 2022/05/23(月) 08:59:19.48 ID:2yDfoNDJ
それを調べる方法というわけではないが、日常生活を知る方法としてメジャーなのは毎回のゴミを確認することだ。

毎日ではないため、何曜日に何を食べたのか。という細かいところまで把握はできないものの、
ある程度の食生活や、購入品、レシートがあれば良く行くスーパーなども把握出来る。

とはいえ、それは一人暮らしの場合である。
そのため、一人暮らしの場合は手間でも紙類はシュレッダーにかけ、
曜日を分けて中身を分割して捨てることで復元されないようにするべきなのだが、
そこまでするほど危機意識のある女性はまずいないだろう。

けれど、しずくちゃんは一人暮らしではないので、ゴミから拾える情報は膨大で区別が難しいので意味がない。

それに、そんなことをするのはストーカーに他ならない。自分はしずくちゃんを守りたいのであって怖がらせたいわけではない。
よって、するべきは毎日の挨拶と観察だ。

しずくちゃんの平常時と異常時が声や仕草で把握できるほど念入りに確認し、記録しておく。

もともと、会話はしていくつもりだったから、そのついでにやることが増えただけだ。
しずくちゃんのためを思えば、なんのことはない。

――けれど、翌日、しずくちゃんはいつもの時間になっても駅には来なかった。
 
331: (茸) 2022/05/23(月) 18:15:31.07 ID:2yDfoNDJ
しずくちゃんが学校を休んだことで不安な1日を過ごした翌日。

今日こそはしずくちゃんに会いたい……と、
祈るような気持ちで駅で待ってみたが、
しずくちゃんはやっぱり、姿を見せてくれなかった。

しずくちゃんが心配で堪らず、仕事を休んで様子を見に行こうかとも考えてしまうが、
自分は恋人どころか、友達にすらなれていない歳の離れた男なのだと、断念する。

こういうときに同級生だったらと思うが、幸か不幸か、
虹ヶ咲学園は女子のみのため、同級生でも自分は虹ヶ咲学園にはいない。

仕方がなく出社したものの、しずくちゃんのことが気になって、
仕事がまったく手につかなかった。
 
332: (茸) 2022/05/23(月) 18:37:10.47 ID:2yDfoNDJ
しずくちゃんが学校を休んでいるうえ、気になって仕事が疎かになって怒られて、
残業が増えるという苦しみだけが募っていく。

どうにか仕事を終えて帰宅した23時。早速録画を確認してみたが、しずくちゃんの姿は一切映っていなかった。

前回こっちに戻って来ていることは確認しているため、
向こうに住んでいる友達の家に泊まっているなんてことはあり得ない。

とすると……このカメラに映らなくなってから、何かあったのだろうか。

いや、あり得ない。と、首を振る。あり得ない、はずだが。

もし何かあったなら、一昨日の夕方以降だろう。
万が一……そう、万が一〇傷等の被害に遭っていたなら、ニュースになっているはず。

しかし、そうはなっていないので、最悪でも誘拐か……と考えたが、
その場合、この近辺のため、録画には警察関係者が頻繁に映っていなければおかしい。

だからきっと、体調が悪化しただけだろう。
そう信じて、そう願って、明日を迎えた。
 
335: (茸) 2022/05/23(月) 19:30:54.37 ID:2yDfoNDJ
そうして、しずくちゃんがいつも家を出る時間から少しだけ遅れて家を出る。
その方がしずくちゃんが来るまでの待機時間が短く済むからだ。

家を出てから、車や自転車が来ていないかを確認する素振りでしずくちゃんの姿を確認してみる。
残念ながら、まだしずくちゃんの姿はない。

今日も休みなのか、それとも事件や事故に巻き込まれてしまったのか。
底知れない不安に苛まれながら、駅へとたどり着いてしまう。

いつものしずくちゃんと自分なら、しずくちゃんは5分程度遅れてくることになるはずだが、
今日はこっちが遅く家を出たために、
2分か3分……場合によっては同着になってもおかしくないはずだった。

けれど、しずくちゃんは姿を見せてはくれなかった。
 
337: (茸) 2022/05/23(月) 20:00:15.05 ID:a+gLQ2AO
しずくちゃんが立つべき場所には知らないスーツのおっさんが来て、
後ろにはまた別の人が来て……と、しずくちゃんが来ないまま時間が過ぎていく。

いつも乗っている電車が近付いてくる音が聞こえ始め、目の前に入り口が滑り込んで来る。

これに乗らなくても……あと一本遅らせても、叱責を回避できる時間に着くことは可能だ。
乗らないでしずくちゃんを待つのもありなんじゃないか。と、考える。

けれど、そうして待って、しずくちゃんに不審に思われたらどう言い訳したら良いのか。
言い訳になりそうなものはあるにはあるけれど、通用するとは限らない。

なにより、会社の上司が連日の鬱憤を溜め込んでいるなかで、更に不機嫌にさせることになったらどうなってしまうのか。

そう悩んでいると、入り口が開き、後ろの人に押される形で一歩踏み出る。

今日も諦めるしかない――

そう思いつつも、名残惜しく出入り口の方へと目を向けると、
ゆっくりと歩いてくるしずくちゃんと、目が合った。
 
340: (茸) 2022/05/23(月) 20:20:27.17 ID:a+gLQ2AO
しずくちゃんは困った顔をしながら足を止め、こっち側を指差してくる。
何か来ているのかと横を向けば、乗るはずだった電車の扉が閉まって、発車前の音が駅に広がっていく。

しずくちゃんに夢中になるあまり、電車が意識から完全に消え去ってしまっていて乗り過ごしてしまったのだ。

――やらかした

完全に不審に思われる。と、しずくちゃんへの言い訳を必死に考えていると、
しずくちゃんは意外にも、隣に来てくれた。

「……電車、乗らなくても平気だったんですか?」

ああ疑われてる。そう思って、本当は乗るつもりだったけど。と、言って、顔を反らす。
しずくちゃんの姿が見えたから乗り遅れてしまった……なんて、しずくちゃんからしたら気味が悪いはずだ。

続きに口ごもってしまうと、しずくちゃんは足元をじゃりっと鳴らした。

「お仕事に遅刻しちゃったりはしませんか?」

始業前には間に合うものの、来るようにと定められている時間に間に合うかはギリギリのところだろうか。
下手に遅延してしまうと間に合わないかもしれない。
なんて正直に言えるわけもなく、まだ大丈夫。と答える。

「なら、良かったです……今日は間に合わないかもしれないって、少し諦めていたので」

電車には間に合わなかったはずでは……と、少し悩むと

「今日、会えて良かったです」

しずくちゃんは隣からこっちを見上げて、微笑む。
 
342: (茸) 2022/05/23(月) 20:34:00.33 ID:a+gLQ2AO
「先日、ご心配をお掛けしたままだったので……本当は、一昨日に会ってお礼を言えればと思っていたんです」

しずくちゃんは、そうしたかったものの体調がどうしても改善しなかったため、
2日間も休んでしまったのだと、包み隠さず教えてくれた。

「あ、でも、今日はその、大分良くなったので心配しないでください」

取り繕って笑顔を浮かべるしずくちゃんは、まだ本調子には思えないけれど、
3日前に比べれば気分が良さそうに見える。

昨日も一昨日も休んでいただろうことは見守っていたから知っているけれど、
普通は知らないし、あまり人に話すようなことではないため、
正直、それを教えてくれたことよりも、
そんな素直に話してしまって良いのかと心配が勝ってしまう。

あんまり人に言わない方がいいよ。と、ついつい言ってしまうと、
しずくちゃんははっとして口許を押さえる。

「確かにそう、ですね……気を付けます」

そして、上目使いにこっちを見たかと思えば、顔を背ける。
 
344: (茸) 2022/05/23(月) 20:48:51.62 ID:a+gLQ2AO
「でも……もしかしたら、昨日も一昨日も、今日みたいに私が来るかどうか心配していたのかと思ったので……」

しずくちゃんは申し訳なさそうに言う。
小さな風が吹くと、いつものしずくちゃんと変わりない優しい匂いが感じられる。

何か言うべきかと、ちらっとしずくちゃんに目を向けると、目があった。

「さっき、目があった時に凄く動揺していたように見えたので、お話ししておきたかったんです」

しずくちゃんが今日も来られないかもしれない。そう思っていたし、不安だったし、心配だった。
けれど、この動揺は、しずくちゃんに不審に思われたんじゃないかって恐れであって、
しずくちゃんが来てくれたことへの安堵とはまた別で。

なのに、しずくちゃんは好意的に考えてくれている。
それが少し申し訳なかった。

「先日は本当に助かりました。その……結局、体調を崩してしまったんですけど。それは本当ですよ」
 
348: (茸) 2022/05/23(月) 21:04:27.88 ID:a+gLQ2AO
本調子ではなさそうだけれど、優しい声と優しい笑顔を見せてくれるしずくちゃん。
目があっても、引いたり、反らしたり。
そんなことはせずに、笑顔を浮かべるしずくちゃんは、本当に、可愛らしくて、純真で。

少しだけ悩んでから、電車に乗らずに立ち止まっていたのを見た時、不審に思わなかったのかと訊ねると、
しずくちゃんは心底驚いた様子で首を振った。

「あそこまで心配かけてしまったあとでしたし……それに、以前も助けて下さったじゃないですか」

しずくちゃんはこっちをまっすぐ見ている。あんまり見つめ合うのも……と、
根負けして目を反らしてしまうと、しずくちゃんは可愛らしく笑った。

「だから、放っておけない人なのかと思って。むしろ遅刻させてしまったらどうしようって、心配してしまいました」

杞憂で良かったです。と、しずくちゃんは安心したように言う。
しずくちゃんは本当に不審に思わなかったのだろうか。疑わなかったのだろうか。
ほんの少しの交流しかない相手を……まったく疑っていないのだろうか。

たぶん、本当に疑っていないのだろう。
 
352: (茸) 2022/05/23(月) 21:25:31.77 ID:a+gLQ2AO
思わず、長々としずくちゃんを見てしまっていたからか、
しずくちゃんは何かに気付いたようにぴくりと眉を動かした。

「もちろん、知らない人がこっちをじっと見ていたら不審と言うか……むしろ不気味に思いますよ?」

ですが。と、続けて。

「助けて頂いた相手をそうして避けるなんて、恩知らずじゃないですか」

じぃっと見つめてくるしずくちゃんは、
そんな子だと思っていたんですか? とでも拗ねているみたいな雰囲気で、つい笑ってしまう。

「どうして笑うんですかっ」

笑う場面ではなかったのに……と、ムッと頬を膨らませたしずくちゃんは、くるりと身を翻して。

「ならもう挨拶しませんっ」

子供みたいに……いや、しずくちゃんは子供なのだが、
高校生よりももっと小さな子供みたいな拗ねかたには笑わずにはいられなくて、
笑い混じりの謝罪しか出来なかったせいで、
しずくちゃんは電車が来るまで一言も口を利いてはくれなかった。
 
354: (茸) 2022/05/23(月) 22:11:52.59 ID:a+gLQ2AO
電車が来て乗り込んでも、しずくちゃんは何も言わずに自分の隣に並んでくれて、心臓が強く跳ね上がる。
意外と普通に話してくれるようになったからと言って、
先日のように酷く体調が悪いという状況でもなければ、離れてしまうと思っていたからだ。

動揺を隠せずに戸惑ってしまっていると、しずくちゃんはそれに気づいてか笑みを浮かべる。

「離れていた方が良いですか?」

いや、全然。むしろ嬉しい――なんて、本音が素直に言えるわけもなく、
口ごもって目を逸らしてしまうと、しずくちゃんの笑い声が聞こえた。
小さく、静かで、でも隣にいれば聞こえる可愛らしい笑い声。

「行き先が同じなのに、露骨に離れてしまうのもそれはそれで酷いかなと思ったんです。私は別に……」

しずくちゃんはそこで言葉を切ると、何かを思いついたかのようなちょっぴり悪さを感じるような表情を浮かべて、こっちを見てくる。
絶対に何かしてくると確信して、身構えた。

「私は別に、お兄さんならそばにいても大丈夫かなって思っていますし」

ちらりと、どうですか? みたいな視線を向けてくるしずくちゃんから目を逸らす。
正直、かなりの深手を負ったけれど、少ないとはいえ人前ということもあって、下唇をぎゅっと噛みしめて踏ん張る。

「ふふっ、ごめんなさい。この前、優しいお兄さんねって、言われていたのを思い出しちゃって……つい」

母親世代に近しいだろう年代の女性から言われた言葉。
兄妹と見たのか、単純に、しずくちゃんよりも年上だからそう呼んだのかはあの人しか知らないことではあるけれど、
少なくとも、今のしずくちゃんは兄妹のようなニュアンスで使ったはずだ。
 
355: (茸) 2022/05/23(月) 22:40:33.49 ID:a+gLQ2AO
しずくちゃんが親しんでくれているのはとても嬉しいけれど、
その純粋な可愛らしさと優しさが、悪い人を呼び込んでしまうんじゃないかと、余計に心配になってくる。

もう少し気にするべきだと……注意するべきだろうか。
けれど、それであまり関わってくれなくなるのは、好ましくない。と逡巡して。

お兄さんならいいか。と、答える。しずくちゃんの年代からなら、場合によってはおじさんと呼ばれることもあるかもしれないし、
それに比べたら、お兄さんと呼ばれるのはむしろありがたい話だった。

もっとも、それを他の人にまで使われるのは癪だが。
いくらしずくちゃんでも、そんな呼び方を関係ない人達にまではしないだろう。

しずくちゃんは「喜んで貰えたならよかったです」と、
自分から言っておきながら照れくさかったらしく、ちょっぴり頬を赤らめながら言って、顔を伏せる。

「……本当は心細かったんです。先に行ってくださいとか、大丈夫とか言っておきながら、苦しくて、辛くて、助けて欲しくて」

けれど、友人でも身内でもなく、ただ数回だけ会話した程度の相手にそこまで頼って良いわけがないと思った。と、しずくちゃんは呟く。
「だから、嬉しかったんです。助けてくれて。わざわざ、声をかけて席に座らせようとしてくれて……」

暗い声色でそう続けたしずくちゃんは、数秒間黙り込むと顔を上げて、笑顔を見せた。

「……なんて。ふふっ、そのお礼くらいにはなりました?」

しずくちゃんの笑顔が見られるだけで十分だよ。と、
そう答えるのはなんだか間違っているような気がして、
なったなった。と、軽くあしらうような口ぶりで頷く。

その反応が正解だったのか、しずくちゃんは「ならよかったです」と、楽しげに笑った。
 
360: (茸) 2022/05/23(月) 23:15:02.33 ID:a+gLQ2AO
しずくちゃんとの楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、鎌倉駅に到着し、
乗り換えて、気付けば会社の最寄駅

もう少ししずくちゃんと一緒にいたい。
もっと話していたい。いっそ、今日は営業の仕事でお台場にまで行く用事がある。と、
嘘をついてしまおうか。なんて考えて。

「次で降りるんですよね?」

しずくちゃんにそう聞かれてつい、嘘偽りなく頷いてしまうと、しずくちゃんは笑みを浮かべる。

「お話しできて楽しかったです」

こちらこそ。と言ってから、なんだかお見合いみたいだと気付いたものの、
しずくちゃんはまったくそんなことは思っていなかったようで。

「身体を一番に考えて、お仕事頑張ってください」

しずくちゃんはそう言ってお見送りしてくれる。
となれば、嘘をつくわけにもいかなくて電車から降りるしかなかった。

何気なく振り返ってみると、運良く見えたしずくちゃんはこっちに気付いて、小さく手を振って微笑む。

こっちからも手を振り返したかったけれど、さすがに羞恥心が勝る。
去っていく電車を見送って、あんな風に、毎朝見送ってもらえたら幸せなんだろうなぁ……と、
昂るモチベーションのまま張り切って仕事に向かった。
 
369: (茸) 2022/05/24(火) 06:24:42.16 ID:zou72Vr8
しずくちゃんが無事だった安堵と、しずくちゃんの応援もあって、
仕事に熱中しすぎていたのだろう。

朝からずっとなんなんだよ鬱陶しい。と、頬を殴るような声が叩き付けられる。

いつの間にか昼休憩だったようで、周りを見て見ると、コーヒー缶を持っている先輩と自分しかいなかった。

妹が良くなったので。と言うと、「シスコン」だとか「キモい」とか言われてしまったが、そんなことはどうだって良い。

しずくちゃんが妹だと仮定したときにシスコンにならなかったら、
それはもう感情が欠落していると言わざるを得ないからだ。

堂々としていると、先輩は「キモい」と繰り返し言って、「いい加減休みなよ」と、コーヒー缶を一つ差し出してきた。
 
370: (茸) 2022/05/24(火) 06:38:12.08 ID:zou72Vr8
今まではそんなことなかったため、受け取ったらなにか仕事を頼まれるのではと勘ぐってしまうが、
押し付けられて、受け取ってしまう。

先輩はそれを見て、仕事も押し付けてくる……なんてことはなく、
自分の分のコーヒーを開けて、一口飲む。

そして、そんなに妹が大事なら仕事変えなよ。と、先輩は独り言のように言う。

親がいないという設定にしたからか、先輩はこの会社では妹を大事にすることは出来ないと思っているようだった。
確かに、ここは色々とあるし、妹を大事に思うなら仕事を変えるべきだと思う。

とはいえ、そう簡単な話しでもなくて、検討しておきます。と、答えておく。
 
371: (茸) 2022/05/24(火) 07:12:28.24 ID:zou72Vr8
しずくちゃんと少しでも長く、一緒にいられるような仕事。

虹ヶ咲学園の教職員とでも思ったが、まず教員にならなければいけないし、
色々な制約を無視して、なれると仮定しても、なった時にはしずくちゃんは高校卒業しているだろうし、
なれたとして、虹ヶ咲学園に配属されるわけがない。

とすれば……清掃員だろうか。いや、それでもしずくちゃんが卒業したあと別れることになってしまう。

なら、しずくちゃんの家のお手伝いさんはどうだろう。
あんなに可愛い娘のいる家が、男の手伝いを招くだろうか。いや、招かないだろう。

悩みに悩んでいると、先輩には「ほんとシスコンね。あんた」と、呆れられてしまった。
 
373: (茸) 2022/05/24(火) 07:23:52.86 ID:zou72Vr8
しずくちゃんのお陰で調子を取り戻し、
瞬く間に仕事を片付けて、有無を言わせずに定時退社する。

朝のようにしずくちゃんと楽しい時間を過ごせてしまうと、
帰りもしずくちゃんと一緒になることが出来たらなぁ……と思わずにはいられない。

行きは「行ってらっしゃい」と、送り出されて、
帰りは「お疲れさまです」と、迎え入れて貰える関係。

運良く会えれば、きっとしずくちゃんは思っているような反応を見せてくれるのだろうけど、
悲しいが、その偶然は起こり得ない。

だからこそ、いつかは「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」の関係になりたいと夢想したくなる。
 
374: (茸) 2022/05/24(火) 07:29:12.98 ID:zou72Vr8
家に帰り、いつものようにビデオカメラの録画を確認する。

しずくちゃんはいつものように夜道を歩いて家に向かって行くのがしっかりと撮れていて、
そのあとを付け狙っているような不審者もいないようで、ひとまずは安心する。

しずくちゃんは可愛いし、優しいし、お茶目な面もあってやっぱり、愛らしくて、
目が離せなくなってしまうというか、心奪われてしまう人も少なくはないはずだ。

だからこそ、ストーカーや痴漢といった悪漢に狙われてしまう可能性があるため、
しっかりと見守っていてあげないといけない。

そんな被害に遭って辛い思いをしたり、
笑えなくなってしまうしずくちゃんの未来なんて、
断じて認められるものではないからだ。
 
375: (茸) 2022/05/24(火) 07:43:30.66 ID:zou72Vr8
そして週末、今日はお台場の方でしずくちゃんが所属している虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のエマ・ヴェルデという女の子のライブがある。

しずくちゃんとしずくちゃんのいるA・ZU・NAではないけれど、しずくちゃんの先輩だから、
しずくちゃんもライブを見に行くだろうし、運良く会えればまたお話しが出来るかもしれない。

そう思って、家を出る。

お台場にはスクールアイドルに関連したグッズを販売しているお店があるため、ライブからかなり余裕を持った時間に出て、
以前は無かったA・ZU・NAのグッズや、しずくちゃんの新しい商品がないかを探すつもりだった。

つもりだった――

「はぁ……はぁ……ふぅ……間にあっ……」

――電車で、しずくちゃんに出くわしてしまうまでは。
 
376: (茸) 2022/05/24(火) 08:19:20.69 ID:zou72Vr8
しずくちゃんのことを考えていたが、現地で運良く会えればいいな……程度に考えて電車に乗り、
空いている適当な席に座っていると、
ドアがしまり始める寸前のところで、誰かが駆け込んできた。

ダークブラウンの長い髪、赤色の大きなリボンに、腰元のベルトで調節したシャツワンピースと、垂れ下がるチェーンショルダー。

もしかしたら似ている別人で、気のせいかもしれないと思ったが、
背丈も、急いできて乱れている呼吸も、小さく漏れている声も。
全部がしずくちゃんで。

「はぁ……はぁ……ふぅ……間にあっ……」

胸元を押さえながら呼吸を整え、顔を上げたその人物と目があって、しずくちゃんだと確信する。

しずくちゃんは顔を赤くして顔を背けると、
こっちに近付いてくるわけもなく入り口の端によって、手でぱたぱたと扇ぐ
 
378: (茸) 2022/05/24(火) 08:27:09.79 ID:zou72Vr8
しずくちゃんと会えたのは良いけれど、しずくちゃんが他人行儀で近寄ってさえくれないとなると、
さすがに、こっちから話しかけたり、
近付いたり、見つめていたり……というのはあり得ないので、
仕方がなく手元のスマホに目を落とす。

通勤通学といった日常的に行っていることであれば、出くわしてもなにもおかしくはないけれど、
休日にまで鉢合わせしてしまうと、流石に作為的なものを抱かせてしまうのではないかと、不安になる。

実際、しずくちゃんとの出会いは大半が計画的であり、
突き詰められては動揺を隠せなくなってしまう。

出来れば、今日は現地で会いたかった……と、心臓が破裂しそうな思いで鎌倉に着くのを待った。
 
379: (茸) 2022/05/24(火) 08:36:58.69 ID:zou72Vr8
鎌倉駅に着くと、入り口に近かったしずくちゃんが先に降りる。
それは当たり前のことなのだが、
今回ばかりはしずくちゃんを付け回しているストーカーのような気分で、あまり良くない。

早く来たわけだし、この電車が折り返しで発車する寸前まで乗っていても時間は平気だ。

グッズは帰りに回してライブに間に合うだけで良いのではないか。
しずくちゃんをストーカーして怖がらせるくらいなら、予定を変えた方が良いのではないか。
そう考えていると、入り口のところでひらりと揺れるスカートの裾が見えた。

まさかと思って姿勢を変えてみると、それは間違いなくしずくちゃんで、
逃げられないのだと……悟って、諦めて降りることにした。
 
380: (茸) 2022/05/24(火) 08:49:56.79 ID:zou72Vr8
まずは、待ち伏せの否定をしよう。
正直、言い逃れ出来ないような状況だったけれど、
誠心誠意言えば、しずくちゃんは信じてくれるはず。

いや……そうだろうか。

誠心誠意言うのは決して悪いことではないけれど、その必死さはむしろ、
その証明になり得るのではないだろうか。

もう詰んでいるのでは……と、半ば諦めた気持ちで降りたすぐそばにいたしずくちゃんへと目を向ける。

まだ熱が下がっていないようで、暑そうに手で扇ぐしずくちゃんは下を向いていて顔が見えない。

これはもしや回避出来るのではないか。などと思った矢先に、しずくちゃんは口を開く。

「あの……違いますよ……誤解しないでください……」

あぁ自分を待っているわけではないのか。と、
安堵と勘違いによる羞恥心で頭がくらくらとしかけたが、しずくちゃんはそれに気付かず続ける。

「偶然なんです……追いかけて駆け込んだわけじゃなくて……」
 
381: (茸) 2022/05/24(火) 09:00:34.54 ID:zou72Vr8
何を言っているんだろうと一瞬だけ考えて、はっとする。
もしかして、待ち伏せされたなんて考えてはいなくて、
しずくちゃん自身が追いかけてきたんじゃないか。と、思われている可能性を考えているのではないか。

それはそれで歓喜の叫びを上げたいくらいなのだけれど、
その高揚感を悟られないように笑う。

そんな風に思ってないよ。と言って、むしろ待ち伏せされたかもしれないって思わないのって言うと、
しずくちゃんは首を横に振った。

「駆け込まないと間に合わなかったのにですか?」

まぁ確かに。と、冷静になると思う。

「今日はどこかにお出掛けですか?」

仕切り直すように質問してきたしずくちゃんに、虹ヶ咲のライブを見に行くことを正直に話す。
嘘をついて向こうで出くわしては、面倒なことになるからだ。

「……それなら、一緒に行きます?」

まさかの、申し出だった。
 
390: (茸) 2022/05/24(火) 18:11:04.70 ID:zou72Vr8
「もちろん、向こうでお約束とかが無いならですけど……せっかくなので」

しずくちゃんはそう言って、「どうですか?」と聞いてくる。

もちろん二つ返事で承諾したい。
むしろこちらからお願いしたいほど、願ってもないことだ。

とはいえ勢い良く答えたらしずくちゃんを引かせてしまいそうだし、
即断即決もなんだか気味が悪く思われそうで、慎重に言葉を選ぶ。

良ければぜひ。と。頷くと、しずくちゃんは微笑む。

柔らかな笑顔はとても可愛らしく、私服なのも相極まって、
制服の時よりもずっと特別な関係を彷彿とさせて、心が弾んでしまう。

「そしたら、行きましょうか」

一歩先を歩きだしたしずくちゃん。
その手を掴みたい気持ちは、必死に押し〇した。
 
393: (茸) 2022/05/24(火) 18:36:24.57 ID:zou72Vr8
しずくちゃんがこっちのことを知らないときから見守って来たし、
時には隣や後ろをキープすることもあったし、
しずくちゃんが気付いてからも、何度か一緒になったことがある。

けれど、休日の電車では始めてだった。
互いに私服で、電車に揺られて、同じところへと向かう。

それはもう――

「なんだか、新鮮ですね」

変に意識してしまっていたから、しずくちゃんから声をかけられて、ドキリとする。
少し焦りながら隣に目を向けると、しずくちゃんは流れていく外の景色を眺めていた。

「前にも私服でお会いしたことはありますけど、こういうのは初めてじゃないですか……」

しずくちゃんはまるでこっちの考えていたことが分かっていたかのように、的確な言葉を選んで、呟く。
もしかして見透かされているのでは? と、少し不安になって。

デートみたいですね。なんて言われたらどうしよう――なんて、
勝手に考えて顔が熱くなる。

「本来はスーツと制服の時にしかないシチュエーションだから、不思議な感じがしませんか?」
 
394: (茸) 2022/05/24(火) 19:55:05.32 ID:zou72Vr8
分かっていてからかっているんじゃないかと少し疑いたくなるけれど、
しずくちゃんは特別には思っていないといった様子で、窓に映る姿を見て視線に気付いたのか、笑みを浮かべる。

「スーツより、似合いますね」

不意を突かれて、しずくちゃんから顔を背ける。
私服にダメ出しされるよりは良いことだけれど、
褒められたら褒められたで……とても、緊張してしまう。
なにせ、しずくちゃんは可愛くて、優しい女子高生だから。

嬉しいくせに、素直にありがとうと言うのは恥ずかしくて、
それはスーツが似合わないって言ってるのかな。なんて、茶化す。

しずくちゃんはなぜだか驚いた表情を見せると、いつものような可愛らしい笑みを浮かべる。

「そんなことはありませんよ。スーツも、良いと思います」

隣にいてくれるだけで、それを向けて貰えるだけで、
本当に幸せになれる……そんな微笑み。

その笑みで褒められてしまうと……やっぱり、心が弾んでしまう。
 
396: (茸) 2022/05/24(火) 20:28:59.91 ID:zou72Vr8
気恥ずかしさに堪えながら、掠れるような声でお礼を言う。
スーツが似合うと言われるのも、
私服が似合うと言われるのも、どちらも嬉しいことだ。

しずくちゃんのような可愛らしい女の子に言って貰えたなら、なおのこと。

ちらっと横を見て、しずくちゃんを見下ろす。
トレードマークと言える赤いリボン、
そして、ストライプ柄のシャツワンピースは、
腰元のベルトで細身のシルエットを作りつつ、柔らかさを出している。

清楚さを感じさせる色合いはしずくちゃんの雰囲気にぴったりで、
整った顔立ちの可愛らしさをより引き立てて、少し大人びた印象を受ける。
 
397: (茸) 2022/05/24(火) 20:40:01.15 ID:zou72Vr8
こういう場合、たぶんきっと、褒めた方が良いのだろう。
可愛いとか、似合ってるとか、そういう……率直な言葉で。

けれど、しずくちゃんは女子高生だ。

自分とは年の離れた女の子……なのに、
大人の男に綺麗とか可愛いとか似合ってるとか、
まじまじと見られながら言われるだなんて、気持ち悪く感じたりしないだろうか。

そんな不安に苛まれて、口を閉ざしてしまう。

けれど……

「……何か一言くらい、言って欲しいです」

しずくちゃんはこっちが何も言わなかったからか、ちょっぴり悲しそうな声で言う。
申し訳なくなって顔を上げると、
窓に映るしずくちゃんはまっすぐこっちを見ていた。

「私用のつもりだったから、普通と言えば普通ですけど……でも、可愛いお洋服、選んだつもりだったんですよ?」

残念そうな声で言うしずくちゃんは、しゅんっと肩を落とす。
あまりにも可愛らしい文句と仕草で頭が痛くなる。可愛いとか綺麗とか似合ってるとか。

そんな言葉が全部吹き飛んでしまうほどに。

――好きだよ。と。

思わず言ってしまうほどに。
 
400: (茸) 2022/05/24(火) 21:55:23.83 ID:h8QildyX
「……へっ?」

しずくちゃんの間の抜けた声にはっとして、思わずしずくちゃんから距離を取る。
その瞬間に、背中が電車の接合部付近の角にぶつかって、じんわりとした痛みが背中に滲む。

「あ、あの……」

しずくちゃんは恐る恐ると言った様子でこっちに体を向けて、顔を向けて来て……
その顔色の赤さに、自分の失言が本当に怒ったものだったのだと悟る。

――いや、違う。違うよ。その服装が、そう、ファッションが。

なんて、取り繕っている感丸出しの素っ頓狂な声で否定をすると、
しずくちゃんは視線を彷徨わせて、唇に人差し指の横腹を触れさせながら、また前を向く。

「そ、そう。ですよね。あははっ……」

しずくちゃんもしずくちゃんで、誤魔化すときにするような笑い声を零して、
居ても立っても居られないと言った様子で横髪をいじいじとする。

「驚いちゃったじゃないですか……もうっ……駄目ですよ。私、高校生なんですから……」

分かってる。と、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら頷き、
しずくちゃんとは距離を取ったまま、変なこと言ってごめん。と、謝る。

「……語弊があっただけで、変ではなかったですよ」

しずくちゃんは、ちょっぴり沈んだ声で言う。
しずくちゃんの髪をいじる指は止まることなく、出来てしまった距離は中々埋めることが出来なくて、
それもあって、上手い言葉が見つけられずに……沈黙が続いてしまった。
 
406: (茸) 2022/05/24(火) 22:39:48.20 ID:h8QildyX
互いに暫く黙ったままの時間が続き、お台場に着いたら適当な理由をつけて別れた方がお互いのためになるのではないか。と、
普段は一緒にいたいと考えているくせに、そんなことまで考えてしまうほど、気まずかった。

しずくちゃんが言っていたように、しずくちゃんは女子高生だ。
だから、本当なら故意にこんな近くにいるわけにはいかないし、ましてや、
アルバイト関係などの正当な理由もなしにここまで親し気に会話するのもするべきではない。

それを思い出させられて、消極的になってしまっているのも気まずさに拍車をかけているのだろう。

しずくちゃんも、雲がかかったかのように表情が陰ってしまっていた。

「あの……」

そうして、先に口を開いたのはしずくちゃんだった。

「別に、嫌だった……とかでは、無いですよ。人に好かれるのは好きですし、そう言って貰えるのは嬉しいので……」

しずくちゃんはそう言うと、小さく意を決したように息を吐いて顔を上げる。
決心しての行動だからか、こっちを見る動きは機敏で……目を逸らさせない。

「ただ、驚いちゃっただけですから、あんまり気にしないで貰えると……嬉しいです」
 
407: (茸) 2022/05/24(火) 23:15:26.05 ID:h8QildyX
しずくちゃんはそう言いながら、可愛らしい笑みを浮かべる。
いつもよりはちょっぴり曇ってしまっていたけれど、
それでも可愛らしさは変わらず、庇護欲が湧いてきて……愛おしくなってきてしまう。

やっぱり――。

悪いことだと分かっているし、駄目なことだという自覚もあるが、
だからと言って、好意を抱かずにいられるのかは別の話だ。
問題は、それを表に出さずにいられるかどうかだろう。

出していい相手と、出してはいけない相手がいて、
しずくちゃんは間違いなく、後者に属している年齢の女の子で、
いくら、しずくちゃんが好かれることが嬉しいと言っているとしても、声を大にしてはならないものだ。

……ならないものだと、分かってはいるけれど。
しずくちゃんが許してくれるのならと、欲が出てしまうもので。
そう言って貰えるとこっちも助かるよ。と笑う。

もちろん、口を滑らせてしまったこっちが悪いのだから、一切何もなしというのも……居心地が悪い。

もしよかったら、向こうに着いたら何か奢らせてくれないか。と、ダメもとで言ってみる。
しずくちゃんは「そうですね……」なんて考えながら呟いたかと思えば、笑みを浮かべる。

「それなら、ちょうど行ってみたかったお店があるので……付き合って貰えますか?」

伺いを立てるようなしずくちゃんの表情に、二つ返事で答える。これでも仕事をして給料を貰っている身だ。
しずくちゃんとの付き合いでなら、たとえ食事代で簡単に数万円飛ぶようなところだって喜んで連れていく。と、心の中で覚悟する。

「ありがとうございます」

しずくちゃんはそのお店に行くことが出来るのがよほど嬉しいのか、晴れ晴れとした、可愛らしい笑みを浮かべた。
 
415: (茸) 2022/05/25(水) 06:03:34.78 ID:gf78ULFO
ライブ開始までにはまだ時間はあるものの、
ライブを行うエマ・ヴェルデの関係者であるしずくちゃんは、
普通の観覧者よりも早めに会場についておきたいらしく、
しずくちゃんの行きたいお店はライブが終わった後に行く事になった。

ライブ会場からそのお店までは徒歩圏内のため、
行きでも帰りでもこっちとしては何も問題がない。

そもそも、大人の自分は門限も何も、
そういった制限がないことだけが取り柄みたいなところがある。

なんて冗談めかして言うと、しずくちゃんは「それはちょっと羨ましいですね」と、笑ってくれた。
 
416: (茸) 2022/05/25(水) 06:27:44.15 ID:gf78ULFO
会場は、新橋駅でゆりかもめに乗り換え、
お台場海浜公園駅で降りてから少し歩いたところにある野外ステージ。

今回のライブのために作られた特設ステージではなく、
他の学校のスクールアイドルなども利用することのある常設されているステージで、
スクールアイドルという存在がどれほど浸透しているのかが窺える。

会場に到着すると「しずくちゃん?」と、どこからかしずくちゃんの名前が呼ばれた。
しずくちゃんと一緒に声のした方に振り返ると、「おはよう」と、しずくちゃんを呼んだ女の子が近付く。

「おはようございます。侑先輩」

しずくちゃんの知り合いで、同好会に所属する一人の侑先輩。
調べたところによれば、同好会に所属しているが、スクールアイドルというわけではなく、
しかしながら、SIFを企画した第一人者だという侑先輩――高咲侑。

正直に言えば、羨ましい立場にいる子だ。
 
418: (茸) 2022/05/25(水) 06:42:03.80 ID:gf78ULFO
侑ちゃんはしずくちゃんに「今日も早いね」と笑顔を浮かべると、こっちを見上げてきた。

「しずくちゃんの……お兄さん?」

侑ちゃんは少し悩んで、違うかも……なんて様子を見ながら訊ねてくる。
そうだよ。と言いたくなるが、しずくちゃんとの関係がそれで周知されてしまうことを考えると、
勝手に言うわけにはいかないと思ってしずくちゃんに目を向ける。

「そうですね。私のお兄さんです」

しずくちゃんはちょっぴり悩んで答える。侑ちゃんはしずくちゃんへと向き直ると小首をかしげる。
左右に垂れている髪の束がゆらゆらと揺れた。

「しずくちゃんって兄弟いたんだねっ知らなかった~」

本気か冗談か、そう言った侑ちゃんはもう一度こっちを見る。最初の観察するようなものはなく、
しずくちゃんの兄弟なら……といった信頼のようなものを感じさせる雰囲気で。

「高咲侑です。宜しくお願いします」

丁寧にどうも。と、挨拶を返す。
しずくちゃんの知り合いかどうかという肩書きは、とても重要なことだったようだ。
 
420: (茸) 2022/05/25(水) 07:23:09.43 ID:gf78ULFO
「もう、皆さん来られてますか?」

しずくちゃんは周囲を一目見て、侑ちゃんに訊ねる。
みんなとは虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の面々だろう。

「まだ早いからね。果林さんと愛ちゃん、かすみちゃんと彼方さんはまだ見てないかな」

それ以外のメンバーはもう会場に来ていて、音響確認だったりなんだったりをしたりして、
落ち着いたからとあちこちに散らばっているそうだ。

侑ちゃんは「一旦集まる?」と言ったが、しずくちゃんは首を振る。

「後で会えるので大丈夫です」

そのときは自分はいない方がいいのではと、ちょっとだけ思う。
侑ちゃんはあんまり深く考えずにいてくれているようだけど、
根掘り葉掘りと聞かれてしまうと、危ない気がするからだ。
 
421: (茸) 2022/05/25(水) 07:29:27.45 ID:gf78ULFO
「しずくちゃんは……このまま、お兄さんと?」

侑ちゃんの何気ない質問だったが、ついつい動揺してしまう。
だって、しずくちゃんはお兄さんだなんて言ってくれたが、実際は知人程度の関係でしかない。

侑ちゃん達とこっちとで比べてしまえば、どちらが優先されるかなんて考えるまでもないことだろう。

お兄さんまた後で。と、しずくちゃんに置いていかれてしまうかもしれない。
追求を避けるならそれが好都合なはずなのに、
あまり……喜べない。

「そうしないと、お兄さん逃げてしまいそうなので……」

その葛藤を知ってか知らずか、
しずくちゃんはちらっとこっちを見て、可愛らしく笑みを浮かべた。
 
422: (茸) 2022/05/25(水) 07:37:47.36 ID:gf78ULFO
侑ちゃんは最初、逃げる。という言葉に疑問符を浮かべている様子だったけれど、
少しの間眉を潜めて、得心がいったように声を上げた。

「しずくちゃん言ってたもんね。男性がライブに参加しにくい空気感があるって」

侑ちゃんは辺りを見回しながらそう言ったが、侑ちゃんはあんまりそういう風には感じられていないようだった。

こういったライブに限らない話だが、女性客ばかりだったりすると、どうにも居心地が悪くて。と、侑ちゃんに話す。

「……そうなんですね。私の場合は、逆でも普通に参加できちゃうから、気付けないのかも……」

しずくちゃんはふむふむ。と、悩み始めた侑ちゃんの姿に微笑むと

「なので、今日はお兄さんと一緒にいますね」

そう言って「お兄さん」とこっちを見る。

「それでも構いませんか?」

もちろん、断れるわけがなかった。
 
423: (茸) 2022/05/25(水) 07:50:21.85 ID:gf78ULFO
しずくちゃんと一緒に、会場周辺を歩く。野外ライブということもあってか、色々と出店もあるようで、
ライブが始まる前から結構な賑わいを見せている。

一つか二つ、何か食べるかとしずくちゃんに聞くと、しずくちゃんはちょっぴり悩んで見上げてくる。

「お兄さんは食べます?」

もうすっかりお兄さんが定着していそうなしずくちゃんの自然な呼び方。

そう呼んでくれるのは嬉しいことではあるけれど、その一方で、
まだ慣れなくて少し固まってしまうため、
しずくちゃんは楽しそうに笑う。

「お兄さんは、やめておいた方がいいですか?」

しずくちゃんは意地悪に、そんなことを言う。ならどんな呼び方になるというのか。
侑ちゃんにはもうお兄さんと言ってしまっている手前、
他の人には別の紹介をするわけにもいかないのに。

お兄さんでいいよ。と、諦めて答える。

「なら……お兄さん。あれ、食べてみませんか? 虹ヶサンド」

しずくちゃんは屋台の一つを指差して、袖を引いた。
 
428: (茸) 2022/05/25(水) 08:27:17.14 ID:gf78ULFO
虹ヶ咲サンドイッチ――通称、虹ヶサンド。虹ヶ咲学園にあるサンドイッチ同好会とかいうユニークな同好会考案のサンドイッチだ。

とは言うが、実際には様々なフルーツを使っているフルーツサンドで、変に挑戦的な代物ではない。

「一つ下さい」

しずくちゃんはそれを一人分頼む。

一人分でも500円と、コンビニとかで考えるとちょっぴり割高に思えるが、
こういう場では普通なのだろうか。

そんなことを考えつつも、ひとまず、しずくちゃんを制して、払うよ。と、店員にお金を渡す。

「このくらい……」

このくらいだから払うんだよ。と、しずくちゃんを遮る。
これで恩を売ろうだの、さっきの罪滅ぼしだのとは考えていない。
ただ、一緒に居てくれるお礼だと言って、受け取った虹ヶサンドをしずくちゃんに渡す。

「ありがとうございます……」

しずくちゃんはそれを受け取ると、きょろきょろと周りを見て、運良く人が立ったばかりのベンチに誘ってきた。
 
429: (茸) 2022/05/25(水) 08:38:15.61 ID:gf78ULFO
しずくちゃんが座った傍で立っていようとすると、しずくちゃんは不思議そうにこっちを見上げて、
まだ空いている隣を軽くぽんぽんっと叩く。

「大丈夫ですよ?」

しずくちゃんは周囲の目を気にしているとでも思ったようだ。

「今はたぶん、兄妹くらいにしか思われませんから」

どうぞ座ってください。としずくちゃんは言う。
ここまで言われて立っているのも、しずくちゃんの機嫌を損ねてしまうのではと思って、仕方がなく座る。

心が狂喜乱舞していて吐きそうなほど心臓が早鐘を打っているが、努めて平常心を装う。

「お兄さんは気にしすぎですよ。私が、あんな風に拒んじゃったからかもしれないですけど……」

いや、本当はしずくちゃんのことが好きだから……なんて、
正直なことを言えるわけもなく、
年齢的にね。と、笑って誤魔化す。

3年生相当ならまだしも、まだ高校に上がりたての1年生は、さすがに不味い。
 
430: (茸) 2022/05/25(水) 09:00:03.84 ID:gf78ULFO
虹ヶサンドは食べやすいように一口分ほどに四角くカットされていて、可愛らしい串が1本刺さっている。

しずくちゃんはそれを一つ食べると、ぱぁっと表情を明るくさせた。

「ん~っ、美味しいですっ」

嬉しそうに声を上げたしずくちゃんがあまりにも可愛くて、嬉しそうで、
こっちまで同じような気持ちになって、気分が高揚し、自然と笑みが溢れてしまう。

これなら5000円いや、5万円のフルーツサンドだったとしてもお釣りが来る。
なんて考えていると、口元を隠して飲み下したしずくちゃんは、ちょっぴり恥ずかしそうに笑う。

「美味しくて、つい」

テンションの急上昇を自覚したのだろう。控えめに言ったしずくちゃんは、それはそれで可愛らしくて、微笑ましくて、温かくなる。

しずくちゃんは「本当に美味しいんですよ」と言って。

「お兄さんも一口どうぞ」

虹ヶサンドの乗ったパックを膝の上に起き、一口分を串に刺して、手皿でこっちへと向けてくる。

えっ。と、間の抜けた声が漏れたが、しずくちゃんは気にしていないのだろうか。

「どうぞ。お兄さん」

しずくちゃんがそっと近付けてきて……食べさせられてしまう。
フルーツの仄かな酸味と甘味と、果汁が混ざったクリーム滑らかな食感……を、感じた気もするが、それどころではなくて。

「美味しいと思いませんか?」

何て言われても、相槌が限界だった。
 
440: (茸) 2022/05/25(水) 18:13:23.14 ID:gf78ULFO
「甘いの、苦手ですか?」

相槌ばかりだったからか、しずくちゃんは甘いものがあんまり好みじゃないのかと思ってしまったらしい。

しずくちゃんは心配そうに言ってくるけれど、
甘い食べ物は人並みには食べられるし、
これに関して言えば十分美味しくて、食べられる。

しずくちゃんが無理矢理食べさせたんじゃないかって罪悪感を抱くことがないように、首を振って。

甘い果物は好きだよ。と、答える。

「そうなんですか? じゃぁ、もう一つ食べます? メロンとかイチゴとかありますよ」

しずくちゃんは嬉しそうに言って「どれが良いですか?」なんて可愛らしく笑う。

しずくちゃんは本当に分かっていないのだろうか。
それとも、こっちが気にしすぎているのだろうか。

所謂、間接キス的なことをしているんだって。

かといって、もう要らないよ。とは言うわけにもいかず、
好きな果物が挟まっている一口分をもう一度、食べてしまう。

「美味しいですねっ」

しずくちゃんは満面の笑みで、今度は自分の分を串に刺して口に含む。

柔らかそうではあるものの、ぷっくりと膨らんでいる唇。
リップが塗ってあるのか、艶があるその唇が串を挟んで……ぬるりと、串がしずくちゃんに染められていく。

「もう一つどうぞ」

しずくちゃんは、そんなことを気にされているなんてこれっぽっちも考えていないようで、
視線に気付いて笑みを浮かべると、もう一口を差し出してきた。
 
441: (茸) 2022/05/25(水) 18:24:51.90 ID:gf78ULFO
結局、交互に3口ずつほど食べあって、
こっちは燃え尽きそうなほどになっているというのに、
しずくちゃんは我関せずといった様子だ。

「美味しかったです。ごちそうさまでした」

にこやかな笑みを浮かべるしずくちゃん。間接キス的なことをしてたけど大丈夫?と、
気付かせたらしずくちゃんはどんな反応をするんだろう。

なに気にしてるんですか……気持ち悪いです。と、言われるだろうか。
汚いものを口にしたと嘔吐するだろうか。
いずれにしても、知らぬが仏というものもある……と、言葉を飲み込む。

「……大丈夫ですか? 熱中症とか……」

黙り込んでいたのが気になったのだろう。
しずくちゃんは心配そうに言うと、小さな手をこっちの額に触れさせる。

思わずびくっとしてしまったけれど、
しずくちゃんは熱がないかどうかしか意識にないようで、隣から覗き込んでくる。

「飲み物買って来ましょうか?」

ただ、間接キスが気になっているだけ――なんて、口が裂けても言えない。
かといって、大丈夫。と言っても信じてくれそうにはなくて、頷く。

「分かりました……待っててくださいね。動いたらダメですよ?」

急いで買いに行くしずくちゃんを見送って、頭を抱えてしまう。
表に出してはいけない気持ちを出してしまいたくさせる、しずくちゃんの言動。

可愛くて、優しくて、良い匂いがして……無防備で、距離感に無頓着で。

しずくちゃんは本当に無防備で、あまりにも危険だと再認識させられた。
 
443: (茸) 2022/05/25(水) 18:58:53.28 ID:we9nTmvk
しずくちゃんはスポーツ系の飲み物を買ってきてくれて、ありがたく戴くことにした。

熱中症ではないはずだけれど、熱を帯びた身体にはその冷たい刺激は強烈で、
かき氷でも食べたかのようなキンっとした痛みが一瞬だけ襲ってくる。

「大丈夫ですか?」

心配そうなしずくちゃんに向かって、頷く。
体力はあるつもりだし、熱中症ではないつもりだし、
ただただ、しずくちゃんの無自覚な……。

ちらっとしずくちゃんを見る。
自分の分も一緒に買って来ていたようで、ペットボトルに口を付けて、こくり……こくり……と、喉を鳴らしている。

髪が貼り付くほどではないけれど、
日の熱さにあてられているしずくちゃんの頬を汗が流れていく。

「……ふぅ」

ペットボトルを離して、ひと呼吸。
瞬間的に放心したような様子を見せたしずくちゃんは、見られていると察してほんのりと赤らんだ笑みを見せた。

「暑いですね……大丈夫ですか?」

ある意味ではダメかもしれない――

そう思って、大丈夫。と、嘘をつこうとしたところで「あら、しずくちゃんじゃない」なんて、
後ろからしずくちゃんへと声が飛ぶ。

振り向いたのとほぼ同時に、しずくちゃんが顔を上げて。

「果林さん」

その女の子の名前を呼んだ。
 
446: (茸) 2022/05/25(水) 19:28:34.39 ID:we9nTmvk
「どうかしたんですか?」

しずくちゃんに問われた果林さんは、
悩ましげな表情を浮かべながら、首をかしげる。
なにか深刻なことでもあったかのような雰囲気を感じたけれど、
しずくちゃんはさほど心配といった様子ではなくて。

「愛を見かけなかった? 気付いたらどこかに行っちゃったみたいなの」

果林さんとは、しずくちゃんと同じく虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会に所属する3年生の朝香果林で、
その果林ちゃんが言う【愛】とは、哲学的なあれとかではなく、
同好会にいる2年生の宮下愛のことだろう。

けれど、しずくちゃんは首を横に振る。

「いえ、私は見ていません……けど、連絡もつかないんですか?」

果林ちゃんは「そうなの」と言って、しずくちゃんにスマホを見せた。

画面には居場所を訊ねる果林ちゃんのメッセージと、
不在で電話に出なかったメッセージが表示されている。

何かあったのかもしれない。
有事と知って放っておくわけにもいかないし、探しに行く? と、切り出す。

「……どちら様?」

返ってきたのは、果林ちゃんのもっともな疑問だった。
 
448: (茸) 2022/05/25(水) 20:15:38.88 ID:we9nTmvk
しずくちゃんの隣にいたからといって、必ずしも知り合いとは限らないわけで、
果林ちゃんはこっちをじっと見てからしずくちゃんへと向き直る。

果林ちゃんにとって赤の他人であるこっちの聞くより、
同じ同好会メンバーで後輩のしずくちゃんからの方が信頼できるだろうから、当然だろう。
その事に特に不満はないのだが、
しずくちゃんは一体どう返すつもりなのだろうかと……ドキドキする。

けれど、しずくちゃんは平然としていて。

「お兄さんですよ」

迷いの一切感じられない表情で、そう答えた。
侑ちゃんにそう言ったのだから、そう言うしかないのは分かっている。
分かっているけれどいくらなんでも堂々としすぎなのでは? と思わざるを得ない。

果林ちゃんは「お兄さん……?」と不思議そうにこっちを見た。

「でも、兄妹ではないでしょう?」

たぶん、侑ちゃんがあっさり騙されていたというか、深く考えなかったのだろうけど、
果林ちゃんは兄妹かどうかについて、踏み込む。
 
450: (茸) 2022/05/25(水) 20:49:19.15 ID:we9nTmvk
意固地になって兄妹だなんて嘘つく意味はない。
しずくちゃんもそれは理解しているようで、
果林ちゃんに突っ込まれてすぐ、ちょっぴり残念そうに頷いた。

「そうですね……違います。歳上なので、お兄さんではありますけど。兄妹というわけではないんです」

しずくちゃんは正直に答え、果林ちゃんは相槌を打ちながら一瞬だけこっちを見て、眉を潜めた。

「じゃぁ、この間しずくちゃんが言ってた男性ファンって、このお兄さんのことかしら?」

しずくちゃんはちらっとこっちの様子を見ると、果林ちゃんに向かって首肯で答える。

果林ちゃんの追求に答える形というのがなんとも居住いが悪いけれど、
違うと首を振られて、誰か自分以外の男性ファンに気を引かれているのでは。なんて、
やきもきせずに済んだのは、心に優しかった。

「だから、今日は一緒にいた方が心置きなく楽しめると思ったんです」

果林ちゃんは「ふぅん……」と、こっちを見つめてくる。
しずくちゃんよりも大人びていて、やや妖艶と言えるような雰囲気を感じさせる果林ちゃんは、その凛とした目を細めると、

「だったら、邪魔しちゃったかしら」

からかうような声色でしずくちゃんを突っつき、意地悪な笑みを浮かべた。
 
451: (茸) 2022/05/25(水) 21:11:10.20 ID:we9nTmvk
何を勘ぐっているのか知らない――わけがない。

そんな関係に思われるほど仲睦まじく見えていたり、
そんな関係へと至ることが出来たのならどれだけ幸せなことだろうか。と、
しずくちゃんに出会ってからというもの、
考えてしまうことの多いものなのだから。

実際にその関係であったり、誤解されても構わないといった好意があるなら話は別だけれど、
そうではない場合には確実に亀裂が入ってしまう。

それは困る。と、思考を無理矢理働かせて言葉を探す。

その結果

――熱中症のような感じがあったから休んでるだけだよ。

なんて、答えにならない答えを返してしまう。
 
453: (茸) 2022/05/25(水) 21:26:41.22 ID:we9nTmvk
しずくちゃんは「そうなんです。だから全然平気ですよ」なんて相乗りし、
果林ちゃんは少し困った様子ではあったけれど、

「本当に熱中症なら大変ね……」

と、一応は心配してくれる。
しずくちゃんは元からそうだけれど、果林ちゃんも意外とこっちに冷たくあたって来ることはなく、
気遣ってくれる優しい子だ。

とはいえ、しずくちゃんとは纏っている雰囲気が違っていて、多少なりと警戒してしまう。

「璃奈ちゃんなら熱冷ましシートを持ってるんじゃないかしら。貰って来る?」

そんな警戒心なんて露知らず、すぐにでも動こうとしてくれる果林ちゃん。
けれど、その歩みはしずくちゃんに止められてしまう。

「私が貰って来るので果林さんはここにいてください!」

そう言うだけ言って、当のしずくちゃんは一目散に離れていく。
その後ろ姿につい、逃げたな。と、微笑ましさを感じてしまったのは、自分だけではなかった。

「……逃げられちゃったわね」

と、果林ちゃんは小さく笑みを浮かべて、こっちを見た。
 
456: (茸) 2022/05/25(水) 22:08:02.40 ID:U6FVX/tU
しずくちゃんはとても可愛い女の子で、
一緒にいるとドキドキさせられるし、気になってしまうし、目が離せなくなったりしてしまう。
けれど、果林ちゃんはそのほとんど正反対だ。

調べたところによれば、果林ちゃんはスクールアイドルとは別に読者モデルもやっているという話で、
実際に姿を目にしてみれば、なるほど、かなり目を惹くスタイルをしているなと思う。

そのすらりとした肢体からは気高い雰囲気が感じられるからか、
しずくちゃんのように可愛らしいと言うよりは、美人だと言えると思う。

そして、だからこそ。だろうか。
何を言われるのか、何をされるのか……ちょっとだけ恐怖を覚えてしまうから、ドキドキとさせられてしまうし、気が気でなくなる。

とはいえ――。

果林ちゃんと自分は、言ってしまえばしずくちゃんの知り合いと、しずくちゃんの友達である。

友達の友達と友達の友達で、仲を取り持つ友達がいなくなってしまった。そんな気まずさが分かるだろうか。

友達とこういう話をしていたから、きっと興味を持つだろう……という想定の話題は持っているけれど、
親しいかと言われれば親しくはない自分から声をかけられて、
変な空気になってしまわないだろうか。と委縮してしまう。
そういうあれが、今まさに果林ちゃんと自分だった。

けれど

「可愛いわよね。しずくちゃん」

果林ちゃんはおもむろに、そんな当たり前のことを呟いた。
 
457: (茸) 2022/05/25(水) 22:31:26.56 ID:U6FVX/tU
当たり前だからと言って、当たり前じゃないか。何言ってるんだ。とはさすがに言うことが出来ない。
果林ちゃんは美人でも女の子だけれど、美人で大人びているから、
その目で冷ややかに睨まれたら、心臓がきゅっとなってしまいそうだからだ。

それもあってこっちが何も言えずにいると、
果林ちゃんはしずくちゃんにも向けていたような意地悪な笑みを向けてきた。

「あら……しずくちゃんじゃ、物足りないのかしら?」

いくら何でもそんなことを言われてしまっては、何言ってるんだ。と、憤ってしまう。
正直に言ったら引かれそうだったから。と、果林ちゃんに目を向けることなく答えて、息をつく。
本当は言うつもりなかった。言えば、引かれてしまうから。けれど、果林ちゃんから吹っかけてきたことだ、多少は目を瞑ってくれるだろう。

――可愛いと思ってるよ。もちろん。

はっきりと答えながら、しずくちゃんが向かっていった方向をじっと眺める。
果林ちゃんほどの子が隣にいてくれるというのも名誉なことだと思うけれど、人によっては不快かもしれないが、こう、心が躍ることはなくて。

しずくちゃんが可愛くなければ、何が可愛いと思えるんだろうと思うくらいにはそう思っている。とまで言うと、
果林ちゃんは「なるほどね」と、何か納得したかのように言う。
 
459: (茸) 2022/05/25(水) 23:05:35.11 ID:U6FVX/tU
果林ちゃんは何を納得したのだろう。と、目を向けると、やっぱり、しずくちゃんとはまるで違って、端麗な横顔が見えた。

「しずくちゃんは、ああ見えて――と言っても、見たままかしら。結構、夢見がちなところがあるのよ」

急に何の話かと戸惑っているのを悟られたのか、果林ちゃんはこっちを横目に見て、ふっと息を吐く。
大人びている果林ちゃんのその神妙な雰囲気には、少し、緊張させられてしまって、居住まいを正す。

「だから、例えば……そう。電車で親切してくれた人と、街中で再会したって、偶然とか運命的だとか。嬉しく思っちゃうんでしょうね。それが劇的なことであれば、なおのこと」

果林ちゃんは瞬きすると、こっちから目を逸らしてしまう。見ていられても困るけれど、
見ていられないと態度で示されたような気がして、ドキリとする。

しずくちゃんから電車でのことやあの砂浜でのことを聞いていた果林ちゃんは、
しずくちゃんのように、素直に受け止めたりはしていなかったのだろう。

当然……だろうか。

「果たして、それらは本当に偶然だったのかしら。って、私は気になってるのだけど……ね」

どう思う? と、分かっていて問われたような気がして、息を飲みながらも、
電車も、砂浜でのことも偶然だったよ。と、堂々と答える。

実際、電車での最初の出会い、あのハンカチを拾ってくれた瞬間は偶然だったし、
砂浜で散歩に来たしずくちゃんと出逢ってしまったのは、もはや、奇跡の産物だったと言えるだろう。

思い返しても――ほんとうに、奇跡的だったと、感慨深く浸ってしまうほどだ。
 
474: (茸) 2022/05/26(木) 06:56:30.84 ID:/71fWFub
「璃奈さん達にも、もし愛さんを見かけたら果林さんに連絡を取るように伝えて貰えるよう言って来ました」

しずくちゃんがそう言うと、果林ちゃんは「助かるわ」と言って、手元のスマホを確認する。
さすがにさっきの今で連絡が来ているわけもなく、
それでも、もう一度電話をしてみるようだ。

「貰って来ました」

一方で。といった様子で熱冷ましシートを見せてきたしずくちゃん。
欲しいですか? と聞かれているような、見せびらかされている感じがして、
ありがとう。と、お礼を言いつつ手を差し出してみる。

けれど、しずくちゃんは璃奈さんから貰って来た熱冷ましシートをこっちには渡さずに、
ぺりぺりと、裏の透明シートを剥がしていく。

しずくちゃんも使うのだろうと思ったが、しずくちゃんはぐるりとこっちの背後に回ると「首に貼るのが良いらしいですよ」と、言って。

「貼りますから、ちょっとだけ襟のところ引いて貰って良いですか?」

いや、自分で……と、果林ちゃんの目を気にして言ったが、
しずくちゃんは「首は貼りにくいと思うので」なんて、貼る気まんまんだった。
 
475: (茸) 2022/05/26(木) 07:14:57.49 ID:/71fWFub
しずくちゃんからしてみれば、介抱の一つでしかなく、ただの善意なのかもしれない。

とはいったって、あまりにも親切が過ぎるんじゃないかと思ったが、
首に貼るのが普通より手間なのは事実で、
このくらいのことでも拒否反応を示していたら、
変に意識し過ぎているようで……助かるよ。と、諦めて襟の部分を引く。

「冷たいですけど、驚かないでくださいね」

言われた傍から、ぺたり。なんてゼリー状の感触と共に冷え冷えとした感覚が一気に広がって来て、
反射的にびくんっとしてしまう。

しずくちゃんを驚かせてしまったらしく「きゃっ」なんて、小さな悲鳴が可愛らしく上がる。

可愛い……けれど、ひとまずは謝るべきかと振り返って、ごめん。と謝る。

しずくちゃんは悲鳴を上げてしまったことが恥ずかしかったのか、
ちょっぴり頬を赤くしながら顔を背ける。
座っている自分と、立っているしずくちゃんという状況もあって、
その可愛らしい紅色ははっきりと見えたままだった。

「……何してるのよ」

電話を出来たらしい果林ちゃんがようやく気付いて、呆れたように呟いた。
 
476: (茸) 2022/05/26(木) 07:24:23.20 ID:/71fWFub
しずくちゃんは「貼ってあげてたんです」と、簡単に答えて、手を使って自分を扇ぐ。

それだけにしてはなんだか……という訝しげな果林ちゃんではあったけれど、
人目につくこんな場所で大それたことをしでかすこともないと思ったのだろう。
ため息をついて。

「しずくちゃん、親切が過ぎると勘違いされちゃうわよ」

それでも見逃せないとばかりに、忠告する。
それは尤もな話なのだけれど、これからはしずくちゃんが変に距離を取ってしまうのではないだろうか。

普通なら、すれ違うことがある程度の、関係ともいえない関係であるべき年の差があるから。
しずくちゃんが改めてしまったら、そこで終わりになってしまう可能性だって。

しずくちゃんは「そうですね」と言って、一歩下がる。

「気を付けます」

今日が終わったら、もう関係も終わってしなうのではないかと、不安にさせられる声だった。
 
477: (茸) 2022/05/26(木) 07:44:41.05 ID:/71fWFub
ちょっとだけ、しゅんっとしてしまったかのような雰囲気のしずくちゃん。
そうさせた果林ちゃんと、そうさせる原因の自分。
ピリピリとした緊張感があるわけではないものの、
痛ましい沈黙に包まれて――

「かりーんっ!!」

遠くからの全力疾走と大声がその気まずさを吹っ飛ばして、
その代わりとでもいうかのように、すっぽりと女の子が飛び入り参加する。

「もーっ、ちょっと待っててって言ったのに歩いて行っちゃうから……愛さん全力で探し回っちゃったじゃん」

愛さんを自称するこの元気っ子は、宮下愛。
果林ちゃんが探し、果林ちゃんを探していたらしく、
あと少し遅ければ迷子放送が響いてたようで。

果林ちゃんは「冗談じゃないわ」と、気が気ではない様子だった。

「大体、私何も聞いてないわよ。気付いたら愛がいなかったんじゃない」

言われて驚く愛ちゃんは嘘を言っているようには見えないし、
言ったつもりで言えてなかったか、
言ってはいたが、喧騒にかき消されてしまったか、
不運にも、聞き逃してしまったか。

いずれにしても会えたなら……と、安堵すると、

「……誰?」

愛ちゃんはこっちを見て首をかしげたけれど、
すぐ傍にしずくちゃんがいることに気付いたからか、
何も言われることなく「あぁ」と、得心がいったと笑う。
 
478: (茸) 2022/05/26(木) 07:50:09.16 ID:/71fWFub
「しずくが言ってた、例の人かな? 初めまして! 愛さんは宮下愛! よろしくね!」

そうして、手を差し出されて困惑してしまう。まさか、握れと……? なんて躊躇っていると、
愛ちゃんは「そんなに手汗かいてないよっ」なんて、着ていたシャツの裾辺りでごしとする。

いや、それは全く気にしてないけど……と、思って愛ちゃんを見る。
見られていると気付いてすぐに、にこっと笑う愛ちゃん。

相手が男だとか、ほんと、全く気にしていないと悟って、
男性ファンを相手にすることに慣れているのかもしれないと思い、
受け取らないのは逆に不自然になりそうで……握手する。

「やっぱり、手が大きいねっ」

愛ちゃんは手を握られても快活な笑顔でそう言うだけだった。
 
482: (茸) 2022/05/26(木) 08:25:12.71 ID:/71fWFub
「どうして愛はそう……」

しずくちゃんへの忠告が見事なまでに水泡に帰すような愛ちゃんの行動。
果林ちゃんは呆れたように言うものの、
愛ちゃんとしては何もおかしなことはしていないと思っているようで。

「え? 愛さん何かした? もしかして、他人の手を握りたくなかった?」

愛ちゃんは自分の行動そのものではなく、こっち側が何らかの理由……例えば、潔癖症などの面があって、
悪いことをしてしまったのではと考えたらしい。

「ごめん。平気だと思って……」

元気な子が急激にテンション下がっていく様なんて見ていられるわけもなく、

いや違う。全然平気だよ。とついつい、口が滑る。

愛ちゃんは、男とか女とかそういった性別を度外視して、
仲良くしていけそうならいってしまう。そういうタイプなのだろうか。
しずくちゃんから話を聞いていたとはいえ……距離感がしずくちゃんのそれとは比べ物にならない。

そうして、愛ちゃんははっと気づいたようにしずくちゃんを見る。

「あっ、愛さんを推しても良いけど……しずくからの推し変とかはちょっと困っちゃうなぁ……」

違う。気にしてるのはそこじゃない。と、果林ちゃんと心が通じた。
 
483: (茸) 2022/05/26(木) 08:39:20.33 ID:/71fWFub
握っていた手を離した愛ちゃんは、
これ見よがしに裾で拭く……なんてことをしたりもせずに、
ちょっとだけ考える素振りを見せたかと思えば「良かったら」と切り出す。

その時点で果林ちゃんが顔をしかめたことに、愛ちゃんは全く気付いてはいないだろう。

「そろそろライブだし、一緒に来る?」

そして……このお誘いだった。
額に手を当てる果林ちゃんと、平気な顔をしている愛ちゃんとの差が少しだけ面白く感じられる。なんて、現実逃避。

「お兄さんが熱中症のような感じだったので、もう少し休んでいきます」

そこから引き戻すかのように、しずくちゃんが断った。
果林ちゃんからの忠告、そこから愛ちゃんの0に等しい距離感。
さすがにしずくちゃんも危機感を持ってしまったのかもしれない。

けれど、正直……助かった。と、安堵する。
 
484: (茸) 2022/05/26(木) 09:00:26.04 ID:/71fWFub
愛ちゃんは「それならしょうがないか」と、残念そうに言いつつも、熱中症と聞いて、心配してくれる。

しずくちゃん以上に距離感が滅茶苦茶に感じられるけれど、
愛ちゃんとしずくちゃんの雰囲気はまるで違うし、
男勝りと言ってしまうと意地悪かもしれないが、
異性と一緒にいても、愛ちゃんだしなぁ……と思えるような子だから、そこまで大きな問題はないかもしれない。

その分、愛ちゃんが意識するようになってからが大変だろうけど。

「もしあれなら帰らないとダメだからね? 熱中症はバカに出来ないし」

愛ちゃんは最後まで心配しながら、果林ちゃんに引っ張られるような形で去っていった。
 
494: (茸) 2022/05/26(木) 18:38:43.27 ID:/71fWFub
果林ちゃんと愛ちゃんがいなくなると、
お祭りが終わってしまったかのような静けさが訪れる。

周囲には数多くの出店があり、それを楽しむ高校生くらいの子供達だったり、家族連れだったりが、とても楽しげにしているけれど……。

2人に引っ掻き回されたせいで、どうにも、居心地が悪く感じられる。

可愛らしく、優しく、純真で、無垢で、無防備。
自分がしていることが相手にとってどれ程のことかを考えてくれなかったしずくちゃん。

それは嬉しくも不安にさせられてしまうもので、控えてくれた方が良いのかもしれないけれど、
下心で語るなら、そのままのしずくちゃんでいて欲しい。

確かに心臓には悪い。けれど、高揚感を感じられたし、愛おしかったからだ。

でも、それは言えない。

しずくちゃんが今までのことを思い出して、
距離感を図り間違えていたと考えて距離を置いても、
勘違いしないでくださいと拒んで来ても、
自分はそれを受け入れなければいけない。

今までのままが良い。なんて、言えない――

「……身体、大丈夫ですか?」

しずくちゃんはこっちのそんな葛藤に気付くわけもなく、
笑顔ではなく心配そうな表情のまま、優しい声で訊ねて来る。
 
495: (茸) 2022/05/26(木) 18:54:44.36 ID:/71fWFub
熱中症のような感じだったというだけで、実際には熱中症ではなく、しずくちゃんの無防備さに刺激されてしまって、
どうにも我慢が利かなくなってしまっていただけだ。

けれど、正直にそう言えるわけがない。

――ありがとう。だいぶ楽になったよ。

そう答えると、しずくちゃんは「なら、良かったです」と、にこりと笑う。

いつもの可愛らしい笑み。抱き締めてしまいたくなるような柔らかそうな雰囲気。
そうして、また、さっきと変わらない距離感のまま隣へと腰を下ろして口を開く。

「……愛さんは誰にでも、あんな感じなんです」

愛ちゃんのライブを生で見たことはもちろん、ない。
とはいえ、スクールアイドルに興味を持ったという手前、
しずくちゃんとの話の種になることもあって、動画サイトでは見たことがある。

そこでの印象を思えば、だろうね。と、頷ける。

「誰かが特別とかではなく、結構近しいというか……言い換えれば、フレンドリーというものなので」

しずくちゃんはこっちが最初戸惑っていたのを見ていたからか、
あんまり気にしないようにって、気遣ってくれているのだろうか。

確かに……女子高生と握手した。なんて出来事は、この歳になると、かなり衝撃的ではある。

分かってるよ。嵐みたいな子だったね。と、しずくちゃんの言葉に同意しつつ、
雰囲気的には太陽みたいだった。と、笑う。

嵐のように荒らしていったけど、太陽のような明るい子。だろうか。

「そしたら、果林さんは北風ですか?」

愛ちゃんが太陽なら、果林ちゃんは北風。昔読んだ童話に照らし合わせた問いに、
確かにそうだったかもしれない。と、頷いた。
 
497: (茸) 2022/05/26(木) 19:38:32.47 ID:/71fWFub
「果林さんとは、何かお話を?」

しずくちゃんはこっちを窺うように見て、聞いてくる。
果林ちゃんとしずくちゃんの仲が悪い……とは思えないけれど、
わざわざ探って来るだけの何かがあるのだろうか。

もしかしたら、さっきこっちにしてきた問いのようなことをしずくちゃんに対してもしていたのかもしれない。
そのせいで、変なこと言われていないかと気にしている……とか。

そんなことを考えながら、大したことは話してないよ。と、答える。

横目に確認してみると、しずくちゃんは中身の入っている、すっかり温くなっていそうなペットボトルを両手で持って、見つめていた。

いつもの可愛らしさを抑えた、ちょっぴり真剣な空気感のあるしずくちゃん。
でもやっぱり、果林ちゃんのそれには及ばないなと思う。

しずくちゃんは、かわいいが似合う。

「お話は出来たんですね……私、ついお二人を置いて行っちゃったから大丈夫かなって、不安だったんです」

しずくちゃんがそう言うと、ペットボトルがパキッ……と音を立てる。
しずくちゃんの手に、少しだけ力が入ったからだろうか。

「果林さんって、読者モデルやってるんですよ。実際に雑誌にも載っていて……凄いと思いませんか?」

読者モデルと普通のモデルの違いも分からないけれど、雑誌に載っている――というのが凄いということだけは分かる。
 
499: (茸) 2022/05/26(木) 20:49:10.08 ID:/71fWFub
果林ちゃんは美人だと思う。それは間違いない。
読者モデルとモデルの違いはともかくとして、ちゃんと本業としてやっていけそうな魅力がある。

しずくちゃんからしたら……いや、同じ女の子からしたら、
その美しさは理想で、その生業は憧れだろう。
異性の目線であっても、あの魅力は相当なものだと言えるほどだ。

確かに凄いね。と、しずくちゃんに同意して、
もしかして、モデルに憧れてる? と、訊ねてみる。
この話の流れなら、しずくちゃんは夢を教えてくれそうな気がして。

「いえ……私は女優になりたいんです。見た人達に、深い感銘を与えられるような……そんな女優です」

しずくちゃんはすんなりと答えてくれた。静かな声色はそれの本気度を表しているようで、思わず目を向けてしまうと、
しずくちゃんもこっちを見て、笑みを浮かべる。

夢を語ったことの気恥ずかしさからか、ほんのりと紅色のしずくちゃん。
小さく「えへへ」と、溢したかのような可愛らしい笑みに、どきっとさせられてしまう。
 
500: (茸) 2022/05/26(木) 21:25:40.44 ID:/71fWFub
しずくちゃんが女優になりたいだなんて、普段のしずくちゃんからはあんまり想像できない。

それはしずくちゃんが隠し通せる実力があるからかもしれないし、
自分がまだ、しずくちゃんに関して無知が過ぎるからかもしれない。
どちらにしたって……まだまだ知らないことがあるんだと、慢心を捨てる。

もっと、しずくちゃんのことを知りたい。

そう思って、けれど、しずくちゃんがこっちの夢については聞いてこなかった理由を悟って、口ごもる。
草臥れたスーツなんかを着ている大人が、
夢を叶えられたなんて思えるはずがないからだ。

「……でも女優って、どちらかと言えば綺麗な人が多いと思いませんか? 演技力も必要ですけど、歳を重ねていっても綺麗なままでいられる。そんな人が……」

しずくちゃんは「果林さんみたいな」と、羨望を交えた声で呟くと、こっちを見つめてくる。

「果林さんと私、どっちが女優に向いていると思いますか?」

そうして、決して安易には決められない問いが囁かれた。
 
501: (茸) 2022/05/26(木) 21:56:56.52 ID:jexFp02m
しずくちゃんはきっと、果林ちゃんだと言ってもしずくちゃんだと言っても笑顔を向けてくれることだろう。
果林ちゃんだと言えば、そうですよね。私もそう思います。なんて言うだろうし、
しずくちゃんだって言えば、お世辞ですか? なんて突っつきながらも、嬉しそうにありがとうございますと言う気がする。

しずくちゃんはそんな風に、特に深く考えることなく、直感的に簡単に答えて貰いたいのだろうか。
それとも、大人として真剣に考えての答えを聞きたいのだろうか。

なんて、大人は大人でも大したことのない大人ではあるが、
しずくちゃんに期待されているだなんて舞い上がって、愚考してみる。

良く、スポーツ選手は適した体格に生まれてくる運が必要だ。なんて言われることがある。
悲しい話だが、それは決して否定することが出来ない話で、
そのスポーツに最も適した体格に生まれてきたかどうかで、大きく変わってくる。

けれどそれは女優にだって言えることだ。美人か否か、愛らしいか否か、
体格と声、相手に向ける瞳――多少は変えられるものではあるけれど、
歪になりかねないものもあって、やはり、左右されることになる。

その点で言えば、果林ちゃんは美人な子に産まれてきただろうし、
女優が美人でなければならないなら、しずくちゃんよりも果林ちゃんの方が向いていると言えるかもしれない。
 
503: (茸) 2022/05/26(木) 22:26:07.09 ID:jexFp02m
とはいえ、別に女優だからと言って美人でなければいけないことはないのではないだろうか。

美人な女優さんもいれば、可愛らしい女優さんだっているはずで、
今のしずくちゃんは果林ちゃんに比べれば、
どうしても可愛らしいとしか言いようがないのだけれど、
だとしたって、女優になり得る力があると思う。

しずくちゃんが言っていたように、
やはり、引きつけられるだけの演技力を身に付けられるかどうか。

女優に限らず、その手の人達が必要最低限としているのがそれだろうし、
それを極めることこそが、最も重要なこと……のはず。

そしてそれは、才能もあるのかもしれないが、
日々積み重ねて身に付けていくものだと言えるだろう。

だからこそ、女優になりたいって夢を持って日々研鑽を積んでいるしずくちゃんの方が向いていると思う。
なんて、無駄に長く考えて……ふぅっと息を吐いて。

しずくちゃんの方が向いていると思うよ。と、答える。

「……果林さんの方が美人ですよ?」

しずくちゃんが果林ちゃんを推してくるのは、憧れているからなのか。
あるいは、自分に自信を持つことが出来ていないのか。
どちらにしたって。と、思ってしまう。

果林ちゃんが美人だから。だから女優に向いている。
ただそれだけの考えであるのなら、否定はとても容易い。

――今は可愛いけど、大人になれば美人になれる。

しずくちゃんはきっと、絶対に。と、
そうに違いないという確信を持ってしずくちゃんに言った。
 
505: (茸) 2022/05/26(木) 22:44:43.52 ID:jexFp02m
しずくちゃんはとても驚いた様子で「かわいい……」と、呟いていたが、
何を当たり前のことをと思って、頷く。

しずくちゃんはいつだってかわいい。今だってかわいい。

初めて会った時から、ずっとそう思っている。
果林ちゃんは確かに美人ではあるし、それを推したい気持ちも分からないわけではないが、
だとしたらしずくちゃんは可愛いという点で推せる。
もちろん、しずくちゃんのことを気に入っている理由はそれだけではない。

「……かっ」

しずくちゃんは何かを言いかけ、けれど、
一言にも満たないほどに短く終わって、顔を真っ赤にして伏せてしまう。
しずくちゃんほどの子が可愛いと言われ慣れていなはずがないだろうに……と、思って、
もしかして、自分に言われたからなのか。なんて、ついついポジティブに考えたくなる。

果林ちゃんに言った通り、夢見がちなのかもしれない。と、早まった鼓動を抑えるために深呼吸をすると、
しずくちゃんも半分ほど被さって深呼吸をする。
胸元を抑えての、やや本気な感じの深呼吸がまた、愛おしい。

「……かわいい、ですか?」

しずくちゃんは落ち着きを取り戻したように取り繕いながらも、
紅色の頬と、恥ずかし気に揺れる瞳はそのままで、こっちに体を向けて、聞いてくる。
けれど、それはとても真剣なようにも感じられて。

――可愛いと思ってるよ.

そう答えることは出来たけれど、
しずくちゃんをまっすぐ見つめ返したまま……とはいかず、顔を逸らしてしまった。
なのに、しずくちゃんは可愛らしく笑うと、

「ありがとうございます」

と、ちょっとだけ弾んだような声色で言った。
 
506: (茸) 2022/05/26(木) 23:04:39.60 ID:jexFp02m
愛ちゃんと果林ちゃんにかき回された気まずさも払拭されていき、
お祭り気分に似た高揚感も戻りつつある中、
まもなくライブが始まるという告知の放送が流れる。

「今の声、分かりますか?」

しずくちゃんはベンチから立ちあがると、
スカートの裾を軽く払って、おもむろにそんなことを聞いてくる。
誰だろう? なんて首を傾げると、
しずくちゃんは楽しそうに笑顔を浮かべて「璃奈さんですよ」と答えを教えてくれた。

施設関係者だったり、放送部のようなものだったり。
そういう立場の人がやっているのかと思えば、意外にも、同好会の1人である璃奈ちゃんだったらしい。

気付かなかったよ。と、笑っていると、
ライブが始まるということもあって、ぞろぞろと人が増え始める。
、踏み込んでいってしまったら人混みに流されてしまいそうな気がする。

いっそこのまま、ベンチの近くで聞こえてくる音だけを楽しむのもいいんじゃないか。なんて、
しずくちゃんといられることばかりに気を向けていると、
しずくちゃんは雑踏を一目見て、ちらっとこっちを見てくる。

「……普通に入って行ったら、流されちゃいそうですね」

それはそうなのだけど……。
何か悩んで、躊躇っているかのような。そんなしずくちゃんの雰囲気。
どうかしたのかと、心配に思って声をかけようとしたところで、袖口がきゅっと握られる。

「はぐれない、為ですよ……その……人が多いので……」

しずくちゃんはそう言いながら、顔を伏せてしまう。
隣に座っているときには見えた顔も、並んで立ってしまうと見えなくなって
ただ、耳のところだけは、少しだけ赤みがかっているように見えた。
 
523: (茸) 2022/05/27(金) 07:21:02.62 ID:CDWzE9/R
しずくちゃんと歩調を合わせて、並んで歩く。
それでも人混みのなかではどうしてもズレてしまうこともあって、
その度に、くいっくいっと……袖口が引っ張られる。

しずくちゃんはまだ子供だから、簡単に紛れ込んで、押し込まれて、流されて。
そうやって消えてしまいそうな感じがして、何度も振り返ったり、隣を見たりしてはしずくちゃんを確認して、
しずくちゃんはそれに気付くと、何回だって微笑んでくれる。

「やっぱり多いですね……」

スクールアイドルとしては嬉しいことだろう。ファンが増え、活気に満ちて、
賑やかで楽しいお祭りのようなものになってくれているのだから。

しかし、いち参加者としては、もうちょっとだけ少なくても……なんてことを考えたくなってくる。

けれど、スクールアイドルとしてなのか、ひとりの参加者としてなのか。
しずくちゃんは「良いことですよね」と、嬉しそうに言う。

そうして、ちょっぴり強く袖口が握られる。
それに気付いて目を向ければ、また、笑顔のしずくちゃんがいる。

細やかではあるけれど、この繋がりは人が多いからこそのもので、
はぐれる心配もなければ無かったものだろうと思って。

そうだね。と、同意する。

普通なら、手を握るような距離感なのかもしれないけれど、
女子高生と大人という決して埋めることの出来ない後ろめたさが、それをさせなかった。
 
524: (茸) 2022/05/27(金) 07:40:05.13 ID:CDWzE9/R
人垣に遮られて居場所を見失いそうなしずくちゃんの変わりに目となって辺りを見つつ、しずくちゃんのナビゲーションで移動すること十数分。

ぴょこんっと人混みから抜け出せたかと思えば、視界が広がっていて思わず振り返る。
背後にはライブを見に来た人集りができていて、
自分達がそこから抜け出てきたのだと察する。

ふと、袖口を引っ張っていた力が消えて、しずくちゃんが「大丈夫そうですね」と嬉しそうに言う。

「私はエマさんの関係者ですから。埋もれない場所から見られるんですよ。いわゆる関係者席みたいなところです」

必ずしも良く見える最高の場所というわけではないみたいだけれど、周りに人がいて見えなくなってしまうなんてことはなさそうな空間で、
当然、しずくちゃんと自分以外にもまばらに人がいるけれど、見やすいことに変わりはなかった。

「どうですか? 私と一緒に来て良かったですか?」

嬉しそうで、楽しそうで、何よりも可愛らしく「えっへん」と、胸を張って鼻高々なしずくちゃん。
その子供っぽい愛らしさに高ぶってしまう。

――良かったよ。凄く、一緒に来られて。

そう答えると、しずくちゃんはちょっぴり照れて「なら良かったです」と呟く。

例えこの場所に来られることがなかったとしても、
しずくちゃんと一緒にいられたから。なんて続き文句は飲み込んで、ありがとう。と、ステージを見上げながら感謝する。

「……いえっ」

否定のときに使われる短い返事は、とても弾んでいるように感じられて、
小さく笑うような声が聞こえたけれど、努めて、目を向けなかった。
 
525: (茸) 2022/05/27(金) 08:30:32.60 ID:CDWzE9/R
この野外ライブは、エマちゃんだけではなき、他校のスクールアイドルもライブを披露するもので、意外と長い時間行われる。

それでも、終始ライブは盛り上がっていてかなり賑わっていたと思う。

しずくちゃんは熱心にライブを見ていて、意図せず溢したかのような「わぁ……」とか「きれい……」とか、感嘆を呟いたり、
「あのパフォーマンス良いですね」とか「あの衣装可愛くないですか?」とか、合間合間に声をかけてきたりして。

とても楽しんでくれているようでこっちも嬉しかったし、
ただ隣り合ったのではなく、一緒に来て一緒に見ているんだと実感させてくれた。

心から楽しんでいると、自然と身体も動いてしまう。
特にしずくちゃんは自分もスクールアイドルだからから動かずにはいられなかったようで、さすがに汗だくになってしまっていた。

「こんなに動くつもりじゃなかったんですけど……」

ぱたぱたと手で扇ぐしずくちゃんに、ミニタオルを差し出す。
ハンドタオルほどのものは持っていないけれど、
今日は屋外ということもあって、ハンカチ程度の大きさのミニタオルを持ってきていた。

「えっ、そんな、悪いですよ……」

しずくちゃんは「大丈夫です」と断るけれど、
今日、しずくちゃんがハンカチを使っているところを1度も見ていないことを指摘する。

なんならコンビニでタオルでも買ってくるよ? と言うと、しずくちゃんは「いえ……」と、首を振って。

「ハンカチは……持ってます……」

と、以前にお礼として渡したハンカチを見せてきた。
 
527: (茸) 2022/05/27(金) 08:52:47.73 ID:CDWzE9/R
しずくちゃんは見せるだけ見せて、さっと引っ込める。
こっちを見上げて来る表情は、ほとんど羞恥心に染め上げられていた。

「違うんです……偶然で、今日はこのハンカチにしようって……」

そうしたら、まさかの駆け込んだ電車で出くわし、行き先が同じで、ほとんど一緒にいて……
なるほど、だから一度もハンカチを使おうとはしなかったのかと、納得する。

「……偶然、なんです」

別に使ってくれても良いのに。とは思うが、偶然も重なり過ぎてて意識していると思われかねない。
となれば、控えてしまうのも仕方がないだろう。

とはいえ、汗だくのままは色々と良くないからと、気にしないから大丈夫。と言うと、
しずくちゃんは「そう、ですよね」と、初めてハンカチを使った。

滴り落ちる汗、汗で艶々としている肌、肌に貼り付く髪、長い髪を纏めあげてさらけ出された首筋と、それをなぞっていくハンカチ

気にしないとは言ったけれど、気になってしまうし、
それに……ハンカチを使ってくれていることを喜ばずにはいられなかった。
 
528: (茸) 2022/05/27(金) 09:08:47.73 ID:CDWzE9/R
ライブが終われば、撤収に向けて動き出す。

一般の参加者は散り散りになってまだ残っている出店に行ったり、
帰路に着いたり、寄り道したり……行き先は様々だろう。

そしてライブの関係者は各々の準備した機材などを撤去したりとして、賑やかだった空間が次第に閑散としていく。

しずくちゃんも一応は関係者のため、撤収に行くのかと訊ねる。

「いえ、今回は衣装と音源くらいなので大丈夫ですよ」

しずくちゃんはそう言うと、ちらっとこっちを見てくる。
夕焼け模様の下、自然の演出に溶け込むしずくちゃんはとても、魅力的で。

「約束……覚えてますか?」

たった一言。
けれど、そこに含まれている意味の大きさのせいか、すぐには返事を返せなかった。
 
532: (茸) 2022/05/27(金) 18:36:33.46 ID:CDWzE9/R
しずくちゃんとの約束は、たとえ十数年前にタイムカプセルに埋め込んでいたって、忘れるわけがない。

しずくちゃんと一緒に、しずくちゃんが行きたいお店に行って、ご馳走してあげる……なんて、約束。

けれどそれは言い逃れも出来ないような、正しくデートのようなもので、
時間帯に後押しされ、ついさっきまでの年相応に楽しんでいた姿を潜め、
一層、魅惑的に思えてしまうしずくちゃんを前にしてしまうと、本当に良いのだろうかと。疑問を抱いてしまう。

答えに迷っていると、意地悪に風が吹く。

しずくちゃんの長い髪が踊っているように乱れて、しずくちゃんは慌てて手で抑えると「凄い風ですね」なんて笑顔を見せる。

「忘れちゃったんですか?」

残念そうに訊ねられて、首を横に振る。

もちろん覚えてる……奢るって約束だし。と、気持ちを隠すように顔を背けて言うと、
しずくちゃんは「良かったです」なんて、嬉しそうで。

可愛らしい笑顔、柔らかい声、髪を抑える手と、スカートを抑える手
その一挙手一投足が目に焼き付いてしまって、顔が熱くなる。

「そうしたら、行きませんか?」

しずくちゃんはその覚悟を決めていたのか、
それとも単に、奢って貰えるのが楽しみなだけなのか、
まったく躊躇することなく、歩き始めた。
 
533: (茸) 2022/05/27(金) 19:02:01.45 ID:CDWzE9/R
エマちゃん達にお疲れ様言わなくて良いの? なんて、時間稼ぎみたいなことを聞いてみたものの、
もうすでに連絡はとってあったようで「大丈夫ですよ」と、笑顔が返ってくる。

すぐ隣を並んで歩いてくれるしずくちゃんは、
朝に比べれば、香水のような匂いが少し薄れて、ほんのりと甘い匂いがする。
しずくちゃんの使っているボディソープか、トリートメントか、何か。

甘い匂いがするね。と、つい言ってしまうと、しずくちゃんは不思議そうな顔をして周囲を見渡す。

もう出店の無い通りにまで来ていて、甘い匂いで惑わそうとしているようなお菓子のお店はないからか、
しずくちゃんは少し悩む素振りをみせて……はっと気付く。

「……そうですね」

しずくちゃんはそれがなんなのかは言わずに同意して、恥ずかしげに俯く。

なんの匂いか凄く気になるけれど、
たぶん、聞いても教えてくれないだろうし、
そもそも、気味が悪く思われてしまいそうだから……聞けない。
でも、今少し嗅ぐくらいは許してくれると思っていたら、すんっと鼻が鳴って。

「……お兄さん?」

立ち止まって呟いたしずくちゃんは真っ赤な顔で、
ごめん。つい……と、謝らざるを得なかった。
 
535: (茸) 2022/05/27(金) 19:35:34.49 ID:CDWzE9/R
しずくちゃんが行きたいと言っていたのは、お台場海浜公園駅の近くにあるイタリア料理のお店だった。

晴れている日はテラス席が利用出来るようになっていて、
日中も良いが、日が落ちると空気が変わって、よりロマンチックな……そういう、あれに適した雰囲気になる。そんなお店。

「お電話した桜坂です」

いつの間にしていたのか、しずくちゃんは予約済みだったようで、
中に入ると、しずくちゃんは店員にそう告げる。
まさかとは思っていたけれど、案内されたのは景色の良く見えるテラス席で。

しずくちゃんに目を向けると「せっかくですから」と、特別な考えなんて無いように微笑む。
正直、そう。本心であれば、しずくちゃんに特別な考えや感情があってくれると嬉しいけれど、
実際には、場合によっては社会的に終わってしまう。

いや、だとしたって……。

「……ご迷惑でしたか?」

しずくちゃんはテラス席まで予約していたのは迷惑だったかと心配そうに窺ってくる。
そんな顔も可愛らしくて……狡いなと、思いながら、首を横に振る。
 
544: (茸) 2022/05/28(土) 10:42:27.87 ID:QdS2n2QV
「おしゃれなところですよね……一緒に来て貰えて良かったです」

しずくちゃんはゆっくりと辺りを見て、声を弾ませる。
きょろきょろと慌ただしい子供の所作をみせないのは、店の空気にあてられているからだろうか。

おしゃれなところ。というのは同意出来ると、頷く。

テラス席は解放感があり、雲の無い夜空の下、
淡い月明かりに照らされる景色を眺めながら食事が出来る……といった雰囲気で
テーブルには仄かな暖かみのあるキャンドルが置かれていて、ムードを高めてくれる。

それは素晴らしいのだが……。

正面に座るしずくちゃんをちらりと見て、僅かな躊躇いが唇を噛ませたけれど、息を飲んで、切り出す。

一緒に来るのが自分で良かったのか。と。

しずくちゃんはこっちを見つめると、ちょっとだけ目を反らして「誘ったのは私ですよ」と、答える。

「良くなかったら、今座ってるのは電車の座席だったと思います」

しずくちゃんはそう言って、にこっと笑う。いつもの可愛らしい笑みのはずなのに、
場の空気感もあってか、とても……こう、口にしがたい動揺を誘うものに見えてしまう。
 
545: (茸) 2022/05/28(土) 10:58:38.82 ID:QdS2n2QV
しずくちゃんは口ごもってしまったこっちのことを見て、また可愛らしい笑い声を漏らすと、
ちらっと一瞬だけこっちに目を向けて、テーブルに置かれていたメニューを手に取る。

「雑誌に載っていたので、来てみたいな……って思っていたんですけど、中々誘えそうな友達がいなくて」

日中ならともかく、ディナータイムであれば高校生でここに来られる子はかなり限られるだろう。

スクールアイドルで言えば、しずくちゃんと同年代らしい、かすみちゃんや璃奈ちゃんには荷が重いはずだ。

「それに……ご馳走してくださるってことなので」

えへへっと笑うしずくちゃん。
しずくちゃんをずっと見ていたらおかしな感じになってしまいそうだと、メニューを見て、なるほどと思う。

こういった飲食店に足を運ぶ機会が少ないからだろうか。
一つ一つの料理が、4桁の金額ばかりで、ファミレスやコンビニでなら2食3食分でようやく1食と思うと、贅沢だなぁと考えてしまう。
これは確かに、普通の高校生だったら出し渋るだろう。

しずくちゃんがここに連れてきたのは、奢って貰えるからで、それ以上でも以下でもないのかもしれない。
もちろん、一緒に食事をしても良い程度には気を許してくれているのだろうけど。

少しの安堵と、諦念を飲み込んでしずくちゃんを見る。

――お酒以外なら好きなもの頼んで良いよ。

しずくちゃんにそう言って、自分はとメニューを眺めた。
 
546: (茸) 2022/05/28(土) 11:21:22.40 ID:QdS2n2QV
しずくちゃんはメニューを一通り見ると、悩ましげな顔をして、こっちに目を向けてきた。

「お兄さんは決まりました?」

一応決まったけど……と、メニューに書かれているうちの一つを指差す。

サイドメニューのようなものとしてサラダやお酒のおつまみになりそうなものがあるが、
メインとしてはパスタかピザの2択になってくる。

ピザも良さそうではあるけれど、しずくちゃんがいるし、そんながっつり食べるのもなぁ……と、選んだのはパスタだった。

「お兄さんがそれなら……私、こっちにしてみます。あと、サラダも頼みませんか? お兄さんお野菜平気ですか?」

全然平気だけど……と、当たり前のように頷いて、はっとする。
しずくちゃんは料理をシェアする気なのかと、訊ねると、しずくちゃんはきょとんとして。

「独り占めするのも寂しいじゃないですか」

しずくちゃんはまるで気にならないといった様子で答える。

思い返せば、しずくちゃんはサンドイッチを普通に差し出してきたし、自分が口にした串をそのまま使ったりとしていた。

「あっ……そうですよね。お兄さんと私じゃ食べる量が……お兄さんの分も頼みます?」

違うそういうことじゃない。と思ったけれど、
ひとまずは、大丈夫。足りるよ。とだけ答えた。
 
549: (茸) 2022/05/28(土) 11:47:06.02 ID:QdS2n2QV
料理と飲み物を頼み、先に飲み物が運ばれてくる。

当然ながらしずくちゃんはお酒ではないし、自分もお酒ではなくて……ちょっとだけ、雰囲気に欠けるなと思う。

「お兄さんはワインとかの方が良かったのでは……? お酌、しますよ?」

しずくちゃんはそう言いながら、ボトルを傾けるような仕草をして楽しげに笑う。
本当に頼んでたらやってくれるのかは気になる。
なんだか、しずくちゃんならやってくれそうな気がするけれど、それはそれだ。

いや、止めとくよと、やんわりと断ると、しずくちゃんは「そうですか?」と、ちょっとだけ残念そうに言う。

「……お兄さんってお酒弱いんですか?」

そんなことはないよ。と、答える。

お酒は人並みに嗜むし、それにはワインも含まれる。
けれど、今は同年代の誰かとではなく、しずくちゃん来ているわけで。
必要以上に飲んでしまいそうだし、タガが外れでもしたら大変なことになるからだ。

とは言えず、

――帰りも送って行く必要があるからね

なんて言うと、しずくちゃんは驚いた様子でコップを持ち、こくりこくりと飲む。

「……そうですね」

しずくちゃんはふいっと目をそらしながら呟いて、また一口を飲み下した。
 
556: (茸) 2022/05/28(土) 18:10:47.76 ID:9CIB8Ies
暫くして料理が運ばれてきて、テーブルに置かれる。

しずくちゃんはクリーム系のパスタで、こっちはボロネーゼ……なのだが、
自分の方に来たボロネーゼの麺が妙に幅のあるもので、
思わず眉を潜めてしまうと、しずくちゃんはくすくすと笑う。

「知りませんか? これがタリアテッレって言うんですよ。メニューに書いてあったものです」

そう言えば、そんなものも書いてあったな。と、
ちょっぴり恥ずかしくて咳払いすると、しずくちゃんはまた一段と可愛らしく笑った。
ちらっと見ると「別に馬鹿にはしてないですよっ」なんて、慌てた様子で手をぱたぱたと振る。

「頂きませんか?」

誤魔化すようにそう言ったしずくちゃんに、誤魔化したでしょ。なんて言うと、
しずくちゃんは「そんなつもりはないですよっ」と、
即座に否定して、また一口、飲み物を口に含んで。

「……頂きます」

仕切り直すようにして、しずくちゃんはしっかりと、手を合わせて一言言う。
目の前でしっかりとした子供がいるのに、大人の自分が何もしないのはと、
それを真似るようにして、いただきます。と、してから、フォークを手に取る。
 
557: (茸) 2022/05/28(土) 18:24:35.86 ID:9CIB8Ies
タリアテッレというらしい厚みはないが幅のある麺は、
言ってしまえばきしめんのようなもので、そう思うと、お箸で食べてしまいたくなる。
実際、コンビニでパスタを買ったりしたときなんかはお箸を貰って食べるくらいだ。

しずくちゃんの方はタリアテッレとか言う不思議なものでは――と、
しずくちゃんに目を向けてしまって、思わず目を奪われた。

「んっ……」

見ていてはいけないと頭では思いつつも、目を離せなくて見つめてしまっていると、
しずくちゃんは遅れて気付き、はっとした顔をして。

「あ、あんまり見ないでください……」

しずくちゃんはそのまま、さっと、口元を手で覆う。

頬や口元が見えなくても、目元や耳でしずくちゃんが凄く照れているのが分かって、
ごめん。つい……と、謝って、慌てて自分の分のパスタにフォークを運ぶ。
それを口に含みながら、向かいにあるお皿にしずくちゃんのフォークが近づいていくのが見えて、思い出してしまう。

フォークを使ってほんの少しだけを巻き取り、
それをそのまま口に運んでいき……さらりと髪が垂れたからか、
空いている左手で髪を掻きあげながら、
口を少しだけ大きく開けて、ぱくりと、フォークを咥えて、
巻かれていたパスタが消えたフォークだけが、つるんっと唇から滑るように出てくる……そんな光景。

見てはいけないものを見てしまったかのような感覚。
心臓が痛んで、熱でもあるかのように顔が熱く……口に入れたはずのボロネーゼは、まるで味がしなかった。
 
558: (茸) 2022/05/28(土) 18:44:45.72 ID:9CIB8Ies
「このクリームパスタ美味しいですよ。ボロネーゼはどうですか?」

凄く可愛らしい笑顔で、喜んでくれているしずくちゃんからの純真な問い。
正直全く味なんて分かってない。とは言うわけにもいかないからと、
まぁきっと、美味しいだろう。なんて。

――かなり美味しいよ。コンビニとは違うよね。

そう答えてしまってからすぐに、あっ……と、思う。
美味しいと答えるなら分かるけれど、コンビニと比べるなんて、
雰囲気を壊してしまったんじゃないか――と、心配になってしずくちゃんを見ると、
しずくちゃんは「当然ですよ」なんて、楽しげに笑ってくれて。

「……ひとくち、頂いても良いですか?」

こっちを窺うように、見上げるみたいな視線でしずくちゃんは訊ねてくる。
こっちのフォークを借りる……わけがないはずだけど、
しずくちゃんが口にしたフォークが触れると言うのも、それはそれで邪な考えを抱いてしまう。

かといって、元からシェアする気満々だったみたいだし、
断ったらしずくちゃんが嫌な顔しそうだと思うと、断れるわけがなかった。

良いよ。と、頷くと「ありがとうございますっ」なんて、
こっちが間接的にどうのこうの考えているなんて思いもしない声で喜んで、
互いのパスタ皿を入れ替える。

置き場所がないから仕方がないと思ったけれど、
しずくちゃんは「私のクリームパスタもひとくちどうぞ」なんて、おすすめしてきて。
ありがとう。と、答えつつも、なかなか手を付けることは出来なかった
 
559: (茸) 2022/05/28(土) 18:56:45.61 ID:9CIB8Ies
サンドイッチの時に比べると、
自分の分としずくちゃんの分でフォークが分かれているということもあって、
そこまで長々と躊躇することもなく、しずくちゃんのクリームパスタを頂くことが出来た。

クリームパスタはほんのりとビターな甘みのあるクリームで、
パスタに絡まったクリームがするすると喉を通っていくのが意外に心地よく、
旨味があって、美味しかった。

「どうですか?」

そう聞かれて、今度こそは本心で美味しいと答える。
しずくちゃんもボロネーゼを美味しく頂けたようで「どっちも美味しくて良かったです」と、嬉しそうに言う。
しずくちゃんは間接的に云々……なんて、まるで考えていないのだろう。
その純粋さが可愛らしく、愛おしく……けれど、少しだけ心配になってしまう。

「……お兄さんと来られて良かったです。ひとりじゃ、二皿も食べられませんし、おかしく見えちゃいますから」

ひとりで来ているのに、テーブルの上には二人前以上の料理。
周りはそこまで見たりしたりしないような気もするけれど、
しずくちゃん自身は、それを気にしてしまうだろうし……恥ずかしくなってしまうだろう。
だけど、それは他の人でもできたことだ。
別の日にもう一度来店して、前回とは違うものを食べたって良いはずだ。

なんて――それを言うのは、野暮なのだろう。
それは、しずくちゃんの嬉しそうな顔を見れば誰だって分かる。

喜んで貰えたなら良かったよ。と、言うと、
しずくちゃんは可愛らしく笑ってくれていたのに、

「嬉しいです」

と、また一段と、可愛らしく笑ってくれた。
 
561: (茸) 2022/05/28(土) 19:14:49.03 ID:9CIB8Ies
サラダとパスタを少しずつ食べ進めていったものの、
元から、そんなに量が多くなかったということもあって、あっさりとお皿が空いてしまう。
デザートでも頼む? としずくちゃんに聞くと、
しずくちゃんは少し考えて「お兄さんも頼むなら……」と、控えめに言う。

デザートもデザートで結構なお値段ではあるが、
せっかくだからとバニラアイスを選択すると、しずくちゃんはティラミスを選ぶ。

「ありがとうございます」

店員にデザートを頼んだあと、しずくちゃんは囁くような声でお礼を言って笑顔を見せる。
控えめで、けれど、可愛らしく、喜んでいるのが分かる笑顔。
お店の料理はどれも、高校生からしてみればお高いものだからだろうか。

――大人のお財布は心配いらないよ。

なんて、少し格好つけて言ってみたものの、
しずくちゃんには不評だったのか、ちょっとだけ驚いた顔をすると、
仕方がない。とでも言うかのような、小さな笑顔で「そうですね」と、答えた。

「実はちょっと、甘いものも食べたいなって……思っていたんです」

しずくちゃんはそう言って「食いしん坊だって、思いました?」なんて、様子を窺ってくる。
そうだね。と同意するべきか、そんなことないと言うべきか。
逡巡して、そんなことないよ。と、返す。

声を大きくしては言えないが、元々量が少ないし、
デザート一つ頼んだくらいでそんな風には思わない。
それに……美味しそうに食べているしずくちゃんは、良い。
 
562: (茸) 2022/05/28(土) 19:36:06.30 ID:9CIB8Ies
デザートはあらかじめある程度の準備が出来ているからなのか、
パスタやサラダよりもだいぶ早く運ばれてきて、テーブルに並ぶ。

冷たいバニラアイスと、ほんのりと冷たいティラミス。
冷気の立つバニラアイスにスプーンをくっつけると、
まだ丁度良くないのか、抵抗が返ってくる。

無理矢理スプーンを差し込んでしまおうかと思っていると、
しずくちゃんは「先にティラミス食べます?」なんて言いながら、
ティラミスを小さく切り出したフォークを向けてきた。

それはしずくちゃんの分だよ。と、言ったけれど、
しずくちゃんはひとくちなんて減ったことにもならないと考えているのだろう。

「大丈夫ですよ。どうぞ」

しずくちゃんは笑顔でそう言ってきて、
いつまでも渋るのも……と、スプーンを置いてティラミスを一口貰う。
甘いクリームと、ビターなココア、そして微かに感じるコーヒーのような酸味。
そして、仄かな冷たさと舌触りの良いスポンジが口に含んだ傍から溶けるように流れていく。

「んっ……美味しいっ」

しずくちゃんは自分もひとくち。と、
やっぱりなにも気にしていない様子で自分の分を切り出したかと思えば、
そのまま口に運んで、とても美味しそうに頬を緩ませる。
 
563: (茸) 2022/05/28(土) 19:50:19.22 ID:9CIB8Ies
あまりにも美味しそうに食べるものだから、
アイスの方も食べる? と訊ねてみれば「良いんですか?」と、とても嬉しそうで。
やっぱりしずくちゃんは可愛いなと……常から思っていることを再確認して頷く。

スプーンでアイスをつつき、
そこそこの力加減でスプーンが入っていくのを確認し、
一口分を切り分けてから、スプーンで掬い取ってしずくちゃんの方に差し出して――

「ありがとうございます」

――感謝の言葉と共に、スプーンを握る手に微かな重みが加わる。
ぱくっとスプーンが咥えられた感触と、スプーンの底に触れていた何かが動いた感触。
そして、アイスが絡めとられていった感触。

「冷たくておいしいですっ」

しずくちゃんが離れるのと同時に消えて行った重み。
けれど、感触だけはしっかりと残っていて……手元に引き戻したスプーンの艶々としたものに視線が向かってしまう。

しずくちゃんには自分で食べて貰うつもりだったのに、
しずくちゃんが全然平気そうだったから、構わないのかもしれないと、そう、思っていたから。
だから、自然とアイスを乗せたスプーンを差し出してしまっていて、それで……。

「お兄さん。アイス溶けちゃいますよ?」

しずくちゃんに声をかけられてはっとして、艶やかな唇を見てしまう。
ついさっき、それが咥えたばかりのスプーンを見てしまう。
アイスは早くしろ。とでも言うかのように簡単にアイスを受け入れて掬われていく。

勢いで行くしかないと、全力でバニラアイスを口に含む。
アイスはとても冷たくて、とても――甘い味がした。
 
564: (茸) 2022/05/28(土) 20:38:09.07 ID:9CIB8Ies
「やっぱり、私もお金――」

出しますよ。なんて動くしずくちゃんを止めて、カードを店員に出して一括で決済して貰う。
しずくちゃんにご馳走すると言ったのは自分だったし、
思っていたよりも高い金額にはならなかった。
それに何より、しずくちゃんと一緒に食事を出来たのだから、安いものだ。

「ごちそうさまでした。お兄さん」

奢られたことを気にしても……と思ったのか、
しずくちゃんは笑顔でそう言って、隣に並んでくれる。
後はもう、家に帰るだけだ。
電車に乗って鎌倉に行き、鎌倉で乗り換えて……それで、そこでお別れになるだろう。

大人だったなら、もう少しどこかで飲んでいかない? なんて誘いをしたりして、
そうして、一夜を共にするようなことだってあるかもしれない。
けれど、しずくちゃんは高校生だから、お酒を誘えないし、無断外泊なんてもってのほかだ。

「……もう、すっかり夜ですね」

しずくちゃんは隣を歩き、空を見上げてふと、そんなことを言う。
星が見え、月が見え、ときどき、飛行機か何かの明かりが見える夜空。
時間はもう、19時を過ぎようかという頃合いで、家に着くのは22時近くになってしまうだろうか。

家族に心配をかけることになるのではと思って、家には電話したの? と、訊ねると、
しずくちゃんは「朝のうちに」と、笑顔を向けてきた。

同好会のメンバーのライブだったから、元から帰りが遅くなる予定だったのだろう。
もし、一緒にいなければ、しずくちゃんは同好会の子達と打ち上げでもしていたのかもしれない。
 
565: (茸) 2022/05/28(土) 20:47:40.01 ID:9CIB8Ies
しずくちゃんは暫く黙って歩いてから、
思い出したかのように顔を上げると「駄目ですよ?」なんて急に言い出して。

「今日はもう、帰らないとダメです」

どこか……例えば、カラオケとか。
高校生でも時間が潰せるかもしれないところは都内にはたくさんあって、
もちろん、バレると色々面倒ではあるのだけど、
そういうところに誘うとでも思ったのかもしれない。

当たり前だよ。と、はっきり答える。

元から、そんなところに連れていくつもりはなかった。
しずくちゃんが家に連絡していなければ、して貰おうと思っていただけで
しているならしているで、今は少しでも早く、家に帰れるようにしたい。

本心を言えば、もっとしずくちゃんと一緒にいたいけれど。
それはそれ、これはこれだ。

「……全く考えてなかったんですか?」

窺うようにしたから見上げてくるしずくちゃんの視線を真っ向から受けて、考えてないよ。と、頷く。

それでもしずくちゃんは「本当にですか?」なんて食い下がってきたけれど、
本当にですよ。なんて、しずくちゃんの真似事みたいな返しをすると、
しずくちゃんはおかしそうに笑って。

「そうですよねっ」

と、笑顔を見せた。
 
567: (茸) 2022/05/28(土) 21:04:53.94 ID:9CIB8Ies
電車に乗ってまずは新橋に向かい、そこから鎌倉に向かって、七里ヶ浜へ。
乗り換えを2回もしないといけないと考えるか、
しずくちゃんとそれだけ一緒にいられるか。
どちらを考えるかと言われれば、迷わず後者だろう。

お台場から新橋までは十数分だが、そこから鎌倉までが長く、
今日一日、ほとんど動きっぱなしだったしずくちゃんはさすがにお疲れの様子だった。

幸いにも座ることが出来たかと思えば、
こつりこつりと腕の辺りにしずくちゃんの頭が何度も触れてくる。
行きの電車やベンチでは酷く動揺してしまったけれど、
今のしずくちゃんを誰かに預ける……なんて考えれば、譲れるわけがない。

「……あ、ごめんなさい」

駅に停まる一際強い揺れでがくんっとしたしずくちゃんは目を覚まして、こっちを見て謝る。
全然かまわないよ。と言ったけれど、
しずくちゃんは申し訳なさそうに首を振って「大丈夫です」と目をこする。

「……そういえば、お兄さんって、あんまりお料理はされないんですか?」

しずくちゃんは眠いのを我慢するためか、話をすることにしたようだった。
料理をするのかと聞かれても……と、ちょっとだけ考える。
というのも、人によって、料理という部分に認識の差があるのが常だ。

例えば、カップラーメンを料理と言う人もいるし、
冷蔵のうどんやラーメンなどを茹でて付け合わせの具を入れたのを料理という人もいるし、
ちゃんと作ってこそで、それ以外は認めないと言う人もいる。

長々と考えた末に、そこそこかな。と、答えた。

「そうなんですね……てっきり、あんまりされないのかなって。凄いです」

しずくちゃんは眠気を押し〇した、ちょっぴり不安定な笑顔を見せる。
眠いなら寝てても良いのにと、思ったけれど、しずくちゃんは精一杯起きているつもりのようだった。
 
568: (茸) 2022/05/28(土) 21:18:35.47 ID:9CIB8Ies
「今日は楽しかったです」

しずくちゃんはそう言って「ありがとうございました」と、続ける。
本当なら友達と一緒にいて、楽しんでいたはずの時間。
それをこっちに費やしてくれて、
それでも楽しんでくれて、喜んでくれて、幸せそうな姿を見せてくれたしずくちゃん。

本当に? と、つい聞いてしまうと、しずくちゃんは小さく笑って。

「本当に。ですよ。お兄さんと一緒に色々と出来て……楽しかったです。最後には美味しいディナーもご馳走になりましたし」

しずくちゃんはそう言ってから「楽しくなかったらディナーに行きませんよ」と笑う。
それもそうだろうし、やらないといけないことがあるので……と、
途中から別行動することだってできたはずだ。

けれど、しずくちゃんはそれをせずに傍にいてくれた。
一つ一つを楽しんで、喜んでくれていたし、
体調不良に見えてしまったあの瞬間だって、
しずくちゃんは常にこっちのことを考えてくれていたし、行動してくれていた。

「お兄さん」

しずくちゃんの声がすぐ近くで聞こえる。
耳元ではないけれど、肩の辺り……少しだけ、体を預けられているような重みと熱のある所から。
目を向けると、しずくちゃんはこっちに体を預けてきていて。

「お兄さんは……楽しめました?」

静かな声色で、そう訊ねてきた。
 
575: (茸) 2022/05/29(日) 06:41:40.76 ID:KIuwxKOy
しずくちゃんの問いに思わず体が反応してしまう。
誰かと何かをした時に自分は楽しかったけれど相手はどうだろう。
そんな心配をするのはよくあることだから、
しずくちゃんだって特別な理由なく気になっただけかもしれない。

けれど……今のしずくちゃんの距離感が、そうではないように思わせる。

「……お兄さん?」

その思考が回答を遅らせて、しずくちゃんを不安にさせてしまったのだろうか。
肩にまで届かないせいか、二の腕辺りに触れるしずくちゃんの頭が、
すりすりとするかのように動いて、声がゆっくり聞こえる。

眠気と、不安の混ざった声。
目を向けると、しずくちゃんはこっちを見上げてきていて、
その微睡に落ちてしまいそうな表情は、子供には見えなくて……ドキッとしてしまう。

「お兄さんは、あんまり――」

楽しくなかったですか? と、絶対に続くその言葉を遮って、
楽しかったよ。と、答える。
その言葉は本心で、考えていた以上に感情が籠ってしまっていたせいか、
しずくちゃんの身体がピクリと反応した。

けれど……これは誤魔化せない。嘘はつけない。
楽しくなかった。なんて、口が裂けたって言えるものではない。
 
576: (茸) 2022/05/29(日) 07:11:23.86 ID:KIuwxKOy
楽しかったよ。凄く……1人だったら気まずくて、
途中で抜け出して帰ってしまいそうな空気の中で、
それに解け込んで違和感のない気持ちになることが出来ていた。

常に楽しく笑ってくれていて、喜んでくれていて、傍にいてくれて、
楽しかったし、嬉しかったし、何より……。

――幸せだった。

と、赤裸々に語って、しずくちゃんから顔を背ける。

まるで夢のような時間だったと思う。
1人で会場に行き、そこで偶然出会えればいいなぁ……と、
ちょっとした期待をしているだけだった1日が、
朝からずっと、しずくちゃんと過ごすことになって。

「幸せ……ですか……」

しずくちゃんは、こっちの語った本音を噛みしめるようにして、
そうして……小さく、可愛らしく、幸せを感じる笑い声を零す。

「幸せ、だったんですね……良かったです」

しずくちゃんはそう言って体を預けていた姿勢を正すと、
膝上にある鞄に乗せていた自分の手と手を握り合わせて、ふっと……息を吐く。

「私も幸せでした。会えるとは思っていなくて、同じ行先だとは思っていなくて……偶然ってあるんだなぁって……思って」

しずくちゃんはぽつりぽつりと変わらない声で話しながらも、
その手は正直に、上手く言葉を選ばないと……と、焦っているかのように忙しなくて。

「私、結構わがままだったと思います。私がスクールアイドルで、お兄さんはファンだから……いえ、私が子供で、お兄さんが大人だから。多少のお願いなら聞いてくれるだろうって、利用してました」

せっかくだから一緒に行きませんか。という誘いも、行きたいお店があるという話も、
会場での一緒の行動も、料理のシェアも……全部しずくちゃんの我儘だったのだろう。
そして、自分はそれを1つも拒むことはなかった。
 
577: (茸) 2022/05/29(日) 07:29:52.15 ID:KIuwxKOy
「誰かが言ったんです。偶然も重なれば必然だと」

しずくちゃんはおもむろにそう切り出して、こっちに目を向けてくる。

偶然も重なれば必然であり、それはすなわち運命であると。
誰が言ったのかまでは記憶にはないが、
しかしながら、どこかで誰かが言っていたような気もする話だ。

けれど……。

電車で助けたこと、あの砂浜で出会ったこと、
同じ電車に乗るようになったこと、今日、こうして一緒に行動したこと。
偶然に起きたことも確かにあるけれど、けれど……その根本にあるのは必然だ。
それも運命的な話ではなく、作為的な必然。その自覚が、口を閉ざしてしまう。

そんな中、鎌倉駅に着き、乗り換えのために電車から降りたところで、しずくちゃんが振り返る。

「お兄さん」

日中に比べれば人通りの少ない鎌倉駅。
それもあってか……もしかしたら、さらに一歩踏み込んでくるのではないかと思わされる。
しずくちゃんは自分の胸に手を当て、落ち着け。落ち着け。と、深呼吸をして。

「……愛さんの手を握ったんですから、私の手も握ってくれませんか?」

そうして、しずくちゃんはそんなお願いをしてきた。

もしかしたら――なんて考えていた自分が恥ずかしくなるようなお願い。
愛ちゃんの手を握ったから女子高生の手を握るなんて恐れ多い。そんな言い訳は使えないし、
それに……今更手を握るくらい。と、考えて、頷く。
 
578: (茸) 2022/05/29(日) 07:51:49.58 ID:KIuwxKOy
良いよ。そのくらいなら……と、
答えてあげると、しずくちゃんは「お願いしますっ」なんて、
嬉しそうに言って手を差し出してきて、それを……受け取って握る。

愛ちゃんよりも華奢で、弱弱しくて、可愛らしい手。
少しでも力を入れれば潰せてしまいそうなその手は、優しく握り返してきて。

「ありがとうございます。お兄さん」

そして、あっさりと離れていく。

ほんの数秒程度の、握手のようなもので、
スクールアイドルとファンとしては、そこまで特別でもないように感じさせる。
嬉しそうな笑顔がだんだんと薄れていき、向けられたその瞳は力強くて、けれど、どこか切なげで。

「……駅に父が迎えに来ているので、ここでお別れです」

しずくちゃんは何かを言いたそうにしていたけれど、
言わずに飲み込むように一瞬だけ目を逸らしてから告げてきたのはそんな言葉だった。

乗り換えのために鎌倉駅で降りるのは同じだけれど、
しずくちゃんはその先の電車には乗れないらしい。

それは残念だと思う気持ちと、よかった。と思ってしまう気持ちがあって。

良いお父さんだね。と、笑ってみると、
しずくちゃんは「そうですね」と、同意して、頷く。
 
579: (茸) 2022/05/29(日) 08:21:59.30 ID:KIuwxKOy
「お兄さん。今日は本当に楽しかったです……ありがとうございました」

しずくちゃんはそう言って一礼し「さようなら」と、手を振って鎌倉駅を後にする。

その後ろ姿を途中まで見送って……1人で電車に乗り込む。
1人が当たり前だった人生、だから、それが普通のはずなのに、
なのに、それがあまりにも、寂しく感じられる。

それはきっと、しずくちゃんが傍にいてくれたからというだけではなく、
その傍にいてくれたしずくちゃんが、常に――。

あぁ……と、思わず声が漏れる。

果林ちゃんが言っていた「しずくちゃんは偶然だとか運命的だとか。嬉しく思っちゃう」という言葉を思い返す。
しずくちゃんは偶然で、運命的なこの出会いを嬉しく思い、幸せに感じて、だからきっと……そうなのだろう。

しずくちゃんは純真で、無垢で、夢見がちで……だからこそ、
その運命が人の手で作られたものであることを知ったときに、深く傷つくことになるはずだ。

――しずくちゃんが傷つくようなことは絶対にしないし、誰にもさせない。

なんて、誰が、どの口で言うのか。
しずくちゃんのそばにいたい、よく知りたい、深く知り合いたい。そう思いながら、
しずくちゃんこそが幸せであるべきだと、そう思って、信じて、
そうして今日までしてきた行動が、一歩間違えればしずくちゃんを深く苦しめてしまうことになるなんて、想像もしていなかった。
 
580: (茸) 2022/05/29(日) 08:42:34.59 ID:KIuwxKOy
週明けの月曜日、しずくちゃんと一緒に乗る予定だった電車の一本前に乗り込んで、仕事へと向かう。

しずくちゃんが自分に好意を抱いてくれているのは嬉しい。
嬉しいはずなのに、それが、自分の行いに気づかずに運命だと信じている純粋な心だと思うと、
たとえ、自分の行いがしずくちゃんの為を思ってしてきたことであっても、
どうしようもなく後ろめたさを覚えてしまって、いてもたってもいられなかった。

しずくちゃんは自分がしたように、電車を遅らせてまで待ってるのだろうか。
それとも、そういう日もある。と、普通にいつも通りの時間に乗っていくのか。

こういう時に、しずくちゃんとの連絡手段がないことが悲しく、けれど、ありがたくもある。
連絡手段を持ってしまったら、しずくちゃんと約束をしてしまうかもしれない。

約束をしてしまったら、こうして避けられなくなってしまう。
けれど、連絡手段を持たないから……しずくちゃんを困らせてしまう可能性があって。
果林ちゃんに引っ叩かれて「言ったわよね?」と、怒られるかもしれない。

けれど――それもあるべきだ。

怒られてしかるべきだ……なんて、どんよりとした気分で出社すると、
まだ始業までだいぶ時間があることもあって、
煙草を吸っていた先輩と出くわして「朝から辛気臭いな」と、引き留められる。

先輩はちょいちょいっと手招きして呼んできて
無視していくわけにもいかないと近くに行くと「また妹?」なんて、図星をついて来た。

実際には妹ではなくしずくちゃんという……血の繋がりが全くない女子高生だけれど、
先輩にはしずくちゃんを妹として話していたから、事実のようなものだろう。
 
581: (茸) 2022/05/29(日) 09:07:54.65 ID:KIuwxKOy
先輩は「妹って病弱なの?」と、踏み込んでくる。

少し前に話した時は、しずくちゃんの体調不良の件だったから、
体調不良で、回復して、また体調不良で……とでも思ったのだろうけど、
違います。と首を横に振ると「なら喧嘩でもしたの?」なんて、聞いてくる。

そんなに、今の自分は酷い雰囲気なのだろうか。
そこまで気に掛けるほどに、顔色でも悪いのだろうか。

喧嘩はしてないですけど、と答えて、ぐっと歯噛みする。

先輩は赤の他人で、しずくちゃんを妹だと思っていて、本当は何も知らなくて。
どこまで話していいのだろう……と、躊躇っていると「そういう顔してると、アイツがうるさいんだよ」なんて、
相変わらず、上司のことをアイツ呼ばわりしながら、先輩は煙草の先端を向けてくる。
煙ったくて咳込むと、先輩は煙草を引いて「笑ってやるから言ってみろ」と、言う。

どう言うべきかと考えて、言葉を選んで、くみ上げて。
そうして――嘘をついていたら、妹がそれをすごく喜んでしまっていて。と、
騙していること、隠していること、それを凄く喜ばれ、幸せに思われていること。
それが、とても後ろめたくて……と、話す。

恋愛的な部分や、自分がしていることは取り除いての相談。

先輩は顔を顰めて「バッカじゃないの」と、一笑に付して。
心底どうでもいいと言った様子で「そんなのアンタが悪いんじゃん」ともっともなことを言う。
そうして「正直に話すか、騙し続けるかしかないでしょ。そんなの」と、煙草の煙を上に向かって吐き出した。

先輩は「アンタと妹にしか関係ない嘘で、もしそれが嘘じゃなく出来るんなら、真実にするってのも手だし」と、それなりに真剣な顔で話す。
 
582: (茸) 2022/05/29(日) 10:08:28.27 ID:KIuwxKOy
正直に話すか、騙し続けるか、それを真実にしてしまうか。
運命を真実にしてしまうことは、人の手に余ることだし、
それは結局、騙し続けることになるだろう。

なら、正直に話して、嫌われて、捨てられて、また一人に戻るか。
どちらがしずくちゃんにとって良いことなのだろう。
しずくちゃんが嫌な思いをせずに、幸せでいられるのは……。

しずくちゃんが一瞬たりとも傷つくことがないことを望むのなら、
それは、絶対に知られることがないようにと、騙し続けることだろう。
それで心苦しく思うのは自分だけだから。

悩みに悩んでいると、先輩は煙草の火を消して、肩をぽんっと叩いてくる。
いつの間にか俯いてしまっていたのだろう。
顔を上げると先輩は「仕事終わったら、飲みにでも行く?」と、誘ってくれる。

金曜日ならともかく、月曜日。

それで飲みに行くのは中々強い人だなぁと思って、月曜日ですよ。と言うと、
先輩ははっとしたように顔を逸らして「確かに」と呟く。
けれど、いつもと違うことをしていれば、
少しは考えも変えられるんじゃないか、纏められるんじゃないか……と考えて。

――先輩さえ良ければ。

そう答えると、先輩は「調子乗って先輩気遣うなよ」と言いつつ、
それなら今日は定時退社目指すべきだと、いつも以上に身を入れて仕事を手伝ってくれた。
 
593: (茸) 2022/05/29(日) 20:12:50.33 ID:Imfomuw5
相変わらず、無駄な仕事を振られたり、
ことあるごとに叱責を受けたりと散々ではあったけれど、
先輩が助力してくれていたこともあって、
多少時間は過ぎてしまったものの、
殆ど誤差で定時上がりをすることが出来て……飲み屋へと足を運んだ。

メニューを見る間でもなく「とりあえずビールで良いでしょ」と先輩は言って、
それに合わせて適当なおつまみサラダなどを頼んで、
あとは好き好きに……となった。

しずくちゃんと一緒に行ったのはこんな飲み屋なんかではなく、
雰囲気のしっかりとしたイタリアンレストランで、2人きりという状況でも、
騒がしい飲み屋と、静かなイタリアンレストランとではまるで違うように感じられる。
 
594: (茸) 2022/05/29(日) 20:22:35.46 ID:Imfomuw5
しずくちゃんは常にニコニコとした口元が見えていたけれど、
先輩は煙草に火を付けていて、時々、見えなくなる。

しずくちゃんは常に優しくて、甘い……取り込まれるような匂いがしていたけれど
先輩は煙草をよく吸うから、ツンっとした鼻を突く臭いがしていて。

――しずくちゃんと先輩は、全然違う。と

当たり前のことを当たり前のように思って、
ここに来てまでしずくちゃんのことばかり考えてしまうのかと、息をつく。
 
595: (茸) 2022/05/29(日) 20:40:45.03 ID:Imfomuw5
先輩はこっちを見て「それで?」と、問いかけてくる。

飲んでパーッと忘れちゃおう。と思っていたみたいだけれど、こっちが相当に悩んでいると感じ取らせてしまったんだと思う。
先輩は、だから「話聞いてやるから」と、呆れたような顔をしながらも言ってくれる。

――先輩は運命って信じてますか?

そう訊ねると、あからさまに、馬鹿かコイツ……とでも言うかのような顔をしながら「そんなもん信じるほど、まともな生き方してないよ」と、笑う。

嘲るような笑い方……大人の、ちょっぴりがさつで、馬鹿にしている笑い声は、
しずくちゃんが聞かせてくれていた声と、見せてくれていた表情とは、まったく、似通うことさえもなくて。

そんな風にやっぱり、しずくちゃんのことが頭から離れずにいる中、
ビールが運ばれてきて「とりあえず乾杯」とかいう、途中から意味なくやるようになる儀式的なものをやってから、ビールを一口飲む。

ほろ苦い泡が口に入り、骨身に染みるような発泡酒のしゅわしゅわとした感覚が広がっていき、のど越しの良い、大人の味が流れ込んでいく。
 
596: (茸) 2022/05/29(日) 20:56:15.71 ID:Imfomuw5
先輩はこっちを見つめると顔を顰めて「で? 運命が何だっての」と、一応は聞いてくれるつもりのようだった。

どう話すべきかと少しだけ考えてから、
運命を信じている妹を喜ばせようと、運命を演出して、
けれど、あまりにも喜んでくれていて、幸せそうで、だから、後ろめたい気持ちがあって……。

なんて、掻い摘んだ真実だけを語ると、先輩は「重度のシスコンじゃん」と、煙草の煙を換気扇の方に向かって吐きだす。

実際には妹ではないからシスコンではないのだけれど……しずくちゃんが妹だったなら……というのはひとまず置いておいて、
そうかもしれないですね。と、軽く笑ってみる。

数秒間沈黙が流れて、周りの喧騒が飛び込んでくる。

先輩は煙草を灰皿にとんとんっと触れさせてから口に付けると「運命なんて、結局は主観的概念でしかなくて、そもそも存在しないものなんだよ」と、吐き捨てる。

主観的、ですか。と、繰り返すように呟くと、
先輩は煙草を吹かしながら頷いて「例えば今朝、喫煙所の前を通ったアンタを呼び止めたでしょ?」なんて、訊ねてくる。

そうですね。と、淡々と答えると、
先輩は笑って「普段あたしがそこにいる時間にアンタは通らない。でも、今日は違った。だから、運命かもしれない」と、
その程度のものとでもいうように言って、「運命なわけがないけど」と大笑いする。
 
599: (茸) 2022/05/29(日) 21:12:15.21 ID:Imfomuw5
なるほど……と、思う。

その時の自分は、その先輩に出くわしたことを運命だなんて思っていない。
自分の意思であえてその時間帯を選んだ行動の結果でしかないのだろうと考えている。

けれど、先輩からしてみれば、
偶然にもその時間に出会う運命だったのかもしれない。という認識になることだってあるというわけだ。

先輩は煙草を灰皿に置いてビールの注がれているジョッキを手に取ると、
豪快に半分ほど飲んで「運命なんて、そう感じた間抜け以外はみんな、自己意識を持って行動したとしか考えないし、運命は常に作為的なものでしかないんだよ」と、笑った。

だから、大人は運命を信じない。

大人が何かを運命と言うのは、そうであって欲しいという諦念から来るものであって、
諦める必要がない限り、そのすべては自分の選択によって得られたものなのだと考えるのだと。

どうして先輩はそんな風に……と、思わず言ってしまうと、
先輩は少し驚いた顔を見せて「アンタの妹と違って大人だから」なんて笑いながら、
丁度良く運ばれてきたおつまみのサラダを口に運んで。

ほら、運ばれてくる運命。と、嘲笑混じりに箸で摘まんでいく。

そうして先輩は「子供は無邪気に運命なんて夢を見てる。大人からしたら馬鹿げたことだよ」と、心底忌々しそうに呟く。

子供の頃の先輩は、運命を信じていたのかもしれない。

けれど、その運命は偽りだったのか、
運命とは呼びたくないものだったのか。
それとも結局、運命なんて物を感じられないまま大人になってしまったのか。

それは分からないけれど、
少なくとも先輩は運命というものを嫌悪しているように思えた。

その探るような視線を感じさせてしまったようで「アンタのそれは、サンタの正体は親だと教える程度のくだらないことなんだよ」と悪態を叩きつけられる。
 
600: (茸) 2022/05/29(日) 21:27:56.50 ID:Imfomuw5
だけど、それはとても傷つけてしまうことだ。

暫くは引き摺って関係が悪くなるだろうし、その真実を知ってしまった以上はサンタを信じなくなる。
それと同じように、運命が作り物だと知ったしずくちゃんは、運命を信じるような純情を失って、よく言えば、一つ、大人になるだけで終わるのかもしれない。

誰かとの出会いを喜ぶことはなく、関わり合うことに慎重になって、笑顔も少ない女性になっていくのかもしれない。

女優を志し、演技力を身に付けようとしているしずくちゃんにとって、夢を壊されるという経験は、
人の心に残るような演技を出来なくさせてしまうトラウマになってしまうのではないだろうか。

いや……もしかしたら、その演技にはリアリティが根付き、
心に訴えかけるようなものとなって、良くなっていくのかもしれない。

けれど、もしかしたら、その演技には悲嘆が練り込まれ、
夢を見せられず、与えられず、燻って、
消えていくことになってしまうのかもしれない。
 
603: (茸) 2022/05/29(日) 21:41:22.15 ID:Imfomuw5
思わずため息をついてしまうと「一つ言えるのは、自分から告白せずにバレる以上に傷つけるものはないってこと」と、先輩は言う。

騙し続けられれば、しずくちゃんは一生運命を信じていくことが出来るかもしれないし、
しずくちゃんとは今までのような関係で居られるかもしれないけれど、
それを維持できる保証はなく、どこかから知られる可能性は十分にあって。

悩んでしまうと「アンタは妹と自分。どっちが大事なの」と問われる。

それはもちろん妹……と、即断すると、先輩はかなり嫌悪する目を向けてきたけれど、短くなった煙草の火を消して、ビールを飲み干す。

そうして「でも妹に嫌われたくないから、正直に話せないんでしょ」と、突かれる。
 
605: (茸) 2022/05/29(日) 21:54:39.93 ID:Imfomuw5
しずくちゃんに嫌われたくないから、話せない?

違う……そうではなく、しずくちゃんを傷つけたくないから、
苦しめたくないから、悲しませたくないから。

だから、真実を告げるかどうかを迷っているだけで――と。

悩んで、考えて……そうして、
もしかしたら、そうなのだろうか。と、思う。

しずくちゃんのことを考えているふりをしながら、
本当は、しずくちゃんとの夢のような時間を経験して……。

あれを手放すようなことをしたくないと考え、
どうにかしてそれを失わずに済む方法に悩んでいるのではないだろうか。
 
608: (茸) 2022/05/29(日) 22:11:17.31 ID:Imfomuw5
だとしたら……だとしたら、なんて――

ふと、煙草の臭いが真っ向からぶつかってきて、咳込んでしまう。
さっきまでは換気扇の方に向けていてくれたのに……と、
先輩の方を見ると、先輩は煙草を吹かせる。

もう一度こっちに吹き付けるようなそぶりを見せたかと思えば、
上に吹き上げて「妹が大事なら覚悟を決めなよクソ兄貴」と、笑って、
勝手にビールのお代わりを頼み「飲め飲め」と飲ませようとして来る。

最終的には、2人で大ジョッキ3杯か4杯
それと焼酎などをいくつか……そのくらい飲んで、食べて。

そうして……。

そうして、気付いたときには、少なくともホテルではないどこかの部屋にいて、
時計を見れば日を跨いでいて……そして――隣には先輩がいた。
 
613: (茸) 2022/05/29(日) 22:29:26.86 ID:Imfomuw5
慌ててその場から離れると布団がずり落ちて、
見たこともない下着姿の先輩がその肌を晒して……横になっているのが目に映る。

脱ぎ散らかしたとしか言えない2人分のスーツが辺りに散乱していて、
よく見れば、女性物の衣服や鞄が他にも落ちていることに気づき、
自分たちが今いる場所がどこなのかを察する。

ここは……先輩の家だ。

どうしてここにいるのかと思い出そうとした頭に鈍痛が走って、思わず呻く。
驚きに戸惑って動けてしまったけれど、
だんだんと戻ってきた意識に響く痛みは、間違いなく二日酔いで。

散々飲んで……先輩の方が危なそうで。

こうなったのも自分の責任だろうからと、家を聞いて、送って……。

送って――?

そこから、先輩が「泊まっていきなよ」と、誘ってきたんだったか。
明日も仕事だし、絶対に二日酔いになるし、
無理に帰らない方が良いからと……
確か、そんなような話があって、それで――。

布団がなくなったからか、肌寒そうな声を漏らした先輩が動いて、
ゆっくり……本当にゆっくりと動き、二日酔いが辛そうに頭に触れて

そうして「あ~……」と、こっちを見て気まずそうに頭を掻いた。
 
617: (茸) 2022/05/29(日) 23:11:04.74 ID:Imfomuw5
先輩の家は会社からそんなに遠くなく、
歩いてでも20分程度で着く距離とのことで、
冷蔵庫にあったパックゼリーを頂いて二日酔いのための薬を飲み、
ひとまずは交互にシャワーを浴びて、
昨日も着ていたシャツとスーツにとりあえずスプレーだけは吹き付けて使い回し、出社する。

先輩は「まぁ平気でしょ。たぶん」と、
先輩の家に泊まってしまったことについては、
特別、気にしなくてもいいと言った様子ではあったけれど……。

正直、先輩も自分も、
本当に何もしていないと言う確証は持てていなかった。
先輩は「特に体に違和感もないし」と笑っていたけれど、だからと言って。とは思う。
 
620: (茸) 2022/05/29(日) 23:36:43.31 ID:Imfomuw5
もしも、万が一――なんて、
どうしても悩んでしまう自分の一方で、なぜだか先輩は飄々としていた

自分が男だからこんなにも動揺しているのだろうか。

しずくちゃんのことがあるのに。
なのに、先輩のことまで……いや、もしかしたら
しずくちゃんのことをきっぱりと割り切るために、重要なことなのかもしれない。

先輩を利用すると言う後ろめたさもあるけれど……。

でも、しずくちゃんを騙し続けるよりはいいだろうし、
それに、どちらにせよ、先輩に何かが起こったとき、その責任を取らなければならないのだから。

そんな――気が気でない1日を過ごして、1日ぶりに、自分の家へと戻った。
 
628: (茸) 2022/05/30(月) 05:42:48.53 ID:gfZq1qE+
家に帰ると、昨日の朝起動したビデオカメラはすでに沈黙していて、
電源が落ちるよりも先に録画が先に終了していたようで、バッテリーを入れ替えて充電し、
データを移して、パソコンに保存し、ビデオカメラのメモリーからは削除する。

データには、しずくちゃんがいつもとそんなに変わらない時間に道を通っていくのが映っていて、
帰りの時間帯にも、しずくちゃんがちゃんと帰っていくところまで映っていた。

心なしか、肩を落としているかのような……そんな風に見えるのは、
昨日はあえて会わないように行動したからなのだろうかと、考えてしまう。

しずくちゃんは偶然が重なって、必然に至り、
運命のようにも感じられた出会いに想いを馳せているから。
だから、いつものように会えるだろう。だってそういう風に過ごしてきたのだからと、
駅に向かって、けれど、会うことが出来なかったことに失望しただろうか。

それとも……そういうこともあると割り切ったのだろうか。

そして、今日は先輩の家から出社したこともあって、
昨日と同じくしずくちゃんと会うことがなかったけれど、
しずくちゃんはどう思って、何を考えて朝の通学を行ったのだろうか。

悲しんだだろうか。割り切っただろうか。
それとも……こっちの体のことを気にしてくれていたりしたのだろうか。
 
629: (茸) 2022/05/30(月) 05:56:07.73 ID:gfZq1qE+
今日の朝と帰りのしずくちゃんを撮ることが出来ていないから……様子が分からない。
けれど、それでよかったのかもしれないと、少し思う。
今まで続いてきた録画が1日分飛んだことで、
これを続ける必要はもうないのではないかと……考える時間が出来たからだ。

しずくちゃんを見守るためにしていること。

毎朝ちゃんと通学し、毎夜ちゃんと帰ってきていることを確認して、
しずくちゃんが元気かどうか、何か嫌なことはなかったか、
それが映像から読み取れることもあるし、万が一その通学の時間帯を悪い人に狙われていたら証拠として突き出すことが出来る。

けれど……これがあるからしずくちゃんのことを考えてしまう。
先輩とのことがあっても……やっぱり、
しずくちゃんのことを考えてしまって、見てしまって……会いたいと思わされる。

ここまで、来なければよかったのではないかと、今更思う。

今まで過ごしていた家の最寄駅から、会社までの短い時間
その間だけ、しずくちゃんのことを見ていられる……ただそれだけでよかったんじゃないだろうか。

可愛らしくて、優しくて、純真で、無垢で、無防備なしずくちゃんが心配だったけれど、
でも、それと同じくらいに、またしずくちゃんの声が聞きたいと、視線が欲しいと、傍にいさせて欲しいと、思っていた。

しずくちゃんの為だと言いながら、自分の為でもあったのだ。
 
630: (茸) 2022/05/30(月) 06:11:14.67 ID:gfZq1qE+
しずくちゃんとの最初の出会いは、偶然だった。
たまたまハンカチを落としてしまい、それを拾った。ただそのほんの一瞬の出会い。

しずくちゃんは持ち前の優しさで、単なる善意を持って接してきてくれただけなのだろうけれど、
その声の優しさと、物怖じせずにこっちを見てくれる瞳があまりにも綺麗で。

――だから。

あの日見た赤色が、頭から離れなくなってしまった。
守りたいとかどうとか理由をつけて、近づきたかっただけで、
本当はただ、あの赤色を……それをもっとそばに置いておきたかっただけで、
可能なら、ずっとそばに置いておきたかっただけで。

それは、しずくちゃんのことが好きだからで――。

十数日にも及ぶ、しずくちゃんの通学とお出かけの記録を1つずつ見ていく。
自分のことだけを考えるなら、しずくちゃんに真実を教える必要なんてない。
そんなことは隠して、しずくちゃんが向けてくれる好意に甘えてしまえばいい。

けれど……しずくちゃんのことを考えるなら、真実を話して、
そうして、こんな人間には近付かないように見切りをつけて貰うべきなんじゃないだろうか。

考えて、考えて、考えて……明日、またしずくちゃんに会えるようにしようと、心に決めた。
 
631: (茸) 2022/05/30(月) 06:25:54.73 ID:gfZq1qE+
あんまり記憶にない就職活動……その時と同じくらいに身なりをしっかりと整える。
しずくちゃんに会って、それで、この出会いは運命なんかではないと知って貰うために。
むやみやたらと、善意を振りまいてしまうようなことがないようにと、話をするために。
身なりはきちんとしておくべきだと思ったからだ。

そうして、今までと同じような時間に家を出る。
しずくちゃんがちょうど家を出るような時間。
しずくちゃんよりも先に駅に着くことが出来て、待っていられる時間。

なのに――

「お兄さん?」

それなのに、なぜか、家を出てすぐのところにしずくちゃんがいた。
いや、まさか。そんなわけがないと。
そう思おうとしても、見間違えるはずもない赤いリボンと、
聞き間違えるはずもない声でしずくちゃんだと理解し、高鳴る心臓の痛みが夢ではないと示して。

「お兄さん……ですよね?」

しずくちゃんは少し迷いながらもう一度声をかけて、
こっちの様子を窺って「やっぱり、お兄さん……」と、確信したように呟く。
 
632: (らっかせい) 2022/05/30(月) 06:42:03.90 ID:0S/b7Ea9
家の目の前でしずくちゃんに出会ってしまったことで、動揺してしまって反応が遅れてしまう。
必死に頭を働かせて……どうにか考えを纏めて、ひとまず笑って。

こんな場所で、珍しいね。と、
ありがちなことを言ってみると、しずくちゃんは「そうですね」とほほ笑んだ。

「少し早く行こうかと思って……そうしたら、お兄さんみたいな人が出てきて……」

しずくちゃんはそこまで言ってから、かぁっと顔を赤くして。

「ちがっ、違いますよ……その、昨日も一昨日も見かけなかったから、気になってて……だから、だからつい、足を止めてしまっただけで……」

しずくちゃんは「普段なら普通に通り過ぎてました」と、
可愛らしく手を振りながら否定して、並べ立てて、
自分が良く分からない弁明をしていることに気づいたのだろう。

段々と声のトーンを落としていき……俯いて、
やがて、完全に沈黙して胸元に手を当てる。
落ち着け。と、深呼吸をするような仕草を見せたかと思えば、顔を上げて。

「あのっ……一緒に、駅まで行きませんか?」

しずくちゃんはそんなことを言ってくる。
大人の男相手になんて誘いをしてくるんだと……しずくちゃんは本当に。と、思わされながら、
行き先が一緒なのだから拒否するのも難しいだろうと、頷く。

しずくちゃんはちょっぴり気恥ずかしそうに微笑むと、こっちに近づいて、隣に並んだ。
 
633: (茸) 2022/05/30(月) 07:06:36.30 ID:Gb/UE6Hg
しずくちゃんはこっちのことを警戒するような様子はまるでなくて、
なんだか本当に、近所のお兄さん。と思ってくれているようで……。

「体調の方は大丈夫ですか?」

ただ時間が合わなかった可能性と、
体調不良だった両方の可能性を考えながら、
たぶん、そうではないって否定されたい方を選んだのだろう。

体調は問題ないよ。と言って、
仕事の関係で出社時間を変えていたんだ。と、嘘をつく。
体調不良ではないことは事実だけれど。

「それなら、良かったです……」

しずくちゃんは安堵したように胸を撫で下ろして、ほっと息を吐く。
やっぱり、心配してくれていたんだと良く分かる表情だった。
 
634: (茸) 2022/05/30(月) 07:26:19.85 ID:Gb/UE6Hg
しずくちゃんの家を知っていたし、
家を出る時間も知っていたから、出くわさないように家を出たはずなのに、出会ってしまった。

2日間会えず、心配で、
それっぽい人を見かけてつい足を止めてしまうようなしずくちゃんにとって、
それは間違いなく運命だと思えるようなものだったに違いない。

しずくちゃんの「会えて良かった」と弾む声が、
また一つ、距離が縮まったことを実感させる。

だから――

「お兄さん」

今のうちに真実を。
そう思ったところにしずくちゃんの声が割り込んできて、はっとする。
すぐ隣を歩いているしずくちゃんは真面目な顔で。

「もしかして、お兄さんってハンカチを落とされませんでした?」

えっ……と、思わず声が出てしまう。
 
635: (茸) 2022/05/30(月) 07:33:13.72 ID:Gb/UE6Hg
特に意識せず、ただ善意を向けてくれただけのしずくちゃんの記憶には残らないような出会いだったはずなのに。

こっちをまじまじと見つめてきて……照れ臭くて顔を背けてしまうと、
しずくちゃんは「やっぱり、あの時の……」と呟く。

「手を握って貰ったとき、似たようなことが前にもあったような……って思って……やっぱり、あれもお兄さんだったんですね」

しずくちゃんは悩みが晴れてすっきりしたかのように嬉しそうに笑う。
覚えていたというより、思い出してしまったようだった。
最後、別れる寸前に手を握って欲しいと求められて、向かい合ったあの瞬間。
あの場面は確かに、それを彷彿とさせるもので――。

「……こんな偶然って、あるものなんですね」

しずくちゃんの声は優しく、香りは甘く誘うようで、
表情はとても柔らかく、ほんのりと朱色に染められていて。

その想いを、夢を。
自分は壊さなければならないのだと――胸が痛んだ。
 
636: (茸) 2022/05/30(月) 07:45:32.13 ID:Gb/UE6Hg
足を止めると、少し先にまで進んでしまっていたしずくちゃんが遅れて止まり、振り返る。
どうかしたんだろうか。と、不思議そうに首をかしげて。

「お兄さん?」

靴ヒモを結ぶくらいなら全然は待ってくれそうな様子のしずくちゃんを、
まっすぐ見つめて、歯噛みする。

あぁ、やっぱり……こんなことをしなければ良かったと、思う。
けれど、してしまったことの責任は取るべきだ。

先輩にだって、そう。
しずくちゃんにだって同じように。
これ以上、踏み込んでしまう前に……話してしまうべきだ。
まだ、しずくちゃんがなにも失っていない今のうちに。

そうだよ。と、頷く。

ハンカチを落としたのは自分だと認めて、
そうして、そこでしずくちゃんを初めて知ったのだと続ける。
 
639: (茸) 2022/05/30(月) 08:08:37.41 ID:Gb/UE6Hg
急な話にも関わらず……いや、急だからこそかもしれない。
しずくちゃんは半分ほどしか向けていなかった身体をこっちに向けて、
ちゃんと向き合ってくれる。

ハンカチを拾ってくれた。たったその一瞬で目を奪われた。
いや、心を奪われた。

だから近づきたい一心で、
元々住んでいた場所からも引っ越して、
今の場所に住み始めたと話す。

「……電車が一緒になるようになったのは、お兄さんがそういう風にしたからだったんですね」

しずくちゃんは神妙な面持ちでそう訊ねてきて、
正直に頷いて、合わせたくて少し早い時間から待ってた。と、付け加える。

「それなら、押し潰されないよう助けてくれていたのは? オフィーリアの散歩で会ったのは?」

信じられないかもしれないけど。と前置きして、
オフィーリアの散歩をしているしずくちゃんと出会ったのは、偶然だったと答える。
 
640: (茸) 2022/05/30(月) 08:29:12.20 ID:Gb/UE6Hg
でも、体調不良の時は待ってしまっていた。と言うと
しずくちゃんは「そうですか……」と信じているとも信じていないとも判別できない様子で呟いて。

「なら、電車で助けてくれていたのは偶然じゃなかったんですね」

しずくちゃんの問いに、頷いて答える。
電車の遅延で酷いことになって、大変だからと庇って――。
そこまで言ったところで、
しずくちゃんは「でも、お兄さんは……」と声を差し込んできた。

「お兄さんは、それ以前からいましたよね? 私の傍に」

しずくちゃんはそう言うとこっちが驚いているのを見て、
少しだけ嬉しそうに笑う。

「いつも、ぐいぐいって圧されるから……身構えていたらなにもなくて。今日は人が少ないのかなって気になるじゃないですか」

そうして様子を見れば、男が踏ん張っているのが見えたのだろう。
それが1日だけでなく数日に渡り、その全部が同じ人だったら……。

「私……そこまでされて気付かないほどバカじゃないですし……それに、たった一度、電車で庇ってくれた人にハンカチを渡したりしません」

しずくちゃんは申し訳ないといった様子で。

「いつも傍にいて、庇ってくれていて、そんなお兄さんならまた必ず会えるって……そう思っていたからハンカチを渡したんです」
 
643: (茸) 2022/05/30(月) 08:42:10.59 ID:Gb/UE6Hg
最初にハンカチを拾って貰ったときは偶然で、
そこからの電車では故意に狙った結果のものだった。
しずくちゃんに会いたいからと引っ越しを決意して、
偶然にも散歩中のしずくちゃんと出会ってしまって。

「……お兄さん、ストーカーさんだったんですね」

しずくちゃんにそう言われて、違うと言えなかった。
だってしずくちゃんがそう感じたのなら、それを否定できないからだ。

「渡そうとしてくれたミニタオル……私のと同じ匂いでしたし」

あっ……と、今更、その失態に気付いてしまって間の抜けた声を漏らすと、
しずくちゃんは「気付いてなかったんですね」と、なんとも言えない様子で。

「もしかしたらって、ずっと思ってて……ミニタオルで確信して……」

しずくちゃんは、気恥ずかしそうに笑いながら、困ったように頬を触る。

「お兄さんは【運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に味方する】という言葉をご存じですか?」
 
650: (茸) 2022/05/30(月) 09:00:24.79 ID:Gb/UE6Hg
聞き覚えもなくて首を横に振ると、
しずくちゃんは「ある思想家の言葉です」と言って。

「お兄さんは積極的過ぎます……」

しずくちゃんはそう言って、顔を背けてしまう。

流石に、やり過ぎてしまったのかもしれない。
だって、ただ偶然電車で出会うだけだったはずなのに、
こんな場所にまできてしまったのだから。

けれど、しずくちゃんは深呼吸をして。

「でも。それは私もですよね。ハンカチなんて渡して……一緒に通学して、一緒にお出掛けして……」

確かに、いくらなんでも無防備過ぎないかと、
思う場面が多かったし、
だからこそ、心配は増すばかりだった。
 
669: (茸) 2022/05/30(月) 18:11:12.07 ID:Gb/UE6Hg
しずくちゃんの心配させられるような行動そのものが、
しずくちゃんの無防備さから来たものではなく
ちゃんと考えての行動だったのだとしたら……杞憂だったわけだ。

あの砂浜で、無警戒に近づいてきたとき
いや、自分の私物を渡すなんてことをしてきたときから……しずくちゃんは全部、分かったうえで。

「最初は痴漢されるのかもしれないって怖かったです……でも、お兄さん、何かするどころかなにもないようにって必死で……」

しずくちゃんは困ったように言う。
きっと、警戒し不安になっていたのに、
なにもなくて庇われるばかりだったから、混乱していたに違いない。

「だから、いつも降りる駅を過ぎてでも庇ってくれたときは驚きましたし……少しは返しても良いのかなって思ったんです」

しずくちゃんの言葉に驚いて固まってしまうと、
しずくちゃんはその理由が分かっているように笑う。

「お兄さんが傍にいた数だけ、私はお兄さんが降りる駅を見ていたんですから。当然ですよ」
 
672: (茸) 2022/05/30(月) 18:36:35.93 ID:Gb/UE6Hg
まぁ確かに……あの体調不良の際に教える以前から、
傍にいることに気付いていて、
その姿を目で追っていたなら、降りる駅なんて嫌でも記憶できるだろう。

そんなこと、気付かなかった。
しずくちゃんが気付いてくれているなんて思ってもみなかった。

けれど、だからこそ。
知らずにただ、しずくちゃんのためにって必死になっている姿を見て
しずくちゃんは距離を縮めてくれたわけで……。

「私も、ちょっとだけストーカーですね」

しずくちゃんがいると知ってここに来たことや、
電車でもほとんどが偶然ではなかったこと……そして、
しずくちゃんのハンカチから匂いを探し出したりしたことも。

しずくちゃんは知ったはずなのに、
今までと変わりのない、可愛らしい笑顔を見せてくれる。

しずくちゃんが事前にある程度察していて、
覚悟していたからといっても、

自分がしたこととはいえ、許せるのだろうかと、疑問に思ってしまう。
 
674: (茸) 2022/05/30(月) 18:55:20.75 ID:Gb/UE6Hg
ストーカーされていると分かったのに、
どうして……しずくちゃんは平然としているのだろう。
まるで気にしていないといった様子なのだろう。

――気味悪く思わないの?

思わず、そんな馬鹿正直に聞いてしまう。

流石に直球過ぎたようで、
しずくちゃんは面を食らったように驚いた顔をして。

「……正直、お洗濯物の匂いを特定されるとは思ってませんでした」

たったハンカチ一枚から、そんなことが出来るだなんて誰が想像できるだろうか。
もちろん、自分は出来るけれど、普通は考えもしないはずだ。

しずくちゃんは悩ましそうな表情を見せると「でも……」と呟く。

「私、楽しかったんです……お兄さんがそういう人だと分かっても、だから離れようって……思えなかったんです……」
 
678: (茸) 2022/05/30(月) 20:11:17.76 ID:Gb/UE6Hg
「お洗濯物の匂いは同じ地域なら、もしかしたら同じになるかもしれませんし……」

しずくちゃんはそう言いながらこっちを見つめる。
偶然なんかではなく、探し出して同じ匂いにしたのかどうか。
それを確認するかのような視線に、誤魔化せなくて頷く。

「でも、一緒にいて楽しかった。一緒にいられて嬉しかった。たった一日だったけれど、幸せで――」

しずくちゃんは笑って、困った顔をして、
ふいっと……顔をそらしてしまう。

「私……」

しずくちゃんの小さな身体。
その横に垂れ下がっていた手がぎゅっと……握りこぶしを作って。

「お兄さんが黙ってくれていたら……考えすぎだろうって、割りきれたのに……」
 
684: (茸) 2022/05/30(月) 21:00:12.37 ID:Gb/UE6Hg
気になることは偶然なんだって切り替えて
気付いてしまったことは全部、気のせいだって割り切って
そうして、これからも変わらない関係を続けていく。

しずくちゃんはそれが出来たのに。と、悲しそうな顔を見せて。

「でも、ストーカーだって言われても……どうにかして受け入れようと思って……笑おうと思って……たんです……」

そうして、しずくちゃんはぽろぽろと涙を溢し始める。

「ストーカーしてたって言われても……私……お兄さんが……」

堪えきれなくなったとばかりに、しずくちゃんは俯いて、何度も首を振って、
握りこぶしを作っていた手で頭を抱えて……しゃがみ込んでしまう。

「でも……ストーカーに運命を感じてたって思うと……辛くて……っ……苦しくて……」

鼻を啜るような音がする。
嗚咽が聞こえる。
それは全部、どこかからではなく、目の前にいるしずくちゃんから聞こえてきていて。

「……こんなことなら、もっとストーカーらしくしてて欲しかった……優しくしないで欲しかった……安心させないで欲しかった……」

不安にさせて、恐怖を覚えさせ……ひとりで出歩くことさえ出来なくなるような
そんな身の毛もよだつ存在でいれば、
もしかしたらしずくちゃんは、当たり前の警戒心を持つようになるだけで済んだのかもしれない。

なんて……今更、思ってしまう。

しずくちゃんのことを考えて、
自分のことを考えて……と、中途半端すぎたのだと。
 
694: (茸) 2022/05/30(月) 21:27:30.82 ID:Gb/UE6Hg
しずくちゃんの姿の痛ましさに、胸が苦しくなる。
誰のせいだ……誰が招いた結果だ。

考えるまでもなく、お前だろう。と、
自分の中の自分に責め立てられて、けれど、近付くわけにもいかなくて。

……ごめん。悪かった。

そう言うと、しずくちゃんは首を振って。

「良いんです……これが運命だったんです……」

夢に見るような運命ではなく、そういうものなんだと諦めるための運命という言葉。
しずくちゃんはそれを使って、悲しげに笑う。

「私……欲張っちゃったんです……一昨日も昨日もお兄さんに会えなかったから。少し早く家を出たらお兄さんに会えるかもしれないって……」

しずくちゃんはそう言って「バカですよね……」と、自嘲する。

「それでお兄さんに会えたからって、運命かも……なんて舞い上がって……あんなお話ししちゃって……」

しずくちゃんは笑って、笑って、笑って……それでも、今までの笑顔には遠く及ばないほど暗く、悲しいもので。

「……お兄さん、私のわがままを聞いてくれますよね?」

しずくちゃんはそう言うと、こっちが承諾するよりも前に「お願いします」と、切り出して。

「もう……二度と、お兄さんに会いたくないです」

辛そうに胸を抑えて、苦しそうな表情で……しずくちゃんはそんなお願いをしてきた。
 
712: (茸) 2022/05/30(月) 22:21:37.28 ID:88pCR4Td
嫌だ――会いたい。離れたくない。ずっと一緒にいたい。

そんな、自分本位な我儘を言えるわけがなかった。
しずくちゃんは辛くて、苦しんでいる。
涙を拭うこともできないほどに傷ついていて……それでも、必死に笑顔を作っている。

その痛々しさに対して――いいや、そんな思いをさせた自分が、
なぜ、しずくちゃんに対してそんなことが言えると言うのだろう。
しずくちゃんを傷つけない。と、果林ちゃんにそう約束をしたはずなのに。

なのに――

「お願い……します……っ」

目の前には、大粒の涙を零して「会いたくない」と懇願するしずくちゃん。
辛いから、苦しいから。
真実を知るまでの出会いが、たった一度の、夢のような経験が。
あまりにも楽しくて、嬉しくて、幸せで。

だからこそ――翻った痛みは想像を絶するほどのもので。

だから、頷くしかなかった。

……分かった。ごめん。本当に、ごめん。

そう言って、しずくちゃんから十分に距離を取りながら横を抜けていく。
泣いているしずくちゃんにハンカチを差し出すことは出来ないし、
慰めてあげることもできない。

出来るのはただ、少しでも早く、その場を離れることだった――

「お兄さんのこと……好きでした……」

――たとえ、どんな想いがそこに残されていくことになったとしても。
 
724: (茸) 2022/05/30(月) 22:57:35.69 ID:88pCR4Td
そこからのことは、よく覚えていない。

駅に向かったはずだけれど、気付いた時には会社についていて、
体に染みついた通勤の癖はこんな時でも律儀だな……と、
漠然とした思考で仕事をしていると、
水気の多い何か冷たいものが頬に触れた。

目を向けると先輩が「生きてんの?」なんて声をかけてくる。
残念ながら。と答えて、仕事に戻ろうとした瞬間、
先輩は手に持っていた缶コーヒーをこっちに突き出して、受け取れと催促してきた。

受け取ると、先輩は自分の分の缶コーヒーに口をつけて「あの事は気にしなくていいって言ったでしょ」と、呆れていて、
何のことかと一瞬、分からなくなって考え込み、
そう言えば、先輩と寝てしまったんだったか……と、思い出す。

先輩がそう言ってくれるなら気を揉まなくて済む。と、
ありがたく思いながら、先輩がそう言うなら。と、答えたのに、
先輩は顔を顰めて「少しは気にしろよ」と返ってくる。

気にしなくていいと言ったのに、
それに同意して気にすまいとしたら、気にしろという。
だったら――。

なら、責任取って先輩と一緒になりますよ。

なんて、特に何の思いもなく言うと、
中身の入った缶コーヒーが床に落ちる音がして。
振り返れば、缶コーヒーを取りこぼし、何とも言えない表情をしている先輩がいた。
 
729: (茸) 2022/05/30(月) 23:16:15.96 ID:88pCR4Td
先輩? と声をかけると、
先輩は、はっと気づいて「まぁ、付き合うくらいなら……」と顔を逸らす。

そんなことよりも床を掃除した方が良いのでは。と思ったが、
この件を適当に済ませると、また先輩が不満そうにするのではと考え直して、
ならそうしますか。なんて一声かけてから、
落ちていた缶を拾い、床に広がったコーヒーを拭く。

遅れて気付いたのだろう。
全部拭き終わってから「悪い」と先輩は呟いて、
逡巡するような間をおいて「……よろしく」と、今まで見たことないような表情を見せる。

男勝りにも感じられるような雰囲気で、力強い声で。
煙草の臭いがする先輩。
しずくちゃんとはまるで違うこの人を、自分は本当に愛せるのだろうか。

――きっと、心の底から愛することは出来ない。

そう思いながらも、
惰性的に……自罰的に、なし崩し的に、先輩と付き合うことになった。

それからすぐに職場が近いからというだけで、
七里ヶ浜の家を引き払い、先輩と同居をすることにした。
職場が近いというのは単なる理由付けで、本当はただ、
しずくちゃんに会わないようにしたいだけだった。

自分はしずくちゃんを傷つけることしかできない。
苦しめることだけしかできない。
だから、だから、だから――だから。と、諦めることを選んだ。
 
733: (茸) 2022/05/30(月) 23:40:26.31 ID:88pCR4Td
ということで、離別ENDでこの物語は終わりとなります。
ありがとうございました。

ニアおまけのルートを選択してください。

①、>>636からの黙秘ルート
②、>>674からの惚れた弱みルート
③、>>729からの離別ルート

11時45分までで多い方
 
735: (ほうとう) 2022/05/30(月) 23:41:08.13 ID:f10BNo5g

 
736: (たまごやき) 2022/05/30(月) 23:41:27.20 ID:W8QsiSpf

 
737: (茸) 2022/05/30(月) 23:41:42.09 ID:Virkpfex

 
738: (もんじゃ) 2022/05/30(月) 23:42:10.74 ID:6PFDq23/

でも全部見たい…
 
739: (もんじゃ) 2022/05/30(月) 23:42:29.18 ID:UYSb690j
2
 
740: (わんこそば) 2022/05/30(月) 23:42:29.83 ID:spCaytWp
1
 
741: (くさや) 2022/05/30(月) 23:42:42.83 ID:yhV9IaSW
マジでこれで終わるなんて悲しすぎる…3は先輩と別れて更にバッドエンドってこと?
2だな
 
742: (たこやき) 2022/05/30(月) 23:43:25.88 ID:2vemP/zG
圧倒的で草
1つ選ぶなら②だけど正直①も気になる
 
743: (たこやき) 2022/05/30(月) 23:43:56.80 ID:2AFYiU+4
2で
 
744: (なっとう) 2022/05/30(月) 23:44:22.57 ID:1V0fwuZn
1はバッドエンド行きの地雷くさいので2
 
745: (しうまい) 2022/05/30(月) 23:44:23.15 ID:hNbjESqJ
2
 
746: (なっとう) 2022/05/30(月) 23:44:32.71 ID:n/aJTlVe

 
749: (しうまい) 2022/05/30(月) 23:46:15.04 ID:F+a1XFa6
③の意図がわからん、なんかあるのか?
 
750: (たこやき) 2022/05/30(月) 23:47:07.89 ID:9lYgrnrY
②かな
でも①も気になる
 
752: (茸) 2022/05/30(月) 23:49:47.36 ID:88pCR4Td
では②で進めます。
③は>>729で終わらずに話を続けるというだけになります。
 
764: (茸) 2022/05/31(火) 00:19:46.70 ID:7rQ+mZnZ
――――――――――――

>>674から分岐】

――――――――――――

しずくちゃんは訴えるように言うと、ぐっと堪えるようにして息を吐く。
そうして、しずくちゃんはゆっくりとこっちを見つめてきた。
瞳は潤んでいて、今にも泣きだしてしまいそうで。

選択を間違ってしまったんだと思わせるような悲痛な表情で――

「でも……私……それでもお兄さんが好きです……っ」

しずくちゃんは、身を乗り出すような勢いでそう言った。

思いもよらない告白にこっちが戸惑ってしまう一方、
もう歯止めがきかないといった様子で、
しずくちゃんは少しだけ、こっちに近づいてくる。

「楽しかったんです。嬉しかったんです……幸せだったんです……お兄さんとの時間が、とっても……」

しずくちゃんはそう言いながら「おかしいですよね……」と、呟いて。
それでもなお、近づいてきて
ついに真正面へと向かい合うように立って、しずくちゃんはこっちの袖の辺りをぎゅっと掴む。

「お兄さんがストーカーしてたこと……全部許してあげます。色々言いたいことはありますけど、でも……お兄さんを責めたくない」

しずくちゃんはきっと自分がストーカー行為を責めたら、
関係の全てが終わってしまうことになると思っているのだろう。

でも実際に、責められたら否定はできない。
してきたことは事実だし、しずくちゃんが嫌だと言うのなら
たとえ、守るためだったと言っても、それは許されないことになってしまうからだ。

「……好きになっちゃったんです。お兄さんのこと」

しずくちゃんは、恥ずかしそうに、困った様子で……繰り返した。
 
775: (茸) 2022/05/31(火) 06:58:24.37 ID:VEEqM208
「お兄さん」

しずくちゃんは視線を誘導するように袖を引き、顔を上げて。
視線を下げると、しずくちゃんはこっちをまっすぐ見つめてきて、
目が合ったかと思えば、にこりと笑う。

「お兄さんだって、私のこと……」

好きなんですよね? と、問いかけるようなしずくちゃんの表情。

スクールアイドルのしずくちゃんのファンで、
しずくちゃんのことを追いかけてここまで来て、
ハンカチから匂いを探し出して自分の匂いにしていたりして。

そんなことをしているのに、好きじゃないなんて。そんなわけがないと思うし、
しずくちゃんもそう思っているからこそ、確信があるといった様子で。
だから。

――好きだよ。と、答える。

初めて見た時から……ずっと。
あの赤色に魅せられて、忘れられなくなって……それは、間違いなく一目惚れで。

「ほら、やっぱり……お兄さん、私のことすっごく好きですよね? 匂いを調べちゃうくらい、大好きなんですよね?」

しずくちゃんは、こっちがしずくちゃんのことを好きだと認めた瞬間、
凄く嬉しそうな声で、急き立てるかのように訊ねてきて、
もう今更隠せるわけがないからと、正直に頷いて、好きだよ。と肯定する。

「運命じゃなくて、ストーカーさんだったのはショックですけど、でも、それだけ好きだってことなら……」

それなら。まぁ……と、しずくちゃんは受け入れようとしているように呟きながら、
ぎゅっと一際強く袖を掴んで。

「色々問題がありますけど……これからも一緒にいてくれますよね?」
 
776: (茸) 2022/05/31(火) 07:12:12.65 ID:VEEqM208
ストーカーは、その相手に好意を持っていることがほとんどだ。
もちろん、恨みを抱いていて害するために……という人も中にはいるけれど。

自分の場合は恨みなんかではなく、好意しかなくて。
だからこそ、しずくちゃんも「大好きってことなら……」と割り切ろうと思ってくれるのかもしれない。

けれど、そうなれば「ストーカー」よりも「女子高生」という問題が大きくなる。
一歩間違えれば、大変なことになってしまう肩書き。
それがあるから、自分は踏み込めなかったのに……。

ストーカーを受け入れられてしまったら、
女子高生であることを受け入れないわけにはいかないだろう。
 
777: (茸) 2022/05/31(火) 07:20:57.03 ID:VEEqM208
しずくちゃんはそんなことをしないでくれるかもしれないけれど、
受け入れてくれないならストーカーとして訴えます。という脅しだって出来る。

「……ダメ、ですか?」

しずくちゃんは不安そうに訊ねてくる。

ストーカーだとしても……と、
考えてしまうほどに好意を抱いてくれているしずくちゃん。
だから、女子高生だから無理だって断られることが不安で、怖いのかもしれない。

むしろ、こっちが本当にいいの? と、聞きたいくらいなのに。
それくらいにしずくちゃんは可愛くて、優しくて、いい匂いがして……。

そのしずくちゃんがここまで言ってくれているのに、
何を怖じ気付いているんだと、全身に力を入れて。

――ダメじゃないよむしろ、嬉しい。

はっきりと否定して、しずくちゃんが望むようにしようと頷く。
しずくちゃんを傷付けたくないからだ。
 
779: (茸) 2022/05/31(火) 07:29:22.15 ID:VEEqM208
「良かった……」

しずくちゃんは安堵したように呟くと、
もう捕まえていなくても逃げたりしないと思ったのか、
掴んでいた袖を手放して、ほっと……息をつく。

とはいえ……と、頭を動かす。
しずくちゃんが女子高生であるということもそうだけれど、
もう一つ別の問題がある。
流石に黙っているのも不義理だろうと思って、
実は……と、切り出す。

一昨日、酔った勢いで会社の先輩と――。

もしかしたら、本当になにもなかったかもしれないけど、
もしかしたら、何かやらかしている可能性もある。
そう言うと……。

「……え……? ……ど、どういう……え……?」

しずくちゃんは酷く混乱していた。
 
786: (茸) 2022/05/31(火) 07:43:38.60 ID:VEEqM208
「お、お兄さんは私のことが好きなんですよね……?」

しずくちゃんは「ストーカーしちゃうくらいに好きなんですよね?」と、
確認するように訊ねてきて、悩むまでもなく頷く。

ただ、しずくちゃんが好意を抱いてくれているようで、
それが自分の作為的な運命によるものだという罪悪感があって
悩んでいて……先輩は相談に乗ってくれたのだと話す。

「……私のお酌はだめでその方のお酌は良いってどういうことですか?」

しずくちゃんの意外な切り口に思わず間の抜けた声を漏らしてしまったけれど、
互いにお酒が飲めるから……と、
答えると、「飲めなくても良いじゃないですか」とむっとされてしまう。
 
789: (茸) 2022/05/31(火) 08:20:18.04 ID:VEEqM208
今度させてあげるから……と、
それはひとまず置いておいてくれるようにお願いする。

「……約束ですよ?」

しずくちゃんはちょっぴり怒った様子ではあったものの、
悩むように顔を伏せて、少ししてから顔を上げた。

「なら、その方に会わせてください」

なんで!? と思わず大きな声を出してしまうと、
しずくちゃんは「近所迷惑ですよ」と言いつつ「私が聞きます」と言う。

「私が、お兄さんの妹として実際にどうなのかお話を聞きます」

その日に何かがあったのか
それとも、なにもなかったのか。
しずくちゃんはその真相を聞き出すつもりのようで。

「お兄さんのためだけでなく、私のためでもありますから……任せてください」

しずくちゃんはとっても本気で、
拒否権はないといった雰囲気で……頷くしかなかった。

「ということで、連絡できるようにしませんか?」

しずくちゃんは嬉しそうな笑顔と一緒にスマホを取り出してきて、
先輩の話は口実のようなものなのかもしれないと「これでお約束できますねっ」なんて言うしずくちゃんを見てて思う。

けれど、
そんなしずくちゃんが可愛らしくて、愛おしくて、目が離せなくて。
やっぱり、好きなんだな……と。思った。
 
792: (茸) 2022/05/31(火) 08:38:31.53 ID:VEEqM208
少し早めに家を出たとはいえ、
いつまでも立ち止まってはいられないと……しずくちゃんと一緒に駅へと向かう。

時々、こつん……こつん……と腕にしずくちゃんの肩が触れてくる。
その度に、しずくちゃんは「ふふふっ」なんて、嬉しそうに笑う。

もう遠慮しなくてもいい。そんな解放感がしずくちゃんにはあるのかもしれない。
こっちとしては、嬉しさと緊張とであんまり余裕がないのに。

「……手でも繋ぎますか?」

不意にしずくちゃんはそんなことを言い出して、
流石に今のあからさまな格好では……と首を振ると、
しずくちゃんはちょっぴり残念そうに「ですよね……」と微笑む。

「じゃぁ、今度デートするときは握ってくれますか?」
 
793: (茸) 2022/05/31(火) 08:55:05.58 ID:VEEqM208
この前はしずくちゃんが袖を掴むだけだったし、
最後にしたのだって、手を繋ぐというよりはただの握手でしかなかった。

だから、しずくちゃんは今度こそはと思っているようで「お願いします」と、
可愛らしく上目遣いにこっちを見てくる。

遠慮が要らない。
だってストーカーしてくるほどなのだから。なんていう
しずくちゃんの切り替えが積極さを増したのだろう。

好きになってしまったから――見限れない。
その辛さを覆い隠したいというのもあるかもしれないけれど。

だからこそ、しずくちゃんの要求は出来る限り応えてあげたいと思う。
傷付かないように、苦しまないように、辛くならないように。

今度ね。と言うと、しずくちゃんは「約束ですよ」と、可愛らしく笑ってくれる。

話さなければ、もっと幸せだったかもしれないし、
話したからこそ、この距離感かもしれない。

いずれにしても、しずくちゃんを幸せにしてあげるべきだと、強く思う。
 
806: (茸) 2022/05/31(火) 18:02:28.28 ID:VEEqM208
しずくちゃんと隣り合って電車に乗り、
会社の最寄駅で「お兄さん。またあとで連絡しますね」と、
しずくちゃんに見送って貰いながら、出社する。

しずくちゃんと朝会うだけではなく、常に連絡が取り合えるようになったのは嬉しいことだけれど、
その目的として先輩と話したいから。というものがあるのが少し、気を悪くさせる。

しずくちゃんは何か危ないこととか悪いことはしないだろうけれど、
先輩は不必要に喧嘩を売りそうな気がするというか。

シスコンだなんだと言っていたから、
しずくちゃんにも容赦なかったりするのではないかと、心配になってくる。

いや、流石に子供に対しては……と考え直していると、
しずくちゃんから「よろしくお願いします」という意味を持つスタンプが、送られてきた。

こちらこそよろしく。と、簡潔に返して
すぐに「なんだか簡素じゃないですか?」なんてしずくちゃんからのダメ出しが来て……。

なぜだか、スタンプをプレゼントされてしまった。
 
807: (茸) 2022/05/31(火) 18:14:50.94 ID:VEEqM208
昼休みになって、煙草を吸いに行くだろう先輩に声をかける。

少し話せませんか。と、訊ねると、
先輩は「なんだよ急に」と、少し眉を潜めながらも、承諾してくれた。

会社を出てすぐのところにある喫煙所。
その傍には先輩がいつも買っている缶コーヒーを売っている自販機が立っている。

先輩は缶コーヒーを買ってから「で?」と、煙草に火をつける。
それを横目に、実は妹が先輩に会いたがってて……と、
しずくちゃんを妹と設定して切り出す。

答えるよりも先に煙草に口をつけた先輩は、
煙を吐いて「意味不明なんだけど、なんで?」と当たり前のことを聞いてきた。

……この前家に帰らなかったじゃないですか。

理由としてもっとも簡単に通じるそれを口にすると、
先輩は缶コーヒーを開けて一口飲み、また煙草を吹かして。

溜め息をつくと「兄がシスコンなら妹はブラコンかよ……」なんて面倒臭そうに頭を搔く

そうして「しかも馬鹿正直に話したってこと?」と、先輩に言われて頷くと「バカじゃん」と悪態をつかれる。
 
810: (茸) 2022/05/31(火) 18:32:16.27 ID:VEEqM208
先輩は「なにも無かったって言ったでしょ」と言うけれど、
もしかしたらあったかもしれないので……と首を振る。

缶コーヒーをぐいっと飲んで「あたしが無いって言ったらないだろ普通……」と、先輩は呆れた様子を見せながらも「わかった」と答えてくれた。

その代わりに「飯奢れよ」と、先輩は言いつつ「あんたをシスコンにしたブラコン妹を見てやるよ」なんてバカにしたように言う。

しずくちゃんが妹だったなら誰でもシスコンになる。
きっと、先輩だってシスコンになるはずだ。
そうさせるようなものがしずくちゃんにはあると思う。

もちろん、そんなことを言えば「シスコンだからだろ」と、冷めた目で見られることになるのだろうけど。

そのあと、しずくちゃんと連絡を取って、今日でも平気かどうかを確認し、
先輩の家が職場の近くにあるということもあって、
しずくちゃんには会社の最寄駅へと来て貰うことになった。
 
812: (茸) 2022/05/31(火) 19:44:05.92 ID:VEEqM208
しずくちゃんが部活をしていると言っても、
定時で上がったってしずくちゃんを待たせることになってしまう。

実際、しずくちゃんからは「待ってますね」と、
どこで合流するかを含めた連絡が退勤する約1時間前に来ていて。

仕事をどうにか定時近くで切り上げ、急いで駅へと向かおうとしたけれど、
先輩に「ヒールなんだけど」と怒られて、タクシーで駅に向かう。

タクシーで行くとしずくちゃんに伝えて、
少しだけ合流場所を変えて貰った場所につく。

人がまばらにいる駅前辺りを見て、
先輩が「どれ?」と聞いてきたのとほぼ同時に「お兄さ~ん」という呼び声がかかる。

2人で目を向けた先には、大きなリボンが特徴的な女子高生が手を振っていて
その女子高生――しずくちゃんは駆け足で近付いてきた。

「お兄さん、お疲れ様です」

可愛らしい笑顔を見せてくれるしずくちゃんの一方、
先輩はおぞましいものを見る目付きでこっちを見て「……パパ活?」と、呟いた。
 
816: (茸) 2022/05/31(火) 19:56:43.60 ID:VEEqM208
先輩のあんまりにもな発言に動揺してしまって、
いやいやいや何言ってるんですか! と、
むしろそれっぽい否定をしてしまう。

そのせいか先輩が訝しげで。

「ふふっ……お兄さんってば、それじゃぁ認めちゃってるみたいですよ?」

しずくちゃんはしずくちゃんで、
否定も肯定もせずに楽しそうに笑いながらそう言って、先輩へ目を向ける。

「はじめま――」

そして挨拶……のはずだったけれど、
先輩は「桜坂しずくでしょ?」と、見事に言い当てた。
 
819: (茸) 2022/05/31(火) 20:11:34.89 ID:VEEqM208
「ご存知なんですか?」

しずくちゃんは言い当てられてもまったく動揺する様子はなく、
むしろ、知ってて貰えたことが嬉しいというような声色で。

先輩はスクールアイドルや、SIFのことを上げて、
ネットニュースにもなってるから……と、
どうして知っているのかを話して。

どう考えても兄妹じゃないでしょ。と、指摘されてしまう。
否定するべきかそれとも……なんて考えている間にも、
しずくちゃんは平然と笑顔を浮かべていて。

「そうですね……正確には従兄従妹なんです。私、一人っ子なのでお兄さんにはすっごく良くして貰ってて……」

だから。と、しずくちゃんは言いながらこっちに身を寄せてくる。

「お兄さんがつい最近、夜も眠れないような経験をしてしまったって聞いて心配だったんです」
 
822: (茸) 2022/05/31(火) 20:59:12.21 ID:KfdXlLVR
先輩には事前に妹……従妹のしずくちゃんが
何を気にして先輩に会いたがっているのかは説明しているということもあって、
先輩はため息をついて、こっちを見る。

外で立ち話する内容でもないからと、
ひとまず、ファミレスにでも行こうかと言う話になって駅近くにあったお店に入る。

先輩はよくよく煙草を吸う為、
喫煙席の方が良いかもしれないとしずくちゃんに声をかけると、
先輩は「禁煙席で良いから」と、一足先に禁煙席でと店員に声をかけて奥に入っていく。

その後をしずくちゃんと追いかけて、
先輩の対面に自分が来て、自分の隣に、躊躇なくしずくちゃんが座る。

先輩はしずくちゃんにドリンクバーはいるか。何か食べるのか……と、
色々聞いて気遣いながら、こっちにはいつものようにやや適当に聞いてきて、注文をする。

そうして――。

先輩は「で? お兄ちゃんと何かあったら問題でもあるの?」 と、先輩はやっぱり、
不必要に喧嘩腰でしずくちゃんに訊ねた。
対して、しずくちゃんは「お兄さんを困らせないで欲しいんです」と、悲しそうに言う。

「お兄さんがしてしまったことなら仕方がないと思いますけど、でも、もし、本当は何もないのなら、そう言って欲しいんです」

心配そうにしているしずくちゃんを横目に、
先輩は「ほら面倒くさい」とでも言いたげな様子を見せる。
いつもは煙草を吸っているからか、やや手持ち無沙汰に「お兄ちゃんには何にもなかったって言ってるんだけど」と、吐き捨てる。
 
824: (茸) 2022/05/31(火) 21:31:32.52 ID:KfdXlLVR
「何も、なかったんですか?」

しずくちゃんはちょっぴり驚きながら先輩へと聞き返し、
こっちにも目を向けて「なかったんですか?」と、素知らぬ様子で訊ねてくる。

先輩は「寝たは寝たけどね」と、言わなくてもいいことを言って、
しずくちゃんが「え……?」と、
唖然としたのを一目見て「下着までしか行かなかった」と、笑う。

「……何もなかったんですか?」

なんてこっちに近寄ってくるしずくちゃん。

それを見て苦笑する先輩と、
料理を運んできて気まずそうな高校生くらいの店員。
少しだけ不思議な時間が流れて。
先輩は店員が去ってから「本当に何もなかったよ」と、しずくちゃんを見つめる。

お酒ではないただのソフトドリンクをまるでお酒でも飲むかのように飲みながら、
先輩は「従妹なら、一緒にお風呂に入ったことくらいあるんじゃないの?」なんて、突拍子もないことを言いだす。

しずくちゃんは高校生で、自分とは一回り近く歳が離れている為、
そんなにも仲が良いのなら、幼少期には一緒にお風呂に入っていたんじゃないかと思ったのだろう。
最初、呆然としているようだったしずくちゃんはだんだんと顔を赤くしていって。

「お、覚えてませんっ」

なんて、それはそうだろうと思わざるを得ないことを、
まるで覚えているかのように声を上げて、恥ずかしそうに顔を背ける。
これは確かに、女優を目指して演技を磨いているなぁ……と、他人事のように感心してしまう。
 
826: (茸) 2022/05/31(火) 21:49:52.29 ID:KfdXlLVR
先輩は照れてしまったしずくちゃんを面白がりながら、
運ばれてきた料理に箸をつけて、1人先に、食べ始める。
しずくちゃんはちらりと先輩を見て、
それからこっちを見てきて、手でぱたぱたと自分を仰ぐ。

「お兄さんとは仲良かったですけど……でも……そういうのは、たぶん……」

照れているのは演技……ではないようだ。
覚えていない。という言葉を選べたのが奇跡的なほどに動揺しているのが、
しずくちゃんの表情から見て取れる。

ひとまず食べちゃおう? と声をかけると「そうですね……」と、
しずくちゃんも食べ始めて。
先輩はそんなしずくちゃんに対して「でもさ。従妹にしては距離近いんじゃない?」と、突っ込んできた。

しずくちゃんはお箸をピタリと止めて、ゆっくりと先輩に目を向けていく。
何かを言おうとしたのかもしれないけれど、

「もしかしてさ……ちょっと特別に思ってんの?」

先輩はあらかじめ用意していたかのように、
先手先手を打って、しずくちゃんの余裕を奪いに来る。

しずくちゃんはお箸を取りこぼし、目を見開いて……
こっちを見たかと思えば、落としてしまったお箸を拾ってから、先輩を見る。

「私にとって特別だったら、お姉さんにとって不都合なんですか?」

店内には子供連れのお客さんなどがいて、
結構な騒がしさがあったはずなのに……まるで、時間が止まってしまったかのように静かに感じられるくらい、
しずくちゃんの声は刺々しく感じられた。
 
828: (茸) 2022/05/31(火) 22:18:06.01 ID:KfdXlLVR
そんな風に返されると思っていなかったようで、
先輩は驚いた様子でしずくちゃんを見つめて笑うと「別に?」と素っ気なく返す。

「酔っても身体許さない程度の相手だし」

先輩はしずくちゃんが一番気にしていたことをあえて引き合いに出しながら、
悪戯っぽく笑って見せたけれど、
しずくちゃんは何にもなかった。と言われていたからか、
もうそんなことはどうでもいいといった様子で、可愛らしく笑う。

「お兄さんですから」

お兄さんだから……? と、引っかかってる自分をよそに、
しずくちゃんと先輩はニコニコと見つめ合う。
けれど、その空気はあまりよろしくなさそうだと戦々恐々としてしまう。
そんな中、しずくちゃんが口を開く。

「お兄さんは特別ですよ。だって、いつも優しくしてくれたから、守ってくれていたから、可愛がってくれていたから。スクールアイドルを応援してくれて、夢を応援してくれていて……高校生と大人になってしまった今でも変わらず、妹のように大切にしてくれていますから」

しずくちゃんは堂々と、胸を張って語る。

妹のように大切にした覚えはないものの、優しくしたし、守ったし、可愛がっていたし、
スクールアイドルのことを応援したりもしていて――。

「でもだからこそ、妹とは思われないような距離感である必要がありそうかな……って、最近は思ってます」

にっこりと笑うしずくちゃん。
あんまりにも堂々としていて、冗談だとか、演技だとか
そう思わせないような雰囲気が感じられて……

「だからもし、お姉さんがお兄さんを欲しいと思っているのなら――覚悟してくださいね?」

流石に、しずくちゃんに軍配が上がったのだと自分でもわかった。
 
831: (茸) 2022/05/31(火) 22:51:06.75 ID:KfdXlLVR
その後は、先輩からしずくちゃん。
しずくちゃんから先輩へと、所謂、口撃のようなものが行われるようなこともなく、
先輩は別れ際に「本当に何もないから安心していいよ」と、改めて言ってくれるだけだった。

電端の方の車両だったからか、運良く座ることが出来て一息つく。
もしかしたら本当は……なんて。
そんな推測はきっと、野暮なのだろうと振り払った。

しずくちゃんとは帰りがほぼ9割同じで、
今はもう、気兼ねなく一緒に帰ることが出来るため、
今日は迎えに来るの? とだけ確認すると、
しずくちゃんは困った顔で「今日はないですよ」と、答える。

迎えに来てくれた方が良かったのだろうか。
一緒に帰るのはそこまで嬉しくないのだろうか。
それとも――と、考えている間に、しずくちゃんは「ごめんなさい」と、言う。

「お兄さんの会社での立場悪くしちゃったかもしれません……」

先輩とのやり取りは、少し激しいのではと感じさせられるような場面もあって、
そんな妹……従妹がいるような兄とはちょっと。なんて、先輩が避けるようになり、
噂が広まって……となる可能性をしずくちゃんは考えたのかもしれない。

先輩が挑発するようなこと言ってたからだし……と、しずくちゃんのことをフォローする。
けれど、しずくちゃんは首を振りながら、そうっと体を寄せてくる。

「お兄さんからしてみれば、社会的に気兼ねなくお付き合いできるあのお姉さんの方が良いのかもしれないと思ったら……つい」

しずくちゃんは「我儘だったんです」と、呟く。
色々な問題などを考えれば、しずくとの関係はデメリットが大きすぎる。
だから、ちょっとしたことでも離れて行ってしまう可能性があると思ってしまって。
それで……思っていた以上に刺々しくなってしまったのだと、しずくちゃんは零す。
 
833: (茸) 2022/05/31(火) 23:15:01.52 ID:KfdXlLVR
確かに、しずくちゃんが言っている通りかもしれないけれど、
そんなメリットデメリットを考えられるような人ならストーカーにはならない。
自分のことではあるけれど、
いや、だからこそ……これははっきりと断言することが出来る。

ストーカーだよ?

たった一言。
けれど、しずくちゃんから先輩へと……
社会的な諸問題くらいで鞍替えするはずがないと確信して貰える言葉。
それを、堂々と口にすると、しずくちゃんは「そうですね」と、小さく笑った。

「そうですよね……お兄さんは、私のことをとっても大好きなんですから……」

でも、だから……と、しずくちゃんはこっちを見つめてきて。

「私、もっとお兄さんのことを好きになりたいです……お兄さんと同じくらいに好きになりたいです」

ストーカーしてしまうほどの好意。
それをしずくちゃんも抱きたいと言うその言葉は、
そんなに無理をしなくても……と、思わず言いたくなってしまうようなものだったけれど、
実際に口にしてしまったら、しずくちゃんを傷つけてしまいそうな気がして。

ただ、笑って。
それにはまず、どこぞのお兄さんがしずくちゃんくらい魅力的にならなきゃいけないなぁ。と、冗談めかして言う。

「そうなったら、他の人がお兄さんのストーカーするからダメです」

冗談だったのにしずくちゃんからは断固拒否されてしまって、
その代わりにと、しずくちゃんは「デートしてください」と、要求してくる。

――もちろん。と、答えながら、
寄り添ってくるしずくちゃんの体を受け入れて
もう暫くは電車を降りる必要もない。だから、少しだけ……と、目を瞑った。
 
839: (茸) 2022/06/01(水) 06:21:42.26 ID:jxgaHa6o
鎌倉駅にしずくちゃんのお父さんが迎えに来ているということもなく、
行きとは逆の順番で電車に乗り換えて、家路につく。
横須賀線ではまだ、人も多く感じられるようなものがあったけれど、
江ノ島電鉄に乗り換えると、もう、まばらもまばらという感じだった。

七里ヶ浜駅で降り、ぐぐっと体を伸ばすと、
しずくちゃんは隣で小さく笑って「マッサージでもしてあげましょうか?」なんて、
頷きたくなるようなことを言いながら、見つめてくる。

「でも、今日は出来ませんよ? また、今度です」

しずくちゃんは「残念ですけどね」と、
茶化すようにではなく、しずくちゃん自身もちょっぴり残念だと思っているかのように
可愛らしく、残念そうに笑いながら言う。

しずくちゃんの小さく、短く、早くも遅くもない歩みに合わせながら、
暗くなった夜道を歩いていると、
当たり前だけれど、いつも1人のはずの道がいつもよりゆっくりと過ぎて行き、
そして、自分の足音に重なるような足音がすぐ隣から聞こえてくる。

「お兄さん」

しずくちゃんはふと、こっちのことを呼んできて、
何かあるのだろうかと隣を見ると、しずくちゃんは特に立ち止まることもなく歩いて。

「お家の合鍵とか……持っていたりしませんか?」

合鍵? と聞き返してしまうと、
しずくちゃんは「合鍵です」と、繰り返してこっちを見ると、可愛らしく笑う。

「合鍵をくれたら、毎日お家が綺麗になってるかもしれませんし、お洗濯されているかもしれませんし、お料理が作り置きされているかもしれませんし、毎日疲れて帰ってきたときに、お帰りなさい。って、言って貰えるかもしれませんよ?」

それは……魅力的かもしれない。なんて、
ついつい、深々と想いを馳せるように呟いてしまう。
掃除も料理も洗濯もしてくれていなくたっていい。
ただ……帰ってきたときにお帰りなさい。と、そう言って貰えるだけで十分だと、思う。
 
841: (茸) 2022/06/01(水) 06:37:23.24 ID:jxgaHa6o
それがあんまりにも真剣なものに思えたのだろう。
しずくちゃんは楽しそうに笑いながら「お兄さんっ」と、袖を引いて。

「ちょっとくらい、欲張ったって良いんですよ?」

お帰りなさい抱けを求めるのも、それはそれでいいと思う。
けれど、掃除や洗濯、料理。
そう言った負担の1つを肩代わりしてくれることを望んでも良いのだと、しずくちゃんは言う。

「……だって、私はお兄さんの……」

しずくちゃんはそこまで言って、顔を赤くして口を閉ざしてしまう。

やや俯きがちになって、見えなくなってしまったけれど、
でも、しずくちゃんが可愛いということだけは分かっているからか、
思わず笑ってしまうと、しずくちゃんはぴくっとして、顔を上げる。

「笑うところじゃなかったと思いますけど」

しずくちゃんは「もうっ」とちょっぴり怒ったように頬を膨らませていて。
それがまた可愛らしくて、愛おしくて、どうしても、笑みがこぼれてしまう。

――だって、可愛いから。

隠す必要もない本音を告げてしずくちゃんのことをまっすぐ見つめると、
しずくちゃんは「そんな可愛い子に家に来て欲しくないですか?」なんて、
顔を赤くしながらも、攻めてきて……。

来て欲しいかな。と、お手上げだと頷く。
恥ずかしい思いをしたから、一つくらいは勝ちを貰わないととでも思っていたのだろう。

「あとで家の前にまで行くんですから、その時にください」

なんて、可愛らしい催促をしてきた。
 
843: (茸) 2022/06/01(水) 07:34:18.62 ID:4Nk6dEgB
約束通りに合鍵を渡した翌日、
しずくちゃんは朝から家に来る……なんてことはなく、普通に駅で合流する。

どうして来なかったのかと聞くと、
しずくちゃんは「朝からは人目があるかもしれませんし」と、残念そうに答える。

「でも、夜はお邪魔します」

しずくちゃんはそう言いながら、
身体が揺れてぶつかってしまっただけであるかのように接触してきて、可愛らしく笑う。

「……お帰りなさいって、聞けると良いですね」

しずくちゃんは優しく、囁くような声色でそう言うと、
身長差からくるどうにもならない上目遣いで、誘ってくる。

帰る前には帰れるように頑張るよ。

そうしないわけがないと考えて、そう言うと、
しずくちゃんはちょっぴり困った表情で。

「無理はしすぎないでくださいね」

と、ほんの少し……寄り添ってきてくれた。
 
844: (茸) 2022/06/01(水) 07:44:49.55 ID:4Nk6dEgB
会社に着くと、先輩から何かあるかもしれないと思っていたけれど、
特に何かあるわけでもなく、時間が過ぎていく。

お昼に声をかけてくることも無かったし、
喫煙所の近くにある自販機に行っても、
先輩からは何もなくて、喫煙所を離れようとした先輩に声をかけた。

妹が、色々と……

そう切り出したけれど、先輩は「気にしてないから」と言って。

「本気なら、あんたがしっかりしなさいよ」

そう吐き捨てるようにして、戻っていく。

本当は妹でも従妹でもないから、
血の繋がり的な部分では問題がないけれど、
年齢的なところや、収入的なところもあって。
確かにしっかりしなきゃダメだろうと、意気込んだ。
 
846: (茸) 2022/06/01(水) 08:22:53.43 ID:4Nk6dEgB
仕事は頑張ったけれど、定時に上がるのは少し難しくて、
定時から2時間ほど遅く退社する頃には、
しずくちゃんから『お仕事お疲れ様です。残念ですけど、今日は帰りますね』と、
連絡が来てしまう。

朝一緒になれるだけでも十分贅沢なことだと分かってはいるけれど、
それでも、家に来てくれていたしずくちゃんに会いたかったし、
出来るなら「お帰りなさい」を聞きたかったと、欲が出る。

明日こそは……。

そう思う自分の手の中にあるスマホの画面に映るしずくちゃんとのやり取りが、動く。

『冷蔵庫に何もなかったので、ちょっとだけお買い物をして、あと、少しだけお掃除もしておきました』

何をしていたのかの連絡と、それに付け加えるように『感謝してください』というようなスタンプが送られてくる。

ありがとう。と、簡素に打ち込むと、
それに類する意味を持つスタンプが表示され……そっちに切り替える。

しずくちゃんからプレゼントされたスタンプの一つ。
しずくちゃんからは『私が贈ったものですね』と、ただの文字列だけれど、
喜んでいると感じられる返しがきた。
 
847: (茸) 2022/06/01(水) 08:33:33.43 ID:4Nk6dEgB
今まではこんなこと出来なかった。
しずくちゃんと常にこうして連絡を取り合えるようになれるだなんて、思ってもみなかった。

だからか、嬉しくて、込み上げてくるものがあって。
つい、会いたかった。と、正直な気持ちをしずくちゃんに送ってしまいそうになっていると、また画面が動いて。

『お兄さんがいつ頃お帰りになるのか分からなかったので、お料理は冷蔵庫に入れてあります』

お料理……料理!? と、
思わず二度見するようなメッセージはすぐに動いて――。

『私の冷めた愛情をどうぞ、電子レンジで温めてください』

――明日こそは会えるように頑張るから。

すぐに、そんな風に謝罪ではない申し訳ない気持ちを送ると、
しずくちゃんは『冗談ですよ。無理せず朝、お会いしてくれれば十分です』と、返してくる。

そんなこと言われても、
もう固まってしまった頑張るしかないという意志は、崩れなかった。
 
849: (茸) 2022/06/01(水) 08:59:15.60 ID:4Nk6dEgB
家につくと電気は消えていて、
しずくちゃんが居るような様子はまるでなかった。
連絡があったし、今まではそもそもそれが当然だったとはいえ、
いてくれたかもしれないという寂しさが湧いてきて、がっくりと肩を落としてしまう。

けれど、鍵を開けて中に入った瞬間から、それを払拭するかのようにしずくちゃんの匂いが感じられた。

ついさっきまでしずくちゃんがいてくれたと、分かる匂い。
洗濯物だけでなく、しずくちゃんそのものの優しく甘い匂いがそこには満ちていて。

玄関にはしずくちゃんが持ち込んだだろう見慣れないスリッパが置かれていて、
部屋は朝見た光景とは見違えるほど整えられており、
冷蔵庫には、お弁当風のパックが入っていて。

そこには、

『お兄さん。お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした。温めて食べてくださいね』

と、書かれたしずくちゃんのメモが一緒に置いてあった。
 
856: (茸) 2022/06/01(水) 18:15:21.59 ID:4Nk6dEgB
冷蔵庫に入っていたこともあって、
冷たくなってしまったしずくちゃんの愛情を600wで1分程度にした電子レンジに入れる。

とりあえず着替えてしまおうかとスーツを脱ごうとしたところで、
着替えが用意されていることに気付いて、それに着替える。

着替えて……袖の方の匂いを嗅ぐ。

元からしずくちゃんの家と同じものを使って洗っているため、
しずくちゃんっぽい匂いがするのは当たり前だったけれど、
今日はなんだか、一際強くしずくちゃんを感じられる匂いがしたからだ。

まるで、しずくちゃんが着ていたかのような……。

まさかそんな……と首を振ると、電子レンジが呼び掛けてくる。
出してみたお弁当はまだ冷たくて、
600wで2分の設定でもう一度温めてみると、なかなか良い感じの温かさになった。
 
859: (茸) 2022/06/01(水) 18:26:01.57 ID:4Nk6dEgB
電子レンジから出したお弁当をテーブルの上に置き、
お箸と飲み物を用意してから、1枚写真を撮ってしずくちゃんへと送信する。

――今帰ったよ。色々ありがとう。いただきます。

感謝を述べようと思ったら画面が埋まってしまう可能性もあるため、
可能な限り簡潔で分かりやすい一文を添え、
最後に感謝を示すスタンプを送信する。

すると、スマホをテーブルに置くのとほぼ同時に既読が付き、
そして『お疲れ様です。お兄さん』と、一言が表示され、労いのスタンプが表示される。

『後で電話しても良いですか?』

しずくちゃんからそんな確認が来て、
すぐに、大丈夫。と返すと、感謝を表すスタンプが送られてきて、
動きがあるものだったらしく、画面いっぱいに小さなハートマークが散らばっていく。

……かわいいな。と、
スタンプではなく、きっとテンションの高いしずくちゃんのことを思って、呟く。
部屋中がしずくちゃんの匂いでいっぱいだからか、
そこにはいないのに、そこにいるかのように感じさせてくれて、
それが……とても、幸せにさせてくれる。
 
861: (茸) 2022/06/01(水) 19:05:54.84 ID:4Nk6dEgB
しずくちゃんが作ってくれたお弁当は、お店のお弁当に比べれば見映えでは劣ってしまう。
品目でも、料理自体の見た目でも。

けれど、それこそがしずくちゃんが作ってくれたんだという証明のようなもので、
しずくちゃんが手作りしてくれたものであるというだけで、
もはや、見映えなどどうでも良いし、味だってどうでも――

……美味しい。

と、ありがちな黄と白の混じりあった恒例のあれ――卵焼きを食べて、感動してしまう。

ちょっぴり焼きが多めだったのか、
焦げる一歩手前のような部分もあったけれど、
それでも、ほんのりと甘めに作られていて、
疲れた身体には心地が良い。

しずくちゃんのお弁当はそれに加えて、
小さめのハンバーグや、ブロッコリーを茹でたものなどがあって。
一つずつ、少しずつ……勿体ぶりながら、食べ進めていった。
 
862: (茸) 2022/06/01(水) 20:16:47.23 ID:4Nk6dEgB
ゆっくり食べたといっても、元々食べるのが早かったせいか、
30分ほどで食べ終えてしまった。

名残を惜しみつつ、容器を洗って小さめの食器棚のところに立て掛けていると、スマホが鳴る。

電話をかけてきたのはしずくちゃんで、
さっき『後で』と言っていたから、
30分……洗い物などを含めれば50分程度もあれば流石に食べ終えていると思ったのだろうか。

濡れていた手を拭き慌てて取る。
3コールほど鳴ってからだったためか『お邪魔しちゃいましたか?』なんて、
しずくちゃんは開口一番、心配してきて。

正直に、洗い物してたから。と、答える。

『そうだったんですね……お弁当はどうでした? お口に合いましたか? 可能な限り嫌いそうなものは避けたんですけど……』

しずくちゃんはちょっぴりどきどきしているみたいな声色で、
目の前にはいないけれど……なんとなく、顔が赤いんだろうな。と、笑みが溢れてしまう。

――大丈夫だったよ。美味しかった。

嫌いなものなんて無かったし、
お世辞でもなく、本当に美味しかったのだとしずくちゃんに伝える。

『そうですか? それなら……良かったです』

じんわりと込み上げてくる嬉しさを悟られないようにとしているかのようなしずくちゃんの声。
大きく弾んでも、弾まないよう頑張っていても。

どっちのしずくちゃんもかわいいな……と思って。

電話で声を聞きながら、目の前の椅子に座っているような……そんな気分になれそうだと、目を瞑ってみる。
 
865: (茸) 2022/06/01(水) 22:59:01.11 ID:1wvTz8cl
この前……そう、デートのようなことをした時、
対面に座っていたしずくちゃんのことを思い返してみる。

可愛らしい笑顔を見せてくれながら、
楽しそうに話したり、嬉しそうに話したり、
そして……ちょっぴり気恥ずかしそうにしていたり。
今まで見てきたしずくちゃんをそこに照らし合わせて……。

『お兄さん』

耳に馴染む、しずくちゃんの声。
スマホから流れてきているそれに合わせて、
目の前に思い浮かべたしずくちゃんが唇を動かす。
目を向けて見れば……にっこりと、とても可愛らしい笑顔を浮かべてくれる。

――どうかした?

そう聞き返すと、しずくちゃんは『もっとこう、何かないんですか?』と、探るように聞いてきて、
お弁当の件だろうかと思って、
どれがどう美味しかったのかと、事細かに話してみる。

しずくちゃんは『じゃぁまた作りますね』とか、『こういう味付けもしてみます?』とか、
それ以外には『こんなもの作れますよ』なんて、嬉しそうに、ちょっぴり自慢げにお話してくれる。
 
866: (茸) 2022/06/01(水) 23:32:46.71 ID:1wvTz8cl
『それはそうと……お着替えも用意しておいたと思うんです』

いつまで経ってもお弁当の話から進まないと思ったのだろう。
可愛らしく嬉しさを隠せない弾んだ声色のまま、
もう聞いてしまおうといった感じで、切り出してきた。

『ただお洗濯したものより、お兄さんが好きそうな匂いがするようにしておいたんですけど』

しずくちゃんは『もしかして気付かなかったんですか?』なんて、
むっとしているかのように言ってきて。

お弁当のことかと思って。と弁明しつつ、
やっぱり、しずくちゃんが何かしたんだ。と、
用意されていた着替えが普段よりもずっとしずくちゃんらしい匂いになっていたことについて訊ねる。

『……ちょっとだけ、しました』

言うかどうか迷い、顔を背けて、結局言えずに誤魔化す一言を呟くしずくちゃんが目に見える。
後ろめたいとかではなく、
言ってしまいたいけど、言うのが恥ずかしいと言った様子のしずくちゃん。

――もしかして、着た?

一番あり得ない可能性をしずくちゃんに聞いてみると、
スマホの中、しずくちゃんの方から、がたんっ……と音がして。

『そ、そんなわけないじゃないですかっ……』

しずくちゃんは慌てたように否定する。
本当に? と聞き返したくなるような感じだったけれど、
こっちが何かを言う前に、しずくちゃんが『してませんよっ』と再度否定して。

『その……ただ、ちょっとだけ、ぎゅっとしてみただけというか……』

と、小さな声で答えた。
 
872: (茸) 2022/06/02(木) 00:05:49.88 ID:LtXQFAqH
着替えを用意しようとして引き出しから取り出し、
テーブルの上に置くまでの短い時間、抱いていたとかではなく、
引き出しから出してすぐに置いたりせず、暫く、抱きしめていたのだろうか。

何を思ってそんなことをしていたのかは分からないけれど、
自分の意思でそうしてくれていたはずで……。
どうして? と聞きたい気持ちを押し込もうとして、つい、喉を鳴らしてしまうと、
しずくちゃんは『お兄さん、帰ってくるって言ったじゃないですか』と、呟く。

『なのに、お兄さん……帰ってきてくれなくて』

だから用意していた着替えを抱きしめていたのだろうか。
少しでも、こっちのことを感じていたくて?
会いたいと思ってくれていたから?
……寂しい思いを、させてしまったのだろうか。

そう思って、ごめん。と言うと、
しずくちゃんは『お仕事ですから仕方がないですよ』と言って。

『でも、お洗濯物は私の匂いで……。自分の服を抱いているみたいだったから、すぐに止めましたけど』

確かに。と、思う。
しずくちゃんの家と同じものを使っているはずだから、
洗濯された後のものは、しずくちゃんのそれとほとんど変わらないはずだ。

少し考えて、以前のものに戻した方が良い? と訊ねる。

『別に良いですよ。だって、お兄さん好きなんですよね? 私の……匂い……』

自分で言うのが恥ずかしいといった声で断ったしずくちゃんは、
それでも、少しは興味があるようにも感じられる。

洗濯用の洗剤をしずくちゃんのものと統一しなくても、
これからは、しずくちゃんのことを感じられる。
だから、今までのものに戻して、しずくちゃんと自分は違うもので。
そこにしずくちゃんの匂いが混じっていくのを感じるというのも、良いのではないか――なんて、思う。
 
879: (茸) 2022/06/02(木) 07:02:20.07 ID:k6sP+yqQ
しずくちゃんが元々の匂いを好きかどうかわからないから、
一度だけ切り替えてみて、
駄目そうならまたしずくちゃんの匂いに戻す。
そんな風に試してみない? と、提案してみる。

『お兄さんが平気なら私は構いませんけど……私の匂いがなくなっても、平気なんですか?』

今は着ている服も、必ず持ち歩いているハンカチも、
洗濯しているもの全てが、
しずくちゃんの匂いを感じられるようになっている。

それがまた今までのような自分のにおいになってしまうと考えると、
本当に大丈夫だろうか。なんて少し不安になるけれど。
でも、と、打ち止める。

洗濯用洗剤で作られたしずくちゃんの匂いではなく、
シャンプーやソープ……そして、
しずくちゃん自身の匂いが混じり合ったしずくちゃんの匂いそのものが、
常に傍にあるから大丈夫だろう。

そう思って。

――今はしずくちゃんが傍にいてくれるから。

そう言うと、しずくちゃんは『お兄さん……匂い好きすぎませんか?』なんて、
凄く照れているんだろうなと分かる、可愛らしく、
動揺しているような声を返してきてくれる。
 
880: (茸) 2022/06/02(木) 07:27:26.79 ID:k6sP+yqQ
最早、隠したところで……と考えて、
堂々と、好きだよ。と、答えると『お兄さんってば……もうっ……』なんて、
しずくちゃんの可愛さがスマホから漏れてくる。

もっと好きだと言ってしまおうか。
もっと可愛いと言ってしまおうか。
もっと……もっと……と、
ついつい、年甲斐もなく悪戯心が芽生えてしまうくらいに、
目に見えなくても、しずくちゃんが可愛いのが分かる。

しずくちゃんが抱いてくれていた寝間着は、
しずくちゃんの匂いが強く染みついていて……
目を瞑れば、その可愛くて仕方がないしずくちゃんが見える。

やや俯きがちで、けれど、
耳の方までの赤色がその表情を悟らせるしずくちゃん。

……可愛い。

と、思わずつぶやいてしまうと、
しずくちゃんは『何言ってるんですか……見えないのに』とちょっとだけ声を弾ませながら言う。

それがまた可愛らしくて、つい笑ってしまうと『む~……』なんて、返ってきて。

『もういいですっ……おやすみなさいお兄さん』

これ以上、電話を続けていたら限界が来てしまうといった様子で切り上げようとするしずくちゃん。
そんなところも可愛くて、おやすみ。と、返す声が少し膨らんでしまった。
 
881: (茸) 2022/06/02(木) 07:43:17.84 ID:k6sP+yqQ
掃除をしてくれて、料理をしてくれて、
そして、こんなにもかわいい電話をしてきてくれるしずくちゃん。
感謝してもしきれないと、通話記録に残るしずくちゃんとの通話時間を見つめる。

明日の朝は会える。
けれど、頑張って夜にも会えるようにしよう……と、意気込み、
しずくちゃんが用意しておいてくれた布団に入る。

寝間着の匂いのお陰か、布団もしずくちゃんの匂いが強く感じられて、
これはちょっと寝るのが大変かもしれない。なんて、
高鳴って止まない心臓を抑えようと深呼吸する。

けれど、かえってしずくちゃんの匂いに満ちてしまって……ふと、スマホが震える。
通知にはしずくちゃんからのものだという表示が出ていて。

改めて、おやすみなさい。と、
律儀にしてくれたのかなと嬉しい気持ちで開いて――

『良く眠れるおまじないだそうですよ』

――と、今まさに自分が入っている布団にくるまって、
自撮りしているしずくちゃんの写真が送られてきていて。

『間違えました。寝不足になるおまじないです』

と、既読がついたと見てのメッセージが届き、
そうして『仕返しですっ』と、『ぷんすか』とするスタンプが送られてきて。

……そこからの記憶は、ない。
 
885: (茸) 2022/06/02(木) 08:30:49.82 ID:k6sP+yqQ
味噌が溶け込んでいくような、朝を彷彿とさせる匂いに導かれて目を醒ます。
意識がはっきりしていくと、
かちゃかちゃと、久しく聞いていなかった料理の音が聞こえてくる。

それが止まったかと思えば、
スリッパが床を跳ねているみたいな可愛らしい音が近付いてきて……。
エプロンを着けたしずくちゃんが姿を見せた。

……えっ?

と、思わず漏らしてしまったこっちを見て、
しずくちゃんは「驚きました?」と、嬉しそうに笑う。

「本当に寝坊させてしまったら大変だと思って……来ちゃいました」
 
886: (茸) 2022/06/02(木) 08:40:39.39 ID:k6sP+yqQ
虹ヶ咲学園の制服の上から着けている、恐らくは新品のエプロン。

なんと言えば良いのだろうか。
もっとも簡潔に言えば、語彙力を損なわせる魅力だろうか。

そんな魅惑的なしずくちゃんは「どうですか?」なんて、
照れくさそうに頬を赤くして。

昨日は人目があるから。なんて言っていたのに……。と、
走馬灯のようなものが想起され「お兄さん?」と呼ばれて引き戻される。

――かわいいけど、その、色々と大丈夫?

人目とか色々と。
そう気にしたのだが、しずくちゃんは可愛らしく笑って「大丈夫ですよ」と言う。

「朝ごはん作ってますけど、食べますか?」

そう聞かれて二つ返事で答えて、起きる。
ボサッとした髪とか、色々とダメなのは自分では? と思って、
しずくちゃんが準備してくれている間に、顔を洗って簡単に髪を整える。

――いただきます

と、目の前にいるしずくちゃんに言うと、
にこにことした、可愛らしい笑顔と一緒に「どうぞ召し上がれ」と、返ってきた。
 
890: (茸) 2022/06/02(木) 10:00:18.76 ID:k6sP+yqQ
ご飯とお味噌汁、ほうれん草のおひたしに、目玉焼きと炒めたソーセージ。
焼き魚……とは流石にいかなかったけれど、
でも、十分すぎるもので。

「……美味しいですか? 味付けは私好みなので、ちょっと濃かったりするかもしれないですけど……」

しずくちゃんはそんな風に不安そうに聞いてきたけれど、
まったく問題なく、十分に美味しかった。

しずくちゃんは食べている間、こっちを見ては、目が合うと可愛らしく笑ってくれて、
どきどきとさせられる。

今日が休みなら、もっとゆっくり味わって食べられるのにと思いつつ、
見つめられているのが気恥ずかしくて……早く食べてしまう。

「……なんだか、新鮮で良いですね」

嬉しそうに笑うしずくちゃんはとっても可愛らしかったけれど、
でも、だからこそ、直視できなかった。
 
899: (茸) 2022/06/02(木) 18:12:41.85 ID:k6sP+yqQ
「お兄さんって、朝にシャワー浴びるんですか?」

おもむろにしずくちゃんに訊ねられて、場合による。と、答える。
寝汗をかかないような季節なら夜に済ませてしまうし、
かいてしまうようなら朝に入ることもある。
夏場に関しては、朝と夜両方に。ということもある。

「ちなみに、今日は……」

窺うようにして聞いてきたしずくちゃんは、自分の言葉に気付いて顔を真っ赤にしていく。
こっちを見上げると、羞恥心で潤んだ瞳が見えて。

「ち、違いますよ! ただ、その……っ、私、それなら外に出ていようって思っただけで……!」

興味があるとかどうとかではないって必死に否定しているのが、すっごく可愛くて。
一緒に入る? とか、別に良いのに。とか。からかいたいと思ってしまう。

けれど、ぐっと飲み込んで……分かってるよ。と、微笑む。

「本当に違いますから……」

分かってるよ。と、もう一度繰り返し、
今日も浴びようと思ってる。と言うと、
しずくちゃんは「なら外で待ってますね」と言って、足早に出ていく。
 
900: (茸) 2022/06/02(木) 18:28:51.70 ID:k6sP+yqQ
一瞬でも早くしずくちゃんと合流したいと思いつつ、
しずくちゃんと一緒にいるんだからと、念入りに洗って浴室を出る。

髪と身体を洗い、乾かして、髪を整えて歯を磨いて、もう一度鏡で確認する。
スーツに着替えて、ハンカチをポケットに突っ込み鞄を持って家を出ると……。

「お兄さんっ」

ちょっぴり暑そうに手で扇いでいたしずくちゃんが顔を上げて、
こっちに気付いて笑顔を見せてくれる。

「……分かっていましたけど、シャンプーとかは私と違うんですね」

傍に寄って来て、すんすんっと匂いを嗅いだしずくちゃんは
そう言って、少し考える素振りを見せる。
流石にしずくちゃんが使ってるものまでは調べられないよ。と、首を振ると、

「……お兄さん、本当にストーカーさんですか?」

なんて、しずくちゃんはきょとんと首をかしげた。
 
902: (茸) 2022/06/02(木) 18:40:13.21 ID:k6sP+yqQ
ストーカーならそこら辺も調べられて当然だと思っていたかのようなしずくちゃん。

確かに、ストーカーなら調べることも出来る範疇ではあるのだけど……。

――一人暮らしじゃないからね

と、理由を話す。

もちろん、それでも時間などをかければ特定は可能だ。
例えば、家族で使っているものが違っていたとしても、
その詰め替えパックやボトルを回収し、
しずくちゃんから感じられる匂いと照らし合わせる総当たり方式で特定出来る。

あくまでも、時間がかかったりするという点で現実的ではないだけで。

「……お兄さんは、そうするほど私のことは……」

ボソリと呟かれて、
そんなことを言われたことに驚きつつも、
あくまで、しずくちゃんのためにしようと思っていたから。と、言うと、
しずくちゃんは「そうなんですね」と、笑みを浮かべる。
 
904: (茸) 2022/06/02(木) 18:59:29.67 ID:k6sP+yqQ
しずくちゃんの思うストーカー像は、その相手のことならばなんでも出来るというものなのだろう。
もしかしたら……と思って。

もっとストーカーらしかった方が良かった?

なんて聞いてみると、しずくちゃんは「う~ん……」と、
真剣に悩むような仕草を見せて。

「ストーカーらしく……と言われると違うかなって思います。正直、ストーカーそのものは怖いですし……」

しずくちゃんはストーカー紛いのことをしていた自分の隣を歩きながらそう言うと、
ちらっとこっちを見て、困ったように笑みを浮かべる。

「でも……お兄さんになら……って……」

言いながら、しずくちゃんの顔が赤くなっていく。
自分が恥ずかしいことを言っていると自覚したのかもしれない。
こっちからは表情が見えないようにと、俯いて。

「なんてっ」

ぱっと顔を上げたしずくちゃんは「冗談ですよ!」なんて言うけれど、
その上擦った声では、無理があった。
 
905: (茸) 2022/06/02(木) 20:20:50.03 ID:5HUpYZXz
しずくちゃんは暫く黙り込んでしまっていたけれど、
駅に着いた辺りで恥ずかしさをようやく払い除けられたのか、
こっちをまっすぐ見つめてくる。

「お兄さん、明日はお休みですか?」

しずくちゃんがどうしてそれを聞こうとしているのか、考えるまでもなく察する。
しずくちゃんも学校自体はお休みで、
部活がなければ。という条件が付きはするものの、
互いに予定が空いているとなれば……。

休みだよ。と、頷くと、
しずくちゃんはぱぁっと空気そのものを明るくしてくれる笑顔を浮かべて。

「でしたら……しませんか? お出かけ」

デート。という言葉は恥ずかしかったのか、
それとも、周りの人に聞かれていrうことを考慮してのものなのか。
しずくちゃんはそれを避けつつ、小さめの声で切り出した。

「お兄さんが良ければですけど……」

窺うようにして聞いてくるしずくちゃんに笑みを返して、頷く。
こっちが良ければ。じゃなくて、しずくちゃんが良ければ。というのが正しい。

部活とか大丈夫? と聞いてみると、
しずくちゃんは「もちろんですっ」と、にこやかに笑う。

「じゃぁ、決まり。ですねっ」

しずくちゃんは「ふふっ……」と、
嬉しさに満ちた声を漏らしながら笑みを浮かべる。
なんとなく、キラキラとしたハートマークがぽやぽやと辺りに浮かび漂っているような
そんな光景さえ、見えてきてしまいそうなしずくちゃん。

可愛いなぁ……と、ついつい言ってしまいそうになって、
どうにか飲み込んで、しずくちゃんのことをほほえましく見守る。

偶然ではなく、約束してのお出かけ。
それはやっぱり、デートなのだと……思った。
 
909: (茸) 2022/06/02(木) 20:57:06.96 ID:5HUpYZXz
「ところで、今日はどうですか? 帰ってこられそうですか?」

家に帰ること自体は出来るけれど、
しずくちゃんが家にいる間に帰ることが出来るかは、頑張り次第と言ったところだろうか。
可能な限り頑張ってみるよ。というと、
しずくちゃんは「あまり無理しないでくださいね」と言って。

「でも、先に帰って待ってます」

帰ってきてくれるのを期待して……。

しずくちゃんはそこまでは言わなかったけれど、
そう言われたように思えて、奮起させられる。

――絶対に帰るよ。

そう言うと、しずくちゃんは嬉しそうに笑ってくれて。

「明日はお休みなので……少しだけなら待っててあげられますよ」

定時にあがれず、少し遅くなっても。
それでも、間に合うくらいには待っててくれそうなしずくちゃん。
とはいえ、待たせるわけにはいかないぞ。なんて意気込んだのが顔に出てしまったのかもしれない。

しずくちゃんはちょっぴり心配そうな顔をして「だから無理しないでくださいね」と、
電車の揺れに煽られたかのように自然とこっちに体を寄せてくる。

「お夕飯は何が食べたいですか? お肉か、お魚か……それともお野菜にします?」

しずくちゃんの手料理なら何でもいいなぁ……と思ったけれど、
その前にと、しずくちゃんも一緒に食べる? と聞く。
そう聞かれるとは思っていなかったようで、しずくちゃんは驚いて。

「そうですね……お兄さんのお家で食べようかなとは思ってます」

それなら野菜がメインが良い。と、すぐに答える。
しずくちゃんは若いけれど、スクールアイドルをやっているから、
夜に……それこそ、自分が帰ってくるくらいの時間からとなると控えめに食べたいだろうから。

「お兄さんが食べたいもので良いんですよ?」

ならしずくちゃん――なんて、
あり得ないことは言わずに、夜は軽めにしておきたい。と、笑みを返して。
絶対に、絶対に帰るぞと、強く思った。
 
911: (茸) 2022/06/02(木) 21:13:29.67 ID:5HUpYZXz
しずくちゃんの「お帰りなさい」と「手料理」という、
これ以上ないほどの追い風を得た身体は、
明日には体力を使い果たし、力尽きてもおかしくないほどに感覚を冴えさせ、全力で稼働し続けた。

上司に頼まれた仕事を、有無を言わせない精確さで瞬く間に終わらせ、
次から次へとこなしていき、定時になった瞬間に席を立っても文句ひとつ言わせないほどに。

会社を出てすぐにしずくちゃんへと「今から帰るよ」と連絡を入れ、
仕事帰りを示すようなスタンプを送ると、
しずくちゃんから『お疲れ様ですっ』と、嬉しさのにじむ返事が返ってきて、
そして、『待ってます』という意味を持つ、動くスタンプが表示される。

全身全霊で頑張ったと言うのに、身体は一切の疲れを感じておらず、
いつもは猫背になる電車の中ですら、ぴんっと背筋が伸びたままだった。

『ごめんなさい、聞くの忘れていたんですけど、トマトって平気ですか?』

苦手な人もいるからだろう。
しずくちゃんは第一に謝りながらそんな確認をしてきて、
嫌いなものはないから大丈夫だよ。とすぐに返してあげる。
謝らなくたっていいのに……。

『ピーマンとかも平気ですか?』

念のため。
そんな風に確認してくるしずくちゃんに、全然平気。という意味のあるスタンプを送って答える。
トマトもピーマンも……全然、何の問題もない。

『よかったです。お帰りお待ちしてますね』

ただの文字列だけれど、
それがしずくちゃんとのやり取りだからか、
たったそれだけのことで胸が熱くなるのを感じてしまって、
危うく1人ほくそ笑む不審者になりそうだった。
 
913: (茸) 2022/06/02(木) 21:25:40.80 ID:5HUpYZXz
家の近くにまで行くと、昨日は電気が消えていた自分の部屋の明かりが点いているのが見えて
つい、嬉しくなって写真を撮ってしまう。
冷静に考えれば、ただ電気がついているだけのアパートの一室でしかないのだが。

いよいよだと……喜びに満ちる。
クリスマスにサンタさんから贈られたとして手にしたプレゼントを開けるときのような。
そんな昂りを感じながら、玄関のドアノブに触れる。

そして――ガチッっと、施錠されている感触に阻まれた。

けれど、奥からパタパタと忙しない足音が近づいてきたかと思えば、
少し間をおいてから鍵が開けられて。
そうして……しずくちゃんがドアを開けてくれた。

「お帰りなさい。お兄さんっ」

飛び出てくる一歩手前。
流石に不味いと思ったのか、踏みとどまったしずくちゃんは焦った様子で後退りして、
それを追いかけるように中へと入って、玄関の鍵を閉める。

「ごめんなさい、鍵締めちゃってて」

自分の分の鍵は持っていたし、
しずくちゃんが1人の時に、悪い人が来ないとも限らないから、
むしろ、ちゃんとしていてくれてよかった。と、褒める。

しずくちゃんは褒められないと思っていたのか、ちょっぴり驚いてから、
嬉しそうに可愛らしい笑みを浮かべて、手を差し出す。

「お帰りなさいお兄さん。鞄、持ちますよ」

しずくちゃんに持たせるのは……なんて思いつつも、
求めてくるしずくちゃんの愛らしさに、つい、渡してしまった。
 
915: (茸) 2022/06/02(木) 22:50:44.74 ID:5HUpYZXz
しずくちゃんと向かい合って座り「いただきます」と揃える。
この前、ディナーを食べた時もしずくちゃんと同じようにしていたけれど、
その時は外だったし、周りには人がいた。

けれど、ここは室内で、二人きりで。
そして……目の前にあるのはしずくちゃんの手料理で。

――こうしてると、同棲してるように勘違いしそうになる。

食事をしつつ、思わずそんなことを言ってしまうと、
しずくちゃんは気恥ずかしそうに「そうですね」なんて、微笑む。

掃除をしてくれたり、料理を作ってくれていたり、
そして、お帰りなさい。と、出迎えてくれるしずくちゃんとの同棲生活。
それは夢物語ではあるけれど、いつかは……と、考えたくなる。

「明日はどうします? 朝、起こしに来ても良いですか?」

起こされるのはちょっと……と、自分の本心に嘘をついて断る。
起こされるのはもう、経験したことだし、
寝ぼけているところをしずくちゃんに見られるのは、大人としてどうかと、思うからだ。

「そうしたら……待ち合わせしませんか?」

家で合流してそのまま出かけるのではなく、
目的地近くで待ち合わせして、合流して……と、まさしくデートの流れ。
朝からずっと一緒というのも魅力的だけれど、
そのデートらしいスケジュールもまた魅力的だと思って、頷く。

「ふふっ、じゃぁ、どこに行きます?」

嬉しそうにここはどうか。あれはどうか。と、
食事をしながら、デートプランを2人で決めていく。
 
916: (茸) 2022/06/02(木) 22:58:39.68 ID:5HUpYZXz
1人でプランを決めて、サプライズ的なデートこそが一般的だと思っていたけれど、
しずくちゃんとこうして、向かい合って事前に決めるのも
これはこれで面白くて、可愛らしくて、幸せで、良いものだなぁ……と、感慨にふけってしまう。

暫くして食事を終え、2人で洗い物を分担する。
作ってくれたから……と言ったけれど、しずくちゃんは「一緒にやる方が早いですよ」と、並んで。

「明日、楽しみです」

耳元を赤くし、可愛らしくはにかむしずくちゃんに、
本当に。と同意して、洗ったお皿を手渡す。

「……本当に」

しずくちゃんはこっちの言葉を繰り返すように言いながら、
お皿を食器棚のところに立てかけて……ぴたりと、身体を寄せてくる。
抱きしめてもいいのだろうか。
可愛いと、好きだと、愛していると。
そう言って、優しく、強く、抱いてしまって良いのだろうか。
そうやって悩んでいる間に、しずくちゃんは離れて。

「今日はそろそろ帰りますね」

と、残念そうに言う。

泊まっていったら良いのに……なんて、言えるはずがなく、
せめて、少しでも一緒にいようと送ると言ったけれど「すぐそこだから危ないですよ」と言われてしまう。
危ないのはしずくちゃんもだけれど、こっちが見られてしまうのも不味い。

だから――今日は本当にありがとう。明日はよろしく。と、幸せな気持ちで見送ることにした。
 
918: (茸) 2022/06/02(木) 23:16:40.63 ID:5HUpYZXz
遠足前夜の子供みたいなわくわくとした気持ちに苛まれていたのもつかの間、
いつの間にか眠ってしまい、目を覚ました朝。
ほんの一瞬だけぼんやりとして……
今日はしずくちゃんとのデートだと思い出して飛び起きる。

時間は十分にあったはずなのに、
昨日以上に念入りに準備をしていると、意外と足らなくなってしまうもので、
しずくちゃんに見合うくらいには整えられているだろうか。
なんて、不安な気持ちになりながら、慌てて家を出る。

普通に行くと、しずくちゃんと駅で鉢合わせしてしまう可能性が高いため、
あえて乗る駅を別々にしようと2人で決めた。
しずくちゃんとお出かけ――デートをするのは、お台場。

しずくちゃんの定期圏内であることと、
虹ヶ咲学園のスクールアイドル関連でも根強いところであること。
そして……まだ秘密を抱えているときに2人で歩いた場所だからだ。

しずくちゃんからの連絡は

『おはようございます。お兄さん。今日はよろしくお願いしますね』

と、朝に来たもののみ。

合流する時間は決めたものの、
互いにどのくらいの時間に着くように行動するか。という点は決めていない為
もしかしたらしずくちゃんはもういるかもしれない。

そんなことを思いながら約束したお台場海浜公園駅に約1時間前に着くと、
幸いにもしずくちゃんはまだ来ていなくて。
ほっと胸を撫でおろしながら待っていると、暫くして、しずくちゃんから一枚の写真が送られてきて、振り返る。

「お兄さ~んっ」

しずくちゃんを待っている自分の後姿。その写真を送ってきたしずくちゃんは、
ちょっぴり申し訳なさそうに駆け足で近づいてくる。
 
919: (茸) 2022/06/02(木) 23:32:47.90 ID:5HUpYZXz
「……どうですか?」

しずくちゃんはそう言って、目の前でくるりと回って見せる。
今どきの女子高生のファッションは申し訳ないけれど、知見がない。
けれど……。

――似合ってるしかわいいけど、攻めすぎてない?

と、心配になる。。

しずくちゃんはオフショルダーと呼ばれる肩が露出するタイプの洋服を着ていて、
いつもの制服に比べて、だいぶ大人びた印象を受けると言うか、
少々……と、まじまじと見つめてしまう。

「少し、背伸びしてみました。その方が……お兄さんと合うかなと思って」

前にも言っていた、大人びた人の方が合う。という話の延長だろうか。
そんなこと気にしなくてもと思うけれど、
変に不釣り合いだと「君たちちょっといいかな?」なんて水を差されかねないことを考えると、
しずくちゃんの配慮はありがたかった。

むしろ、こっちが学生服引っ張り出してくるべきだったか。なんて
冗談めかして言うと「それこそ不振ですよ」なんて、しずくちゃんは笑って。

「……お兄さんっ」

すっ……と、しずくちゃんは手を差し出してきた。

大人びて見えるしずくちゃんのファッション。
それは不審がられないためのものだとは思うけれど、
その一番の理由は――手を繋ぎたかったから。だったりするのだろうか。
なんて考えつつ、しずくちゃんに笑みを向けて。

声をかけられたらフォローしてよ? と一言だけ言って、しずくちゃんの手を握る。
握手のようなものではなく、恋人同士がするような繋ぎ方。
それ一つで、ほんのりと頬を染めながら「えへへっ」と、
子供っぽく嬉しそうな笑顔を見せてくれるしずくちゃん。

本当に可愛いなと、幸せだと、まだ合流したばっかりなのに、思わせてくれた。
 
929: (茸) 2022/06/03(金) 06:58:46.57 ID:PtvpV1VH
駅を出てから少し歩いたところに、
スクールアイドルに関連したグッズを販売しているお店がある。

エマちゃんのライブがあった日にも立ち寄ろうと思っていたけれど、
しずくちゃんと偶然にも向こうの駅で逢い、
それ以降ずっと一緒に行動することになったこともあって、
すっかり行くのを忘れてしまっていた。

それをしずくちゃんに話した結果、
しずくちゃん本人と一緒に、しずくちゃんのグッズを見に行くという
なんだかこう、凄いことが今まさに起こっている。

「そう言えば、お兄さん……私のグッズを部屋に飾ってましたよね」

お店に着き、スクールアイドルのグッズが展開されている商品棚のところに行くと、
しずくちゃんに思い出したように言われて、ドキリとする。
もしかして嫌だった? と聞くと、しずくちゃんは「そんなことないですよ」と可愛らしく笑って。

「むしろ、嬉しいです。ちゃんと見て、ちゃんと手にしてくれてるんだなって」

嬉しそうに言うしずくちゃんと繋がっている手が、少しだけ強く握られる。
緊張や恥ずかしさを堪えようとしているかのような反応に思えて、
ちらりと様子を見れば、頬が赤くなっているのが見えて……。

――もちろん、ファンだからね。

そう言ってみると「ありがとうございますっ」なんて、しずくちゃんの弾んだ声が返ってくる。
かわいい。と、言いたくなって、代わりに笑う。
しずくちゃんは可愛いって言われると、恥ずかし気な仕草をしたりしてさらに可愛くなっていく。
それはとてもいいことではあるのだけど、こっちの身が持たない。

「なんだか、こうして改めてグッズが売られているのを見ると、ちょっとだけ恥ずかしくなっちゃいます」

しずくちゃんは、自分たちのグッズを見て、手に取りながら困ったように可愛らしい笑みを浮かべる。
自分に関連するものが何らかのグッズになって売られているっていうのは、
嬉しいのと同時に、恥ずかしくもあるのだろう。
 
930: (茸) 2022/06/03(金) 07:23:19.51 ID:PtvpV1VH
「……これ、お兄さんが持っていないものじゃないですか? A・ZU・NA なので、せつ菜さん達も一緒ですけど」

しずくちゃんが手に取ったのは、
しずくちゃんと歩夢ちゃん、せつ菜ちゃんの3人で組まれているA・ZU・NAというユニットのアクリルプレート。
リアル調の写真を使ったものではなく、
デフォルメ化されているキャラクターグッズのようなもので、かわいらしく作られている。

もちろん、しずくちゃん本人には及ばないけれど。

しずくちゃんから受け取り、さらに2つ目を取る。
着ける用と、飾る用かとしずくちゃんは思ったみたいだったけれど、
残念ながら着けられないよ。と、首を振って。
自分用としずくちゃん用だと言う。
色々としてくれているから、そのお礼の一つだと付け加えると、
しずくちゃんは「ありがとうございます」と、ちょっぴり恥ずかしそうに頷いた。

それにしても、もう少し虹ヶ咲のグッズが増えても良いんじゃないだろうか。と、
他のスクールアイドルのグッズを見て思う。

「これでも増えたんですよ? スクールアイドルの祭典とも呼ばれるラブライブ。それに参加していなかったこともあって、他校に比べたら知名度は0に近かったんですから」

それが、同好会に所属していながらスクールアイドルとしてではなく、
ファンとしての視点から見ていた高咲侑が発起人となったSIF……スクールアイドルフェスティバルの開催によって大きく変わった。

そのスクールアイドルフェスティバルは、第二の祭典として、今や注目の的にもなっていて、
それを始めた虹ヶ咲学園もまた、注目されている。
 
931: (茸) 2022/06/03(金) 07:37:48.77 ID:PtvpV1VH
「だから、これからも増えていきます……増やしてみせます。私達が」

しずくちゃんは、そう言いながら同好会に所属しているメンバーの中、3年生の面々のグッズを手に取りながら意気込む。

3年生はあと数ヵ月も経てば引退するし、卒業もしてしまうだろう。
1年また1年と経過し、SIF開催の所期メンバーの中で最後まで残るのは、今、1年生のしずくちゃん達だ。

後輩から先輩となり、導く側となる重圧。それを今から感じ始めていそうなしずくちゃんの手を優しく握る。

いつか訪れること。
だからこそ、もっと先輩に甘えて経験を積むべきだと
SIFと同好会。その行く末について相談しておくべきだと、話す。

先輩が居なくなってしまったあと、悩み果てることになるのは良くないことだから。

「……そうですね。お兄さん」

しずくちゃんは噛み締めるように答えながら手を握り返してきて、ぴたりと寄り添ってくる。

「先輩に、甘えてみようと思います」

そう囁くしずくちゃんに、学校のだよね? と聞くと、しずくちゃんは可愛らしく、けれど少し悪戯に……。

「お兄さんはどう思います?」

と、笑顔を浮かべた。
 
932: (茸) 2022/06/03(金) 08:35:51.80 ID:PtvpV1VH
しずくちゃんのグッズを買った後、
そのお店のすぐ近くにあるという、ジョイポリスに向かう。
しずくちゃんは何度も行ったことがあるらしいけれど、自分は初めてで。

――ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。先輩。

なんて、後輩チックにお願いしてみると、
しずくちゃんは困った顔で笑う。

「もうっ……なに言ってるんですかっ」

しずくちゃんは楽しげに笑いながらも「教えてあげません」と、断わる。

困った笑顔から、悪戯を思い付いたような笑顔へと変わって。
でもどちらにしろ可愛いのは変わらなくて、心が満たされるのを感じる。

「最初は事前知識が無い方が楽しめるんです」

えっへん。と、そこはかとなく自慢気に語っているように思えるけれど、
しずくちゃん自身の最初の経験を思い出してか、ちょっぴり耳が赤くなっていて分かりやすい。

さては、しずくちゃんがそれをやられたな? と、
気付きつつも気付かない振りをして、同意する。

「そうですよっ」

まだまだ子供なんだなぁ……と、
見た目に気を遣っていてもそう感じられる所作はとても愛らしさを感じさせてくれて。

身体にまで響くような喧騒はあまり馴染みがなく、
煩わしいとさえ感じてしまうこともあったけれど――。

「お兄さんっ、早く!」

しずくちゃんに手を引かれているからか、
その騒がしい空気さえ、楽しめるような気がする。

……いや、違う。

きっと、自分がとけ込むことが出来ずにあぶれてしまうと分かっていたから気に食わなかっただけなのだろう。と、思って。

――ありがとう

それを変えてくれるしずくちゃんに感謝をして……導かれるように、踏み込んでいく。
 
933: (茸) 2022/06/03(金) 10:11:04.96 ID:PtvpV1VH
ジョイポリスにはいくつかのアトラクションがあるけれど、
早速と引っ張って行かれたのは、それなりに激しく回転するもので、2人で協力し、スコアを競うもののようだった。

「お兄さん、乗り物酔いとか平気ですか?」

一応、事前に心配してくれるしずくちゃんに大丈夫。と頷いて前のプレイヤー達の動きを確認する。
激しさはあるみたいだけれど、まぁこのくらいなら。と――。

……。

…………。

「お、お兄さん、大丈夫ですか……?」

見るのと実際にやるのとでは認識に差があるもので、
慢心を見事に狙い打ってきた勢いに、ふらりといきそうになって壁に寄りかかる。

自信ありげなしずくちゃんにドヤ顔で終わってやろう。
そんな企みをしていたからバチが当たったのかもしれないけれど。

「つい、はしゃいじゃって……」

協力するはずが、しずくちゃんがどんどん攻めていったこともあったからだろう。
申し訳ないといった様子のしずくちゃんに、
しずくちゃんが楽しかったならいいよ。と、少し無理な笑顔を向けて。

ちょっとお手洗いに……と、離席させて貰った。
 
935: (茸) 2022/06/03(金) 12:45:35.12 ID:PtvpV1VH
調子を整えて、ひと息。
しずくちゃんもまだまだ子供なんだなぁ……なんて思った矢先のハイテンション。
しずくちゃんは楽しそうだったし、嬉しそうだったから
それ自体はまったく問題はない。

あるとしたら……女子高生の体力に負けそうな社会人の体力だろうか。
明日に響いても構わないから、頑張ろう。としずくちゃんのところに戻ろうとお手洗いを出る。

「――あのっ……えぇっとですね……」

お手洗いを出てすぐの場所で待っていてくれていたしずくちゃんの傍には誰かがいるし、少し困った様子のしずくちゃんが見えて……。

――うちのしずくに何か?

と、強気に出る。
しずくちゃんは困っていたし、もしかしたらナンパかもしれないと思って。
けれど……その不安ばかりが先行していたせいで、傍にいる面々を良く確認しなかったのがいけなかった。

「お、お兄さんっ」

顔を赤くしながら声をあげて、口許を抑えるしずくちゃん。
その近くにいたナンパ師……と思った金髪は振り返って「あーっ! この前の!」と言い、
他にもいる内の一人が「あぁ、しずくさんが言っていた例の……」と、得心がいったように呟いたかと思えば、ハッとして。

「あ、愛さん! まずいですよ! 大人しく退くべきです!」

顔を覆ってしまうしずくちゃんと、焦る女の子……せつ菜ちゃん。
それを見て「あ~……」と頭をかく愛ちゃんに、
困った顔で「だから言ったのに……」と言うピンク髪の女の子、歩夢ちゃんと「なになに?」と興味津々な侑ちゃん。

そうして……やらかした。と、確信する自分。
周りの騒がしさが嘘のように……静まって感じた。
 
941: (茸) 2022/06/03(金) 18:21:15.82 ID:PtvpV1VH
「ほんっっとうに……ごめんっ」

そう言って手を合わせて謝る愛ちゃんに、良いよ良いよ。と、手を振る。
しずくちゃんが一人でいるとは思っておらず、
誰かと来ているのは分かっていたが
友達の一人と一緒に来ていると思っていたために、
6人でやるゲームに誘っていた。というのがナンパの真相だった。

歩夢ちゃんはしずくちゃんの雰囲気で察していたのか「そうっとしておいてあげようよ」と止めに入ったものの、
せつ菜ちゃんと愛ちゃんの2人を止める力はなかったらしい。

「……別に構いませんよ。別に……」

むっとして頬が膨らんでいるしずくちゃんの説得力の皆無な許しに、愛ちゃん達は申し訳ないといった様子で。

「お兄さんがいればちょうど6人だし、アレやる?」

と、場の空気を読まずに一人アトラクションを指差す侑ちゃんを、歩夢ちゃんが制するのを横目に、しずくちゃんはこっちを見上げてきて。

「……どうします? 確かに知らない人達よりは知り合いがいた方が良いですし、お兄さんが良ければ私は構いませんけど」

あくまでも従兄従妹。と、
しずくちゃんはそういうものでいくつもりらしく、意見を求めてくる。
確かに、あれはやってみたいなぁ……と、思う気持ちがないと言えば嘘になるけれど……。

せっかくだけど、次の機会にするよ。と、お断りさせて貰う。
そろそろ時間だしね。としずくちゃんに言うと、
しずくちゃんは「確かにそうですね……」と、自然な感じで相槌を打つ。

「そっかぁ……残念だけどまた今度ね!」

残念がる侑ちゃんと「侑ちゃん……」と呆れ顔の歩夢ちゃん。
申し訳ないといった様子の愛ちゃんとせつ菜ちゃん。
4人と別れて……ひとまずはジョイポリスを出ることにした。
 
943: (茸) 2022/06/03(金) 20:09:52.52 ID:PtvpV1VH
「考えが甘かったですね……」

しずくちゃんの知人に会う可能性はある程度考えていたけれど、
まだそうではなかった時のお出かけ
そのやり直しというか……埋め合わせをしたくて。

お休みの日で人も多く、賑やかな場所であれば
その他大勢に埋もれて気付かれにくいだろう。と、考えた。
けれど、存外に気付かれてしまうもので、
愛ちゃん達に見つかってしまった。

侑ちゃんはともかく、他の3人はそれとなく察しているような様子で、
しずくちゃん的に大丈夫なのかと思ったけれど、しずくちゃんは「大丈夫ですよ」と、微笑む。

「歩夢さんはともかく、愛さん達にはお兄ちゃんっ子としか思われていないと思います」

そう言って、しずくちゃんは「それに……」と、続ける。

「仮に気付かれていても誤解ではありませんから」

いつかは知られること。
いや、いつかは知らせることだろうか。
だからか、しずくちゃんは「今のうちに匂わせておくのも良いんです」と、笑う。

「それより、この後はどうします?」

本当ならもう少し遊んでいく予定だったジョイポリス。
だけど、愛ちゃん達がいるし、出てきてしまったし……。

せっかくだから映画でも見よう。と、しずくちゃんを誘う。
愛ちゃん達の介入でちょっぴり雰囲気が削がれてしまったし、
映画なら……と思って。

「そうですね……そうしましょうか」

しずくちゃんの同意を受けて、一緒に歩く。
手は自然と繋がって、しずくちゃんの嬉しそうな笑い声が微かに聞こえた気がした。
 
950: (茸) 2022/06/04(土) 13:19:14.71 ID:fvaw2D11
休日ということもあって映画館はジョイポリス以上の盛況っぷりで、
ここでこそしずくちゃんのお友達に遭遇する可能性が高いのではないかと思わなくもないけれど、
しずくちゃんが見られても問題がないというなら、
そこまで、気を張る必要はないのかもしれない。

それに、ジョイポリスと違って一緒にやろう。なんて、
遊びに誘うアトラクションというわけでもないから、
見つけてもちょっかいを出そうなんて人はそうそういないだろうから。

「お兄さんって、好きなジャンルはありますか? アクションやホラー、ファンタジー、SF……」

しずくちゃんは放映中の映画一覧を見上げながら、
映画のジャンルを並べて行って……最後に小さく「ロマンスとか」と、聞いてくる。

個人的に好きなのはアクションやホラーだろうか。
SFも見ることは見るが、どちらかと言えばそちら側が多く、
映画に関していえばロマンス系は好んで観たことはない。

でも、ロマンス系は映画よりもドラマの方を見ていた。と、話す。

「へぇ……お兄さんもそういうドラマを見るんですね」

見られていたころはね。と、補足する。

ロマンスというジャンルに属するドラマや映画は、基本的にラブロマンスと呼ばれるもので、
SFやファンタジーに比べて勢いや力強さ、壮大さではなく、
登場人物たちの感情の移ろいを描いており、
それが薄かったり、軽かったりすると楽しみきれない。

映画はドラマに比べて凝縮されているせいか、
どうにも、物足りなさを感じてしまう。と、語って――。

「ふふっ、お兄さんってば……なんだか評論家さんみたいですよ?」

しずくちゃんの可愛らしい突っ込みに思わず照れてしまう。
こんな場面で話すことじゃなかったと申し訳なくなってしまったが、
しずくちゃんは引いたりすることなく、楽しそうに笑って「それならホラー映画にしませんか?」と、しずくちゃんは手を握ってくる。

「せっかくですから」

何がせっかくなのかは分からないけれど、
でも、しずくちゃんがそう言うなら見てみようか。と、チケットを2枚買おうとして。

「――大人2枚でお願いします」

くいっと肩を抑えられ、屈んだところに、しずくちゃんの囁く声がする。
耳元と心とを擽られる感覚に、思わず赤くなって隣を見ると、
しずくちゃんは「今は大人でいたい気分なので」と、可愛らしい笑顔を浮かべて見せた。
 
951: (茸) 2022/06/04(土) 13:48:22.96 ID:fvaw2D11
大人と子供……学生1枚ずつではなく、
何の割引もない、大人2枚のチケットをしずくちゃんはとても嬉しそうにしていた。
学割なら少し安くなるのに、
それを蹴ってでも、大人という言葉を得たかったのだろうと思うと、
やっぱり、しずくちゃんは可愛いなぁ……と、実感させられる。

ポップコーンを買うのが一般的らしいけれど、
それは買わずに、飲み物だけを買って
暗い映画館の中、しずくちゃんと隣り合って座る。

「……なんだか、ドキドキしますね」

しずくちゃんの声が、耳元で聞こえる。

横目を向ければ、しずくちゃんはこっち側に身体を寄せてきていて、
周りにも人がいるから、
可能な限り小声でもいいようにって気遣いなのだろうけど……。

そうだね……と、違う意味でどきどきとさせられながら、
しずくちゃんに怖い映画は苦手? と訊ねる。

「そこまで苦手というほどでは……むしろ、登場タイミングや姿、その役を演じる俳優や女優の人柄を知っている主人公役の方々が、恐怖を感じている。と思わせられる演技をどうやってしているかの方が気になってしまいます」

女優を志しているからだろうか。
気になっているところがちょっと特殊なしずくちゃん。
自分でも特殊だと思っているのか「おかしいのは分かってますよ」なんて言うけれど、
その向上心というか、探究心はいいことだろうと、思って。

――いつか、ここから見ることになるのかな

少し寂しく感じてそう呟いてしまうと、
こつんっと肩に何かが触れる感覚を覚えて目を向ければ、しずくちゃんが寄りかかってきていて。

「たとえ、向こう側に私が映る未来が来ても――お兄さんの隣には、私がいてあげます」

なんて、しずくちゃんは優しく応えてくれた。
 
953: (茸) 2022/06/04(土) 14:58:52.74 ID:fvaw2D11
映画を見終わったあと、
2人で映画館の近くにあるカフェへと足を運んでいた。

元々、お台場に来たのがお昼少し前で、そこからジョイポリスに行き、
特別、空腹を感じていないということもあってお昼を少し過ぎた後から映画を見たため、
時間としてはやや中途半端に感じられるが、
休憩もかねてカフェにでも行こうか? と、誘ったのだ。

「良い感じにゾクゾクとする映画でしたね……」

しずくちゃんはそう言いながら、
さすりさすりと腕の辺りを摩るそぶりを見せて、カフェラテを一口飲む。

しずくちゃんと一緒に見たホラー映画は、猟奇的だったり、
怪物的なものの多い洋画ではなく、呪いの類を主流とする邦画だった。

蓄積されていく怨嗟が浮かばれることなく人間という受け皿を失い、
どのような影響を周囲の人々に及ぼしていくのかという呪い。
人を脅かすことを目的としているのではなく、
ただただ、呪う理不尽さ。その恐怖を描く映画は、なかなかに、総毛立たせるものがあった。

しずくちゃんが言っていた通り、
登場タイミングや役柄などをよくよく知っているだろう主人公サイドの人達は、
まるでそれを全く知らないかのような自然な驚きや恐怖心を感じさせ、
映画館の暗さ、静けさ、冷えた空気がまた、臨場感を味わわせてくれて……と。

しずくちゃんと映画の内容について話していると、
注文していたサンドイッチが運ばれてきて、しずくちゃんは「美味しそう」と、可愛らしく笑って。

「……このサンドイッチは四角く切られていませんね」

当たり前のことではあるけれど、
あの日に食べたように、一口で食べられる程度の大きさに切られていたりはせず、
しずくちゃんはちょっぴり残念そうな顔をして。

「これだと……食べさせてあげられない……」

いや、それは……と、
お祭りの喧騒に隠れているわけでもないのに出来るわけがないと思って。
もしかして、あの時も狙ってやっていたの? と、聞いてみると、
しずくちゃんは顔を赤くして、ふいっと、逸らす。

「……言ったじゃないですか。【運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に味方する】って。あれでも内心、すっごくドキドキしていて気が気じゃなかったんですよ?」

……かわいい。と、思わず言ってしまうと、
しずくちゃんはさらに顔を赤くして「はやく、頂きませんかっ」と、急かしてきて。
それがまたとっても可愛らしくて……思わず、笑みが零れてしまう。
 
954: (茸) 2022/06/04(土) 15:36:47.55 ID:fvaw2D11
気恥ずかしさを誤魔化すみたいに、しずくちゃんは黙々とサンドイッチを食べている。

けれど、時折こっちをちらちらと見ていたり、
頬が赤く染まっていたり、
一つ一つにどうしようもないほどに愛らしさを感じてしまいながら、
結局、自分も誤魔化してるなぁ。と思いながらサンドイッチを食べていると……。

「あっ……お兄さん――」

はたと声を上げて席を立ったしずくちゃんは、
テーブルに手をついてぐっと体をこっちに伸ばして。

「付いてますよ」

手に持っていた紙ナプキンでこっちの口元を拭って、また席に座る。

不意を突かれて呆然としてしまって、
手に持っていたサンドイッチから、
ずるずるとトマトがお皿の上に滑り落ちて、べちゃりと音を立てる。

「ふふっ……お兄さんは、意外とおっちょこちょい。なんですねっ」

しずくちゃんに笑われてしまったけれど、
そんなことなんて。と思ってしまうくらいに、しずくちゃんに心を踊らされる。
いや、弄ばれているのだろうか。
しずくちゃんとの関係は確実に進展していて、
だから、弄ばれているというのも少し違うのかもしれないけれど……。

――あんまり動揺させないでくれ。我慢が利かなくなる

念のためにとそう言うと、
しずくちゃんははっとして自分の手にある紙ナプキンを見て、
それからこっちのことを見て、
そうして、耳まで赤くしながら「ご、ごめんなさい……」と、
ちょっぴり嬉しそうに感じる声で、謝ってきた。
 
955: (茸) 2022/06/04(土) 16:20:47.80 ID:fvaw2D11
しずくちゃんに動揺させられる軽くない軽食を済ませてから、
食後の運動もかねて、お店を見て回ることにした。

もう一回ジョイポリスという選択肢も出たには出たけれど、
食後の運動とするには、いささか胃への暴力が過ぎるため、自然と却下された。

「お兄さんて、1人でお買い物するときって色々と見て回りますか?」

もう当たり前のように手を繋ぎ、
歩調を合わせて並んで歩きながら、しずくちゃんはそんなことを聞いてきて。
どうだっただろう。と、今までの自分を思い返す。

目的以外の場所、目的にない物
そこに足を運んだり、手に取ったりするだろうか。
考えて、どちらかと言えば目的のところにしか行かないかな。と、答える。

「そうなんですね……私は、ついつい色々と見ちゃうんです。たまにこれの使い道って何だろう? って思うようなものがあったりして、説明を読んで面白いなぁ……って、なったりしちゃって……」

しずくちゃんはあり得ないほど可愛らしいく言いながら、
続けて「だから、いつもお買い物に時間かかったりしちゃうんです」なんて、困った笑顔を浮かべる。

普段からすっごく楽しそうに買い物してるんだろうなぁとか。
興味津々で説明を読んでるのも可愛いんだろうなぁとか。
考えているだけでも……もう、全てが幸せに感じられてしまう。

これからそんなしずくちゃんを見て回るのか……と、
冗談めかして言ってみると、しずくちゃんは恥ずかしそうにしながら、
精一杯の反抗とでも言うように、ぎゅっと手を握ってくる。

「……お兄さんのばか……っ……」

でも、可愛らしくて……怒りきれていない感じがして。

ごめん。と、喜びを押し〇しながらしずくちゃんの手を優しく握り返すと、
しずくちゃんはその繋がりに引かれるように、こっちへと体を寄せてきてくれた。
 
956: (茸) 2022/06/04(土) 16:51:12.13 ID:fvaw2D11
男にとっては、ウインドウショッピングが苦痛だと言われているのを聞いた覚えがある。

しずくちゃんにも話した通り、
基本的に目的のものを買い、それで終わりにしてしまう自分もまた、
そうして余計に歩き回るよりも、
もっと有意義に時間を使えるのではないか。と考えてしまったり、
他にもやりたいことがあるから。と、切り捨ててしまったりとするため、
今まではその説に同意していた――けれど。

「お兄さんお兄さんっ、これ可愛くないですかっ!」

と、グイグイと手を引いて、気になった物を手に取って、
見てくださいと言わんばかりに見せてくるしずくちゃんだったり……

「こういうのもあるみたいですよ? 面白いですねっ」

なんて、あんまり見慣れない商品を手にし、説明文を見て、
面白いと、楽し気にしているしずくちゃんだったり……。

とにもかくにも、歩き回ると疲れるだとか、無駄に時間を使うだとか、
そんな考えなんて全く湧き出てくることもなく、
ただひたすらに、しずくちゃんの可愛らしさを感じ、楽しさと喜びに幸せを感じさせられて、
逆に、こっちからこんなものもあるよ。と、しずくちゃんの手を引いたりしてしまう。

何だ。ウインドウショッピングも楽しいじゃないか。と、
名も知らない提唱者への手のひら返しをしながら、お店を見て回って。

「お兄さん的には、こういうのも可愛いって思います?」

しずくちゃんはそう言いながら、
ジャンパースカートと呼ばれる類のものを合わせて、こっちに見せてくる。
胸元が開いているドレスのようなものや、首のあたりまでを覆ってくれているようなワンピースほどのものではなく、
腰の辺りから肩掛けの部分まではベルト程度の幅のもので、中にブラウスなどを合わせて着るものらしい。

――何を着ても可愛いよ。

なんて、本音をぶちまけてしまうと、
しずくちゃんは「それはそれで嬉しいですけどっ」と、ちょっぴり頬を膨らませて。

「……お兄さんに選んで欲しいんです」

と、店ごと買えるなら買ってしまいたくなるようなことを言われて、
苦悩に苦悩を重ね「お兄さんっ、私が悪かったですからっ」とまで言われるほど長考し、
2着ほど選んで、しずくちゃんにプレゼントすることにした。
 
958: (茸) 2022/06/04(土) 17:35:37.72 ID:fvaw2D11
しずくちゃんが一緒だったこともあって、楽し過ぎたショッピング。

結局、洋服のほかには、しずくちゃんのトレードマークと言えるリボンを買ったりして、
少しだけ、荷物が出来てしまった。
いや、荷物というのはあまりにも不躾だし、お土産や思い出……と、言いたい。

「お兄さんって……本当に目的の物しか買わないんですか?」

ちょっぴり訝し気に言うしずくちゃんは、
けれど「でも、ありがとうございます」なんて言って、破顔する。
目的のものしか買わないはずだった。

それは今までのことで、きっと、これからはそんなことはなくなるのだろう。
だって、しずくちゃんが隣にいると、
しずくちゃんがあまりにも楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうで。

その喜びを、楽しさを、幸せを。
もっと、もっと、もっと……と、思い、
どうしても、踏み込んでいってしまいたくなるから。

「お兄さんっ」

くいくいっと手を引かれて、しずくちゃんの方を見ると、
しずくちゃんはゲームセンターの方を指さす。

「ちょっとだけ寄って行きませんか?」

ディナーにはまだ少し早いと思って、
しずくちゃんの導きに従ってゲームセンターへと向かう。

クレーンゲームやメダルゲーム、アーケードゲームなど、
色々なものがある中で、しずくちゃんは大型のメダルゲームの機械のところで立ち止まる。
中でいろいろな仕掛けが動いており、
プレイヤー側の主な操作は左右に動かせるメダル投入口にメダルを入れ、
動く台座の上に射出する。というだけのものでシンプルだ。

しずくちゃんがやりたいならと100枚ほどのメダルを払いだして空いている場所に座ると、
しずくちゃんはその隣に並んで座る。
椅子は長椅子で仕切りがないため、ぴったりとくっついてくるしずくちゃんに緊張させられてしまう。
 
959: (茸) 2022/06/04(土) 17:56:08.97 ID:fvaw2D11
どきどきとしながら、
メダル、入れないの? としずくちゃんに言うと、
しずくちゃんは「そうですね」と言いながら、メダルを1枚手に取り、
投入口を左右に動かし、狙いを定めて――メダルを射出する。

中に差し込まれているような形になっている射出路の上をころころとメダルが転がり、
動く台座の下部分、押されていく部分にあたって、落ちる。
それを見届けてから、自分も少しだけ……と、メダルを投入する。

最初の1枚は台座の上、2枚目は下、3枚目は上の台座にあるコインに重なり、
4枚目は動く台座に立てかけられるような形になって。
あんまりセンス無いなぁ。と思っていると、しずくちゃんの視線を感じて、目を向ける。

あんまり慣れてないんだ。なんて、
上手くできないことの言い訳をすると、
しずくちゃんは「そうなんですね」なんて、言って可愛らしく笑う。

そうして――腕の辺りに頭を預けてきて。
ゲームしないの……? と、聞くと。

「……本当は、これをしたかったわけじゃないんです」

なんて、しずくちゃんはゲームの音量にかき消されないくらいに近くで、答える。

「このゲームならこうして隣に座れるって……思っただけなんです」

……えっ。

と、もうしずくちゃんの前では何度してしまったかもわからない動揺をして、
間の抜けた声を漏らしてしまったけれど、
それでもしずくちゃんは可愛らしく笑うくらいで、離れようとはしなくて。

「映画館では仕切りがあって、カフェでは向かい合っていて、だから……少し、もう少しだけ近くにいたいなって」

しずくちゃんは「迷惑ですか?」と、心配そうに聞いてくる。
積極的すぎるかもしれない、攻めすぎているかもしれない。
そんな女の子は引かれてしまうかもしれない……と、色々と怖いこともあるのだろう。と、思って。

――嬉しいよ。

と、正直に答えてあげると、
しずくちゃんは「……お兄さんのその優しいところも好きです」なんて、囁いてきた。
 
960: (茸) 2022/06/04(土) 18:26:07.62 ID:fvaw2D11
交換した手前、使わないのもと思ってメダルを少しずつ使っていく。
しずくちゃんは自分でやるよりも、
こっちがやっているのを見ている方が良いといった様子で、
時々数枚取っては左側の投入口を使い、メダルを投入して。

減っては増えて、減っては増えて。
イベントが数回起こってもどれもうまくいかなくて。
マイナスの方が多く、
メダルも少なくなってこれでだめなら最後であろうイベントが動き出す。

「お兄さん、これでメダルを一杯手に入れられたら、プリクラ撮りませんか?」

失敗したら撮らないの? と聞くと、
しずくちゃんは「そんなこと聞かないでください」なんて、
寄り添いながら、手を握ってきて。

「これは確率の問題ですけど、私達にとっては運試しですから」

イベントの行く末を見守りながら、
しずくちゃんは「だから……」と、続けて。

「運命を感じてみたいと思いませんか? そんな、言い逃れの出来ない証拠を作ってしまってもいいんだって、後押しになる運命を」

しずくちゃんがそう言って笑うと、
まるで、そうすると決めていたかのように、大当たりのファンファーレが鳴り響く。
大量のメダルが排出され、メダルの受け皿には見たこともないほどの量のメダルが次から次へと出てきて。

「……ふふっ。撮って、くれますか?」

しずくちゃんは賭けに勝っても、あくまで強行する気はないといった様子で
こっちの同意を求めてくる。
プリクラは、しずくちゃんも言っていたような物的証拠になるものだ。
とはいえ、家のどこか、見つからない場所に隠しておけばいいのだけれど。
しずくちゃんはきっと、そんな後ろめたいものとして扱う気はないだろう……。

だとしても。

――良いよ。撮ろう。

そう答えると、しずくちゃんは「はいっ」と、嬉しそうに笑った。
 
961: (茸) 2022/06/04(土) 19:09:56.64 ID:fvaw2D11
排出されてしまった大量のメダルは、
また次回来た時に使えるように、預ける。
しずくちゃんが友達と来た時に使えるようにしずくちゃんの名義で。と言ったけれど、
しずくちゃんは「お兄さんとまた来たいです」と言って、断った。

プリクラなんて、機械を見るのも何年ぶりだろうか……と、
機械を見ていると、しずくちゃんはこっちを見て来て。

「……お兄さん、お1人でプリクラは?」

撮れると思ってる? と聞き返すと、
しずくちゃんはそんなこと出来るわけがないことを分かっているからか
可愛らしく笑って「ですよね」と、言う。

「なら……撮るのは初めてですか?」

窺うようなしずくちゃんに、いや……と、思い出しながら否定し、
十数年近く前、まだ高校生だった頃。
文化祭だったか、体育祭だったか。
その打ち上げで撮ったのが、最初で最後だった気がする。と、答える。

「……その時、女の子はいたんですか?」

多分いた……と答えてから、しずくちゃんがむっとしているのに気づいて。
いや、クラスメイトだから。特別なことは何もなかったから。と、
はっきりと否定しても、しずくちゃんは「かもしれないですけど」と、呟く。

そうして、しずくちゃんは抱き着くようなポーズで撮ったり、
隣でただ可愛らしくピースをしているものだったり、
こっちの手と、しずくちゃんの手で、ハートマークを作っていたりと。

数回の撮影を行い、あと一つ……となって。

「お兄さん。ちょっとだけ屈んでくれませんか? 今のままだと、身長差があって……」

撮りたいポーズでもあるんだろうか。
そう思いながら、しずくちゃんに言われるがまま屈むと
しずくちゃんは撮影側からこっちと向かい合って「もう少し……こう」なんて言いながら、
調整し、しずくちゃんが「そのままで」と言った姿勢で止まる。
若干、中腰で辛さがあったけれど、しずくちゃんのためだし、数分もかからないだろうし。と。
我慢を決め込んで。

機械的な、撮影までのカウントが聞こえてくる。

さんっ……にぃ……と、残り1秒になったタイミングで、
隣で可愛らしくピースをしているだけだったしずくちゃん。

勢いよくこっちに向き直ったかと思えば、肩に手を置いて――

「――んっ」

――かしゃっ……と、決定的な瞬間に撮影が行われて、固まってしまう。

唇ではないけれど、しずくちゃんから頬への口づけをしている1枚。
しずくちゃんは静かに、ゆっくりと離れて……数歩下がると、

「……私だって、女の子だから嫉妬するんです」

こっちの目を見て……気恥ずかしそうにそう言った。
 
962: (茸) 2022/06/04(土) 19:24:53.79 ID:fvaw2D11
しずくちゃんは今どきの盛り方をしたりはせず、
そのシンプルなまま終わらせて……一目見て嬉しそうに笑うと、
大事にお財布へとしまい込む。

「お兄さんもどうぞっ」

お財布に入れておいた方が良い? というと、
しずくちゃんは「そこまでは望みませんよ」と、まだ赤い頬のまま首を振る。

「撮らせてくれただけで、満足してますから……家にでも置いておいていただければ、それで」

しずくちゃんはそう言うけれど、
でも、それはどこか寂しく思うのではないかと思って、
しずくちゃんと同じようにお財布の中へとしまう。

誰かに見られるような機会はほとんどないし、それに。
大事なものだから、落としも失くしもしなくなるお呪いみたいなものだよ。というと。
しずくちゃんは「……そうですね」と、恥ずかしそうに言う。

しずくちゃんがかわいくて、楽しそうで、幸せそうで。
まだ、頬に残る感触に胸を高鳴らしながら……時間を見てしずくちゃんに声をかける。

「……ドキドキ、しますね」

人目につかないところでした、ちょっとした背伸び。
そうして、恋人らしい手の繋ぎ方。
しずくちゃんの手は朝よりも温かく、
こっちの腕に身体が触れてくるのではなく、腕に寄り添ってきながらレストランに向かう。

あの日にもしたディナー。
あえて、今日も同じような時間、同じ場所を選んだ。
その時はまだ他人だったけれど……今はもう、変わっているから。

お店に着くと、桜坂ではなくこっちの苗字をしずくちゃんが口にする。
予約したのはしずくちゃんで、でも、あえて、そうしたいと言っていたからだ。

それもまた、可愛らしい背伸びなのだろうと……胸が熱くなる。
 
963: (茸) 2022/06/04(土) 19:47:23.92 ID:fvaw2D11
「……良い、景色ですね」

夜も更け……と言ったものではないけれど、
逆に段々と暗くなりつつある夕焼けの景色が、穏やかで美しく感じられる。
それを見上げていたしずくちゃんは、
それに負けないほどに可愛らしく、綺麗な笑顔を浮かべて。

「まだ、終わっていないのに……まだまだ続けられることなのに、このまま一生であって欲しいと思ってしまうのは、今日一日がとても幸せだったから……かな」

しずくちゃんはこっちに言っているのか。
自問自答しているのか。
ちょっぴり悩んでしまうようなことを言ってくれるしずくちゃんは
胸に手を当て、深呼吸をし、何か大事なことを言おうとしているみたいに整える。

「昨日、お兄さんが帰ってくるのを待ってる間……少し、考えてたんです」

誰かの帰りを待っていた経験は、しずくちゃんにもたくさんあるだろう。
けれど、それは血のつながった身内や、
家ではなく、学校での一部だったりして、特別なものではなくて。

でも、それは……その場所で待っていてくれた経験は、しずくちゃんにとっても特別なものだったのかもしれない。

「アパートの階段を上ってくる音、廊下を歩く音。それが聞こえるたびに、お兄さんかもしれないって、ドキドキとして……そういうのが、誰かと一緒に暮らすってことなのかなって思って……」

しずくちゃんは頬を赤く染めながら、可愛らしく……柔らかい笑みを浮かべる。
胸が高鳴って、一瞬、呼吸さえも忘れさせるような。
そんな、しずくちゃんの表情。
なら一緒に暮らそう。なんて、言ってはならないことを言わされそうにさえなってしまう。

けれど――

「お兄さん。私が高校を卒業したら……一緒に暮らしませんか?」

しずくちゃんはその葛藤をいとも容易く乗り越えてくる。

高校を卒業するころには18歳を過ぎ、
大学に行くか、女優を目指して事務所や劇団に入れるよう努力したり、養成所に通ったり……色々と道はあるだろうけれど、
1人暮らしを始めることもあるだろう。

しずくちゃんはそれを、1人ではなく2人で……と、したいようだった。
 
964: (茸) 2022/06/04(土) 20:08:13.87 ID:fvaw2D11
それは……と、考える。までもないほど、望んでもないことだった。
けれどしずくちゃんはそれでいいのだろうか。
一時の気の迷いで選んではいないだろうか。

「……だめ、ですか?」

きっと、しずくちゃんは考えていたのだろう。

こっちに気付いた時からずっと、
この人に近づいてもいいのだろうかと考えていたのと同じように。
しずくちゃんは考えて、悩んで、それでも。
進み続けたいと考えたのだろう。

でもそれは、こっちだって考えていたことだった。
本当にいいのか、しずくちゃんを幸せにしてあげられるのか。
自分以外の誰かの方が、しずくちゃんにとってより大きな幸せを与えられるのではないかと。
だからこそ、ストーカー行為だって打ち明けたわけで。

でも、それを受け入れてくれたしずくちゃんだから。
その先を望んでくれているしずくちゃんだから。

――駄目なんて言わない。けど、それは言いたかった。

さすがに言われ過ぎてるな。と、
自分が恥ずかしくなって、つい本音を零してしまう。

「だって……ストーカーさんでもいいって思うくらい、ですから」

しずくちゃんはそんなことですら、笑顔で受け入れてくれる。
普通なら受け入れくれないようなことをしずくちゃんは受け入れてくれた。
それは、受け入れてもいいと思うくらいに好感を抱いてくれていたということで。

――確かに。と、思わず笑ってしまいながら、
しずくちゃんとウインドウショッピングをしながらこっそりと買ったものをしずくちゃんに差し出す。

「お兄さん……?」

出したのは、大して高価でも何でもない、ただの指輪。
ありふれたものだからこそ、邪推を避けやすく、けれど、自分たちにとっては大きな意味を持たせられる。

――本当は、これを受け取って貰ってから、切り出すはずだった。

と、ちょっぴり残念に思って言うと、
しずくちゃんは受けろうとしていた手を引っ込めて

「なら……聞かせてくれますか?」

うるうるとしていた目元をぐいっと、ハンカチで拭って笑顔を見せる。
 
965: (茸) 2022/06/04(土) 20:24:10.78 ID:fvaw2D11
しずくちゃんから切り出してくれていた手前、
もう、受け取って貰えるという安心感を感じられてしまっているけれど、
それでも……と、深呼吸をして、切り替える。

指輪を一度握りしめ、もう一度しずくちゃんの方に差し出す。

これからのことには、不安が多く、心配が多く、問題が多くて怖いかもしれない。
けれど、その不安も、心配も、問題も。
全てを必ず解決して、それ以上の幸せを与えてあげられるように努力する。

だからもしも、しずくちゃんがそれを信じてくれるなら。
これから先もまだ……一緒にいてくれる気持ちがあるのなら、受け取って欲しい。
そうして、全てが解決したら、堂々とできるだけのものに換えさせて欲しい。

真剣に向かい合い、本気の言葉をしずくちゃんに向けると、
しずくちゃんはぽたりと、涙を零して。

「……約束ですよ?」

しずくちゃんは、こっちに向かって左手を差し出してくる。
受け取るつもりはある。
けれど、それは自分でするのではなく、して欲しいのだろう。
と……、しずくちゃんに言われるまでもなく察して。

しずくちゃんの左手薬指に、指輪を嵌める。

「サイズ……ぴったりです……」

ずっと握っていたから。
指のサイズなんて分かり切っていることだったけれど、これはきっと、言うべき言葉があると思って――笑う。

――ストーカーだからね

そう言うと、しずくちゃんは「もうっ」と、
可愛らしく、嬉しそうに、弾むような声を漏らして。

「何言ってるんですかっ……」

なんて、自分の左手をとても大事そうに、胸に抱きしめた。
 
966: (茸) 2022/06/04(土) 20:38:56.63 ID:fvaw2D11
「でも、これでお兄さんはもう言い逃れできなくなりましたよ」

しずくちゃんの嬉しそうな声に笑いながら、それは分かってるよ。と、堂々として答える。
それは分かっているし、それを覚悟したうえで、
しずくちゃんと一緒になっていきたいと思い、仮とはいえ指輪を渡したのだから。

「……ここまでしたなら、呼んでくれてもいいんじゃないですか?」

しずくちゃんはそう言うと、
こっちのことをまじまじと見つめてきて……
そう言えば、今までは可能な限り名前を呼ぶのは避けてきたなぁ。と思って。

――しずくちゃん。

と、呼んであげたのに、しずくちゃんの頬は違う。と言いたげに膨らむ。
察してくださいと言いたげなしずくちゃんの視線。
可愛らしく膨らんだ頬はちょっぴりと赤い。
しずくちゃんではないけれど、呼んでくれても。と言われる言葉。

「……一度だけ読んでくれたのに……」

しびれを切らしたしずくちゃんのその呟きで、気付いて。

――ごめん。しずく

と、謝りつつ呼んであげると「む~……」としずくちゃんは唸る。
ちゃん付けをしない呼び方も違うのかと思えば、
しずくちゃんは「お兄さん……」と、言って。

「第一声がごめん。は嫌です……もっと、こう。この場に相応しいものがあるじゃないですか」

しずくちゃんはそう言いながら「ここまで言わせますか。普通……」なんて、
ぷいっとしてしまう。
それでも本気で起こっているとか、そう言うわけではないと分かる辺り、本当に可愛らしいと思って。

――その点も含めて努力するよ。

なんて、謝罪をせず、これから変えていくことを約束して。

――好きだよ。しずく

と、言いながら、ぷっくりと膨らんでいたしずくちゃんの頬を優しく撫でる。
 
967: (茸) 2022/06/04(土) 21:00:52.26 ID:fvaw2D11
「私もお兄さんが好きです……大好きです」

ぷしゅ~……と、しずくちゃん――いや、しずくの頬から空気が抜けていき、
触っていたこっちの手に手を重ねるようにして、しずくはすりすりと。可愛らしい仕草を見せる。

「……だから今は、このくらいで満足しておきます」

今出来るのは、このくらい、あるいは、頬に口づけをするくらいだろう。
家の中でなら、もしかしたら……唇同士くらいは、出来るかもしれないけれど。
それ以上のことは、しずくも自分も我慢していかないといけない。

でも、それが出来なければ最悪の場合、永久に離れ離れになってしまうから。
そうならないように、慎重にゆっくりと、
けれど、確かな繋がりを持ち続けて……いつの日か、問題がなくなる時を待ちたいと思う。

「でも、お兄さんがして欲しいなら、頬くらいは……良いですよ?」

――理性に攻めてこないでくれ。

可愛らしくとても危ないことを言うしずくにお願いすると、
しずくはやっぱり、とても可愛い笑顔を浮かべて「そうですね」と、口癖のようなことを言って。

「お兄さんも、私の気持ちを必要以上に煽らないでくださいね……キス、したくなっちゃいますから」

友愛であっても行われることのあるキス。
だからこそ、それを行うハードルは低く、もしもの時の解消法として思っておこうというのだろう。

気付けば、空に見えていた夕暮れの赤色は薄れて、暗くなってきている。

「……えへへっ」

けれど、目の前には、目があえば可愛らしく笑ってくれるしずくがいて、
そこには、決して薄れることのない赤色がある。

ただ色褪せて、景色の中に解け込んで消えていくだけだったはずの人生を、
これ以上ないほどに鮮やかに変えてくれた――大切な赤色が。

だから、これを守ろうと思う。
決して汚さず、踏み躙らず、守り――そして、
楽しく、嬉しく、幸せで、幸福に満ちた日々を、他の何者でもない自分が与えて行こうと、決意した。
 
968: (茸) 2022/06/04(土) 21:03:21.96 ID:fvaw2D11
以上で、おまけも終わりになります。
先月から約半月の間、お付き合いいただきありがとうございました。
 
969: (もなむす) 2022/06/04(土) 21:12:29.23 ID:18GvolKa
乙乙
ストーカーのわりには良いやつだったしハッピーエンドで良かった
 
970: (鮒寿司) 2022/06/04(土) 21:14:10.15 ID:k5KuESOe

毎日の楽しみだったから寂しいけど書ききってくれて本当にありがとう
 
974: (もこりん) 2022/06/04(土) 21:21:59.19 ID:87O/Y4HC
お疲れ様です、とても面白かったです?
【長編SS】しずく「ハンカチ、落とされましたよ」【ラブライブ!虹ヶ咲】

【長編SS】しずく「ハンカチ、落とされましたよ」【ラブライブ!虹ヶ咲】

 
981: (光) 2022/06/04(土) 21:32:44.34 ID:aGSjkt9q
>>974
これ支援イラストか…?
この1枚目みたいな表情させたのが自分だったとしたら死ぬ自信あるわ…
 
983: (もこりん) 2022/06/04(土) 21:37:11.69 ID:87O/Y4HC
>>981
脳破壊感謝と脳再生感謝の気持ちを込めたファンアートです
 
976: (もんじゃ) 2022/06/04(土) 21:23:39.14 ID:czzVKIS2
完結乙
運命感じちゃうしずくは解釈一致したし、終盤の分岐でも色々なしずくが見れて良かった
また何か新しい題材見つけたら書いてほしい
 
979: (たこやき) 2022/06/04(土) 21:31:17.38 ID:yTArDlkK
おお!完結した!
最高の物語をありがとう!
しずく最高に可愛かった!
それにハッピーエンドで良かった!
 
985: (しうまい) 2022/06/04(土) 21:41:41.42 ID:AnrpMig0
毎日の楽しみでした!
本当に良かったですありがとうございました!
 
986: (しうまい) 2022/06/04(土) 21:42:20.21 ID:NuKdNQTG
面白かったわ
ただ、この後しずくの両親に認めてもらうのは無理ゲーな気がするw
 
991: (なっとう) 2022/06/04(土) 22:05:44.39 ID:Sg8Ub5Ft
綺麗に1スレで終わったね
まじで毎日の楽しみだった乙
 
994: (ささかまぼこ) 2022/06/04(土) 22:39:40.56 ID:r+cG8QUq
読めてよかったです、次作も楽しみにしております
 
998: (茸) 2022/06/04(土) 23:24:56.91 ID:KSwscKM5
埋まってしまう
永久保存のスレやな
 
1000: (SB-iPhone) 2022/06/04(土) 23:40:39.81 ID:ZI9g2fvC
ありがとう>>1
 

引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1652705326/

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