【長編SS】侑「虹ヶ咲学園二年四組担任、高咲侑です!」【ラブライブ!虹ヶ咲】

SS


1: (もも) 2022/12/21(水) 16:41:27.44 ID:IHLQ+geH
※侑ちゃんは先生なので普通に成人してます
※生えてません
※▲(場所)▲←現在の場所
※▽(場所)▽←過去の場所
 
2: (もも) 2022/12/21(水) 16:43:12.70 ID:IHLQ+geH
▲講堂▲
教師A「──えーでは。今年四月から新しく赴任された先生の紹介に移ります。高咲侑先生、よろしくお願いします」

 私はパイプ椅子から勢いよく立ち上がる。

侑「はいっ!」

 壇上のマイクへと向かう。
 壇上に上がると、さすが虹ヶ咲と思った。一学年で千人を超える生徒数を誇るマンモス学園。講堂には人で埋め尽くされていた。

侑「え、えー、マイクチェック、マイクチェック」ボフボフ

侑「皆さんおはようございます!」

侑「私の名前は高咲侑と言います。二年四組を担当する英語教師です。高校教師として働くのは、これが初めての職場です。不安はたくさんありますが、みんなと一緒に成長できればいいな、と考えています!」

侑「私は英語を教えるだけではなく、みんなの悩みを共に分かち合い、解決できるような教師になりたいです!だから、できるだけ気軽に私に相談してくれると嬉しいです!」

侑「では、私と一緒に学園生活を謳歌しましょう!以上です!」

\パチパチパチパチパチパチパチパチ/

 壇上から降りる。
 あ~。緊張した。緊張したけれど、こうしてみんなの前で抱負を話すと、本当に教師になったんだな、って実感した。
 こみ上げる思いにフタをして、私はパイプ椅子へと戻った。

教師A「え~、では次は──」
 
5: (もも) 2022/12/21(水) 16:45:45.56 ID:IHLQ+geH
▲二年四組▲

 私が担任をするクラスは二年四組だ。二と四。略して虹組かな?
 一度だけ大きく呼吸をした後、張り切って教室のドアを開けた。

侑「はーい。みんな席に着いてー。高咲侑先生、一発目の入場だよ~」ガララ

 教壇に立つ。すると、講堂ではあまり見えなかった顔が良く見えた。
 私が担任をする生徒たち。私が教え導かなければならない生徒たち。責任重大だね!

侑「さて、講堂でも自己紹介はしたけれど、改めてするよ」

侑「私は高咲侑。高く咲くって書いて高咲。そして侑は……にんべんに有無の有の部分って書くよ!馴染みがないかもしれないけど、覚えておいてね!」

 黒板に自分の名前を書きつつ、そう言った。

侑「学生時代色々と海外を飛び回ってね。その結果マルチリンガルになって、その能力を活かすために英語教師になったよ」

侑「さて、後はみんなからの質問に答えようかな?」

生徒A「はいは~い。高咲先生って彼氏はいるんですか?」
 
6: (もも) 2022/12/21(水) 16:48:43.53 ID:IHLQ+geH
 定番の質問が来た……。

侑「いないよ!彼氏『は』いたことないよ!」

 うん。嘘は吐いていない。

かすみ「ちょっとそれはセクハラっっぽいよ!」

生徒A「えぇ~そうかなぁ~定番じゃん」

かすみ「だとしても!風紀委員として見過ごせないよ!」

 ……ふむ。
 どうやら虹ヶ咲には風紀委員なる委員会があるらしい。創作上のモノだけだと思ってたよ。
 私は名簿をパラパラとめくり、その生徒の名前を確認する。
 中須かすみ。風紀委員。所属している部活は無し、と……。

侑「それじゃあかすみちゃんからは何か質問ある?」

かすみ「え、私ですか。そうですねぇ~……。侑先生の好きな可愛い物って何ですか?」

 これはちょっと変化球だ。私の好きな可愛い物、ねぇ。

侑「う~ん……」

 腕を組んで考える。どうだろうか。
 まぁ素直に言えばいいか。どうせ冗談と取られるだろうし。

侑「かすみちゃんみたいな可愛い子かな!」

かすみ「……えぇっ!!かすみんが可愛いのは事実ですけどぉ……。初対面の人にそう言われるのは……」

かすみ「っていうか!それこそセクハラっぽいですよぉ!!」

侑「あはは……。ごめんごめん」

侑「ま、あまり私の話をするのもなんだし、次はみんなの自己紹介に移ろうか。とりあえず名前と所属している部活。趣味とか話して貰えると嬉しいな。じゃあ出席番号一番の──」
 
7: (もも) 2022/12/21(水) 16:51:14.01 ID:IHLQ+geH
……
…………

かすみ「私は中須かすみです!風紀委員に所属しています!モットーは『可愛いで学園を染め上げる!』です!コッペパン作りとか、可愛い物は大体趣味です!よろしくお願いします!」

侑「ふむふむ。コッペパン作りが趣味なんだ」

かすみ「はい!作るのも食べるのも、誰かに食べて貰うのも、ぜんぶ好きです!」

侑「へぇ~。じゃあいつか私にも作ってもらいたいなぁ」

かすみ「ふっふ~ん。考えておきますよぉ」

 かすみちゃんは満更でもない様子だった。実に可愛い。

……
…………

侑「じゃあ次は……これはおうさかって読むのかな?桜坂しずくちゃん、自己紹介をよろしくね」

しずく「はい。私は桜坂しずくと言います。演劇部に所属していて、趣味は愛犬のオフィーリアと一緒に散歩をすることです。一年間という短い間ですが、よろしくお願いします」ペコ

 育ちの良さと気品を感じる一礼だった。
 お嬢様学校に通っていると言われても違和感がない。もしスール制度があるのなら、お姉さまと呼ばれたい……。いや、教師としてその考えはどうなんだ……?

侑「なるほど。演劇部なんだ。そういえば演劇部って、今顧問の先生が不在なんだよね?」

しずく「はい。とても熱のある先生なんですが最近腰を痛めてしまいまして。現在は療養中なんです」

侑「なるほどねぇ。早く治ってもらいたいね」カキカキ

しずく「そうですね」ニコッ

 桜坂しずく、と。
 しずくちゃんとは教室以外でも頻繁に顔を合わせることになりそうだ。
 
8: (もも) 2022/12/21(水) 16:53:10.96 ID:IHLQ+geH
……
…………

侑「──って感じだね。連絡事項は以上だよ。始業式はこれで終わりだけど、部活をやっている人はこれからも頑張ってね」

侑「起立!礼!はい、さようなら~。ばいば~い」フリフリ

かすみ「侑先生!」タタタッ

侑「ん?なにかな」

かすみ「あの、私一応風紀委員なので、なにか困ったことがあったら相談してくださいね!一委員会ではありますけど、生徒会に準ずる組織なので、それなりの力は持ってますよ!」

侑「おぉ~。頼もしいね。かすみちゃんの方が虹ヶ咲歴は長いんだし、困ったら是非とも頼らせてもらうね」

かすみ「はい!かすみんにお任せあれです!」

侑「うん!夫婦のように支え合って生きていこう!」
 
9: (もも) 2022/12/21(水) 16:54:58.20 ID:IHLQ+geH
かすみ「えぇ!夫婦って!何言ってるんですか!?またセクハラですか!?風紀委員にいい度胸ですねぇ!!」

侑「ごめんごめん。ちょっと舞い上がっちゃってさ。それじゃあ風紀委員のお仕事頑張ってね」ポフッ

かすみ「頭に手を置かないでくださいよぅ……」

侑「なんだか据わりがいいんだよねぇ……。あ、しずくちゃんはまたね」

しずく「え?」ビクッ

ガララ

しずく「行っちゃった……」

 一体どういうことだろう。ただの別れの挨拶だったんだろうか。
 ちょっと困惑していると、中須さんがこっちに来た。

かすみ「ふぅ。なんだか厄介なクラスに入っちゃったみたいだね。しず子」

しずく「しず子って、私のこと?」

 しず子。初対面でいきなりあだ名だろうか。距離感の近い子だなぁ。

かすみ「そーだよ。しず子以外誰がいるの?」
 
10: (もも) 2022/12/21(水) 16:56:59.43 ID:IHLQ+geH
しずく「まぁいないけど……。でも初対面でしず子って」

かすみ「そっちの方が可愛いじゃん。しず子、いいじゃん!呼びやすいし!」

しずく「別にいいけど……。まぁこれから一年間よろしくね」

かすみ「うん!しず子も困ったことがあれば、私に相談してくれていいからね!」

 自信満々に言い放つ中須さん。
 私とは真逆の性格をしているってすぐ分かった。相容れないかもしれない。

しずく「ありがとう。心の中にとどめておくね」

かすみ「それにしても、どう?しず子から見て侑先生は」

しずく「私から見て、か……」

 高咲侑先生。中須さん同様に距離感の近い人だと思う。でも、それ以上に底知れない何かを感じる。
 演劇で培った私の観察眼がそう告げている。でも、それを中須さんに言っても変に思われるだけだろう。

しずく「変に堅物そうな先生じゃなくてよかったって思うよ」

かすみ「それは言えてるかも……」

しずく「それに、中須さんとは相性のいい先生だと思うよ?」

かすみ「え?どういうこと?」

 先ほどのやり取り。水が合うって奴だろうか。とてもしっくりきた。

しずく「だって、まるで夫婦漫才みたいだったもん。毎日の楽しみになるかもね」

かすみ「ちょっ。それ恒例にしないでよ!!」

しずく「ふふっ」

 存外、いいクラスを引いたのかもしれない。心の中でそう思った。
 
11: (もも) 2022/12/21(水) 16:58:53.20 ID:IHLQ+geH
▲喫煙所▲

侑「ふぅ……」

 とりあえず。始まりの挨拶から顔合わせまで無事に終わった。

侑「すぅ……はぁ……」モクモク

 紫煙を吐く。
 同時に、先ほどのクラスの顔合わせを思い出す。
 少し騒がしそうだけど、特に変わったところがない普通のクラス。とはいえ、十人十色という言葉がある通り、人の数だけ個性がある。
 何も起こらないわけはないだろう。

侑「備えるに越したことはないよね」

 胸ポケットに入っているメモ帳を触る。一応、クラス全員の自己紹介の要点はまとめた。特に何かの役に立つとは思えないが、書くという行為はメモ帳だけでなく脳内にも刻まれやすい。
 虹ヶ咲全生徒、とまでは不可能だが、せめて自分のクラスくらいはしっかりと見たいと思った。

侑「ん……?」

 こちらへと近づいてくる気配がする。マンモス学園なので生徒も多いが先生も多い。なので喫煙所に来るのはおかしくない。おかしくないが、身に覚えのある気配だった。
 
12: (もも) 2022/12/21(水) 17:01:06.97 ID:IHLQ+geH
ランジュ「──全く、こんな所にいたのね」

侑「え、えぇ!ランジュちゃん!?」

 そこにいたのは私の親友のランジュちゃんだった。
 ここにいるはずがない。むしろ学園という学び舎にいたら不味い存在だ。

侑「来ちゃだめだよ!もしランジュちゃんと一緒にいるところを誰かに見られたら……」

ランジュ「なによぅ……。私だって、侑の就任を祝いたかったんだから。素直に受け取りなさいよ」ズイッ

 唇を尖らせながら、ランジュちゃんは何かを渡した。

侑「わわっ。これは……すごい花束……」

ランジュ「ふふん。侑の為にいくつも花屋を回ったわ。一件ずつ回って、気に入った花を一輪だけ買っていくの。どう?素敵でしょう?」ニコッ

 あっけからんと言い放つランジュちゃん。笑顔が眩しい。
 ランジュちゃんから花束を受け取ると、なんだか妙に目頭が熱くなった。
 
13: (もも) 2022/12/21(水) 17:03:52.06 ID:IHLQ+geH
侑「うん……。ありがとう。ランジュちゃん。私、教師を諦めなくてよかった」グシグシ

ランジュ「……。本当に、教師になれて良かったわね」

侑「……うんっ!まぁ、英語教師だけど頑張るよ!」グッ

ランジュ「えぇ。応援してるわ。ってなによこんな時に……」プルルル

ランジュ「私よ。えぇ。分かったわ。今行くから待ってなさい。じゃあそろそろ行くから。頑張りなさい、侑」

侑「うん。ランジュちゃんも頑張ってね。えぇと、健闘を祈る?」

ランジュ「ドンパチをやるとでも思ってるの?そんな訳ないでしょ?再見、侑」スタスタスタ

侑「……」フリフリ

侑「やれやれ……。学園内で一緒にいるところを見られたら、一発退職もあり得るよ」

侑「でも……」

 確かな重みを感じる花束。
 一輪一輪ランジュちゃんが選んでくれたものらしい。
 そう思うと、感謝と歓喜の気持ちが胸の底から湧いてくる。

侑「……ありがとね。ランジュちゃん」

 未だ昇る紫煙を強引に消し、私は喫煙所を後にした。
 ……この花束はとりあえず、職員室に大急ぎで置きに行くとしよう。
 
14: (もも) 2022/12/21(水) 17:06:07.62 ID:IHLQ+geH
▲学園内劇場ホール▲

部長「みんな。今日は前任の先生から引き継ぐ形で、新しい顧問の先生が来るよ」

 稽古を始める前、演劇部の部長は演劇部全員を招集した。
 新しい顧問の先生……まさか、ね。

しずく「部長。その人は演劇に詳しいんですか?」

部長「ふふっ。いいや、全くのトーシロらしい」

しずく「それでは本当に、あくまで繋ぎの先生ってことでしょうか」

部長「うん。そうだね」

しずく「そう、ですか……」

 心臓の鼓動がいつもより早い気がする。暑くないはずなのにどこかじんわりと汗ばむ。
 何の予兆だろう……。
 
15: (もも) 2022/12/21(水) 17:07:41.07 ID:IHLQ+geH
ガチャ

 突如開く扉。そこから現れたのは。

侑「やあやあ演劇部のみんな。元気に演じているかい?って、ミーティングの最中だったかな?」

 嗚呼……。予想は的中した。

部長「いいえ、高咲先生。タイミングバッチリです。では早速ですが、自己紹介をお願いします」

侑「うんっ!みんなとは始業式で会ったばかりだとは思うけど一応。二年四組の担任の高咲侑だよ。演劇についてはちっとも分からないけど、分からないなりに色々勉強していくからさ。前の先生が戻ってくるまでよろしくね!」ブイッ

\パチパチパチパチパチパチパチパチ/

侑「あぁそうだ。うちのクラスの部員は……うん。しずくちゃんだけみたいだね。もしかしたらしずくちゃんには色々迷惑かけるかもしれないけど、よろしくね」

しずく「……はい。よろしくお願いします。高咲先生」ニコッ

 真っ直ぐに見据える二つの眼。
 私の奥底を見られているようで、自然と私は視線を外した。

侑「……。それじゃあ早速、稽古を見せて貰おうかな」

部長「はい。それじゃあいつも通り発声練習から始めるよ。その後はエチュードに移るから」

部員一同「はいっ!」

侑「おぉう……。ずいぶん統率が取れているんだね」
 
16: (もも) 2022/12/21(水) 17:09:56.85 ID:IHLQ+geH
……
…………

▲客席▲
侑「へぇ。基礎連一つ取っても普通の部活っぽくないね」

部長「えぇ、まぁ。虹ヶ咲がいくら一学年四桁を超えるマンモス学園だからと言って、演劇は部活動の中ではやはり異質です」

侑「それで一つ聞きたいんだけどさ。さっきエチュードって言ってたけど、演劇のエチュードって言うと何なのかな?」

部長「はい。演劇のエチュードとは即興劇のことです。役者達には簡単な設定が与えられるんです。時代設定、人物の性格等」

部長「それを役者が自由に解釈し、舞台の上でアドリブで物語を作っていく。それがエチュード。即興劇というモノです」

部長「普通は台本を与えられてからやるものですが、まずは私の方針でもっと簡略化したものを実施しているんです。その方が役者達の味が出ますし、アドリブ力が鍛えられますから。ちなみに、台本有りのエチュードは次に行います」

侑「なるほどねぇ。ちなみに鑑賞に当たってポイントとかあるの?」

部長「そうですね……。私が重視するのは『どれだけその人物を落とし込めているのか』。それだけを押さえておけば大丈夫だと思います」

侑「おぉ。それなら分かりやすい。演技が自然に見えるなら、その人になりきってるってことだもんね。アドリブで自然に見えるなら、なかなかの演技力ってことかな」

部長「その通りです」
 
17: (もも) 2022/12/21(水) 17:12:02.96 ID:IHLQ+geH
……
…………

侑「アレだね。色々な人のエチュードを見たけど、人によってだいぶ演技が違うし、一瞬で地力が分かるもんだね」

部長「へぇ……。演劇に馴染みが無いのにそれを分かるんですか。豊かな感受性をお持ちなんですね」

侑「ははは……。教師だからね。生徒に学問を授け、生徒を導く職業だから。自然と観察眼は鍛えられたのかも。まぁ、新任だけどさ」ポリポリ

部長「なるほど……。おや、次は先生のクラスのしずくですよ」

侑「お。やっぱ見知った顔があるとちょっと期待しちゃうね」

部長「……。そうですか」

侑「盲目の少女に、怒りっぽい肉屋さん、スラムの孤児、ねぇ……。今さらだけどなかなか尖った配役だよね」

部長「そうですね。まぁ、だからこそ地力がハッキリするんですが」
 
18: (もも) 2022/12/21(水) 17:14:16.39 ID:IHLQ+geH
▲舞台▲

部員A「よぉ、そこの嬢ちゃん。肉買ってかないか?」

しずく「……」

部員A「おい!そこの嬢ちゃんだよ!デカいリボンを付けたそこの!」

しずく「あぁ。私のことでしたか。失礼しました」

部員A「失礼じゃねぇよ。いくら目が見えてねぇからってちょっと失礼が過ぎるんじゃねぇのか?」クイクイ

部員B「……」

しずく「ふふ。目が見えていない、ですか」

部員B「……ッ」

しずく「全く。困ったモノですね。肉屋さんとスラムの子が結託してスリですか?盲目だからと舐められたものですね」

しずく「それに、いつ私が盲目だと気づいたんです?最初から標的にしていないと出てこない言葉ですよ──」
 
19: (もも) 2022/12/21(水) 17:16:49.24 ID:IHLQ+geH
▲客席▲

侑「なるほど。これは凄いね」

部長「おや。先生。何が凄いと?」

侑「今までの子達は盲目の少女を『弱者』として表現していたけど、しずくちゃんは盲目の少女なりに得た経験で人の悪意を回避してる」

侑「それでも、時代設定的に言えば盲目って、搾取される弱者って普通は捉えるよね。でも、しずくちゃんの演技だと『強者』に見える盲目の少女だよ」

部長「……えぇ。全くその通りです。盲目という設定。安直に弱者として捉え、役に落とし込むのは一概に悪とは言い難いです。時代背景から言っても、社会福祉の発達していない時代でしょうし、むしろ強者と表現することの方が悪手と言えるかもしれない」

部長「しかししずくは、あくまで自然に『盲目の少女という強者』を演じられている」

部長「ほら。見てください。他の部員もしずくに引っ張られて、盲目の少女を強者として認識した演技になっている」

侑「うぅむ。凄いねしずくちゃん」

部長「えぇ。全くです。本来エチュードとは、その人物のバックボーン、外堀を埋める作業の意味もあるんです」

部長「台本外に書かれた裏設定を自分の中で作り上げる。そうして固めた裏設定を自らに落とし込めば、より台本に書かれた演技が自然なモノとなる」

部長「しずくの考える裏設定は、とても緻密なんです。開頭して、他の部員にどんな脳みそをしているのか見せてやりたいくらいです」
 
20: (もも) 2022/12/21(水) 17:19:03.15 ID:IHLQ+geH
侑「物騒だねぇ……。まぁつまり、どれだけその人物を落とし込めているのか。それを考えると……」

部長「はい。現時点で、部内に敵う人間はいないでしょう」

侑「まいったねこりゃ。すごい子の担任になっちゃったよ」

侑「ちなみに。しずくちゃんがそこまで役を降ろせる理由って何かあるのかな?」

部長「……そうですね。『底知れない器』だから。でしょうか」

侑「……んん?」

部長「もっとも。それが弱点というか。だからこそ怖い部分もあるのですが」

侑「ちょちょ。一人で浸らないでよ」

部長「ふふっ。それはしずくをずっと見ていればいつか分かるかもしれませんよ。演出家の私がそれに気づいたのは、かなり後でしたが……」

侑「ふぅん?まぁそこまで言うなら答えは聞かないよ。それにしても、ずいぶんしずくちゃんのこと買ってるんだね」

部長「えぇ。それはもう……ひどく」ニコッ
 
21: (もも) 2022/12/21(水) 17:22:41.75 ID:IHLQ+geH
……
…………

侑「いやぁ、みんな凄いね!さすが演劇部!」パチパチ

部長「ありがとうございます。マンモス学園のいい所ですね。部員が多いとそれだけで刺激が多く、互いに意識し合って競争できる」

侑「うんうん!ちなみに次は何をするの?」

部長「いつもならこの後、バックミュージックをかけながら台本有りのエチュードの稽古をするんですが……。どうにもスピーカーの調子が悪いみたいで」

侑「バックミュージック?演劇ってBGMが控えめなイメージ、っていうか、そもそも無いイメージなんだけど」

部長「そうですね。役者の演技が重視されるので、BGMとかそういった余計な物は排除する傾向が強いです。しかし、私は他の方にも受け入れやすく、それでいて新しい演劇の形が作りたいんです」

部長「私の目指す新しい演劇の形は、書き割りや裏で流れている音楽。それら全て凌駕して脇役に置いてしまえるような、そんな圧倒的な演技で作られる演劇なんです」

侑「へぇ……?よく分かんないけど凄そうだね」

部長「ふふっ。いずれこの感覚を共有できると嬉しいですね」

侑「そうだねぇ」
 
22: (もも) 2022/12/21(水) 17:24:49.38 ID:IHLQ+geH
 それにしても、バックミュージックか。
 私はチラリと舞台を見る。すると舞台の横には大きなピアノが置いてあった。ここはたまに講堂の代わりに使われるらしいし、校歌斉唱の時とかに使われるのだろう。
 私は演劇に関して何も力になれることはない。けど、一応顧問だし、それもバックミュージックとか伴奏という形なら……。

侑「その……部長さん。バックミュージックなら、私も協力できるかもしれないよ」

部長「ふむ?どういうことですか?」

侑「ほらアレ」

部長「舞台横にあるピアノ、ですか。おや?先生は確か英語の担当教師ですよね?」

侑「ま、論より証拠ってね。今日はみんな私に付き合ってよ」ヒョイッ

 客席から舞台へと進み、ピアノの椅子へと座った。
 顧問一日目だ。ちょっとくらいの我がままは許してくれるはずだ。

侑「そうだな。しずくちゃん。それと──」

 私は先ほど見た生徒の中でめぼしい人たちに声をかけていく。
 
23: (もも) 2022/12/21(水) 17:27:27.15 ID:IHLQ+geH
▲舞台▲

 演劇にバックミュージック。私は正直言っていらないと思っている。部長のことは演劇の道に進む一人の演出家として尊敬はしているが、その考えに賛同はできない。
 書き割り、効果音等、演劇を装飾するものはいくつもあるが、私は奢侈な衣装さえもいらないと考えている。
 たった一人の役者。役者が行う一人の人間の表現。それを切り取る舞台。終わりと始まりを告げる幕。それだけで演劇は完成する。
 舞台セット等は、全て雑音。
 部長が言うには、それら全て凌駕できる、それら全て脇役における、圧倒的な演技が見たい、とのことだったけど。それは部長の我がままが過ぎると思う。
 しかし。いつの日も演出家とは傲慢なモノ。それくらい傲慢でなくては、何人もの役者を束ねる演出家は成り立たないのかもしれない。

侑「みんな!準備はいいかな?」

 高咲先生。今日赴任してきたばかりで、教師をするのも初めて。
 そして、演劇も全くの素人だという。
 繋ぎの先生なら繋ぎの先生らしく、特に口出しをせずに見守るだけでいいのに。そう思う人は少なくないだろう。
 恐らくきっと、いや間違いなく、部長もその一人だ。

しずく「はい。問題ありません」

 私同様、数人の部員も返事をする。

侑「それじゃあ自分のタイミングで始めちゃっていいよ。私はそれに合わせるから」
 
24: (もも) 2022/12/21(水) 17:29:20.14 ID:IHLQ+geH
 音楽科の先生でもない人が、劇に花を添えるピアノを弾けるだろうか。いや、雑音に過ぎないだろう。
 いけない。いけない。愚痴を考えていても仕方がない。
 今からは台本アリの即興劇を行わなければならないのだ。早く役を降ろさないと……。
 次に私が演じるのは、奴隷脱却を目指すために他の奴隷を先導するリーダー役──

しずく「──どうだい。作戦の準備は順調かい?」

 一瞬で役に入る。
 私はこの奴隷のリーダーに、女性という縛りを入れた。
 どうして女性にしたのか。そこにはきちんとした理由付け、裏設定が存在する。

しずく「──そうかい。それは重畳だ」

 それは、女性の奴隷であるからこそ、奴隷解放という大役は自分にしかできないと『彼女』自身が思ったから。
 鉱山奴隷は殆どが男性だ。女性の鉱山奴隷は早晩死に至るか、それとも他の奴隷の性欲処理に使われるか、悲惨な目に遭う場合が多い。
 けれどだからこそ、そんな奴隷の中の奴隷の彼女なら。
 奴隷のリーダーだなんて、疑われるわけはない。だからこそ彼女は奴隷脱却を目指すために、自らリーダーを演じたのだ。
 そう、彼女はリーダーを演じている。
 彼女自身は姉御肌でも自信満々でも無かった。理想のリーダー像を考え、弱気な自分を押し〇してリーダーを演じているのだ。それらは全て、奴隷という身分から脱する為に。
 私は彼女のリーダーの演技を演技する。
 そんな彼女の内心はきっと──

しずく(──!!)

 ピアノの音が聞こえる。高咲先生が鍵盤を弾き始めたのだ。
 
25: (もも) 2022/12/21(水) 17:31:22.50 ID:IHLQ+geH
 その音色は優しく、控えめに。けれど確かに聞こえる音で。
 少し明るい感じもあれど、どこか不安定な。そんなメロディだった。
 これは、表の彼女と裏の彼女を上手く表現した伴奏だった。私はその伴奏に、乗せられてしまう。

しずく「──期待しているよ。作戦遂行まで、もう残り時間はカツカツなんだ……っ」

 嗚呼。
 不意に。不意に出た。
 姉御肌を演じているとはいえ、ふと出てしまう彼女の弱い部分。残り時間が僅かということの焦り。本当に上手くここを脱出できるのか。奴隷を辞められるのか。そして、もし作戦が失敗して捕縛されてしまったら。
 そんな不安が、感情が、自然と口を衝いて出た。出させられた。

しずく「──ふぅ……。これでこの鉱山とも、おさらばと思うと……」

 彼女は一旦一人になり、これまでの鉱山での思い出を振り返る。
 それと同時に、高咲先生の曲調が変わる。
 これは、落ち着いた曲調で、どこか切ない。

しずく「──色々と、あったねぇ……」

 奴隷として酷使された現在進行形の話。しかし、ここも見納めと思うと──

しずく(!!)

 落ち着いた曲調だったはずが、どんどん激しくなっていく。

しずく「悪い思い出ばかりじゃなかった……。でも、私の体に、瞳に、心に刻まれた傷は、胸の中に瞋恚を滾らせた……ッ!!」ギリッ
 
26: (もも) 2022/12/21(水) 17:32:53.44 ID:IHLQ+geH
 悪い思い出ばかりでは無かった。
 けれどここでの思い出は、口にするのも憚られ、唾棄すべき思い出がやはり、ほぼ全ての比重を占めている。
 ピアノの音色が、よりその怒りを際立たせる。私の中の怒りが、本物になっていく。
 だけどこの怒りは、抑えなくてはならない。私がやるのは。私たちがやるのは、復讐ではなく脱出なのだ。

しずく「──だめだ。だめだだめだだめだ……ッ!私たちは、脱出しなければいけない……ッ!こきつかってきた奴らに復讐なんざ、考えちゃ……ッ!」

 葛藤。
 ピアノの音色はまるで、荒れ狂う海の波のようだった。寄せては返す怒りの感情。しかし、それに終始していては必ず作戦は失敗する。諫める感情もまた、波のように押し寄せる。
 私の中の怒りと理性が、ピアノによってより際立つ。それが、本物になっていく。
 同時に、私の中で一つの思いが結晶となっていく。
 私は……奴隷のリーダーだ──
 
27: (もも) 2022/12/21(水) 17:34:04.82 ID:IHLQ+geH
▲舞台横▲

 すごい。
 しずくちゃん。君はやっぱりすごい。
 しずくちゃんの吐露する演技が、表現が、私の音色に現実味を付与している。
 エチュード。
 それは即興劇、のはず。
 けれど、これはなんだろう。
 一つの曲?いや違う。
 一つの劇?いやこれも違う。
 それなら、きっとこれは。

侑「舞台の上で創り上げられる、一つの世界だ……」

 しずくちゃんの演技がどんどん光る。私はそれを追うように、先回りするように音色を置いていく。
 鍵盤を叩く一瞬一瞬に気が抜けない。けれど、それがやめられない。
 刺激的で、感情的な一瞬一瞬。
 喜びが止まらない。
 そうだ。創作とは。こういうものだ。こういうものだった。

侑「ふふふっ」

 楽しい。鍵盤を弾くのが楽しい。しずくちゃんの演技に彩りを加えられるのが楽しい。
 私一人じゃいけない高みへ行くのがやめられない。
 これは、これはそう。あの時みたいな……。
 
28: (もも) 2022/12/21(水) 17:36:17.21 ID:IHLQ+geH
──
『ずっとずっと……ここで侑ちゃんと歌っていたい……。だめ、かな……?』
──

侑「……」

 しずくちゃんの演技は終わらない。とうの昔に終わる、終わらないという次元では無くなっているのだろう。
 私も、終わらせたくない。この楽しい歓喜の時間が終わるだなんて考えられない。
 しかし。私は楽しんでピアノを弾いてもいいのだろうか。
 お前のピアノじゃ、誰にも伝わることはない、そんな声も胸の内から聞こえてくる。
 けれど、もう関係ない。
 もう二度と本気でピアノなんて弾けないと思っていた。でも、私はもう一度こうして、本気の気持ちを乗せたピアノを弾けてしまっている。
 しずくちゃんのおかげで、もう一度本気でピアノを弾けるようになった……。
 鍵盤を走る手が止まらない。疲れなんて一切感じない。それほど私はしずくちゃんの演技と伴奏に集中してしまっていた。
 今の私が感じているのは、絶頂にも似た、甘美な感覚。

侑「──やめられるわけ、ないじゃん……ッ!」

 すでに舞台の上はしずくちゃんの独壇場になってしまっている。主役はしずくちゃんで、他の部員たちは全てしずくちゃんを彩るだけの装飾品。私も、私ももっと!しずくちゃんを彩って装飾したい……!そんな気持ちが大きくなる。
 私がもっと弾きたくなる感情に吞み込まれそうになった瞬間。

部長「──はい。それまで」パンッ

 現実に、戻される。
 
29: (もも) 2022/12/21(水) 17:38:28.29 ID:IHLQ+geH
▲舞台▲

しずく「……あ」

しずく「わた、私は……」

 自らの手の平を見る。
 桜坂しずく。私は、桜坂しずくだった……。
 奴隷でもない。姉御肌を演じる女性でもない。私は。桜坂しずくだった。
 鉱山仕事で刻まれた深い傷の痕も無い、綺麗な手の平をしている。
 深かった。深すぎた。
 役に入り込むとかそういう次元ではない。
 私は、『彼女』だった。

しずく「……すごい」ブルルッ

 震えた。
 こんなこと、一度も無かった。
 あり得なかった。
 私の中の常識が、音を立ててガラガラと崩れていく。
 ピアノは、伴奏は、高咲先生は、雑音では無かった。
 そう、心の奥底。魂の部分で理解してしまった。
 理解させたのは。新たなる常識を私の体に刻んだのは。

しずく「高咲侑先生……あなたは一体……」
 
30: (もも) 2022/12/21(水) 17:39:42.02 ID:IHLQ+geH
▲学園内劇場出入口▲

侑「それじゃあね。みんな!今日は刺激的な一日だったよ!明日から通常のカリキュラムだから!遅刻せず登校するように!」ガチャ

侑「よし、施錠確認!ばいばい!」スタスタ

部長「はい。さようなら高咲先生」

しずく「……お疲れさまでした」

部長「……」

 私は高咲先生を見送る。
 先ほどの熱に浮かされるような一瞬を感じさせないような、カラッとした表情をしていた。私は今までに感じたことも無い熱情を持て余し、つい、説明を求めたくなってしまった。

しずく「あ、あの部長……」

部長「……なんだいしずく。話したいことがあるなら、歩きつつ話そうじゃないか」スタスタ

 部長も思うところがあるのか、神妙な顔つきをしていた。

しずく「あの人は……高咲先生は一体何者なんですか?」

部長「……そうだね。しずくに正直に、何の衒いもなく言ってしまえば、全くの不明、というしかないね」

しずく「部長……」

部長「私自身驚愕してるよ。演劇の素人だと言うのになんだあの演奏は。それも、高水準なレベルの演奏技術を持っている」
 
31: (もも) 2022/12/21(水) 17:41:08.74 ID:IHLQ+geH
しずく「はい……」

部長「人の発する感情表現に合わせ、リアルタイムで伴奏できるなんて並大抵のことじゃない。それに、先生のピアノはしずくの演技を凌駕もしなければ、脇役にもなっていない」

 そうだ。そこだ。そこが私の中で一番の衝撃だった。

しずく「そこです。一言で言い表すのなら……調和、でしょうか」

部長「うん。その通りだね」

しずく「私は演劇において曲や舞台セット、衣装までもがいらないと考えていました。けれど今日、その常識がひっくり返された気がします」

部長「……。そうなんだね」

しずく「……。何なんでしょう、いったい。音楽科の先生でもないのに。いや、音楽科の先生だとしてもおかしいです。正直、頭が混乱していてよく……」

部長「……ふぅ。そうだね。これ以上議論を重ねても収穫は無さそうだ。まぁ、分かったことはとりあえず二つだ」

しずく「二つ?」

部長「うん。高咲先生は、ただの英語教師じゃないってことさ。それともう一つは……。いや、これは言わないでおこう」

 言いかけて、やめた。気にはなるが、食い下がっても部長は言わない。部長はそういう人だった。
 
32: (もも) 2022/12/21(水) 17:43:19.32 ID:IHLQ+geH
しずく「……部長がそう仰るのであれば何も言いませんが」

部長「あぁ。……そうだ。しずくは先生のクラスの生徒なんだろう?」

しずく「そうですけど……?」

部長「部長命令だ。高咲先生と積極的に接して、高咲先生のことを暴くんだ」

しずく「えぇ……?暴くってそんな、探偵みたいな……。いや、でも……」

 唐突な指示に困惑した。
 しかし、高咲先生の謎を知るには、それ以上に適した方法もないと感じた。

部長「私はね、しずく。君の演技をとても買っているんだ。それと同時に、君の演技に深みを与えるにはどうすればいいか常々考えている」

しずく「……?何ですか?突然」

部長「役を演じる者。その演技の深みには、圧倒的に経験がいると私は思う。だから、謎の多い不思議な人間と接することは、役者として得る物が多いと思うよ」

しずく「……確かに、そうですね」

部長「それにこれは部長命令だ。否、と返すのは許さないよ」

しずく「……分かりました。頑張ります」

部長「うん。実りある結果になるいいね。それじゃあしずく。またね」

しずく「はい。お疲れさまでした」スタスタ……

……
…………

部長「……」

部長「しずく。分かったことのもう一つはね」

部長「良くも悪くも。君を変えてしまったということさ」

部長「たった一日しか会っていない、演劇も知らないような、素人の人間によってね」

部長「全く。妬ましい限りだ。ふふっ……」
 
41: (もも) 2022/12/22(木) 04:37:30.61 ID:MMmTtJ3e
▲桜坂邸▲

しずく「はぁ……なんだか今日は疲れた……」ボフッ

 始業式だから初対面の人と接しなきゃいけないし、そもそも友人自体そんなにいないし、疲れるのは覚悟してたことだけど……。
 そうベッドに転がっていると。

スイ「一番の疲労の原因は高咲先生のことかい?」

しずく「まぁ……そうだね。ちょっとまだ整理付いていないところもあるし」

 高咲先生。私の担任ので英語の先生。そして、調和のピアノを弾く演奏家。
 私が演じ、先生が際立たせる。あのワンシーン。
 思い返すだけで心臓がうるさいほど高鳴る。

スイ「良かったね。しずく。いい先生が担任で」

 いい先生、か……。

しずく「そうかな……。正直、分からないよ」

スイ「君は相変わらず、人前と舞台以外だとネガティブだね」

しずく「仕方がないでしょ。だって高咲先生のあの目、見たでしょ?」

スイ「真っ直ぐな目でいいと思うけどな。教師って職業であそこまでキラキラしてる人はなかなかいないと思うよ」

しずく「そうじゃなくて。なんていうか……。全てを見透かすような……そんな目だった」

スイ「考え過ぎだよ。視線を交差するだけで全て見透かすなんて、そんなことできっこない」

しずく「本当にそう思う?高咲先生は未知数なんだよ?」

スイ「う~ん。そう警戒することないと思うけどなぁ。まぁ確かに、演技の邪魔にならず、むしろ引き上げてくるような伴奏をリアルタイムで弾ける、っていうのは凄かったけど……」

しずく「そこだよ。だからおかしいんだよ。演劇のことを一切知らないような素人が、音楽教師でもない人が、そんなことできるなんて」

 本当は演劇に関して熟知しているベテラン、というなら分かるが……。でも、そんな感じは一切しなかった。
 
42: (もも) 2022/12/22(木) 04:40:16.45 ID:MMmTtJ3e
スイ「だからこれから知ろうとするんだろう?まだ会って一日目じゃないか。ゆっくりと知っていこうよ」

 スイにそう言われ若干たじろぐ。

しずく「……。そう、だけど……」

 だけど。それだけなのは確かだけど……。
 でもだって、高咲先生は異質で、変なのに……。それなのに。

スイ「それなのに、普通だから。変な人、異質な人なのに、それが普通だって受け入れられている。それがおかしいって?」

しずく「……そうだよ。私とは正反対の人。だから警戒もする。当然でしょ……?」

スイ「はぁ。やれやれ。しずくのネガティブ思考というか、後ろ向きな頑固というか。これは折角の機会じゃないか。高咲先生の近くで『異質で普通』を学ぶさ」

スイ「高咲先生は不思議な人だ。でも『普通』に受け入れられている。担任で顧問の先生がそういう人。これはチャンスだよ。活かさなきゃ損だよ損」

しずく「……うん」

 迷っていても仕方がない。
 高咲先生に接触して、それで正体を暴く。そうすればきっと……私にも掴めるはず。
 普通の輪郭を。

しずく「私、頑張る」グッ

 拳をギュッと握る。緊張と不安、そして期待からか、じんわりと手汗を搔いていた。

スイ「……それでさ。しずく」

しずく「なに?」

スイ「初対面の人に言うのもアレなんだけどさ……」

 スイが珍しく口ごもっている。

しずく「なに?ハッキリいいなよ。私の声は筒抜けだけど、そっちは分からないんだからさ。言わないと伝わらないよ」

スイ「その、しずくが『二重人格』って。スイっていうもう一つの人格を持っていること、話してもいいんじゃないかな?」
 
43: (もも) 2022/12/22(木) 04:41:59.80 ID:MMmTtJ3e
しずく「──」

しずく「はぁ?」

 言うに事を欠いて。何を言っているんだ。

しずく「そんなこと、できる訳ない!スイが言ったんでしょ!?目を見ただけで全て見透かすなんてできないって!」

しずく「スイは高咲先生を一日見ただけで何を分かった気でいるの!?」

 声が自然と荒々しくなる。この声量じゃ下の階にも聞こえているかもしれない。
 でも、止められない。

しずく「それに……。それに!!」

しずく「二重人格なんて言ったら変な子って言われるだけだよ!絶対に隠さなきゃいけない最優先のことだよ!」

スイ「ご、ごめんしずく……。ちょっと軽率だったよ……」

しずく「……」

 たまにスイの楽観的過ぎるところが嫌になる。軽薄と言い換えてもいいかもしれない。
 でも……。

しずく「……いいよ、別に」

スイ「しずく……」

しずく「スイのおかげで、今の私がいるんだもん。私から言えることなんて、ないよ」

スイ「……そっか」

しずく「うん……」

 やや拗ねたように言ってしまう。こういう時は、あまり心の声をスイに聞かれたくない。
 私の思っていることは、スイには筒抜けだ。しかし、スイに人格が移っている間は私の心の声は聞こえない。スイが主人格となって体を動かすことはあまりないので特に意味はないのだが。
 私にもスイの心の声が聞こえたらなぁ……。

スイ「それで、しずく。高咲先生の正体を暴くっていうことだけど……」

 微妙な雰囲気の流れを断ち切るようにスイは言う。

しずく「うん」

スイ「具体的にどうするつもり?」

しずく「……え」

 あ。あぁ。そうだ。それもそうだ。
 考えもしていなかった。
 高咲先生の謎を暴く。そしてあの伴奏の秘密を知る。
 目的はハッキリしていたけど手段は考えていなかった。

しずく「ど、どどどどどうしよう……」

スイ「ふ~む。ここまで慌てているしずくは久々に見るね」

しずく「どうしよう……。部長に指示を仰ぐ訳にもいかないだろうし……。友人と協力してってわけにも、そんな親しい友人なんていないし……」
 
44: (もも) 2022/12/22(木) 04:43:53.08 ID:MMmTtJ3e
スイ「いつもの演技じゃだめなの?『高咲先生の秘密を暴く探偵役』みたいな感じでさ」

 それは実にいいアイディアに思えた。しかし、今回はいつもと同じではないのだ。

しずく「……正直言って難しい」

スイ「それはなんで?」

しずく「私が演じる役って、相手から求められた時とか、台本に書いてあることとか、受動的なの……。自分のために演技をするってことは……ちょっと難しい気がする……。でも……」

スイ「ふ~む。他人から求められる演技には自信を持って対応できるけど、自分が求める目的の為には自信がない、と。ネガティブなしずくらしいね」クスクス

 ぐぅ。何も言い返せない。

しずく「この……。他人事だと思って……」

スイ「他人事じゃあないさ。しずくとは一心同体な訳だしね。まぁ、だからこそ、状況を打開する簡単な方法も一つあるわけで」

 分かってる。一番簡単で確実な方法が一つだけある。
 普段の私なら、そうしていること。
 舞台から降りた私が、困っている時いつも行っている方法……。
 簡単だ。ポジティブで楽観的で、人当たりのいいスイと人格を入れ替える。ただそれだけでいい。
 でも……。

しずく「今回だけは、私に当たらせて。スイ」

 私はハッキリと、強い意志を持ってそう言った。スイに任せれば上手くいく気はする。けれど、それでは私の本当に欲しい物は手に入らない。そんな気がした。

スイ「……うん。そうだね、しずく」

しずく「スイが高咲先生と接すれば簡単かもしれない。でも、今回は私がやりたいんだ。『桜坂しずくのスイ』じゃない。『桜坂しずくのしずく』がやりたいことなんだ」

スイ「……そっか。それなら私からは何も言わないよ」

しずく「うん。ありがとう。スイ」

スイ「いいんだよ、しずく。それじゃあ明日から、頑張ろう」

しずく「……うんっ!」

 正直に言うと、『しずく』として高咲先生と接することに恐怖はある。『スイ』は完全だけれど、『しずく』はまだ発展途上だから。
 『しずく』として接した結果、ここまで積み上げてきた『普通の桜坂しずく像』が崩れ、『変な桜坂しずく像』となってしまうかもしれない。
 でも。
 それでも。
 高咲先生には『しずく』が接しなければいけない。
 そんな、確信に近い思いがあるから──
 
45: (もも) 2022/12/22(木) 04:45:52.72 ID:MMmTtJ3e
▲二年四組教室▲

侑「──ってな訳で。始業式から一か月が経過して、段々このクラスにも馴染んできたんじゃないかい?みんな」

 あの私の決意から、既に一か月が経過していた──。

生徒A「先生はどうなんですか?」

侑「私?まぁ、私はね。初めての教師、初めての学校、そういったプレッシャーがいっぱいあったけど……」

生徒A「けど?」

侑「──余裕だね」キリッ

侑「いやー、持ち前の才能が怖くなるよね!最近は体の調子もいいし!教師をやって調子がいいってね!うぷぷw」プププ

生徒B「自分で言って自分で笑ってる……」

侑「ふふふ……。英語の授業も完璧だったような、そんな気がするよ!」プヒョヒョ

かすみ「でもぉ。侑先生。今日の英語の授業でスペル間違ってましたよね?」グフフ

侑「!!かすみちゃん!!それは言わないお約束でしょ!」

生徒A「出た!先生とかすみちゃんの夫婦漫才!」

\パチパチパチパチパチパチパチパチ/

かすみ「ちょ!!やめてくださいよそれっ!!なんで拍手まで恒例になってるんですかっ!!」

侑「私たちをクラスのみんなが祝福してくれているんだよ!」キリッ

かすみ「キリッ!じゃないですよ!」

生徒B「まーでも。なんだか楽しいクラスで私は気に入ってるかな」

生徒C「そうそう!先生も高咲先生ってより侑先生!って感じだし」

侑「うんうん。高咲先生でも侑先生でも。私はどちらでも大歓迎だよ!」ドンッ

生徒A「う~んでも。侑先生っていうか。侑ちゃん先生って感じだよね」

生徒B「あ、それは思う!侑ちゃん先生だよね!」

侑「えぇ!?侑ちゃん先生!?……ふむ。悪くない、かも?」

かすみ「可愛いとは思いますけど、先生としての威厳って感じだと……」

侑「おぉう……。かすみちゃんから可愛い認定を頂いてしまった……。でも他の先生に知られたら注意されそうだし、侑ちゃん先生はちょっとね……」

生徒A「えー。いいと思ったんだけどなぁ」

侑「……。呼ぶなら、こっそりね」コソッ
 
46: (もも) 2022/12/22(木) 04:47:50.41 ID:MMmTtJ3e
生徒A「!!」

生徒B「うぇーい!公式からのご認可、頂戴しました!」パンパンッ

\ユーチャン!!センセ!!ユーチャン!!センセ!!ユーチャン!!センセ!!ユーチャン!!センセ!!/

侑「ちょちょちょ!盛り上がりすぎだって!あぁ、聞こえてない!」アワアワ

ピピピーツ

かすみ「皆さん!さすがにそれは可愛くないですよ!」

かすみ「可愛くない悪ノリを発見次第!かすみんホイッスルが唸りを上げますからねっ!」ビシィッ

生徒A「ご、ごめん」

生徒B「悪かったよぉ……」

かすみ「分かればいいんですっ!」ピヒョー

侑「かすみちゃん……!」トキメキッ

生徒C(う~ん。この持ちつ持たれつの関係……!)

生徒C(やはり夫婦!いいね!)グッ

侑「じゃあみんな。そろそろ終わりだよ!帰りも気を付けてね!部活のある人は引き続き頑張るように!」フリフリ

しずく「……」

 一切、場のノリについていけなかった……。

……
…………

しずく「はぁ……」ズーン

 もう一か月も経過しちゃった。何が高咲先生には『しずく』が接しなきゃならない、だ。ろくな収穫も得られないまま、時間だけが過ぎていく……。

スイ「う~ん。それはしずくが『きょ、今日の天気は素晴らしいですねぇ!』とか『桜坂しずくって名前、どう思いますかっ!?』とか『か、髪型いいですねぇ……!?』とかコミュ障炸裂させてるからだよ」ヒソヒソ

しずく「ちょ、ちょっと、スイ!学園内では出てこないでよ!」ヒソヒソ

スイ「いやだって……あんまりにもあんまりだから……」

しずく「……。私だって頑張ってるもん……」ズーン

スイ「やれやれ……先行き不安過ぎるよ。他の生徒と先生と同じように接すればいいだけなのに……」

しずく「だって肩の力が抜けないんだもん……」

スイ「もんもん、言ったって悶々とした気持ちは変わらないよ。しずく」

しずく「うぅ……ん?『もんもん言ったって悶々とした気持ちは変わらない』?」

スイ「ん?」

 その時。私に電流が……いや雷撃が脊髄を貫く感覚。
 思い出せ、しずく。
 あの時の高咲先生の台詞を……!
 そう、アレは確か……。

──
『いやー、持ち前の才能が怖くなるよね!最近は体の調子もいいし!教師をやって調子がいいってね!うぷぷw』
──
 
47: (もも) 2022/12/22(木) 04:49:46.71 ID:MMmTtJ3e
 もっとコンパクトに!

──
『最近は体の調子もいいし!教師をやって調子がいいってね!』
──

 こ、これだあ!!
 高咲先生はダジャレで笑う!つまりダジャレが大好き!
 これだあ!!

スイ「ちょ、しずく……?」

しずく「少し黙ってて」ガタンッ

スイ(……!強い意志をひしひしと感じる……!声も出せないくらい拒絶が強い!でも、でもこれは!!)

スイ(絶対暴走する気がする!!)

しずく「高咲先生!」タッタッタ

侑「ん?なにしずくちゃん。って顔こわっ」

しずく「すぅ……はぁ……」

侑「……?」

しずく「『もんもん言ったって悶々とした気持ちは変わらない』!!」ビシィッ

侑「──」

スイ(うわああああああああああああああ!!)

しずく「……?」

 高咲先生。固まってる。

スイ(これは……!!圧倒的空回り!!分かってはいた。けど止められなかった!!)

 よく聞こえなかったのかな。
 それならもう一回。

スイ(ちょ──)

しずく「『もんもん言ったって悶々とした気持ちは変わらない』!!!!」ババーン

スイ(ダブルでいったぁ!?)

侑「……ッ」クッ

スイ(え)

侑「……ぷ」

侑「ぷぷ、ぷ……はは、あはははははははははっ!!」

侑「なにそれしずくちゃんっ!『もんもん言ったって悶々とした気持ちは変わらない』!?最高過ぎるよしずくちゃん!!」プププ…

スイ(……えぇ)

しずく「……!!」グッ

 確かな手応え!確かな効果!これは、やった……!?
 よし。この方向で攻めていけばきっと……!
 って、この方向って、ダジャレ……?ダジャレで攻める……?

生徒A「え……桜坂さんってそういう人だったんだ」
 
48: (もも) 2022/12/22(木) 04:51:25.13 ID:MMmTtJ3e
しずく「え」

生徒B「ちょっと変なのw」

しずく「──」

 変。変……?
 そ、そうだ……!何を言ってるんだ私は!!
 突然声を大きくしてダジャレを言う人なんて頭がおかしい!
 ま、まずい!一年かけて虹ヶ咲で作り上げた『優等生な桜坂しずく像』に傷が入る!突発的に先生に対してダジャレを言う『不思議で変な桜坂しずく像』に変化してしまう!
 ど、どうすれば……!

スイ(!!しずくの拒絶が消えた!!)

しずく(スイ)「あはは。ごめんなさい、高咲先生。今のは中須さんからの罰ゲームだったんです」

侑「あはははは……ってえぇ?なに?かすみちゃんからの罰ゲーム?」ププッ

しずく(スイ)「はい。ちょっと中須さんとゲームをしていまして。それで罰ゲームをする流れになってしまったんです。内容は『高咲先生に突然ダジャレを言う』って内容でした」

生徒A「な~んだ。中須さんが関わってたのかぁ」

生徒B「それを素直に実行しちゃうなんて、桜坂さんって真面目だよねぇ」

生徒A「うんうん。見た目通り優等生って感じ。中須さんだって本気で実行して欲しいって思ったわけじゃないと思うよ?」

しずく(スイ)「あ、そうだったの?ふふっ。恥ずかしいことしちゃった」ニコッ

生徒B「そうそう」

しずく(スイ)「あ、そうだ。悪ノリが嫌いな中須さんのことだから、私がダジャレを言ったってことを聞いたら気を悪くするかも。だからこのことは中須さんには秘密にしてね」

生徒A・B「おっけー」

しずく(スイ)「よろしくね」ニコッ

 スイ……!
 ありがとう!やっぱりスイは頼りになるね!
 じゃあそろそろ代わるよ!
 スイの人格の時も、私が意思を持って語り掛ければスイに伝わるのだ。

侑「なーんだ。そういうことね。私としてはダジャレ愛好家が身近にいたんだって嬉しくなっちゃのにぃ」ブーブー

生徒A「いやいや。ヤバいですって侑ちゃん先生。あれで笑うってなかなかですよ?」

侑「笑っちゃうのはどうしようもないことだよ。流行とダジャレには乗りなさいって言うでしょ?」

 ふぅ。何とかスイの機転のおかげで難は逃れられたけど……。ここからどうしよう。すぐに立ち去るのもアレだし……。
 と、そう考えていたら。

侑「──あ、そうだ。しずくちゃん」

しずく「……ッ。あ、はい。何ですか?」ニコッ

 不意に話を振られてビックリした。変に思われてないかな。

侑「演劇部で使う小道具が部活棟の大倉庫にあるみたいなんだ。場所がちょっと分からないから付いてきてくれるかな?」

しずく「あぁ、なるほど。一向に構いませんよ」

侑「うんうん。それじゃあ行こうか。じゃあね、みんな」

生徒A・B「さよなら~」
 
49: (もも) 2022/12/22(木) 04:53:10.09 ID:MMmTtJ3e
▲部活棟大倉庫前▲

侑「いやぁ、それにしても虹ヶ咲って思った以上に大きいよね」

しずく「そうですね。都内屈指のマンモス学園ですから。それに見合う学び舎となると、大きさもひとしおですね」

侑「だねぇ。庭も広いし意匠が凝ってるし、毎日色んな発見でいっぱいだよ!」

しずく「ふふっ。そうですね」ニコッ

 話せている。自然に。
 正体を暴くとか、謎を解くとか、そういうこと以外だと自然に話すことができる。
 求められる『桜坂しずく像』ではなく、ただの『しずく』としても話せているような……。
 この感覚は……。なんだかあの時のエチュードの時のような……。
 いつまでも続いて欲しいような、そんな軽妙さを感じる。

侑「──あれ?おかしいな」

しずく「……どうしたんですか?」

侑「大倉庫がすでに開錠されてる」

しずく「え?本当、ですね」

侑「んん?」ヒョコッ

侑「あ、かすみちゃんじゃん」

かすみ「え?今誰か私のこと呼びましたか!?え!?誰ですか!?幽霊さんですか!?」

かすみ「かすみんのことを食べても美味しくないですよっ!?」

 そこには、ビクビクと怯える風紀委員がいた。

しずく「……。中須さん。私たちだよ。高咲先生と桜坂しずく」

かすみ「あ、な~んだ。かすみんしかいないと思ってたから油断しちゃったよぉ」テヘヘ

侑「それで、かすみちゃんはここで何をしてるの?」

かすみ「かすみんは風紀委員として、大倉庫の備品をチェックしているんです!」エッヘン

侑「へぇ~。風紀委員って色々やってるんだね。おぉ、それにしても倉庫の中はすごいね」

 私も高咲先生につられて中をぐるっと見る。確かに圧巻だった。
 大倉庫はその名の通りかなりの規模の倉庫だ。部活によってそれぞれ使用できるスペースは決まっているが、それでもかなり雑多な感じに色々転がっている。
 例えるなら……。金貨とかお宝がたくさんある、フィクション作品の宝物庫みたいな感じだ。

かすみ「へっへーん。定期的にここへ来て、変なものが混じっていないか確認してるんですよ!可愛くないものがあったら危険ですからね!」

侑「可愛くないもの……?ちょっと気になるね」

しずく「え……」

 私たちは演劇部で使う小道具を探しに来たのでは……?
 
50: (もも) 2022/12/22(木) 04:55:04.84 ID:MMmTtJ3e
侑「ねぇかすみちゃん。良かったらちょっとだけ風紀委員のお仕事、見学させて貰ってもいいかな?」

しずく「え、ちょ。高咲先生!?演劇で使う小道具を取りに来たんですよね!?」

侑「まぁそうだけどさ。大倉庫に来る機会なんてそう無いだろうし、いいじゃない」

しずく「そうは言っても……」

かすみ「かすみんは別に構いませんよ!風紀委員の仕事を見るのはいい経験になると思いますし、かすみんのプリティキュートな仕事っぷり、見て貰いたいですからねっ!」

しずく「いい経験……」

──
『役を演じる者。その演技の深みには、圧倒的に経験がいると私は思う。だから、謎の多い不思議な人間と接することは、役者として得る物が多いと思うよ』
──

しずく「……分かりました。私も同行します」

侑「やったぁ!」

かすみ「ふふん♪オーディエンスがいっぱいいた方が、やりがいもあるってものですっ!」グフフ

 そうして私は、風紀委員のお仕事を見学することになった。

……
…………

侑「おや。これは何だろう」ガシャ

かすみ「それはロボット研究部の失敗作ですね。無理に回路を繋いだせいでスパークしちゃって、使い物にならなくなっちゃった奴です」

しずく「……それってただのゴミなんじゃ?」

かすみ「そうだね。ゴミだね。これは処理場行きだよ。よよよいよい」カキカキ

しずく「ん?それは……」

かすみ「簡単に言えばゴミ予備軍って分かる紙かな。定期的に来る倉庫の管理人さんがこの紙を見て、その部活の人に捨ててもいいですかって連絡するの。それで部活の人がおっけー出したら捨てるって感じ」

しずく「なんだか面倒くさそうだね」

かすみ「ゴミ予備軍の紙はアナログだけど、管理人さんが部活の人へ連絡する時はデジタルだからそこまで苦じゃないらしいよ。まぁ、数が膨大だと煩雑なんだろうけどね」

侑「ふむふむ。いやぁ、かすみちゃん」ポン

かすみ「なんですか?」クルッ

侑「真面目な勤労姿勢。素晴らしいね!」ナデナデ

かすみ「んもぅ!なでなでしないでくださいよ!かすみんは風紀委員なんです。これくらいは普通なんです!」

しずく「でも実際、ゴミかどうか判断するだけでも量が膨大だし、真面目にやってるのってすごいことだと思うよ」ニコッ

かすみ「ふふん。だからこそ仕事に誇りが生まれるんだよしず子」ドヤッ

侑「おぉう。すごくいい台詞……」トキメキッ
 
51: (もも) 2022/12/22(木) 04:56:58.27 ID:MMmTtJ3e
……
…………

 それからも、色々な物を見た。

しずく「これは?」
かすみ「これはコッペパン同好会の酵母だね。でも死滅してるしゴミ確定だよ」
侑「なぜ酵母が……」

──

しずく「これは?」
かすみ「これはハンバーガー同好会のバーガー着ぐるみだね。可愛いからゴミじゃないよ」
侑「えぇ?判断基準そこ?」

──

しずく「こ、これは……?」
かすみ「これはワンダーフォーゲル部が登山中に倒した熊の毛皮だね」
侑「く、くまぁ!?それはワンダーフォーゲル部なの……?てかいいのそれ」
かすみ「部内では18歳になると狩猟免許取得必須らしいですね」
しずく「狩猟部じゃん……」

──

しずく「え、えぇ……?」
かすみ「これは服飾同好会の原寸大メガ幸子レプリカだね。毎年作ってはこうしてここに置いてるんだ」
侑「服飾同好会はなぜこれを作ろうと……」
かすみ「学ぶは、まねぶから来ている。だから作ってるって言ってましたね」
しずく「それ、解答になってる?」
かすみ「さぁ。でも、これは毎年作っては廃棄の繰り返しだし、風紀委員が関与しなくても捨てられていくから、特に気にする必要なーし!」
侑「捨てるのも一苦労だねぇ……」

──

しずく「結構回りましたね」

侑「そうだね。思ったより刺激的というか、独創的というか。好奇心をそそられるものばかりだったYO!」

かすみ「次が最後ですね。ここ、流しそうめん同好会です」

 中須さんに言われた先を見ると、そこにはたくさんの竹が雑多に壁に固定されていた。普通の竹ではなく、色々なギミックが付いているのか、鈍重そうな機械も付けられていた。

侑「流しそうめん同好会だから竹かぁ。なんかすごいねぇ」

かすみ「そうですね。流しそうめんの新しい可能性を切り拓く!ってことで、色々と発明もしてるそうです」

しずく「例えば?」

かすみ「例えば……あの流しそうめん機は、投石器みたいに途中で流しそうめんを飛ばすらしいよ」

侑「それはもはや流しそうめんならぬ投げそうめんだねぇ」プププ

かすみ「なにツボってるんですか……」

 アイディアは凄い。でも私にはちょっと理解できない世界だな。
 それにしても。壁に固定されているとは言っても私たちより遥かに大きい。
 服飾同好会のメガ幸子もそうだけど、ちょっと危険じゃないかなぁ……。
 
52: (もも) 2022/12/22(木) 04:58:40.49 ID:MMmTtJ3e
かすみ「あれ。こんな発明品あったっけ。新しい流しそうめん機かな?」スッ

 そう、中須さんが竹に手を伸ばした時。下にある備品に気が付かなかったのか、中須さんは躓いてしまう。

かすみ「って、うわあっ!!」ドンッ

 よろけて、たたらを踏んで、中須さんが倒れないよう手を出した先には、竹の留め具があって……。

ガラララララララララッッ!!

 しずく「……あ」

 老朽化していたのか、留め具は簡単に外れてしまい、支えを失った様々な竹は私たち三人に向かって落下していく。
 鉄製で重そうな受け皿のようなモノが付いた竹、先端がやけに尖っており当たれば肉が裂けてしまいそうな竹。色々な、多数の流しそうめん用の備品が落ちていく。

 あ、死ぬ。死んでしまう。

しずく「あっ、ぐッ……」

 途端、そう思った時。来たる死への恐怖が原因なのか、激しい頭痛が私を襲う。当然のように竹を避けようもない。
 死ぬ。死ぬ。死ぬ。
 死んで、しまう。
 周囲がスローモーションのように遅くなる中、声が聞こえた。

侑「──みんな動かないでね」

 確かに聞こえた高咲先生の声。
 その声は、なんだか自信に満ち満ちていて。あぁ、大丈夫なんだ、と理由のない安心を与えてくれる声音だった。
 そして。次の瞬間。


ガラガラガラガラッッドドドドドドドド!!


 凄まじい轟音が耳を劈き、私は目を閉じるしか無かった。

……
…………

 痛く、ない。
 目も、開けられる。
 傷の損傷が激し過ぎて痛みが遅れている、という訳でもない。
 私は、どうやら生きているようだった。

かすみ「あ、え……?か、かすみん、生きて、ます……?」

 呆然とした声が聞こえた。目をやると、そこには尻餅を付いた中須さんがいた。
 中須さんの周囲には、まるで彼女を避けるように竹が並んでいた。いや、中須だけじゃない。

しずく「私の周りも……」

 私の周りも同様だった。
 落下してきた鈍重そうな竹は全て、私を避けていた。数センチ、いや数ミリでもズレていたら……。

侑「うん。かすみちゃんは生きてるよ!大丈夫!」ニコッ

 弛緩した空気を吹き飛ばすような、明るい声が聞こえた。
 高咲先生だ。私たちに一切の傷を負わせなかった張本人だ。

侑「しずくちゃんも大丈夫?」

 高咲先生はこの状況に興奮するでも、呆気にとられる訳でもなく、あっけらかんとしていた。

しずく「は、はい……大丈──」

 大丈夫と言いかけた時。

かすみ「うわあああああああああああああん!!」ドーーン
 
53: (もも) 2022/12/22(木) 05:00:23.88 ID:MMmTtJ3e
侑「ぐえっ」

かすみ「あああああああ!!怖かったです!!怖かったですぅ!!かすみんこのまま死んじゃうのかと思いましたぁ!!」ギュウウウウウ

侑「ちょ、かすみちゃん痛い!痛いって!!私そんな体強くないんだよっ!ぐえぇ……」

かすみ「嫌ですぅ!離しませんよ!絶対に離しません!だって、だってだってだって!!震えがまだまだ止まらないんですよぉ!!うぇぇぇえええん!!」グスグス

侑「かすみちゃん……。大丈夫大丈夫。もう怖くないよ。大丈夫だよ」ナデナデ

 高咲先生は抱擁の苦しみに耐えながら、中須さんを優しく撫でていた。

かすみ「ぐすん……。侑先生……」ギュウウウ

侑「うぐぇっ……。大、丈夫だよ、かすみちゃん……。可愛いかすみちゃんは、私が守ったから……ッ!」グエー

かすみ「侑先生……ありがとうございますぅ……ぐすん。侑先生はかすみんの騎士(ナイト)ですよぅ……ぐすん」ギュウウウ

 高咲先生は苦しみながらも、撫でる手を止めなかった。
 中須さんはお世辞にも体格がいいとは言えないし、それは高咲先生も同様だ。
 でも高咲先生は、あの鈍重な竹を捌ききった。それなのに体が弱い……?
 私は死への恐怖なんかより、この状況を打破した高咲先生のちぐはぐさが気になっていた。

侑「し、しずくちゃあん……ちょ、ちょっと助けて……」

しずく「……高咲先生」

侑「う、うん……助けて」

 助けを求める高咲先生だったけれど、今は私の疑問を優先した。

しずく「どうしてアレだけの竹を捌けたんですか……?落下する方向もバラバラだし、数もかなりありました。それなのになぜ……?」

侑「えっ、今それ聞く、の!?」

かすみ「侑せんせ~いっ♡」ギュウウ

しずく「はい」

侑「ぐえッ……。そんなの、単純だよ……ッ」

 単純……?

侑「私、目が良いからね。それ、に。いくら重いとはいっても、軌道を多少変えるくらいならそこまで力はいらない、よ……」

侑「他の竹に……ぶつけれ、ば、力を借りられるし、ね……」グフッ

かすみ「私のナイト様ですぅ~♡」グリグリ

 ……。確かに、単純だ。
 落下してくる長物の軌道を変えるだけなら、それほどの力はいらないはず。それに、他の落下物の位置エネルギーを借りればより容易だろう。
 でも、それをあの一瞬で全て把握し、捌き切った……?
 一歩間違えれば逆に大怪我することになっていたかもしれないのに……。
 とても、理解しがたい……。
 
54: (もも) 2022/12/22(木) 05:02:03.68 ID:MMmTtJ3e
侑「あぁでも、しずくちゃん」

しずく「は、はい」

侑「このことは内緒にしてねっ。もちろんかすみちゃんも!」ニコッ

しずく「──」

 内緒。それはつまり秘密ということで、高咲先生が隠しておきたい謎、ということだ。
 私がこの一か月間、ずっと欲していたものだ。とはいえ、伴奏の謎が解ける訳でもなく、むしろ謎が増えただけなのだが……。
 でも、それでも。それを知って、なんだか私は……。

しずく「はいっ。もちろんです!」ニコッ

 嬉しかった。
 高咲先生の。高咲侑という人の秘密を知れて。普通の人なら知らないであろう情報を私だけが知っているという事実。
 それがなんだか、たまらなく嬉しかった。

かすみ「侑せんせ~い♡かすみんだけのナイト様ですよぉ~♡」グリグリ

 ……。いや、もう一人いた。内緒を。秘密を。謎を知っている人が。
 そう思うと、今度は中須さんに妙な感情が沸いてくる。

しずく「中須さん、そろそろ離れようか」グイッ

かすみ「あぁ!何するのしず子!」バッ

侑「はぁ、助かったぁ……」

しずく「侑先生が困ってたでしょ!」

かすみ「困ってないもん!そんなわけないもんっ!しず子の妄想だよっ!」

しずく「しず子しず子って……。この、かすかす!竹で頭でも打ったの!?妄想はかすかすの方だよ!!」

かすみ「か、かすかす!?かすみんですぅ!!訂正してくださいっ!!」

しずく「何度でも言うよ!私たちの命の恩人の侑先生を困らせないで!この、かすかす!かすかすかすかす!!」

かすみ「ぬわあああああああ!怒った!怒ったよ私はぁ!!」ウギャー

侑「あ、あの……」

\ギャーギャーギャーギャーギャーギャーギャーギャー/

侑「……」

侑「まいったねこりゃ」タハー
 
55: (もも) 2022/12/22(木) 05:04:07.92 ID:MMmTtJ3e
▲学園内劇場ホール出入口▲

一同「お疲れさまでした!」

侑「はーい。今日は遅刻してごめんね!しっかりと休息を取って、放課後を過ごそう!ばいば~い」

しずく「……」

 あれから。すぐに大倉庫内の音を聞いた先生方が押し寄せ、ちょっとした騒ぎになった。
 色々と根掘り葉掘り聞かれたせいで、今日は演劇部の活動がほとんどできなかった。
 全ての原因は、竹を支える留め具の老朽化と、そもそもの固定方法ということになった。これなら遅かれ早かれ事態は起こっていた、という結論に至った。
 実際、風紀委員が度々上げる報告書には留め具の老朽化が報告されていた。しかし、流しそうめん同好会が早急に対応していなかったこと。そして、留め具の固定方法がそもそも甘かったこと。そこは倉庫の管理人、全ての先生方、流しそうめん同好会の部員、全てに責任があるという形で落ち着いたらしい。事態が起こって一日も経過していないのに、早いものだと思う。
 そして、風紀委員にはさらなる権力が付与される、そんな言葉まで聞いた。
 ちなみに、侑先生はあの後しっかり、演劇部の小道具を入手していたらしい。意外というか……今となっては意外でもないが、抜け目のない人だって感じた。

しずく「なんだか、疲れたな……」

 色々あった。
 死ぬかもしれない状況。その窮地を救ってくれた侑先生。そんな侑先生の秘密を知ることができた。
 それだけは、今日のいい出来事だった。

侑「しずくちゃん」

しずく「は、はいっ?」

 浸っていたら反応が送れた。最近はこういうことが多い気がする。

侑「どう?後から痛みとか出てない?」

しずく「……はいっ。大丈夫です。あの時侑せん──」

 侑先生が助けてくれたからです!とつい、言葉に出そうになった。

侑「あわわ。それは秘密だって!」シー

しずく「あ、そうでした。すみません」

侑「まあまあ。いいよいいよ。まだ頭が混乱してるだろうし。今日は家でゆっくり休みなよ?」

しずく「はい。侑先生もご自愛ください」

侑「ふふっ。なんだかちょっと硬いね」

侑「あの命の危機を脱した仲なんだ。仲良くやっていこうぜ。しずくちゃん」ナデナデ

 頭に優しく温かな感覚があった。
 どうやら侑先生に撫でられているらしい。
 とても優しく、慈しみ深い侑先生の感情が、手の平から伝わってくる。
 心地いい……。

侑「じゃあね。しずくちゃん。また明日。ばいば~い」パッ
 
56: (もも) 2022/12/22(木) 05:05:59.85 ID:MMmTtJ3e
しずく「あ……はい。お疲れさま、でした……」

 ちょっとした喪失感。
 でも。まだ感触が残っていて、なんだかそこに手を置いてしまう。

部長「──しずく」

しずく「……!」

 突然部長に声を掛けられる。気持ちを切り替えないと……。

部長「今日は……災難だったね」

しずく「……そうですね」

部長「あと一歩で死ぬ寸前だったんだろう?危なかったね」

しずく「はい。偶然竹が私たちを避けてくれて助かりました」

 少しも動揺を見せず、私は言い切った。
 こういう、筋書きのはずだ。大丈夫。私は役者。これくらいの嘘、突き通せる。

部長「不幸中の幸いってことだね」

しずく「はい。これで一生分の運を使ってしまったかもしれません。ふふっ」

部長「そっか。それで、しずく。高咲先生のことは何か分かった?」

しずく「え?」

 部長に言われた一言が、一瞬理解できなかった。

部長「高咲先生のことだよ。もしかしたら命の危機に瀕して何かしらアクションを起こすかもしれないじゃないか。その辺はどう?」

しずく「え、えっと、あの……」

 聞かれるかもしれないとは思ってた。でも、なんだか虚を突かれた感じだ。
 なんだ。なんだこの違和感……。

部長「ん?どうしたのしずく。そんなに動揺して」

 部長に侑先生の秘密を伝えていないこと?
 いや、アレは侑先生に口止めされているから。それに、部長だとしてもアレは私だけの胸に閉まっておきたい。
 じゃあなに……?

部長「何か、あったのかい?命の危機に瀕して、高咲先生が何か……」

 命の危機。高咲先生……。
 あ、そうか。
 普通、命の危険があったのなら、大怪我とか傷とか、それを心配するのが普通なんだ。
 でも、部長は違う。
 最初こそ私の体を気遣っているようだったけど、そこに心配の感情は一切伝わってこなかった。
 部長の口ぶりだと、こんなことがあったのに、優先すべき事項は『高咲先生の謎の究明』なんだ。
 命の危機なのに、むしろそれを好機とすら捉えている。
 私はそれを、ズレであると感じた。
 普通ではない。一般からは遠いズレ。
 そんな部長が、なんだか危険なものに見えて、少し身構えてしまった。
 
57: (もも) 2022/12/22(木) 05:07:41.60 ID:MMmTtJ3e
しずく「いいえ、部長。侑先生も私とかすみさん同様、運よく助かっただけです」

しずく「それに、謎とか秘密とか。そんなことを考えている余裕はありませんでした」

 部長にとっては私も、そうした状況で命の危機より侑先生の謎の究明を優先すると思っていたのだろうか。
 振り返ってみると、確かにそうだったような気もする。死の恐怖は確かに感じていた。けれど、それよりも謎の究明を優先していたような……。
 でも、私の中の気持ちは変化していた。侑先生の秘密は、私だけに留めておきたい。
 秘密の究明より、秘密の共有ができた。そこに大きな喜びを感じていたのだ。

部長「ふむ……」

 部長は何やら思案している。私の目を見て真っ直ぐに。

部長「本当に?些細なことでもいいんだよ?」

しずく「はい。嘘偽りなく、本当です」

部長「……そっか。うん。分かったよ」

部長「変なこと言って悪かったね。それじゃあね」スタスタ

しずく「はい。お疲れさまでした」ペコ

 ……。
 この秘密は、部長には死んでも明かさない。
 明かしちゃいけない。
 そう、強く思った。

……
…………

部長「……」スタスタ

部長「侑先生、ね……」

部長「しずく。君のその無傷には、高咲先生が深く関わっているんじゃないのか?」

部長「だから……。だから『しずく』なのに。そこまで芯のある瞳で見ることができるようになったんじゃないのか?」

部長「一体、何があったって言うんだ……」

部長「……」

部長「高咲先生。全く持って、妬ましい限りだよ」

部長「でも、だからこそ。最高の経験をしずくには、体験させられそうだよ。ありがとう先生……」

部長「──先生にも、とびっきりの体験をプレゼントしよう……。ふふっふふふ……」

部長「嗚呼、なんだかとびっきり辛い物でも食べて刺激を浴びたい……そんな気分だ……」
 
58: (もも) 2022/12/22(木) 05:09:14.17 ID:MMmTtJ3e
▲高咲侑のアパート▲

 通勤用の鞄を無造作に床に置く。
 スーツのネクタイを緩め、ベッドにダイブする。

侑「はぅ~~……」ゴロン

侑「なんとか、なったなぁ……」

 一歩間違えればかすみちゃんとしずくちゃん。その両方が死んでいたかもしれない出来事だった。
 けれど、そうはならなかった。

侑「……うん。あの時の後悔は、ちゃんと実を結んでる」

──
『──あ、侑ちゃん。ここが分かったんだ。さすがだね』
──

 とある光景がフラッシュバックする。
 私は、天井に付いている照明に向かって拳を突き出す。
 振り払うように、頭から追い出すように。

侑「それにしても、やっぱり自分以外を守るとなると、緊張度合いが違うね」ゴロゴロ

 一人で自衛する術は身に着けた。でも、それだけじゃだめだ。だからこそ、今回のように人を助けられたことは素直に嬉しかった。

侑「もうこれ以上、何も起こって欲しくないけど……」ゴロン

 でも、私の第六感とか、勘とか、そういう部分が警鐘を鳴らしている。
 そういう場合は危ない。点と点で見ると一見繋がっていなそうだけど、そこにもう一点追加すると途端に繋がる。そんなことがある。
 そして、その違和感には気づいていた。

侑「あの目はちょっと、危ないね」

 演劇部部長。
 虹ヶ咲学園というマンモス学園の演劇部で、部長をやっている生徒。とても才能のある生徒なのだろう。だけど、その双眸に宿す色は、たまに狂気をチラつかせる。
 視線が交差していなくても分かる。悪意を持った視線だった。

侑「ま。十中八九しずくちゃん絡みのことだろうけど……。全く、悩み事は尽きないもんだね」

 そして、そのしずくちゃんもしずくちゃんだ。
 アレだけの出来事があっても、しずくちゃんはなんだか恐怖を感じていないようだった。とはいえ、全くの無感情という訳でもない。
 あのダジャレ事件もアレだけど……。なんだかしずくちゃんは一枚岩ではない気がする。いや、一枚岩というか……なんだろう。

侑「ミルフィーユ、かな?」

 ミルフィーユしずくちゃん。小さなしずくちゃんが折り重なっている。可愛い。
 ……。なんだか変な妄想をしてしまっている気がする。
 とりあえずこの先はお風呂に入ってから考えることにしよう。と、そこまで考えてから、鞄に入っているスマホが鳴っていることに気づく。
 
59: (もも) 2022/12/22(木) 05:10:53.25 ID:MMmTtJ3e
侑「おやおや。よっと……。はい。もしもし?」ピッ

ランジュ「你好。ランジュよ」

侑「ランジュちゃん。どうしたの?」

ランジュ「どうしたのって。侑、あなたどうやら命を落とす寸前だったみたいじゃない。それなのに、なんでランジュに連絡しないのかしら?」

 あ。なんだかこれ怒ってる感じだ。不味いね。

侑「あぁ~。その~。これから!これから連絡する予定だったんだよ!」

ランジュ「嘘ね。相変わらず侑は嘘を吐くのがへたっぴね」

侑「あ~。その……ごめんなさい」

 電話口なのに頭を下げてしまう。営業先に電話するサラリーマンのようだ。

ランジュ「謝罪が欲しい訳じゃないわ。ただ、侑が今怪我をしているのか。どれだけの怪我を負っているのか。それを聞きたいだけよ」

侑「う、うん。大丈夫。怪我はしてないよ。無傷無傷」

ランジュ「……それは本当?」

 強いて言えば、落下する竹の位置エネルギーを消しきれず、若干腕を痛めたってくらいだけど。でも、このくらいなら湿布を貼ればすぐに完治するはずだ。
 ピアノで重要な指先は守れたから問題はない。

侑「本当本当!問題無し!」

ランジュ「……そう。それならいいわ」

ランジュ「侑は周りのことはよく見ているけれど、自分のことに関してはてんで周りが見えていないから。いつもみたいに無理をしているのかと思ったわ」

侑「大丈夫だよ。ランジュちゃんが心配することなんかないよ」

ランジュ「……困ったら、ちゃんと相談しなさい。いいわね?」

侑「うん!」

 あ、じゃあちょうどいいかな。

侑「じゃあ早速だけど、ちょっとやって欲しいことがあるんだけど──」

▲???▲

ランジュ「……」ピッ

ランジュ「全く。侑ったら……。何かあったら真っ先にランジュに相談するべきなのよ」

ランジュ「ランジュたちは、一緒に死線を潜り抜けた友人を遥かに超えた存在。そんな間柄に遠慮なんていらないのに」

ランジュ「……」

ランジュ「……ふぅ。だめね。まだまだ弱い自分が抜け切れていないわ」

ランジュ「……でも。弱いランジュを知る侑には、少しくらい寄りかかってもいいわよね……?」
 
60: (もも) 2022/12/22(木) 05:12:35.44 ID:MMmTtJ3e
▲桜坂邸▲

しずく「ふぁ……」チャプン

 浴槽に浸かる。
 今日の出来事の全てが溶けて無くなっていくようだ。

スイ「お風呂は気持ちいいねぇ……しずく」

しずく「そうだねぇ……」シミジミ

スイ「ねぇ、しずく」

しずく「んん……?なにぃ?」

 浴槽に浸かっているからか。
 自分でも驚くくらい間の抜けた声が出る。

スイ「ぶっちゃけさ」

しずく「んー?」

スイ「侑先生のこと、好きでしょ」

 頭を思いっきりハンマーで殴られたような衝撃。

しずく「──は」

しずく「は、は、はあああああああああああッ?」ザバンッ

しずく「な、なにを……。何を言ってるのかな……?スイ」

 折角気持ちよくお風呂を堪能していたというのに。
 なにを突然……爆弾を投下してくれるんだ。この娘は……!

スイ「いや。ハッキリさせた方がいいかなって。それに、恋バナしてみたかったし」

 恋バナがしたい。ただそれだけでこの娘は……。

しずく「もうっ……。侑先生のことは、その……アレだよ」

スイ「あれ?」

しずく「あの……。気に入っては、いるかもね?」

 なんでだ私……なんで疑問符を付けたんだ私……。
 
61: (もも) 2022/12/22(木) 05:14:21.14 ID:MMmTtJ3e
スイ「濁すねぇ。それが好きってことなんじゃあないのかい?」

しずく「だ、だって……。不完全な私が恋をするだなんて……。もっとずっと先だって思ってたし……。分からないよ……」

スイ「なるほどね」

しずく「それに。まだ侑先生と会って一か月しか経ってないんだよ?いくら何でも早すぎるというか……」

 うん。そうだ。いくらなんでも一か月しか交流のない人を好きになるなんてそんな……。だってもしそうだとしたら……。

スイ「やれやれ。しずく。君はいくつの演劇、映画、小説、漫画を経験してきたんだい?恋は気づいたら落ちているものなんだよ?」

 こ、このぉ……。この娘は全く……。得意げに言ってぇ……。

スイ「それに、さっきから言ってるそれだよ」

しずく「それ……?それって何?」

スイ「『侑先生』だよ。自覚無かったのかい?」

しずく「え、あ、嘘。あ、私……高咲先生のこといつの間にか『侑先生』って言ってた……」アゼン

 気づかなかった。いつの間にか高咲先生から侑先生になっていた。
 でも、一体いつ?いつ変わったんだ……?

しずく「──あ。もしかしてかすみさんに影響されて……?そ、そうだよ。そうに違いない……」ブクブク

 かすみさんはいつも侑先生のこと侑先生って言ってるし。って、また侑先生って侑先生のこと言ってるし……。ああもうっ!!

スイ「まぁ。かすみのことをかすみさんって言うのは『かすかすかすかす』言ってたからなんだろうけど……」

スイ「侑先生、って言いだしたのは、しずくが高咲先生の秘密を知った後だよ」

しずく「え……。って、なんでそんなこと覚えて……」

 秘密を知った後?
 秘密を知った後の私と言えば……。

スイ「そう、しずく。君は高咲先生の秘密を知って『嬉しかった』んだよ」

しずく「……」

 そうだ。確かにそれはそうだ。

スイ「気になっていた相手の秘密を知ることができて舞い上がってしまった。それで呼び方が変わってしまった。ふふっ。なんだろうね。可愛いと思うよ」フフッ

しずく「ぬ、ぐぬぬ……」

 なんだろう。スイに得意げに言われるとなんだかムカムカする。

スイ「加えて言うなら部長に関してもだ」

 部長?なぜ今部長が出てくるんだ?
 
62: (もも) 2022/12/22(木) 05:15:51.91 ID:MMmTtJ3e
スイ「部長には色々と危ない匂いがしたとはいえ、部長に秘密を打ち明けなかった最大の理由。それはさ」

スイ「『独占欲』に他ならないんじゃあないのかい?」クスッ

しずく「──」

 ど、どどどどどど独占欲……!?
 脳がパニックになって様々な思いと感情が流れていく。
 私。侑先生にそんな感情を持ってるの……!?
 まだ一か月そこらしか会っていない先生に!?
 ちょっと演劇の常識を変えてくれた人で!?
 ちょっと話しているとなんだか楽しくなる人で!?
 ちょっと秘密を知った瞬間舞い上がっちゃうような人で!?

しずく「あ、あわわわわわわわわわ……」

スイ「ちょ、ちょしずく……!?」

スイ(うわ!表面に出ていけなくなった!感情が爆発して私の入る余地がないんだ!)

しずく「そ、そんなのって!!」ザバーン

 勢いよく浴槽から立ち上がる。

しずく「わ、私は!!」

 思いっきりシャワーの温度調節のハンドルを下に回す。

しずく「私はそんなっ!!」

 そしてシャワーを全開で出す。

しずく「私はそんなちょろインじゃないっっっっっ!!」シャワワワワ

 頭を冷やすように。
 極寒のシャワーが体を襲う。

スイ(ぎゃあああああああああ!!冷たい冷たい冷たい!!)

スイ(素面の私にこの極寒地獄はヤバいって!!)

スイ(やばいやばいやばいやばい!!風邪!!風邪引いちゃうよ!!)

スイ(ごめんってしずく!!ああもう聞こえてない!!早く元に戻ってしずくううううううう!!)

しずく「ちょろインじゃない!ちょろインじゃない!ちょろインじゃないもおおおおおおん!!」

 その後、私は普通に風邪を引いた……。
 
63: (もも) 2022/12/22(木) 05:17:25.43 ID:MMmTtJ3e
▲桜坂邸▲

しずく「ごほっごほっ……。うぅ……まさかこんな間抜けな風邪の引き方をするなんて……」

スイ「体を共有してるんだからさ。体調管理はしっかりして欲しいもんだね」

しずく「……スイが全面的に悪いよ」

スイ「ご、ごめんなさい……。静かにしてます……」シュン

 はぁ。本当に間抜けなことをしてしまった。
 学校を休んだことなんて無かったのに。皆勤賞とはこれでオサラバだ。

しずくの母「しずく?大丈夫?」

 不意に。お母さんから声が掛かった。今日は珍しく休日の日だ。
 なのに私の看病をして貰って……申し訳ない気持ちが強い。

しずく「うん。大丈夫だよ。今日休めば治ると思う」

しずくの母「そう?これ、食べられるだけ食べてね?」

 お母さんはそう言ってお粥を近くに置いてくれた。正直に言うと食欲はほとんどない。
 でも。

しずく「うん。ありがとう。風邪が移るといけないから、あんまり部屋にいない方がいいよ」ニコッ

 そう言って繕う。

しずくの母「うん。お大事にね」ガチャ

しずく「……ふぅ」ドサッ

 さて、どうしようかな。このお粥。食べるにしてもせいぜい二割くらいしか食べられそうにないや。

ピンポーン

 遠くの方でインターホンの鳴る音が聞こえた。誰だろう。お父さんは仕事だし、お母さんのお客さんかな?

しずくの母「しずく」ガチャ

しずく「あれ。どうしたの」

しずくの母「あなたにお客さんよ」

しずく「え……」

 お母さんはややビックリした表情を浮かべている。
 無理もない。私は交友関係が広く浅い。特定の人と親密になることは殆ど無かったし、風邪を引いた時お見舞いに来る人もこれまでゼロだ。

しずく「もしかして……」

 侑先生……?
 そう思うと同時に、胸が高鳴る。
 こんなに興奮しちゃだめなのに。だめだけど……期待してしまう。


ガチャ


しずく「!!!!」
 
64: (もも) 2022/12/22(木) 05:19:05.78 ID:MMmTtJ3e
かすみ「はぁ~い!みんなの可愛い風紀委員っ!かすみんの登場ですよ~っ!」

しずく「……」

しずく「……」

しずく「……」

しずく「……よく来てくれたね。かすみさん。ありがとう」ニコッ

かすみ「反応にっっっぶ!体感一分くらい間があったよ!?」

 あぁ。全く。何を期待していたんだ。
 というか。かすみさんにも失礼な態度を取ってしまった。謝罪しよう。

しずく「ごめんなさい。かすみさん。ちょっとまだ調子が戻ってなくて。だいぶ良くはなったんだけどね」

かすみ「あ、そうだよね。ごめん。私、ちょっとテンション上がっちゃって……」シオシオ

しずく「テンション?」

 私が聞き返すと、直前まで目を伏せていたかすみさんが途端に顔を上げる。

かすみ「うんっ!だってしず子の家ちょ~豪邸じゃん!庭も広いしよく分かんない銅像とか置いてあるし!それに毛並みのいい犬もいるし!」キラキラ

 そう言ってかすみさんはキラキラと目を輝かせる。

かすみ「あ、ごめんね。またテンション上がっちゃった」テヘッ

しずく「いいよ。別に」

 家のことや、愛犬のオフィーリアを褒められるのは悪い気がしない。
 かすみさんは視線を私のお粥に移した。

かすみ「あ、これお粥?」

しずく「あ、うん。そうだよ」

かすみ「へぇ~。豪邸でもお粥はお粥なんだね~。ちょっと意外というか」

しずく「夢を見過ぎだよ……。私食欲ないからさ。かすみさんが食べちゃってもいいよ?」

 お粥は未だに湯気が立っている。まだまだ美味しく食べられるだろう。

かすみ「えっ!だめだよしず子!早く治すためにはきちんと食べなきゃ!」ズイッ

しずく「えぇ。でも食欲ないし……」

かすみ「だめだって!」

 拒否しているのに、尚もかすみさんは食い下がる。
 ……ちょっと面倒になってきた。早くお帰りになって貰った方がいいかもしれない。

かすみ「だって……。一緒に修羅場をくぐった仲間でしょ?私たち」

しずく「……え」
 
65: (もも) 2022/12/22(木) 05:20:45.13 ID:MMmTtJ3e
かすみ「え、じゃないよ。あんなことがあったんだもん。体調を崩すのもしょうがないよ」

 体調を崩したのは……。黙っておこう。

かすみ「私はあの時、侑先生に抱き着いて心が落ち着いたけど、しず子はその分抱き着けなかったでしょ?だから、しず子が風邪を引いた原因はかすみんにもあるの」

かすみ「だから黙って、かすみんにお世話されなさい!」

 仲間……?
 たったあれしきのこと……。いや、あれしきのことではない。
 あんなことがあったんだ。かすみさんの中で大きく何かが変わったのは間違いない。

かすみ「それに、しず子は侑先生を取り合うライバルだからね。仲間でライバル。いい関係じゃん!」

しずく「え゛」

 とんでもない言葉が飛び出して変な声が出てしまう。
 侑先生を取り合うライバル……?
 これは……。

かすみ「かすみんにあれだけ食って掛かるってことは、しず子もそうなんでしょ?」フフン

しずく「え、あ……ち、ちがうもん……」

かすみ「ま。どれだけ否定したっていいけどね。ほら、しず子食べて」スッ

 レンゲに少量のお粥が乗っている。私に食欲がないと分かっているから、少量しか乗っけていない。そこに、かすみさんの優しさを感じる。

しずく「……うん。あ~ん」

 これは断っても無理そうだと判断し、私は素直に口を開けた。それに、侑先生の話をこれ以上続けるのは恥ずかしかったし……。

かすみ「あ~ん。うんうん。いっぱい食べてねっ」

 私がもぐもぐと咀嚼していると、かすみさんの表情がぱぁっと明るくなる。
 かすみさんは……とても分かりやすい。喜怒哀楽、全てが分かりやすい。
 それに、こうして私に見せる素直な優しさ。その優しささえも分かりやすい。
 かすみさんは……いい人だ。とても、とてもいい人だ。
 そう思うと、かすみさんから貰うお粥が特別なものに見えて。

しずく「んっ……」モグモグ

かすみ「な~んだ。食欲がないって言ってたけどたくさん食べるじゃん!」ニコッ

 あれだけ無いって思ってた食欲が嘘のように、簡単にお粥を平らげてしまった。

かすみ「うんうん。それだけ食べられるなら大丈夫そうだね!」ニコッ
 
66: (もも) 2022/12/22(木) 05:22:16.03 ID:MMmTtJ3e
 眩しい。
 かすみさんの笑顔が眩しい。どうしてそれほどまでに感情をストレートに伝えられるのだろう。なぜそこまで強い自信を持つことができるのだろう。
 どうして。
 ここまで優しいのだろう。
 私は、それを聞くのはなんだか怖かった。他人の心の奥底に触るようで。
 でも、溶接されてしまったかのように閉ざした口を、私は無理やり開けた。

しずく「ね、ねぇかすみさん。どうして今日お見舞いに来てくれたの……?」

かすみ「え?」

 つい、聞いてしまった。
 修羅場を潜り抜けた仲間だとか、侑先生のライバルだとか。かすみさんの根底には別の動機があると感じた。

かすみ「そんなの……決まってるじゃん」

しずく「……なに?」

 かすみさんは少し言いにくそうにしながらも口を開いた。

かすみ「しず子が心配だったから。当たり前じゃんっ」

 やや頬を赤らめつつも、かすみさんは言い放った。

しずく「……そっか。ふふふっ。ありがとう。かすみさん」

 動機は、至極当然のことだった。
 風邪を引いた人がいて心配だったから。そう。それだけだ。
 それだけ。だけど、それができるかすみさんがひどく眩しい存在に思えた。

しずく「かすみさん」

かすみ「なに。しず子」

しずく「これからもよろしくね」ニコッ

かすみ「あはは。何言ってるの突然。まぁ、よろしくね。しず子」ニコッ

ピンポーン

 と、かすみさんと笑い合ってすぐ、またインターホンが鳴った。
 これはもしかして……。

……
…………

侑「やあしずくちゃん。調子はどうかな?」

 侑先生だった。いつも通りの明るい笑顔。自然と、胸が高鳴る。

しずく「はい。お見舞いに来てくれてありがとうございます。侑先生」ニコッ

 嬉しい。
 じんわりと温かさな気持ちが昇ってくる。その気持ちをそのまま笑顔に乗せる。
 
67: (もも) 2022/12/22(木) 05:24:44.37 ID:MMmTtJ3e
かすみ「しず子。しず子」ヒソヒソ

 というところで、かすみさんから耳打ちされた。

しずく「なになに」コソコソ

かすみ「侑先生にあ~んしてもらえなくて、残念だったね。ぐふふ」

しずく「……も、もうかすみさんったら……」

侑「え、なに二人で内緒話して。私も混ぜてよw」

かすみ「ふっふ~ん。秘密ですよ~?」

侑「えぇ!気になるなぁ……」

 ……。
 なんだか不思議な気持ちだ。
 間抜けな理由で風邪を引いてしまって沈んでいた気持ちが、いつの間にか無くなっている。
 むしろ、かすみさんと侑先生が同じ空間にいて、嬉しい気持ちが大きい。

しずく「ふふふっ。かすみさん、侑先生。お見舞いに来てくれてありがとうございます」ニコッ

 そう言って笑う。
 その笑顔は、記憶にある中で一番素直に笑えたような、そんな気がした。

▲桜坂邸近くの河原▲

侑「ほいよっと!」

 ぽーんとボールを投げる。

オフィーリア「わふんっ!」

 それを、しずくちゃんの愛犬であるオフィーリアが上手くキャッチする。
 オフィーリアはそのボール咥えてぶんぶん尻尾を振って私に持ってくる。実に可愛い。

侑「おぉ。グッドボーイグッドボーイ。あれ、ガールだっけ?ヨシヨシ」

 私は今、近くの河原でオフィーリアと遊んでいる。
 しずくちゃんたっての希望だった。
 自分は風邪でオフィーリアと遊べないから、どうかオフィーリアと遊んで欲しい、とのことだった。私としてはアニマルセラピーを受けて癒されたい気持ちもあったので、二つ返事で承諾した。
 かすみちゃんは他に用事があるとのことで先に帰った。

侑「忙しいのにしずくちゃん家に来るなんてかすみちゃんは優しいよねぇ」ナデナデ

オフィーリア「わうんっ!」ゴロゴロ

侑「おー、そっかそっかぁ。そうだよねぇ。かすみちゃんは優しいよねぇ」

 オフィーリアを撫でると何とも癒される。
 オフィーリアは実に人懐っこい性格をしている。こうして撫でれば、深い毛並みで指が沈み手触りがいいし、尻尾をぶんぶん振って感情を表すのは何とも愛らしい。

侑「ほーれ。取ってこーい」
 
68: (もも) 2022/12/22(木) 05:26:25.26 ID:MMmTtJ3e
 またボールを適当に投げる。
 私は筋肉が付きにくい体質なので、遠投はまず無理だ。なので遠くに投げたつもりでも、すぐにオフィーリアは取ってくる。もうちょっと筋肉付けたいんだけどなぁ……。
 ボールを追いかけるオフィーリアを見つつ、私は河原を眺めた。
 もうすぐ夕日が沈む時間帯。夕暮れとか黄昏時とか。そんな風に言われる時間。
 周囲には散歩に来ているカップルとか、野球のような遊びをしている小学生の軍団が見える。う~ん平和だねぇ……。

オフィーリア「わぉおんっ!!」フリフリ

侑「おおっと。もう戻ってきたのかい。早いねぇ。グッボーイグッボーイ。後でしずくちゃんに性別聞かないと……」ナデナデ

 どれ、もう一回!
 とボールを投げかけた瞬間。

小学生A「うわあああああああああああ!!」

 小学生の悲鳴が聞こえた。
 すぐに悲鳴の発信源に振り向くと、近くの川で溺れている小学生がいた。
 助けに行かないと。
 体はすぐに動いた。

侑「って、オフィーリア!?」

 私の隣をオフィーリアも走っていた。これは、オフィーリアも救出に一役買ってくれるのだろうか……。
 と思った矢先、しずくちゃんから言われたことを思い出す。

──
しずく『侑先生。一つご注意です。オフィーリアは地面を走るのは大得意なんですが、泳ぐのは不得意なんです』

しずく『ないとは思いますが、オフィーリアを泳がせたりだとか、そういう遊びは控えてくださいね』
──

 冷や汗が背中を伝う。
 ま、まずいっ!!

侑「オフィーリア!君の正義感は尊敬する!でも泳ぐのはだめだよ!ステイステイ!!ステイだよオフィーリア!!」

オフィーリア「わおおおんっ!」キリッ

 私の言葉を『よし!一緒に頑張ろう!』という風に受け取ったのか、オフィーリアはキリッとした表情で返事をする。

侑「あわわわわわわ!!」
 
69: (もも) 2022/12/22(木) 05:28:11.46 ID:MMmTtJ3e
 どどどど、どうしよう。オフィーリアにここにいるよう言っていたら、小学生はどんどん流されて行ってしまう。

侑「く、くそぅ……。腹を括るしかないのか……。小学生もオフィーリアも、全部助けてやらぁ!!」

 半ば自棄になりながら私は叫び、川へと飛び込む。
 小学生は首より上だけ水中から出し、酸素を求めて両腕をバタバタさせている。
 少し遅れて、オフィーリアも着水する。

小学生A「だ、だれか……わぷっ、た、たすけ……ゴホッゴホッ!」

 苦しそうに喘ぐ小学生の様子に気が逸るが、努めて冷静でいることを心掛ける。

侑「大丈夫!君は助かる!お姉ちゃんに任せて!」

 大声で叫ぶ。こんなの何ともない、心配することはないと、勇気付けるように叫ぶ。
 私は小学生を片腕で抱きしめる。そしてゆっくりと岸へと向かう。
 よし……。ここまでは順調だ。でも、引き上げるのが大変そうだ。

オフィーリア「わふんっ!」

 オフィーリアの声が聞こえる。そういえばオフィーリアは、と視線を向けると、そこには上手に犬かきするオフィーリアがいた。
 オフィーリアの泳ぎが下手……?これのどこが下手なんだろう。
 オフィーリアは巧みな犬かき捌きで小学生の救助を助けてくれる。

侑「……。よし。オフィーリア、一旦その子は任せた!」ザバッ

 小学生の支えを一瞬だけオフィーリアに任せる。オフィーリアの目には『任せろ!』という意志があった気がした。
 一瞬で岸へと上った私は、まず小学生の両腕を持って一気に引っ張った。筋肉が無いので全身の筋肉を連動させた引き揚げ方だ。

侑「ぐぁ……ッ」

 先日痛めた腕に鋭い痛みが走る。これは……悪化したな……。

小学生A「ゲホッ……ゲホッ……。あ、ありがとう、お姉ちゃん……」

 よし。何とか小学生は引き揚げられた。

侑「オフィーリア!次は君だ!よしよし。そのまま一気に……おりゃ!!」

 腕の痛みは無視し、小学生同様にオフィーリアも引き上げた。
 オフィーリアは小学生よりも若干体重が軽かったので、引き揚げは少し楽だった。
 ぶるるっ、とオフィーリアは水気を飛ばす。私にも引っかかるが気にしない。

侑「大丈夫?怪我とかない?」

 とりあえず。目立った怪我がないか小学生に確認する──
 
70: (もも) 2022/12/22(木) 05:30:14.95 ID:MMmTtJ3e
……
…………

侑「ふーっ。何とかなって良かったねオフィーリア」

オフィーリア「わぅんっ!」フリフリ

 その後。一緒に遊んでいた小学生が集まって感謝を伝えてくれた。ちゃんと感謝の言葉が言えることに、行き届いた教育を感じた。
 私が助けた子は、フライを取ろうとした結果、後ろで流れる川に気づかず転落してしまったらしい。河原で野球をするときは、きちんと周囲を見ようね!と先生らしいことを言っておいた。

侑「それにしても……。オフィーリア。君は泳ぎが下手だったんじゃないのかい?」

オフィーリア「わう?(え?そんなことないっスよ※侑の妄想※)」

侑「しずくちゃん曰く、君は泳ぎが下手らしいじゃないか!」

オフィーリア「わうわう!(それは心外っスね……!この通り、俺は泳げるっスよ!)」

侑「じゃあなんでしずくちゃんは君が泳げないと思ってたの?」

オフィーリア「わうぅんっ!(もしかしたら、昔の俺のままで印象が固定されてるのかもしれないっスね)」

侑「え?昔の印象?ふむ……。ってことはつまり、オフィーリアは泳ぎが下手だったけど、泳ぎが上手になったってこと?」

オフィーリア「わるるるん!!(そういうことっスよ!今の俺の泳ぎを、お嬢に見て貰いたいっスね!)」

侑「なるほどなぁ……。いつか見せられるといいねぇ」

オフィーリア「わん!(俺はいつでも準備万端っスよ!!)」

侑「よしよし。頑張れオフィーリア」

 という。
 益体もない妄想を広げつつ、オフィーリアと私はしずくちゃんの家に向かった。
 ってか。なんとなく『っス』口調で妄想してたけど、高貴な家のオフィーリアにはミスマッチだったかなぁ……?

……
…………

しずくの母「え、オフィーリアが川へ?」

侑「はい。申し訳ありません。愛犬を危険に晒してしまって」ペコリ

 私は素直にしずくちゃんのお母さんへ謝罪した。泳ぎが不得意と言われていたのに川へ飛び込むのを止められなかったこと。そして川へ飛び込んだことでオフィーリアが汚れてしまったこと。そんなことを謝罪した。

しずくの母「あぁ。頭を上げてください。オフィーリアは外で遊びまわるのが好きな子ですし、そういう状況なら仕方がありません」
 
71: (もも) 2022/12/22(木) 05:32:36.91 ID:MMmTtJ3e
侑「はい。ありがとうございます。結果的に、お母様のお言葉に甘える形になってしまって申し訳ないです」

しずくの母「ふふっ。その歳でずいぶん真面目なんですね」

侑「ははは。ありがとうございます」

 ふぅ。良かった。ぶち切れられるのも覚悟していた。それに、ここまでの豪邸を建てられる人を怒らせたら私の教師生活が……とも思っていたが杞憂だったようだ。

しずくの母「確か。しずくの担任の先生で演劇部の顧問もしていらっしゃるんですよね?」

侑「そうですね。毎日新鮮な体験ばかり目まぐるしいです」

しずくの母「楽しそうで何よりですね。高咲先生みたいな素敵な先生なら、安心してしずくを預けられます」

侑「恐縮です」

しずくの母「それでは、高咲先生。玄関口で話すのもあれですし、とりあえずお風呂に入ってはいかがですか?」

侑「え。いいんですか?」

 これは僥倖だ。正直どぶ臭い中帰るのは嫌だった。

しずくの母「えぇ。勿論です。それでは、タオルと替えの服をご用意しますね」

侑「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」

 豪邸のお風呂……。もしかしてマーライオンとかいるのかな……。私がウキウキしながらお風呂へ行こうとした時。

しずくの母「──オフィーリアに水泳を教えた甲斐があったわ」

 そんなしずくちゃんのお母さんの言葉が聞こえた。
 私はその後、慎ましやかだけど高価そうな調度品のあるお風呂場を堪能して帰った。マーライオンは、流石にいなかった。
 しずくちゃんは薬を飲んで寝ているそうだし、早くよくなるといいなぁ。

▲学園内劇場ホール▲

侑「やあしずくちゃん。調子はどう?」

しずく「あ、侑先生っ。お疲れ様です!」

 次の日。しずくちゃんは風邪が治って普通に登校していた。
 でも、流石に声出しは自重しているようで、今日は演劇部の活動を鑑賞することに決めたらしい。

侑「あれ?そういえば部長さんは?」

 キョロキョロと見渡すが、部長が見当たらない。

しずく「今日はなんだか用事があるらしく、演劇部に来るのが遅れるそうです」

侑「へぇ。また演劇に関することかな?」

しずく「どうでしょう。演劇に一意専心の部長のことでしょうから、その可能性は高そうですね」

侑「あ、何の用事とかは言ってないんだ」

しずく「色々とミステリアスな人ですから」

侑「確かに」

しずく「侑先生もある意味そうですよ」ボソッ

侑「ん?なんか言った?」
 
72: (もも) 2022/12/22(木) 05:34:15.60 ID:MMmTtJ3e
しずく「いえ。特に何も」ニコッ

侑「そっか。それじゃあ稽古を鑑賞しよっか」

しずく「はいっ」

 今日は部長が不在、と。
 う~む。前後即因果の誤謬、ではないけど、ちょっと気になっちゃうよね。

▲廊下▲

かすみ「えぇと。今日はこの後何するんだっけ」

 風紀委員の仕事は多岐に渡る。
 毎日しなければならない仕事もあるし、急に入ってくる部同士の仲裁とか、やるべきことはたくさんだ。
 でも、可愛い学校づくりの為には大事な仕事。面倒くさいと感じることもあるけど、重要な仕事だから手は抜けないよね。

かすみ「確か……。生物飼育部から、他の生物を飼うために部室を拡張したいって要望だっけ」

かすみ「十中八九生徒会で棄却されるだろうけど、一応見ないとね」

 部室で飼ってる動物達も見たいし。
 そう思うと、自然と足が速くなる。

部長「──風紀委員の中須さん」

かすみ「ぴゃあっ!」

 唐突に話しかけられてビックリした。
 振り向くと、そこには……確か演劇部の部長さん?がいた。

かすみ「ど、どうしたんですか?今って演劇部の稽古中じゃないんですか?」

部長「あぁ。そうだよ。ちょっと中須さんに用事があってね」

 風紀委員ではなく私に用事?なんだろう。

かすみ「なんですか?今から生物飼育部へ行くので用事は早く済ませたいんですが……」

部長「ごめんね。じゃあ手っ取り早く聞くけど、大倉庫での一件で高咲先生に何かなかった?」

かすみ「え。侑先生に何か、ですか?」

部長「うん。気になったこととか、不思議に思ったこととか。なんでもいいんだ。聞かせて欲しい」

 そんなことなんで演劇部の部長さんが知りたいんだろう?
 あれ。そういえば確か、侑先生って代理の演劇部顧問だっけ。じゃあ担任じゃなくても繋がりはある、と……。

部長「少々、高咲先生が気になっていてね」

 侑先生が気になっている……。
 はっ!もしや……!
 
73: (もも) 2022/12/22(木) 05:35:57.58 ID:MMmTtJ3e
☆かすみん脳内お芝居☆

しずく『ふっふ~ん♪』

部長『あれ、しずくどうしたの。ずいぶんご機嫌だね』

しずく『んふふ。あ、ぶちょ~。実はちょっと困っちゃったことがあってぇ♪』

部長『どうしたんだい?』

しずく『実はぁ~♡侑先生に私、助けられちゃったんですぅ♡』

部長『え……』

しずく『こう、迫りくる柱の数々を一瞬で捌いて、私にかかる苦難をぜ~んぶ退けてくれたんですよぉ♡』

しずく『かっこよかったなぁ、あの時の侑先生っ♡すきすき侑先生♡』

しずく「それにきっと、侑先生も私のこと大好きなんだろうな~♡はぁもう困っちゃうなぁ。あぁ、困った困った♪」

部長『し、しずく……』ググッ

部長(高咲先生は、私が狙ってたのに……!!)

☆かすみん脳内お芝居終了☆

 そっか。部長さんも侑先生のことが好きなんだ。全く、モテモテで困っちゃうね。私のナイト様は。
 しず子にマウント取られて悔しくなっちゃったんだね……。

かすみ「う~ん。でも。私としず子は同じ体験をしたはずですからねぇ。しず子以上のことは聞けないと思いますよぉ?」

部長「……。なるほど。それもそうか。でも、何でもいいんだ。何か一つでも気になったことがあれば聞かせて欲しい」ズイッ

かすみ「うっ……」

 部長さんの目力、めっちゃ強い……。
 でも気になったことって言ってもなぁ……。私は侑先生に抱き着いてただけだし……。あーあ、もう一回抱きしめてなでなでしてくれないかなぁ……。
 あ、そういえばあの時……。

かすみ「そういえばあの時確か……」

部長「おや、何か気づいたかい?」

かすみ「はい。確か侑先生、あの出来事の後右腕を抑えてたんですよね。チラッとしか見てなかったので確証はないんですが、たぶんあの時、腕を痛めたんだと思います」

部長「……ほう」

かすみ「まぁアレだけのことがあって、腕を痛めるくらいで済んだのはよかったのかもしれませんね。不幸中の幸いって奴です」

部長「なるほど……」

かすみ「どうですか?」

部長「ふふっ……。これは良いことを聞いた」ボソッ
 
74: (もも) 2022/12/22(木) 05:37:26.80 ID:MMmTtJ3e
かすみ「え?」

部長「あぁいや。心配だと思ってね。今日の授業中とかどうだったんだい?」

かすみ「う~ん。そういえばいつもより板書が少なかったような……。そんな気がしないでもないですねぇ……」

部長「なるほど。ありがとう中須さん」

かすみ「はい。あまりお役に立てそうもない情報でしたけど」

部長「いいや。十分過ぎる情報だったよ」ニコッ

 そう言って部長さんは笑顔を見せた。
 その笑顔はなんだか、狩猟を行う寸前の猛禽類を思い出させた。

部長「これは忙しいところをお邪魔したことへの迷惑代、とでも思って欲しい」スッ

かすみ「え?これは……」

部長「これは高級中華料理屋のコース無料券だよ。場所は路地裏の奥にあって分かりづらいけど味は保証するよ」

かすみ「えぇ!!そんなの貰っちゃっていいんですか!?」

部長「勿論。風紀委員の大事な職務を邪魔してしまったわけだしね。これくらいの返礼は当然だろう?」

かすみ「そ、そう言うのなら……。ありがたく受け取っておきます」スッ

 高級中華料理屋……。
 頭の中では北京ダックとか麻婆豆腐とか、あのくるくる回るお皿とか、そんなイメージがポヤポヤ浮かんだ。

部長「三人分あるし、誰かと一緒に行くのもいいかもしれないね」

部長「期限は明日まで。それで、今日は定休日だ。明日の夕食になんかどうかな?」

かすみ「わわっ。ほんとだ。期限あと少ししかないじゃないですか。危ない危ない」

部長「ふふ。私は用事があって行けないからさ、ちょうど良かったよ」

かすみ「はいっ!ありがとうございます!」

部長「こちらこそ。それじゃあ、またね。中須さん」スタスタ

かすみ「はい。また……。また?」

 何はともあれ。明日は北京ダックを食べまくりの会を実施ですね……!
 うおおおおおおおお。フカヒレとかも出るのかな?食べたこと無いし楽しみ!!

かすみ「るんるん♪」

 その後私は、生物飼育部から「ヨシキリサメ」を育てたい!という要望があったが、丁寧に断った。
 
75: (もも) 2022/12/22(木) 05:39:05.00 ID:MMmTtJ3e
▲高級中華料理屋『珠宝』周辺▲

かすみ「こんなところに本当にあるんですかぁ……?」ビクビク

しずく「う~ん。でも隠された名店ってフィクション作品にはよくあるし、逆に『らしい』のかも」

かすみ「しず子は漫画の読み過ぎだよ!」

しずく「なっ!漫画より演劇とか映画の方がよく見てるもん!」

かすみ「そういうことじゃなーいっ!」

侑「まぁまぁ。仲がたいへんよろしいのはいいことなんだけど、誘ったのはかすみちゃんでしょ?場所分からないの?」

かすみ「いやぁ……。この路地を右に行って、謎のドラム缶が三つあるところを左に、そして黒猫のフィギュアがあるところを直進して──」

しずく「何その道案内──」

かすみ「えぇ。引かないでよぉ」

しずく「──ワクワクするね!」

かすみ「……。しず子が楽しそうで私は嬉しいよ」

侑「ま。場所が分かってるならいいよ。それに、何かあっても私がどうにかするから安心してね」グッ

かすみ「ゆ、侑先生~♡ナイト様ですぅ♡危ないから手、握りましょ!」ギュッ

しずく「ああッ!!」

 しずくちゃんがとんでもない目でかすみちゃんを睨む。こわい。

侑「やれやれ。甘えん坊だねぇ……。ほら、しずくちゃんも」サッ

しずく「え……っ。いいんですか……?」

 これはいわゆるリスクヘッジという奴。勿論そんなことは臆面に出さず、私は笑顔で伝える。

侑「もちろん。でも路地裏でちょっと道幅狭いし、嫌ならいいけど」

しずく「い、いえっ!お言葉に甘えさせていただきます!」ギュウッ

侑「ん~。いいねこれ。これが両手に花って奴だね!」ホクホク

かすみ「かすみんが両手を握ってもいいんですけどね。でもしず子にもおすそ分けしてあげるよ!かすみんは余裕のある女だからね」
 
76: (もも) 2022/12/22(木) 05:40:45.20 ID:MMmTtJ3e
しずく「はいはい。そういうことにしてあげる」

しずく(……侑先生の手。思ったより硬いけど、温かくて頼もしいな……)ドキドキ

侑「あの、しずくちゃん。そんなニギニギされるとちょっと恥ずかしいというか……」テレテレ

しずく「ああっ。すみませんついっ」

かすみ「むふふ。しず子もやるねぇ……」ニヨニヨ

しずく「……くっ」

侑「ははは。三人だとこんな道でも楽しいねぇ」

 そう言いつつ、私は周囲の警戒を止めない。
 しずくちゃんの言う通り、隠れた名店というのは確かに存在する。でもそれはヤクザとか極道とか、あっち系の人が常連と言う場合も多い。今回ももしかしたらそうかもしれない。
 でも、高級中華料理屋の『珠宝』。この店名には引っかかるところがあって……。

かすみ「あっ!見えました!あそこですよあそこ!!早く行きましょう!かすみんおなかぺっこぺこだおう!」

しずく「だおう……?」

 かすみちゃんの指差す先には、虎が描かれた絵に『珠宝』という看板が見えた。

侑「虎、ね……」

 予感は的中していた。
 そしてこれから少しひと悶着あるんだろうなと考え、私は気を引き締めた。

▲高級中華料理屋『珠宝』▲

 私たち三人は無料券を三人分見せ、案内されるがままに席に着いた。
 二人はなんだかお店の内装に圧倒されているっぽい。

かすみ「ひえ~~……。なんだか気後れしちゃいますねぇ……」

しずく「確かに。内装が豪華っていうか……ちょっと奢侈だし。豪華絢爛ってこんな感じなのかな」

侑「まぁすぐ慣れるよ。料理を食べに来たんだし、そっちを優先しよう」

かすみ「そ、そうですね。うおおおお!北京ダックを食い散らかしますよぉ!」メラメラ

しずく「食い散らかすって……。もしかしてかすみさん、北京ダックってあの大きなお肉をそのまま食べると思ってる?」

かすみ「え?違うの?漫画肉みたいな、そんなお肉じゃないの?」キョトン

しずく「えぇとね。北京ダックって大体皮の部分しか食べないんだよ」
 
77: (もも) 2022/12/22(木) 05:42:26.66 ID:MMmTtJ3e
かすみ「えぇ!!嘘!!あんなに大きいのに皮だけしか食べないの!?それって勿体なくない!?」

しずく「うん。薄いお餅みたいな生地に、野菜とかお肉とか入れて食べるの。でも、残ったお肉はどうするんだっけ」

侑「残ったお肉は別の野菜炒めとかに使われるよ。流石にあのまま捨てるのは勿体ないからね。ちなみにそういう使われ方をするのは広東式って言って、お肉の部分を最初から食べる北京式ってのもあるんだよ」

しずく「あ、そうなんですね。なんだか慣れている様子ですけど、侑先生って中華料理に詳しいんですか?」

かすみ「確かに。さっき店員さんに中国語?で話かけてましたよね?」

 う。見られてたのか……。まぁ別に隠すことじゃないし……。

侑「中華料理に詳しいというか、大学時代、中国に留学してた時期があってね。そこでまぁ……色々とね」

 うん。嘘は言ってない。色々と、に、色々と様々、多種多様な意味を持たせたけど!

ランジュ「そうね。侑の大学時代にランジュと会ったのよね」ガタッ

侑「あぁうん。いやぁ、あの時のランジュちゃんと出会ったせいで色々と苦労を……って。うわあっ!!」ビクッ

 びっくりした。ランジュちゃんに縁のある店だとは思ってたけど、まさか表に姿を現すなんて……。

かすみ「え、だ、誰ですかこの人……」

ランジュ「そういうあなた達は誰よ?」

かすみ「げっ。なんだか厄介そうな匂いがします……」

しずく「かすみさん!ちょっと失礼だよ!」

 かすみちゃんを諫めると、しずくちゃんは姿勢を正し笑顔になった。

しずく「すみません。自己紹介が遅れました。私は桜坂しずくです。侑先生が担任をしている生徒です」ニコッ

 う~む。営業スマイル全開だ。
 唐突に現れて場の雰囲気をぶち壊したランジュちゃんが間違いなく悪いんだけど、しずくちゃんはランジュちゃんが『ヤバい人』って気配で分かったのかな?営業スマイルだけど、こめかみに薄っすら汗が滲んでるよ。

ランジュ「そう。しずくね。侑が世話になってるわ。鐘嵐珠よ。覚えておきなさい」

しずく「はい。頭に叩き込んでおきます」ニコッ

かすみ「ひぃん。なんだか空気が怖いですよぅ侑先生~」
 
78: (もも) 2022/12/22(木) 05:44:16.88 ID:MMmTtJ3e
 かすみちゃんが涙目で抱き着いてくる。

侑「ヨシヨシ……怖くないよぉ。それでランジュちゃん、どうしたの。あ、それとこっちは中須かすみちゃん。しずくちゃん同様、私の生徒だよ」

ランジュ「そう。かすみ、鐘嵐珠よ。頭に叩き込みなさい」

かすみ「は、はいぃ……」ビクビク

ランジュ「ここへ来た理由は侑がいたから。ただそれだけよ」

侑「まぁそうだよね。ランジュちゃんって思い立ったがすぐ行動!って感じだもんね」

ランジュ「ふふん。行動力があるといいなさい」

かすみ「て、いうかっ!ランジュさんは無料券持ってないのにいいんですか!?無いとしてもお金を支払えるんですか!?」

ランジュ「無問題ラ。この店の支配人はランジュよ」

かすみ・しずく「え゛」

侑「……。まぁそういう訳だよ。ランジュちゃんがここで登場するのは予想外だったけど、悪い子じゃないから仲良くしてあげてね」

ランジュ「なによ侑。その言い方」

侑「二人はいい娘だからさ。ランジュちゃんとも仲良くして欲しいと思ってね」

ランジュ「全く。変わらないわね。それで、しずく、かすみ」

かすみ「な、なんですか……?」

 かすみちゃん。なんだか警戒している猫みたいでちょっと可愛いな。

ランジュ「どっちが侑の女なの?それともどっちも?」

 とんでもない爆弾を投下してきた。猫みたいで可愛いとか言ってる場合じゃなかった。

侑「ランジュちゃん!それは言っちゃあいけないことだよ!私と二人は先生と生徒なんだよ!?」

ランジュ「そう?粉をかけるのが早い侑のことだから、手籠めにしてるもんだと思ってたわ」

 何でもないことのように言い放つランジュちゃん。くっ、まるで悪気はないんだろうな。本当に純粋な質問なんだろうな。
 だからこそ一層質が悪い!!

かすみ「かすみんは、侑先生の女でも……」

しずく「わ、私は……」

ランジュ「あっちは満更でもない感じだけれど?」

侑「──」

 嘘。嘘やん。なにこの修羅場。ランジュちゃん、君と関係を持ってから苦労も絶えないし飽きないけど、これは不味いよぉ。

ランジュ「ちなみに。侑はランジュの女よ」

 ……。こ、こいつはぁ!!

侑「そこまでだランジュちゃん!!これ以上はだめ!!」

 暴走特急ランジュは止まる気配がないっ!!
 
79: (もも) 2022/12/22(木) 05:45:59.12 ID:MMmTtJ3e
しずく「侑先生……」ジトッ

しずく(同性に好かれそうとは思っていたけど、ここまでとは……)

侑「い、いやあの……」アセアセ

 なんでこんなに焦らなきゃならないんだ!私は何も悪くないのに!
 くそぅ!かすみちゃんから高級中華って聞いてからひと悶着あると思ってたけど、私が予感してたのはこんなことじゃない!
 教師の薄給では食べられない高級中華に釣られたのが間違いだったかな!?

店員「北京ダックデス」スッ

侑「うわぉ!!なんてベストタイミング!謝謝!!」

 まだ付け出しのザーサイとかに一切手を付けてないけど!
 北京ダックで流れを変えよう!!

侑「よ、よ~し。ランジュちゃん!本場の北京ダックの食べ方見せちゃって!」

かすみ「えぇ!かすみんもっとランジュさんと侑先生の話聞きたいですぅ!」

ランジュ「ふふん。それもいいけど、まずは腹ごしらえよ!!」

 ランジュちゃんの目がキラキラしている。ランジュちゃんがお肉好きでよかった……。

侑「よ、よ~し。はいみんな手を合わせて~いただきますっ!!」

かすみ・しずく「い、いただきます!」パンッ

ランジュ「う~ん。やっぱり絶品ね!!」バクバク

侑「肉と野菜を取って包むまでが早すぎる!神業だ!!」

かすみ「これ。どれだけ塗ればいいんですかね」ベットリ

しずく「わわっ。かすみさん!それは甜麵醬だよ!つけすぎるとしょっぱくなり過ぎちゃう!!」

かすみ「しょっぱい!!でも美味しい!!」

……
…………

 私たちはコース料理を余すことなく堪能した。

かすみ「ふーっ……。美味しかったです……。満腹でもう動けませんよぉ……」ニコニコ

しずく「よかったねかすみさん。私もちょっと食べすぎちゃった」

かすみ「でも、やっぱり辛かったなぁ……」ポンポン

ランジュ「あれくらいで辛いなら、本場の中国料理なんて食べられないわね」

かすみ「え゛これって本場の中華料理じゃないんですか」

ランジュ「『本場の中国料理』よ。かすみ」

しずく「あぁ、そういえば聞いたことがあります。中華料理は日本人の舌に合わせた中国料理で、中国料理はアレンジとかせずそのままだとか」

ランジュ「そうね。まぁ一概にも言えないのだけれど」

侑「本格四川料理とかはもうヤバいね。喉の奥から火炎放射が出るんじゃないかってくらい辛かったよ……」
 
80: (もも) 2022/12/22(木) 05:47:44.60 ID:MMmTtJ3e
ランジュ「ランジュからしたら、日本の中華料理の辛さは少し足りないわね」

かすみ「だから食べる前に辛そうなスパイスかけてたんですね……」ゲンナリ

侑「ま。確かにここの料理も結構辛かったけど、それ以上に旨味があったね」

しずく「そうですね。唇がまだヒリヒリしていますけど、食欲が止まりませんでした」

かすみ「うぅ。かすみん辛すぎて水を飲みすぎちゃったぽいです。ちょっとお花摘みに行ってきますね」

しずく「大丈夫かすみさん?私も付いていくよ」

かすみ「ありがとうしず子……」スタスタ

侑「気を付けてね」

……
…………

侑「あの、二人がいないから聞くけどさ。ここっていわゆる……」

ランジュ「えぇ。ランジュのフロント企業よ」

侑「あぁ……。やっぱり。う~む。これで私はうら若き乙女を裏社会に関わらせてしまったのか……」

ランジュ「ここに来るんだもの。多少は予感くらいしてたでしょ?」

侑「まぁ、そうだね。後悔とかはないよ。微塵もね」

ランジュ「ふふっ。侑のそういう清濁併せ吞むところ、好きよ」

侑「ありがとう」

ランジュ「それで侑。学園生活はどうなの?」

侑「そうだねぇ。人前で授業をするのは緊張したけど、最初だけかな。慣れればそう大したことじゃないね。ただまぁ、虹ヶ咲は色々と規格外な所があるからさ。そこは毎日新鮮かな」

ランジュ「そう。今って英語を教えているのよね」

侑「うん。大学時代飛び回ったおかげでマルチリンガルだからね。ピアノ以外に特技があってよかったよ」

 私がそう言って笑うと、ランジュちゃんはやや沈痛な面持ちになった。

ランジュ「ランジュは……。侑はあのまま音楽教師をやると思っていたわ」

侑「……まぁ。そうだね。でもやっぱり、一度教師の道を諦めちゃったからさ。色々日和っちゃった」

ランジュ「教師をやれるだけ重畳ってことかしら」

侑「まぁ……」

ランジュ「でも。あなたから音楽を取ったら一体何が残るの?」

侑「……」

 相変わらず痛い所を突くなぁ。そこがランジュちゃんのいい所なんだけど。

ランジュ「あの時は一度諦めた教師をもう一度目指した。それだけで満足したわ。でも、もうあれから随分時が経ってる。それでもまだ、音楽はだめなの?」

 射貫くような視線。ランジュちゃんは昔からずっと変わらない。ずっと、強い信念を湛えた美しい瞳をしている。
 私は、そんなランジュちゃんに応えるように、視線を外さず口を開く。
 
81: (もも) 2022/12/22(木) 05:49:55.52 ID:MMmTtJ3e
侑「……あのねランジュちゃん。実はさ、ピアノ。もう一度弾けるようになったんだ」

ランジュ「え」

 思い出すのは演劇部の顧問となった初日。
 ただ、軽い伴奏をすればいいと思っていた。でも、私と調和してくれた相手がしずくちゃんで、虹ヶ咲学園の中でもしずくちゃんは規格外だった。

侑「最初は軽い気持ちだった。本気でピアノを弾くんじゃなくて、軽く弾く気持ちだった。でも、いつの間にか引っ張られてた。いつの間にか私は、前と同じように弾けていたんだ」

 そういうと、ランジュちゃんはバツが悪いように視線を外す。
 なんだか瞳がうるんでいるような感じさえする。

ランジュ「そう……。やっぱりランジュじゃ役者不足ってことね……」

侑「え……」

 自嘲気にランジュちゃんは笑っていた。

ランジュ「一度閉じた侑の蕾を再び開いたのはどっち?かすみ?しずく?」

 それでもランジュちゃんは二の句を継いだ。
 だから私も、ランジュちゃんに正直でいようと思った。

侑「しずくちゃんだよ。私の弾く伴奏に、しずくちゃんは演技で応えたんだ。あの日惹かれた歌声に対して、私が伴奏で応えたように。『調和』、したんだ」

 正直な気持ちを全て、口にした。

ランジュ「……そう。良かったわね、侑」

 ランジュちゃんは笑った。たまに見せる弱気な笑顔だ。それはあまり、私が見たくない笑顔でもある。つい、いつものように抱きしめたくなる衝動に駆られる。

ランジュ「やめて侑。慰めはいらないわ」

侑「……そうだね。ごめんランジュちゃん」

ランジュ「侑。あなたに言いたいことは一つだけよ」

侑「……なにかな」

 ランジュちゃんは姿勢を正し、再び射貫くような視線で私を見た。

ランジュ「私は本当の意味で侑の力にはなれないのかもしれない。けれど、侑が何をしようと、どれだけのことをしようと、ランジュはランジュのままよ」

ランジュ「だから、侑の信じる道を行きなさい」

侑「……うん。ありがとうランジュちゃん」

 ランジュちゃんは変わらない。今も昔も。変わってしまうのは恐らく私だ。ランジュちゃんが私を裏切ることはないけど、私は分からない。
 でも、私がランジュちゃんをたとえ裏切ったとしても、ランジュちゃんはきっと変わらないんだろうな、とも思う。我ながら、最低なことを考えていると思う。

侑「でもランジュちゃん、一つだけ訂正させて」
 
82: (もも) 2022/12/22(木) 05:51:51.76 ID:MMmTtJ3e
 だからせめて、ランジュちゃんには伝えようと思った。

侑「私が教師を諦めなかったのは、ランジュちゃんのおかげなんだよ。私の力になれないだなんて、そんなことはないよ。絶対にね」

ランジュ「……。言葉だけ、受け取っておくわ」

 互いに本音をぶつけた。でも、ランジュちゃんの言う通り、互いの言葉が本当の意味で届くことはないのかもしれない。それは他人にはどうしようもない、主観的な部分だからだ。
 私とランジュちゃんの間には、やや変な空気が流れる。この空気をどうしよう、と数秒思案していると。


ブルルルルルル


 唐突に、ズボンのポケットからスマホが震えた。
 私は努めて冷静に、スマホをタップする。

侑「はい。もしもし」

部長『やあ、高咲先生。私のプレゼントした中華料理は美味しかったかい?』

 演劇部部長の声だ。
 SNSアプリの通話機能から掛けているらしい。

侑「うん。ありがとう部長さん。少し辛かったけど美味しかったよ」

部長「おや?あまり驚いていないね。今がどういう状況か、分かっていないのかい?しずくと中須さんがいないだろう──」

侑「──いいよ、御託は。そっちに行ってやるからさっさと場所を言いなよ」

 今度はむしろ、苛立つような感情を声に乗せる。

部長「ふふっ……。そんな冷たい声も出せるんだ。役者になれるよ高咲先生」

 愉快そうな部長の声が聞こえる。

侑「……」

部長「分かったよ。じゃあ場所をLINE経由で送るよ」

部長「勿論、応援なんか呼ばないでよ?二人がどうなっても知らないからね」プツッ

侑「ふぅ……」

 心臓の鼓動は……うん、正常なリズムを刻んでる。頭も混乱してないし、煮えたぎるような激怒に支配もされていない。
 普段通りの私だ。

侑「ランジュちゃん、じゃあ私行ってくるね」

 行き先を特に言わないまま、自然な感じでランジュちゃんに告げる。

ランジュ「そう。じゃあ、また会いましょう。近いうちに」
 
83: (もも) 2022/12/22(木) 05:53:33.76 ID:MMmTtJ3e
侑「そうだね。それじゃあ……」

ランジュ「えぇ。状況開始と行くわよ」

 私たちは同時に動き出した──
 と思ったら。

ランジュ「そうそう。これを言い忘れていたわ」

侑「ん?」

 なんだろう。何かあったっけ。

ランジュ「右腕の負傷」

侑「あ」

 あ、やばい。食事中の所作で右腕の負傷がバレていたんだ。前電話した時は無傷って言っちゃったけど、結果的に嘘が露見した!

侑「あ、あの……これには深い事情が……」

ランジュ「いいわ。今は言わなくて」

ランジュ「今度は二人でゆっくり食事をしましょう?」

侑「う、うん!勿論だよ!」

ランジュ「それじゃ、再見、侑」

侑「またね!ランジュちゃん!」

 私たちは二手に分かれた。

▽珠宝▽

店員?「お客様、お手洗いはこちらとなっています」

かすみ「あ、はい。うぅ、胃薬が欲しい……」

しずく「大丈夫?かすみさん」

 私たちは店員さんに言われるがまま、珠宝の奥へと進んでいく。それにしても、この店員さんは日本語が流暢なんだ。

店員「一度、お外へ出ていただきます」

かすみ「え、外ですか」

店員「はい。ではこちらへ」スタスタ

しずく「……?」

 奇妙な違和感が払拭できないまま、私たちは店員さんに追従していく。
 違和感があろうと、私たちはここではアウェイ。新しく来る場所で私は気圧されていた。

しずく「そういえば……」

 なんとなく。ふと気づいたことをかすみさんに聞いてみる。

しずく「あの無料券ってどうやって入手したの?」
 
84: (もも) 2022/12/22(木) 05:55:07.39 ID:MMmTtJ3e
かすみ「え?あぁ。しず子には言ってないんだ」

 私には言ってない?なんだか胸が嫌な拍動になる。

かすみ「演劇部の部長さんから貰ったんだ。三人分。ちょうど今日までが期限だったからさ、ちょうどよかったんだよね」

しずく「──」

 不味い。
 鳥肌が一気に立つ。

しずく「かすみさん……!」

店員「──妙な真似はするな」

しずく「う……」

かすみ「え……」

 突然、店員さんが豹変した。
 やってしまった。違和感は確かにあったのに。高級中華料理屋のトイレが外にあるなんて普通に考えたらおかしい。
 私は初めて来た場所ってことで認識を緩めていた。
 分かってたのに……ッ。

店員「下手に騒げば……ほら、後ろにも仲間がいるぜ?」

 チラッと後ろを振り向けば、続々と体格のいい男たちが姿を現していた。

かすみ「えっ……えっえ……」

 かすみさんは状況が理解できないようで混乱している。
 なんとか。なんとかかすみさんだけでも……。

男「妙な真似はすんなって言ったろ」

 店員……いや男は、上着の中からナイフをチラつかせた。そしてその仕草が、脅しではないことを私は理解していた。

かすみ「ひっ……」

しずく「はい……。大人しく付いていきますから、手荒なことはしないでください」

男「あぁ……『今は』しないでおいてやるよ」

 私にできるのはこれが精いっぱい……。

▽とある廃工場▽

 私とかすみさんは、男に言われるがまま付いていき、到着したのはとある廃工場だった。大方の機械はすでになく、鉄パイプや一斗缶等が転がっている。
 寒々しい空気が、場に流れていた。

部長「やあ、しずく、中須さん」

 そこには部長が立っていた。悪い予感はしていた。そして外れていて欲しいとも思った。でも、目の前にあるのが事実だった。

かすみ「ど、どういうことですか……?」

 依然としてかすみさんは理解が追い付いていないのか、体を震わせている。

しずく「部長。一応言っておきますが、助けにきてくれた、って訳じゃないんですよね」

部長「ふふっ。希望的観測はやめなよしずく。あるはずがないだろう?」

 至極面白そうに、部長はクツクツと笑う。
 
85: (もも) 2022/12/22(木) 05:56:50.39 ID:MMmTtJ3e
部長「全く。しずくが悪いんだよ?本当はこんなことをする予定じゃなかった」

 芝居がかった仕草で部長は言う。苛立ちが沸々と出てくる。しかし、一先ず部長との会話を試みるのが先決だ。

しずく「一体何の目的で私たちを誘拐したんですか?」

部長「ふむ。そうだね。とりあえず会話をしようか」

部長「と、その前に」ピポパポ

 部長はスマホを取り出して電話を始めた。よく聞こえないが愉悦に歪んだ表情を見るに楽しい会話では無さそうだ。

部長「高咲先生が来るまでの余興だ。私のしずくへの思いの丈。それを聞いてもらおうじゃないか」

 部長は両手をバッと広げる。過剰な演技、芝居に見えるので分かっていてやっているのだろう。

部長「私はね、しずく。君を非常に買っているんだ。どんな役を演じようと、君は難しい表現に挑戦する姿勢を崩さない。向上心の塊だよ」

部長「そして、演技の幅が広い。幼い少女の役から杖を付く老婆の役まで、その役柄はとても広く、人物への理解も深い」

部長「私はしずくに出会って驚いたよ。ここまで自らに役を憑依させられる人間がいるんだって」

部長「そして気になった。ここまで役を降ろせる秘密はなんだろうってね」

 まさか。まさか部長は……気づいて?
 心臓の鼓動が早くなるのを感じる。動悸が激しくなる。

かすみ「しず子……大丈夫?顔、青いよ?」

 かすみさんが自らの不安を押し込み、私へ心配そうな顔を見せる。こんな時でも、かすみさんは他を優先できるんだ……。

しずく「ぶ、部長。それ以上は……」

部長「今は黙ってくれしずく。まだ私の出番は終わっていない。人の芝居の邪魔をするだなんて、役者失格だよ」

男「黙って聞け」

 男の低い声が私を強張らせる。
 気分が最悪だが、聞き役に徹するしかない。

部長「そう。それでいいんだよしずく」

部長「それから……。私はしずくの人間観察を始めた。しずくが一年生の頃からずっと、しずくの秘密を追い求めた」
 
86: (もも) 2022/12/22(木) 05:58:25.16 ID:MMmTtJ3e
部長「演劇の中の姿だけじゃない。友人との会話、私生活に至るまで。徹底的に観察したんだ。こういうのをストーカーと呼ぶのかもしれないね」

部長「それで気づいたんだよ」

部長「しずくが『演技をしていない時間なんてない』ってね」

しずく「──」

 嘔吐しそうになる。でも、必死でそれを抑える。

かすみ「しず子っ!?大丈夫!?やめてよ部長さん!!どんな恨みを持ってるか知らないけど、しず子は悪い子じゃないよ!!」

 かすみさんが優しく背中を撫でてくれる感覚がある。でも、今はこの優しさが辛い。

部長「心外だな。私はしずくを尊敬こそすれ、恨みなんてないよ。いや……。今は少し軽蔑しているかもね」

かすみ「え……?」

部長「まぁそれはいいよ」

部長「しずくは常に演技をしている。友人と接する時は『友人A』を。演劇部員と関わる時は『部員A』を。劇の中では『村人A』とか『少女A』とかかな」

部長「それで分かったんだ。しずくには、『自分がない』ってね」

しずく「……」

 知られた。知られてしまった。
 私には、私がないことを。
 一体いつ?いつ看破された?

部長「しずくの中には『自分』が存在しない。『自分』がないのなら、どんな役にもなることができる」

部長「つまりしずくは『底知れない器』なんだよ。何でも詰め込めるし、何でも演じることができる」

部長「複数の役を演じなければならない役者にとって、これほどの天稟はそうないだろうね。クク……あはははははは!!」

 なぜ。なぜそうも楽し気に笑うことができるんだろう。
 私のコンプレックスを、楽し気に抉ることができるんだろう。
 いつの間にか、私は膝をついて項垂れていた。
 しかし、そんな私の隣で、かすみさんが毅然と立ち上がった。

かすみ「黙って聞いていれば……ペラペラペラペラ意味の分かんないことを!!」
 
87: (もも) 2022/12/22(木) 06:00:02.60 ID:MMmTtJ3e
 項垂れる私の隣で、大きな声が聞こえる。

しずく「かすみさん……?」

かすみ「『底知れない器』だとか『自分』がないとか!色々言ってるけど!そんなことないよ!!」

 吠えるかすみさんは、私の為に声を荒げてくれている。鉛が詰め込まれたように重い私の胸の中が、じんわりと熱くなっていく。

かすみ「私の知ってる桜坂しずくは!侑先生が本当は大好きなのに!それを認めない頑固なところがあるし!なかなか侑先生にアプローチできないヘタレなところがあるし!」

かすみ「でも……。ありがとう!って感謝を伝えるときだけは素直なの!!しず子は私の大好きな親友だよ!」

かすみ「それを……部長さんの勝手な妄想で、しずくを決めつけないでよ!!」

しずく「かす、みさん……あ、あれ……?」ポロポロ

 いつの間にか、私の目からは熱いしずくが流れていた。
 顔が熱い、胸が熱い、全身が熱い。かすみさんの私への感情が、一気に私に流れ込んでくる。
 ふと、部長を見ると、苦々しい表情を張り付け、射〇さんばかりにかすみさんを睨みつけていた。

部長「……あぁ、全くだ。全く、全く持って忌々しいよ。中須かすみ。そして高咲侑」

しずく「……?」

 なぜここで侑先生の名が出るの?

部長「──しずくは変わった。変わってしまった。役を演じる『しずく』から、ただの『しずく』へ。こうして普通に涙を流し、頽れているのが証拠さ」

部長「具体的に何でそうなったのかは分からない。けれど、君は演じない『桜坂しずく』として接することができるようになっていったんだ」

部長「でも……でもそれじゃあ!!『底知れない器』じゃない!『自分』ができてしまえば、何でも詰め込める器では無くなってしまう!!」

部長「全ての役を演じられて、音楽も書き割りも全て脇役にさせるような!!圧倒的な役者になんかなれっこない!!」

部長「私は……そんな今のしずくを認めない。心底軽蔑してるよ」
 
88: (もも) 2022/12/22(木) 06:01:38.92 ID:MMmTtJ3e
 そんなことを……。部長は考えていたんだ。

しずく「……そう、なんですね。部長」

かすみ「大丈夫?しず子」

しずく「うん。ありがとうかすみさん」

 私はゆっくりと立ち上がる。
 足には、力が入る。手にも、力が入る。力なく頽れる桜坂しずくは、もう振り払った。
 私は元々何もない存在だったかもしれない。けれど、そんな私をかすみさんと侑先生は変えてくれた。
 何もなかった『しずく』を変えてくれた。
 もう、大丈夫だ。私にはこの胸の中に燻ぶる熱い想いがある。侑先生への大きな恋心、そしてかすみさんへの多大なる友情。
 それさえあれば、十分だって思えた。それを感じられること、それ自体が『しずく』のいる証明だと感じられた。

部長「ちっ……。中須かすみを連れてきたのは間違いだったか」

しずく「部長」

 私は揺るぎない覚悟で部長と対峙する。

しずく「役者としての私に、そこまでの可能性を感じてくれたこと。感謝しています」

しずく「ですが、部長の望む私にはなれそうもありません」

部長「……しずくッ!!」

しずく「私の中には、こうして『私』がいます。『私』が生まれてしまった。それだけは揺るぎようのない事実なんです!!」

 そう言い放つと、部長は目を伏せる。
 暫しの沈黙。それを破ったのは目が据わった部長だった。

部長「……そうかい。まぁいいよ。そんなこと、今は些末な問題さ」

部長「元より以前のようなしずくへ自然に戻ることなんて期待してない。だからこうして場を設けさせて貰ったんだ」

部長「しずくの中にいる『しずく』を徹底的に犯して、穢して、壊し尽くして。もう一度真っ新な『桜坂しずく』に戻ってもらうためにね」

 部長が手を上げる。それに従い、周囲にいた男たちが私とかすみさんへジリジリとにじり寄る。
 男と私たち二人の距離はゆっくりとだが、確実に近づいていく。

しずく「……ありがとうね。かすみさん」

かすみ「え……」

 自然と、私の口からはかすみさんへの感謝の言葉が出ていた。
 
89: (もも) 2022/12/22(木) 06:03:17.57 ID:MMmTtJ3e
しずく「私の友達になってくれて。私の親友になってくれて」

 部長と対峙する覚悟はさっき決めた。今は、かすみさんを逃がすことだけを考えろ。

しずく「私が突破口を何としても切り開く。相手の喉笛を嚙みちぎってでも、かすみさんを絶対に逃がすよ。だから、安心して」

 そういうと、かすみさんは悲愴な表情へと変わる。

かすみ「だ、だめだよしず子!!帰るなら一緒に帰らなきゃ!!」

しずく「大丈夫だよ。かすみさん」

 私はそう言って微笑みかける。

しずく「私の中には、かすみさんから貰った熱い気持ちがあるから」

しずく「だから、行って!かすみさん!」

 そう言って私は男たちへと駆け出す。
 怖いという感情は無かった。けれど、やり残したこと、伝えていない想い。そんな全てが私に後ろ髪を引かせる。でも、今はただ、私の大切な人の為に動く──


侑「──そこまでだよ」


 その時。
 私の目に映ったのは。私の想い人その人、高咲侑先生だった──

▲廃工場▲

侑「そこまでだよ」

 案内された場所は廃工場だった。
 中には両手の指じゃ足りないほど体格のいい男たちがいた。かすみちゃんとしずくちゃん。そして一番奥には演劇部の部長がいた。

侑「全く、手間をかけさせてくれるね。部長さん」

部長「……高咲先生、そこで止まって。少しでも動けば……」

 部長が軽く手を上げて男たちに指示をすると、男たちは上着からナイフや警棒等、武器を取り出した。

部長「これが二人に突き刺さるよ?いいね?」

侑「……分かったよ。かすみちゃん、しずくちゃん」
 
90: (もも) 2022/12/22(木) 06:04:52.29 ID:MMmTtJ3e
かすみ「は、はい!」

しずく「侑先生……っ!」

 かすみちゃんは明らかに狼狽えている。私が来たことへの期待、そして来てしまったことへの不安。その両方が見て取れる。
 しずくちゃんの方は……。私が来てしまったこと。その絶望感の方が強いようだ。
 だから。

侑「大丈夫だよ。二人とも。安心して。必ず無事に送り届けるから」ニコッ

 そう言って、自信満々に笑って見せた。

部長「いつまでその余裕な面が続くかな……?」

 部長は苛立ちを隠せないように、ヒクヒクと笑っていた。だいぶイライラしているらしい。私が来る前に色々あったのだろう。
 まぁ、後で聞けばいいだけの話だ。
 事を進める前に、部長には一つ確認しなければならないことがある。

侑「ねぇ部長さん。一つだけ聞きたいんだけどさ。いい?」

部長「……。言ってみなよ」

侑「私の前任の顧問の先生。あの怪我を負わせたのも部長さんだね?」

部長「……。ふふふっ。まさかそこもバレるなんてね」

しずく「え……ッ」

 しずくちゃんは驚愕の表情を浮かべる。無理もない。

部長「ま、単純に邪魔だったんだよ。あの人は演劇にとても熱い人だ。だからこそ、私とよく衝突した」

部長「『私の演劇部』に、熱のある先生なんていらなかったんだよ」

侑「やれやれ……。演劇部は君の王国じゃないんだよ?」

部長「黙れ!あそこは私の演劇部だ!あそこは私の王国なんだ!!」

侑「王国て……。本当に言っちゃったよ」

部長「ああ、もう黙れ……。これから一切口を開くな」

 射〇さんばかりに睨まれる。これ以上煽ると本格的にどうなるか分からない。素直に黙っておこう。

部長「そう。それでいいんだ。ねぇ、しずく。どうして私が高咲先生をここへ呼んだか分かるかい?」

しずく「え……?」

部長「君の体をズタズタに壊すのに、一番有効な方法は何か、私は考えた。複数の男から屈辱を与えられること。これもいい」

部長「でも、『今のしずく』にとって、一番の有効打は……高咲先生を壊すこと。それに他ならないよねぇ……?」ニヤァ

 部長は口を三日月にし、恐ろしいほど口角を上げた。

しずく「……ッ!だ、だめです!そんなこと!絶対だめです!!」

 しずくちゃんは絶叫する。何が起こるか瞬時に理解したのだろう。

部長「止めろ」

しずく「だめ!!だめ!!侑先生!!そこから早く離れて!!」
 
91: (もも) 2022/12/22(木) 06:06:22.85 ID:MMmTtJ3e
 しずくちゃんはこちらへ駆け寄るが、男に止められる。それでも尚、しずくちゃんの絶叫は止まらない。

部長「動くなよ。高咲先生。動いたらしずくがどうなっても知らないよ」

侑「分かってるよ。何をするか分からないけど、早くしてね」

 そう、嘯く。

しずく「だめ!!だめェ!!侑先生!!!!」

侑「大丈夫だって。安心して。しずくちゃん」ニコッ

部長「その右腕で、どこまでこれを捌けるかな……!?食らえ高咲侑!!しずくの生贄となってもらう!!」

 そう叫び、部長はポケットから出したリモコンを押す。部長の視線は私の直上、繋がれた太い鉄骨に向いていた。
 直撃すれば間違いなく死ぬ。部長もなかなかに後先を考えない人だ。頭に血が上り過ぎている。

侑「……」

しずく「……!!」

 ぐちゃぐちゃに潰された私の肉塊がそこには、あるはずだった。
 けれど、鉄骨が落ちる轟音も、肉の潰れるような音も、何もしなかった。
 何も、起こらなかった。

部長「……?なんだ?なんで、何も起こらない……?」

 場には、静けさだけが残る。
 恐らくあのリモコンを押せば、私へ鉄骨が落ちてくる仕組みだったのだろう。
 そして私は大怪我か、死ぬ結末を迎え、しずくちゃんは心に大きな傷を負う、と。そういう筋書きだったのだろう。
 それにしても、私が右腕を負傷していることに気づくとは、部長もなかなか洞察力がある。

部長「なんで、なんで落ちない!!なんでだよ!!」

 部長は地団駄を踏んで何度もリモコンを押していた。
 周囲の男たちも困惑しているのか、顔を見合わせたりしている。場に流れる主導権が、部長では無くなった。
 なるほど。
 今だね。

侑「ランジュちゃん」

 私は呟くようにただ一言。ランジュちゃんの名を呼ぶ。

ランジュ「好啊ッ!!」

 瞬間、ランジュちゃんが突然空中から登場する。
 
92: (もも) 2022/12/22(木) 06:07:49.18 ID:MMmTtJ3e
男「な……ッ」

ランジュ「反応が鈍いわ、ねッ!」

 着地した時の勢いそのままに、ランジュちゃんは男たちに襲い掛かる。
 まずはかすみちゃんとしずくちゃん近くの男たちを。
 独特な中国武術から繰り出される拳と蹴り。男たちはなす術なくランジュちゃんに意識を奪われていく。
 とはいえ、多勢に無勢という言葉はある。いくらランジュちゃんが強いとはいえ、この二桁代の人数は少し分が悪いかもしれない。

侑「よおしっ。私も参戦、っと!」

 私はランジュちゃんの背後から襲い掛かろうとした男に目を付ける。
 男は警棒を振り下ろそうとしているので、それが届かないよう男の足を踏む。

男「うお……ッ」

 男は転ばないように前に足を出す。前に出そうとした男の足を払い、軽く背中を押してやる。すると男は、顔面から地面に叩きつけれた。これが崩し、というものだ。

ランジュ「行くわよ侑!」

侑「うん!後ろは任せたよ!」

ランジュ「えぇ、暴れまくるわ!!」

 私の声に明るく返事をするランジュちゃん。獰猛な獣の如きギラついた瞳で、周囲を睥睨している。
 ランジュちゃんは前へ、前へと積極的に相手に殴りかかる。
 私は後ろ、後ろへと後退しつつ、受動的に相手の力を利用していく。

ランジュ「どうしたのよ!そんなモノ?まだまだ熱が足りないんじゃないの!?あはははははは!!」

 ランジュちゃんの哄笑が後ろから聞こえる。ランジュちゃんはこうして相手を煽り、相手から怒りのままに振るう攻撃を誘発する。感情の赴くままに振るわれた拳ほど、回避し易いものもなく、お手頃なカウンターの餌食になるものもない。

侑「ふふっ。なんだか懐かしいねランジュちゃん」

ランジュ「あはははははっ!!最近はフラストレーションが溜まっていたから、一気に発散できるわ!!たまらないわね!!」

 ランジュちゃんと一緒にいた留学時代は、よくこういう修羅場に巻き込まれた。あれから時は結構経過しているけれど、私とランジュちゃんのコンビネーションは未だに健在だ。

侑「よーし!このまま全滅コースだ!」

ランジュ「好啊!侑!」
 
93: (もも) 2022/12/22(木) 06:09:23.18 ID:MMmTtJ3e
……
…………

 そうしてちぎっては投げの攻防の後は、地に伏せた男たちがいた。死屍累々という奴だ。これくらいの練度なら、ランジュちゃん一人でも十分戦えたかもね。
 未だ、数人の男たちとランジュちゃんは交戦しているが、明らかに男たちの戦意は削がれている。好戦的な笑みを向けられ、楽しそうに暴力を振るわれるんだもん。そりゃあ無理もない。
 部長は目の前で起こっていることを理解できないのか、理解したくないのか、棒立ちになっていた。しかし、ようやく理解したのか、ゆっくりと口を開く。

部長「……嘘、だ」

部長「嘘だ嘘だ嘘だ……!!くっ……高咲ィ……お前さえ、お前さえいなければ!!」

 部長は私の名を絶叫しながら突撃してくる。手には懐から取り出した漆黒のナイフが握られていた。
 錯乱・混乱している人間の攻撃は、ひどく単調になる。それは間違いないが、頭のリミッターが外れていることもあり、火事場の馬鹿力を発揮されることもある。
 私は半身になって慎重に部長を迎え撃つ。

部長「死ねェ!!高咲ィ!!」

 その場で私が動かないと悟ったのか、部長はナイフで切るのではなく、そのまま刺すことを選んだらしい。まさにそれを、誘っていた。
 息を吐き、集中を深くする。
 すると、部長の動きがどんどんスローモーションに見えてくる。体感時間が遅くなり、部長の筋肉の機微さえも手に取るように分かる。鍛えた動体視力、そして深い集中力が織りなすことで得た世界だ。
 錯乱しているとはいえ、部長は一人の人間だ。心臓は鼓動をやめないし、呼吸だってやめない。それは、瞬きも同様だ。
 部長の瞼が一瞬だけ閉じる。
 その間隙を縫い、私は部長の盲点となる場所まで移動する。

部長「……!?」

 部長には、一瞬の間に私が消えたように思っただろう。とはいえ、一秒にも満たない間に、もう一度部長は私を視界に捉える。
 だが、そのゼロコンマの隙、それだけで私には十分過ぎる。
 部長の突撃してくる勢いを利用し、私は部長の手首を取る。軽くひねると、痛みで思わず部長はナイフを落とす。

部長「がぁ……ッ」
 
94: (もも) 2022/12/22(木) 06:10:48.76 ID:MMmTtJ3e
 そのまま部長の足を払い、地面へと転がす。受け身を取れない部長は硬い地面に叩きつけられ、悶絶していた。
 私は部長の持っていた漆黒のナイフを拾い、それを突き付けた。

侑「チェックメイトだよ。部長さん」

部長「ぐぅ……ッ。クソックソォ……」

 一先ず、これで場の大方は制圧できた──

……
…………

ランジュ「全く、杜撰な計画ね」

 ランジュちゃんは最後の男に膝蹴りをかました後、そう呟いた。

部長「ず、杜撰……だと!?クソッ!!リモコンさえ正常に作動していれば、せめてしずくの心だけでも……!!」

ランジュ「そこが杜撰って言ってるのよ。もしかして、リモコンが起動しなかった原因が偶然だと思ってるの?おめでたい頭ね」

部長「な、なに……?」

ランジュ「少し前に、侑から相談を受けていたのよ。怪しい人物を調査してくれってね。まさか調査の途中に、うちの店に来るとは思わなかったけど」

部長「な……ッ!?」

ランジュ「これは好機だと思ったわ。行動を誘発させるために、わざと人目に付きにくい場所であるここの無料券を渡したのよ。事に及ぶなら、人目に付きにくい場所、と考えるのは普通よね」

ランジュ「まさか本当に今日、行動するとは思っていなかったわ。ちょっと浅慮が過ぎるってものね」

部長「す、全て、お前らの手の平の上ってことだったのか……」

 部長はそう言って、立ち上がろうとした腕の力を抜いた。

ランジュ「──所詮、素人ね。上手く行き過ぎていることに疑問を感じず、それを自分の力だと過信し陶酔する」

ランジュ「ランジュの舞台を彩る悪役としては、及第点にも届かないわ」

部長「……くそッ……。くそおっ!!」
 
95: (もも) 2022/12/22(木) 06:12:21.05 ID:MMmTtJ3e
……
…………

ランジュ「侑、コイツの処分は私に任せて」

 ランジュちゃんはピクリとも動かなくなった部長を指してそう言った。

侑「処分て。まさか溶鉱炉に落とすとかじゃないよね?」

ランジュ「そんな面倒なことしないわ。悪いようにはしない。それだけは約束するわ」

 まぁ、ランジュちゃんがそこまで言うならいいかな。正直この後どうしようか迷ってたし。

ランジュ「二人を連れて表の世界に帰りなさい」

侑「うん。後は任せるよ」

ランジュ「えぇ。任されなさい」

侑「じゃあ、帰ろうか。二人とも」

かすみ「は、はい……」

 かすみちゃんはパニックを起こしているのか、口数少なく返事をした。変に大騒ぎされるよりいいけど。

しずく「……。すみません侑先生。部長に、最後に一言言ってもいいですか……?」

 しずくちゃんは何かを決意した表情でそう言った。

侑「え、う~ん」

 今の部長と接してプラスになることって少ないと思うけど……。でも、しずくちゃんの意志は固そうだ。その意志を尊重しよう。

侑「分かったよ。武器は没収したとはいえ、気を付けてね」

しずく「はい……ッ」

 しずくちゃんは部長へと真っ直ぐ歩く。

しずく「部長」

部長「……しずく」

しずく「こんな状況で何ですが、正直に言うと、私は部長に感謝していました」

部長「ふっ……今さら何を」

しずく「全て、本心です」
 
96: (もも) 2022/12/22(木) 06:13:56.36 ID:MMmTtJ3e
しずく「『自分』が無かった私は、それだけで不安でした。だから望まれる演技をして、その場を凌いでいました」

しずく「相手が望んだように演技をすれば相手は喜ぶ。でも、私の中には何も残らない。そんな日々がこれからずっと続いていくんだと思っていました」

しずく「でも、そんな空っぽの私に価値を見出してくれたのは部長、あなたです」

部長「……」

しずく「『自分』のない私が普通に振る舞えるよう、変な子って言われないように身に着けた演技でしたが、部長はその演技を、演劇の楽しさに変えてくれました」

しずく「部長の指示で私が演じた時、私は演じる楽しさに気づいたんです」

しずく「空っぽの私そのものが人に求められて、確かに嬉しかったんだと思います」

しずく「だから、ありがとうございました。部長」

部長「……。ふっ。いいのかい?しずく。こんな最低な人間に感謝なんかして」

部長「私はしずくの演技に深みを与える為、という意味も含めて、心が壊れるような経験をさせようと考えていたんだよ?」

部長「没義道を歩むが如く所業をしたんだよ?しずくの心なんて一切考えていない。独善的で自分本位なことしか考えていない。それでも私に──」

しずく「はい。何度でも言います。ありがとうございました。私があの時感じた嬉しさ、それは確かにあったんですから」

部長「そう、か……」

しずく「……」

部長「……。しずく。最後に一つだけ、いいかい」

しずく「……なんですか?」

部長「私は君の『底知れない器』に魅力を感じた。でも、今『自分』があるしずくは『底知れない器』では無くなってしまった」

部長「だから私は思うんだよ。『底が抜けてしまわないか』と……」

しずく「え……」

部長「杞憂だと、いいんだけどね。変なことを言ったね。しずく」

しずく「……はい。さようなら、部長」

侑「……話は終わったみたいだね。それじゃあ、行こうか」

 しずくちゃんとかすみちゃん。二人を連れて私は廃工場を出ていった。
 
97: (もも) 2022/12/22(木) 06:15:42.82 ID:MMmTtJ3e
▲廃工場▲

ランジュ「さて、三人はいなくなったことだし、あなたの処分に移るわ」

部長「あぁ、どうにでもして欲しい。もう私に気力はないよ」

 部長の目には、既に光はない。演出家として弁舌を振るっていた自分が、他人の手の平の舞台で踊らされていた。
 全て凌駕された。演出家としての意地、集めた男たちという戦力。自分の全てが否定された気がしていた。

ランジュ「全く。情けないわね。こう見えてランジュはあなたを買っているのよ?」

部長「……は?」

ランジュ「てっきりあなたは、ランジュのシマを荒らすどこかの回し者だと思っていたわ。でも、正体はただの一般人だった」

ランジュ「そんな素人が、自分より遥かに体格の勝る男を従えている。そこに驚愕したのよ」

部長「……だからなんだって」

ランジュ「つまり。あなたには求心力がある。それは事実よ。それに、しずくにあれだけ言わせるってことは、なにか人を惹きつけるカリスマ性でもあるんでしょうね」

部長「……」

ランジュ「単刀直入に言うわ。あなた、ランジュの『孤虎会』に入りなさい」

部長「孤虎会……?」

 突然の勧誘に、部長は目を丸くする。

ランジュ「孤虎会は私の所属する組織の名前よ」

部長「……?」

ランジュ「なに目を回しているのよ。あなたに選択肢は無いわ。これからは私の手と足となって動いてもらう。これだけが現実よ」

部長「私はあなたに敵対していたのに……。そんな私を?」

ランジュ「えぇ。酸いも甘いも嚙み分け、清濁併せ吞むことをモットーにしているの。有望な人材がいればランジュの陣営に引き入れる。ただそれだけよ」
 
98: (もも) 2022/12/22(木) 06:17:09.59 ID:MMmTtJ3e
ランジュ「あぁそう言えば、あなたには自己紹介をしていなかったわね」


ランジュ「私は鐘嵐珠。華僑系中国マフィア『孤虎会』、日本支部の幹部よ」


部長「……ま、まふぃッ!?」

ランジュ「それじゃあ、騒ぎになる前に撤収するわよ」パチン

部長「……?」

 唐突に指を鳴らすにランジュに、部長は困惑した表情を浮かべた。
 しかし、部長が次に瞬きをした瞬間。ランジュの周囲には男たちが整列していた。

部長「な……」

 部長は口を開けて呆然としていた。そして部長はすぐに連中を理解した。
 自分が集めたチンピラ紛いの連中とは程遠い、彼らは恐ろしく統率の取れた面々であることを。

ランジュ「やっぱりたまには現場に出て暴れなきゃ鈍っちゃうわね。その点、何の組織との繋がりもないあなたはいい鴨だったわ」

 一人の男がランジュに上着を掛ける。

ランジュ「さ、行くわよ。付いてきなさい」

 ランジュはそう言ってこちらに背中を向け、出口へと歩いていく。部長は暫し状況に付いていけなかったが、正気を取り戻し慌ててランジュへと付いていった。
 侑に投げられた際の打ち身が痛むが、それを無視して歩いていく。

部長(格が、まるで違う……)

 部長はそう思いながらも、圧倒的なまでのランジュの姿に、いつの間にか笑みを浮かべていた。
 が、しかし。

ランジュ「──溶鉱炉に沈められた方が良かった、なんてこれから思うかもしれないわね。ふふっ、これからが楽しみになってきたわ!」

 その言葉に、部長は背中に冷たい汗を掻くのだった。
 
99: (もも) 2022/12/22(木) 06:19:08.07 ID:MMmTtJ3e
最初からしずく√みたいな感じですが、共通√終わりです
にしても投稿するだけでもなかなかの時間ですね……
 
102: (もも) 2022/12/22(木) 23:15:32.12 ID:MMmTtJ3e
▲高咲侑のアパート▲

 あれからの話を軽くしようと思う。
 部長との騒動があった後、部長は虹ヶ咲学園から転校した。そう、転校した、ということになっている。
 実際はランジュちゃんの方で引き取ったそうだ。部長はランジュちゃんの下で馬車馬の如く働いているらしい。その部長は部長で、『圧倒的なまでの存在感!』とか言ってなんだか喜びを感じているらしい。この場合は悦び、かな?次に会う時まで、生きているといいけど……。

侑「まぁ鉄砲玉として使い捨てるには惜しい駒、だよね」ゴロン

 ベッドの上で一回寝返るを打つ。思索に励む際はこの体勢がいい。
 この一件は警察には言っていない。部長は表の人間だったけど、裏のお仕事をする人に喧嘩を売ってしまったわけだからね。逆に警察も困るだろう。下手に中国マフィアを刺激したらどんな報復が待っているか分からないし。勿論それは、マフィア側も同様だ。
 故に、不可侵。故に、通報しない。これが正解なのだ。

侑「かすみちゃんも立ち直って良かった……」ゴロロン

 あの件で一番心に大きな傷を残したのはかすみちゃんだ。あの中で一番因縁の無い人間だったからだ。あと一歩遅ければ一生残る傷ができていたかもしれない。そんな状況でも立ち直ったのは、偏にかすみちゃんの強さだ。
 聞けばあの時、周りに男たちがいる中でも部長に向かって気炎を吐いたらしい。そんなことなかなかできることじゃない。生まれ持っての心の強さ、それだけで片付けではいけないと思うけど、本当の強さをかすみちゃんは持っていると思う。そんなかすみちゃんを私は尊敬している。
 まぁ。あの一件以来、スキンシップがより過剰になったのは言うまでもないことだ。

侑「しずくちゃんは笑顔が素敵になったよねぇ」

 あの場で一番のキーマンは間違いなくしずくちゃんだった。しずくちゃんを中心にあの場が作られたと言っても過言じゃない。一度は部長に膝を屈したしずくちゃんだったけれど、かすみちゃんのおかげで立ち直ったらしい。共に背中を預け合える私とランジュちゃんとの関係に似ているかもしれない。
 しずくちゃんはあんなことがあっても尚、部長に感謝を言えたし、トラウマにもなっていないようだった。むしろ、いい人生経験になりました、と肯定さえもしている。役者に人生を捧げていそうなしずくちゃんならではの言葉だと思う。
 
103: (もも) 2022/12/22(木) 23:16:56.16 ID:MMmTtJ3e
 その一方で、しずくちゃんは自分の気持ちを素直に言うようになったというか、以前よりクラスに馴染んだ感じがする。『クラスの真面目な優等生』から『クラスのちょっと不思議な優等生』みたいな立ち位置になったと思う。
 それと……。かすみちゃん同様にスキンシップが増えた。最近は背中に『しずく』って指文字で書かれ、「今私が何を書いたか分かります?」と満面の笑みで言われた。私はその時、「自分の物にはちゃんと名前を書きなさい!」という小学生の頃母親に言われた一言を思い出した。

侑「……とりあえず、一件落着だね。よっと」スクッ

 ベッドから跳ね起きる。
 明日から七月だ。月日が経つのは早いもので、私が高校教師になってから既に三カ月が経過している。それでも、まだまだ気持ちは新鮮なものだ。毎日色々な発見があって忙しいし楽しい。

侑「それに。明日は演劇部の顧問の先生が帰ってくるそうだし、楽しみだなぁ」

 部長に腰を痛めつけられた顧問の先生。どんな人なんだろう。竹刀とか持って周囲を威圧するような人じゃ無ければいいなぁ……。

▲学園内劇場ホール前廊下▲

侑「ふんふふ~ん♪」

 適当な鼻歌を口ずさみつつ、演劇部の活動場所である劇場へ向かう。今さらだけど、一介の部活が一つの劇場ホールを独占できるってなかなかヤバいよね。虹ヶ咲学園……改めてその規模と資金力が分かる。

侑「おや?」

 劇場ホールへと続く外廊下を進んでいくと、そこには視線を右往左往させるおばあちゃんがいた。おばあちゃんは杖をついているので足腰が悪いのだろう。

侑「生徒の家族かな?すみませ~ん。どうかしましたか?」

老婆?「あぁ、すみません……。私この学園の生徒の祖母なんですが、色々と道が分からなくて……。それであなたは……?」

侑「私は虹ヶ咲学園で教師をしている高咲侑です。そこの演劇部の代理顧問をしています。それで、生徒の学年とクラスは分かりますか?」

老婆?「あぁ、そうなのねぇ……」

老婆?「えぇ……それがねぇ……ちょっと分からなくてねぇ……。足が悪くなってからボケも始まっちゃったのかねぇ……」
侑「大丈夫ですよっ!一先ず事務室に行って落ち着いて思い出しましょう」

老婆?「そうかい?じゃあ悪いけど事務室まで案内してくれるかい?」

侑「勿論です!それじゃあ行きましょうか」

 一体何の用だろう。事務員さんに丸投げするのもアレだけど……う~ん、でも演劇部の活動も見たいしなぁ。それに顧問の先生も……。って、ん?
 
104: (もも) 2022/12/22(木) 23:18:20.92 ID:MMmTtJ3e
侑「……」

 私は何となく、虫の知らせが働いておばあちゃんの動きを観察する。
 杖を付く仕草。腰が痛むのか、時折腰をさすっている。実に、ステレオタイプのおばあちゃんだ。
 だけど、段々私の中で違和感が膨らんでいく。

侑「あの、おばあちゃん」

 私は試されている気がして、つい聞いてしまう。

侑「どうして足腰が悪いフリをしていらっしゃるんですか?」

老婆?「……」

 おばあちゃんにそう言うと、おばあちゃんは動きを止める。

老婆?「ほう……?どうしてそう思う?」

 一瞬でヒリつく空気に変わる。存在感というか、迫力が一気に上がる。今までのは演技らしい。

侑「う~ん。どうしてと言われましても。少しばかり武術をかじっているからですかね。足運びと筋肉の機微で違和感が分かるんですよね」

老婆?「なるほど……面白い」ニヤッ

 おばあちゃんは実に面白いとばかりに口角を上げる。弱々しい印象だったのに、今では到底そうは思えない。豹変、としか形容できない変貌ぶりだ。
 なんだってこんな試すような真似を……。
 だが、これでこの人の正体が分かった。間違いなく、今日来るはずの──

……
…………

ミセス「さて、ね。数か月ぶりに戻ってきたよ。寂しかったかい?雛鳥共」

 居丈高に告げるこの人は、私が先ほど邂逅したおばあちゃん、もといミセスだ。
 部長も少し不思議なところはあったけど、このミセスはより不思議……というか変人っぽい。

ミセス「部長のバカはどっかに飛んだみたいだけど、私は引き続き続投なようだ」

 このミセス。還暦を迎え演劇の第一線を退いた後、部長によって呼ばれた外部顧問の先生らしい。ていうか、自分から呼んでおいて無理やり退場させるって滅茶苦茶してるなぁ、部長。

ミセス「まだ自己紹介が済んでいない、一年の雛鳥もいるだろうから、改めて自己紹介させて貰うよ」

ミセス「私はミセス。本名は秘密だ。私を呼ぶ時はミセスに統一しな。いいね。『さん』も『ちゃん』も何もいらない。ただのミセスで十分だ」

ミセス「雛鳥共の演技を見て、そこに口を出す厄介な婆だよ。嫌なら退部するといい。けれど、付いてくる奴らにゃあ、私の全てを教えてやる。分かったね?」

 う~む。なんというか、凄い人だ。ミセスが立つだけで身が引き締まる。強面の体育教師みたいな圧迫感ではなく、なんというか……カリスマ性があるって言うんだろうか。ミセスはそんな雰囲気だ。
 
105: (もも) 2022/12/22(木) 23:19:54.19 ID:MMmTtJ3e
ミセス「さて、早速だけれど、オーディションを行う」

侑「……え」

ミセス「今から三か月後に行う劇、『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の役を決める。物語の詳細はオーディション終了後に発表する」

ミセス「私が演出家として全て取り仕切る。私のノウハウを間近で吸収したい奴はオーディションに出な」

 とんでもない話がぶっこまれた。
 とんでもない人だとは思っていたが、ここまでとんでもないとは。

ミセス「高咲」

侑「んぇ。は、はい!……なんですか?」

 変な声が出てしまった。それにしても距離感も凄い人だ。

ミセス「今日休んでる奴は?」

侑「えぇと。確かいないはず、だよね?」

 私は部長代理の人に聞くと、頷きが返ってきた。

侑「大丈夫っぽいです」

ミセス「そうか。それなら問題ないね」

部員A「え、ちょ、すみません!」

ミセス「なんだい」

部員A「オーディションって普通、台本を貰ってその役を深く理解してからやるもんじゃないんですか……?」

 うむ。実にもっともだ。

ミセス「いらない。今回台本はいらない。私が今から出すエチュードの設定。それを演じて私のお眼鏡に敵う奴がいればそれで決まる。ただそれだけだ。分かったね?」

 有無を言わせぬ鋭い目だ。こわやこわや……。

部員A「は、はいぃ……」

侑「すみませんミセス。私からも質問です」

ミセス「なんだい。さっさと言いな」

侑「その演劇の役って何人いるんですか?」

 それによってエチュードの様相も変わるだろうし、部員達の為にも聞いておいた方が吉だろう。
 そう言うと、ミセスは意地悪そうに口角を上げた。

ミセス「一人だよ。独り」

侑「え……?」

 ひ、一人?

ミセス「『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』は『独り芝居』用の劇さね」

ミセス「その独り芝居主演の役は、『盲目の少女』。だからエチュードも『盲目の少女』を中心とした設定にさせて貰うよ」
侑「独り、芝居……?盲目の少女……?」

 なんなんだこの人は。
 突然オーディションかと思えば、公開まであと三か月しかないし、演劇の役は一人しかいないし……、盲目の少女と言えば前にやった盲目の設定を思い出すし!!
 部長も滅茶苦茶な奴って思ったけど、ミセスはもっともっと滅茶苦茶だぁ!!
 
106: (もも) 2022/12/22(木) 23:21:26.20 ID:MMmTtJ3e
▲劇場の一室▲

部員A「私が何も見えないと、ただの弱い女に見えますか!?」

──

部員B「目が見えないからこそ伸ばした触覚と聴覚!」

──

部員C「この目ですか?自分で閉じちゃったんですよ。見たくないモノが多すぎてね」

──

部員D「あなたたちの瞳は、何のためにあるというんですッ!」

──

部員E「見えていますよ。目ではありません。心で見ているのです」


……
…………


 ここは、劇場にある一室だ。ここで役のオーディションを行っている
 他の人の演技が分からないよう、引っ張られないよう、一人一人入室から退室まで演技を見ている。演技を見ているのは私とミセス。私はいてもいなくても変わらないのでただの置き物と化している。
 そして私の隣にいるミセスはというと……。

ミセス「……はぁ」トットット…

 部員が退室してはため息を吐き、机を指で叩いている。明らかに不機嫌というか、呆れているような様子だった。
 まぁ……その気持ちは分からなくもない。

ミセス「ったく……。なんだいこれは高咲……」

 ジ口リ、と流し目で私を睨むミセス。私が悪いんじゃないYO!!

侑「と、とりあえず、これでいったん半分が終わったので休憩にしませんか!?」

ミセス「……まぁ、そうだね。こうも同じ演技ばかり見せられちゃあたまったものじゃないよ」

侑「はい!」タッタッタ、ガチャ

侑「みんな!悪いけど一旦十五分間休憩ね!」ガチャ

侑「……ふぅ」

 この十五分間の猶予。これは何も、私とミセスの頭を休ませる意味だけではない。オーディションを受ける部員全員に演技を考え直して貰う時間だ。
 ちなみに今回の演劇のオーディションを受ける人は十数人だった。あの緊密なスケジュールと独り芝居という特異性。十数人が受けるだけでも、虹ヶ咲演劇部の意識の高さが伺える。でも……。

ミセス「高咲。もしかしてあんたの入れ知恵かい?」

侑「い、いえ!そんなことは全く持ってありません!!」

ミセス「じゃあ何なんだ!私のいない数か月の間に何があったんだ!あの部長のバカか!?あの野郎……次に会ったらポン刀で掻っ捌くしかないねぇ」

 ミセスの目は危険な色を湛えていた。もしかして、だけど。部長がミセスの腰を痛めた犯人って分かってるのかな……?
 
107: (もも) 2022/12/22(木) 23:23:00.21 ID:MMmTtJ3e
 うぅむ。聞きづらい、けど。好奇心には勝てない!そんなこと聞いてる場合じゃないけど、休憩だもん!いいよね!
 けど……怖いので迂遠に聞いてみよう。

侑「そういえば、ミセス。その……。腰の怪我は一体どちらで?」

ミセス「あん……?」

 そう言うと、ミセスは私の目を貫かんばかりに凝視した。

ミセス「……。そうかい高咲。あんた知ってるんだね」

侑「うぇ……。な、なんのことでしょうかねぇ?」アセアセ

ミセス「やれやれ。演技が下手だねぇあんた」

 うっ。電話口の部長には褒められたんだけどなぁ……。

ミセス「全く……。私が怪我をしたのはあの部長のバカが原因だって知ってるよ」

侑「……そうなんですか。やっぱり」

ミセス「あぁ。部長のバカは役者に対して、型にはまった指示をする方針でね。でも私は役者に対して、寧ろ可能性を伸ばす方針だったんだ」

ミセス「だからよく衝突して……。まぁ鬱陶しかったんだろうねぇ私が。自分の王国を自由自在にできないんだから。その辺、部長のバカは阿呆だったねぇ……。還暦を迎えた婆なんて厄介なだけの存在ってのに」

ミセス「だからってこんな実力行使に出るとは思わなかったけれどね」

侑「その、恨んでたりとかは……」

ミセス「あぁん?恨みも憎しみもあるに決まってるだろ!!だから次に会ったらポン刀で掻っ捌いてやるんだ!!」ギロリ

侑「ひょえぇ……」

ミセス「ま。けれどね。演出家ってのはそれくらい傲慢でなけりゃいけないとは思う。その点あの娘は、演出家の才能はあったねぇ……」

侑「……」

 ミセスはそう言って遠い目をした。この分だと、部長はすでに裏世界の住人になってしまったことを察知しているかもしれない。

ミセス「無駄話が過ぎた。それで高咲。あの雛鳥共の演技はなんだ?どいつもこいつも背伸びした訳の分からん同じ演技しやがって……」

侑「あぁ……はい」

 う~む。これからの審査に響きそうだし、ちょっとボカして言うかぁ。まぁ一年生時代のしずくちゃんを見ているミセスはすぐに察しそうだけど。

侑「その、数か月前にやったエチュードで『盲目の少女』って設定があったんですよ。その盲目の少女役で、一番輝いていた演技がですね、『弱者としての盲目の少女』ではなく『強者としての盲目の少女』だったんですよ」
 
108: (もも) 2022/12/22(木) 23:24:40.53 ID:MMmTtJ3e
侑「恐らくですが、その娘の演技に引っ張られて、今度は『強者の盲目の少女』を演じる部員が増えたんじゃないですかね……。まぁあくまでも私の推測に過ぎないんですが」

ミセス「……はぁ。ったく、そういうことか……」

ミセス「厄介な……。本当に厄介なことをしてくれたもんだよ」

ミセス「高咲。なんで今までの部員の演技がダメか。その理由が分かるか?」

侑「えぇ?」

 唐突に言われても。素人目線のことしか言いようがない。

侑「う~ん。上手い人の猿真似をしても、実力が追い付いていないから余計酷くなってる、とかですか?」

 なんとなくそれっぽいことを言ってみる。

ミセス「ダメダメだね高咲」

侑「うぅ。だって演劇は素人なんですよミセス……」

ミセス「私はね、演じる役柄とは彫刻に似ていると思うんだよ」

侑「……?はい」

 よく分からないが、答えを教えてくれるらしい。

ミセス「このエチュード。私は『盲目の少女』等、いくつか設定をやった。そして役者はその設定に対し、さらに色々と考える。裏設定、バックボーンと言った演技が自然になるよう、その役の歴史をね」

 それは前に部長が言っていたような。エチュードは『どれだけ役を落とし込めるか』『演技が自然に見えるか』という点が重要だとか。

ミセス「ここで役者は、大きな勘違いをする奴が多いんだ。与えられた設定に対し、役の設定を自分で考える。ここまではいい。けれど、これが『肉付けする作業』だけと思っている奴が多いんだ」

 肉付けする作業?どういうことだろう。

ミセス「盲目の少女。それなら色々苦労してきたに違いない。悲しいこともあっただろうし、不幸な目にも遭ってきただろう。それは例えばああいうことで、例えばこういうことで……ってどんどん設定を重ねちまう。そうするとどうなるか分かるかい?」

ミセス「私が与えた『盲目の少女』っていう物語で一番重要なポイントが軽視されちまうんだ」

侑「……!なるほど……」
ミセス「与えた設定から考えられることなんていくらでもあるだろう。だが、それを全部乗っけちまったら、本当に考えなきゃいけないことが霞んじまう。だから数多ある設定から導き出されるバックボーンを取捨選択しなきゃならん」

ミセス「考え出した役柄の形。それを削って削って削って……そうして残った物が本当の役ってものさ。勘違いしちゃあいけない。役者は『その人になる』のが目的じゃない。役者は『その人を演じる』のが目的なのさ。演劇はエンターテインメントだからね」
 
109: (もも) 2022/12/22(木) 23:26:09.37 ID:MMmTtJ3e
侑「だから、彫刻ということですか……。なるほど」

ミセス「あの娘らの演技は全て、肉付けはしたがそれを削る作業が一切できてなかった。役がボヤけて何を伝えたいのか。この役はどういう人物なのか。それが不透明だった」

ミセス「役の設定が多ければ多いほど現実味が増すわけじゃあない。その人の価値観・哲学を作った体験がたった一つの経験、というのも珍しくないからね」

侑「う~む。考えれば考えるだけいいってわけじゃないんですねぇ。演劇っていうのは奥が深いなぁ……」

ミセス「ま。考えることは悪いことじゃない。出し方が悪かったね」

ブゥゥゥゥゥゥウウウウン

侑「おっと」

 どうやら休憩の十五分が終わったようだ。
 休憩っていうか、ミセスの演劇哲学を聞いた時間だった。まぁ有意義と言えば有意義だったんだけど。休めた気はまるでしない。

侑「休憩も過ぎましたし、続き行きましょうか」

ミセス「……そうだね。さて、彫刻刀で役を削りだす役者はどれだけいるか……」

 そう言ってミセスは据わった目になる。スイッチのオンオフができる人だ。

侑「はい!じゃあ次の人入って!!」

 さて、期待に応えられる人はいるのかな……!?

……
…………

侑「……。次で最後ですよ。ミセス」ゲッソリ

ミセス「そうかい……」ゲッソリ

 私とミセスは、遂にオーディション最後の一人を迎えた。
 ここまで本当に長かった。ミセスに『役柄とは彫刻』という哲学を聞いたせいで、どんどん設定を増やしていく演技に目が行ってしまった。
 ミセス哲学を知らなければ気にならなかったのかもしれないのに。視野が広くなるのはいいことだけど、生半可な知識を植えられると、逆に視野狭窄に陥る。上手くいかないもんだね。

侑「最後は……しずくちゃんか」

 何の因果か、くじ引きで決まったはずなのに運命的なものを感じる。

ミセス「あぁ」

侑「ミセスから見てしずくちゃんってどんな印象なんですか?」

 オーディションは一人一人やっていくが、演技をし終わった後評価を固めるため五分間の間を設けている。その時間を利用してミセスに聞いてみた。

ミセス「……あんたも桜坂を特別扱いしているのかい?」

侑「えっ……。別にそんなつもりは……う~ん。無いとは言い切れないですねぇ。ちょっと色々あったので……」
 
110: (もも) 2022/12/22(木) 23:27:50.80 ID:MMmTtJ3e
 依怙贔屓。身内贔屓は教師として絶対にやっちゃいけないことだ。それでも、しずくちゃんとは色々あり過ぎた。

ミセス「まぁいい。あの娘の役者としての才能は、この部内においちゃ敵無しだろうね。なんでかって言われりゃあ、器用なのさ」

侑「器用、ですか。役を降ろすとか、登場人物への理解が深いとかそういうことじゃないんですか?」

ミセス「全く、目が曇ってるねぇ高咲。桜坂の一番優れている部分。それは、多くの役を器用に演じられる点なんだよ。その他にも優れている点はあるかもしれない。けれど、他の役者と比較してみて最も天稟と言えるのは、器用に多くの役を演じられる点なのさ」

侑「ふむ……」

 これも、彫刻の話に似ているんだろうか。私はしずくちゃんの役者における長所を色々知ってきた。けれど、多くを知り過ぎて逆に、本当に重要なところが見えていない。そういうことなのかな。

ミセス「あれほど多くの役を詰め込んで、以前演じた役に引っ張られない役者もなかなかいないだろうね」

ミセス「器用に役を演じられる、とは言ったけれど、本当は『演じる役に対して常にフラットな感情でいられる』。ここが一番のポイントかもしれないね」

 演じる役に対して常にフラットでいられる、か。つまり、演じるスペシャリストの役者とはいえ、役者自身の人生があって、価値観があって、哲学があって、他の役を演じる時にそういった自分に引っ張られてしまう、そういったところがないのがしずくちゃんの長所なのだろうか。
 部長の言葉を思い出す。

 『底知れない器』

 とどのつまりそれは、多くの役柄を詰め込むことができ、それを役として演じる際、何の柵もなく役を引っ張り出せる、ということかもしれない。

ミセス「ただ、そこが桜坂の短所でもある」

侑「え……?」

ミセス「フラットな感情でその役に入り込める。それは上等だよ。でもね、演劇とは独り善がりじゃいけないんだ。役者の前に、一人の観衆がいる」

ミセス「その観衆には、役者の『心と自分』が無けりゃ響き辛いものさ。ここが役者の辛い部分だね。自分をどこまでその役に織り交ぜられるのか。自分のこれまでのバックボーンをどこまで引き出して、役に真剣さを付与できるのか」
ミセス「その点を、あの部長のバカは理解していたよ。演技に深みを与える為、役者自身に多くの経験をさせるってことをね」

侑「それじゃあ、自分が無いと観衆を感動させることはできない、と?」
 
111: (もも) 2022/12/22(木) 23:29:28.93 ID:MMmTtJ3e
ミセス「そうは言ってない。純粋な演技力だけで感動を搔っ攫う役者だっている。けれどね、人の心にいつまでも残る演技ってのは、往々にして役者自身の主観的な体験が起因している場合も多いのさ」

侑「なるほど……」

ミセス「だからこそ、今回の独り芝居。役は一つしかないからこそ、心の底から演技ができる役者で無けりゃ、難しいと私は思ってる」

侑「それってつまり……。今回のオーディションにおいてしずくちゃんは厳しいってことですか?」

ミセス「開けっ広げに言っちまえばそうなる。けれどね、私が不在だったこの数か月。桜坂が激変する何かがなかったとも言い切れない」

 そういってミセスは私に、意味ありげな視線を寄越す。

侑「……フタを開けて見ないことには分からないってことですか」

ミセス「あぁ。そら、五分経過したよ」

侑「あ、はい。それじゃあ次の人!入って!」

しずく「はい!失礼します!二年四組桜坂しずくです──」

 しずくちゃんが入室した。
 ミセスと部長の言ったことを総合すると、観衆に響く演技とは、役者自身の主観的な感情と、その役への理解、そしてどれだけ役を自分自身に落とし込めるか。この三つが重要らしい。
 今までのしずくちゃんは、主観的な感情が不足していた。
 しかし、今のしずくちゃんなら……。

 しずくちゃんの演技が、始まる──

▽劇場の一室前廊下▽

しずく「ふぅ……」

 廊下にある長椅子に、私は座っている。オーディションを終えた人たちは、別室で待機しているため廊下には今私しかいない。

スイ「ずいぶん緊張しているね。しずく」

しずく「スイ……」

スイ「君と体を共有しているんだ。いつもより鼓動が早くて息が詰まりそうだよ。それで、オーディションの自信はどうだい?」

しずく「うん。自信は……あるよ。このエチュードの設定の要諦は『盲目の少女』っていう設定。前にやったエチュードで、一番役を降ろせたのは私だった。だから、今回も大丈夫だと思う」

スイ「なるほどね」

しずく「前にやった設定に、より別の裏設定を肉付けしていく。そうしてより現実味を帯びさせる。そうすれば、もっとよくなると思う」
スイ「やるべきことが明確ならそれでいいさ。でも気を付けなよ。あの日やったエチュードは複数人だった。でも今回は一人っていう特例さ」

しずく「大丈夫。一人でも成立するよう、盲目の少女の一つの人生を下地にした演技をする予定。でも、詳細は詰めない。自然に見えづらくなるからね」
 
112: (もも) 2022/12/22(木) 23:31:07.08 ID:MMmTtJ3e
スイ「うんうん。しっかり考えているようで安心したよしずく」

しずく「最初から強者として演じるんじゃなくて、弱者から強者、その移り変わりを表現するんだ。そうすれば見ている人も、この落差で強者を感じやすくなる」

スイ「ちなみになんだけどしずく。どうしてこの役をやりたいんだい?」

しずく「それは……。ミセスが演出家として指揮を取る劇だもん。一人の役者として、魅力的に映らない訳ないよ」

スイ「それもそっか。ミセスの劇、好きだもんねしずく。でも、もう一つあるでしょ?オーディションに合格したい理由」

 そういうスイの声音は心底楽しそうだった。同じ声帯から出ている声のはずなのに、自分から出ている気がしない。

しずく「……はぁ。それを言わせるつもり?私の心の声は駄々洩れなんだからさ、別に言わなくてもいいじゃない」

スイ「いいじゃないか。言葉に出すことで発奮することだってあるよ」

 これは言わなきゃスイは諦めないな。こういうところスイは頑固なんだよね。
 ……。そういえば、かすみさんにも頑固って言われたっけ。
 仕方がない。私はゆっくりと口を開く。

しずく「……。侑先生に、褒めて貰いたいから」ボソッ

スイ「え、聞こえないよ」

しずく「聞こえないなんてことないでしょ!侑先生に!!褒めて貰いたいの!!私は!!」

しずく「オーディション合格おめでとう!って!正直に言うとそれが一番だよ!私の凄いところを侑先生に見せて!認められたい!桜坂しずくはすごい人なんだって、侑先生の中に刻み付けたいの!!」

 言い終わって、つい両手で口を塞ぐ。ミセスと侑先生の部屋は壁が厚いとはいえ、聞こえていたかもしれない。

スイ「ふふっ。それでいいんだよしずく。意中の相手に自分を深く知ってもらう。それはひどく重要なことだ」

しずく「全く……」

 相変わらず、スイのこういう得意げな感じが嫌だ。上手く手の平で踊らされている気がする。

スイ「肩に力が入り過ぎてたんだよ。こんな緊張、初めてだね」

 気づけば、肩の力は少し抜けていた。

しずく「……確かに。ちょっと力入ってたかも。でも、スイは私をからかうのが一番の目的でしょ?」

スイ「さぁ、どうだろうね」

 肩に力が入り過ぎていたのは確かだ。その点はスイに感謝してる。その点だけは。

スイ「まいったね」
 
113: (もも) 2022/12/22(木) 23:32:54.63 ID:MMmTtJ3e
 でも、まだ心臓の鼓動が激しい。今までこんなことは無かった。
 今までは、与えられた設定の人物像を自分の中に降ろし、それを表現するだけだった。でも、今と過去はその『自分』がだいぶ様変わりしてしまっている。
 心臓の鼓動が激しい。けれど、悪い気分じゃない。
 『プレッシャーを感じる自分』がいること。確かにそういう自分がいること。それは逆に、嬉しい気持ちだ。

侑「それじゃあ次の人!入って!」

 侑先生の声が聞こえる。行かなくちゃ。

しずく「……よし、行こう」

スイ「頑張ってね、しずく」

しずく「うん……っ」

 私は確かな意志を携え、部屋の扉を開いた。

▲劇場の一室▲

しずく「私は……。貧しくもなく、富んでいるわけでもない。そんな村の少女」

しずく「村の危機はみんなの危機。村の幸福はみんなの幸福。だけど、私はそのどちらも感じることができなかった」

しずく「私は盲目。村の危機に立ち向かうこともできなければ、村の幸福を共に感じることもできない存在。生きているのか、死んでいるのか。私は分からなかった」

 時代背景は、文明がまだそれほど進んでいない頃。農業が盛んに行われ、核家族化は進んでおらず、村社会が成立していた頃のお話。

しずく「一言で言ってしまえば、私は家のお荷物だった。生まれつき盲目の私は、世継ぎを作ったとしても、盲目になる可能性がある。そんな自分を嫁に貰う好事家な村人など、いなかった」

しずく「けれど私は、そんな私のままでいることを許さなかった」

しずく「私は手探りで家を出て、家の周りの手触りを全て確認していった。手触りだけじゃない。足で踏む感覚。耳で聞く外の状況。視力以外で感じられるものは全て使った──」

……
…………

侑「……」

 しずくちゃんの演技。前に見た時と比べて中途半端に感じる。
 前のしずくちゃんの演技には、『その人』そのものがそこにいる凄みを感じた。けれど、今のしずくちゃんの演技にはその凄みがない。
 最初に見た時は、しずくちゃんの演技に圧倒されたのに。それがなぜ今はこんなにも感情が冷え切っているのだろう。
 もしかして。これが、しずくちゃん独りで行うエチュードだからだろうか。他の役者がいた時は、しずくちゃん以外の人が表現する主観的な演技があった。それが隠れ蓑となって、しずくちゃんの人形のような感じが分からなかったんだろうか。
 
114: (もも) 2022/12/22(木) 23:34:34.71 ID:MMmTtJ3e
 ……いや、違うか。それはあくまでも、過去のしずくちゃんの話だ。『自分』が無かった頃のしずくちゃんなら、独り芝居でそんな風に浮いていたはずだ。
 けれど、今は違う。
 一言で言ってしまえば、十把一絡げな演技。他の部員とは別のように感じる演技だけれど、他の部員同様に埋もれてしまう演技。そんな印象だった。

ミセス「……」

 チラリと流し目でミセスを見ると。ミセスは退屈そうな表情をしていた。
 冷酷な表情でもなく、激怒するでもなく、ただただ退屈そうに。

侑「……」

 このまま、終わって欲しくないな。
 他の部員には悪いけど、どうやら私はしずくちゃんに肩入れしてしまっているらしい。
 私にできることはないけれど、せめてここから。しずくちゃんが何かに気づくことを祈ろう。
 しずくちゃん。君自身の感情と、盲目の少女の感情。そしてこれまで生きてきた主観的な世界。
 そこに重なる何かは、ないのかい?

……
…………

 おかしい。
 何かがおかしい。役が降りる感覚になればなるほど、私の発話する言葉の全てが虚ろに思えてくる。

しずく「──私のこれまでの全てが!実を結び、結晶となり!私をここまで大きくさせた!!」

 心と体。その二つが別離してしまったかのような。そんな感覚に陥る。
 私は、この盲目の少女を演じられていないのだろうか。
 こんなこと、今までなかった。
 なんで?なんでできないの……?

しずく「歩んだ道のり、無駄なモノ等一つもありはしなかった!」

 語気は強い。けれど、何かが不足している気がする。今まではそんなことを感じることは無かったのに……。
 今までそんなこと、無かった……?
 あれ。
 そういえば。
 私って……。
 部長の言葉を思い出す。

──
部長「──しずくは変わった。変わってしまった。役を演じる『しずく』から、ただの『しずく』へ。こうして普通に涙を流し、頽れているのが証拠さ」

部長「具体的に何でそうなったのかは分からない。けれど、君は演じない『桜坂しずく』として接することができるようになっていったんだ」

部長「でも……でもそれじゃあ!!『底知れない器』じゃない!『自分』ができてしまえば、何でも詰め込める器では無くなってしまう!!」
──
 あぁ、そうか。そうだったんだ。
 こうして、人前に出て、たった独りの壇上で演技をしてみて分かった。
 盲目の少女を演じているのは、『底知れない器のしずく』じゃなくて『ただのしずく』になっちゃったんだ。
 
115: (もも) 2022/12/22(木) 23:36:30.53 ID:MMmTtJ3e
 全てを詰め込める器でなくなった私は、ただ設定を詰めて演技をする人形のような存在では無くなってしまったんだ。
 だから、人形のような演技をする自分に、違和感を覚えたんだ。今まではみんなに埋もれて気が付かなかったけれど、今までの私はこんなにも空っぽだったんだ。

しずく「転んで付いた傷の一つ一つ。それが今では愛おしい……!!」

 嗚呼。笑ってしまう。なんだこの嘘くさい演技は。
 『ただのしずく』が『底知れない器のしずく』だと思って演技をしてしまっている。だからこんなにもドが付くほど下手な演技をしている。
 ここから巻き返せるだろうか。
 いや、巻き返すしかないんだ。
 これから私は、『ただのしずく』として生きていかなければならないんだから。

……
…………

ミセス「……っ」

 おや。
 何やら変わったね。
 私が不在の前、部長のバカに怪我を負わされる前より、ずっっっっっと中途半端でド下手な演技になっていると思ったけれど、マシになってきた。
 変わってきたと言えば、桜坂のこの下手な演技。これがそもそもの変わったことへの証明か。
 何があったか分からないけど、変わってしまった自分に困惑している。けれど、演技をする自分と本当の自分、その差異を何とか埋めようと必死になっている。
 いいじゃないか。その必死さ。
 何でも詰め込める器だった、前の桜坂も魅力的ではあった。けれど、たった独りで前にいる観衆全てを圧倒できるような存在。その方が、役者としては魅力的だろう?
 今桜坂は、そういう普通の役者になろうとしている。

ミセス「……ククク」

 面白いねぇ、学生の役者ってのは。
 熟した役者にはない、一朝一夕で変貌しちまう不安定さを持ってる。
 フラットな感情で役を降ろせる?何を言ってる。そんなの役者人生が長けりゃみんなできるようになることさ。
 今は自分の感情の赴くままに、演じる役と本当の自分を混合させて、化学反応を起こしちまいな。

……
…………

しずく「──だけどっ!!」

しずく「だけど……私のこの強さは張りぼて……。必死になって自分を強くするために行動したけれど、私の本質は結局変わっていないっ!」
 そうだ。
 私の以前抱いていた『底知れない器』としての強さは張りぼてだった。
 何もない自分をさらけ出すのが怖かったから、私は演技を始めた。人の前で演技をして、強くあろうとした。
 
116: (もも) 2022/12/22(木) 23:38:03.25 ID:MMmTtJ3e
 でも、それは何も進んではいなかった。『底知れない器』としての自分は、『空っぽの自分』からの逃避先だっただけ。
 私の本質は何も変わっていなかった。
 盲目の少女が、どんどん削られていく感覚がある。削られて、削られて、その中にある本質が、見えようとしている。

しずく「そんな強がる私を、賞賛してくれた人がいた。目が見えないのに素晴らしいと。その生き様に尊敬を覚えると。私はそれで少しだけ認められた気がした。嬉しい気持ちももちろんあった。けれど、心の奥底の一番深い部分では、満たされていなかった」

 何でも詰め込める私と言う存在。
 複数の役柄を短い期間に入れ替えて演じられる私。他の役柄に引っ張られず、私自身にも引っ張られないフラットな演技。それはとても、羨ましがられた。
 どうすればそんなにも肩の力を抜いて表現できるのか、と。役の設定全てが演技に出ているようだ、と。

『あなたが桜坂しずくだって、演技をしている最中忘れちゃった!』と。

 賞賛の言葉なのだろう。だけれどその言葉は、どこかで深く突き刺さっていた。

しずく「──でも、賞賛の言葉、尊敬の言葉、それ以外にたった一つだけ、心配する声があった。あなたはひどく強がっているように見える。あなたは、あなたのことを認められていますか?と」

 私はそんな時、出会った。侑先生という、不思議なピアノを弾く人に。
 私は今までに感じたことのない気持ちを抱え、演技をしていた。
 それは、私の役を補強しているように思えた。それは、私が演じる役をより深い場所へ連れていく手助けのように思えた。
 けれど、それらはどうも本質ではないらしい。
 侑先生が表現した感情が、私の演じる役に吸い込まれ、とても感情的で、主観的な演技になっていたんだ。あの時、私は侑先生の手を借りて、心の底から主観的な演技をしていたんだ。
 私はその時、『底知れない器』を逃避先になど気づいていなかったけれど、今は分かる。

しずく「私はその言葉で気づいた。私は、盲目であることをずっと否定していた。それは紛れもない、自分自身であるにも関わらず。盲目であること、それは逃れられようのない事実。だから、私はその弱さを!盲目であることを!まずは私自身が肯定しなければならなかった!!」

 私は侑先生と出会い、かすみさんと出会い。自分という存在を少しずつ分かってきて、それを表に出せるようになってきた。でも、それでも、私は自分を出すことが怖くて、何もない存在だった頃を思い出してしまって。
 
117: (もも) 2022/12/22(木) 23:39:41.97 ID:MMmTtJ3e
 でも、そんな私を、かすみさんは肯定してくれた。
 頑固なところ。自信のないところ。そして侑先生が大好きなところ。そんな私のことを親友だと思ってくれているって。
 だから、私は私を肯定できた。私は、『自分』を作ることができた。

しずく「私は、弱い。いくら強がろうと、私の本質は変わらない。けれど、弱さを抱きしめて前へ進もうとすれば、それがきっと強さへと変わる。私は、そう信じてる──」

 私は未だに、演技をせずに人と接することが怖い。
 でも、そんな自分も抱きしめよう。
 人と接することが怖い自分でも、そんな私を認めてくれる、肯定してくれる人がいるのだから。
 だから私は、自信を持って私を表現できる──

……
…………

侑「……あ」

 終わった。
 しずくちゃんの演技が、いつのまにか終わっていた。
 私は、吞まれていた。しずくちゃんの出す迫力に。
 それくらい、しずくちゃんの演技は真に迫っていた。

侑「あ、えっと。それじゃあ、合格不合格を決めるから一旦退室してもらって──」

ミセス「桜坂」

 私のわちゃわちゃする進行を、ミセスが止めた。

しずく「はい」

ミセス「何があったとは聞かん。けれど一つだけ聞く」

しずく「はい」

ミセス「お前が演じたのは、『盲目の少女』かい?『桜坂しずく』かい?」

 ミセスの目は、真っ直ぐしずくちゃんを見ていた。それに気圧されることなく、しずくちゃんは一切視線を外さず答えた。

しずく「もちろん、盲目の少女ですよ」ニコッ

 しずくちゃんは満面の笑みでそう答えた。
 それに対し、ミセスは心底おかしそうに口角を釣り上げ。

ミセス「ククク……。いい狸になったじゃないか、桜坂。クク……あっははははははは!!」

 そうしてミセスは、大声で笑っていた。

……
…………

 劇場ホールの一室には、先ほどオーディションを受けた部員が全員集められていた。

ミセス「オーディションの結果、主役である『アステーリ』を演じるのは桜坂、あんただよ」

しずく「はい……っ!桜坂しずく、全身全霊で臨ませていただきます!」

 しずくちゃんは声を震わせながらも、強い意志を表明した。

ミセス「公開まであと三か月しかないからね。宣伝用のポスター作成から何から何まで、時間は足りん。弱音を吐こうが血反吐をぶちまけようが、私は一切容赦しないからね」

しずく「はい!」

ミセス「ククク……いい表情だよ、桜坂」
 
118: (もも) 2022/12/22(木) 23:41:17.68 ID:MMmTtJ3e
 よかったよかった。不安な点はいくつかあったけど、最初からしずくちゃんのような気もしていた。あぁ、身内贔屓しちゃいけないのに……。頭を切り替えなきゃ……。

ミセス「さて、雛鳥共。桜坂以外はこの台本を渡しておくよ」

 ん?
 ミセスはどこから出したのか。そこそこ厚い冊子を取り出した。なにこれ。

ミセス「これは半年後にやる劇の台本だよ。半月後にオーディションをするからね。しっかり読み込んで役を落とし込んできな」

侑「え……」

ミセス「なにを驚いた顔をしてるんだ高咲」

侑「え、いやだって今オーディションが終わったばかりで……」

ミセス「何を甘っちょろいこと言ってんだい。部員がこんなにいるんだ。遊ばせてちゃあ勿体ないだろう?役者だけじゃない。演出家志望だって何人もいるんだ。進行する劇が一つだけなわけないだろう」

侑「あ~……。虹ヶ咲の規模の大きさ、忘れてました……」

 そりゃあそうか。この劇場ホールだけでも建物一個分だ。同時進行で幾つもの劇の稽古をするなんて、虹ヶ咲の設備をもってすれば可能なんだ。

ミセス「お前らは一日早く読み込める。そのメリットをふんだんに活かすんだね」

一同「はいっ!」

 しずくちゃん以外の部員は、元気よく返事をした。
 そういえば、しずくちゃんがアステーリって役を演じるのは分かったけど、劇自体の内容ってどんなんだろう。

ミセス「桜坂。ほら、『雨垂れ』の台本だよ。私謹製だから、ボロボロになるまで使い込むのが礼儀だよ」

しずく「はい。ありがとうございます」

 あ、いいなぁ。

侑「その、ミセス?しずくちゃんが演じる劇ってどんな話なんですか?」

ミセス「あぁん……?」

ミセス「まぁいいか。高咲にも手伝って貰うことになりそうだしね」

侑「え、それは……」

ミセス「『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』は、いずれ盲目の少女アステーリと、吠えることができない『スターラ』という犬の物語さね」
ミセス「仕事ができないアステーリをどう扱っていいか分からない両親。吠えられず、威嚇もできないから他の動物から襲われるスターラ」

ミセス「アステーリはある日、ボロボロになったスターラを見つけるんだ。自分と同じ弱い存在を見つけ、この犬を見捨ててしまったら、自分自身を見捨てることになりそうだって感じるんだ」
 
119: (もも) 2022/12/22(木) 23:43:00.33 ID:MMmTtJ3e
ミセス「家に連れていくも、最初はなかなか歩み寄れない両者。けれどね、少しずつ二人の距離は縮まるんだ。スターラは目の見えないアステーリを助け、アステーリは吠えられないスターラの代わりに守った。一人と一匹は、大事な家族になるんだ」

ミセス「とある日。山で遭難してしまったアステーリはスターラを見失うんだ。雨が降っていたから、二人は互いを見つけられない。そんな危機に陥って、スターラは吠えられるようになるんだ。どこまでも響き渡る遠吠えをね」

ミセス「それでアステーリはスターラの場所が分かって助かるんだが、その遠吠えを聞いたスターラの本当の家族が姿を現すんだ。アステーリもそのことは分かっていた。いずれ別れが来るだろう、とどこかで予感していたんだね」

ミセス「アステーリはこちらに帰ろうとするスターラを静止するんだ。奇跡的に家族に会えたんだから、もう離れちゃいけない、と。それに、雨が降る度私は思い出せる。吠えられなかったあなたが、もう一度吠えられるようになったこと。弱い雨垂れでも、いずれ星を穿つことができるようになるんだと。雨が降る度あなたを思い出し、あなたに会えると」

ミセス「だからもう、目の見えない私を心配することはないよ、と。そうして、アステーリは、最愛の家族に別れを告げるんだ。アステーリは背中を向け、家に帰る。そして最後に、背中越しに聞くんだ。あの力強く、どこまでも響き渡る遠吠えを」

ミセス「これが『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』のあらすじさ」

侑「……う」

ミセス「う?」

侑「うぅ……ぐす、ぐすん。いい、お話ですね……」

ミセス「まさかあらすじを聞くだけで泣くとはね。ほら、高咲にも台本、渡しておくよ」スッ

侑「ぐすっ……。どうして私にも……?」

ミセス「ククク。私も演劇の新しい形を模索していてね。あの部長のバカと同じようで嫌だが、独り芝居にピアノの伴奏を入れる。その新境地を目指しているのさ」

侑「え、私がピアノを……?というか、どうして私がピアノを弾けるって知ってるんですか?」

ミセス「……。数年前に、河原であんたを見たことがある。これでいいかい?」

侑「……ッ!ミセス、知っていたんですね……」

ミセス「クク。あの時感じた私の中のときめき。こうして再会できたのは運命だと思ったよ。だから出会い頭に、ちょっとした小芝居をさせて貰ったのさ」

侑「……はぁ。特に何もいいません。私もしずくちゃんの演技に、伴奏を入れるの楽しいですし」
 
120: (もも) 2022/12/22(木) 23:44:27.93 ID:MMmTtJ3e
ミセス「そうかい。なら、あんたも頑張るんだよ。教師と劇の二足の草鞋。とはいえ、あんたの出番はまだまだ先だ」

侑「そうですね。首を長くして待ってますよ──」

▲学園からの帰り道▲

 そうして。激動の一日は終了した。
 現在私は、侑先生と一緒に帰途に着いている。オーディション終了後、褒めて貰いたくて侑先生にお願いした。
 笑顔で了承してくれてとても嬉しかった。

しずく「侑先生、私、主役を勝ち取ることができましたよ!」

 この報告がしたかった。まず最初に、あなたにしたかった。
 この喜びを、あなたに伝えたかった。

侑「うん。おめでとうしずくちゃん。私もなんだか嬉しいよ!」ニコッ

しずく「ありがとうございますっ。侑先生」ニコッ

 胸の内から喜びが沸いて出てくる。
 その喜びを噛みしめていると、なんだか侑先生が微妙な表情をしていた。
 まるで、罪を告解する人のような。

侑「あの、さ。しずくちゃん。聞いて欲しいことが一つあるんだ」

しずく「え、何ですか?」

 侑先生はそれから数秒間、二の句を継げなかった。ポリポリと頬を掻いたり、深呼吸をしたり、色々と前準備をしていた。

侑「いやぁ、さ。今回のオーディション、一番応援してたというか……受かってほしいなぁ、って思ってのさ。しずくちゃんだけだったんだよね……」

しずく「え──」

 侑先生が一番応援していたのは……私?

侑「教師という立場上、たった一人の生徒に肩入れしちゃいけないって分かってるんだけどさ。でも、しずくちゃんはさ、もう一人の生徒として見れないんだよね」

しずく「そ、それって……」

 私も。私も既に、侑先生のことを一人の先生として見られない。一人の、女性として、見てしまう──

侑「修羅場をくぐったせいかな。ある種の仲間意識が生まれちゃってるんだよね」

しずく「……」

 そう、だよね。分かってる。分かってた。
 私と侑先生は教師と生徒。その関係は変わらないし、年齢だって一回り違う。私という小娘の相手なんて……。
 でも、分かっていたけど胸が痛い。

侑「いやぁ、教師失格だなぁ、って思っちゃったらさ。色々と懺悔したくってさ……。ごめんねしずくちゃん」

しずく「いえ……。その気持ちは素直に嬉しいです」ニコッ

 この場は、一先ず感謝を伝えておいた。
 しかし、私の中で渦巻くやりきれない思いが煮え滾っている。表に出たいって、好きだって伝えたいって、爆発しそうになっている。
 我慢したくない。思いを伝えたい。
 しかし、役者としての私が顔を出す。

『こんな何気ない場所で、思いを伝えてもいいの?』と。

 私は思いとどまる。
 けれど、この想いが解消できないのなら。我慢したくないのなら。
 多少は私を出してもいいよね?と強引に結論付けた。

しずく「侑先生」

 自然な感じの声音を出す。

しずく「私、ご褒美が欲しいです」

侑「え、ご褒美?」

しずく「はい。他の部員に対して、罪悪感を覚えているんですよね?それはもう消えようがないと思います」
 
121: (もも) 2022/12/22(木) 23:46:44.19 ID:MMmTtJ3e
侑「まぁ、そうだよね……。特別に思うことを変えろって言われても、すぐにできるわけないし……」

しずく「それなら、とことん特別扱いしてください」ニコッ

 侑先生が罪悪感を覚えているなら、もう突き抜けてしまえと。特別扱いするなら、もう徹底的にしてしまえと。そうすれば、罪悪感なんて覚えなくて済むと。
 私はそう笑顔で告げる。
 あくまで建前は、侑先生の罪悪感を消す為だ。
 でも本音のところは……。
 私だけを応援して欲しい。私だけを見ていて欲しい。
 私だけを、特別扱いして欲しい。
 そういう、爆発しそうな私の感情を抑える為だ。

侑「え、えぇ……?それは……どうなのかなぁ……」

しずく「ふふっ。別に表立って私だけに声援を送れって言ってるわけじゃないですよ?こうして私が役を勝ち取ればご褒美をくれたり、いい演技ができれば頭を撫でてくれたり。そういうことでいいんです」

 それに、そうすれば益々侑先生は、私への特別感を強める。侑先生は私以外を応援できなくなる。

しずく「どうですか……?侑先生……」

侑「う……っ」

 上目遣いでお願いする。完全に媚びた雌の誘い方だ。

侑「う、う~……。分かったよ、しずくちゃん。とりあえず……ご褒美は考えておくよ……」

しずく「ふふっ。ありがとうございます。侑先生っ」

 勝った。
 勝ちました。
 ずっと特別扱いして貰える確約ができた訳じゃないけど、それは追々詰めていけばいい話だ。こうしてご褒美や色々な特別扱いを重ねていけば、いずれそれは日常になる。
 日常が、特別扱いになる。
 いけない。頬が緩む。

侑「さて、ご褒美はどうしようかなぁ」

しずく「ご褒美をお願いしている立場で申し訳ないんですが、稽古が本格的になる前がいいのでできるだけ……」

侑「あ~。そうだよね。じゃあ近いうちにでもご褒美を考えておくよ」

しずく「はいっ。お願いしますっ」

 その後、侑先生とは駅で別れた。
 帰りの足取りは軽く、空をも飛べそうだったので、ついついスキップしてしまった。

しずく「~♪」
▲二年四組▲

侑「はーい。じゃあ今日はここでおしまい!日直さん!よろしく!」

生徒A「きりーつ。れーい。さようなら~」

一同「さようなら!!」

侑「それじゃあ帰る人は気を付けてね。部活がある人は頑張ってね!」
 
122: (もも) 2022/12/22(木) 23:48:34.21 ID:MMmTtJ3e
 オーディションの日から十日以上経過していた。私は自由に英語の授業をしているし、かすみちゃんは風紀委員の活動に精を出している。
 しずくちゃんは、毎日演劇部の活動で忙しそうにしている。そろそろしずくちゃんにご褒美上げないとなぁ。ん~、悩みどころだ。

侑「う~む。これが、充実か……」

 忙しくも楽しい日々。これが、大人の青春って奴……?
 そういえば、最近のしずくちゃん。フラフラしてたけど大丈夫かなぁ。後でミセスには、過労で倒れないくらいの指導でお願いします!って言わなきゃね。

かすみ「侑先生?なに浸ってるんですかぁ?」

侑「おおっと。かすみちゃん。いやぁ、ちょっとね、毎日が幸せだなぁ、と思ってね」

かすみ「かすみんも毎日幸せです!朝から侑先生の顔が見られて、侑先生の顔を見て終わる!なんて素敵な日々ですか!!」

侑「んふふ。照れるねぇ、かすみちゃん」

かすみ「ま。それは置いといて。侑先生、最近のこんな噂、知ってますか?」

 かすみちゃんがやや真面目な表情になる。風紀委員モードなかすみちゃんだ。

侑「噂?」

かすみ「はい。放課後、色々な空き教室からうめき声と何かがぶつかるような音が聞こえるそうですよ」

侑「ほぉ……。ポルターガイストって奴かな……?」

 学園とか学校という狭いコミュニティでは、こういう怪談めいたものがたまに流行る。意図的に流された噂もあるし、自然と噂になるものもある。前者は面白がって流す場合と悪意を持って流される場合がある。
 まぁそこまで警戒しなくていいかもしれないけど……。

侑「かすみちゃん。それを私に話したってことはつまり」

かすみ「はい。侑先生に付いてきて欲しいんです」

 ううむ。風紀委員モードのかすみちゃんはキリッとしていてカッコいいなぁ。生徒に安心安全を届けるっていう責任感もあるのだろう。
 よし、一肌脱いでやるってのが教師の務めだよね。

侑「うん。任せなさいかすみちゃん。大船に乗ったつもりでいてよ!」

かすみ「やったー!侑先生は本当に頼りになります!大好きです!」ダキッ

侑「あらら」

 大倉庫での一件と、部長との一件。あれ以来、私を頼ってくれるのは嬉しいけど、ここまでスキンシップが過剰だと他の先生からなんて言われるか……。いや、女同士だから別にいいかな。
 ……いや、だめか。その前に教師と生徒か。
 くっ……。かすみちゃんの抱擁を振りほどくのは断腸の思いだけど……しょうがない!
 
123: (もも) 2022/12/22(木) 23:50:08.34 ID:MMmTtJ3e
侑「ほら、噂の正体を調査するんでしょ。行くよ!」

かすみ「分かりましたよぉ……」パッ

侑「それじゃあ、『怪奇!空き教室で鳴り響く未亡人の絶叫!?』クエストの始まりだぁ!!」

かすみ「……意外とノリノリですね」

かすみ「かすみんのハグは噂の好奇心に負けたんですね……」ガックリ

──

侑「さて、空き教室を巡りつつ話を整理しようか」

かすみ「はい!まず、噂が出始めたのは本当にここ最近です。風紀委員に噂の投書があったのはちょうど九日前ですね」

侑「ふむふむ。うめき声があるから調査して欲しい、と」

かすみ「そうですね。その不安を取り除くのも風紀委員のお仕事です。同様の投書が複数の生徒から届いたため、風紀委員も動くことになったんです」

侑「噂のサンプル数も複数ある、と。ちなみに空き教室をのぞいて、正体を見ようとした人はいないの?」

かすみ「まぁ、虹ヶ咲は女子高ですからね。ホラーへの耐性持ってる人って少ないですから。不審者って可能性もありますし、そこまでできませんよ」

侑「藪蛇になっちゃ逆に学園側が困るからね。下手なことには首を突っ込まず、専用の組織に依頼する、と。うむうむ。自衛がしっかりできていて先生は嬉しいよ」

かすみ「でも、空き教室のうめき声の噂がこのまま広まった場合、面白そうと思う人が出るかもしれません。そうなると、意味もなく放課後に残る人とか出るかもしれませんし、できるだけ早く解決したいんですよ」

侑「おっけー。じゃあまずはここの教室から……」

……
…………

侑「う~ん。探そうと思うと見つからないもんだね。マーフィーの法則だ」

かすみ「マフィン?美味しいですよね」

侑「そうだね」

かすみ「私マフィン作れるので今度ごちそうしますよ!」

侑「え、ほんと?」

かすみ「はいっ!だから今度、かすみんとデートしましょう?侑せんせっ♡」

侑「うっ……。上目遣いは狡いぞかすみちゃん!!……って、これは……」

かすみ「はぐらかそうとしたって……。あれ……」

ゴツンッ
ヌァァアア…

ガタンッ
ウアアアア…

侑「こ、これは……」

かすみ「あわわわわわわ……本当に出ちゃいましたよ!!」

侑「まさか一日目で出くわすとはね……。ふふふ。幽霊相手は初めてだから腕が鳴るね」

かすみ「お、お~……。頼りになりますね!さすが侑先生です!連れてきた甲斐があったというものです!」

侑「もっとも、幽霊に関節技が効くのかは議論の余地がありそうだけど……」
 
124: (もも) 2022/12/22(木) 23:51:40.79 ID:MMmTtJ3e
かすみ「えぇ!?大丈夫ですよね!?」

侑「大丈夫!こういう時は先手必勝だよ!!」

ガララッ!!

侑「やいやいやい!迷える幽霊よ!高咲侑の名において命ずるよ!この虹ヶ咲学園から今すぐ出ていけば……命までは取らないよ!!」ババーン

かすみ「幽霊に命は無いんじゃ……」ヒョコッ

???「ア……」

侑「……って」

 うめき声の発生源の教室を開けるとそこには。

しずく「何を言ってるんですか?侑先生。それとかすみさん?」

 普通にしずくちゃんがいた。まぁ、何となくそうじゃないかって思ってたけど。

──

侑「ふむふむ。なるほどね。盲目の少女をより深く理解する為に、盲目の体験をしていた、と……」

しずく「はい……。まさか怪談とか噂になっているだなんて……」

 どうやら噂の発生源はしずくちゃんのようだった。
 盲目の少女という役柄を深く理解する為、目隠しをして教室を歩いていたらしい。
 色々な空き教室を巡っていたのは、机の配置が違うことや、色々な物がある方が新鮮な体験ができる、とのことだった。

かすみ「何かの物音の原因は、しず子がバシバシ色んな物にぶつかる音だったんだね……。なんていうか、無茶だよしず子……」

 かすみちゃんはちょっと引いていた。まぁしずくちゃんは演劇に対して真摯なだけだ。色々と極端だとは思うけど。

侑「なるほどねぇ。最近フラフラしてたのは色々と頭を打ってたからかぁ……。この稽古のこと、ミセスは知ってるの?」

しずく「はい。オーディションで合格してから、自宅ではほとんど目隠しをして生活しています。というか、ミセスの指示ですね」

侑「あ~……。やっぱり結構ぶっ飛んでるなぁ……」

かすみ「侑先生は顧問なのに知らなかったんですか?」

侑「まぁね。こういう演技の稽古じゃない部分は、変な先入観を与えるから見ちゃだめって言われてるんだ。ミセスっていう外部顧問の人にね」

しずく「それくらい侑先生もキーパーソンって思われてるんですよ」

侑「そうだといいけど……。ん~、でもこうして見ちゃったわけだし。今日はちょっとしずくちゃんの目隠し稽古に付き合うよ」

しずく「え……いいんですか……?」

侑「うん。スイカ割りの指示する人みたいなことしかできないと思うけど」

かすみ「……私もちょっと気になるので見学します!」

かすみ「目隠ししたしず子と二人きりにしたら何か起こりそうだし……」ボソッ

しずく「何か言った?かすみさん」ニコッ
 
125: (もも) 2022/12/22(木) 23:53:16.27 ID:MMmTtJ3e
かすみ「い、いや何も……」

侑「それじゃあまずは、軽く障害物を作って、私たちの指示で動いてもらうよ!」

しずく「はい!」

……
…………

 目隠しをする。すると、視界は遮断される代わりに聴覚が敏感になる。最近の目隠し練習の成果か、なんとなく物の気配が分かるようになってきた。

侑「はい、そこを右!右だよ!三歩くらい!!」

かすみ「横になった椅子が置いてあるよ!!ああ、危ない!危ないよしず子!!」

しずく「あぅっ」

 障害物に躓く。見えている人が見えていない人に指示をするのは存外難しいらしい。そして、指示を完璧に理解する。それもなかなか難しい。

かすみ「ちゃんと避けなきゃだめだよしず子!!ああ!!ほら、そこ!!そこヤバい!!」

しずく「ヤバいじゃ分かんないよかすみさん!もうちょっと具体的に言って!!」

侑「ゆっくり前方に手を出してみて!うん!触ったそれはね、横にした机だよ!それを右に辿っていく感じで……」

しずく「はい!ありがとうございます!」

かすみ「え、違うよしず子!そこは左だよ!騙されちゃだめだよ!!」

しずく「え」

 かすみさんの言葉に私はつい動きを止める。この稽古は騙す騙されつつもあるの!?そんな戦略性のある稽古なの!?

侑「ああ、違うよ!しずくちゃんから見て右ってことだよ!私は騙してないからね!」

かすみ「あ、そうだったんですか!なるほど!やっぱり右だよしず子!!」

しずく「え、右でいいんだよね?あれ、右ってどっちの右だっけ……?侑先生から見て右?私から見て右?今これどっちの右?あれ?頭がこんがらがってきちゃった!!」

侑「落ち着いて!まずは深呼吸だよしずくちゃん!」

しずく「は、はいっ!すぅ……はぁ~……」

かすみ「……今思ったんですけどこれ。もしかして、指示する人がいない方がいいんじゃないですか?」

侑「え……。あ、確かに言われてみれば……盲目の人が目の前にいるのに、言葉だけで介助する人っていないよね」

かすみ「リアリティって点で言えば、手とか繋いで導いた方が、現実味がありそうです……」

 え、障害物とか散々配置した後に言うの?

しずく「これはあくまで役に入り込む為のものだから!盲目の人の不自由さを体験する稽古なだけだから!」

 とまぁ。色々と紆余曲折がありつつも、色々な目隠し稽古をした。
 
126: (もも) 2022/12/22(木) 23:54:51.21 ID:MMmTtJ3e
──

 私が指示する立場をしたり。

しずく「かすみさん!頭下げて!ぶつかっちゃうよ!」

かすみ「えっ!上にも障害物があるの!?どうやってくっつけたの!?」

侑「それはまぁ、色々さ」

かすみ「色々って何ですか!怖いですよぉ!目隠しとってもいいですか!?」

しずく「いやだめでしょ。私の稽古に付き合ってくれるんでしょ!頑張って風紀委員さん!!」

侑「そうだよ!頑張れ風紀委員!あそれ風紀委員!」

しずく「ふーきいいん!ふーきいいん!ふーきいいん!」

かすみ「お……うおおおおおおおおお!なんだか勇気が湧いてきましたよ!かすみん、張り切って行きます!!」

侑「あ」

かすみ「ぎゃんッ!?」

しずく「……ふむ。目が見えていない人を調子付かせてはいけない、と」メモメモ

侑「そんな冷静に……。って大丈夫かすみちゃん!?」

──

──

 手を引いて貰いながら歩いたり。

侑「それじゃ、しっかりと私の手を握ってね!」

しずく「はい……」

 侑先生の手。珠宝へ行くときに握って以来だ。相変わらず少し硬いけど、頼もしく温かい手をしてる。
 やっぱりついついニギニギしてしまう。

しずく「……」

侑「あ、あの……そんなニギニギされるとやり辛いというか……」

しずく「あ、すみません」

 これは稽古なんだ。自分の欲を優先させちゃあいけない。

かすみ「……かすみんだって握りたいですけど」

侑「え、今はだめだよ。しずくちゃんの番なんだから。っていうか、手を握る稽古じゃないからね?」

かすみ「分かってますけどぉ……!」

 見えなくても分かる。
 恐らくかすみさんは不満の表情をしているんだろうと。唇を尖らせて、もしかしたら私のことを睨んでいるかもしれない。
 なんだろうこの感情は。これは……優越感、か……。

しずく「ごめんね、かすみさん。ふふふっ」

かすみ「あ、あ~~!!鼻で笑ったね!!かすみんも突撃だよこんなの!!」

侑「わわっ!これじゃあ稽古にならないYO~~!!」

──

……
…………

 一通り、私がやりたかった目隠しの稽古は終わった。正直に言うと遊びの延長線上のようだったけれど、学んだことも多い。

侑「どうだった。しずくちゃん。私たち、役に立てたかな?」

しずく「そうですね……。当たり前のことですが、目の見えない人を先導するにも能力がいるんだと思いましたね」
 
127: (もも) 2022/12/22(木) 23:56:23.00 ID:MMmTtJ3e
かすみ「あぁ~確かに。手を引けば指示なんていらないと思ってたけど、手を引きながらも指示しなきゃいけないことってたくさんあったし……」

しずく「うん。だからきっと、私が演じる盲目の少女のアステーリと、それを介助する犬のスターラは、かなり苦戦したんだろうなぁ、って思ったよ」

しずく「それに人と犬っていう種族的な差もあるから言語も通じない。そんな中で、最愛の家族とまで信頼し合えるようになるには、どれだけの山場を乗り越えてきたんだろう……」

 やはり、頭で考えるだけでは限界がある。部長の言う通り、豊かな経験は役者の演技を豊かにさせる。侑先生とかすみさんがいてくれてよかった。

かすみ「ふぅん……。演劇のことはよく分からないけど、しず子ってすごいね」

しずく「え?」

 突然の賛美に思わず疑問符が口から出る。

かすみ「私には分からない世界だもん。架空の人を演じるのに、ここまで本気になれるなんてさ。ほとんど遊んでいるように見えてたけど、しず子の中ではちゃんと真面目に考えられてたし」

しずく「そう、だね。私の中で演じるっていうのは、やっぱり特別な意味があるから……」

 他の人から見たら、なぜ架空の物語にここまで本気になれるのか分からないのかもしれない。
 でも、私にとって演劇とは、演じるとは、生きる上での処世術でもあり、単純に楽しい存在なのだ。
 言ってしまえば……。

しずく「演劇は私の、生きる意味だから」

 確信を持って、私はそう言えた。

しずく「生まれてから今まで、私はずっと『演じる』ことで生きてきたんだもん。演劇は私の生きる意味だよ。でも最近になって、私にとっての演技は、自分の思いを表現する場所になってきたんだ」

しずく「素直になれない自分。我慢しちゃう自分。上手く表現できない自分。そんな自分を、どこかの誰かを演じている時はストレートに表現できる」

しずく「それに、どこかの誰かを演じる過程で、私の中にいる私を再発見できるんだ。他の人の中から自分を見つけられる」

 オーディションの時、今の私は『底知れない器』ではなく、『ただのしずく』だって再発見できたように。

しずく「今の私は、私の中にいる私を見つける為に、演劇をしているのかも……」

侑・かすみ「……」

 あ、話しながら整理していたら、長い自分語りになってしまった。

侑「……うん。そうだね。自分の中にいる自分に気づくには、他の人のフィルターを通す必要があるかもしれない」

 そんな私の自分語りに、侑先生は共感してくれた。
 
128: (もも) 2022/12/22(木) 23:57:58.14 ID:MMmTtJ3e
侑「私も、色々な物語に触れたり、色々な譜面を弾く中で、そういうことを思う時があるよ。語り手の文章に共感したり、逆に否定したり、自分はこのメロディが好きだなぁとか嫌いだなぁ、とか」

侑「先人の作品に触れる意味の一つは、自分探しなのかもしれないね」

しずく「……自分探し、ですか。まさに私が演劇をする目的かもしれません」

 そうか。
 私がここまで演劇にハマった理由って、どこかの知らない誰かを演じる中で、自分を見つけようとしていたからなのかもしれない。空っぽな自分が嫌で、でも、どこかにはあるんじゃないかって、模索し続けた結果が今の私なんだ。
 私はかすみさんが好きだ。かすみさんが好きだって、かすみさんを通して『かすみさんが好きな自分』を見つけることができた。
 私は侑先生が好きだ。侑先生が好きだって、侑先生を通して『侑先生が好きな自分』を見つけることができた。
 もっと、空っぽで弱い自分のまま接していれば、こんなに悩むことは無かったのかな……?

かすみ「……?よく分かんない……」

 かすみさんも今の話を聞いていたけど、よく分からなかったらしい。

侑「まぁ、なんだろう。やってみて初めて気づくことがある的なことだよ」

かすみ「じゃあそう言えばいいじゃないですか?」

侑「あはは。かすみちゃん、なんでもかんでも一言に収めようとするのはね、情緒がないって言うんだよ」

かすみ「じょ、情緒がない……。それはなんだかとっても嫌な感じがします!!しず子!私にも分かりやすく説明してよ!!」

しずく「えぇ。これを言語化するのはちょっと難しいっていうか……」

 主観的なことだし、非常に感覚的な問題だ。でも、そういってもかすみさんは納得しないんだろうなぁ。

かすみ「だめ!情緒が無いかすみんとか可愛くないもん!情緒のあるかすみんでいたいもん!!」

しずく「情緒のあるかすみんて……」

侑「……じゃ、じゃあ私はそろそろ劇場ホールに行くから……」

 いつの間にか、侑先生は教室の扉の前にいた。素早い。

しずく「ゆ、侑先生!私も行きます!かすみさんは風紀委員があるよね?付き合ってくれてありがとうねーっ!」タッタッタ

かすみ「あ、こらしず子!侑先生!逃がさないよぉ!!」ダダダッ

 かすみさんの大声を尻目に、私は侑先生の背中を追う。
 ……ふふ。なんだか楽しい。
 月並みな言葉だけれど、こんな日々が一生続いて欲しいって、そう願ってしまう。
 でも、もし……。一つ悪い予感をしてしまった。
 もし、どこかの誰かを演じる中で、自分が一切共感することができなくなってしまったら。
 もし、どこかの誰かを通して、自分が一切何も感じることができなくなってしまったら。
 そうなれば、私は生きる意味を失ってしまうんじゃないかって、私は本当の意味で私を失うことになるんじゃないかって、ひどく怖くなる。
 そう不安に思った瞬間、私は部長の言葉を思い出した。
 
129: (もも) 2022/12/22(木) 23:59:32.48 ID:MMmTtJ3e
──
部長「私は君の『底知れない器』に魅力を感じた。でも、今『自分』があるしずくは『底知れない器』では無くなってしまった」

部長「だから私は思うんだよ。『底が抜けてしまわないか』と……」
──

 そんな日が来るのは、底が抜けてしまう日なんじゃないかって。

侑「ほらっ。しずくちゃん!早く!」

 振り向いた侑先生は、楽しそうな笑顔を浮かべていた。
 私は今の不安を悟られないよう、見たくない物にフタをするように、笑みを浮かべる。

しずく「……はいっ」ニコッ

 今はただ、この幸福に身をやつしていたい。そう考えるのは、我がままなんだろうか。

▲高咲侑のアパート▲

 まんべんなく体を洗った後、浴槽に浸かる。

侑「あっ……あふぅ……。風呂は命の洗濯、だねぇ……」チャプン

 今日も今日とて疲れたが、充実感の方が強い。
 他の先生との人間関係、生徒とのやり取り、教師自体の職務内容、その全てを段々自然に行えるようになってきている。つまり、高校教師として体が馴染んできた証拠だ。

侑「いい感じだ。うん。実にいい感じ……」

 浴槽の縁に肘をついて、天井を仰ぐ。
 しばらく、何も考えない時間が続く。

侑「……。いい感じだけど、やっぱりちょっと寂しいなぁ……」

 教師になって人と関わる時間が増えたからだろうか。こうして独り身の部屋に戻ると、一層孤独を感じる。仕事は順調なはずだけど、プライベートが充実していないってことかもしれない。

侑「あぁ、そうだ……。しずくちゃんのご褒美を考えなきゃ……」

 ……。
 今思ったけど、仕事上関わる生徒とプライベートで一緒に過ごすって、いいのかな……。まぁいいでしょ。しずくちゃんのお母さんとは面識があるし。親子公認(?)って奴さ。

侑「で、何をご褒美にするか……。物って言ってもなぁ……」

 う~ん。しずくちゃんが求めてるご褒美って、物を送ってはい終わり!って感じじゃないと思うんだよね。
 演劇が好きなせいか、ロマンチックが過ぎるところがあると思う。だから、プレゼントを渡すとしても、それ相応の場所じゃなければしずくちゃんへのご褒美にならないと思う。

侑「あぁでも、褒めたり頭を撫でたり、とかでいいって言ってたっけ……。う~む。それで納得するしずくちゃんでも無い気がする」

 しずくちゃんはアレだ。腹に一物を抱えている。
 表面上は感謝こそすれ、心の中では「ケッ。頭撫でたくらいで満たされるって思わないことですね!」とか思っているはずだ。
 ……いやいや。キャラ崩壊を起こしているかも……。

侑「とりあえず、今日のしずくちゃんでも振り返ってみるかぁ」

 今日のしずくちゃんは盲目の少女役への理解の為、自ら目隠しをする体験をしていた。私は指示をしたりされたり、手を引いて先導したりした。
 そういえば、手を握っている時、かすみちゃんにドヤ顔してたっけ。意外と……いや、よく考えると意外でもなく、しずくちゃんって独占欲強いよなぁ。
 独占欲……。ふむ……。

侑「しずくちゃんと私だけの思い出となるような場所。それをご褒美にすれば、しずくちゃんも花丸をくれるかもしれない」

侑「よし!その方向で行こう!あ、ついでにオフィーリアとの散歩も一緒にしようかな」

侑「よーし。しずくちゃんへのご褒美は決まったぞーっ!早速LINEだぁ!!」ザバーン
 
130: (もも) 2022/12/23(金) 00:01:05.54 ID:6GgxOBUo
▲桜坂邸▲

しずく「ふっふっ……」ノビノビ

 お風呂上がりのストレッチ。これはいつもの日課。欠かさず行わないと、すぐに硬くなっちゃう。声の伸びにも関係するし、欠かしちゃいけない日課だ。

ブブブブ…

しずく「ん?あ、侑先生からLINE……」

侑『こんばんは。しずくちゃん』

侑『次の土曜日って演劇部の活動休みだし、前言ってたご褒美の日にしようと思うんだけど、どうかな?』

しずく「つ、遂に来た!!」

 私は待ちに待った運命の日が遂に来たんだと舞い上がる。ご褒美の約束をしてから早数十日。もうすぐ八月にもなろうかとする今!
 忘れちゃってるのかなって心配になった夜もあった。けれど、侑先生は真剣に考えてくれていた。
 ここまで時間を空けて返事をしてくれた。とどのつまりこれは、私へ真摯な対応をしようと、苦慮していたからに他ならない!

しずく「え、えと……。『嬉しいです。土曜日よろしくお願いします』、と……」

しずく「ん……んふふ……」

 いけない。頬が緩む。でも、誰も見てないし別にいいよね。今だけは緩みっぱなしのほっぺでも!

侑『それじゃあ、土曜日は朝早くから色々連れ回すからさ、覚悟しておいてね!あとオフィーリアも一緒にね!』

しずく「え?オフィーリアも……?」

 そういえば、私が風邪で寝込んでいた時、一緒にオフィーリアの散歩に行けなかったことを悔やんでたっけ。その時のこと、覚えていてくれたんだ……。嬉しい……。
 ……。
 どこにでもあるような河原を、オフィーリアと一緒に散歩をする私と侑先生。
 侑先生は頼もしいけれど、オフィーリアの引っ張る力に負けちゃってたたらを踏む。あわや転んでしまう!というところでそんな侑先生を私が受け止める。

侑「あはは……。先生なのにちょっと情けないや……」

しずく「いいえ。ちっとも情けなくなんかないですよ」

侑「そ、そうかなぁ?」

しずく「私は、頼もしく強い侑先生だけじゃなくって、弱い侑先生のことも知りたいです。だからもっと、私を頼ってくれていいんですよ……?」

侑「しずくちゃん……」

しずく「侑先生……」

 暮れなずむ夕日を背に、二人の唇はどんどん接近して──

スイ「妄想してるところ悪いんだけどさ、しずく」

しずく「はぅああっ!?」

スイ「いいのかい?既読してからもう数分以上経過してるよ?早く返信しないといらぬ誤解を招くんじゃないの?」

しずく「あ、あああ、う、うん……」

 侑先生への想いがスイに筒抜けなのはもう今更のことだけど、今回は妄想に行くまでシームレス過ぎた……。ちょっとだけ恥ずかしい……。

しずく「えっと……『はい。オフィーリアも一緒ですね。了解です』っと」

しずく「『土曜日のデート、楽しみにしてます』っと」
 
131: (もも) 2022/12/23(金) 00:03:38.73 ID:6GgxOBUo
しずく「ふぅ。これでいいかな」

スイ「……。ねぇしずく、私は最近君が天然なんじゃないかって思ってきたよ」

しずく「え?」

ブブブブ…

 あ、侑先生からの返信……。

侑『大人の私が、しっかりとしずくお嬢様をエスコートしてみせますよ!私も土曜日が待ち遠しいよ!じゃ、おやすみ!!』

しずく「……?何この気取った言い回し……」

 やや困惑気味の私の目が次に捉えたのは、先ほど私が送ったメッセージ。

『土曜日のデート、楽しみにしてます』

しずく「……」

しずく「……」

しずく「……!!!!!!!!」

しずく「ちょ、えっ……。で、でででででデートって送っちゃったぁ!?」

しずく「あ、あ、あ、あわわわわわわわわ!!」

しずく「ど、どうしようどうしよう……!!どうしようスイ!!」

スイ「ふむ……。私にいい考えがある。ちょっと体を貸してもらうよ」

しずく「さすがスイ!頼りになるね!!」

スイ「えぇと、『大人の魅力でメロメロになっちゃうかもしれないですぅ♡おやすみなさい侑せんせっ♡』っと」

しずく「お、おおおおおおおおお!?」

 今まで出したこともない声が腹の底から飛び出す。

しずく「何やってんの!?」

しずく「任せたの私だけど!!悪ノリが過ぎるってもんだよスイ!!」

スイ「ははは」

しずく「はははじゃないよ!!あぁ、もうどうすればいいの……。変な子選手権に出たら一瞬でチャンピオン君臨だよ……」

スイ「ふふっ」

しずく「ふふっ、じゃないよぉ……。おやすみなさいって打っちゃったから訂正もできないし……あぁ、ほら、既読も付いちゃったし……。侑先生も困惑千万だよこんなの……」

スイ「困惑千万て……。まぁいいじゃない」

しずく「うぅぅ~……」

スイ「……ご、ごめん、しずく。つい……」

しずく「うぅぅぅ~……」

 私はキッとした目で鏡を睨む。そこに映るのは私だけど私じゃない。

スイ「ごめんって……。前より変な子って言われるのが怖くなくなったしずくだからさ。ちょっとふざけてみたかったんだよ……」

しずく「……まぁ、確かに?前ほど人の目を気にしなくなったけど……。でも私は、クールで清楚かつ優等生な桜坂しずくとして、侑先生と接したいのに……」
 
132: (もも) 2022/12/23(金) 00:05:18.67 ID:6GgxOBUo
 これじゃあ悪ノリ不思議ちゃんな桜坂しずくのキャラが定着しちゃうよぉ……。

ブブブブ…

侑『そういうキャラのしずくちゃんもいいね!土曜日は色んなしずくちゃんを見せてね!』

しずく「……」

しずく「……スイ」

スイ「はい」

しずく「許す」

スイ「寛大な処置。誠に痛み入ります……」

 まぁ、いっか……。
 私の怒りはどこへやら、侑先生からの一言で霧散してしまった。
 ……私も。
 侑先生と接する中で、いろんな自分と出会えそうです……。

しずく「あ、これいい」

しずく「これを返信にして、今日はもう寝よう……『侑先生と接する中で──』」

ブブブブ…

侑『なんだかちょっとかすみちゃんっぽいしずくちゃんだったね!』

しずく「……」

 それは、どうなの。侑先生。
 ここで他の女の名前を出すのはどうなの。

しずく「あーあもうっ!!なんだかモヤモヤが晴れたと思ったらさらにモヤモヤする!!」ガリガリ

スイ「それもまた、新しいしずくの一面じゃないのかい?」

 得意げに指摘するスイ。上手いこと言ったって思ってるんだろうなぁ……ッ!

しずく「う~……。スイ!あなたは今日一日!出てきちゃいけません!」

しずく「全然反省の色が見えません!何が『寛大な処置、痛みります』だよ!」

スイ(あ……強制的に封じ込められた……)

スイ(……。まぁでも……。よかったね、しずく。侑先生と出会えて)

スイ(ゼロからやり直した時と比べて、ずいぶんしずくらしくなった)

スイ(私は、今のしずくが大好きだよ)

しずく「あー、もう……どうしよう返信……」ポカポカ

 こうして夜は更けていった……。

▲桜坂邸玄関前▲

 デートの当日である土曜日に、なってしまった。思い返してみれば、期日が決まってからの一週間は、稽古に身が入っていなかった。私はオンオフの切り替えが上手な方だと思っていたけど、恋愛が絡むと形無しだった。
 稽古中、ミセスから長い長いなが~い説教をされた記憶もあるが、その時でさえ侑先生とのデートを夢想していた。「そんなだらしない顔で稽古ができるかいっ!」と言われた後は、さすがに自分を取り戻したが……。

しずく「ふぅ……。今日は待ちに待ったデート……。舞い上がり過ぎて変な行動取らないようにしないと……」

 オフィーリアを撫でながら自分を諫める。
 
133: (もも) 2022/12/23(金) 00:07:06.21 ID:6GgxOBUo
しずく「ねぇスイ。今日の私の格好、侑先生に可愛いって思ってもらえるかな……?」

スイ「しずく……。それ聞くの今日で何度目だと思う?何度も言うけど、しずくによく似合ってるよ」ゲッソリ

 今日の私は、ノーカラーで淡い水色のワンピースを着ている。靴は涼し気にローヒールサンダルを履いている。私のトレードマークであるリボンも、念入りに手入れをしたものだ。抜かりはない、はず……。

スイ「朝からファッションショーを開かれるこっちの身にもなってくれよ……」ゲッソリ

しずく「ごめんね、スイ。でも、おかげで納得できたから!」

スイ「ついさっき可愛いって言ってもらえるかな、とか言ってたくせに……。私はずっと引っ込んでおくからさ、楽しんできなよ」

しずく「うん……ありがとう」

スイ「それじゃあね」スッ…

しずく「……。やれることはやった、かな……。それにしても、今日も暑くなりそうだなぁ……」

 手庇を作って、まだ天頂へと昇りきっていない太陽を見る。すでに八月に入っており、夏の暑さは猛威を振るっている。
 と、ここで。家の前に一台の車が停まった。
 その車は侑先生の髪色同様、黒を基調としており、普通の車と比べると速そうな印象だった。

侑「おはようしずくちゃん」ガチャ

しずく「おはようございます。侑先生っ!」ニコッ

 車から降りた侑先生は、デニムに白いシャツというシンプルな服装だった。しかし、普段見慣れているフォーマルな服装と違って、私服の侑先生はなかなか破壊力があった。

侑「う~ん。いいねそのワンピース!清楚なしずくちゃんによく似合ってるよ!」

しずく「あ、はい……。ありがとうございます……。朝何時間も選んだかいがありました」ボソッ

 ニヨニヨと頬が緩むが、鋼の意思でそれを抑えた。

侑「ん?なんて言ったの?」

しずく「い、いえ!特に何も!」

侑「そう?それじゃあ、しずくちゃんのお母さんに一言挨拶したいんだけど、いい?」

しずく「あ、母はもう仕事に出かけているのでいません。なので、私とオフィーリアしかいませんよ」

侑「あ、そうなんだ。じゃあデートから帰ったら、よろしく言っておいてね」

 自然な風にデートと言う侑先生に面食らった。けれど、動揺を押し〇す。こんなことで一々動揺していたのでは心臓がもたない。
 侑先生は冗談で言っているんだろうなぁ……。くぅ、圧倒的な人生経験の不足を感じる!

しずく「はいっ。では、行きましょうか」

オフィーリア「わふんっ!」

侑「お~、オフィーリア。元気だった~?行く前にちょっとモフモフさせてね!」モフモフ

オフィーリア「わうわうっ!」

侑「おぉグッドボーイグッドボーイ!」

オフィーリア「わふふ~ん……」スリスリ
 
134: (もも) 2022/12/23(金) 00:08:42.54 ID:6GgxOBUo
 オフィーリアは人懐っこい性格だけれど、侑先生には特に懐きが早い気がする。私との縁を取り持ってくれているのだろうか……。
 嗚呼、それにしても、オフィーリアとたわむれる侑先生……素敵です。

しずく「……」パシャ

 つい、撮影してしまう。うん。いい映りだ。

侑「あ、しずくちゃ~ん。撮るんなら一緒に撮ろうよ!ほら!」

しずく「え」

 侑先生は私の肩を抱く。慣れている感じの仕草だったけど、私はもちろん慣れておらず硬直してしまう。

侑「ほらほら、笑顔笑顔!はいチーズ!」パシャ

しずく「に、にぃ……」ニコッ

オフィーリア「わふわふ!」

 女優の意地で自然な笑顔を捻出した。よし、なんとかやれそうだぞ、私……。あ、侑先生の手が肩から離れる……。残念。

侑「よし。モフモフは堪能したし!それじゃあ早速出発しよっか!」

しずく「はいっ!」

 うぅん。焦ることはない。今日は丸一日侑先生とデートをするんだ。オフィーリアと侑先生のように、私と侑先生が触れ合う機会なんていくらでもある、はず……。
 だから今は、元気に返事をしておく。

侑「オフィーリアは後部座席でね。車も慣れてるんでしょ?」

しずく「はい。お気に入りの散歩コースがちょっと遠いので、週一くらいのペースで車に乗ってそこまで行くんです」

侑「へぇ~。いいねぇオフィーリア」

オフィーリア「わうんっ!」

侑「じゃ、しずくちゃんは助手席でね」

しずく「はい!」ガチャッ

 助手席に座り、シートベルトを締める。すると、車内はなんだか独特の匂いがした。
 他人の家に入るのと同様、他の人の車に入ると、その人特有の匂いがする。侑先生の車は……消臭剤で無理やり消したようなにおいがする。
 たまに煙草の匂いがするし、今日の為に消臭したんだろうなぁ。

侑「よしよし。大人しくしてくれて偉いぞオフィーリア!グッドボーイグッドボーイ!」

 匂いに対する気遣いは嬉しい。けれど、ちょっぴり残念かも……?
 まぁ一先ずそれは置いておいて。侑先生には一言言っておくべきことがある。

しずく「侑先生。オフィーリアはメスです」

侑「あ……あぁそうなの!ごめんオフィーリア!グッドガールグッドガール!!」

オフィーリア「わうんっ!」

 かくして。待ちに待ったデートは始まった──

▲繁華街▲

 私は車を走らせ、まずは繁華街へと向かった。
 犬も同伴可能なお店に行く為である。

侑「さ、ここが私おすすめのお店だよ!」

カランカラン…

しずく「へぇ……。雰囲気のいいお店ですね」

 犬と一緒に食事が可能な喫茶店だった。
 スペースが広めにとられており、他のお客さんとの距離がある程度離れていて、その分席数が少ない作りになっている。
 
135: (もも) 2022/12/23(金) 00:10:24.24 ID:6GgxOBUo
侑「そうだね。私もたまに来て、他のお客さんが連れているわんちゃんを見たり、この喫茶店で放し飼いになってるわんちゃんに癒されにきてるんだ」

オフィーリア「わぅうん……」

侑「おや、オフィーリアどうしたんだろう。なんだか元気がないような……」

しずく「あぁ。大丈夫だよオフィーリア。ここはオフィーリアが入ってもいいお店なんだよ」ナデナデ

侑「え。入っちゃいけないと思って縮こまってたの?賢過ぎるよオフィーリア!」

オフィーリア「わうわうっ!!」

 大丈夫と分かると、オフィーリアは尻尾をブンブンと跳ねさせていた。好奇心の赴くままに行動したいらしい。

侑「他のわんちゃんも自由に歩いてるし、首輪外しちゃおうか」

しずく「そうですね。行っておいで」ガチャ

オフィーリア「わふふ~~ん!!」ダッ

 オフィーリアはそういって、犬用の遊具が置いてあるスペースへ突撃していった。実に元気である。

侑「じゃあ私たちも席に着こうか」

しずく「はいっ!」

 私たちは店員さんから指定された席に座る。あらかじめしずくちゃんには朝ご飯を抜くように言っておいたので、ここで食べることにした。

侑「ん~、しずくちゃんは何にする?私はいつも通りパンケーキにしようかな」

しずく「そうですね……。侑先生のおすすめってなんですか?」

侑「うむ、しずくちゃん。いい質問だよ。ここはね、わんちゃん用の食事も高水準ながら、飼い主用の餌もハイレベルなんだよ!!」

しずく「か、飼い主用の餌、ですか」

侑「うん!私のおすすめはこのパンケーキ!それと、このジャンボパフェ!」

 私は素早くメニュー表を開き、該当のパンケーキとパフェのページを開く。

しずく「あ、確かに美味しそうです!でも、朝ご飯っていうかおやつみたいな気が……」

侑「甘い物は別腹とは誰が決めたのか。甘い物が主食でもいいじゃない!って、待てよ。しずくちゃんって甘い物苦手だった?」

しずく「あ、いえそういう訳じゃありませんよ。それじゃあ私はこのジャンボパフェにしますね」

侑「そっかそっか。それなら良かった……。オフィーリアにはこの、『わんチャンススペシャルデラックス』にしよう」

侑「ぷぷっwわんチャンスてw」

しずく「どんな物が出てくるのか、想像もできませんね……(一体何がそんなに面白いんだろう……)」

侑「あ、店員さ~ん!注文お願いします!」

……
…………

侑「うっひょーっ!来たよ来たよ!お待ちかねのパンケーキ!」ザクッ

侑「いただきます!あ~むっ!~~~!!おいひぃなぁ……」

 口の中に広がる甘さ、鼻腔を軽やかに抜けるパンケーキの馥郁……。たまらん。
 私がモグモグしていると、しずくちゃんは目の前のジャンボパフェにより呆気に取られていた。
 
136: (もも) 2022/12/23(金) 00:12:06.47 ID:6GgxOBUo
しずく「で、でっか……」

侑「まぁジャンボだしね」モグモグ

しずく「え、これメニュー表と違いません?逆パッケージ詐欺って奴ですか?明らかにデカすぎますよ」

侑「まぁまぁ。一先ず食べてみなって。ほら」

 大きさに圧倒されるしずくちゃんはまず、食べた方がいい。
 私はパフェ用の長めのスプーンでクリームを取り、しずくちゃんに差し出した。

侑「あ~んしてっ」

しずく「あ、あ~んですか……?ちょ、ちょっと恥ずかしいです……けどっ、あむ!!」

 しずくちゃんは一瞬だけ逡巡した。なんだこの即落ち二コマは……。

しずく「~~!!」

しずく「美味しいですっ!ただの生クリームなのになんでこんな……」

 僅かに頬を紅潮させつつ、ジャンボパフェの味に衝撃を受けていた。
 しずくちゃんは手元のスプーンを手に取り、パフェを口に運び、また衝撃を受けるというサイクルを繰り返していた。

侑「見ていて飽きないねぇ。う~んパンケーキも美味しい!!」

しずく「すごいです……。これがパフェの一つの到達点なのかもしれません……」モグモグ

 そしてしばらく、しずくちゃんは目の前のパフェに夢中になっていた。演劇で培われた集中力が全て、パフェに注がれている気がする。

しずく「……あ」

 その様子を、パンケーキを食べつつ見ていると、しずくちゃんが何かに気づいた。

しずく「そ、その、侑先生も、どうぞ……。あ~ん、してくださいっ」

侑「……!!」

 か、可愛い!!
 私は迷いなく口を開けた。

しずく「……あ~むっ。……どうですか?」

侑「……」モグモグ

侑「おいひぃよぉ……。しずくちゃん効果で美味しさが何倍にも跳ね上がってるよぉ……」

 嗚呼、満たされる。可愛い生徒と……いや、可愛いしずくちゃんと一緒に楽しく食事をする。非常に心が満たされる……。独り身の部屋では絶対に満たされない何かが、ここにはある。
 しずくちゃんへのご褒美のはずが、私の方がご褒美を受け取っている気がする。

侑「じゃ、私からもパンケーキをおすそ分け!はい、あ~んっ!」

しずく「……あ~んっ」モグモグ

しずく「~~!!パンケーキも美味しいですね!!ペットも可能ってだけでも凄いのに、味もこんなに美味しいだなんて……」

侑「でしょ?これからヘビロテするんじゃあない?」

しずく「そうですね。ここまで味も美味しくてオフィーリアと一緒に来られるなら……。あ、でも……」

 それまで顔を輝かせていたしずくちゃんだったけど、突然顔を曇らせる。

侑「どうしたの?」

しずく「で、でも……次に来る時は侑先生がいないんだなって思ったら……。ちょっと寂しくなっちゃって」

侑「……!!」

 な、なんだ今日のしずくちゃんは!!
 私に好意を寄せてくれていることは分かってたけど、ここまで素直だったっけ!?
 可愛すぎるよしずくちゃん!!
 
137: (もも) 2022/12/23(金) 00:14:00.48 ID:6GgxOBUo
侑「じゃあ、次行くときは私にも連絡してよ!それならいいでしょ?」

しずく「は、はいっ!ぜひお願いします!」

侑「うん!ご褒美とかじゃなくて、普通にね」

 うむうむ。普通に行こう。こんな寂し気な顔をするしずくちゃん一人で行かせられないよ。まぁオフィーリアもいるから一人と一匹だけど。
 ん?待てよ?今回はまだご褒美って名目でのデートだけど、次に二人きりで行くときは普通にデートになっちゃう。いや、デートは言葉の綾っていうか冗談みたいなものだけど……。
 これはもう、生徒と先生っていう垣根を余裕で超えているのでは?
 依怙贔屓ここに極まれる!では?

しずく「~~♪おいしい~」モグモグ

侑「……」

 まぁ、いっか……。
 学園の生徒全員と同じ仲良さでいることなんてできないんだし。そもそも私は教育実習生の時から割と依怙贔屓してたし。
 うんうん。私を慕ってくる生徒には、それ相応の特別扱いをしてあげよう!!
 しずくちゃんの満足げな顔を見ると、そう思ってしまった。

侑「しずくちゃん」

しずく「何ですか?侑先生」

侑「甘くて美味しいね」

しずく「はい!それはもう!」

 私のこの考えは、甘すぎるパンケーキとパフェのせいにしてしまおう。
 そんな風に思った。

──
侑「次はオフィーリアのペット用具を見に行こう!」

しずく「はい!」

侑「お、この赤いスカーフ……オフィーリアにめっちゃ似合う!」

オフィーリア「わふふ~ん」

しずく「どや顔しているので気に入ってるんだと思います」

侑「あ、そうだ!どう?しずくちゃん、私にも似合うかな?」

しずく「……!!!!」ビビビーン

侑「え、固まってどうしたのしずくちゃん」

しずく「い、いえ……。侑先生にも赤いスカーフはよくお似合いで可愛らしいな、と……」

侑「あ、可愛い?しずくちゃんにそう言って貰えるだなんて嬉しいよ!」

オフィーリア「わうわうっ!」

侑「お揃いだねぇ、オフィーリア」ナデナデ

しずく「……」

しずく(犬用の道具を身に着ける侑先生……新しい扉を開いてしまったかもしれない……)
──

──
しずく「侑先生はもっと可愛い格好が似合うと思うんです!ボーイッシュなパンツ姿だけじゃなくて、スカートもいいと思うんです!」

侑「い、いやぁ……。私に可愛い系はあんまり似合わないと思うよ……?」

しずく「いえ、私のしずくアンテナがビンビンに告げています。しずくよ、高咲侑に可愛い格好をさせるのですって。だからほら!」ズイッ

侑「え、え~~。そこまで言うなら……」シブシブ

侑「ど、どうかな?」

しずく「……!!か、可愛すぎます!天使を見た時に感じる無垢な感動と、一片の下劣な想い……。あぁ、こんなところに天使はいたんですね……」ウットリ
 
138: (もも) 2022/12/23(金) 00:15:44.65 ID:6GgxOBUo
侑「し、しずくちゃん?ちょっと暴走してない?」

しずく「いえ、至って平常運転です。レジに行ってきます」

侑「えぇ!?試着だけならまだしも、買うんなら私がお金を出すよ!」

しずく「だめです。生徒という立場が下の私が購入することで、侑先生はスカートを着ずに蔵の奥に仕舞うという選択肢が取りづらくなります。そこが狙いなんです」

侑「く、くぅ~~。なんて策士なんだしずくちゃん!!」

しずく「ふふっ。観念してくださいね」
──

──
おばあさん「おやおや、可愛いわんちゃんだこと。撫でてもいいかしら?」

しずく「はい、優しく撫でてくださいね」

おばあさん「よしよし……。あらまぁ、人懐っこいいい子ねぇ」ナデナデ

オフィーリア「わぅぅん」

侑「オフィーリアは誰にでも懐くよね」

しずく「いえ、そうでもありませんよ」

侑「え?」

しずく「任侠系とかギャング系とか、悪そうな人が出てくる映画を一緒に見て、懐いても大丈夫そうな人か判断させる訓練をさせているんです」

侑「そ、そりゃあすごい(ランジュちゃんと接触したらどうなるんだろう……。ちょっと気になるなぁ)」

おばあさん「うふふ。でも、私とあなたたちじゃあ、振りまく愛嬌が違うわね」

侑「え、そうなんですか?」

おばあさん「えぇ。年を取ると分かるのよ。犬でも人間でも。どれくらい信頼を置いて相手に接しているかって」

おばあさん「この子の飼い主さんは……あなたね。リボンのお嬢さん」

しずく「あ、すごいです。確かに私が飼い主です」

おばあさん「この子、なんだかあなたに『がんばれ!』って言っているみたいよ?」

侑「えぇ!!そんなことまで分かるんですか!?すごいですね!!って、何を頑張るの?」

おばあさん「うふふ……。それを言うのは無粋ってモノじゃないかしら?」

侑「……?」

しずく「……ガンバリマス」
──

▲繫華街内広場▲

オフィーリア「わふふ~ん♪」

 オフィーリアは侑先生に買ってもらった赤いスカーフを身に着けご機嫌そうだった。
 あの後、私たちは昼食を摂ってゆっくりした後、繁華街の中にある交流スペースの広場へ来ていた。

侑「お~。夏休みってこともあってまあまあ人がいるねぇ」

しずく「そうですね。ですが、夏真っ盛りなので多すぎるって感じではないですね」

侑「うんうん。暑くて外に出るのは億劫だけどさ、こういう広場は微妙に空調が効いてて涼しいんだよねぇ」
 
139: (もも) 2022/12/23(金) 00:17:33.09 ID:6GgxOBUo
しずく「私たちもしばらくここにいましょうか」

侑「そうしよっか。昼食後の食休みってことで」

オフィーリア「わうっ!」

しずく「ふふっ。オフィーリアもこう言っていますし、そこのベンチにでも腰掛けましょうか」

 私たちはやや大きな樹に併設されているベンチへ腰掛けた。二人用のベンチなので自然と侑先生との距離が物理的に縮まる。

侑「じゃあここで休憩した後、もう一時間くらい遊んだら車に戻ろうか。最後にしずくちゃんと一緒に行きたい場所があるんだ」

しずく「行きたい場所ですか?」

侑「うん。今は秘密だけどね。楽しみに待っててよ」

しずく「ふふっ。楽しみにしてます」

 そうして侑先生と談笑していると、ふと、ピアノの音色が聞こえた。

しずく「どこかでピアノの音が……」

侑「あ、あそこからだよ」

 侑先生が指差す方向には、柵で区切られた場所にピアノがあった。

侑「……」ウズウズ

 一人のピアニストとして気になるのか、でもこの談笑を中断してもいいのか、そんな風に悩んでいるように見えた。

しずく「ちょっと聞いていきませんか?」

侑「あ、うんっ!」

しずく「ふふ」

 やっぱり、侑先生って不思議な人だ。私を守ってくれる頼もしい大人な面もあれば、こうして好奇心に突き動かされる子供のような面もある。
 ……きっと、こういうところが、侑先生の人気のあるポイントなんだろうなぁ。
 私たちはピアノの傍まで寄ってみた。

侑「……なるほど」

 ピアノを弾いているのは、特にフォーマルって格好ではない普通の男性だった。
 遠くにいる時は分からなかったけれど、こうして近くで聞いてみるとたまにミスタッチが目立つ。商売で弾いているわけじゃないんだろうか。
 やがて、その男性は椅子から立ち上がる。
 パチパチと、まばらに拍手が周囲から上がった。私と侑先生もそれに倣って拍手をした。演奏終了後、周囲にいた人たちは次第に散っていった。

男A「ははっ。久々だったけど、やっぱりピアノは楽しいな」

男B「お前ピアノ弾けたんだなぁ」

 そんな声が聞こえる。
 少し歩いてみると、『ご自由にお弾きください』という看板が立っていた。勿論、手荒に扱うのはだめ、という注意書きもあった。

しずく「侑先生。このピアノ、自由に弾いてもいいそうですよ?」

侑「あ、そうなんだ」

 自由に弾いてもいいのなら、侑先生のピアノを聞きたくなった。
 エチュードの一環として弾くピアノではなく、演技の後押しをしてくれるようなピアノではなく、純粋な音楽としてのピアノを。
 
140: (もも) 2022/12/23(金) 00:19:17.08 ID:6GgxOBUo
しずく「私、侑先生のピアノ聞いてみたいです!」

侑「え、え~……?それはちょっと困っちゃうなぁ~?」ポリポリ

 後ろ頭を掻きつつ、侑先生は実にシームレスにピアノの前へと移動する。どうやら弾きたくてウズウズしていたらしい。
 侑先生が椅子に座った瞬間、こちらに視線が集まるのを感じた。広場のやや中央に位置する場所にあるため、どうしても目を引くのだろう。
 しかし、侑先生はそんな視線を一切意に介していないようで、柳に風、といった風だった。

侑「じゃあ、そうだな……」

 侑先生は手揉みしながら何を弾こうか思案しているようだった。

侑「……うん、そうだね。今の私の気持ちをしずくちゃんに送るよ。だから、楽しんで聞いてね!」

しずく「え、あ、はいっ!」

 私の気持ち……?
 よく分からないけれど、素直に聞くことにしよう。

侑「……」

 優しく、それでいて厳かに侑先生の指先が鍵盤を押す。
 当然のようにピアノは鳴る。しかし、私の大切な人が弾いているからだろうか。先ほどの男性が弾いている時とは全く別の音に聞こえた。

侑「……♪」

 侑先生の表情は、満たされているようだった。
 軽やかに動く指先は、鍵盤を優しく撫でているように見える。しかし、しっかりとピアノはそれに応え、美しい音階を紡ぐ。
 曲調は……一言ではとても言い表しづらい。不規則にも不協和音にも、一瞬で変化しそうなのに、そうは絶対にならない絶対的なバランスだった。
 たとえるなら、気の向くままにステップを踏むお転婆な少女の気持ち……だろうか。
 聞いているだけなのに、私の気持ちも自然と上がる。私はいつの間にか、ピアノのメロディのリズムを体で取っていた。
 と、同時に気づく。周囲にいる人たちが次々に足を止め、侑先生のピアノに聞き入っていた。
 広場には依然として喧騒で満ちているはず。けれど、ピアノの周りだけはなんだか雰囲気が違って見えた。

侑「……ふぅ」ガタ

 そうしていると、いつの間にか侑先生の演奏は終わっていた。

侑「どうだったしずくちゃん……って、人がいっぱいだぁ」

 椅子から立ち上がった侑先生は、この人の多さに面食らっていた。
 私は素直に、侑先生へと拍手を送った。すると、それに呼応するようにピアノ周りにいた人たちも拍手をしていく。大喝采、とは言わなくとも、確かに侑先生のピアノは周りの人たちの心に染み渡っていたようだ。

侑「あ、どうもどうも……。あはは、ちょっと恥ずかしいや」

 侑先生は頭を下げつつ、こちらへと戻ってきた。

侑「いやぁ、コンサートホールで弾くのとはまた違った感じがあるね」

しずく「そうなんですか?まぁでも、素晴らしかったです!」

侑「あはは……。照れるねぇ」

しずく「侑先生の気持ち、ピアノを通して伝わってきました」

侑「そっか。伝わったのなら、弾いた甲斐があったね!私も楽しかったよ!」ブイッ

 そうしてブイサインを作る侑先生を見て、なんだか無性に胸が高鳴った。

しずく「また、聞きたいです」

 だから、私だけができるアンコールを要求した。

侑「うん。もちろん!」
 
141: (もも) 2022/12/23(金) 00:21:03.68 ID:6GgxOBUo
……
…………

 それから、私たちは車に戻るまで結局談笑をしていた。

しずく「そういえば、どうして侑先生はピアノを始めたんですか?」

侑「あぁ、それはね。さっきしずくちゃんのためにピアノを弾いた理由と同じなんだ」

しずく「同じ?」

侑「うん。人に気持ちを伝える手段。それが私にとってのピアノだったんだ」

しずく「え……?」

 人に気持ちを伝える手段?
 侑先生は自分の気持ちを素直に伝えられる人だ。そんな人がなぜ気持ちを伝える手段として使っているんだろう?

侑「私がまだ学生だった頃、人に言われたんだ。『気持ちを口にしすぎ』だって」

しずく「口にしすぎ?それの何が悪いんでしょう」

侑「う~んそうだね。一言で言っちゃえば情緒がない、ってことかな?」

 情緒がない。その表現は最近かすみさんが引っかかっていた表現だ。

侑「私は何でもかんでもストレートに感情を口にしちゃう。嬉しいも悲しいも全部。だから逆に、もっと難しい表現で相手に気持ちを伝えてみなよ、って言われたんだ」

侑「その素直さが、逆に嘘くさいってさ。ちょっとひどいよね」

 自分の気持ちに素直過ぎるから。
 それは今までの私が抱えていた、自分の気持ちに素直になれないと、正反対の悩みだった。素直過ぎる感情表現だからこそ、人に伝わらない、響かない。そんなこと、考えたこともなかった。

侑「まぁでも、そのおかげでピアノを始めたんだから感謝はしてるんだけどね。実際、千の言葉、万の言葉を紡ぐより、音楽で表現した方が伝わることもあるって分かったからさ」

しずく「なるほど……。私にとっての演劇のように、侑先生にとって音楽は、素直な自分を表現できる場所なんですね」

侑「あぁ~……。確かにそう言われてみればそうかもね」

しずく「なんだかちょっと嬉しいです。同じ感覚を共有してるみたいで」

侑「そうだね……。あぁ、だからかな?」

侑「最初にやったエチュードの時、やけに『調和』したのはさ」

しずく「あ……」

 確かに……。そういうことかもしれない……。

侑「あはは。意外と共通点が多いのかもしれないよ、私たち」ニコッ

しずく「ふふっ……だとすれば、とても嬉しいです」ニコッ

 車に戻る前、そんなことを話した。

▲侑の車の中▲

 繁華街から出て車を走らせること早三十分以上。ドライブは続く。
 時刻はもうすぐ夕方になろうとしており、真夏とはいえ、日が沈み始めていた。

侑「よ~し。それじゃあ降りて、しずくちゃん、オフィーリア」ガチャ

しずく「こんなところでですか……?」ガチャ

 車を停めたのは小さな駐車スペースのある場所だった。
 特にどこかに看板がある訳でもない。そんな車道だった。
 
142: (もも) 2022/12/23(金) 00:22:54.19 ID:6GgxOBUo
侑「さ、ちょっと歩くよ?ついてきてね!」

しずく「あ、はい!行くよ、オフィーリア」

オフィーリア「わうんっ!」

 散歩だと思ったのか、オフィーリアはブンブン尻尾を振っている。
 道路を挟んで侑先生に付いていくと、そこは森の中へ入る道になっていた。人があまり訪れていないのか、舗装された道ではあるけれど、若干けもの道のようにも見えた。

侑「あ、そうだ。虫刺されは嫌だからね。虫よけスプレーかけておくよ。はい、ブシュー」

 侑先生は私へ虫よけスプレーをかけてくれた。オフィーリアは犬のため、肌が荒れるといけないのでかけなかった。

しずく「ありがとうございます。それで、どこへ行くんですか……?」

侑「まだまだ秘密だよ!ほら、散歩再開っ!」スタスタ

しずく「はい」

 夕暮れ時で、こんな人気のない森の中に侑先生と二人……。オフィーリアはいるけれど……。
 あれ、もしかして私へのご褒美ってまさか……。

──
侑『しずくちゃん。ここなら誰も見ていないから声を出しても平気だよ?』

しずく『だ、だめですっ!私たちは……生徒と先生だって、侑先生が言ったんじゃないですか……!』

侑『それは学園の中だけの話だよ?学園から出た今、しずくちゃんと私は違うよ』

侑『言ってしまえば、兎と狼、かな……?私としずくちゃん、どっちが狼かなんて、言わなくても分かるでしょ……?』

しずく『あ……ゆう、せんせ……』
──

 そうして二人の唇の距離はやがてゼロになり……。

オフィーリア「わううんっ!!」

しずく「ピャッ」

 オフィーリアの声で我に返る。

侑「しずくちゃん、到着したよ。ここが、私が連れてきたかった場所」

 今までの妄想を全てかぶりを振ってどこかへやる。
 そうして私の目の前に現れた景色は……。

しずく「わぁ……すごい……」

 そこは、どこまでも広がる海だった。
 今まさに大海原に沈もうとする赤き夕日があり、非常に幻想的だった。まさか、森を抜けた先にこんな場所があったなんて……。

侑「どうかな、気に入ってくれた?私、秘蔵の場所なんだ」

しずく「はい……。すごい、です……」

侑「小さいけどさ、砂浜もあるから下に降りてみようよ」

 侑先生は手招きした。
 今立っている場所は海を一望できるよう、柵のあるやや高い場所にあった。その隣には、狭く小さいものの、確かに砂浜のある場所へ続く階段があった。
 オフィーリアと一緒に慎重に降りていく。
 聞こえてくるのは潮騒と、階段を踏みしめる自分たちの足音だけ。車の走る音や誰かの声など、そういった雑音のない閉ざされた自然の空間。
 一番下まで降りると、砂浜を踏む感覚があった。少し沈み、サラサラとした感じ。
 
143: (もも) 2022/12/23(金) 00:24:43.18 ID:6GgxOBUo
侑「ちょっと海でも眺めながら座ろうよ。ほら、シートもあるし」スッ

 侑先生は砂浜にシートを敷いた。私と侑先生、オフィーリアが座れるくらいの大きさだった。私は、侑先生と肩が触れるか触れないかくらいの距離で座る。
 そうしてスペースを空けたが、オフィーリアは普通に砂浜に座った。
 こ、これじゃあなんだか……。

侑「ここは、さ。落ち込んだ時とか、上手くいかない時とか、そういう時に来る場所なんだ」

 ふと、侑先生が暮れなずむ夕日を眺めながらそう言った。

しずく「そうなんですか……。確かに、下手に明るい音楽とかを聴くより、ずっと気持ちが落ち着く感じがします」

侑「うん。やっぱり気持ちが沈んでいる時はさ、一人になりたいんだよ。ここは人も来ないし、本当の意味で孤独になれる貴重な場所なんだ」

侑「なんていうか、自分の中に沸いた嫌な気持ち、不安な気持ち。そういった、自分を全て受け入れてくれるような場所なんだ」

しずく「なるほど……」

 寄せては返す波の音が聞こえる。その波は、今呟いた言葉も吞み込んだような、そんな気がした。

しずく「でも、そんな場所に私をつれてきてもよかったんですか……?」

 人混みが好きそうな侑先生の、孤独になれる貴重な場所。そんな場所を教えて貰ってもいいんだろうか。

侑「うん。なんていうか……孤独になれる場所だけど、しずくちゃんとは孤独を分かち合えるような、そんな気がしたんだ」

しずく「──」

 孤独を、分かち合えるような。
 その言葉は、なんだかとても胸に響いた。

しずく「私、孤独はずっと味わうものだって思ってました。分かち合うなんて、考えもしませんでした」

侑「まあ、それが普通だよ。私としずくちゃんだから、孤独は分かち合える気がするんだ」

しずく「私と侑先生だから、ですか?」

侑「うん、そうだよ。ちょっと……私の話を聞いてくれるかな」

 それまで暮れる夕日を見ていた侑先生は、私へと視線を向けた。

しずく「はい。話してください」

侑「うん……。実はさ、私は今英語教師をしているけど、元々は音楽教師を目指してたんだ」

しずく「え……」

 音楽教師を……?
 あ、だからピアノを弾くことができたんだ。でも、それならなぜ英語教師に。

侑「言葉じゃない、音楽で自分の気持ちを表現する。そんな素敵なことを、私は伝えたかったんだ。だから、音楽教師になりたかった」

侑「そんな気持ちを抱えていた時にね、私は一人の女の子に出会うんだ」

 女の子……?

侑「とある河原でさ、たった一人で歌ってたんだよ。私はその歌声に惹かれちゃってさ、つい足を止めて聞き入っちゃった。そして聞けば聞くほど分かるんだ。その歌声が一途な想いで歌われていて、その全てが悲哀に満ちているって」
 
144: (もも) 2022/12/23(金) 00:26:34.03 ID:6GgxOBUo
侑「その女の子が歌い終わるまで、私はそこを動けなかった。それほど私は、その女の子の歌声に惹かれてた。言葉ではなく、歌声で気持ちを表現できたからなんだろうね」

侑「それ以来、一生会うことはないだろうって思ってた。でも、教育実習生の時にその子に再会してさ。私のピアノに、その子の歌声を乗せたんだ」

侑「それが私の、『調和』のピアノの一人目だった」

しずく「……!!調和の、ピアノ……」

侑「嬉しかった。楽しかった。ずっと続けばいいって思ってた。でも、その子とは酷い別れ方をしちゃってね。私は、今までのようにピアノを弾けなくなってたんだ。自分の言葉以上に伝わると思っていたピアノが、伝わっていなかったんだって」

しずく「……侑先生」

侑「音楽教師へはなれない、なりたくないって思った。そんな私を立ち直らせてくれたのはランジュちゃんだったんだ。そして、もう一度あの時みたいなピアノを弾けるようになったのは……しずくちゃん。君のおかげなんだよ」

しずく「……え。わ、私、ですか……?」

侑「うん。しずくちゃんの演技にリアルタイムで感情を合わせる。その調和する感覚がさ、あの時の女の子と同じだったんだ。それで私はその時、ようやく理解したんだ。伝わってないなんて、そんなことは無かったって。問題は、もっと別にあったって」

侑「だから、ありがとう、しずくちゃん。私にもう一度、ピアノを弾けるようにさせてくれて」

 ニコリと、侑先生は私に笑いかけた。

しずく「……そ、そんな……ッ」

 私が一番、感謝をする立場なのに。
 私が今こうして、『私』として話せているのは侑先生のおかげなのに。どうして私だけが感謝を述べられているんだ。

しずく「私が、私こそ!感謝、しています……。何も無かった私に、自分をくれたのは、間違いなく侑先生なんです……。こうしてこみ上げる侑先生への大きな想いも全て、侑先生がくれたものなんですよ……?」

侑「あはは……。そっか。そうなんだ……。じゃあおんなじだね、しずくちゃん」

 そういって、笑いかける侑先生の表情は、私の胸をひどくざわつかせた。私の危機を何度も救ってくれた侑先生。
 私はまだ、何もあなたにお返しできていない……。

侑「だからさ、私はしずくちゃんとここへ来たかったんだ。ここでなら、しずくちゃんと唯一無二の思い出を、ご褒美を、プレゼントできるって思ったからさ」

 そういって侑先生は、夕日を眺め始める。そんな侑先生の表情は、時折見せる子供のような顔ではなく、ひどく遠くに感じる大人な顔をしていた。

しずく「……うぅ。ずるいです……ずるいですよ侑先生……」

侑「……かもね。ちょっとずるいかも」

 目頭が今までにないくらい熱くなる。涙がこぼれるのを止められない。

侑「ありがとう、しずくちゃん」

 私が目を手で覆っていると、優しい感触が体を包んだ。
 温かく、安心する一肌の温度。

しずく「ゆ、う……せんせ……う、うぅうううう……っ」

 嗚咽と涙が止まらない私を、侑先生はずっと優しく、撫でてくれていた。しかし、そうされればそうされるほど、私は何もあなたにお返しできないって、そう思ってしまって、涙はより止まらなかった。
 悔しさと情けなさ、そして溢れんばかりの侑先生への想いが、涙を流させた。
 
145: (もも) 2022/12/23(金) 00:28:20.02 ID:6GgxOBUo
……
…………

しずく「その、侑先生。ありがとうございました」ズビッ

侑「うん。泣き止んだみたいだね」ナデナデ

しずく「あ、あんまり見ないでください……」

 ひとしきり泣いた後、ようやく私は感謝を言えた。
 そして泣いている最中、侑先生には、私のことを知って欲しいって思う気持ちが強くなった。

しずく「その、侑先生……」

侑「ん?なに?」

しずく「侑先生が自分の秘密を喋ってくれたので、私も、私の秘密を知ってもらいたくなったんです。聞いてくれますか……?」

侑「……うん。話してくれると嬉しいよ」

 すっかり日が沈み切った今、私は口を開く。

しずく「実は私、二重人格なんです」

侑「なるほど……。って、え?」

 神妙な顔つきから一変して、侑先生は素っ頓狂な声を出した。無理もない。

しずく「論より証拠です。スイ、出てきて」

侑「え、スイ?」

スイ「……出てきたけどさ、いいのかい?これは君の、最も触れられたくない場所なんじゃないのか?」

侑「……?」

しずく「いいの。侑先生は自分の秘密を喋った。私はそんな侑先生に、知られたくない自分の秘密を、知って欲しいって思った。だから、いいの」

スイ「そうしずくが思ったのなら、私からは何も言わないよ。初めまして、高咲先生。私は『桜坂しずく』のもう一つの人格、スイだよ」

侑「え、はい。虹ヶ咲学園二年四組の担任をしている高咲侑です。よろしく、でいいのかな?」

しずく「はい。いいと思いますよ」

侑「あぁ、こっちはしずくちゃんか。顔も声も一緒なのに、雰囲気が違うんだねぇ……。いやぁ、色々な人に会ってきたけど、二つの人格がある人に会ったのは初めてだなぁ」

スイ「まぁ、何人も会うことじゃあないよ」

侑「ちなみに、どうしてスイって名前なの?」

スイ「しずくに類似する言葉と言ったら『水滴』。その水滴から水の部分だけ抜き出して『スイ』なんだ」

侑「へぇ~。しずくちゃんにスイちゃん。なんだか姉妹みたいだ」

スイ「姉妹、か。まぁ確かに、似たようなものかもね」

しずく「スイは、先生に会う前のしずくを作ってくれたんです」

侑「え……?」

しずく「私は物心が付いた頃から、何も感じない子だったんです。怪我をするような高所に行っても恐怖を感じず、遊戯をしても楽しさを感じない。そんな子だったんです。だから、私から離れていく子もたくさんいました。理解できない変な子、それは私を爪弾きにするのに十分な理由だったんです」
 
146: (もも) 2022/12/23(金) 00:30:11.48 ID:6GgxOBUo
侑「……」

しずく「そんな私の中には、いつの間にかスイがいました。スイは私と違って普通の感受性を持っていました。何も感じず変な子と言われる私に対し、スイはたくさんのアドバイスをくれました」

しずく「その結果、どういう振る舞いをすれば普通なのか。どういう振る舞いをすれば異常なのか。そういう一般的な感性をスイから学んでいったのです」

しずく「それで分かったのは、『しずく』が周囲とはまるで別の人間であった、ということです。変な子でいたくない、スイのような普通の子になりたい、そういう感覚はあったので、それを補う為に私が学んだのが演技です」

しずく「それが私、『桜坂しずく』の原点です」

侑「……」

 言い終えた。全て、全ていい終えた。今まで誰にも明かすことは無かった私の本当の秘密。言えば絶対、変な子と、奇異な目で見られることが間違いない私の秘密。
 普通じゃないって、不完全だって、そうバレるのが今まで怖かった。だから隠してきた私の本性。秘密をバラしてしまえば、前のように人が離れていくって分かっていたから。
 でも、侑先生は絶対に離れていかないって。そう思ったから。
 侑先生のことを知りたい気持ち以上に、私のことを知ってもらいたいってそう思ったから──

侑「──ありがとう、しずくちゃん」

 そんな侑先生の回答は、感謝だった。

侑「私に話してくれてありがとう」

しずく「……はい」

侑「しずくちゃんが今までどんな思いをしていたのか。その全てを知ることはできないけど、今まで誰にも言っていない秘密を私に話してくれた。これがどれだけの決心なのかは伝わってきたよ」

侑「私のことを、そこまで信頼してくれて、ありがとう」

侑「私は、しずくちゃんから離れることはないよ。それは、絶対に変わらない、不変のこと。これだけは、覚えていてね」

しずく「あ……」

 侑先生、どうしてあなたは……私の欲しい言葉を全てくれるのだろう。そしてその言葉が、嘘偽りに満ちたものではなく、全て本心から来る言葉だって、分かる。
 先ほど止めたはずの涙が、また流れ始めている。

スイ「──まぁ、そういう訳だよ、高咲先生」

 だが、スイと人格が入れ替わったことで涙は止まった。

スイ「しずく以外とコミュニケーションがとれるなんて一生ないと思ってたからさ、正直嬉しいよ。これからよろしくね」

侑「あ、うん。よろしくねスイちゃん」グッ

 スイは私の体を操って握手をしていた。
 涙をこれ以上流しちゃまずいって、だめだって、そう思ったけど……。もうちょっと浸らせてくれてもさぁ……。

スイ「さぁ、それじゃあそろそろ帰ろうよ。もうとっくに夕日は沈み切ってるし。これ以上は帰り路が危険になりそうだ」

侑「あ、そうだね。じゃあ、帰ろうか。しずくちゃん。オフィーリア」

しずく「あ、はい……」

 う~ん。微妙に煮え切らない終わりになっちゃったなぁ……。
 まぁ、スイが私以外とお話できるようになったのは嬉しいことだけど……。近いうちに、かすみさんとも喋れるようになるかもしれない。私の気持ちの整理が付けば、の話だけど。

しずく「じゃあ、行くよ?オフィーリア」

 色々とモヤモヤする中、私はオフィーリアのリードを引っ張った。
 しかし、リードから伝わってくるのは微動だにしない感覚。
 
147: (もも) 2022/12/23(金) 00:32:05.63 ID:6GgxOBUo
しずく「あれ?オフィーリア?眠っちゃった……?」

 ちょっと長く話し込んじゃったからかな……。と、上手く見えない視界の中、オフィーリアを見ると。

オフィーリア「ぜぇ……ぜぇ……」

しずく「……オフィーリア?オフィーリア!?」

 オフィーリアの近くによって耳をすますと、ひどく辛そうな呼吸をしていた。

侑「どうしたの?しずくちゃん」

しずく「侑先生!オフィーリアが、荒い呼吸をしていて、全然動かないんです!!」

侑「えっ、オフィーリア、大丈夫!?」

 と、侑先生がオフィーリアへと駆け寄った瞬間。

オフィーリア「ガファ……ッ」

 オフィーリアが侑先生から貰ったばかりの赤いスカーフへ血を吐いた。元より赤いスカーフが、生々しく赤く染まっていく。

しずく「オフィーリア……?」

 そして、それっきりオフィーリアは荒く呼吸をするでもなく、血を吐くでもなく、ぐったりと体を横たえた。
 胸が、ひどくざわつく。

しずく「オフィーリアが、死んじゃう……?」

 私の口からは、自然とそんな言葉が出た。

侑「まずい!早く動物病院へと連れていくよ!しずくちゃん!急いで戻るよ!」

 侑先生はそう言って、オフィーリアを抱え、元来た道へと帰っていく。

しずく「私も、行かなきゃ……」

 私は敷いていたシートを巻き取り、侑先生の後を追う。
 足取りは酷く重い。脳内は色々な感情が渾然一体となって渦巻いていた。

しずく「……死ぬ。死ぬ。オフィーリアが、死ぬ……?」

 あのオフィーリアが、死んじゃうの?
 私がそう思う度に、オフィーリアが死んでしまう未来を想像してしまう。しかし、ここで一つの違和感が頭を過る。

しずく「あ、あれ……?おかしい、な……」

 侑先生を追う中で、私はその違和感が大きくなっていくことを理解してしまう。

しずく「何も、何も……感じない……?」

 オフィーリアが死んでしまう未来。
 私はその想像をした瞬間、心の中が一切虚無で支配されてしまった。
 オフィーリアが死んでしまうことに対して、悲しくもないし、嫌でもないし、もちろん嬉しくもない。ただそこに広がるのは、茫漠とした虚無の心象風景。
 そして、何も感じないその理由が、私の頭の中には明確にあった。

しずく「『底が』『抜けた』……?」

 『底知れない器』であった私が、『自分』を持ってしまったことで生じる変化。それが、オフィーリアの危篤によって現れてしまったのではないだろうか。
 どんな役でも降ろすことができる無限大の器。しかし、その器の底が抜けてしまえば、役を降ろすこともできなくなってしまう。なぜなら、全てすり抜けていくから。
 そしてそれは何も、役だけの話ではない。それは『自分自身』でさえも、すり抜けてしまうのではないだろうか。
 
148: (もも) 2022/12/23(金) 00:33:53.64 ID:6GgxOBUo
しずく「……嘘」

 呟いたその声は、どこへなりとも消えてしまう。
 その代わり、うるさく耳朶を打つ潮騒の音だけが、やけに耳に残る。
 寄せては返す波の音。いや、波の音ではない。
 寄せては返す波の音で生じる水の音。人を孤独へと追いやる、全てを飲み込んでしまう水そのもの。
 そんな水音が、いつまでも私の中に響いていた。

▲桜坂邸への帰り道▲

 あの後、私としずくちゃんは急いで近くの動物病院へと向かった。ぐったりとしたオフィーリアも心配だったが、しずくちゃんも参っている様子だった。車内では声をかけても、返ってくるのは淡泊な返事だけで、まるで抜け殻のようだった。
 診療時間は過ぎていたものの、病院の先生に頼み込み、なんとかオフィーリアの診察が行われた。
 結果を言えば、オフィーリアに命の別状は無かった。しかし、体調が悪いのは確かな為、定期的な通院が必要だと通知された。病院ではその後、オフィーリアへ処置が行われ、現在はしずくちゃんの家へと帰宅していた。オフィーリアは薬を飲んだおかげか、ぐったりというより、ゆったりとした姿勢で寝ていた。

侑「いやぁ、一時はどうなるかと思ったけど、何とか峠は越してよかったね」

しずく「……はい。そうですね」

 オフィーリアに命の別状は無い。動物病院の先生は確かにそう断言した。これから急変して頓死することも無い、と。
 しかし、しずくちゃんの顔は晴れなかった。バックミラーで表情を見ると……あまりいい表現ではないが、まるで能面の様だった。

スイ「ごめん、高咲先生。しずくはどうやらかなり気持ち的に参っているらしい。今日はちょっと、体調が良くなりそうもない」

 微妙な雰囲気を察してか、スイちゃんが出てきた。

侑「まぁ、そうだよね。いくら大丈夫って太鼓判を押されたとしても、かけがえのない大切な家族だもん。すぐに割り切れる話じゃないよね」

スイ「……あぁ。そういうことだよ。だから今は、ごめんね」

侑「うん──」

 そのまま、車道を走るタイヤの音と、音量控えめに流れるラジオの音だけが、車内に響いていた。
 その後は無事に、しずくちゃんの家に着いた。しずくちゃんのお母さんに色々と事情説明しようとしたが、今日は帰ってこないとスイちゃんから言われた。かなりのキャリアウーマンらしい。

スイ「大丈夫だよ、高咲先生。今は私にもしずくの体を十全に動かせる。しずくのことは任せてくれよ」

侑「……分かった。今日はお疲れ様。しずくちゃん。スイちゃん」

スイ「また、学校で会おう。高咲先生」

侑「うん。ばいばい」

 そうして、ご褒美の休日は終わりを告げた。
 終わりよければ総て良し、という言葉はあるが、これではあんまりじゃないだろうか。

侑「……けど。こればっかりは時間が解決してくれるしかない、か……」

 私は一人、車に戻りながらそう呟いた。
 願わくば休日明け、元気に登校するしずくちゃんになっていて欲しい。
 そう願いつつ、私は自分のアパートへと車を走らせた。

▲二年四組▲

 夏休み期間中だけど集中学習という期間があり、その期間中は登校しなければならない。少し面倒くさいけど、その分他の学校よりも休日は伸びる。
 そうして休日の土日が明け、また新しい週が始まる。
 月曜日は憂鬱な気分が多いけど、今日のしず子はなんだか月曜日だとしても様子がおかしかった。
 
149: (もも) 2022/12/23(金) 00:35:39.37 ID:6GgxOBUo
かすみ「ねぇしず子?どうしたの?」

しずく「ふふっ。かすみさん、今日はそればっかり。私はいつも通りだよ?」ニコッ

 昼休みになってすぐ、私はしず子に話しかけた。
 朝挨拶する時、移動教室の際の休み時間等、今日はしず子によく話しかけている。それは偏に、様子が普段と違っていたから。その違和感を確かめる為に話しかけていた。

かすみ「うぅん……。なんだかいつものしず子っぽくないよ。上手く言えないけど……私と初めて会った時みたいな、そんな気がする……」

しずく「──」

しずく「そう、なんだ」

 私の言葉に、しず子は肯定も否定もしなかった。依然として、しず子は柔らかな笑みを浮かべている。けれど、それが無性に不気味だった。

しずく「たとえそうだとして、何か問題でもあるのかな?」

かすみ「え……?」

しずく「例えば今の私が、四月の自分と入れ替わっていたとして、そこに何か問題ってあるのかな?」

かすみ「え、え……?しず子、何言ってんの……?そんなの、問題ありまくりじゃん!」

 思わず声を荒げてしまった。教室の注目が集まっていることに気づき、すぐに口を噤んだ。
 でも、四月のしず子に戻ったら……今までの私との記憶が無くなるってことだ。普段なら冗談に聞こえるそれが、今は変なリアリティを感じる。

しずく「……。この話を続けても、いいことは無さそうだね。やめよっか。かすみさん」

かすみ「しず子……」

しずく「じゃあ私、演劇部の子たちと一緒にお昼食べるから」ガタンッ

かすみ「あ……」

 しず子が椅子から立ち上がって、出入口のドアへと歩く。なんだか、ここでしず子を見送ったらだめな気がした。

かすみ「だ、だめっ!」

しずく「……手を離して。これじゃあどこにも行けないよ」

かすみ「だめ……だめだよ……。よく分かんないけど、しず子が遠くに行っちゃう気がする……」

しずく「ごめんね、かすみさん。付いてこないで」

かすみ「……ッ!」

 強い否定の言葉。思わず私はしず子の手を離してしまった。
 そして最も驚いたのは、否定の言葉を言ったはずのしず子の顔が、未だに笑顔だったこと。

しずく「あ、いけない……」

 しず子は能面を張り付けたような表情になり、そのまま教室を出ていった。

かすみ「一体、どうしちゃったの……?」

 離してしまった手の平をギュッと握り込み、しず子のいなくなった出入口をしばらく眺めた。

▲学園内劇場ホール▲

 しずくちゃんは休みが明けても、本調子では無いようだった。
 挨拶をすれば笑顔で返してくれるし、オフィーリアの容体を聞くと、理路整然と答えてくれた。けれど、しずくちゃんへの印象は抜け殻のようなあの日のままだった。
 未だに消化しきれない思いがあるのか、それとも全く別の理由が原因なのか。それが分からないまま、放課後の部活動の時間になってしまった。
 
150: (もも) 2022/12/23(金) 00:37:26.39 ID:6GgxOBUo
侑「えぇと、今日やるしずくちゃんの稽古は……抜き稽古、か」

 演劇部の掲示板には、各部員がやることが書かれている。しずくちゃんの欄には抜き稽古と記載されていた。
 抜き稽古とは、台本を使わず、動きを入れた芝居をすることだ。その後に行う立ち稽古との違いは、通しで行うかどうかの違いだ。抜き稽古はあくまで、抜粋された一部分のシーンだけを行う。
 前に見た目隠し稽古は例外として、伴奏を付けるイメージを掴むため、この稽古には私も参加させて貰っている。まぁ、口出しするのは全てミセスだけど。

ミセス「……?桜坂、お前、何かあったのか?」

 しずくちゃんを一瞥したミセスは怪訝そうにそう言った。やっぱりすごいなこの人は。一目見ただけで違いが判るもんなんだ。

しずく「いえ、特に何もありませんよ」ニコッ

ミセス「……そうか。桜坂がそう言うなら、それを信じよう。今日は一先ず、ラストのアステーリとスターラの別離のシーンを見せてもらう。今の桜坂がどれほどの理解を持っているか見たいからね」

しずく「はい。分かりました」

ミセス「それじゃあ、自分のタイミングで始めてくれ」

 『その雨垂れは、いずれ星を穿つ』の公演まで、残り二カ月を切った。ミセスも今のしずくちゃんの理解の深さを知りたいのだろう。
 しずくちゃんは舞台の上で一度深呼吸をした後、演技に入った──

▲学園内劇場ホール舞台上▲

 頭の中には、台本の台詞が全て叩き込まれている。
 本読みの段階でもすべて記憶していた。シーンを指定されれば、全て数秒以内にそらんじられる自信がある。
 ……けれど。
 台詞を丸暗記して暗唱するだけ。演劇はそういうものではない。そこに演技を加えることで、息を吹き込まなければならないのだ。
 そしてそれが、休日中ずっと懸念していたこと。
 ミセスや侑先生の二人がいる前で演技をすれば、全てが自明のこととなるだろう。

ミセス「それじゃあ自分のタイミングで始めてくれ」

しずく「──はい」

 一度大きく呼吸をする。肺の中の空気を全て入れ替えるつもりで大きく、大きく呼吸をした。

しずく「──スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」

しずく「だからあなたは、私と共に来てはだめ」

しずく「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」

しずく「大丈夫。私はもう怖い物なんていない」

しずく「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気付けてくれるもの──」

 アステーリの演技をする。
 アステーリという役を降ろす。
 これまでに何度、役を落ろすという作業をやってきただろうか。何千?何万?それくらいじゃ効かないほど、演技とは私と不可分な関係にあったはずだ。
 けれど、これはなんだ。なんだこの醜態は。
 
151: (もも) 2022/12/23(金) 00:39:16.24 ID:6GgxOBUo
 すべてが空々しい。
 感情も表現できていなければ、アステーリという役を降ろせてもいない。
 出るはずの涙が、一切流れてこない……。
 これではただの……。

ミセス「──なにうわごと言ってんだい桜坂」

 ミセスが演技に割り込む。
 ミセスの言う通りだった。これではただのうわごとだ。演技でも何でもない。ただ虚空に言葉を吐くだけの意味のない作業。
 役を降ろそうにも、全てが私の中を通り抜けていく。
 底が、抜けてしまっているからだ。

しずく「……申し訳ありません。今日はとても、演技ができる状態ではないようです。帰らせていただいてもよろしいでしょうか」

 私は素直にそう告げた。無意識の内に悲哀の感情を込めようとしていたが、何も込められていない平坦な声音だけが出た。

ミセス「なに……?なに言ってんだい桜坂ッ!!生意気なこと言ってんじゃないよッ!!あんたが自らのエゴで立った舞台だろう!?それを途中で降りるだなんて、甘ったれんじゃないよ!!」

 怒号が空気を切り裂く。しかし、まるで私には響かない。私自身、何も感情を込められないが、それは相手の感情をも受け止められない。まるで他人事のように聞こえてしまう。
 けれど、『私は何か気に障るようなことをしてしまった』ことは、火を見るより明らかだ。ならば、謝罪の意思を見せる。これが道理だろう。

しずく「申し訳ありません」

 両手を前に持っていき、腰を曲げた。今できる最大限の謝罪だ。

ミセス「……ッ。あんた、本当に何が、あったんだい……?」

 そんな私の無感情な謝罪に面食らったのか、ミセスは逆に落ち着いていた。
 何があったのか、という疑問。それを答えるのは実に容易だった。

しずく「『底が』『抜けてしまった』んですよ。ミセス」

ミセス「底が抜けた……?」

侑「……!!」

 ミセスはまたしても怪訝な顔つきになる。その一方で侑先生は、驚愕の表情をしていた。

侑「し、しずくちゃん。底が抜けたってそれは……」

しずく「言葉の通りです。底が抜けちゃったんですよ。だから私は誰の役も降ろせないし、感情を表現することもできなくなっちゃいました。舞台に上がれば、何かが変わるかも、って思っていましたが、そんなことはありませんでした」

ミセス「……ッ!桜坂、あんた前に戻ったのかい!?いや、前に戻ったなんてそんな生易しいもんじゃない。これは……」

 前に戻った。それはある意味正しい。
 もっとも、ミセスの言う『前』と、私の思う『前』は、年月に十年以上の差があるが。

しずく「そうですね。その通りです。私はどうやら元の桜坂しずくに戻ってしまったらしいです」

ミセス「……」

侑「な、なんでさしずくちゃん……!!なんで、なんで……?あっ!オフィーリアのこと!?オフィーリアなら命に別状はないはずだよ!!だから安心していいんだよ!?」

しずく「……。オフィーリア、ですか」

 オフィーリア。私の愛犬だった存在。
 アステーリにとっての、スターラのような存在。
 
152: (もも) 2022/12/23(金) 00:41:13.40 ID:6GgxOBUo
 けれど、今の私はオフィーリアに対し何の感慨も抱いていない。命の危機に瀕していたという事実にあっても悲しくならず、命に別状は無かったという朗報に対しても安堵の息は吐かなかった。
 無感。ただ、それだけだった。
 けれど、今の私が何を言おうが、この状況を脱することはできない。それならば、利用させて貰おう。
 前のしずくなら言っていたかもしれない台詞を。

しずく「はい。その通りです侑先生。今の私は何も感じられません。それは偏に、愛犬のオフィーリアが命の危機に瀕してしまったからです」

しずく「私が長年愛情を注いできたオフィーリア。その存在が消えようとした瞬間、私の中で色々な感情が錯綜し、未だに整理できていないのです。だから、こんな状況で演劇はできません。申し訳ありません」

 感情を込めようとは思った。が、しかし、冷淡とも取れる無感情な声音しか、喉からは発せられなかった。とはいえ、これは全て一時期的なもの。私がオフィーリアへの気持ちの整理が付けば解決する。そういう説得をした。

侑「え……でもさっき底が抜けたって」

しずく「言葉の綾、ですよ。恐らく時間が解決してくれると思います」

侑「そ、そんな……。そんなわけ──」

ミセス「いい」

 尚も食い下がる侑先生を、ミセスは制止した。ミセスの鋭い眼光は、正確に私の眼を貫いていた。

ミセス「これは、今すぐどうこうできる問題でも無さそうだ。おい、桜坂。その気持ちの整理とやらに時間はどれくらい必要なんだ?」

 ミセスは合理的な判断へと移ったらしい。理性と本能を兼ね備えた演出家。流石の傑物だと感じた。

しずく「……数日時間を貰えれば」

 私の口から出たのは、何の根拠もない出まかせだった。
 実のところ、私も心のどこかでは思っていることがある。この一切の感情の揺らぎがない凪のような状態は、いずれ時間が解決してくれるんじゃないか、と。しかし同時に、それは間違いなく可能性はゼロ、ということも、私は実感していた。
 だから、猶予として私は、数日の時間を要求した。今はとにかく、この場から離れたかった。何も感じないとはいえ、針の筵のような今の状態は、好ましいものではない。

ミセス「……。今週の金曜だ。金曜は絶対に演劇部に顔だしな。それであんたがだめなようだったら、主役の座は引きずり降ろさせて代役を据えるからね。覚悟しなよ」

しずく「はい。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません」

 要求は通った。私は深々と頭を下げる。
 ミセスはそう言ってから、どこかへと消えてしまった。他の稽古を見に行ったのだろう。

侑「しずくちゃん。本当なの?オフィーリアへの気持ちの整理が付いていないって。本当にそれだけが原因なの……?」

しずく「……」

 侑先生の目には、疑惑の感情が一切詰まっていないことが分かった。そこにあるのは純度の高い心配な感情だけ。
 ……。侑先生の感情だけは、未だに汲めるらしい。どうやら『しずく』としての残滓がまだ、どこかに残っているらしい。
 なら、この残滓を利用してしまおう。

しずく「ごめんなさい、侑先生。本当にだめな時は、必ず相談します」

 侑先生への申し訳ない気持ち。必ず相談するという、私の中の弱い気持ち。
 残滓を集められるだけ集めて、絞って絞って絞り切り、なけなしの感情表現をした。

侑「……本当だね?その言葉に嘘はないね?」
 
153: (もも) 2022/12/23(金) 00:43:28.16 ID:6GgxOBUo
 グサリと、切っ先の鋭い何かで胸を刺された気がした。しかしそれは、気のせいだったらしい。
 心の中でかぶりを振って、私は口を開ける。

しずく「はい。その時はよろしくお願いします」ニコッ

 そうして私は、途中で稽古を切り上げて自宅へと帰った。
 劇場ホールを出るまで、侑先生の視線が向けられている気がしたが、私はそれを無視した。
 もし、あのまま侑先生と喋っていたら、何か酷いことを言ってしまいそうだった。それは……だめだと思った。頭の片隅の方で「嫌だ!」と、誰かが叫んでいる気がした。

▲桜坂邸▲

 ここ数日開けていないカーテンからは、鈍い太陽光が入ってくる。外はとうに昼間らしい。しかし、カーテンを開けるのも、体を起こすのも、全てが億劫だった。時間が経てば経つほど、自分の体から生気が失われるような気がした。

スイ「しずく、インターホンが鳴ってるよ?」

 スイが話しかけてくる。確かにインターホンの鳴る音が聞こえる。
 恐らく侑先生か、かすみさんか。もしくはそのどちらかだろう。私を心配してお見舞いに来てくれる優しい人たち。
 けれど、私はそれさえも無視していた。
 あれから……。
 舞台の上で底が抜けたことを告白したあの日から、すでに三日経過していた。私はその三日間、学園を欠席していた。
 お母さんには体調が悪いと伝えてある。ただの拗らせた風邪と言い張り、学園内には欠席の連絡をして貰っている。キャリアウーマンとして働くお母さんは、仕事に穴を開けるわけにはいかない。
 だから、体調が悪いわけではない。ただ単純に億劫だった。ただそれだけだった。
 手も足も動くし、呼吸も正常。けれど、体に活力を送る心の部分に欠陥を抱えていた。

スイ「君の予想通りだよ。高咲先生とかすみだ。声が聞こえる」

侑『しずくちゃ~ん!いるんでしょ!体調が悪いところ悪いけどさ!ドアを開けてよ!』

かすみ『開けなさ~い!!風紀委員に逆らっていいと思ってるの~っ!?』

スイ「二人とも、しずくを心配して来てくれているんだよ?答えないと不義理ってものじゃないか?」

 正論だ。けど、億劫で面倒だ。
 今の私が何を言っても無駄なのだ。心は回復しないし、何も感じないしずくとして接しても、二人には悪影響しかない。
 それならば、何もしない方がいい。

スイ「……。しずく、いつまでこうしているつもりだい?ミセスとの約束の期限は明日だろう?」

 二人はやがて諦めたのか。声が聞こえなくなった。それでいい。それでいいんだ。

スイ「私の話を聞いてよしずく!!いつまでそうしてるつもりだよ!!」

しずく「うるさいなぁ……」

スイ「うるさいじゃないよ。いつまでそうやって不貞寝しているつもりさ。このままじゃあ、劇の主役降ろされちゃうよ?それでもいいの?」

しずく「それは……」

スイ「じゃあ何か対策を考えないと。前のしずくに逆戻りしたって、前とは状況が違うよ。今は私以外にも、高咲先生やかすみがいる」

スイ「きっと前のしずくに戻る方法はあるはずだよ。そのまま不貞寝をしていても、仕方がないよ……」

しずく「……無理だよ、絶対に、もう無理だよ」

スイ「無理なんかない!!絶対に無いよ!!今は……オフィーリアが病気で混乱しているだけで、絶対にもとに戻れるよ!!」
 
154: (もも) 2022/12/23(金) 00:45:26.81 ID:6GgxOBUo
しずく「ふふっ……。スイ、前とは状況が違うって言ったけどさ。確かに違うよね」

しずく「だって、前の私にはまだ底があった。けど、今はもうないんだよ?そこに何を詰め込もうが、今さらだよ。何をしたって仕方がない。どうしようもないことだよ……」

スイ「そんなことない……!そもそもなんだよ、底知れない器って……。それは、部長の勝手な尺度で決めつけられたことだよ!しずくはそもそも、底知れない器なんかじゃない!!」

しずく「……うるさいなぁ、もう。私が一番分かってるんだよ?役を降ろしたくてもすり抜けていく。相手の感情を上手く受け取れない。底が抜けたんだよ、間違いなく」

スイ「私の言うことを信じてよ、しずく!!」

しずく「ああ、もう……うるさい!!うるさいんだよスイ!!そんなに言うなら、私の体を貸してあげる!!スイがどうにかしてよ!!スイならどうにかできるでしょ!?もうどうしようもないんだよ!!何をしたって無駄なんだよ!!元のしずくなんて、取り戻せるわけない!!」

しずく「私は……舞台に生かされていた……。舞台に生かされていた私が、舞台の上で何も感じない、何も表現できなくなったら、それはもう、おしまいなんだよ……。底が抜けたとか、抜けないとか、そんなのはもうどうでもいい」

しずく「舞台の上で何もできなくなった『しずく』に、意味はないんだよ……。演劇は、私の生きる意味だったんだから……」

スイ「……。しずく、君が諦めたって、私は諦めないよ。だから──」

しずく「もう、いいよ……。明日まで、黙ってて」

スイ(……!!出られない!!)

スイ(どうすればいいんだ……。しずくを演劇の舞台から降ろさせるなんて、そんなことは絶対にしちゃいけない……)

スイ(私が、私がするしかないの……?)

しずく「……あぁ、なんだか、遠くなっちゃったなぁ」

 虚空に手を伸ばしてみる。
 そこには、少し前まで充実していた生活があったような気がした。侑先生との胸躍るような日々。かすみさんとの楽しくも騒がしい日々。『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』で忙しいけれど、充実していた日々。
 その全てが、遠くに行ってしまったような、そんな錯覚に陥る。

しずく「なんだろう。穴が、開いたみたい……」

 胸に手を置くと、確かに鼓動は感じるし、穴が開いたわけではない。
 きっとこの穴は、心の穴だ。
 それまでの私には無かったモノ。侑先生、かすみさん、演劇の日々。
 それらが一気に私の手から離れ、そこに穴を感じているんだ。
 もう、そこには何もない、ただの虚無の空間。だから、虚空。

しずく「……」

 虚空を掴んだとしても、その手には、何も握られていなかった。

▲二年四組▲

かすみ「んぁ~~……もうどうすればいいのぉ……」

 ぐてーんと机の上に突っ伏した。
 様子のおかしかったしず子は、体調不良を理由に三日も学園を休んでいた。絶対に何かあったんだ。そうじゃなきゃおかしい。
 しず子の家に行ったり、しず子へLINEを何通も送ったけれど、全てなしのつぶてだった。

生徒A「どしたの中須さん。今日は元気ないね。夏休みだけど夏休みじゃないから?」

かすみ「……こっちの理由。もうどうしていいか分かんない……」

生徒A「悩み事?それならいつも通り侑ちゃん先生にするか、親友の桜坂さんにすればいいんじゃない?」
 
155: (もも) 2022/12/23(金) 00:47:16.15 ID:6GgxOBUo
かすみ「それができれば、苦労しないよ……」

 侑先生には相談した。
 どうやら愛犬のオフィーリアが危篤ということも知った。でも、峠は越したという話も聞いた。それじゃあ何が原因でしず子は学園を休んでいるの。
 ……。それを聞くには、しず子本人に聞くしかない。それだけは事実だ──

生徒A「あ、桜坂さん」

かすみ「え……」

 顔を上げて出入口のドアを見つめると、そこには確かにしず子がいた。見間違えようがない。大きなリボンに真面目な優等生のような整った顔立ち。
 あそこにいるのは、確かに桜坂しずくだった。

かすみ「しず子っ!!」ガタン

生徒A「わわっ」

 勢いよく立ち上がり、私はしず子の元へと向かう。

かすみ「しず子、もう大丈夫なの……?」

しずく「おはようかすみさん。ここ数日、迷惑をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」ニコッ

かすみ「本当?本当に……?」

 私へと笑いかけるしず子の表情は、実に柔和で自然なものだった。前に感じた無理やり口角を上げただけの笑みではなく、不気味にも感じなかった。
 それは、侑先生が大好きで、演劇が大好きな桜坂しずくの笑みだった。

しずく「うん。もう平気。ごめんね、LINEとか色々してくれたのに」

かすみ「……うぅん。そんなのどうだっていいよ!しず子が元気になって戻ってきた!それだけで十分だよ!」

しずく「ふふっ。ありがとうかすみさん」

かすみ「でも、埋め合わせは必ずして貰うからね!!」

しずく「もちろんだよ。今度どこかに遊びに行こうね」

 よかった。本当によかった。
 学園を休む前のしず子は、血が通わない人形のようだった。でも今のしず子は、人形のような印象を一切感じさせない、血の通う元気ないつものしず子だった。
 強いて言えば……。
 不気味なくらい、前のしず子を感じさせないってこと、かな……?

▲学園内劇場ホール▲

ミセス「それで、今日は来たのかい?」

侑「はいっ!来ましたよ!」

 とても心配だったけれど、しずくちゃんは今日無事に登校した。
 朝礼の時に走り出して問い詰めたいところだったけれど、他の生徒の手前、さすがにできなかった。
 休み時間を利用して聞き倒すと、すぐに分かった。冷たい氷のような印象を受けるしずくちゃんではなく、人間らしい喜怒哀楽のハッキリとしたしずくちゃんになっていた。
 まぁ、ちょっと元気になり過ぎ?とは思ったけど。

ミセス「そうかい……。ったく、心配かけさせやがって」

 ミセスはそう言ってため息を吐いた。ミセスなりに心配していたらしい。

侑「ミセスもちゃんと心配してくれていたんですね!」

ミセス「あぁん?高咲、あんた。私が血の通わない機械だとでも思ってんのかい……?」

侑「い、いえそんな。慈悲深い人だなぁ!って思ってますよ!?」

ミセス「心にもないことを……」

 ガララッ

 そんな寸劇をしていると、しずくちゃんが劇場ホールに入ってきた。

しずく「おはようございます」

ミセス「……あぁ。その分だと、霧は晴れたみたいだ……ん?」

しずく「はい。ご迷惑をおかけしました。それと、ミセスや侑先生には無礼な口をきいてしまいました。真に申し訳ありません」

侑「いいんだよしずくちゃん!こうして元気な姿がまた見れた!それだけで十分さ!ですよねミセス!」
 
156: (もも) 2022/12/23(金) 00:49:01.65 ID:6GgxOBUo
ミセス「……?」

 ミセスは何かおかしいのか。怪訝な顔つきを強くしていく。一体何がそんなに気になっているのだろう……?
 こんなにしずくちゃんは元気になったのに。

しずく「それでは、準備してきますね」

侑「あ、うん……」

 そういってしずくちゃんは舞台袖に行った。
 どこからどう見ても、冷淡な印象など受けないしずくちゃんだ。特に何も違和感なんて……。

ミセス「……おい高咲。あんたは何も感じなかったのか?」

侑「え?何って……元気なしずくちゃんじゃないですか。復帰して喜ぶところじゃないんですか?」

ミセス「そこだよそこ。今の桜坂は、元気過ぎる。思い返してもみろ。月曜日時点の桜坂はどんな顔をしていた?」

侑「どんな顔って……。能面みたいな……」

 能面みたいで、それでいて冷たい印象を与えるような、悪い意味で人間味を感じない顔をしていた。

ミセス「そうだ。能面のような顔だった。浮かべる顔つきもまるで、仮面を張り付けたみたいで人間味が一切無かった。無理やり顔を歪ませたような表情を作り、感情や演技で作ったような表情じゃあ無かった」

侑「それは……そうですけど。でもだからこそ、こうして元気になったのは……。いや、待てよ……」

 先ほどミセスが言った『元気過ぎる』という一言。
 理由はどうあれ、今まで見たこともない能面のような顔をしたしずくちゃん。そんなしずくちゃんが、たった数日であそこまで元気になれるものだろうか。むしろ、元気になっていたらおかしい……?

侑「もしかして今のしずくちゃんは空元気でここにいると……?いや、空元気にしては……」

ミセス「あぁ、私には分かる。あれは空元気じゃない。そんなことを一片も感じさせないくらい、不気味なくらい純粋な元気だ。だからおかしいんだ」

ミセス「何かがあって、彼女は感情が全て抜け落ちた。数日後再会した彼女は、空元気の笑みを見せていた。これなら分かる」

ミセス「けれど、感情が抜け落ちた彼女が数日後、空元気なんて一切感じない、太陽のように明るい笑みを見せていたら……?」

侑「おかしい……。なんで、そんな……」

 ミセスから聞いてようやく気付いた。
 普通、あそこまで元気になるわけがない。元気になってしまったら、逆に不思議なくらいだ。それならなぜ……?

しずく「──準備できました。それじゃあ、前にやったラストの別離のシーン。その抜き稽古を始めますね」

侑「……!!」

ミセス「……見ていれば分かる。あれが空元気か、そうでないかなんて。舞台の上で隠し事は、一切できやしない」

 前に見たしずくちゃんと重なる。
 しずくちゃんは一度大きく呼吸をし、演技に入る──

▽桜坂邸▽

 小鳥の鳴き声で目が覚める。目覚ましが鳴るより先に起きてしまったらしい。
 上体を起こし、まだ上手く働かない頭で思考する。

スイ「……しずく。本当に私に体を委ねるつもりかい?」

 私の問いに、しずくは何も答えない。
 私が主人格の時は、しずくの心の気持ちは聞こえなくなる。しずくが自分から語り掛けでもしない限り、聞こえない。
 つまり、この沈黙こそ、しずくの肯定の気持ちそのもの、というわけだ。

スイ「私が……やるしかないのか……」

 三日間あまり体を動かさなかったせいか、少し動きの鈍い体を動かし、私は朝食を摂りに向かった。
 今日はミセスとの約束の期限。
 これを破ってしまったら、しずくは『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の主役を降ろされてしまう。それは同時に、しずくの役者人生そのものが終わることを意味している。
 そうなれば、全ておしまいだ。
 これはただの延命処置に過ぎないのかもしれない。ただ、それでも。
 
157: (もも) 2022/12/23(金) 00:50:49.71 ID:6GgxOBUo
スイ「やるしかない……ッ」

 拳を握りしめ、私は決意を新たにした。

▽二年四組前廊下▽

 しずくを真似る。
 もし、しずくのモノマネ選手権があったとすれば、私に敵う人はいないだろう。なぜなら、これまでのしずくの一生を共にし、もっとも近い距離でしずくを観察してきた私だ。
 同じ声、同じ顔、同じ体。桜坂しずくを演じられる環境、経験。その全てが私には兼ね備わっている。

スイ「……ふぅ」

 一度、教室に入る前に深呼吸を吐く。
 前にやったような、みんなの前でダジャレを披露し、変な空気になった時とは状況がまるで違う。一から十まで全て、私がしずくを演じるしかないのだ。
 間違ってはいけない。悟られてもいけない。
 私は全身全霊で、桜坂しずくを実行するしかない。
 私はできるだけ自然に見えるよう、教室へと入る。

かすみ「しず子っ!!」ガタン

 入った瞬間、名を呼ばれる。呼んだのは中須かすみ。たった数か月でしずくの親友となった人物だ。
 距離感が近く、友人想いの優しい人。
 三日も休んでいたんだ。まず間違いなく、接触してくるのはかすみだと思っていた。

かすみ「しず子、もう大丈夫なの……?」

 転びそうになりつつ、急いで私の元へとかすみは駆けつけた。
 かすみの顔は、焦燥、心配、そうした感情が見て取れた。どれだけしずくを想っていたのか一瞬で分かった。
 私はしずくを降ろす。大丈夫、私には完全再現できるだけの力がある。

スイ「おはようかすみさん。ここ数日、迷惑をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」ニコッ

 声音から仕草まで、しずくのしそうなこと全てを完全再現する。

かすみ「本当?本当に……?」

 かすみの表情を見るに、私がしずくではなくスイだとは、微塵も感じていない様子だった。かすみを騙せなければ、高咲先生やミセスをも騙すことはできないだろう。

スイ「うん。もう平気。ごめんね、LINEとか色々してくれたのに」

かすみ「……うぅん。そんなのどうだっていいよ!しず子が元気になって戻ってきた!それだけで十分だよ!」

スイ「ふふっ。ありがとうかすみさん」

かすみ「でも、埋め合わせは必ずさせて貰うからね!!」

スイ「もちろんだよ。今度どこかに遊びに行こうね」

 順調だった。万事つつがなく、私はしずくを遂行できている。
 何も感じなくなったしずくなんて、微塵も感じさせない。元々の、高咲先生を慕い、かすみを親友だと感じているしずくが戻ってきた。それも、元気いっぱいで。
 私はそうなるように、努めて冷静に振る舞った。
 大丈夫。これならミセスも高咲先生も、しずくとして接することが可能だ。

▲学園内劇場ホール舞台上▲

 一度大きく深呼吸をする。演技に入るため、役を降ろすために。しずくの行っていたルーティンをなぞることで、疑似的に演技力自体を私の身に降ろす。
 ミセスは何か勘付いた様子だったが、その何か自体には気づいていないようだった。それならそれでいい。しずくがスイに成り代わっている、それに気が付かなければそれでいいのだ。いずれ違和感は払拭される。
 ……いずれ?
 いや、今は余計なことに思考を割かれるな。今は私自身の価値を、しずくが演劇を続けられるように、アステーリを全身全霊で演じるのみだ。
 
158: (もも) 2022/12/23(金) 00:52:41.45 ID:6GgxOBUo
スイ「──スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」

 アステーリの台詞。
 アステーリだってスターラと別れたくはない。けれど、本当に血の繋がった家族とスターラが離れる。それをアステーリは望んでいない。

スイ「だからあなたは、私と共に来てはだめ」

 苦渋の決断だ。アステーリは唇を噛みそうになる感情を必死で押さえつけながら、スターラの新たな旅立ちを言祝ぐのだ。

スイ「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」

 全てアステーリは理解していた。
 スターラに吠える訓練を施した最初から。最初から理解していたのだ。この訓練は、いずれ自分との別離を意味しているのだと。
 全て分かっていて、それがスターラとの別れに繋がると分かっていながらも、スターラの幸福に繋がると考えて訓練をしていたのだ。

スイ「大丈夫。私はもう怖い物なんてない」

 アステーリは本心からそう言っていた。
 外が怖かった彼女だった。人間が怖かった彼女だった。
 けれど……。

スイ「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気づけてくれるもの」

 一つ一つは小さくか弱い雨垂れかもしれない。けれど、いずれそれは星をも穿つほど強く頼もしくなるって。
 アステーリは、雨垂れが体を打つ度に、スターラの頼もしい遠吠えを思い出すことができる。その度に勇気は貰える。

スイ「だから、私のことはもう心配いらない。あなたはあなたの家族のために、その勇気を振るってあげて、スターラ」

 そして、ラストのワンシーンは言い終わる。

スイ「……え?」

 意図しない感情の揺らぎがあった。
 いつの間にか、私の頬には一筋のしずくが瞼を伝って流れていた。涙を流そうだなんて考えていなかった。けれど結果的に、このワンシーンに彩を加える演出になった。
 この涙の意味は……アステーリがスターラへの想いが起因して流れたものではない。
 これは、私の、スイの想い。
 いや、正確に言うのならば、私がまだスイでは無かった頃の想い……。
 あの日、別離した時の──

しずく(──スイ)

 唐突に、心の中でしずくの声がした。

▽……▽

 温度も空気も、なにもない場所。
 私は桜坂しずくの深い場所へと潜っていた。
 息もしなくていい、瞼を閉じる必要もない。ただ、存在しているだけ。
 ふと意識を向ければ、外の世界の状況が目に映る。
 『私』ではない、スイが動かす世界だ。
 スイは私の一番近い場所にずっといた存在だ。私の猿真似をするならば、これほどの逸材はいないだろう。
 きっと誰にも、しずくがスイであると気づかれない。それほどスイの私を演じる能力は高い。
 けれど、今スイが完璧にしずくを演じられたとして、それが何に繋がるのだろうか。
 どれほど上手く演じようと、それはスイでありしずくではない。
 それは単なる延命措置に過ぎない。
 根本的に、私というしずくをどうにかしなければ、意味のない行動なのだ。
 
159: (もも) 2022/12/23(金) 00:54:25.07 ID:6GgxOBUo
──
かすみ「しず子、もう大丈夫なの……?」

スイ「おはようかすみさん。ここ数日、迷惑をかけたね。でも、もう大丈夫だよ」ニコッ
──

 かすみさんはスイの演技に一抹の疑惑も浮かべていない様子だった。
 当然だ。
 いくら前の私がかすみさんと親友という関係であったとしても、私とスイは十年以上の積み重ねがある。スイの私の猿真似を、すぐ見破られるわけがないのだ。

──
スイ「はい。ご迷惑をおかけしました。それと、ミセスや侑先生には無礼な口をきいてしまいました。真に申し訳ありません」

侑「いいんだよしずくちゃん!こうして元気な姿がまた見れた!それだけで十分だよ!ですよねミセス!」

ミセス「……?」
──

 侑先生のことは上手く騙せている。私がスイになっていること等、微塵も思っていないらしい。
 しかし、ミセスは別だった。明らかにスイに対して怪訝な目つきをしている。とはいえ、それはしずくがスイに変わったことへの違和感ではないだろう。
 数日の間に性格が変わったような突然の変化。それに対する疑惑の目つきだ。そこから私がスイに成り代わっている、などという結論に至ることなど不可能だ。
 不可能なのだ。
 いずれ、このまま数日、数か月、数年の時が経過すれば、その違和感は払拭されるはずだろう。
 ……いずれ?
 じゃあ私はいつ、外に出られるんだろう……。

──
スイ「──スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」

スイ「だからあなたは、私と共に来てはだめ」

スイ「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」

スイ「大丈夫。私はもう怖い物なんていない」

スイ「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気付けてくれるもの」

スイ「だから、私のことはもう心配いらない。あなたはあなたの家族のために、その勇気を振るってあげて、スターラ」
──

 完璧だ。完璧にスイは、アステーリの役を演じきって見せた。
 今の私にはできないことを、スイは完璧にこなして見せたのだ。
 頬を伝う涙からも分かる。スイはしずくを演じるだけではない、普通の演劇もこなせる器の持ち主なのだ。
 さすがだと思った。
 やはり、スイは完全なのだと感じた。
 スイは私が覚えている限り、最初から普通の人と同じ感性を持っていた。それに、私の体を借りて人と接する時も、自分の気持ちをストレートに伝えられていた。
 考え方も、私とはまるで真逆だった。
 ポジティブで好奇心旺盛な性格。それが、スイだった。
 何も感じない存在として生まれ、ネガティブな思考展開をする不完全な私とは違う。完全な存在として生まれたスイ。

 ……嗚呼、そうか。
 そもそも、前提条件が狂っていたんだ。
 『不完全なしずくが主人格』ではなく『完全なスイが主人格』になるべきだったんだ。
 こうして感情を奪われたのは、罰だったんだ。
 『底知れない器』としての私が『自分』を求めてしまったから。分不相応な立場を求めてしまったから。
 だから私は、折角獲得した『自分』を奪われてしまったのだ。
 『底知れない器』として褒められるしずくだけで、満足するべきだったのだ。
 手の届かない高みへと手を伸ばしてしまったから、蝋の翼で太陽を目指してしまったから、私の翼は捥がれてしまった。
 こんな簡単なことに、なぜ今まで気が付かなかったのだろうか。
 これは悲劇ではない。喜劇だ。

 バカな私が、分不相応な立場を求めた喜劇。
 しずくの立場をスイに明け渡すまでの喜劇。
 しずくが死ぬことで、スイが桜坂しずくになる喜劇。
 
160: (もも) 2022/12/23(金) 00:56:14.33 ID:6GgxOBUo
 私はすぐに決心した。
 スイへと語り掛ける。

しずく(スイ、私、ようやく分かったよ)

しずく(不完全なしずくが、今まで桜坂しずくの主人格だったことがおかしかったんだ)

しずく(完全な存在として生まれたスイこそ、桜坂しずくの主人格に相応しい)

しずく(だから、ね。スイ。今は眠っていて)

 私は無理やりスイの人格を遥か奥底へと追いやる。今はただ、安らかに眠っていて。

しずく(次にあなたが目を覚ました時、それは──)


しずく(桜坂しずくが、本当の私になる時だから)

▲学園内劇場ホール▲

侑「すごい……」

 私はしずくちゃんの演技に素直にそう感嘆の息を漏らした。
 前のしずくちゃんとはあまりに違う、別離のシーンとしてあまりに相応しい演技だった。けれど、だからこそおかしいと感じた。
 この数日で一体しずくちゃんの身に何が起きたんだ……?

 こんな、まるで人が変わったような……。

侑「人が、変わった……?」

 自分の中の考えに引っかかりを感じる。

侑「……そうだ。今のしずくちゃんがもし、スイちゃんなら」

 辻褄が合う。
 今私の目の前にいるしずくちゃんの人格がスイちゃんだとすれば、全ての謎が氷解する。
 だって、人格が違うのだ。それならば人が変わったような変貌ぶりにも全て説明がつく。
 そしてだからこそ、一つの結論が導き出される。

侑「まだ、しずくちゃんはあの日のままなんだ……!!」

 そうだ。あの日と比べて元気過ぎるしずくちゃんの今の人格が、スイちゃんならば。
 恐らく『しずく』ちゃんはあの日のまま、時が止まったままなんだ……!!

侑「スイ──」

しずく「どうでしたか?ミセス」

 機先を制するように、言葉を遮られる。

ミセス「……あんたに何があったか、それは聞かん。役者が見せていいのは舞台の上での自分だけだからね」

ミセス「私から言えるのは、及第点をくれてやる。それだけさね」

しずく「……ふふっ。そうでしょう。そうでしょうとも……」

 そういってしずくちゃんはクツクツと笑っていた。その様は、なんだか余裕たっぷりに人と接するスイちゃんのように見えなくて、でも、スイちゃんがしずくちゃんの演技をしているようにも見えなくて。
 頭が、余計に混乱した。

しずく「すみません、ミセス。来てばかりで何ですが、少しお花を摘んできます」

ミセス「あぁ、そうかい。早く行ってきな」

しずく「はい。失礼します」

ミセス「──引き続き、アステーリは続投だよ。桜坂」

しずく「……はい。喜んで続けさせていただきます」

 しずくちゃんなのか、スイちゃんなのか、私の頭はずっと混乱していた。
 兎に角、しずくちゃんがトイレから戻ったら、問いただすしかない。演劇部の活動なんて関係ない。
 今、『しずく』ちゃんは苦しんでいるんだ。
 助けられずに何が教師だ……!!
 
161: (もも) 2022/12/23(金) 00:58:07.38 ID:6GgxOBUo
……
…………

 遅い。
 しずくちゃんがトイレに行ってからすでに十分経過している。
 私の中で不安がどんどん膨れ上がる。

侑「すみませんミセス。ちょっと舞台袖に行ってきます」

ミセス「……あぁ」

 舞台袖には恐らく、しずくちゃんのバッグがあるだろう。ロッカールームに行く暇もなく、舞台に上がったからだ。

侑「……ないってことは」

 舞台袖にしずくちゃんのバッグは無かった。もしかしたら別の場所に置いてある可能性もあるが……。

侑「すみませんミセス!今日は帰ります!!」

 急いで舞台前の客席へと戻ってミセスへ告げ、私は劇場ホールを出ていった。

▲外廊下▲

 もしかしたら腹痛でトイレに閉じこもっているだけかもしれない。私の不安はただの杞憂かもしれない。けれど、もし本当にしずくちゃんが嘘を吐いてここから出ていったのであれば……。
 あまりいい予感はしない。
 一先ず、近くにいる生徒に聞き込みを行う。

侑「ごめん、ちょっといい──」

……
…………

 しずくちゃんは非常に目立つ容姿をしている。
 大きなリボンをしている女子生徒を見かけなかったか、質問はそれだけで十分だった。そしてすぐに目撃証言は集まった。

侑「やっぱりもう学園にはいない……!!」

 私は急いで学園内の駐車場へと向かう。
 今のしずくちゃんを一人にしちゃいけない。私の本能の部分がそう叫んでいる。
 でも、一体どこへ行けば……。

かすみ「──あれ、侑先生。どうしたんですか?」

侑「……かすみちゃん」

 少し足を止める。
 逸る気持ちを何とか抑え、かすみちゃんにも聞いてみる。

侑「かすみちゃん、しずくちゃんをどこかで見なかった?」

かすみ「しず子ですか……?はい。確かにさっきそこで会いましたよ」

侑「かすみちゃん……ッ!」

かすみ「ひゃっ」

侑「しずくちゃんとどんな話をしたの?どこへ行ったか分かる?」

かすみ「い、痛いです侑先生……」

侑「あ……」

 いつのまにか掴んでいたかすみちゃんの両肩から手を離す。
 焦燥感に駆られ、冷静さを欠いていたらしい。今はどんなに焦っていたとしても、冷静でいなきゃいけないのに……!!

侑「ごめん。でも、時は一刻を争うんだ。しずくちゃんとどんな会話をしたの?」

かすみ「は、はい……。えぇと、演劇部で稽古をしてるはずのしず子が何してるのかなって思って、なにしてるの?って聞いたんです」

かすみ「それで、やっぱり体調が優れないから帰るって言ってたんです」

侑「……そうなんだ。分かった。ありがとうかすみちゃん」

 しずくちゃんは家に帰ったらしい……けど、これも本当かどうか分からない。ミセスと私に嘘を言った以上、かすみちゃんへも嘘を吐いた可能性が高い。
 くっ……。
 聞き込みを続けていても日が暮れてしまう。一体どこへ向かえばいいんだ……。

かすみ「あ、それと」

 思い出したようにかすみちゃんは告げる。

かすみ「オフィーリアにも会いたいから、って言ってましたね」

侑「オフィーリアにも……?」

 かすみちゃんを騙すなら、単なる体調不良だけで十分なはずだ。ミセスと私にトイレに行くという用事を告げたように。
 オフィーリアにも会いたい、という理由は、わざわざ早退してまですることじゃない。演劇部の後にだって必ず会える。理由付けとして、あまりにも弱い。
 
162: (もも) 2022/12/23(金) 00:59:53.20 ID:6GgxOBUo
 だけどそれが逆説的に、しずくちゃんはオフィーリアに会いに帰ったんだと証明している。
 私は確信した。
 今しずくちゃんが向かっている先は──

侑「なら……しずくちゃんの家だ」

かすみ「え?」

侑「ありがとうかすみちゃん!風紀委員のお仕事頑張ってね!」

かすみ「あ、はい……」

 私はそう言い残し、駐車場へと全力で走った。

▲桜坂邸玄関前▲

 しずくちゃんの家に到着した。今日はたまたま車で通勤したから良かった。いつものように電車を使っていたら、先回りできなかったかもしれない。
 ちなみに道中、矯めつ眇めつ目を皿にしていたが、しずくちゃんは見当たらなかった。
 家の庭をサッと確認する。オフィーリアはいない。そもそも家の中で飼われているので当然と言えば当然だ。

侑「ご両親のどっちかがいてくれると助かるんだけど……」

 家のインターホンを押した。流石にまだしずくちゃんは来ていないと思うが、もし先回りできていなかったら最悪だ。

しずくの母『はい。どちら様でしょうか?』

侑「あ、はい。しずくちゃんの担任の高咲です。しずくちゃんはもう帰っていますか?」

 僥倖だ。キャリアウーマンとして忙しいしずくちゃんのお母さんだけど、今日は珍しく家にいるらしい。

しずくの母『あ、高咲先生。お世話になっています。しずくはまだ帰宅していませんよ?まだ演劇部の活動のはずじゃ……。あれ?高咲先生は演劇部の顧問の先生なんですよね?』

侑「あぁ~。はい。そうです。ちょっとしずくちゃんに用事がありまして……」

 どうしよう。しずくちゃんのお母さんになんて説明しよう。そもそもお母さんはしずくちゃんが二重人格だって知っているんだろうか。

しずくの母『なるほど……。外はお暑いでしょうし、とりあえず中に入ってください』

侑「あ、はい。ありがとうございます」

 色々と聞きたいこともあるし、とりあえずお邪魔させて貰おう。

▲桜坂邸▲

しずくの母「粗茶ですがどうぞ」

侑「ありがとうございます……。おぉ、なんか上品なお味がする」

しずくの母「ふふっ。仕事が忙しいと、こういう嗜好品に凝るくらいしか趣味がないんですよ」

侑「なるほど……」ズズッ…

 とりあえず、しずくちゃんが来るまで待機することにしよう。
 まぁそもそも、しずくちゃんが自宅以外の全く別の場所を目指していれば、待機は愚策になるんだけど……。でも、私の勘が間違いないって言ってる。
 三十分待っても来ない場合は、失礼することにしよう。

侑「そうそう。オフィーリアの容体はどうですか?」

しずくの母「あぁ、オフィーリアは元気ですよ?見ますか?」
 
163: (もも) 2022/12/23(金) 01:03:46.57 ID:6GgxOBUo
侑「是非ともお願いします」

 とりあえず、懸念の一つを潰そうと思う。
 私はしずくちゃんからオフィーリアの容体は快復へ向かっており、どんどん元気になっていると聞かされている。しかし、そもそもそれが嘘で、容体が悪化する一方だった場合、しずくちゃんが情緒不安定な理由も納得できる。
 しずくちゃんのお母さんに付いていくと、そこにはゆったりと眠るオフィーリアがいた。

侑「……よく寝ていますね」

しずくの母「はい。血を吐いたとは信じられないくらいです」

 私はオフィーリアを起こさないよう抜き足差し足で近づき、呼吸音を確認する。オフィーリアからは安らかな寝息が聞こえた。
 病状が悪化している、ということは無さそうだ。

侑「起こしちゃうのもあれですし、戻りましょうか」

しずくの母「はい」

 懸念の一つは杞憂に終わった。杞憂でよかったのは確かだが、それではしずくちゃんがスイに代わった理由が分からない。どういうことなんだ……?
 リビングに戻り、もう一度上品なお味のするお茶を飲む。う~ん、落ち着く。

しずくの母「おかわりもどうぞ」

侑「あ、ありがとうございます」

 さて、どうしようか。
 地雷を踏みぬくことになるかもしれないが、二重人格の件についてカマをかけてみるか。

侑「しずくちゃんって、たまに人が変わったように見えるんですよね」

しずくの母「そうなんですか?私はあまりあの子と一緒の時間を過ごせていないので……」

 ……。別の地雷を踏みぬいたらしい。でも、追加で聞くしかない。
 二重人格であることを知っていたのなら、それについて詳しく。いつ頃スイは現れたのか、いつ二重人格だと知ったのか、しずくちゃんが打ち明けた理由など。

侑「お仕事なら仕方がないですよ。まぁでも、たまに思うんですよね。二重人格なんじゃないかって」

 カマどころではない。確信そのものだ。さて、どうなる……?

しずくの母「……それは高咲先生。少し言葉が過ぎるのではないですか?しずくはちょっと色々なことがありましたが、普通の子です」

侑「あ、すみません……。言葉が過ぎました」

 怒気を孕んだ声で真っ直ぐ言われた。これが演技だとは到底思えない。忙しくてなかなか時間は作れないけれど、しずくちゃんはお母さんからしっかり愛されているらしい。
 だが、しずくちゃんはお母さんにも二重人格であることを告げていない。
 でも、私には告げてくれた。
 ……。私は想像以上に、しずくちゃんから信頼されていたらしい。

しずくの母「……高咲先生」

侑「あ、はいっ」

 少々思索に励み過ぎていた。いかんいかん。

しずくの母「その……高咲先生がここへ来た理由に、二重人格だとか、人が変わったようなこととか、そういったことが関係しているんでしょうか」
 
164: (もも) 2022/12/23(金) 01:05:38.38 ID:6GgxOBUo
侑「……」

 肯定するべきか、否定するべきか。
 ……秘密主義でいる訳にもいかない、か。

侑「はい。その通りです。詳細はしずくちゃんを裏切りそうになるので言えないのですが、私はそのしずくちゃんが今抱える問題を解決したくてここに参上しました」

 二重人格については触れなかった。しずくちゃんがあの砂浜で打ち明けてくれた覚悟を蔑ろにしないためだ。たとえそれが、血の繋がった両親であったとしても。

しずくの母「そう、ですか……」

 しずくちゃんのお母さんはそう言って、どこか鎮痛な面持ちを見せる。何か思う所があるのだろう。
 しばらく、重い空気がリビングに満ちる。私はその沈黙のせいで居心地が悪く、喉が渇いていないのにお茶を飲んでしまう。

しずくの母「どうぞ……」

侑「あ、ありがとうございます……」

 そういってまたお茶に口を付ける。
 く~、どうしよう。何を聞くべきか、何を言うべきか。
 しずくちゃんのお母さんが何か言いだすのを待つべきか。それとも私から何か言うべきか。
 う~ん。とはいえ、私が質問することって、かなり抽象的過ぎて言語化し辛いんだよなぁ。何かないだろうか。違和感が明確で、それも今のしずくちゃんに関係ありそうなこと。
 しずくちゃん。二重人格。スイ。オフィーリア。演劇。底知れない器。自分。

侑「……あ」

しずくの母「……?どうかなさいましたか?」

 そういえば、しずくちゃんの言っていたことと、食い違っていたことがあった。

侑「その、オフィーリアって泳ぐのが下手、なんですか?」

しずくの母「え……?」

 しずくちゃんのお母さんはその質問が予想外だったらしい。
 私が前、オフィーリアと一緒に散歩に行った時、お風呂を借りる時にしずくちゃんのお母さんが言った一言が、妙に印象に残っていた。

──
しずくの母「──オフィーリアに水泳を教えた甲斐があったわ」
──

 水泳を教えていた。
 それならばなぜしずくちゃんは、オフィーリアは泳ぎが下手、と私に言ったのだろうか。

侑「確か、オフィーリアには泳ぎを教えていたんですよね?それはなぜですか?」

 特に収穫のある質問ではないかもしれない。しかし、違和感はできるだけ払拭されるべきだ。

しずくの母「それは……」

 しずくちゃんのお母さんは実に言いにくそうにしていた。言い淀むということは、そこに何かがあるということだ。

侑「お願いします。私にどうか教えてください。そこにしずくちゃんを救う手がかりがあるかもしれないんです」

 私は椅子から立ち上がり、できるだけ深く礼をした。
 
165: (もも) 2022/12/23(金) 01:07:20.73 ID:6GgxOBUo
しずくの母「高咲先生……」

しずくの母「……分かりました。ですのでどうか、お顔を上げてください」

侑「……!はい、ありがとうございます!」

 一度椅子に座り直す。

しずくの母「ではまず、お話をする前に、なぜそのような疑問を抱かれたのか、お聞きしてもいいですか?」

侑「はい。私は以前、オフィーリアと一緒に散歩に行ったのですが、その際しずくちゃんから『走るのは得意だけど泳ぐのは不得意』と釘を刺されたんです。ですが、溺れる小学生を救出した際、私が見たオフィーリアは、とても泳ぎが上手だったので違和感を覚えていたんです」

 紛れもない事実だ。その時は単に、小さかった頃のオフィーリアは泳ぎが下手で、それ以来水の中にいれていないとか、そういうことだと思っていた。でも、この感じだと真実は別な気がする。

しずくの母「なるほど……。そうだったんですね。あの子の中では……オフィーリアは昔のまま変わっていなかったんですね……」

侑「え……?どういうことですか?」

しずくの母「はい。一言で言ってしまえば、泳ぎが不得意なオフィーリアは、前のオフィーリアなんです」

侑「……?前のオフィーリア、ですか?」

 前のオフィーリア。そういう単語が出た。これはどういうことだ?

しずくの母「実は今、そこで眠っているオフィーリアは、二代目なんです。初代オフィーリアはしずくが小さい頃に亡くなっているんです」

侑「え……」

しずくの母「その……。初代オフィーリアの死因は溺死なんです。小さかった頃のしずくを助けるために、身を挺して犠牲となったんです」

侑「……」

しずくの母「その後、しずくは幼いながらもきちんと状況を理解していたんですね。しずくは激しく自分を責め立てていました。オフィーリアが亡くなったのは自分のせいだって、自分がオフィーリアを〇したんだって」

しずくの母「それから……。しずくは抜け殻のようになってしまって、私と夫はどうしていいか分からず、この傷を癒してあげられるのは同じペットだと思ったんです。そうして飼ったのが同じ犬種のオフィーリアだったんです」

しずくの母「それからでしょうか。抜け殻のようで無気力だったしずくが、少しずつ自分を取り戻していったのは……。恥ずかしい話ですが、私と夫ではしずくの心の傷を埋めてあげられなかったんです……」

侑「そんなことが……」

 衝撃だった。
 オフィーリアが実は二代目だったということ。
 しずくちゃんは初代オフィーリアの挺身によって溺死を免れたこと。その犠牲となって初代オフィーリアは死んでしまったこと。
 それに責任を感じてしずくちゃんは抜け殻のようになってしまったこと。

侑「では、しずくちゃんの中のオフィーリアは未だに初代だと……?」

しずくの母「そう、かもしれません……。もしかしたら、未だにしずくはオフィーリアの死を受け入れていないのかもしれません」

しずくの母「自分の心が壊れてしまうことを防ぐために、しずくは自分の中に固く大きな壁を作っているのかも……」

侑「……。だから教えたんですね。初代のオフィーリアは泳ぎが得意じゃ無かったから。もう二度と同じことを繰り返さないために」

しずくの母「その通りです。だから私は二代目のオフィーリアに、徹底的に泳ぎを教育したんです」
 
166: (もも) 2022/12/23(金) 01:09:04.87 ID:6GgxOBUo
侑「なるほど……」

 そうか。そうだったのか……。
 オフィーリアは二代目だったんだ……。
 ……。
 問題は、ここからだ。
 初代オフィーリアは死んでおり、今いるオフィーリアは二代目ということも分かった。
 けれど、じゃあなんでしずくちゃんは以前、底が抜けた、なんて言ったんだろうか。スイを主人格にして舞台上で演技をしたんだろうか。
 ん?待てよ?
 底が抜けた?もしかして、しずくちゃんの中にはまだ先が──

侑「うっ……」

 唐突に腹痛が私を襲う。
 そういえば、お茶を何杯もお代わりしていたんだった……。お茶に含まれるタンニンとかカフェインは、胃にあんまりよくないんだった……。

侑「す、すみません。ちょっとお手洗いをお借りしたいのですが……」

しずくの母「あ、はい。こちらです」

 私はそう言って、リビングの机に車のキーを置いて、お手洗いへと向かった。キーがトイレに流れたら大変だからね。

……
…………

侑「あぁ、もう。これからはどんな状況でも、飲みすぎ食べすぎは絶対にしない……」

 腹痛は辛いものだ。体の内側から針で刺されているような感覚がある。

侑「……?」

 何やらリビングが騒がしかった。何かあったのか──

侑「……!!何かあったって、そんなの一つしかない!!」

 しずくちゃんが帰ってきたんだ!!
 私は急いでリビングへと向かう。しずくちゃんに会わなければならない。そして、伝えなければならないことがあった。

侑「しずくちゃん!!」

 私が勢いよくリビングのドアを開けると、そこにはしずくちゃんのお母さんが床に倒れていた。

侑「だ、大丈夫ですか!?」

しずくの母「は、はい。ですが……オフィーリアを一目見たらしずくが走って出ていってしまって……。止めようとはしたんですが、強く押されてしまって……」

 あぁもうっ。トイレしている間人の気配がすると思ったらしずくちゃんだったのか!!
 オフィーリアを見に来るために自宅を訪れる。私の予感は的中していた。

侑「すみません。しずくちゃんを追います!!」

 一目見た感じだと、しずくちゃんのお母さんはよろけて倒れただけだ。どこにも外傷はない。あったとしても、軽く痣ができる程度だろう。
 私は急いで玄関へと向かう。玄関へと続く廊下を走ると、来た時には無かった血が廊下に付着していた。何があったかは分からない。今は、走り抜けるだけだ。
 付着した血は気になるが、今は考えている場合じゃない。玄関のドアを思い切り開け放つ。
 そして私が目にした光景は、路駐していた私の車が走り去っていく瞬間だった。

侑「え……!!なんで私の車が……」

 一瞬呆気に取られるが、すぐに検討が付いた。
 しずくちゃんだ……!
 私がトイレに行く前、リビングに置いた車のキーを盗んで車を走らせたんだ。それで次の目的地へと向かおうとしている。

侑「う~。無免許運転と窃盗は犯罪なんだぞ!!」

 私は家の中へと戻り、自分のバッグの中からスマホを取り出す。
 通話アプリを開いて目的の人物へと連絡をした。

侑「ランジュちゃん!今すぐ私の指定した場所に来て!!」

ランジュ『好啊。今すぐ向かうわ』
 
167: (もも) 2022/12/23(金) 01:10:49.28 ID:6GgxOBUo
 何も事情を聞かず、ランジュちゃんは同意してくれた。
 ランジュちゃんのドライビングテクニックなら、なんとか追いつけるはず……。

……
…………

 景色が高速で過ぎていく。
 気分はまるで高速道路か、それとも新幹線の車窓か。
 私は現在、ランジュちゃんの大型バイクの後ろに乗せて貰っている。
 ランジュちゃんは自動車ではなく大型バイクを好む性格をしている。というのも、生き死にを近くで感じられるから、という何ともバイオレンスな理由だ。
 とはいえ、急いでいる時はこれほどすり抜けに適した乗り物もないだろう。ゾンビ映画やパンデミック映画などでは重宝されているイメージがある。

ランジュ「次の道は!?」

侑「次を右!!その後はしばらく直進!!」

ランジュ「好啊!!」

 ランジュちゃんの操縦する大型バイクはとうの昔に速度制限など超過している。改造に次ぐ改造を施し、軽く200キロ以上出る性能をしているらしい。
 正直言うと滅茶苦茶怖いが、こうでもしないと先に出たしずくちゃんに追い付くこと等不可能だ。

ランジュ「私の忠告が!!役に立って良かったわね!!」

侑「そうだね!!ランジュちゃんに言われなきゃ!!GPSを自分の車になんて付けなかったよ!!」

 出している速度が速度なので大声で叫ばなければ互いに聞こえない。声が嗄れるかもしれないが、そこは現役の高校教師の私だ。声を出し生徒を導く職業なのだ。すぐに嗄れるほどやわな喉をしていない。

ランジュ「あ!!そうだ!!ヘルメットの脇のボタンを押してみなさい!!」

侑「え!!これ!?」

 言われた通りヘルメット横に付いているボタンを押してみた。すると、周囲の雑音が消え、代わりに誰かの息遣いが微かに聞こえた。

ランジュ「ふふん。ノイズキャンセリング機能と通信機能が付いたヘルメットよ!」

侑「わ~お。便利だねこれ」

ランジュ「孤虎会特注の品よ!」

侑「孤虎会っていうか、ランジュちゃんの趣味の品じゃないの……?」

ランジュ「そうとも言うわね!」

 ランジュちゃんの組織の私物化は今に始まったことじゃないけど、まぁ、だからこそ幹部にまで上り詰めているんだけど。やっていることは滅茶苦茶に見えて、その実理路整然とした計画があるらしい。まぁ普通に滅茶苦茶な時は幾つもあるんだけど。

ランジュ「それじゃあそろそろ事情を聞かせて貰えるかしら」

侑「あぁ、うん……。えぇと……何から話そうかな……。あ、次を左」

ランジュ「好啊。侑、長い説明は退屈なだけよ。一言で分かるように言ってちょうだい」

 ランジュちゃんらしい返答だ。
 今の状況を一言で説明、か……。
 そうだな……。
 今までの状況を総合して、私が導く出した推論は一つの可能性を暗示していた。
 つまりそれは──

侑「しずくちゃんが、自分から死のうとしているんだ。だから、それを助けなきゃいけない。それだけだよ」

 その推論とは、『しずくちゃんが自〇する』というものだった。
 私の中に浮かんでいた幾つものしずくちゃんを形成するピース。その最後の一つのピースは、しずくちゃんがこれから向かう目的地だった。
 私がスマホを確認して自動車の現在地を確認すると、益々その目的地は明確になっていく。
 即ち、孤独になれる場所。即ち、誰にも邪魔されず静かに事に及べる場所。
 私がしずくちゃんに案内した、海の見える砂浜。そこがしずくちゃんの赴いている目的地なのだ。

ランジュ「そう……。しずくが、ね」

 ランジュちゃんは無感情に吐き捨てた。ランジュちゃんはその出生からか、弱者が弱者の手段を取ることに対し強く否定的だ。

侑「うん。私は、目の前で死のうとしている生徒を目の前にして、ジッとしていられる教師じゃないよ」

 たった今私が吐いた言葉。
 それはある意味その通りであったが、説明が不足している部分もあった。

ランジュ「教師として?いいえ、違うわ。あなたは高咲侑だからそうするんでしょ?」
 
168: (もも) 2022/12/23(金) 01:12:31.94 ID:6GgxOBUo
 そしてその説明不足は、ランジュちゃんによって容易に看破される。
 当然だ。ランジュちゃんは私の過去の大体を知っている。

ランジュ「もう二度と、大切な人から手を離さない為、でしょう?だからあなたは教師を諦めなかったし、そこまでの武術を身に着けた。違う?」

侑「……うぅん。その通りだよ。私は、私だから。私は、高咲侑だから。二度とあんなことを繰り返さないように、私はいまここにいるんだ」

 それはまるで、しずくちゃんのお母さんが二代目オフィーリアへ泳ぎの特訓を施したように。過去を悔やんだ結果からくるものだった。

侑「絶対に……手を離さない……。いや、掴んで見せる……!!」

ランジュ「ふふっ……。それでいいのよ。高咲侑」

侑「うん。ありがとう、ランジュちゃん」

 そうだ。
 私は何のためにこうして教師になったのか。過去を悔やんだ結果だ。
 過去を悔やんで、その場で停滞することもできた。教師の道を諦めることもできた。
 けれど、そうした弱者の道でいることを、ランジュちゃんは許さなかった。
 だから私は今こうして、しずくちゃんの元へと駆けつけられる。
 ランジュちゃんには、感謝しても感謝しても、足りないくらいの恩を貰い過ぎている。だからせめて。

侑「本当に、ありがとう」

 もう一度、感謝の言葉を伝えた。

ランジュ「ランジュに任せなさい!!」

侑「うん!!頼んだよランジュちゃん!!そこを左だよ!!」

ランジュ「好啊!!」

 私にはまだ、覚悟が不足していたらしい。だからこうしてランジュちゃんに叱咤されている。
 覚悟をもう一度固めるために。しずくちゃんを救う意志を強固な物とするために。
 『あの日』を思い出す。

──
『来ちゃったんだ……』

『でも、ごめんね。もう、止められない』

『これが、最後、かなぁ……』

『それじゃあ……ばいばい』

『──せつ菜ちゃん』
──

 頭が沸騰するくらい熱くなる。
 あの日の後悔は、未だにこうして総毛立つほど覚えている。
 後悔を無かったことにしない為に。後悔そのものを無駄にしない為に。
 私は今、ここにいる。
 覚悟は、できた。
 あとは、目的地に着くだけだ──

▲孤独の砂浜周辺▲

ランジュ「ここね?」

侑「うん……!私の車が乗り捨ててあるもん!間違いないよ!」

 侑が指差した方向を見ると、そこには確かに侑の自動車が雑に駐車されていた。どこかに何度もぶつけたのか、凹んでいる箇所がいくつも見える。

侑「行ってくる!!」

ランジュ「えぇ」

 目的地へと向かう侑を見送る。

侑「ランジュちゃんはこないの……?」

 どうしようかしら。ここで変に固辞するのはおかしい。それらしい理由を並べなければならない。

ランジュ「周辺を確認してくるわ。もしかしたら、侑が来るって分かって、別の場所で事に及ぶ可能性があるもの」

侑「なるほど……。それじゃあ、後は任せたよ!!」

 侑は目的地へと続く小道に向かって走り出す。
 ……いつものように「任せなさい!」と言えなかった。
 
169: (もも) 2022/12/23(金) 01:14:17.20 ID:6GgxOBUo
ランジュ「しずくが待っているのは、あなただけよ、侑。私はお呼びじゃないわ」

 侑にはもう聞こえていないだろうけど、そう呟く。

ランジュ「行かないで、なんて。言えるわけないじゃない……ッ」

 そう言って、自らの肩を強く抱く。
 矛盾した行動だった。
 頭の中ではしずくの元へと向かって欲しくない。けれど、こうしてしずくの元へと行く手伝いをしてしまっている。
 それはなぜか。
 単純だ。
 そうするのが高咲侑だから。
 そうする高咲侑だから、ランジュが慕う高咲侑なのだ。

ランジュ「もう、ランジュの出る幕はないわね……。再見、侑」

 そう呟き、元来た道へ戻るために、自分の居場所へと戻るために、バイクを走らせた。
 一度だけ、侑が入っていった小道を一瞥し、それ以降は何も振り返らなかった。

ランジュ「未練がましいなんて、ランジュらしくないもの」

▽学園内外廊下▽

 スイを私の心の奥底へと追いやった後、私はミセスと侑先生に嘘を吐いて外廊下へ出ていた。
 ここからはスピード勝負だ。急いで私が死ぬことができる場所まで向かわないと。そうじゃなければ、確実に侑先生が邪魔をしてくる。
 急ぎ足で学園から出る。

かすみ「──あれ、しず子じゃん。なにしてるの?演劇部って今日休みなの?」

 最悪だ。よりにもよってかすみさんと会ってしまった。
 今の私はスイじゃない。感情を乗せられないから上手く会話できる自信がない。
 だからと言って無視するわけにもいかない……。ここは、迅速に乗り切るしか方法はない……!

しずく「こんにちは。かすみさん。やっぱり体調がもとに戻っていなくて……。今から帰るところなんだ」

かすみ「あ、そうなんだ。お大事にね」

 よし、大丈夫だ。一瞬の邂逅だけなら怪しまれることはない。
 勿論、自宅に帰るのは嘘だ。真っ直ぐ自〇できるポイントへ向かう。
 が、しかし。

しずく「──それに、オフィーリアにも会いたいから。じゃあね、かすみさん」

かすみ「うん。ばいばいしず子」

 口からは、予定外の言葉が出た。
 オフィーリアに会いたいから……?
 どうして?そんなことをする暇はあるんだろうか。いや、普通はない。
 でも、なぜか……。今の私は、オフィーリアに会わなければならない。
 強迫観念めいた思いが、心を席巻していた。

▽桜坂邸▽

 私は……帰ってきてしまっていた。自宅へと。
 奇妙な力に引き寄せられるように、オフィーリアに会わなければならないと、私の深い部分の声がここへと歩ませた。
 そして、自宅に着く寸前で気づいた。侑先生の車があるって。
 どうやって私がここに来ることを予測したのか分からないけれど、侑先生がいること、それだけは事実だ。
 侑先生の勘は鋭い。会えば必ず、私の考えを看破されるだろう。そして自〇の説得をされるだろう。だから絶対に会ってはいけない。
 なのに……。私は自宅へと入ってしまった。
 オフィーリアへと会う為に……。
 私は一直線にオフィーリアのいる部屋を目指す。気づかれないよう静かに玄関の扉を開錠し、抜き足差し足進んでいく。まずリビングを覗いたが、そこにいるのはお母さんだけだった。ではオフィーリアは……。
 と、見当を付けて歩いていると、トイレの鍵が締まっていることに気づく。どうやら侑先生はお手洗い中らしい。これは好都合だ。
 そして、奥の部屋にオフィーリアがいた。
 オフィーリアは安らかな寝息を立てて、ゆったりとくつろいでいた。

しずく「オフィーリア……」

 私はオフィーリアの名を呼びながら起こさないよう最大の注意を払って撫でた。撫でるつもりは無かった。けれど、無性に撫でたかった。
 なぜ……?なぜ私はオフィーリアに会いに来たんだ……?

しずく「うぐ……ッ」
 
170: (もも) 2022/12/23(金) 01:16:06.54 ID:6GgxOBUo
 途端、酷い頭痛に襲われた。
 まるで、閉じた脳みそを無理やり開かれているような、そんな感覚。何かが、何かが呼び起されようとしていた。
 激しい頭痛の中で、とある光景が呼び起される。
 水面から出たり、水中に潜ったり。何度も何度も同じことを繰り返す光景。これは……溺れている光景……?
 そして次に水面から何とか顔を出した時、そこに現れたのは──

しずく「……ッ!!だめ、だめだめだめ……!!これは、思い出しちゃいけない記憶だ……。私は、私は死なないといけないんだ……」

 呼び起されようとした記憶を、無理やり封じる。
 どうしてかは分からない。けれど、オフィーリアとこれ以上触れ合ったら、私は自〇の決心が鈍ると、そう確信できた。この強迫観念めいた行動は……私の、『しずく』の意思ではない。それならこれは……『しずく』ではない意思……。
 私はさらに奥へと、スイを追いやる。私の手の届かないところまで、必死で追いやった。けれど、不安は拭えない。
 『しずく』でも『スイ』でもないのなら、一体……。
 息が自然と荒くなる。依然と頭痛は続いていた。体調は……最悪だ。
 私は近くに置いてあるペン立てにあったボールペンを手に取る。

しずく「……ぐッ」

 手の甲に思い切りボールペンを突き立てる。思った以上に激しい痛みが脳みそを突き抜ける。けれど、おかげで痛覚が脳みそを支配していく。余計な思考が、痛みに塗り替えられていく。

しずく「私は……不完全だ……。完全なスイに……明け渡さないといけない……。スイが、私に、桜坂しずくになるべきなんだ……」

 頭を手で押さえながら、私はできるだけ早く家から出ようと決断した。

しずくの母「しずく……?」

 蹌踉とした足取りで歩く私の前に、リビングから顔をだしたお母さんが現れた。できるだけ抜き足差し足で家に入ったつもりだが、さすがに気付かれてしまったらしい。

しずくの母「しずく!高咲先生がね、今来ているのよ。だからあなたも──」

しずく「ごめん、お母さん。私は今から行かなきゃいけないところがあるの」

 お母さんを押しのけ、私は必死でこの家から出ようとする。

しずくの母「だ、だめよしずく!高咲先生は、あなたを助けようと駆けつけてくださったのよ!だから、ここにいなさい!」

 服の袖を掴まれた。お母さんの意思は固いらしく、軽く腕を振るうだけでは抜け出せなかった。
 ああ、もう……。なんでみんな私の邪魔をするんだ……!!

しずく「離してよ!!」

しずくの母「きゃあっ」

しずく「あ……」

 私は力の限りお母さんを突き飛ばした。お母さんは壁に体を思い切りぶつけ、その場に倒れてしまった。当たり所がやや悪かったらしい。
 頭痛と混乱、そして実の母親への暴力と、最悪に最悪の気分が重なる。
 無感であったはずの自分はどこへ行ったのか。頭がぐちゃぐちゃになってもう何も考えたくない。
 でもだからこそ、この静止は振り切られなければならない。頭のぐちゃぐちゃをどうにかする為に、安らかになる為に。私は向かわなければならないのだ。
 玄関へと戻ろうとした瞬間、リビングのテーブルの上に車のキーが見えた。
 これは……侑先生の車のキーに違いない。

しずく「そうだ、あそこなら……」

 侑先生。車のキー。それらで連想した私の場所は、ご褒美に一緒に行った海の見える静かな砂浜だった。
 あそこは孤独になれる場所。誰にも邪魔されずに自〇が遂行できる場所。
 孤独になれる、そんな場所なら……。私だけが死に、スイだけが助かることができる儀式の場として相応しい。
 孤独は分かち合えるが、それは結局のところ一人と一人に過ぎない。
 孤独は二人では味わえない。私とスイ二人では味わえない。
 それならば、あそこは絶好の場所だ。
 車のキーをひったくるようにして、私は自宅を出た。
 
171: (もも) 2022/12/23(金) 01:17:50.43 ID:6GgxOBUo
▲孤独の砂浜▲

しずく「ぐっ……、はぁ、はぁ……」

 何とか。何とかここまで来れた。頭痛と混乱のせいで車を色々な場所にぶつけたが、幸い人の目に付かなくてよかった。
 頭痛は酷くなる一方だ。波の音……というより、水の音を聞くとより酷くなっていく。
 この感覚は……オフィーリアに会った時に似た感覚。脳みそを無理やり開かれるような、秘匿していた何かが無理やり暴かれるような、そんな感覚。
 だが、もう終わりだ。
 もうすぐ、全てが終わる……。
 砂浜へと続く階段をゆっくりと降りる。一番下まで着くと、足が少し沈むような感触と、砂浜らしいサラサラとした感覚があった。

しずく「はぁ、はぁ……あと、少し……」

 ここは孤独になれる場所。
 私の足音と波の音、風がそよいで森の葉が揺れる音。そういう音しかしない。
 放課後からここまでだいぶ時間が掛かってしまった。時刻はすでに夕方。大海原に沈もうとする夕日が見える。

しずく「あの時と……同じ……」

 足取りは鉛のように重い。けれど、一歩一歩確かに進んでいく。
 奇しくも、あのご褒美を貰った土曜日と同じだった。時刻、場所。
 けれど、一つ違うことがあるとすれば……ここに侑先生が──

侑「──しずくちゃん!!」

しずく「──」

 ゆっくりと、誰何の声に振り向くと、そこには侑先生がいた。
 居場所など一切告げていないのに、どうしてここが分かったのだろうか……。もしかして、車に発信機が……?

侑「追いついた……今度は追い付いた……!!」

 侑先生は迅速に砂浜へと続く階段を降りていく。
 このままでは追い付かれてしまう……。
 こんな体を満足に動かせない自分では、容易に取り押さえられてしまう。それが侑先生なら尚更だ。
 ……。
 もう、こちらが説得するしかない。私が、しずくが死ななければならないことを。分かってもらうしかない。もう、これしか方法はない……!!

しずく「止まってください!!」

 私は自宅で持ってきたままだったボールペンを首筋に当てる。思い切り突き立てれば薄い皮膚など容易に裂ける。頸動脈を突けば出血多量で死ぬだろう。

侑「しずくちゃん……ッ」

 侑先生は、私と数メートルの距離で止まった。
 元より本当に自〇するつもりなど毛頭ないが、ボールペンを持っていない方から流れる血を見れば、これが伊達や酔狂ではないと分かるだろう。

しずく「それ以上私に近づけば、このボールペンが私の首を貫きます。人を〇すのに大仰な武器はいらないんです」

侑「……分かったよ。私はここから動かない。でもお話をしよう。しずくちゃん」

 私もそのつもりだ。
 正直どうやってここまで来れたのか。なぜここだと当てられたのか。そこが気になる。
 その後、侑先生を説得しよう。

しずく「私もそのつもりです。侑先生はなぜ、私がここにいると当てられたんですか?」

侑「単純だよ。私の車にはGPSが付いているんだ。盗難防止用にランジュちゃんにお勧めされてね。まぁ、実の生徒に盗まれるとは思わなかったけれど」

しずく「そうですか……」

 やはりそうだった。迂闊だったけれど、あの時はあれしか選択肢が無かった。ここにたどり着けただけでも重畳だろう。

しずく「では、私がなぜここにいるのか。それは分かってるんですか?」

侑「うん。しずくちゃん、君は自ら死のうとしている。そうだね?」

しずく「……正解です。なぜその結論に至ったか、聞いてもいいですか?」

侑「うん。まぁ、これまでのことを継ぎ接ぎしていったら自然とね」

侑「あの日、かすみちゃんと一緒に目隠し稽古をした日。しずくちゃんは演劇を自分の生きる意味だと言っていたね。もしそんなしずくちゃんが、演劇ができない状態になるとすればどういう時だろう」
 
172: (もも) 2022/12/23(金) 01:19:39.69 ID:6GgxOBUo
侑「月曜日に言った『底が抜けた』という言葉。しずくちゃんが演劇を続けられない時。それは、底が抜けて役を降ろせなくなった時だって気づいたんだ。そして、演劇を続けられないこと。それはしずくちゃんの生きる意味それ自体が消えることを意味する」

しずく「……まるで探偵ですね。それで私が自〇しようと思ったと?」

侑「私は、そう思ってるよ。でも、しずくちゃんの中ではちょっと違うらしいね」

 ……まだ、まだ足りない。
 侑先生は私が自〇する理由を底が抜けたことだと考えているようだが、そうではない。まだパズルのピースは不足している。

侑「そして……。金曜日。ミセスとの約束の日になった。しずくちゃんは前の面影なんて一切感じさせないくらい元気になってた。不自然なくらいにね」

侑「そんなしずくちゃんの演技を客席から見たよ。圧巻だった。たった数分の演技だったけれど、あれが公演で発揮されれば怪演、とまで言われたんじゃないかな」

侑「だからこそ不自然だった。まるで人が代わったかのような演技。そう、しずくちゃんなら代わることが可能だったんだよ。しずくちゃんではなく、スイちゃんに」

しずく「……そこまで見抜かれていたとは」

侑「そんなスイちゃんの怪演に、しずくちゃんは自分自身の存在意義を見失ったんじゃないかな。しずくじゃなくていい、スイに任せればいいって。生きる意味の演劇を失ったしずくは、もう死ぬしかないって」

しずく「……正解です。大正解ですよ。侑先生」

 私は心の底から拍手をした。
 散りばめられた推理に必要なパーツ全て。それを見事に組み合わせて侑先生は見事正解へとたどり着いた。

しずく「ただ、一つ付け加えるならば、生きる意味の演劇を失ったから、というより、『不完全なしずく』がこれまで主人格だったことがおかしかったんです」

しずく「私の中にいつの間にかいた『完全なスイ』。人の気持ちが理解できて、性格も明るく好奇心旺盛。そんなスイが、私の主人格になるべきだったんです」

しずく「私が今から〇すのは『しずく』だけ。水底に沈んで溺れた後、助かった桜坂しずくに残る人格は『スイ』なんです。この場所なら、きっと、きっとできる……!!」

しずく「おかしいと思いますよね?しずくではなくスイが私となった方が!!その方が自然なんです!!二重人格なんてそもそもおかしかった……!!私はそもそも、生まれるべきじゃなかったんですよ!!」

 いつの間にか、絶叫していた。
 心の中に溜まっていた膿が言葉になって吐き出されていく。
 そう、私は最初から生まれるべきではなかった。だから〇す。それの何がおかしいんだ。

侑「……確かに、二重人格っていうのは少しおかしいかもしれないね」

しずく「……!!」

 まさか、侑先生が肯定してくれるだなんて……。もしかして、このまま説得は可能……?

侑「一人の人間の中に二つの魂。普通じゃない」

しずく「そ、そうです……!!二つの魂の内、一つが不完全なら捨て去ればいい!!〇せばいい!!」

侑「──でも、普通じゃなくて何が悪いの?」

しずく「……え」

侑「確かに二重人格の人なんて普通じゃないよ。でも、だから何が悪いの?私から見て、しずくちゃんとスイちゃんはとても上手く共存しているように見えた。支え合う姉妹にように私には見えたよ」

侑「一つの体に二つの魂。けれど、それで共存できてるなら、それでいいじゃん」

しずく「……」
 
173: (もも) 2022/12/23(金) 01:21:26.37 ID:6GgxOBUo
 だめだ。結局侑先生は、何も分かっていない。何も分かっていなかった。

しずく「『しずく』が消えないと、『しずく』が死なないと、主人格はいつまで経っても『しずく』のままなんですよ……?そんなのおかしいです……。スイが私であるべきなんです……」

 そう呟く声音は、どうしてか、とても弱々しいものだった。
 なぜ……?

侑「そう、スイちゃんが言ったの?スイちゃんは、それを望んだの?納得したの?」

しずく「……」

 していない。
 スイは、きっと私が消えることを望まないだろう。でも仕方がない。私には存在価値が無い。存在意義がない。
 底が抜けてしまったのだから……。

侑「しずくちゃん。君はただ、自分に存在意義がないって、存在価値がないって絶望して、それから逃れたかっただけなんじゃないの?」

しずく「──」

しずく「そ、そんなこと……ッ!!そんなことないッ!!そんなこと……絶対に……」

 私は本当に……スイの為を思ってした行動のはずで……。
 そう思ったが、自然と口は別の言葉を紡ぎ始めていた。

しずく「私は……底知れない器だったのに……。底が抜けてしまったから……。私のいる意味が消えて……。だってこれは……私が、分不相応な願いをしてしまったから……。自分が欲しいって……」

 弱々しく、言葉が紡がれていく。
 心の声が、そのまま形になっていくような、そんな感覚だった。

侑「しずくちゃん」

しずく「ゆ、う……せんせ……」

 いつの間にか、侑先生は私の目の前まで来ていた。
 侑先生は優しく私の手からボールペンを奪う。
 そして、私は温かい感覚に襲われる。

侑「大丈夫。しずくちゃんの底が抜けてしまっても大丈夫」

 私は、抱きしめられいたと、そう気づいた。
 優しく、優しく。赤子にするような、そんな抱擁だった。

しずく「大丈夫なわけ……ないですよ……」

侑「底が抜けて全てがすり抜けちゃうって?」

しずく「そうです……。全て、すべてが、すり抜けていくんです……」

しずく「何も感じない。何も降ろせない……」

しずく「私はずっとこのままなんだって思ったら……」

しずく「まるで全てが闇に包まれたような……そんな気がして……」

 無感。
 それは闇だ。どこまでも続く深淵の闇。宇宙の遥か先にでも一人置き去りにされればそんな感覚に陥るのだろうか。

侑「大丈夫。平気だよしずくちゃん」

しずく「な、なんで……」

 どうしてそう、断言できるのだろう。
 どうしてそう、自信満々に言えるのだろう。

しずく「どうして、平気って、大丈夫って……そう言えるんですか……」

 私は縋るように、助けを求めるように。喘ぐようにして聞いた。

侑「底が抜けたって、空っぽだって、問題ないよ」

侑「私がその穴を満たしてあげる。しずくちゃんの全てを、私で満たしてあげる」

しずく「──」

侑「どれだけ深くたって、どれだけ広くたって。ちょっとの隙間だって許さない。高咲侑の全てを持って、しずくちゃんを満たしてあげる」
 
174: (もも) 2022/12/23(金) 01:23:34.37 ID:6GgxOBUo
侑「だから、平気だよ。しずくちゃん。安心していい」

 一層、抱擁が強くなった。
 瞬間、私の中で何か膨れ上がる感情があった。温かく、それでいて体を満たしていく歓喜の感情だ。
 感情が、私の名からあふれ出していく。

しずく「……あ、あれ……」

 いつの間にか。頬を伝って涙が流れていた。

侑「しずくちゃんが自分を捨てようと、私は絶対に手を離さない。こうやって抱きしめ続けるよ。私の前から消えるだなんて、そんなことは許さない」

しずく「侑先生……」

 私は、久しく感じる歓喜がなんだか怖くて。侑先生へ抱きしめ返してしまった。
 強く、強く。離れないように。離さないように。逃げてしまわないように。

侑「それに、さ……。しずくちゃんは自分の原点を『底知れない器』だと思っているけれど、本当にそうかな?」

しずく「え……?」

 突如言われた理解できない言葉。
 私の原点が『底知れない器』じゃない……?
 いや、私は物心ついた頃から何も感じない子で、自分が無い子で……。

侑「しずくちゃんの中に、スイはいつ生まれたの?スイはどうして生まれたの?」

侑「しずくちゃんが生まれた日。その日からスイはいたの?」

しずく「スイがいつ生まれた……?」

 スイは……いつの間にか私の中にいた。物心ついた頃には既に……。いや、そうだったか……?スイはいつ私の中に生まれたんだ……?

侑「『今の』オフィーリアは泳ぎが上手だったよ。過去の後悔を、そのままにしておかなかったおかげだね」

しずく「え……?いえ、オフィーリアは泳ぎが不得意なはず……」

 矢継ぎ早に繰り出される侑先生からの言葉。
 そのどれもが、確実に私の何かを大きく刺激していく。

侑「思い出してごらん。それは本当に『今の』オフィーリアのことかい?『昔の』オフィーリアのことじゃない?」

しずく「『今の』……?『昔の』……?」

 頭が割れるように痛い。また始まった。脳みそを無理やり開かれるような感覚。
 波の音が、水の音が、私を激しく揺さぶっていく。
 何かが、呼び起される……。

侑「──しずくちゃんは元々、二重人格でもなく、『底知れない器』でも無かったんだよ」

 侑先生のその一言が、最後のトリガーだった。

しずく「あ……」

 私が今まで封じていた記憶が。
 何重にも鎖を巻いて出てこないよう閉じ込めた記憶が。
 一斉に飛び出す──
 
175: (もも) 2022/12/23(金) 01:25:26.82 ID:6GgxOBUo
▽在りし日の桜坂しずく▽

 私を一言で言い表すのならば、自信のない子供だった。
 私は小さな頃、それこそ幼稚園の頃から古い演劇や映画が好きだった。両親は仕事で忙しい人だったので、趣味の内容が自然と手軽につまめるモノだったのだ。だから、私の家にはそういった創作物がたくさんあった。
 両親との時間があまり取れない私にとって、映画や演劇は孤独を埋めてくれる道具だったのだ。
 映画や演劇は好きだったけれど、その内容を全て理解していたわけではない。むしろ、半分も理解できていなかった。
 私がフィクション作品の登場人物に憧れたのはなぜだったか。
 きっと、演じる役柄が物乞いをする貧乏人であったとしても、使い走りにされる下っ端であったとしても、役者自身は自信を持って演じているからかもしれない。
 堂々とした役柄でなくても、映画や演劇を形作る重要パズルのピース。弱者も強者も等しくピースや材料に過ぎない。そういった徹底した不平等なまでの公平さ、ここにも魅力を感じた。無論、幼稚園生であった時分の私が、自覚を持ってそういった楽しみ方をしていたわけではない。
 そんな幼少期を送っていたからか。
 幼稚園という小さくも、当時の私にとっては大きいコミュニティではズレを感じていた。

「いっしょにおままごとやろ~?」

「しずくちゃんはこいぬのやくね!」

 自分を上手く出せない私にとって、距離感の近い遊びに誘ってくれる人は助かった。
 助かったと思っていたのは、最初の頃だけだったが。

「こいぬ?でも、こいぬなんてかえないよ」

「え~?なんで~?」

「だってこいぬはおかねもちのひとしかかえないんだよ?」

 私にとってペットとは、上流階級に位置する人間の楽しみであると、映画や演劇を見て奇妙な常識が出来上がっていた。その奇妙な常識、つまり偏見はいたるところで他の人とのズレを生み出した。
 私にとっておままごととは、フィクション作品の延長線上にあった。演じている時はまるで演劇や映画の世界の人と同じになれたようで楽しかった。けれど、楽しかったのは私だけだった。

「どうしておかあさんはりょうりばっかりしてるの?おしごとにもいかないと」

「どうしてひとりだけのじかんがないの?ずっといっしょにいるなんておかしいよ」

「どうしてこどもひとりでなにもできないの?るすばんのしーんもいれようよ」

 私の世界はきっと、他の人と比べてズレていたんだと思う。
 他の子の両親は夕方になれば自宅に帰ってくるし、土日の休みには公園や遊園地などに遊びに連れて行って貰っていた。けれど、私の両親はどちらも家事育児より、仕事に傾倒していた。
 そういった普通ではない家庭で養われた価値観と、演劇や映画の世界で養われた価値観。その二つが変に融合した結果、私は周囲とのズレをより大きくしていった。

「しずくちゃんとあそんでてもたのしくない!」

「めいれいしないでよ!わたしはわたしのやりたいことをしたい!」

「もうあそんであげないもん!」

 私は自信がなく、人見知りをする子供だったけれど、好きなことには本気だった。本気だったからこそ、余計にその溝を深くしていった。私の奇妙に折れ曲がった偏見は、おままごとで悪い方向に働いた。
 私だけの都合で色々な口出しをした。それが他の子にとっては面白くなかったのだろう。次々に私から人は離れていった。
 当然と言えば当然だ。私は私の世界だけを優先して、他の子の常識を受け入れなかったのだから。
 こうした、フィクション作品への偏愛、世間とはかけ離れた偏見。この二つが私を周囲から孤立する原因となった。

「ね、ねぇ……わたしもう、なにもいわないから、おままごとしようよ」

「い~~やっ!しずくちゃんうるさいんだもん!わたしのままみたい!!」

「あ……。ご、ごめんなさい!なにもいわないから!おねがい!おねがい!」

「はなしてよ!いたいよ!」

「うっ、ご、ごめんね……。ごめんね……?うぅ……うううう……」

「あー!しずくちゃんなかしたー!わるいんだー!」
 
176: (もも) 2022/12/23(金) 01:27:34.35 ID:6GgxOBUo
 私がおままごとへ熱が入るあまり、それを周囲が鬱陶しがっていたこと。それに気づいた頃には遅かった。私への周囲の偏見は、『おままごとでえらそうなやつ』になってしまい、おままごとでは遊べなくなってしまった。
 とはいえ、それはあくまでおままごと限定の話だ。折り紙を使った遊び、ビーチボールを使った遊びなど、そうしたおままごと以外の遊びには参加できた。
 しかし、私が本当に心の底からやりたかったのは、おままごとだったのだ。だから私は一生懸命頑張った。おままごとをやろう、と他の子を懸命に誘った。自信がなく人見知りの私だったが、それでもできることはやろうとした。自分を変えて、みんなと楽しめるおままごとをしようって、頑張ったのだ。
 けれど、私への偏見はしつこい油汚れのようであり、幼稚園生時代、おままごとをもう一度やる機会は訪れなかった。

「しずくちゃん。他の子達とちょっと距離を置かれている感じなんですよ……」

「え、しずくか……?あの子が何かしたんですか?それともいじめられて……?」

「あぁいえ。そういうことではなくて。何と言いますか、おままごとへの本気度が高すぎるせいですかね。ちょっと色々言っちゃって……。他の子が自由にできていないみたいなんですよね」

「……そうなんですか。しずくは人見知りなのでそんな面があるなんて知りませんでした」

「私は勿論、他の先生方もおままごとの輪に入れようと頑張ってはいるんですが、想像以上に他の子達から見たしずくちゃんの印象が悪いみたいで」

「なんとか、なんとかなりませんか……?」

「う~ん。でも他の遊びなら普通に混ざれているんですよ。どこか一つ気に食わなくても、他の遊びならフラットに接することができる。まだみんな小さいですから。完全に孤立しているわけではないので、そう心配することはないと思います」

「あ、そうなんですね。てっきりみんなから爪弾きにされているもんだと……」

「とはいえ、若干の距離を感じるのは事実ですし、改善に向かうよう努力しますね」

「はい。よろしくお願いします先生」

 たまに、幼稚園から帰る時、先生とお母さんがそうした話をするのを聞いた。話の内容を全て理解したわけでは無かったけれど、よくない話だったのは雰囲気から察せられた。この時くらいだろうか。人の出す雰囲気や感情に敏感になり始めた頃は。
 私はこれ以上自分と周囲との人間関係を悪化させないよう、なるべく息を潜めて生活するようにしていた気がする。
 周囲の反応を逐一窺い、自信がなく人見知りな為、あまり人と積極的に関わろうとしなくなっていた。両親は家にいる時でも忙しそうに仕事をしていたため、相談することもできなかった。また、両親とのコミュニケーションが少なかったせいか、そもそも相談して解決する、という手段を思いつかなかった。
 けれど、そんな私に転機が訪れる。

「しずく。ほら、わんちゃんだよ」

「わんっ!」

 父親が連れてきたのは、一匹の犬だった。その犬は、生まれたばかりの犬ではなく、どうやら里親募集中の犬だったらしく、少し大きかった。

「わわわっ!」

「わぅん!」

 その犬は、父親の手を離れ、真っ直ぐ私へと突撃してきた。当時の私にとって犬とは未知数な生物であり、恐怖の対象でしかなかった。

「わふふ~ん」

「……」

 恐怖の対象のはずだった。
 けれど、人の感情の機微に敏感になっていたせいか、その犬から向けられた感情が好意から来るものだと理解できた。私はそうした純度の高い好意を真っ直ぐ向けられることに慣れておらず、しかし、悪い気分でも無かった。
 私はいつの間にか、その犬を小さな手で撫でていた。

「わうぅ……」

「……ふふっ」

 犬は気持ちよさげに目を細め、私はいつの間にか笑みを漏らしていた。

「しずく、このわんちゃんに名前を付けよう。しずくが決めていいよ?」

「え……。わたしがきめていいの?」

「あぁ。このわんちゃんは、今から俺たちの家族になるんだ。だからよく考えて名前を付けるんだよ?」

「……かぞく」
 
177: (もも) 2022/12/23(金) 01:29:28.03 ID:6GgxOBUo
 私は悩んでいた。
 父親はペットではなく家族と表現した。私にとって家族とは、あまり家に帰らず、あまり私と遊んでくれない存在だった。
 そんな私にとって家族とは、あまりいいイメージのわかないものだった。
 けれど、創作の中の世界なら。演劇や映画の中の世界なら。
 家族愛をテーマにした作品は数多あった。私も、そんな映画や演劇のような家族愛を育めるような家族が欲しいと思った。
 そして、この子が私の家族になるなら、きっと妹だ。

「じゃあ……オフィーリアがいい。このこはオフィーリア。これできまり」

 オフィーリア。それは最近鑑賞した演劇に出てきた妹の名前。ただそれだけの、単純な名前だった。

「オフィーリア?それってハムレットの?いやぁ、オフィーリアかぁ……」

 父親はそう言うと、後ろ頭を掻いて少し困っていた。
 父親が困っていることは分かったけれど、私は頑として聞かなかった。

「このこはぜったいオフィーリア!ぜったいだもん!わたしのいもうとだもん!」

「……そうか。分かったよしずく。しずくがお姉ちゃんなら、オフィーリアをしっかり守ってあげるんだよ?」

「……うん!わかった!わたし、オフィーリアのおねえちゃんとしてがんばる!」

 それからしばらく、私にとって人生の絶頂期を迎える。
 オフィーリアは最初から私によく懐いた。それは別に私だけではなく、他の人も例外無かったが。
 オフィーリアは好奇心旺盛な性格らしく、よく色々な場所へと走り回っていた。私は好奇心より未知の恐怖の方が勝る性格をしていたので全く真逆の性格をしていた。
 けれど、どこにでも行くオフィーリアと一緒なら、私はどんな場所でも怖くなかった。
 それはなぜだっただろうか。
 私がお姉ちゃんとして妹を守らなければならないと、そう張り切っていたからだろうか。それもあるだろうが、真相はきっと違う。

「わうわうっ!」

「そっちにいきたいの?」

「わんわん!」

「うん。じゃあいこうオフィーリア!」

「わおんっ!」

 真相はきっと、好奇心旺盛でどこにも首を突っ込むオフィーリアだったけれど、決して私を置いていかなかったから。私はオフィーリアを守っているつもりだったけれど、私はオフィーリアに守られていた。
 そしてそんなオフィーリアに感化されたからだろうか。
 誰にでも人懐っこいオフィーリアに影響され、私の人見知りの性格は少しずつ改善されていった。
 みんなオフィーリアを見ると寄ってくる。そんなオフィーリアを通じて、少しずつみんなとの関係も修復されていったのだ。

「最近のしずくちゃん。よく笑うようになったんですよね」

「あ、先生もそう思いますか?家でもしずくったらずっと笑顔で……」

「そうなんですか。いい傾向だと思います。やっぱりその秘訣はあのわんちゃんですか?」

「えぇ。オフィーリアと言うんですけど、しずくったらずっとオフィーリアにベッタリで。まぁオフィーリアの方もしずくにベッタリなんですけど」

「あはは。微笑ましくていいですね」

「えぇ、本当に。本当にオフィーリアを家族に迎えてよかったです」

 オフィーリアを家族に迎えてから、私はどうもよく笑うようになっていたらしい。それに比例して、家の中の雰囲気もなんだか明るくなった気がして。オフィーリア様様、と言った具合だった。
 そういう日々を過ごしていたからだろうか。オフィーリアが私へくれた様々な物の大きさが分かるようになってきて、自然と感謝をする機会が増えていった。
 
178: (もも) 2022/12/23(金) 01:31:16.85 ID:6GgxOBUo
「ありがとう。ありがとうねぇオフィーリア」

「わうん!」

「わたしとオフィーリアは、ずっといっしょだよ。ずっといっしょのしまいだよ?」

「わううん……」

「ふふっ。オフィーリアっていつもあったかい。あったかくて、おちつく……」

「わんっ!」

 オフィーリアはあったかい。
 抱きしめると太陽のようないい香りがした。私の大好きなにおいだった。いつまでも抱きしめていたかった。
 私にとっての家族とは、そういうイメージにどんどん変わっていった。
 温かくて、一緒にいると落ち着く存在。家族とは、そういうものだった。

 しかし、そんな日は長く続かなかった。
 オフィーリアはよく外に出たがった。好奇心旺盛だったから仕方のないことだった。けれど、まだ幼い私とオフィーリアの二人で外出することはできなかった。両親からの認可が下りなかったのだ。
 しかし、オフィーリアと一緒なら、私はどんな場所も怖くは無かった。だから忙しい両親の目を盗み、私はよくオフィーリアと秘密のお出かけをしていた。
 あの日も、楽しい楽しい、秘密のお出かけになるはずだった。
 オフィーリアがドアをカリカリと掻くので、両親が不在なことをいいことに、私はオフィーリアと秘密のお出かけをした。
 その日向かったのは近くの河原だった。きちんと整備された堤防と自然が綺麗に調和した河原だった。私とオフィーリアにとってもお気に入りの場所だった。
 私はオフィーリアお気に入りのボールを持っていき、楽しく遊んでいた。

「とってこ~い!」

「わうんっ!」

「あははは。はや~い!さすがオフィーリア!」

「わうわうっ!」

「うんっ!まだまだいくよ!それっ!あ……」

 私が全力で投げたボールは変に風に流されてしまい、思った以上に遠くへ飛ばされてしまった。

「あぁ……。しょうがない!とりにいくよオフィーリア!」

「わんっ!」

 私は落下したボールの地点を何となく予測し、その周辺を探索していた。
 当時の季節は夏ということもあり、いつも以上に植物が生長しており背が高かった。
 私はそんな中をかき分けながら探していると、ようやくボールが見つかった。

「あった!あったよオフィーリア!」

 私はボールに向かって勢いよく走りだした。
 けれど、突然、奇妙な浮遊感が私を襲った。

「え……?わぷっ……」

 ボールが乗っていた場所。それは、地面ではなく水中に生える水生植物だったのだ。ボールの重量は許容できても、子供一人の重量はとても許容できなかった。
 一瞬で私は川の中へと転落した。

「あっ……ぶわっ!……!はっは…ゲホッ……」

 私は泳げなかった。しかし、泳げないなりに水中でもがいた。
 すると、水面に顔を出すことができた。けれど、また水の中へと落ちてしまう。昨晩雨が降っていたからか、川の流れはいつも以上に早く、私は容易に溺れてしまっていた。
 その時、私は幼いながらも理解していた。
 これは、死ぬ、と。

「……!だ、だれ、か……ゲホッ…ゲホッ……たす……」
 
179: (もも) 2022/12/23(金) 01:33:07.95 ID:6GgxOBUo
 本能から来る死への恐怖は、私をより一層生へのもがきに拍車をかけた。けれど、どちらへ行けば岸なのか、どうすれば助かるのか、そんな正常な判断はできなくなっていた。

「わんっ!!」

 その時、心強い声が聞こえた。
 オフィーリアだった。
 私は水の中と外を行ったり来たりしたことで視界が効かなくなっていたが、それでも私に向かってくる存在がオフィーリアだって認識できた。

「お、おふぃ……あぷっ……」

 オフィーリアは必死に私へと向かってきていた。決して上手いとは言えない泳ぎ方だった。それでも懸命に、私を助ける為全身全霊で向かっていると分かった。
 そして遂に、オフィーリアは私へとたどり着く。
 オフィーリアは一層泳ぎを激しくし、私を横方向へと押していった。
 やや混乱気味だった私にも分かった。オフィーリアが押す方向に岸があるんだって。

「んっ……んんぅ!!」

 オフィーリアを信じ、私もそちらへと懸命にもがく。もがいた時間は何分だっただろうか。何時間にも感じられたし、しかし実際はほんの数分だったかもしれない。
 私は遂に、岸へと手が付いた。そして、これが最大のチャンスであり、最後の助かるチャンスだって理解できた。
 残った力全てを絞り切って、私は何とか岸へと上がる。そうやって上がろうとする時、腰のところを押された。
 その力が契機となって、私はなんとか岸へと上がることができた。

「うっ……ゲホッゲホッ……」

 体の入っちゃいけない場所に入った水を吐き出すように、私は何度も咳をした。生理現象なので自分では止められなかった。
 けれど、私は次にやるべきことが分かっていた。

「お、おふぃ……ゲホッゲホッ……」

 川へと向き直り、私はオフィーリアの姿を探す。
 まだ戻り切っていない視力で川を見たが、どこにもオフィーリアは見当たらなかった。

「おふぃ……りあ……?」

 回復しきっていない体に鞭を入れて、私はオフィーリアを探す。その様はまるで幽鬼のようだった。

「おい、君!大丈夫か!」

 その時、大人の男の人の声が聞こえた。振り返ると、焦燥感を絵にしたような表情をしており、とても私を心配していることが分かった。
 私が溺れているところを見ていたのだろうか。
 私は男の人に縋りついて声を上げた。

「お、おふぃーりあが……ゲホッ、まだまだかわにいるんです……っ!どうかたすけ……ゲホッ……たすけてください!!」

「おねがいします!!」

 それはもう絶叫だった。
 何度も何度も同じ言葉を男の人に向かって絶叫した。声が嗄れようが、腕が取れようが、関係なかった。
 オフィーリアは未だ、冷たく苦しい川の中にいる。そんなこと、耐えきれるわけが無かった。

「そ、そうは言っても……。もう川には何も……」

 男の人は困ったようにそう呟いた。
 私も一度、川へと振り返る。
 私が見た川は、一定のせせらぎを繰り返すだけの、何の変哲もない、ただの川だった。
 誰かが溺れていて助けを求める声もせず、何とか助かろうともがいて水を叩く音もしない。そんなことは元々無かったように、川は振る舞っていた。

「あ……あ、あ……うそ……うそ、だ……」

「お、オフィーリア!!オフィーリアアアア!!オフィーリアアアアア!!!!」

「オフィーリアアアアアア!!」

 喉の奥底から発せられた絶叫は、意味もなく、いつまでも発せられていた。

 そして。これはそれからの話だ。
 結論から言えば、オフィーリアは見つかった。しかし、見つかったオフィーリアは、とてもオフィーリアとは思えない体になってしまっていた。両親はそんなオフィーリアを私に見せたがらなかったけれど、両親の間を縫うようにして私は見た。
 見てしまった。
 オフィーリアの亡骸を。
 あの好奇心旺盛で、常に尻尾を振っているようなオフィーリアが、今ではぴくりとも動かなくなっていた。
 いつも笑っているように見えたあの顔は、元気に「わんっ!」と返事をする口は、私には苦しそうに歪んでいるように見えた。
 そして、いつも温かく、落ち着いたオフィーリアの体温は、ひどく冷たくなっていた。家族の象徴とも言えるそれが失われたと分かり、私は絶望した。
 
180: (もも) 2022/12/23(金) 01:34:56.81 ID:6GgxOBUo
「あ、あああああああ……」

「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……」

「ごめんなさい。ごめんなさいオフィーリア……」

「わたしが、わたしがオフィーリアを……わたしがオフィーリアをころしたんだ……」

「ごめんなさいオフィーリア!!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」

 私はオフィーリアの亡骸の前で、何度も何度も謝った。許されようとは思わなかった。けれど、私には謝ることしかできなかった。
 そんなオフィーリアへと謝る中で、私はとある演劇を思い出していた。
 それは『ハムレット』。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲だ。オフィーリアの名前はここから取った。
 オフィーリアは登場人物であるレアティーズの妹である。偶然見たその劇を元に、私はオフィーリアと名付けた。私が姉で、オフィーリアが妹だったからだ。
 しかし、このハムレットの中でオフィーリアは死んでしまう。
 死因は、溺死。
 オフィーリアは柳の木に登り、枝が折れてしまって小川へ転落してしまう。そしてそのまま小川で溺れ、オフィーリアは亡くなってしまうのだ。
 当時の父親を思い出す。

──
「オフィーリア?それってハムレットの?いやぁ、オフィーリアかぁ……」
──

 嗚呼。そういうことだったのだと。私は思い出した。
 父親はなぜ、あんなにも困った顔をしていたのか。ハムレットの中に出てくるオフィーリアとは、溺死してしまう悲しき役だったからだ。

「……オフィーリアって、なまえをつけたから」

「だからオフィーリアは、おぼれてしんじゃったんだ……」

「わたしが、ころした……」

「わたしがころしたんだ……」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「しずく!!」

 私がオフィーリアと名付けてしまったから。
 私が両親の言いつけを破ってしまったから。
 私が溺れてしまったから。
 だから、オフィーリアは死んでしまったんだ。
 私がオフィーリアを〇したんだ。
 最愛の家族を〇してしまった。
 ……そんな。
 ……そんな、家族を〇すような人間は、いらない。
 消えてしまえばいい。
 オフィーリアを〇した桜坂しずくは、消えなければならない。
 消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。
 頭の中で同じ言葉が何度も何度も反芻される。
 自己否定と自己嫌悪の言葉だ。私が、桜坂しずくの全てが否定されていく。
 そうして私は、私自身を消した。
 最愛の家族を〇した罰として、桜坂しずくを消したのだ。
 
181: (もも) 2022/12/23(金) 01:36:49.86 ID:6GgxOBUo
 そうして、いくつ時が経過しただろうか。
 抜け殻のようになった私は、何をするにしても無気力になっていた。
 何を食べても味を感じず、何を言われてもちっとも心に響かなかった。
 一言で言ってしまえば、虚無を抱えながら生きていた。
 死んでいるのか、生きているのか、分からない生活をしていた。
 両親はそんな私に色々な言葉を掛けてくれた。

「しずくのせいじゃない。しずくが〇したんじゃない。誰も、悪くないんだ……」

「そうよ。オフィーリアはあなたを助けたの。あなたが〇したんじゃないわ。これだけは確かよ」

「だからしずく、何も気に病まなくていい。いいんだしずく。自分を許しても」

 そんな言葉だけは、私の中をすり抜けなかった。
 すり抜けなかった理由は、疑問だった。

「……だれ」

「え?」

「オフィーリアって、だれ?」

「しずく……」

 両親は唖然としていた。一時的かずっとか分からないが、私がオフィーリアの記憶を失っていると分かったのだ。
 私は両親から言われた『オフィーリア』という単語は何か引っかかったが、それ以上のことは無かった。
 私は、オフィーリアを忘れていた。
 いや、というより、これ以上私の心が壊れないように、オフィーリア自体の記憶を封印したのだ。
 そう。私は桜坂しずくの全てを消そうとしていたが、オフィーリアのことを消すこと等できなかったのだ。私の人生とは、言わばオフィーリアとの歩みそのものだった。だから、桜坂しずくを消すことなどできず、心の奥底に封をするしか無かったのだ。
 とはいえ、私が私を失ったことは事実であり、私は深い闇の底にいた。
 そんな私をどうしようか、両親は苦しんでいた。

「どうすれば、どうすればいいんだ……」

「お医者さんが言うには、一時的なショックによるものだからいずれ回復するとは言っていたけれど……」

「いずれって……いつなんだよ……ッ」

「あなた……」

「……もう一度、犬を飼うしかないんじゃないのか?」

「え?」

「しずくの苦しみは、同じ犬でなければ、同じ家族でなければ解消できないんじゃないのか……?」

「……でも、あの子にとってもっと苦しい結果になるかも」

「そうは言ったって、しょうがないじゃないか……。もうこれしか方法はないんだよ」

「……そうね。明日、オフィーリアと同じ犬種を飼いましょう」

「あぁ……」

 両親は、家族を失った傷は、同じ家族でしか癒せないと考えていた。
 そして、そんな中、私の内面では一つの変化が起きていた。
 私の中にある封印されたオフィーリアの記憶。
 それが少しずつ変化していったのだ。
 自分を無くし、無気力になっていく一方の私とは対照的に。
 オフィーリアの記憶は次第に私の中で意味のある形になっていく。
 性格は、好奇心旺盛でとても明るい。
 私にとっては妹のようで、その実姉のような存在だった。
 そういったオフィーリアの記憶は、一つの人格となっていた。
 それが、スイ。
 スイは、私が自分を無くし、無気力になっていた時代に生まれた人格だった。
 なぜ今この状況でスイが生まれたのか。
 それは偏に、こんな風になってしまった私を見過ごせなかったのだろう。ただの記憶であったとしても、オフィーリアは私を見捨てなかったのだ。

「──やあ、私にもう一度、名前をくれないか?しずく」

 それが、自分を無くした私の中で最も古き、スイとの記憶だった。
 
182: (もも) 2022/12/23(金) 01:38:43.53 ID:6GgxOBUo
▲孤独の砂浜▲

しずく「あ……」

 かなり長い時間、別の場所にいた気がする。
 ここは……。あの時と同じ砂浜……。
 まだ沈み切っていない夕日が見える。思っていたより時間は経過していないらしい。

侑「おかえり。しずくちゃん」

しずく「侑先生……」

 そして私の至近距離には、侑先生が変わらずそこにいた。いてくれた。
 相変わらず強く抱きしめてくれている。もし……もし侑先生が抱きしめ続けてくれなかったら、ここへは帰ってこれなかったかもしれない。
 それほど深い、私の奥底への接続だった。

侑「あー……そうだな。初めまして、かな?今のしずくちゃんには」

 侑先生は少し困った顔をしながらそう言った。
 今の私は……なんだろう。

しずく「今の私は……『底知れない器』でもなく『底が抜けた器』でもないようです……」

侑「そっか……。しずくちゃんの原点はどうだった?」

しずく「私の原点は……」

 私の原点。それはなんだろう。
 自信がなくて、人見知りだった桜坂しずく?
 オフィーリアと出会ってから社交的になった桜坂しずく?
 それとも……。

しずく「わ、私の原点は……オフィーリアを……オフィーリア〇してしまった……桜坂しずく、かもしれません……」

 私の口からはそんな言葉が出た。

侑「それが本当に、しずくちゃんの原点なの?オフィーリアを〇してしまったしずくちゃんが」

しずく「……分かりません。分からないけれど……オフィーリアを〇してしまった。最愛の家族を〇してしまった……。私の中でこの認識は……今でも覆りようが無い、です……」

侑「そっか……。まだしずくちゃんは、自分を許せないんだね」

 その瞬間、抱擁が少し緩んだ。けどその代わりに、優しく頭を撫でる感覚があった。

侑「ねぇしずくちゃん。君はオフィーリアにはどれくらい謝ったの?」

しずく「え……?」

 その侑先生の問いは、予想外な物だった。私はてっきり、あの時の両親と同様に「しずくのせいじゃない」という言葉が掛けられると思っていた。
 けれど……謝罪……?

しずく「……もう、数えきれないほどしたと思います」

侑「数えきれないほど、オフィーリアには謝ったんだね」

しずく「……はい」

 一体侑先生は私に何を言わせようとしているのだろう。

侑「しずくちゃん自身がそう強く思っているのなら、それは覆しようがないと思う。でもさ、謝る以外にもすることがあるんじゃないの?」

しずく「え……?」

侑「数えきれないほど謝った。それならそろそろ、オフィーリアへさよならを、オフィーリアへありがとうを、言っていいんじゃないかな」

 オフィーリアへさよならを……?
 オフィーリアへありがとうを……?

侑「しずくちゃんは忘れてることがあるよ」

侑「それはね、オフィーリアが命を犠牲にしてしずくちゃんを救ったってこと。それに対するありがとうを。しずくちゃんは今まで言ったのかな」

しずく「あ……」

 私は……。オフィーリアへ謝るばかりで……。
 私を助けてくれたことへのお礼の言葉は何も、何も言っていなかった……。
 私は結局、私のことしか考えていなかったんだ……。
 
183: (もも) 2022/12/23(金) 01:40:34.50 ID:6GgxOBUo
しずく「私、言ってない……。オフィーリアにありがとうって……ッ!言わなきゃいけないのに……ッ!私は……」

侑「うん……。今からでも遅くないよ、しずくちゃん」

侑「今からでも、オフィーリアへありがとうは言えるよ。だって、しずくちゃんにはまだ動く心臓があるんだよ」

侑「オフィーリアが助けてくれた心臓が、命が、まだ動いてるんだ。決して遅くない。遅くないんだよ」

しずく「……う、うぅ……」

 私には、まだ動く心臓がある。侑先生に抱きしめられたことで強く鼓動を打つ心臓がある。
 この心臓は、この命は……オフィーリアから貰ったものだ。

しずく「オフィーリア……ありがとう……」

しずく「本当に、ありがとう……ッ!」

しずく「私のことを、助けてくれて、ありがとう……!!」

しずく「私の、家族になってくれて……妹になってくれて!ありがとう、オフィーリア……!!」

しずく「あっあ……あああああああああああああああああああああ!!」

 私の中で何かが決壊する。
 それは……今までずっと言えずにいた、オフィーリアへの感謝の気持ちだった。謝罪の言葉は何度も何度も言った。
 それが当時、私の中にあったしずくの全てだったから。私が当時消したと思っていたのは、オフィーリアへの罪悪感だった。謝罪の言葉は出し尽くし、そうして抜け殻となってしまった。
 でも……今ならごめんなさい以外も言うことができる。言わなきゃいけない。
 絶対に失ってはいけないはずのオフィーリアの記憶。それをようやく取り戻したのだから。

侑「うん……。大丈夫だよしずくちゃん。私はどこへも行かないから。今は気が済むまで泣いていいよ」

 侑先生の抱擁が強くなる。けれど、撫でる手の平は一層優しく感じた。
 もう私は、悲しみだけに支配されない。
 オフィーリアへの想いを手放すこともない。
 底知れない器でも、底が抜けた器でもない私を、忘れたりしない。
 もう、見失ったりしない。私だけの想いを──

……
…………

 ひとしきり泣いた後、まず私は手の甲の治療から始まった。

しずく「いたっ……」

侑「これだけは、我慢して貰わないと……ね!」

しずく「いぎ……ッ」

侑「よしよし……。消毒して包帯も巻いた。不幸中の幸いだったのは、骨まで届いていなかったことだね。無意識の内に手加減してたのかな」

しずく「どうでしょう……。あの時は色々といっぱいいっぱいだったので……」

侑「まぁ、公演までには確実に完治するよ。傷に塗ったのは消毒液だけじゃなくて、ランジュちゃん謹製の軟膏だからね。効果は折り紙付きだよ」

 私の頭は、その得体のしれない軟膏にではなく、公演に意識が向けられていた。

しずく「公演……ですか」

 そうだ。私にはまだ『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の公演があった。
 スイのおかげでまだ主役の座は首の皮一枚繋がっている。

侑「それで……スイちゃんはやっぱり……」
 
184: (もも) 2022/12/23(金) 01:42:48.52 ID:6GgxOBUo
 侑先生が言いにくそうに告げる。
 そうなのだ。
 スイが……あれから出てこないのだ。私が今日、心の奥底に追いやり過ぎたから、スイは出てこれなくなっている。
 私が何度心の中で呼び掛けようと、一切の反応が無かった。

しずく「はい。残念ながらスイはまだ……」

侑「……そっか」

 スイは……私の中のオフィーリアの記憶から生まれた人格だ。言わば、オフィーリアの人格と言ってもいい。
 私はまだ、オフィーリアへさようならを言えていない。それに、スイへありがとうを伝えていない。必ずもう一度、会わなければならない。
 そして、私はどうすればスイに会うことができるのか。その見当が付いていた。

しずく「もう一度スイと会うには、侑先生の協力が必要です」

 私は真っ直ぐ侑先生を見た。
 決意に染まった瞳を見て何か理解したのか。侑先生も真面目な顔つきになった。

侑「うん。私は、何をすればいい?」

しずく「侑先生にしてもらうことは変わりません」

侑「変わらない……?」

しずく「はい。『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の伴奏をして貰うだけです」

侑「……なるほど。そういうことか」

侑「ここではなく、舞台の上でスイちゃんと会うんだね?」

しずく「はい。その通りです。ですので改めて、劇の伴奏をよろしくお願いします」

 私は今できる最大のお辞儀をする。侑先生の伴奏が無くては、きっとスイには会えない気がする。

侑「うん。改めて、任されたよ!」

しずく「ありがとうございます!!」

 私は、舞台の上でスイと会う。
 舞台の上でなら、私はどこまでも素直に感情を表現できる。
 それに、私が演じる劇は『人間のアステーリ』と『犬のスターラ』との別れを書いた劇だ。
 スイへの感謝の気持ちと、オフィーリアへの別れの気持ち。それをアステーリの演技に織り交ぜる。そこに侑先生の伴奏が加わってより強い感情表現ができれば。
 そうすれば、心の中にいるスイを目覚めさせられるはず。
 だから、今の私ができることは一つしかない。

しずく「絶対に、成功させましょう……!」

侑「勿論だよ!」

 私と侑先生は、決意を新たにした──

……
…………

 その後。砂浜へと通じる小道から車道へと出た私たちは、雑に駐車してある侑先生の車へと向かった。
 しかし……。

侑「あれ、おかしいな……」

しずく「どうかしましたか?」

侑「いや……」

しずく「?」

侑「……しずくちゃん。エマージェンシーだ」

しずく「え?緊急事態ですか?」

侑「エンジンが、掛からない……!!」

しずく「え……あ」

 侑先生の絶望の一言が車内を襲う。
 しかし、エンジンがかからないのは思い返せば自明だ。
 頭痛と混乱の中車を走らせ、ベッコベコに車体を凹ませたのだ。ここまでたどり着けたこと自体奇跡というものだろう。
 
185: (もも) 2022/12/23(金) 01:44:33.96 ID:6GgxOBUo
侑「!!ランジュちゃんに連絡すれば……!!あ、スマホの電源切れてる……」

侑「しずくちゃん。ごめんだけど、スマホ貸して貰える……?」

しずく「あ、はい……。すみません。私のせいでこんなことになっちゃって……」

 もう本当に申し訳ない。一から十まで全て、私のせいである。
 私は鞄の中からスマホを探す。
 鞄を漁りつつ、私の頭は別のことを考えていた。
 エンジンがかからなくなった車。大好きな人と二人きり。充電切れで連絡ができない孤立状態。

しずく「……すみません。私のも充電切れです」

侑「え?まじかぁ……どうしよう……万策尽きたかなぁ……」

 本当はまだ、充電が残っている。かなり余裕があるくらいだ。
 でも、私はそれでも、スマホの充電が無いと、そういう選択肢を取った。
 そう、近くには自宅に真っ直ぐ帰る以外の選択肢があるのだ。

しずく「……侑先生。実は少し歩いたところにホテルがあるんです」

侑「え、そうなの?じゃあ今日はそこに一晩泊まろうか……。いや、そこで電話を借りればいいのか」

しずく「こんな事態を招いて本当に申し訳ないんですが、正直もう今すぐにでも眠りたくて……」

 体が疲労困憊なのは確かだ。今ベッドに飛び込めば、泥のように眠ることができるだろう。
 しかし、本当の狙いは別にある。

侑「あ、そうだよね。了解。じゃあ今日はそこのホテルに泊まろうか」

しずく「……はいっ」

 私たち二人は、今からホテルへと泊まる。
 そう……。『愛』の名が付いたホテルへと。

……
…………

 私はもう、自分だけの想いを見失わない。
 そうは思ったものの、見失わない楔が欲しかった。
 どれだけ引っ張ろうと、どれだけ絶望のどん底に落とされようと、自分を決して見失わない楔を。
 だから私は、今日のこの日を刻み付けたかった。決して忘れないように。決して見失わないように。
 刻み付けるのは……侑先生を。
 侑先生には、だいぶ強引に迫った。最初こそ侑先生は全力で拒否していた。先生と生徒という関係上、絶対にだめだって。手の甲の怪我もあるんだから無理しちゃだめだと。
 でも、今日をどうしても私は刻み付けたかった。
 それに、侑先生は言ってくれたのだ。

──
侑「私がその穴を満たしてあげる。しずくちゃんの全てを、私で満たしてあげる」
──

 狡いかもしれないが、私はこの言葉を持ち出した。
 結果的に言えば、侑先生は折れた。そして、折れたからには容赦はしないと言われ、本当に容赦されなかった。
 私の中には徹底的に侑先生が刻まれた。
 一生この日を忘れることは無いだろう。
 そして、私が私を見失うことも絶対に無いって、そう思えた。
 ……。
 まぁ、侑先生へ下心があってここへ来たのもある。
 それは仕方がないことだ。
 一挙両得というものだ。
 うん。これは、私が全面的に悪い。私が全て悪い。
 だから、ごめんなさい。侑先生。
 だから、ありがとうございました。侑先生。
 これからも、よろしくお願いします。
 
186: (もも) 2022/12/23(金) 01:46:18.24 ID:6GgxOBUo
▲愛の名を冠するホテル▲

 瞼に温かな光を感じる。
 私はゆっくりと瞼を開けた。

侑「……朝、か」

 上体を起こすと、腕に重みを感じる。
 そこには安らかな表情で眠るしずくちゃんが、私の腕を抱いて眠っていた。
 掛け布団で全貌は見えないが、布団の下は若々しさと瑞々しさが同居した肉体がある。その肉体を、私は昨晩……。

侑「あ~……。またやっちゃった……」

 私はいつもこうだ。昔から押しに弱いのだ。それも、美少女の押しに弱い。
 私はバイセクシャルだ。そう、バイセクシャルなのだ。
 まだ男性を好きになったことは無いが、私はバイセクシャルなのだ。決して部類の女好きという訳ではない。

侑「まぁ、後の祭りだよね……」

 私は天使のように眠るしずくちゃんの髪を梳く。柔らかな手触り。けれど少し乱れている。その事実が、なんだか胸に良くない感情を抱かせる。

侑「あぁ、いけないいけない……。生徒と教師がってだけでも不味いのに、朝からおっぱじめるなんてもっとだめだ……。さっさと服を着て帰る支度をしよう」

 私は抱き着くしずくちゃんの腕を丁寧に外す。顔を洗って、そのまま軽くシャワーを浴びた。私も昨晩は色々あったからね。
 まさか跪いたしずくちゃんに足を舐められるなんて想像もしてなかったよ。
 そうして私は、できるだけ無心で。できるだけしずくちゃんを見ないように。でも、ちょっとだけ見たりもしながら。朝の支度を進めていった。

しずく「ふぁぁ……。あれ、ここは……」

侑「あ、起きた?おはよう」

 シャワーから出て服を着ている最中、しずくちゃんは起きた。
 しずくちゃんは寝ぼけまなこを擦りつつ上体を起こした。当然のように、上半身は露になる。背けるのもあれなので、私は前を見据える。

しずく「あ……侑さん……。あ、あぁっ!!」

 しずくちゃんは布団のシーツを引き寄せる。上半身は見えなくなったが、逆に白くしなやかな足が露になる。うぅむ、あちらを立てればこちらが立たず、といった具合だ。
 しずくちゃんは顔を紅潮させて俯いてしまった。
 女性同士なら、同性なら、裸を見てもこんな反応は示さない。私たちは女性であると同時に、『そういう』関係になったのだと、改めて思った。

侑「……あ、そうだ。先にお風呂に入りなよ!」

しずく「は、はい……。ありがとうございます……侑さん」

侑「うん。ゆっくりでいいよ」

 しずくちゃんはそそくさとお風呂へと向かった。
 このホテルはなぜか、スイッチ一つ押せばお風呂の中を覗ける仕組みになっている。なぜなのかは分からないが、私は鋼の精神でそのスイッチを押さなかった。偉いなぁ、私。

侑「にしても……侑さん、か」

 昨晩、体を重ねた私としずくちゃん。
 私たちの関係は変わった。そして、しずくちゃんからの呼び方も変わったのだ。

『二人きりの時は……侑さんって、呼んでもいいですか……?』

侑「断れるわけ、ないっ!」

 私はしずくちゃんのシャワーの音を聞きつつ、帰り支度を済ませた。
 その後、なぜか充電が切れていなかったしずくちゃんのスマホでタクシーを呼び、色々と、本当に色々あったこの二日は終わったのだった……。

▲二年四組▲

侑「それじゃあ一時間目の体育も頑張ってね~」

 休日明け、しずくちゃんは普通に登校していた。まぁ土日も演劇部の稽古の現場を見ていたし、逆に来ない方がおかしいんだけど。
 しずくちゃんは、かすみちゃんや他の生徒とも談笑していた。実に自然な笑みを浮かべ、楽しそうに会話をしている。もう、完全に立ち直ったらしい。

しずく「あ、ちょっといいですか?」

侑「うん?どうしたの?」

しずく「これ、ありがとうございました」

侑「あ、私のハンカチ……」
 
187: (もも) 2022/12/23(金) 01:48:05.53 ID:6GgxOBUo
 しずくちゃんから手渡されたのは一枚のハンカチだった。あの砂浜で手の甲の消毒に使ったハンカチだ。しずくちゃんが絶対に洗って返します!と頑固だったので任せたものだ。

かすみ「え、なんでしず子が侑先生のハンカチ持ってるの?」

しずく「ふふっ……」

 しずくちゃんは笑みを浮かべるだけだった。
 え、なんか不味くない?

侑「しずくちゃんが怪我した時に使ったハンカチなんだよ。洗うって頑固でさ」

かすみ「あ、そうなんですね」

 私はすぐさま答えた。かすみちゃんも納得していた。
 生徒から私物のハンカチを受け取る教師。この構図はさっさと弁解しないと不味い。
 しずくちゃんもさぁ、頭いいんだから渡す場所くらい……。
 え、まさかわざとじゃないよね。

しずく「そうだよかすみさん。あの時の侑さん、優しかったなぁ……」

かすみ「……侑さん?」

しずく「あ、いけない。早くジャージに着替えないと!」

かすみ「ちょちょ!しず子!侑さんってどういうこと!?」

侑「……」

 私は迅速に二年四組から出た。
 背中にはびっしりと冷や汗を搔いている。
 絶対、絶対わざとじゃん!!
 危ない橋を渡り過ぎだよ!!私の教師生命に関わる事案だよこれは!!
 後でしっかりと言い含めておかないと……。

 と、まぁ、そんな感じで。
 時が進むのは早い物で、教師と演劇の二足の草鞋の日々は目まぐるしく、一迅の風のように過ぎていった。
 そうして気づけば、『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の初公演の日になっていた。

▲とある劇場の周辺▲

 『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』の初公演の日。
 公演は虹ヶ咲内の劇場ホールではなく、専門の施設にて公開される。
 公演二時間前ではあるが、すでにそこそこの賑わいを見せていた。
 会場限定のパンフレットやグッズ等があるからだろうか。それとも、ミセス手掛ける学生の演劇だからだろうか。無論、短期間であったとはいえ、ミセスはプロモーションに手を抜かなかった。

侑「にしてもこのポスター、いいなぁ」

 劇場外にある掲示板には、『雨垂れ』のポスターがでかでかと掲示されていた。
 たった一人、しずくちゃんのみがいるポスターだが、どうにも存在感がある。関係者ってことで、私にも一枚くれないかなぁ……。
 その主役のしずくちゃんは、あの砂浜の日からより演技に磨きがかかっていた。
 『底知れない器』を経験し、また、それを消失した経験。もう一度空っぽになる経験を経て、しずくちゃんは『自分』を保ちつつ、あらゆる役を内包する器を会得したらしい。
 演技のことはよく分からないが、ミセスがそう断言したのだからそうなのだろう。

侑「にしても……ここまで長かったような、短かったような……」

 しずくちゃんが演技をし、それに私がリアルタイムで伴奏をする。以前はエチュードという形だったけれど、今回は稽古にリハーサルと、入念な擦り合わせが行われた。その甲斐あって、しずくちゃんの演じるアステーリが、私の中には存在している。
 正直に言うと、この短期間でここまで『調和』できたのは奇跡なんじゃないかって思う。それほど私としずくちゃんは相性がいいらしい。
 後は……本番でアステーリを降ろし、しずくちゃんがスイちゃんに再会することだけだ。これで、しずくちゃんを取り巻くあらゆる決着が着く。私は肌感覚で理解していた。
 自然と肩が強張りそうになるが、それをなんとか抑えた。

ランジュ「你好、侑。準備は万端のようね」
 
188: (もも) 2022/12/23(金) 01:49:55.04 ID:6GgxOBUo
侑「あ、ランジュちゃん。おはよう」

 そうして緊張と武者震いの中間のような気持ちになっていると、ランジュちゃんが現れた。私は劇の伴奏という関係者中の関係者なのでチケットを数枚貰っていた。
 ランジュちゃんが二枚欲しいというので渡し、もう一枚はかすみちゃんに渡しておいた。まぁ私が渡さなくてもしずくちゃんが渡したんだろうけど。

ランジュ「まだ開演までずいぶんあるのにかなりの盛況具合ね」

 喧騒、とまではいかなくても、そこそこ騒々しい周囲を見てそう言った。

侑「まぁね。私もミセスの影響力を甘く見ていたよ。それで……そこの人は誰かな?」

 ランジュちゃんの隣には重篤そうな人がいた。
 顔がパンパンに膨らんでおり、右腕は折れているのか、首から包帯で吊っていた。加えて大きめのマスクをしているもんだから不審者にさえ見えてしまう。
 まぁ、大体見当は付いているんだけど。

部長「久々ですね。高咲先生」

侑「やっぱり部長さんだったか」

部長「えぇ。正直おめおめと顔を出していいのか迷ったのですが、ボスに無理やり連れてかれまして……」

ランジュ「ふふん。迷っているなら行くべきなのよ。行って感じた後悔ならいい経験になるわ」

侑「やれやれ……。相変わらずランジュちゃんは強引だね」

ランジュ「褒め言葉として受け取っておくわ」

部長「しかし……しずくは私を見て動揺してしまったら……。さすがに立つ瀬がないのですが」

侑「それは心配いらないよ。しずくちゃんにとって今日、舞台上で演技をする以上に大事なことは無いからね」

部長「そう、ですか……。私がいない間に、ずいぶん頼もしくなったんですね」

 部長はそういって自嘲気に笑った。顔がパンパンに腫れているので笑いというか歪みって表現した方が適しているような。

侑「ちなみになんでこんなに怪我してるの?」

ランジュ「侑が演劇で稽古をしていたように、ランジュも稽古をしていたのよ」

 それは解答になっているようで、なっていないような……。
 まぁ、部長の戦力を上げるためにランジュちゃんと日夜稽古に励んでいるんだろうなぁ……。その傷跡が実戦で付けられたものじゃないのが逆に痛々しい。

部長「熱烈な稽古で毎日飽きませんよ」

 部長のその言葉は、皮肉ではなくマジで言っている。
 部長はランジュちゃんに心酔している。文字通り、心の底から酔っているのだ。

侑「う、うん……。頑張り過ぎて死なないようにね」

部長「ははっ。ボスの覇道をこの目で見届けるまで死にませんよ」

ランジュ「そうね。ランジュが頂点に立った時、それを賞賛する駒はいくらいてもいいわね」

部長「えぇ、全く」

侑「駒て」

 駒と言われても部長は一切気にしていなかった。むしろ、駒と呼んでくれることに喜び……悦びさえ感じていそうだ。

ランジュ「それじゃ、ランジュ達は売店に行って飲み食いしてくるわね。未知なるお肉が待ってるわ!!」

侑「うん。それじゃあまたね」

 私は手を振ってランジュちゃんと部長を見送った。
 私は暇だし、ピアノでも触ってようかなぁ、と思った時。入れ違いになるようにかすみちゃんが来た。どうやら数人の友人と来ているようだった。
 かすみちゃんは何か断りを入れた後、一人でこちらに来た。

かすみ「おはようございます!侑先生!遂に今日ですね!かすみん演劇見るの初めてなのでとっても楽しみです!」
 
189: (もも) 2022/12/23(金) 01:51:41.07 ID:6GgxOBUo
侑「おはようかすみちゃん。今回の劇はなかなかすごいことになってるよ。だから期待しててよ!」

かすみ「はいっ!もしかしたら、しず子より侑先生の方ばっかり見ちゃうかもしれませんよぉ?」

侑「あはは。しずくちゃんにスポットライトは当たっても、私には当たらないからね。相当目を凝らさないと見えないと思うよ?」

かすみ「なぁ~んだ。ちょっと残念です。それで、その劇って独り芝居?なんですよね?」

侑「うん。そうだよ」

かすみ「でも侑先生としず子の二人が主演なんですよね?それって独り芝居なんですか?」

侑「あぁ。私も最初はそう思ったけど、ミセス曰く私は舞台装置の一つに過ぎないって堂々と言われてね」

かすみ「あぁなるほど……。照明とかセットを『役』とは捉えないですよね。でも侑先生を舞台装置呼ばわりだなんて!ちょっとひどくないですか!!」

侑「あれだけ真正面から言われたら逆に清々しいくらいだよ」

かすみ「……侑先生って自分のことには無頓着ですよね」

侑「え?」

かすみ「なんでもないですっ!それじゃあみんな待ってるので!客席から応援してますよ!!しず子にもよろしく言っておいてください!」

侑「うん!じゃあまたねかすみちゃん!」

 かすみちゃんは再び友人の輪に戻っていった。それにしても、かすみちゃんの友人さん達は見覚えが無かったな。虹ヶ咲の人じゃない、中学生の頃の友達とかなのかな?まぁマンモス学園の虹ヶ咲だから私が知らなくても無理はないか。

侑「さて……それじゃあそろそろ中に入るかぁ……」

 なんだかんだ。舞台装置の一つとはいえ、私にも最終チェックはある。
 しずくちゃんほどではないにしろ、私もそこそこ早くから入らなければならない。
 そうして劇場の中に入ろうとした時、遠くの方で見覚えのある形があった。

侑「え……」

 それは、私の胸をひどくざわつかせるものだった。
 特徴的な明るい髪を、横でシニヨンにまとめた髪型。

侑「歩夢、ちゃん……?」

 嘘だ。いるはずがない。ここに、いるはずがないんだ。
 私が見つめる先では、確かにシニヨンが見える。そして人垣がやや割れて、その容貌が明らかになる。

侑「……歩夢ちゃんだ」

 見間違えようがない。
 私があの日、河原で切ない歌声を歌っていた少女。上原歩夢がそこにいた。
 なんでここに?どうしてここに?
 私はいつの間にか、走り出していた。
 人混みはやや増していたので、途中途中謝りながら人の群れを進む。
 しかし、歩夢ちゃんは見つからなかった。
 私の勘違い?そんなはずはない。絶対にあれは歩夢ちゃんだった。

侑「……どうして、ここに」

 胸の鼓動が早くなる。脳の全てが歩夢ちゃんで埋め尽くされていく。

侑「いや、だめだ……。今はそんなことを考えている場合じゃない……」

 しかし、そう思っても頭は言うことが聞かなくて……。

しずく「──あ、こんなところに……。侑さん!」

 私の困惑を破るように、しずくちゃんが現れた。

侑「しずくちゃん……」

しずく「最後の打ち合わせですよ!なかなか来ないのでミセスがカンカンです!」

しずく「って……どうしたんですか?すごい汗ですよ?」

侑「え……ほんとだ」

 私はいつの間にかすごい汗を掻いていた。まだ残暑のある九月とはいえ、劇場内は空調が効いている。
 
190: (もも) 2022/12/23(金) 01:53:27.56 ID:6GgxOBUo
しずく「何か、何かあったんですね」

 しずくちゃんは私を真っ直ぐに見据えた。思わずたじろいでしまうが、ここは素直に話した方がよさそうだ。

侑「その、しずくちゃんには前話したよね。私のピアノと『調和した』歌声の女の子がいるって」

しずく「え?はい。ひどい別れ方をしたとか……。もしかして、その人が?」

侑「うん……。ここにいるはずが無いんだ。いちゃいけないんだ」

しずく「人違いという可能性は……」

侑「あり得ない。私が歩夢ちゃんを見間違えるなんて天地がひっくり返ってもあり得ないよ」

しずく「……そうですか」

 ハッとした。
 私はいつの間にか、ずいぶん感情的になっていた。冷静でいなくちゃいけないのに。今は劇に集中しないといけないのに……。
 しずくちゃんは怒気を孕んだ表情を浮かべていた。

しずく「侑さん。分かりますよね。今日が何をする日か」

侑「うん……。分かってる。分かってるんだけど」

しずく「それじゃあ侑さん。私を真っ直ぐ見てください」

侑「え、うん」

 私はしずくちゃんに言われた通り、真正面へと向き直る。
 途端、両頬がしずくちゃんの手で包まれる。同時に、しずくちゃんとの顔の距離がくっつきそうなほど縮まった。

しずく「侑さん。いくら動揺したって構いません」

しずく「私が舞台の上で演技をしている時でも、どれだけ感情を乱して貰っても構いません」

しずく「私が引っ張り上げます。どれだけ侑さんの心が他の人に移ろうとしても、舞台の上から私が引っ張り上げます」

しずく「だから、大丈夫です。侑さんは、私だけを見ていてください」

 真っ直ぐと、濁り一つない瞳で、一片の混じりけも無しに言われた。
 今のしずくちゃんからは、情緒不安定な心など一切感じられなかった。
 自信満々に言い切るその姿は、まるで大女優のようだった。

侑「……うん。分かったよしずくちゃん。私は君だけを見てる」

しずく「はいっ!それでいいんです!」

 そう言って、先ほどの真剣みを全て忘れたように、しずくちゃんは無邪気に笑った。

しずく「行きましょう侑さん!ミセスがもう怒髪天です!」

侑「あ、あわわ……。急がなきゃ!!」

 私は慌ててミセスの元へと駆け出す。
 そしてその時、私はしずくちゃんだけしか見ていなかったから気が付かなかった。
 劇場の往来で顔をくっつかんばかりに近づける二人の女性が、目立たない訳ないんだと。

▲劇場舞台上▲

 最終打ち合わせに遅刻はしたものの、予定通り劇は行えるらしかった。
 ミセスからは口数少なく、「頑張りなよ」という珍しい言葉を頂いた。これがツンデレって奴かもしれない。まぁツンツンツンツンツンデレくらいだけど。

『本日はお越しいただきありがとうございます──』

 アナウンスの声が聞こえる。
 もう数分で演劇『その雨垂れは、いずれ星をも穿つ』は開演する。
 心臓の鼓動が段々大きくなっていくような感覚になる。それと同時に、早くピアノを弾きたいという気持ちも大きくなる。
 私は今、舞台上のピアノの傍で座っている。開演しても私に照明が当たることは無く、巧みな配置でほとんど目立たないようになっている。そこにしずくちゃんの演技も入るのだ。客席でわざわざ私を注目する人はいないだろう。あくまでも私は舞台装置の一つなのだ。
 
191: (もも) 2022/12/23(金) 01:55:24.18 ID:6GgxOBUo
『その雨垂れは、いずれ星をも穿つの演出家である──』

 かすみちゃんもいざ舞台が開演すれば、私など目に入らなくなるだろう。
 しかし、一人だけ。私に注目するんじゃないか、って人はいる。
 歩夢ちゃんだ。
 私が助けられなかった教育実習生時代の生徒。本当なら、ここにいるはずがない人。
 もし……。客席の中から歩夢ちゃんを見つけてしまったらどうなるんだろう。しずくちゃんから「私だけを見てください」とは言われたが、歩夢ちゃんを見つけてしまったらどうなるか分からない。
 ボロボロの伴奏となり、今日の舞台を台無しにしてしまうかもしれない。
 私は一度だけ、舞台の真ん中に目を向ける。確か何かのアニメで聞いたことがある。あの場所は、ポジションゼロと呼ばれている。
 その場所には、しずくちゃんが背を向けて佇んでいる。

『それでは、長らくお待たせいたしました。その雨垂れは、いずれ星をも穿つ。開演です──』

 アナウンスの声が終わり、代わりに開演を知らせるブザーが鳴り響く。
 それを追うようにして、幕がゆっくりと上がっていく。
 しずくちゃんの足が客席から見え始めた時、こちらを振り向いたしずくちゃんと目が合う。

しずく「……」

 しずくちゃんは私へ、ウインクをしてくれた。微塵も緊張なんて感じさせない、余裕と自信がありありと分かった。
 それと同時に、幕が上がったその先に見える客席と、私は目が合ってしまう。
 しずくちゃんではなく、真っ直ぐ私を射貫く視線。
 歩夢ちゃんは、確かに客席にいた。
 そして、幕は上がり切った──

……
…………

しずく「私は、アステーリ。小さな頃から盲目で、家の中でできることはなく、日々を死んだように過ごしていた」

しずく「そんな私に、家族は優しかった。けれどその優しさが辛かった。出来損ないの私の食い扶持をどうにかしなければならない」

しずく「私は何も……何もできずにいた……」

しずく「何もできないままだったのは嫌だった。けれど、それ以上に外の世界が怖かった」

しずく「家の中でさえ自由に動けないというのに、どうして外の世界で出られようか」

しずく「日々を暗黒の世界で生きる私にとって、外の世界はより深き深淵を歩いているようだった」

しずく「家が暗黒で外が深淵。そんな世界で生きる意味はあるのだろうか。私を愛してくれる家族に迷惑しかかけない私は」

しずく「けれど、死さえも選べなかった」

しずく「私はどうしようもないほど、弱かった……」

しずく「そんな弱い私こそ、私がこの世界で最も忌み嫌っている存在だった」

しずく「次に嫌いだったのは、星を意味するアステーリという名だった」

しずく「星は大きく、いくら距離が離れていようと、存在を知らしめるために光を放つ」

しずく「私と星。私とアステーリ。その名を呼ばれる度に、私は自己嫌悪に陥った。不釣り合いな名を付けた両親を恨むこともあった──」

……
…………

 指は、いつの間にか動き出していた。
 鍵盤を叩く私の指は、ワルツを踊るように軽やかで楽し気だった。
 私は、しずくちゃんに吞まれるようにして、引っ張られるようにして、鍵盤を叩いていたのだ。
 何も。何も問題はいらなかった。
 しずくちゃんと一緒に、世界を創り上げていく。
 私はその作業が楽しくて、嬉しくて、他の要素が介在する余地など、一片も無かったのだ。
 ずっと、永遠に、しずくちゃんと共にピアノを弾いていたくなる。
 この感覚は、しずくちゃんだけじゃない、歩夢ちゃんとも感じたのことがあった。
 歩夢ちゃんの歌う切なくも心に訴えかけるような歌声は、私のピアノとよく調和した。
 けれど私は、ピアノ外では歩夢ちゃんと心の底から触れ合えていなかった。
 歩夢ちゃんとは最悪の別れをして、私はしばらく心の底からピアノが弾けていなかった。
 
192: (もも) 2022/12/23(金) 01:57:13.95 ID:6GgxOBUo
 鍵盤を叩いても、そこから流れる音は無味乾燥な音だった。
 そしてその原因を、私は歩夢ちゃんのせいだって思うようになっていた。
 そんな訳なかったのに。私が本気でピアノを弾けなくなった理由は、私自身にあったのに。
 本気でピアノを弾けば、私は私の気持ちを全て伝えきれるって思ってた。でも、歩夢ちゃんには伝わっていなかった。
 だから、私は怖かったのだ。もう一度本気でピアノに向き合うことが。もう一度ピアノを本気で弾いて、自分が伝えきれなかったらと考えると怖かった。弾けなくなったのではない。私は弾きたくなかったのだ。そんな私の心の弱さが招いた結果が、ピアノを弾けなくさせた。
 でも、私はしずくちゃんに出会った。しずくちゃんに出会い、しずくちゃんの演技に引っ張られる形で私は本気で弾いた。本気で弾いたら、分かった。私の想いは間違いなくしずくちゃんに伝わっていたって。
 だから分かった。歩夢ちゃんに私の気持ちは伝わっていたんだって。伝わっていて尚、歩夢ちゃんは屋上から飛び降りた。私が歩夢ちゃんを助けられなかった本当の理由は、もっと別にあったんだ。
 だからさ、まずは歩夢ちゃんに謝らせて欲しい。
 ごめんね、歩夢ちゃん。私は私が弾けない理由を、君のせいにした。それは全て私の心の弱さが招いた結果だったのに。
 でも、歩夢ちゃん。私が伝えたいのは謝りたい気持ちだけじゃないんだ。
 ありがとう、歩夢ちゃん。私は君に出会わなければ、ここまでピアノを好きになれなかった。好きになって辛いこともたくさんあったけれど、私はそれでもピアノが好きなんだ。歩夢ちゃんの歌声に合わせて一つになるピアノが好き。しずくちゃんの演技に合わせて一つになるピアノが好き。
 ピアノを大好きになったのは、歩夢ちゃんのおかげなんだよ。だから、ありがとう、歩夢ちゃん。
 だからさ、我がままだけれど、この舞台を最後まで見ていて欲しい。
 歩夢ちゃんを守れなかった弱い私の伴奏だけれど、君のおかげで大好きになれたピアノを聴いて欲しいんだ。
 だから……。
 行くよ、しずくちゃん──

……
…………

しずく「──激しい雨垂れが体を打つ日。私は馬車の事故で転落してしまう」

しずく「行きたくは無かった外の深淵の世界。そんな日に馬車の事故が起こってしまう。私は……神様に嫌われていた」

しずく「でも、そこには、私と同様に神様に嫌われていた存在がいた」

しずく「誰……?そこに誰かいるんですか……?私は目が見えないのです。だからどうか……」

しずく「きゃっ……!」

しずく「私が出会ったのは、一匹の犬だった。触れてみて分かった。とてもやせ細った犬だと。そして、とても怯えながらも私に立ち向かおうとしていた」

しずく「不思議だった。外の世界の存在なのに、私は怖くなかった。むしろ、彼女に私は尊敬さえ覚えた」

しずく「吠えることもできず、やせ細った手足なのに、それでも尚自分より大きな存在へ立ち向かう勇気。彼女は、弱者でありながら強者だったのだ」

しずく「……あなた、私の家族になってくれないかな。私は、あなたから勇気を学びたい。私は、あなたのように強くなりたい」

しずく「私は自然と、彼女を抱きしめていた。手で引っ掻かれ、口で噛まれたが、私は離さなかった」

しずく「ここで彼女を置いていってしまったら、ここで彼女と家族になれなかったら、私は本当の意味で世界から見捨てられると思ったのだ」

しずく「お願い……スターラ」

しずく「スターラ。それは雨垂れの意味を持つ言葉。雨垂れはひどく弱々しいが、石をも穿つほどの力がある。彼女にはピッタリの名前だった──」
 
193: (もも) 2022/12/23(金) 01:59:10.28 ID:6GgxOBUo
……
…………

ミセス「参ったね……」

 私は誰にも聞こえないくらいの声量で独り言ちる。
 この舞台は桜坂の物でも、高咲の物でもなく、私、ミセスの舞台のはずだった。
 稽古の中ではまだ私の物だった。リハーサルの時でもまだ私の物だった。
 けれど、フタを開けて見たらどうだ。

ミセス「乗っ取られちまったよ……」

 脱帽だった。
 私の演劇に掛ける大きな思いが、桜坂と高咲の演劇に掛ける思いに負けた。
 一体、この演劇に何を持って挑んでいるんだい。

ミセス「……いい、役者になったねぇ。桜坂……」

 いかんね。
 若い役者ってのは一瞬で変わっちまう。そしてその一瞬で、名演ができる高みまで上り詰めちまう。
 そしてあれだ。
 歳を取ると、そういう役者にいらん思いを感じちまう。舞台の上に持ち込むのはご法度な、演出家がしてはいけないことさ。
 頬を伝う温かなしずくを感じつつ、私はこの劇の結末を待った。

……
…………

しずく「私とスターラは、正直に言ってしまえば傷をなめ合っているだけだったのかもしれない」

しずく「弱者と弱者が群れを成したところで、どこからともなく吹く強風で倒されてしまう」

しずく「けれど私は、勇気を持つスターラと一緒ならば、どこへだって行けた」

しずく「スターラは吠えられないが、視力があった。私に視力は無かったが、吠えることはできた」

しずく「不完全な者同士、支え合うことでようやく半人前くらいにはなれた」

しずく「……スターラ。私はあなたからたくさんの物を貰った。いくら感謝をしてもしきれないくらいの大きな恩だよ」

しずく「だからね、私もあなたへ最大の恩返しをしたいと思う」

しずく「あなたは吠えられないかもしれない。けれどそれは、私の視力のように永遠ではないんだよ」

しずく「大丈夫。必ず吠えられるようになる。だってあなたはスターラだもの」

しずく「そうすれば、きっと……」
 
194: (もも) 2022/12/23(金) 02:01:05.72 ID:6GgxOBUo
……
…………

部長「あれが……しずく?」

 私は目を見開いて舞台を凝視していた。そして驚愕していた。
 なぜなら、舞台の上で演技をするしずくは、『底知れない器』では無かったからだ。
 あそこにいるのは『アステーリ』ではない。『桜坂しずくの演じるアステーリ』だ。
 しずくは、普通の役者になっていた。
 底知れない器ではなく、普通に自分があって、普通に心があって、それを演技と織り交ぜることで感情を表現する、そんな役者になっていた。

部長「なのに、なぜ……」

 なぜ私は目が離せないんだ……?
 普通の役者に興味は無かったし、魅力なんて無いと思っていた。全ての役を完璧に降ろしきり、豊かな経験を持って深遠なる演技をする役者。書き割りや音楽など、全てを置き去りにする圧倒的な存在。それを求めていたはずだったのに。
 そんな私が、ただのしずくの演技に目が離せない。
 一体何を持ってそこにいるんだって言うんだ……。

部長「……あ」

 頬を伝う温かな感覚があった。
 それで全て理解した。
 なぜただのしずくの演技にここまで惹かれてしまうのか……。

部長「しずくほどの役者に、まだ会えていなかった……ただそれだけだったんだ……」

 私は愚かだった。まだまだ見聞が狭かった。狭い世界しか生きていなかった。
 私は今の桜坂しずくに会って、世界の広さを知った。
 私はまだまだなんだって。
 そう、今のしずくに言われた気がした。

ランジュ「黙って見なさい」

部長「うご……ッ」

 私は急いで涙を拭い、しずくの演技に集中した。
……
…………

しずく「私とスターラは、突然の豪雨によって離れ離れになってしまった」

しずく「今は昼間だが、深い森の中、それも豪雨の中では私の見る世界のように暗いだろう」

しずく「スターラは目と鼻が利くとはいえ、それはあくまでいつもの話」

しずく「雨のせいで視界と嗅覚は潰されていた。状況は、絶望的だった」

しずく「だけど……それがなんだ」

しずく「絶望的だからなんだ」

しずく「私はこの暗黒の世界を、生まれてから今までに至るまでずっと見てきた」

しずく「スターラと出会い、家族になり、彼女から勇気を貰った私にとって、暗黒の世界はとうに怖くない」

しずく「それに、これくらいで私とスターラは引き裂けない。私とスターラの間には、星と雨垂れを繋ぐ革紐があるのだから」

しずく「そして私は聞いた。雷や豪雨の音をも切り裂く、強く頼もしい遠吠えを」

しずく「スターラ!あなたは今そこにいるのね!」

しずく「森の中でも迷いなく、私はスターラの元へと走る」

しずく「スターラ、久々ね。ちょっとした一人旅はどうだったかしら」

しずく「スターラの元へとたどり着いた私だったが、そこにはスターラ以外の気配があった」
 
195: (もも) 2022/12/23(金) 02:02:59.37 ID:6GgxOBUo
しずく「けれどそれを、私はずっと前から分かっていた。スターラが吠えられるようになる日。それは、スターラとの別れの日になるんだと」

しずく「スターラの遠吠えを聞きつけたのは、私だけではないのだ」

しずく「血の繋がったスターラの本当の家族が、スターラの元へと集まっていた」

しずく「スターラ、あなたには私じゃない、本当の家族がいる」

しずく「だからあなたは、私と共に来てはだめ」

しずく「もう一度吠えられたこと。それは私とあなたを繋いだけれど、あなたと私の別れも意味したの」

しずく「大丈夫。私はもう怖い物なんていない」

しずく「だって、この体を打つ雨垂れが、勇気付けてくれるもの」

しずく「だから、私のことはもう心配いらない。あなたはあなたの家族のために、その勇気を振るってあげて、スターラ」

しずく「あなたの勇気は……石だけじゃない。星をも穿つほど強くなったわ!」

しずく「だから、今まで本当にありがとう!」

しずく「私は、絶対にスターラのことを忘れないわ!あなたという最愛の家族がいたことを!あなたという世界一の勇者がいたことを!」

しずく「さようならスターラ!私はずっと……あなたの幸せを願っているわ!」
 
196: (もも) 2022/12/23(金) 02:04:55.23 ID:6GgxOBUo
……
…………

▲▽【──…桜坂しずく…──】▽▲

 私はいつの間にか、白い世界にいた。
 ここは……。

スイ「──やあしずく。また、会えたね」

 声に振り向くと、そこには私によく似た人が立っていた。
 自信満々で余裕そうな表情。明るく好奇心旺盛で、意外と悪戯好きな人。
 私がずっと会いたかった人だった。

しずく「スイ……!」

スイ「おおっと……いきなり抱き着かれるとは、ちょっと照れるね」

しずく「ずっと、ずっとずっとずっと……あなたに会いたかった……」

スイ「しずく……。やれやれ。困った姉だよ」

 スイはそう言って、優しく撫でてくれた。

スイ「しずくに抱きしめられたのも、しずくを撫でるのも、全部初めてなんだけど、なんだか妙にしっくりくるね」

しずく「確かに……そうだね」

スイ「それで、しずく。私に言いたいことがあるんだよね?」

しずく「うん……」

 私は涙を拭う。一言たりとも、涙を理由にぼやけちゃいけないって思ったから。

しずく「スイ……今までありがとう」

 私はまず、素直に感謝を述べた。なんだかんだ言っても、スイに一番感じている気持ちはこれだ。

しずく「弱い私のために生まれてきてくれたんだよね。不甲斐ない姉で、ごめんね」

スイ「ふふっ。そうだね。君は実に、手のかかる姉だったよ。何を言っても反応が薄い最初の頃はきつかったよ」

しずく「そう、だよね……」

スイ「でも私は……嬉しかったんだ」

しずく「え……?」

スイ「もう二度としずくには会えないって思っていたから。だからどんな形であれ、しずくにもう一度会えたのは本当に嬉しかった」

しずく「スイ……。やっぱりあなたはオフィーリアなの……?」

スイ「さぁ、どうだろう。君の中から生まれたんだ。桜坂しずく以外の何者でもないけれど、私が生まれた時、最初に感じたのは『もう一度会えて嬉しい』という気持ちだったんだ」

スイ「オフィーリアだろうが、スイだろうが、そこに嘘偽りはないよ」

しずく「そっか……。うん。それじゃあ、オフィーリアとしても、スイとしても、今までありがとう。本当に、本当にありがとう……」

しずく「でも……スイはずっと、私が『底知れない器』じゃないって言ってくれたのに。私はそれを聞き入れようとしなかった。本当にごめんなさい」

スイ「いいさ。そんなこと。こうしてしずくは、もう一度しずくになった。それだけで十分だよ」

スイ「手のかかる姉だったけれど、そんなしずくを通して見る世界も悪くなかった」
 
197: (もも) 2022/12/23(金) 02:06:59.44 ID:6GgxOBUo
スイ「演じるのが下手だった頃は、ひやひやしたなぁ……。美味しい物を食べているのに不味そうな顔をしたりさ。お葬式中なのに間違えて大笑いする演技をしたり」

しずく「ス、スイ……。そんな恥ずかしいことは忘れていいのに……」

スイ「うぅん。忘れないよ。絶対に忘れない。これは私の、スイの大切な大切な思い出なんだ」

スイ「しずくと私の、かけがえのない大切な……ね」

しずく「スイ……」

スイ「だからさ、私からもしずくへ伝えるべき言葉があるんだ。ずっとずっと、私も言えなかった言葉」

しずく「え?スイからも……?」

スイ「私を生み出してくれてありがとう、しずく。私はスイとしてもう一度この世に誕生出来て、本当に嬉しかった。本当に楽しかった」

スイ「しずくとの日々は、私にとってどれも本当に大切なものだった。本来ならあるはずのない思い出だったから」

しずく「そ、そんな……ありがとうって言いたいのは私の方だよ……!」

スイ「しずくが私を想っているのと同じくらい、いや、それ以上に私はしずくを想ってるよ。だって、しずくは私の最愛の家族だから」

しずく「……!私も!私も……!スイが最愛の家族だよ!」

スイ「しずくにそう言ってもらえると、本当に嬉しいよ」

 そういって笑うスイの表情は、なんだか儚い印象を覚えた。

スイ「あぁ……。そろそろ、時間のようだ」

しずく「……そうなんだね」

 私は知っていた。
 スイにありがとうを伝えるって決めたその日から。
 ありがとうを伝えることは同時に、さようならも意味する。
 私はスイと別れなきゃいけない。最愛の家族と……もう一度。

しずく「……いやだよ」

スイ「しずく……」

しずく「いやだよ……!本当はいやだよ!スイと離れたくない!もう一度会えたのに!ようやく私は過去と向き合えるようになったのに……!」
 
198: (もも) 2022/12/23(金) 02:09:02.60 ID:6GgxOBUo
しずく「向き合えるようになったらバイバイ、だなんて……」

しずく「辛すぎるよ……」

スイ「……ありがとうしずく。私を愛してくれて」

スイ「私も、辛いよ。しずく」

しずく「……」

スイ「でも、私もそろそろ行かなきゃいけないんだ。家族の元へ」

しずく「……家族の元?」

スイ「実はねしずく。私は元々、野良犬だったんだ。家族と離ればなれになってしまって、とある人に拾われて施設に預けられたんだ」

しずく「え……嘘……そんなわけないよ……」

スイ「いいや、私の魂の部分に残っているんだ。そういう記憶が」

しずく「だってスイは私の中から生まれたんだもん……。私が知らない記憶を……」

スイ「ふふっ。きっと、放っておけなかったのさ。オフィーリアの魂がさ」

しずく「……そう、なんだ」

スイ「あぁ。だから私もそろそろ、野良犬時代の家族の元へ帰らなきゃならない」

しずく「そっか……。スイにも、血の繋がった本当の家族がいるんだもんね……」

スイ「そうだよ。そしてしずく。君にも、君の帰りを待っている家族がいるはずだよ?」

しずく「うん……そうだね。お母さん、お父さん、そして、オフィーリアがいるよ」

スイ「あぁ、これまでスイを愛してくれた分、新しい私に、今のオフィーリアに、存分に愛を注いで欲しい」

しずく「うん。うん……!分かったよスイ。私、オフィーリアを愛し続けるよ!!」

スイ「それでいいんだよ。今のオフィーリアは、私たちの両親が後悔を無駄にしないために頑張ったそのものだからね」

スイ「もう、溺れる象徴のオフィーリアじゃない。溺れた人を助ける、ヒーローだよ。今のオフィーリアは」

しずく「うん……。そうだね。侑さんから聞いたよ」

スイ「だからもう、しずくも後悔することは無いよ。オフィーリアが死んでしまったことをもう気に病むことはない」

スイ「もう、自分を許していいんだ」

しずく「……うん。頑張ってみるよ。スイ」

スイ「ははっ。相変わらず頑固だね、君は」

しずく「そうかな……」

スイ「……。それじゃあ、しずく。時間はもう、僅かしかないようだ」

 そういうスイの体は、どんどん光の粒子となって白い世界に溶けて消えていく。
 別れの時が、もうすぐそこまで近づいているんだ……。

スイ「互いの家族の元へ、帰ろうかしずく」

しずく「うん……。スイ、これだけは覚えておいて欲しいの」

スイ「なんだい」
 
199: (もも) 2022/12/23(金) 02:11:28.43 ID:6GgxOBUo
しずく「どれだけ離れてたって。スイ、あなたは私の家族。大切な、最愛の家族だから……!」

しずく「だから、だから……!絶対に忘れないでね!私も、絶対に忘れないから!!」

スイ「……当然だろう。どれだけ離れていようと、私たちは家族だよ……」

 スイの抱擁が強くなる。
 けれど、強くなっているのに、スイの感触はどんどん消えていく。

スイ「今まで、ありがとう。しずく……お姉ちゃん」

しずく「……スイ!!私もありがとう!!」

 スイの抱擁が一段と弱くなり、遂に私の手から離れる。

スイ「うん……ばいばい……」

しずく「さようなら……!!絶対、絶対絶対絶対……!あなたのこと忘れないから……!」

 私の手から離れたスイはどんどん白い空へと消えていく。
 それは、死者が天空へと還るような、そんな光景だった。

スイ「あぁ……そうだ。これを言い忘れてた……」

スイ「しずく、君が私を奥底に閉じ込めた時に言っていたこと……」

 その言葉を聞いて、私はあの金曜日を思い出す。

──
しずく(次にあなたが目を覚ました時、それは──)

しずく(桜坂しずくが、本当の私になる時だから)
──

スイ「ふふっ……本当だった……」

 スイ!!
 私がその名を呼ぼうとした時、すでに私の声は機能していなかった。
 もっともっと……伝えるべき言葉はあったのに……!!もっといっぱいありがとうって言いたかったのに……!!
 いくら手を伸ばしても、かき集めようと、スイは消えていく。
 そうしてスイの全てが白い粒子になって消えていくのを目にして──
 
200: (もも) 2022/12/23(金) 02:13:19.60 ID:6GgxOBUo
……
…………

しずく「……!」

 万雷の音が聞こえた。
 いや、これは違う。
 これは……割れんばかりの拍手の音だった……。
 私の目の前にいる、第四の壁を越えた客席の人が、私に拍手を送っているのだ。
 いつの間に……。いつの間に演技は終わっていたんだ……。
 私が呆然とした表情をしながらも、劇は終わりを迎えた。
 幕がゆっくりと下がり、閉幕したのだ。

侑「しずくちゃん」

 完全に幕が閉じ切った後、侑さんが話しかけてきた。

侑「ありがとうとさようならは、言えたかな」

しずく「……!!」

 その言葉に、私は……。

 侑さんへと抱き着いた。こみ上げる全ての感情に壊されないよう、侑さんに縋りつきながら。
 溢れる涙で溺れないよう、必死で侑さんにしがみつきながら。

しずく「……ッ!」

侑「……お疲れ。しずくちゃん」

しずく「い……言えました……!スイにありがとうって……オフィーリアにさようならって……言えました……ッ!!」

侑「そっか……。よかった……本当に、本当によかったね……ッ」

 侑さんも私に触発されたのか。
 涙を流していた。
 私たち二人は互いに抱き合いながら、互いに涙を流した。
 そうして……私の、私たちの演劇は、幕を閉じた。

しずくルート『やがてひとつの物語』完結
 
201: (もも) 2022/12/23(金) 02:15:29.57 ID:6GgxOBUo
~エピローグ&プロローグ~

▲虹ヶ咲学園▲

 この虹ヶ咲には、あまり喫煙する人がいない。
 これだけのマンモス学園で、教師の数も膨大な数がいるというのに、なぜか喫煙者はあまりいない。
 そのため、学園内で一人になれる場所を探すと自然とこちらに足が向く。

侑「すぅ……はぁ」

 タバコを吸って、吐く。
 少し前まで一人の時間が寂しいとか思っていたけど、最近は逆にまるっきりそういう時間が取れない。
 それは、一か月前のあの演劇。『その雨垂れは、星をも穿つ』に起因する。
 初公演を大成功で終えた。これはまぁ、いい。しずくちゃんも本懐を遂げられたことだし。しかし、二回目、三回目になるにつれ、口コミやネットで情報が拡散されたのか、演劇を鑑賞する倍率がとんでもないことになった。
 それに伴い、しずくちゃんへの取材が〇到した。大変だなぁ、と他人事だったのだが、それは私も例外では無かった。独り芝居にリアルタイムで伴奏を乗せられる奏者として、私も注目を浴びたのだ。
 五日の公演を終えた私たちに待っていたのは、そういう騒がしい日々だった。

侑「あぁ……ほんと、ミセスがいてくれなかったらどうなっていたことか……」

 私は取材に対し上手く答えられなかった。なぜなら、どこまで言っていいのか分からなかったからだ。しずくちゃんは上手く取材に応じられていたみたいだけど……私にそんな能力はないYO!初めてなんだから仕方がないじゃん!
 まぁ、私の不足部分は上手くミセスがフォローしてくれた。本当にミセスにはお世話になった……。
 一か月が経過し、公演も取材も大体が終わったものの、学園内でもあの演劇を見た人は多いらしく、かなりの脚光を浴びた。
 だから、ここである。
 だから、喫煙スペースにいるのである。

侑「もうすぐ、冬、か……」

 喫煙スペースは外にある。
 今はもう十月の半ばの為、やや肌寒い。冬になったらどこに行けばいいのやら……。
 それまでにこの演劇ムーブメントが終わればいいけど……。
 生徒に詰め寄られるのはまだいいんだけど、他の先生から熱く接されるとちょっとね……。まだまだ教師生活で学ぶことはありそうだ。

しずく「──あ、やっぱりここにいましたね」

侑「あ、しずくちゃん。やあ」

しずく「全く。やあ、じゃないですよ。タバコは百害あって一利なしなんですからやめた方がいいですよ」

侑「う~んでもねぇ……。そう簡単な物じゃあないんだよ」

しずく「……はい。だめです」

 しずくちゃんは私の手からタバコを奪った。なかなかの早業だ。油断していたとはいえ、しずくちゃんもやるなぁ。
 って、生徒がタバコ持ってたらやばくない?
 
202: (らっかせい) 2022/12/23(金) 02:17:21.96 ID:XX16M8wZ
正直なところ、虹ヶ咲の作品としては設定がかなり異色だし、人を選ぶと思う。
でもら作品の世界観を生かしきっていて、なおかつ作品の中へと引き込まれる、そんな魅力がある作品でした。
クリスマス前にめちゃくちゃいい作品を読めました。本当にありがとう。
リアルタイムでずっと追ってしまった…
 
205: (もも) 2022/12/23(金) 02:22:27.34 ID:6GgxOBUo
>>202
ありがとうございます;;
すでに完結済みの長編を短期間に2chに投稿するのって阿呆なことしたなぁって思ってました
でも>>202さんの言葉で投稿して良かった、とも思いました
リアルタイムで追っていただきありがとうございました!!
 
206: (らっかせい) 2022/12/23(金) 02:25:31.75 ID:XX16M8wZ
>>205
これおそらく別√もあるんですよね?
続きがあれば読んでみたいです
 
208: (もも) 2022/12/23(金) 02:31:11.66 ID:6GgxOBUo
>>206
歩夢ルートはラストの構想があるので後はその間を埋めるだけですね
かすみルートは……ある予定だったんですが、面白くならなそうなので今のところないです
ランジュルートはマフィアの鉄砲玉だった頃のランジュと、やさぐれていた頃の侑の話なので過去編になりそうです
 
209: (らっかせい) 2022/12/23(金) 02:33:33.68 ID:XX16M8wZ
>>208
構想だけでもかなり楽しみですね
渋に来るのを全裸待機して待ってますね
 
203: (もも) 2022/12/23(金) 02:17:26.48 ID:6GgxOBUo
侑「しずくちゃん!早くそれをこっちに返すんだ!色々やばい!」

 と、私が取り返そうと慌てた瞬間。

しずく「……ん」

 しずくちゃんから突然キスされた。

しずく「……私、キスがタバコの味って嫌なんです。何度も言ってますよね?」

侑「え、あ……。そう、だけど……」

しずく「だから、やめてください」

侑「えぇ……」

しずく「ぽいっ!」

侑「あぁ!!」

 タバコが無残に吸い殻入れに放り込まれる。まだまだ吸えたのに!!
 資源の無駄だよこれは!!
 って!そんなこと言ってる場合じゃない!

侑「しずくちゃん!学園の中でキスなんてダメでしょ!バレたらどうするの!」

しずく「大丈夫ですよ。私が何年演劇をしていると思ってるんですか。人の視線に気が付かないほど鈍感じゃありません」

侑「いや……そういうことじゃなくって!監視カメラとかあるかもしれないじゃん!」

しずく「問題ありません。全てチェック済みです」

侑「も、も~っ!そもそも生徒と教師なんだから……」

しずく「その問答は意味ありませんよ。あの日、私に体を許してしまった以上、全ての責任は侑さんにあります」

しずく「だって、大人じゃないですか!」

侑「ぐ、ぐぬぬ……」

 しずくちゃんはあの演劇が終わってから、妙に悪戯っぽくなったというか、積極的になたというか……。一言で言えば、けしからん子になってしまった。

侑「あ、あのねぇしずくちゃん。一度ここらでそもそも大人と子供っていう力関係をさぁ……!!」

しずく「あ、こんな話をしに来たんじゃないんですよ」

侑「そんなこと言ったって!!」

しずく「──上原さんっていう生徒から伝言があるんでした」

侑「……え」

 頭に冷や水を浴びせられる感覚があった。
 上原さん……?
 私に縁のある人の中で上原さんとは、一人の人物しか該当しない。
 上原歩夢。
 私の教育実習生時代の生徒だ。
 
204: (もも) 2022/12/23(金) 02:19:54.07 ID:6GgxOBUo
侑「……上原さんからなんだって?」

 私は努めて冷静にそう言った。

しずく「はい。『虹ヶ咲に転入するのでよろしくお願いします』と」

侑「……!!」

 歩夢ちゃんが、虹ヶ咲にくる……?

しずく「それと、『とても胸に来るような演劇でした』とも言ってましたね。私たちの演劇に感動して、転入まで決意するなんてすごいですよね」

 ……どうやら、本当に歩夢ちゃんらしい。
 上原歩夢。別に珍しい名前ではない。けれど、ここまで状況証拠が揃ってしまえば、認めるしかないだろう。

侑「そっか……。それでそのあゆ……上原さんはどこに?」

しずく「私にそう言い終わったら帰りましたよ。引っ越しの作業がまだ終わってないとかで」

侑「うん……。分かった。ありがとう、伝言を届けてくれて」

しずく「?」

しずく「はい。どういたしまして?」

 しずくちゃんはなんだか腑に落ちない表情をしていた。
 私が今歪んだ変な表情をしているからだろう。

侑「それじゃあ、そろそろ戻ろうか」

しずく「あ、はい。そうですね!」

侑「流石に廊下でキスはやめてね?」

しずく「天下の往来でするほど色狂いじゃありませんよ」

侑「……ほんと?」

しずく「本当ですよ!!」

 私はできるだけおどけて、ふざけたように接し、今の感情を悟られないようにした。
 そうして和気藹々を演じていると、横殴りの突風が私たちを襲った。

しずく「きゃっ……すごい風……」

 落ちた葉っぱが舞い上がり、砂煙を作り出す。
 それはなんだか、これから来る波乱を予感しているようだった。


おしまい
 
207: (もも) 2022/12/23(金) 02:27:12.93 ID:6GgxOBUo
というわけでしずくルート完結です
完結済みの長編なので2chより渋の方が土壌に合っていたと途中で気づきました
なので書く予定の歩夢ルートは渋に投稿する予定です(一切書いてないし渋に投稿したことないけど)
根気強く読んでいただけた方には多大なる感謝を
 
211: (もんじゃ) 2022/12/23(金) 09:37:53.81 ID:+rtBBWtp
出来ればこのままここにも上げてほしいよ
設定自体は原作と乖離しつつも要素はちゃんと抑えててほんと良かったと思う
文章を読んで泣いたのは久々だった とりあえず乙!
 
212: (らっかせい) 2022/12/23(金) 11:09:08.88 ID:XX16M8wZ
改めて読み返すとしずくの描写に素顔のフォトエッセイとか楽曲ネタが所々に散りばめられていていいなぁ
 
213: (しうまい) 2022/12/23(金) 17:42:16.25 ID:fQmMrhin
しずく推しだから解像度高い描写で一層好きになれました
過去作とかあればそちらも読んでみたい
 
214: (たこやき) 2022/12/23(金) 21:31:56.10 ID:A0ENohCG
すっごく良かった!また続きとかあるなら
是非見たい
 
215: (かぶらずし) 2022/12/24(土) 02:38:31.41 ID:liOKjDZC
とても面白かったです
かすみさんの他校の友だちが愛さんやりなりーなのかな?
続きも楽しみにしています
 
216: (もも) 2022/12/24(土) 18:10:06.17 ID:h4RexEAY
感想ありがとうございます!
書くの忘れてたんですが、『その雨垂れは~』はサンホラの『星屑の革紐』って曲が下地になってます
内容は色々いじくったんですが、犬と少女の曲なので気になった方はぜひ視聴をおすすめします

過去作は
かすみ「ねぇしず子。なんでかすみんの背中に指文字で『しずく』って書いてるの?」しずく(自分の物には名札を付ける。当然だよね)
https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1670808048/l50
ですね

文字数が5万文字を越えなければこちらに投稿するかもしれません(たぶん超えるし、いつ書き終わるか分かんない)
 
217: (らっかせい) 2022/12/25(日) 05:12:25.87 ID:F+OKa0Yi
最初は何か凄い文章量の異色な作品だなって思ってたんだけど、途中から引き込まれるように夢中になってしまった
もし別ルートとか続き?とかあったら是非とも読みたい。とにかく面白かった
作者さんありがとうございました!
 
219: (大韓民国) 2022/12/25(日) 23:53:58.33 ID:jCq0ylEW
jΣミイ˶ˆ ᴗˆ˶リ
 
222: (もんじゃ) 2022/12/27(火) 11:45:03.20 ID:/T4FepS2
⎛(cV„◜ᴗ◝V⎞💙jΣミイ˶º ᴗº˶リ ゆうしずhappy end
 
223: (えびふりゃー) 2022/12/27(火) 18:10:52.70 ID:aZPBX4sT
なかなかの大作面白かった
 

引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1671608487/

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