【長編SS】果林「my sweet time」【ラブライブ!虹ヶ咲】

SS


1: (茸) 2022/11/07(月) 08:30:25.06 ID:pL6qN8Mr
馴染みある目覚まし時計のけたたましい音に叩き起こされるようにして、目を覚ます。
つい昨日、干されたばかりだろうふわふわとした羽毛布団の誘惑からそうっと手を出して、目覚まし時計を止める。

「ん…」

もぞもぞと動くと涼やかな空気が呪縛に亀裂を入れて、意識がはっきりとしてくる。

枕元にある手をかざすだけで止まるスタイリッシュなデザインのデジタル時計を見ると、いつも起きるより少し早い時間だった。

全体的に暖色系統で整えられているこの部屋にはやっぱり、
ほんの少し浮いている目覚まし時計だけれど、
私にはだからこそ心地好く感じられる。
 
4: (茸) 2022/11/07(月) 08:34:54.96 ID:pL6qN8Mr
部屋を出ると、不意を打たせまいとしたドアノブの軽い金属音がダイニングに響く。

キッチンで揺れていた相変わらずのウェーブがかったオレンジブラウンのポニーテールがくるりと回って、家主が顔を覗かせた。

「起きたね~?」

「ええ…」

柔らかい声はそのままに、ほんのちょっぴり皮肉を含んだ表情
それでも愛らしさがあって、怖さを感じないのが彼女――近江彼方らしい。

高校生の頃からだから、彼女とはかれこれ10年近い付き合いになるだろうか。
 
5: (茸) 2022/11/07(月) 08:42:20.05 ID:pL6qN8Mr
「記憶は?」

「……そこまでバカじゃないわ」

泥酔して我を忘れるほどになるわけないじゃない。

そんな意味を込めた返答に、彼方は疑うような目を向けながら細やかな嫌がらせの籠ったマグカップを差し出してくる。

優しい色合いのほんのり温かなそれは、ホットミルクにチョコレートを溶かしたもので、
駄目押しのように粉末状のチョコレートが振りかけられている辺り、散々だったのが良く分かる。

「……悪かったわ」

素直に受け取り、謝罪と共にひとくち口に含む。
じんわりと広がるカ口リーの波で喉を潤しながら、ほっと息をつく。

この分のカ口リー消費はどこでどうするかは、今は考えない。
 
6: (茸) 2022/11/07(月) 08:51:47.37 ID:pL6qN8Mr
「ここに来たことは覚えてるのよ。本当に……そのあとどうしたかって言われると、ごめんなさいとしか言えないわね」

「態度が悪いと思ってないよ。態度が~」

「薬でも盛られたかしら」

冗談っぽくそう言ってみると、彼方は「ほー?」とにこやかに笑う。
冗談だと分かってるだろうに。

「今日はお仕事は?」

「休みよ……って言いたい」

「だろうと思ってサンドイッチ作ったから一口くらいは食べてね」

彼方の住んでいるところから、私の仕事場まではそう遠くない。
むしろ、自分の家よりも近いまである。

そのうえ、いつもより早い起床となれば断る理由もなく、
二つ返事で彼方お手製のサンドイッチを頂く。
 
9: (茸) 2022/11/07(月) 09:08:24.28 ID:FjAYpt56
昨夜の私はたぶん、そんなに優しくなかったに違いないと思いながらサンドイッチをかじる。

ホットなカ口リー爆弾と打って変わって、ライ麦食パンを使ったレタスやトマト多めのヘルシーなサンドイッチ

アクセントにハーブの効いた……恐らくはサラダチキンが入っているのが美味しい。

「こんなまともな朝食久しぶりだわ」

「どうせギリギリまで寝てるんでしょ?」

「寝てないわ。起きてないだけよ」

しれっと言うと「せめてヨーグルトでも」と彼方は言う。
言っても無駄だって分かっているのか、少し心配そうな表情だ。

「最初の方は上手く行くのよ。でも、気づいたらね」

「モーニングコールでもしようか~?」

「寝かしつけることに特化してるくせに」

間違いないや。なんて、大人びた笑い声を溢す彼方を一瞥する。
本当に、変わらない。
 
14: (茸) 2022/11/07(月) 09:31:52.28 ID:FjAYpt56
「シャワー、借りるわ」

「どうぞー」

サンドイッチを食べ終えたあと、彼方に許可を貰ってバスルームに向かう。

私のとは全然違う、彼方の匂いがする脱衣場
洗濯物は無く、きっちり整理整頓されている棚からバスタオルを引っ張り出す。

寝間着を脱いでそのまま浴室に行き、シャワーの先を排水口に向けて暫く出し続けて、
お湯になったのを確認してから頭から被る。

「……ほんとに気に入ってるのね」

彼方が使うシャンプーやトリートメント、ボディーソープは私が薦めたもので、私自身も使ってるものだった。

薦めたのは半年近く前だから、そこから使い続けてくれているらしい。

「まったく……」

ちょっぴりわき上がった嬉しさを誤魔化すように、顔を洗った。
 
15: (茸) 2022/11/07(月) 09:48:42.21 ID:FjAYpt56
シャワーを浴びて、彼方が用意しておいてくれた下着を身に付けて、昨日とは別の洋服に着替える。

昨日と同じ服じゃないですか。なんて指差されるとすごく面倒なことになるから、
彼方のこういう気遣いは凄くありがたい。

「……はぁ」

とはいえ、だからモチベーションが上がるかと言えばそうでもなく、
仕事に行くために準備をしているのに、一向に気乗りしない。

「今日も来るの?」

「流石に連日迷惑かける気は無いわ。普通に家に帰る」

「えーじゃぁ、せめて洗っておいてね」

彼方はそう言って、まだ温かいお弁当箱を私に手渡す。

「どうせお昼もヘルシー優先で大雑把なんだから、持っていって」

「……良く分かってるじゃない」

「誇るところじゃないよ?」

体は大事にしなきゃダメって言いたげな彼方の優しさ
いつも通り「分かってる」なんて常套句を口にする。

「ありがとう。色々と……それじゃ」

「行ってらっしゃい~」

笑顔で手を振って送り出してくれる彼方に振り返りもせずに家を出る。
鞄の中に広がる温もりのせいか、不思議と足取りは軽やかだった。
 
20: (茸) 2022/11/07(月) 10:28:03.76 ID:FjAYpt56
私の主な仕事はモデルで、その傍ら、女優としても少しは名前が売れていたりする。

読者モデルの繋がりから引き込まれてモデルとして活動するようになり、
多少なり人気が出てきたお陰で、良ければとオファーのあったドラマの仕事

高校時代から少しずつ興味も沸いていて、二つ返事で受けた結果、意外と受けたのが兼任のきっかけだった。

楽しいけれど、その分大変で、
彼方が言うように私生活がずぼらになってしまうこともある。

「……彼方は前からだよね。とか言うけど」

残念ながら否定は出来ない。
 
25: (茸) 2022/11/07(月) 10:51:54.45 ID:FjAYpt56
今日はファッション紙の撮影と、CMの撮影がある。

室外で行われるファッション紙の撮影は日光等の関係上、時間制限があったりするけれど、
室内で行われるCM撮影はというと、努力次第なところがある。

「今日は宜しくお願いします」

カメラマンやアシスタントの人達に挨拶して待機場所に向かうと、相方はまだ来ていないようだった。

「……何か問題でも?」

そのうちに来てくれるとは言うものの、
時間が押すからと個撮が先に行われ、
それさえも終わる頃に車が入ってきて、女の子が駆け寄って来た。

「遅れて申し訳ありません!」

「……謝るより先にまず整えなさい。すぐに準備しないといけないんだから」

軽く汗を拭ってあげながら声をかけ、背中を押してあげる。

「は、はい……っ」

高校生くらいに見える女の子は、どうやら代役らしい。
急遽代役になった焦りと、緊張で余裕のない若者を見てると、微笑ましくなる。

なんて。

口に出したら、おばさんになってしまうだろうか。

代役になるというアクシデントはあったものの、ファッション紙の表紙を含めた撮影はどうにか事なきを得た。
 
26: (茸) 2022/11/07(月) 11:09:02.03 ID:FjAYpt56
「あ、あの……良ければお昼、どうですか? 近くに美味しいお店があるんです」

なんて誘って来る高校生くらいの女の子
ついさっき、スマホで探していたことは見なかったことにするとしても、
今回は残念だけど……とお断りする。

「お弁当があるから、悪いけれど」

しょんぼりと肩を落とされると、ちょっぴり罪悪感を刺激されるけれど、
彼方のお弁当があるんだからどうにもならない。

「え…凄いです……ご自分で作ってるんですか?」

「たまたま友達の家に泊まったのよ……料理好きな子だから、作ってくれちゃって」

女の子は友達って言葉にピクリとして。

「友達っておと――」

「女の子よ」

そう答えただけで、どこかホッとした様子を見せる。
付き合ってる男性がいるのかどうか。
いつも探られるし、否定をすると意外だと言われる。

それが堪らなく、煩わしい。
 
32: (茸) 2022/11/07(月) 19:41:03.07 ID:d2JfE2ox
お店に入って食事なんて時間がないときもあり、
適当に用意して貰ったお弁当を移動中に食べたり控室で食べたり、まぁいいかと抜くこともある昼食。

けれど今日は彼方のお弁当があって。

外でお弁当を食べるとなると、基本的には公園で食べることになる。
実のところ職業柄、結構NGなところはあるけれど、手頃なベンチを見つけて腰かけた。

薄い雲が広がる空の下、一人ベンチに座ってお弁当を広げる自分
客観的に見たら、私は一人寂しい女なのだろうか
それとも、別に珍しくもない光景の一つなのだろうか。

「……彼方はそんなこと、気にしないんでしょうね」

大人になると、流石に人目を気にしてベンチに寝そべったりはしなくなったけれど、
一人でお弁当は平気でやっているらしい。

ただ、気持ちいいからってだけで。
 
33: (茸) 2022/11/07(月) 20:08:22.55 ID:d2JfE2ox
「……まったくもう」

ランチクロスの下に隠れていたせいか、ちょっぴり湿気っている「召し上がれ~」という彼方直筆のメモ。

フタを開けてみれば、半分に切られてハートのようになっている卵焼きがあって、
その上にはクッキーの切り抜き用の……そういうアレでくり貫いただろうハートマークのハムが添えられていて。

そんな彼方の遊び心もあれば、
おからを使ったおかずや、ごま和えのサラダといった私に合わせたものをしっかりと作ってくれていた。

「朝、忙しいくせに」

彼方だって暇なわけではないからゆっくりしたい気持ちがあったり、
他にしたかったことだってあったと思う。

にも拘らず早起きして作ってくれたお弁当は自分のついでか、それとも。

「……なんてね」

ふたを開けた状態のお弁当を膝の上に乗せたまま、パシャリと撮って彼方に送る。
そうして「ありがとう。いただきます」と、短い文章を手早く打ち込んだ。
 
34: (茸) 2022/11/07(月) 21:38:04.56 ID:d2JfE2ox
スマホを傍らに置いてまずはひと口とお箸を動かした直後にスマホが震える。

手に取ってみると私が送ったばかりのメッセージに既読がついていて、
入れ替わるように、今からお昼なんだねぇ。と、短い返事が書き込まれていた。

スリープにする片手間も省いたせいか、私が見るよりも前に既読がついたからだろう。
私が書き込む前に『すぐに既読つくなんて、果林ちゃんってば~』なんて悪戯っぽい言葉が流れる。

「……何言ってんだか」

まるで彼方からの返事を心待ちにしていたみたいじゃない。
そんなつもりはなかったのに。
目の前にいない彼方に向けて意味もなく悪態をつきながら、一口頂く。

ハンバーグに見えた小さく丸い塊は、お豆腐で作ったハンバーグのようで、
ほんのり濃いソースがじゅわりと広がる中に、ちょっぴりまぎれる魚のすり身のような甘味。
豆腐ハンバーグのつなぎとしてはんぺんを使ったのかもしれない。

――暇なの?

と、彼方に返してみる。
むっとした彼方本人をモチーフにしたスタンプがすぐさまポップアップし、
そんなことないよ。とっても忙しい時間の合間を使って、一人寂しい果林ちゃんに話しかけてるんだよ~なんて、長い言い訳が流れる。
 
36: (茸) 2022/11/07(月) 22:10:57.61 ID:d2JfE2ox
彼方が慌てているわけじゃないって分かっているし、
スマホを片手にこっちの反応を待ってニヤニヤしてるんでしょうね。と、
分かりやすいあの愛らしさを思い浮かべる。

そして、所持しているスタンプの中から栞子ちゃんの「そこまでです」と書かれたスタンプを選んで叩き込む。

彼方のスタンプも、栞子ちゃんのスタンプも。
どっちも璃奈ちゃん達がニジガクメンバーのために記念として作ったもので、
当然、2人以外……私のスタンプもある。
もちろん、めったに使わないけれど。

――私も忙しいのよ。誰かが美味しいお弁当を作ってくれたから

「ほんと……」

仕事が休みだったら、一緒に食べていただろうか。
自信満々の可愛らしい笑みを浮かべながら私の感想を待っている彼方に、
照れ隠しもなく、素直に美味しいと言えただろうか。

彼方は『ならよかった』と、一転して大人しい返し。
かと思えば、赤色のハートマークが寂しそうにポツンと浮上する。

「……私の勝ちね」

彼方が照れてくれたなら、私の勝ち。
喜んでくれたなら私の勝ち。
でもきっと、それを見られていない私の今は、負けだと思う。

「……美味しい」

お弁当を食べ進めながら、彼方とのやり取りを続ける。
他愛もない、特別、今しなくてもいいような会話。

独りだけど、独りじゃない。そんな感覚が心地よかった。
 
38: (茸) 2022/11/07(月) 23:18:46.34 ID:d2JfE2ox
お昼を終えたあとのCM撮影が終わる頃には日もすっかり落ちてしまっていて、
それから明日以降のスケジュールについてマネージャーと会話し、車で自宅近くまで送って貰う。

明日、迎えに来るからと言うマネージャーに了承の返事をして、マンションに入る。
玄関口の操作盤に暗証番号を入力してドアを開け、エレベーターに乗り込む。

「はぁ……」

明日はモデルというより女優としての仕事が主で、
当然ながら主演ではなく、ゲスト出演と言う形にはなるけれど、ドラマの撮影がある。

読モのアルバイトをしていた時だって土曜日も日曜日も祝日も関係なかったし、
高校生の時なんて、それに加えてスクールアイドルとしての活動だってやっていたから、休みなしも全然耐えられないことはない。
けれど、どうしてもため息が零れる。

――今が売り込み時だから。

だから、多少は無理してでも頑張らなくちゃいけないんだって、背中を押される。
そうやって頑張って、人気を得られて、輝かしくなっていくし、給料だってその分増えていく。
でも、疲れてしまう。
 
39: (茸) 2022/11/07(月) 23:47:37.55 ID:d2JfE2ox
「だから昨日、彼方のところに行っちゃったのよね」

独り暮らしのマンションの一室に帰ったって、
ふらふらと寝室に向かい、着替えすら適当にベッドに倒れ、
気付いたら朝になっていて、朝食も大雑把に家を出るだけだっただろうから。

だから、どうせタクシーで1時間もかからないんだからって、彼方の家に押しかけた。

「……みっともないわ」

彼方は突き放さないし、受け入れるし、
無理に何か聞いてくるようなこともなければ、ただ、ふんわりとしていてくれるから、居心地がいい。

昨日の私はそれに甘んじてしまった。
一人きりの自分の家に帰れば、そんな一時のリフレッシュをしてしまった分の反動が来るのに。

「まずお弁当箱洗って……お風呂……は、明日……」

あと数時間足らずで明日になる貴重な残り時間の使い道を考えながら7階で降り、
ドアノブの近くに取り付けられた機械に暗証番号を入力して鍵を開けて入る。
いう意味もない「ただいま」も言わずに靴を脱ぎ捨てて――私とサイズの違う靴が並んでいることに気づく。

まさかと思って足早にダイニングに向かうと、
最近は着替えが寝転がっているだけだったソファに彼方が横になっていて。

「……彼方」

ストーカーかしら。なんて、
ちょっとだけ酷いことを考えてから一笑に付して、
お酒と一緒に抜けて行ってしまった記憶の中に、暗証番号を教えた場面があるのかもしれないとため息をついた。
 
44: (茸) 2022/11/08(火) 07:39:48.70 ID:VZfUG7/j
「こんなところで寝ていたら風邪ひいちゃうわよ。彼方、起きなさい」

体を揺すりながら声をかける。

すやすやと眠っているのをもう少し見ていたい気がないわけではないけれど。

風邪をひくかもしれないし、
帰ったのに起こさなかったことにムッとするかもしれないし、
何か話したいことやしたいことがあったかもしれないし、
寝ているからってそのままにしておくのは少し忍びない。

「ん~ぅ……」

「彼方……起きないと、キスされるわよ」

眠り姫のように。
目が覚めるほどの衝撃でも与えてあげようかなんて囁く。

そうしてゆっくり顔を近付けて行くと、彼方の目が薄く開いた。
 
45: (茸) 2022/11/08(火) 07:55:19.52 ID:VZfUG7/j
「……おかえりぃ」

寝ぼけ眼の間の抜けた声を漏らす彼方。

なんとも言えない何かを感じて笑って誤魔化し「ただいま」と答えて頭を撫でてあげると、彼方はだんだんと目を見開いて。

「……果林ちゃん!? あっ……寝ちゃった!?」

「おはよう」

「う……も~っ! ソファの居心地もうちょっと悪くして!」

「理不尽に怒らないで」

本気じゃないと分かっているから、笑いながら彼方の頬に触れる。
ほんのちょっと、跡がついてるのが可愛らしい。

「自己研鑽には重要なところなのよ」

私が出たドラマや、しずくちゃんの舞台、遥ちゃんのライブ
そして、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会としての過去の栄光
それらを見るために整えた最高の環境

「お洋服がごろごろしてたような……」

「そうね。やんちゃで困ってたのよ。ベビーシッターを頼んで正解だったわ」

掃除に洗濯……それときっと、料理まで。
色々とやってくれていただろう彼方に笑いかける。

「エマちゃん呼ぼうか?」

「飛んでくるからやめなさい」

彼方が私の状況を告げ口したらエマは飛んでくる。
いや、行きたいけど行けないよ。と、残念そうな反応が返ってくるだけかもしれない。
 
46: (茸) 2022/11/08(火) 08:46:05.76 ID:VZfUG7/j
エマは高校を出てから、スイスに戻った。

大学も日本で……と思いはしたものの、
押し付けられたわけでもなく自分の意思で決めていたエマを引き留めることなんて出来るわけもなかったし、しなかった。

当時も今も、その選択が間違っていたとは思っていない。

エマは向こうでいい感じの長期休暇があったりすると、こっちに遊びに来たりすることもある。

高校に比べて物理的にもやや疎遠ではあるけれど、関係が変わったわけでもなく、寂しさがあるわけでもないし。

「お風呂とご飯どっち先にする?」

「そうね……彼方はどうするの? 泊まっていく?」

「果林ちゃんがいいなら泊まっていこうかな」

それなら……と、一息おく。

「先にお風呂にするわ」

彼方が一緒に食事してから帰るって言うなら、タクシーを呼ぶし、外にも出るから後にするけれど、
そうではないなら、先にさっぱりしておきたかった。
 
47: (茸) 2022/11/08(火) 09:04:56.47 ID:VZfUG7/j
このマンションを選んだ理由としてはセキュリティが大きいけれど、
体を伸ばせるほどの浴槽があるというのもあった。

ゆったりと体を伸ばしたいし、リラックスしたいと思って。

「……だから彼方、別に2人で入るための広さじゃないのよ」

「ん~効率だよ~効率~」

私と向かい合って湯船に浸かる、セキュリティを突破してきた泥棒さん。
ウェーブがかかっている長い髪をぐるりと纏めあげているからか、
もはやアフロのように見える。

結局は高校からほとんど変わらなかった小さな体。
基本的に露出度の低い着こなしをするからか、
活発さに比べて、やや色白に見える健康的な肌艶で。

「……はぁ」

見つめる自分に呆れて、目を背ける。
彼方は本当にただ、効率を考えたのだろうか。
それとも、ちょっとは私を意識しているんだろうか。
いつもよりほんの少し上気しているだけののんびりとした表情からは、読み取れそうになかった。
 
55: (茸) 2022/11/08(火) 23:09:39.10 ID:BiNVNRRB
「ところで最近、遥ちゃんと会えてるの?」

「なぁに~? 私は芸能人だから会えてるって?」

やっかんでいるような口振りながら、
感情の起伏は穏やかな彼方の返しに思わず笑って首を振る。

「遥ちゃんどころかしずくちゃんにでさえ全然よ」

少し残念そうに笑みを浮かべた彼方は「元気なのは知ってるんだけどね」と、呟く。

満足できるほど会えてはいないけれど、
でも、連絡は欠かさず取り合っているとか、そんなところかもしれない。

遥ちゃんは高校時代に取り組んだスクールアイドルで興味を持ち、
そしてさらにそこから先に踏み込んでいった。

本格的なアイドルとして芸能界入りを果たし、
数年間の下積みとも言える研鑽を積み重ねて、今はもう、すっかり大人気の遥ちゃん。
 
56: (茸) 2022/11/08(火) 23:14:46.32 ID:BiNVNRRB
それでも「お姉ちゃんとの時間だけは死守するからね!」と、
多忙な中すごく頑張っていたらしいけれど、
さすがにツアーで各地を回っていたり、TV出演を重ねていたらそんな余裕もなくなりつつあるようだった。

「最後に会ったのは4日くらい前かな……ほら、今は遥ちゃん沖縄だし」

「私なんて半年……は嘘だわ。でも少なくとも3ヶ月は会ってないわね」

大変なことではあるけれど、夢とやりがいがあったからこそ飛び込んでいったアイドルの世界
這い上がろうと藻掻いて、それでも埋もれていく日々。

俯いたこともあれば、泣いたこともあって、
それでも決して逃げ出さなかった遥ちゃんのことをずっと見てきた彼方だから。

今の輝かしさは喜ばしいし、誇らしいのだろう。
けれど姉としては寂しさもあるのかもしれない。

「……」

その寂しさの穴埋めに使われているのだとしたら――それは、とても。
 
57: (茸) 2022/11/08(火) 23:39:32.84 ID:BiNVNRRB
ばしゃり……と、顔に思いっきりお湯を叩き付ける。
垂れてきた前髪を上に払い除けて、ため息一つ。
水面に映る自分の顔に水滴が落ちて、波紋が広がっていく。

「おねむかな~? ぽかぽかだもんね~」

私にしては珍しいことをしたと思ったのか、からかうような彼方を一瞥する。
悪気はなく、ただ、いつもと変わり映えのない柔らかい笑み。

足が触れ合い、腕を伸ばせば抱くことのできる距離なのに。
湯船に見える屈折する私達はとても遠くに見える。

「そろそろ上がるわ。彼方は?」

「ん~私はもう少しかな。もしあれなら冷蔵庫に入ってるおかず温めて先に食べちゃっていいからね」

「ここにきて一人早弁する気はないわ。待ってるから早く上がって」

「早弁って……もう、学生さん気分だねぇ」

彼方を一人残して浴室を出て、脱衣所に用意してあったバスタオルを手に取る。
身体を拭きもせず、バスタオルを広げもせずに折りたたまれたまま顔に押し当てて覆う。

――穴埋めに使われているのだとしたら、不愉快だ。

なんて。
ほんの少しでもそう思ってしまった自分があまりにもみっともなくて。

「……私、凄く面倒な女だわ」

誰も待っていないはずの家に来てくれていた彼方を見た時の高揚感
感謝の一つもしていないのに、
分かってるから。って様子で何も言わないですぐそこで笑っていてくれているのに。

遥ちゃんがいてもいなくても関係のない関係だって思われたい。
そんな、はしたない感情が燻る。
 
58: (茸) 2022/11/09(水) 00:10:37.03 ID:abBvu+mK
彼方は私が上がってから20分くらい経ってからダイニングに戻ってきた。

彼方曰く、お風呂は上がったあとが大事なんだよ~。とのことで、
お風呂のお湯を抜き、換気し、天井や壁の水滴をワイパーなどで可能な限り落としておかないと
すぐにカビが発生してしまうとか。

そんな彼方のありがたい話を聞きながら、
彼方が作ってくれていたスープを温め直して、軽い夕食を一緒に食べる。

卵がメインの中華スープには玉ねぎやキャベツなどの野菜や春雨が入っていて、味付けは薄めの……減塩型。
鶏肉で作ったらしいつみれも入っていて、お米がなくても十分に美味しく、満足できるものだった。

正直、私1人だったら絶対に作らないだろうし、最近の私だったら何も口にせずに寝ていたと思うと、
本当に、ありがたいと思える。

「……家政婦だとして時給いくらくらいで雇える?」

歯を磨いて、寝る前に化粧水や美容液などを忘れず使って、スキンケア。
いつもは手間を省いて多機能なオールインのクリームを使ったりするけれど、
今日は彼方もいるからと念入りに見栄を張りつつ、彼方にもやってあげながら、そんなことを聞いてみる。

「え~? 生涯収入の半分くらい?」

「ふふっ家政婦相場が崩壊する金額設定ね」

これでも破格でしょ? と、本気っぽく言う彼方を「そうかもしれないわね」なんて軽くあしらって。

「……ほら。もう寝ましょ」

客用の布団なんてあるわけもなく、
かといって1人ソファで寝るなんてことを彼方が許すわけがなかった結果、
ダブルベッドに近いセミダブルのベッドの上、2人で寝ることになったのだった。
 
64: (茸) 2022/11/09(水) 07:49:32.82 ID:prBUnfEX
昨夜の記憶はほぼ霞んでいるけれど、
今と似たような状況だったに違いない。
手を伸ばさなくても触れられる距離で、
ただ仰向けに寝ただけで肩が触れるような……。

流石に、私のベッドではそこまで近くはないけれど。

「果林ちゃんさぁ。どうせ明日もお仕事なんだよね?」

「何よ藪から棒に……そうだけど彼方だってそうでしょ」

「私は今日お休みでした~」

ベッドサイドに置かれている穏やかな光だけでも分かる彼方の自慢気な顔
言い返せないからって彼方の頬を指でつついてあげると、
柔らかい感触が伝わってくる。
 
65: (茸) 2022/11/09(水) 07:59:44.56 ID:prBUnfEX
「……私はまだ恵まれてる方よ」

日付が変わる前に家に帰れているし、睡眠時間だって十分に取ることが出来てる。

本当に忙しいときは帰れない、寝られない、食べられないって状況に陥ることもあるって言うから、
そうなっていない私は全然――。

「別に、昨日みたいに私の家に来てくれてもいいから」

彼方は私の手をぎゅっと掴む。

「朝御飯もお昼ご飯も用意するし、お夕飯が食べられないときはそのためのご飯用意するし、お洗濯やお掃除くらいならしてあげられるから」

無理しすぎないで、我慢しないで。と、彼方は心から心配そうに言う。

「大丈夫よ。そんな心配しなくたって」

本当に、誤魔化しているわけでもなくて。
ずぼらになっていってるところがあるのは事実だけれど、
その埋め合わせはちゃんとしているし、これまでだってそうやって生きてきた。

積み重なる疲労もあるかもしれないけど、リセット出来ているから大丈夫。

「私のこと気にしてたら、今度は彼方が大変でしょ? それで何かあったらどうなると思う?」

近江遥容疑者だの、被害者の朝香果林さんとか……。
まぁ、流石にそんなことはないけれど。

「遥ちゃんアイドル辞めるわよ絶対」

否定できない。と、ぼそっとした彼方の呟きに笑う。
 
66: (茸) 2022/11/09(水) 08:40:33.18 ID:prBUnfEX
姉離れ妹離れが互いに出来ているのか、ちょっと不安になる近江姉妹
2人とも無理が無い範囲で許容しあっているけど、
一度何かあったらすぐにでも……という感じで。

遥ちゃんのことだから「やっぱり私がそばにいないと!」とか言い出しそうだ。

「だから大丈夫……だけど、まぁ、たまにはね」

次からは可能な限りシラフで。
それともう一つ、事前に連絡くらいは入れておいた方がいいと思う。

「今度は彼方も飲みましょ」

「ん~果林ちゃんが次の日が休みなら付き合ってもいいかなぁ」

「そうね……休み、どこか出掛けられたらいいわね……」
 
67: (茸) 2022/11/09(水) 08:56:03.06 ID:prBUnfEX
いつも独り占めしている空間が、2人重なった体温のせいでとても暖かくて、眠くなる。

もう少し話せるのに。
もう少し顔を見ていられるのに。
心とは裏腹に体は意識を手放していく。

「……おやすみ、果林ちゃん」

耳元で囁かれるのんびりとした声
握られていた手も解放されると、そうっと頭を撫でられて。

子供じゃないんだけど……なんて思いながら、その優しさに微睡む。

「……おやすみ」

小さく、どうにかそう返して、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
 
68: (茸) 2022/11/09(水) 09:11:56.09 ID:prBUnfEX
聞き馴染んだアラームを止めると、隣にいたはずの彼方はもういなくて、
まるで夢を見ていたみたいに感じる。

実際には夢ではなくて現実だったって分かっていても、
彼方がいるのが決して日常ではないから、特別に思えて。

「……二度寝したら怒るかしら」

目覚まし時計を止めたのに部屋から出てこない私を、
彼方はきっと、起こしに来てくれるだろうから。

「なんて」

独り暮らしにはもう慣れているけれど、
そんなことをしてみようかと考えてしまう私の心はまだ、子供なのかもしれない。
 
72: (茸) 2022/11/09(水) 19:13:57.10 ID:x1Ljx619
来客を想定していない私の家にスリッパなんてあるわけもないからか、ペタペタという足音だとか、
何かにお湯か水かを注ぐ音だとか。

普段は静まり返ってるダイニングに木霊する生活音がして、キッチンの方から彼方が笑顔を見せる。

「おはよ~」

「おはよう……早いわね。もう少しゆっくりしてたって良いのに」

「そういう生活が染み付いちゃって」

彼方はそう言いながら「コーヒー以外もストックしようよ~」と、テーブルにマグカップを置く。

ホットコーヒーのうっすらとしたほろ苦く温かい匂いが空気に消えていくのを見送って、一口飲む。
最近は口にしてなかったせいか、ほんの甘く感じる。

「砂糖入れた?」

「入れる?」

「大丈夫」

持ち手を使わずに、袖口で覆った両手でマグカップを挟む彼方は、ふーっ、ふーっっと、数回冷ましてから口に含む。
 
73: (茸) 2022/11/09(水) 19:57:38.80 ID:x1Ljx619
私と違って砂糖を入れたかもしれない彼方の渋い顔。
思ってたより苦いのか、舌の肥えた彼方には合わなかったか。

「良いでしょ? 目が覚めるのよ」

「改善しよっか~」

苦いって言いたげにべーっと舌を出す彼方に笑わされて、近いうちにって未来の自分に解決を放り投げる。

「これを片手にベランダに行くのが優雅なのよ」

「そのボサッとヘアーで?」

「整えてるに決まってるでしょ」

だと思ったって笑顔の彼方から目を反らし、
間を持たせようとほんのり甘く感じるコーヒーを口に含む。
温かくてほろ苦く、でも、ちょっぴり甘いブラックコーヒーが喉を通っていく。
 
74: (茸) 2022/11/09(水) 20:09:26.20 ID:x1Ljx619
「朝御飯食べていくよね?」

「そうねぇ……彼方が作るなら」

そう言ってから、全部任せっきりなのもと考え直して。

「もちろん私も手伝うから……良いでしょ?」

「ん~……でも、昨日の内に作ってあるんだよねぇ」

申し訳なさげに返されて、慣れないことは言うものじゃないと実感する。

普段のように少しぶっきらぼうに、頂くわ。とでも言っておけば、
温めるからまっててって言われるだけで済んだだろうに。

「……レンジで温めるのも料理って言って良いんじゃない?」

「ん~……うーん……カップ麺も料理に入る?」

なるほど。
そう答えると、彼方は可愛らしく笑って、ついついそれに引っ張られて笑ってしまう。

たいしたことの無い、後から思えばつまらない話。
けれど、なぜだかとても、面白く感じた。
 
76: (茸) 2022/11/09(水) 23:26:48.35 ID:x1Ljx619
彼方が昨日のうちに作り置きしてくれていたおかずを温めるのとお弁当に詰めるのとで手分けする。
お弁当箱は一つだけで、彼方は賄いがあるから必要ないらしい。

「なんだか悪いわね……作って貰ってばっかりで」

「良いよ良いよ~私がしたくてしてることだし」

テーブルを挟んで目の前の椅子に座って一緒に朝食をとっている彼方は、
迷惑だなんてとんでもないと言った様子の笑みを浮かべている。
彼方にとって料理するのは趣味にも似た大好きなことの一つであり、そして、彼方自身が選んだ自分の仕事でもある。

いつかは自分のお店を持とうかな。なんて夢見ていて、
その為の実力と、それを支える資格を彼方は持っているから……あとは、挑戦するだけ。
そんな彼方だから、私のためのお弁当なんて特別な何かがなくたって作ってくれる。

――なんて。

「……ねぇ、彼方って結婚願望はないの?」

「どうかなぁ……」

急な質問になっちゃったからか、戸惑う彼方。
手に持っていた追加で作ったお味噌汁のお椀をゆっくりと降ろすと、眉間にしわを寄せていく。
 
77: (茸) 2022/11/09(水) 23:55:31.39 ID:x1Ljx619
「果林ちゃんこそ無いの? モテるでしょ~」

「あるわけないから聞いてるのよ。それに私、あんまりモテないわよ」

「え~っ!?」

「遥ちゃん曰く、近寄りがたいって思われてるみたいなの。共演者の若い子も、結構委縮してるし」

彼方は得心がいったみたいな表情を浮かべると「果林ちゃん美人さんだから」なんてお世辞を言いながら可愛らしく笑う。
美人だから羨望を抱くし、だから、自分との違いに距離を縮めるのが難しくて、近寄れない。
そんなところなんじゃないかなって言う彼方は、どうなのか。

「仮に私が美人だったとして……それに平然と付き合う彼方は何なのかしら? 同じく美人?」

「えへへ~そうかなぁ~」

ぽわぽわと、なんだか良く分からない音でも聞こえてきそうな彼方の笑顔。
それはどう見たって美人のそれではなくて。

「美人というより、やっぱりあれよね……可愛げの方が強いわよ。貴女」

大人になっても変わらない身長と、
増した柔らかい雰囲気と、いっつも笑っているところとか、のんびりとした声音とか。
そのくせ、快活なところもあって、テンションが上がったときの感じとか。
大人しくしているときは美人だって言えるのに、基本的には可愛らしいと、私は思う。

「かわいい、かな~」

照れくさそうに頬を染めて、もはや標準装備の上目遣い。
その狡い愛らしさに、ついつい、手が伸びて頭を撫でてしまう。

「ええ、かわいいかわいい」

きっと彼方の方がモテるとは、言ってあげられなかった。
 
81: (茸) 2022/11/10(木) 07:51:09.61 ID:jV3ZCPv5
朝食を終えて、手早く念入りに準備を済ませて彼方と一緒に家を出る。
昨日と違って彼方が隣を歩いているせいで、足が遅くなっていく。

「今日は流石に自分の家に戻るのよね?」

「そうだけど……果林ちゃんは私がいない方がいい?」

思わず「は?」なんて取り繕えない声が溢れてしまう。
窺うようにこっちを見上げてきていた彼方は曖昧に笑って、ふいっと顔を背ける。

なんでそんなこと――。

「……ちょっとね? ほんのちょっとだけど、考えてることがあって」

「別に怒ったりしないから勿体ぶらなくて大丈夫よ」

小さく頷いた彼方はそれでもすぐには切り出さなくて、
少し間をおいてから「あのね」と、呟く。
 
82: (茸) 2022/11/10(木) 08:14:36.30 ID:jV3ZCPv5
「……私、独り暮らしって苦手なんだ」

家事炊事が苦手だからとか、嫌いだからってわけではなく、
今まで誰かのためにとやってきたことが、
ただただ自分のためだけでしかなくなっていく。

彼方曰く、その寂寥感が好きになれないらしい。

「だから、結婚願望があるかないかで言えばあるんだよね。誰かと一緒にいたいし、一緒にいてくれる人が欲しいから」

「……だからなんなの? 結婚相談所にでも行くって? マッチングアプリでも使おうと思ってるって? 誰かいい人でも紹介して欲しいって?」

変に語気が強まる。
この場限りの嘘だって構わないから、違うって言って欲しいって感情が言外に滲み出てしまう。

「そんなこと――」

「え~違うよ~。そこまで切迫してるわけじゃないし」

余裕の無い私とは正反対に、彼方はにこにこと笑う。

「果林ちゃんさ、身の回りに手が回ってないみたいだし、色々と大変みたいだし……お家賃等々の折半で家政婦さんとか要らないかなーって」

私が昨日、家政婦の話をしたからだろうか。
彼方は自分はどうですか? なんて本当に売り込みにきているらしい。
流石に生涯収入の半分ではなく、ありがちな同居の折半を条件で。
 
83: (茸) 2022/11/10(木) 08:54:43.55 ID:jV3ZCPv5
「家政婦は流石に冗談よ。普通にルームシェアで良いわ」

「ルームシェア……なんだか大人な響き……」

「せいぜいが大学生でしょ」

ルームシェアが大人の言葉っていうのはちょっと残念な大人な感じがしてしまう。
もちろん、子供から見てルームシェアが大人っぽいって言うなら可愛らしいけれど。

「でも彼方が大変じゃない? 私が引っ越すにせよ彼方がするにせよ、殆んど任せっきりになっちゃうし、家事だって……」

「それなんだけど、私が果林ちゃんのとこに引っ越そうかなって。セキュリティ捨てられないでしょ?」

「それはそうだけど」

売れ行き好調な女優でありモデルでもある私が、セキュリティの面を疎かにするわけには行かないし、
彼方のためにも手を抜きたくない。
事務所からだって、そこは注意喚起があるし。

「ひとまず、マネージャーに掛け合ってみるわ。急なルームシェアって下手な勘繰りされるかもしれないし」

「あぁ……そうだねぇ」

この話はまた今度。そう言って彼方と別れる。
出来る限り通したい……なんて、柄にもなく高揚する。
彼方にとっては、今まで遥ちゃんで埋めていた部分を変わりに埋めて欲しいってだけかもしれないけれど。

代替品でしかなくたって、そこにいてくれるのなら、それでいい。

そんな妥協くらい、許して欲しい。
 
91: (茸) 2022/11/10(木) 22:10:42.56 ID:jV3ZCPv5
「良いと思うよ? 異性だと週刊誌にすっぱ抜かれたりするから遠慮して欲しいけど、同性の友達ならそういう心配もいらないし」

運転中のマネージャーはバックミラー越しに私を見ながら大したことでもないかのように笑って。

私のことを心配してくれている同性の友人。
だから心配いらないし、むしろ、体調管理をしてくれるっていうなら推奨したいくらいだってマネージャーは言う。

同性だから心配いらないなんて概念は気に食わない。
けれど実際、その関係がただの友人ではなかったとしても、
揶揄しにくいデリケートな話になるから確証がなければあんまり突っ込めないとかなんとか。

住所は変わらず、私の今住んでいるところに友人――彼方が引っ越してくる手筈になっていることを伝えて、
スケジュールが空いている日程をマネージャーに確認して貰う。

「出来れば丸二日欲しいのだけど……」

「二日はちょっと……そもそも丸一日開いてる日だって貴重で――」

「それは分かってるんだけどどうにか開けて貰えないかしら。今すぐじゃなくても良いから、引越しだし早くても2週間後とか一ヶ月後とか、そのくらい先の話だから」

私の家に来て貰うわけだし、せっかくだから、こう……歓迎会とは言わないけれど、ちょっとだけ賑やかし的なこともしたいと思って。
マネージャーは少し考えると、出来る限り開けられるようにしてみると答えてくれた。
 
92: (茸) 2022/11/10(木) 22:38:29.21 ID:jV3ZCPv5
ゲスト出演ではあるものの、絶賛放送中のドラマへの出演は緊張する。

会社を経営する男性の妻という役で、不倫されていることに気づいて――という内容なのだとか。

私が不倫されるなんて……って思う反面、
私と交際あるいは結婚していたって、すぐそばに可愛らしい女の子がいたら目移りしてしまうものなのかもしれないと、少し思う。

曰く、「男っていうのはですね。美人より可愛いが好きなんですよ。結局」だったか。

かすみちゃんか、しずくちゃんか、
それとも別の誰かだったか……元同好会の誰かがそんなことを言っていた覚えがある。

だからそう、私と彼方、どっちを選ぶかって話になったらきっと、私より彼方が選ばれるに違いない。
そんなことを考えながら台本を読み耽っていると、影が近づいてきた。

「あ、あのっ……朝香さんっ!」

「……何?」

「うっ……」

新人刑事というメインキャラを担っている、私より数年若いアイドルが本職の女の子。
睨んでもないのにびくりと身体を震わせるアイドルを見つめて、
ため息をつかないように気を付けながら、視線を和らげる。
 
93: (茸) 2022/11/10(木) 23:30:49.41 ID:jV3ZCPv5
「どうかしたの? もう出番?」

「い、いえっ……その、出来たら……さ、サイン頂きたくてっ」

「あら……面白いこと言うのね」

アイドルの女の子がただのモデル、ただの女優な私にサインを求めてくるなんて。
普通、こういうのはアイドルこそが求められるもののはずなのに。

「――貴女のサインは、貰えないのかしら?」

女優として磨いた妖艶さのある笑みを浮かべてみながら、そう、煽ってみる。
アイドルの女の子は顔を赤くして「私なんか……」って呟く。

「……」

アイドルとしてスポットライトを当てて貰う為にひたすらに頑張ってきた遥ちゃんを見てきているから。
だからたとえ多人数グループの中の1人であったとしても、最前線に立っている自分を認められないその言葉は――嫌いだった。

「アイドルなら、下ではなく前を見ているべきよ。でないと貴女を肯定してくれている人ですら見えなくなっちゃうし、なにより、貴女の笑顔が見られない」

そう言いながら、差し出されていた雑誌にもうほとんど書いていなかったスクールアイドル時代のサインを書いてあげる。
 
94: (茸) 2022/11/10(木) 23:42:34.13 ID:jV3ZCPv5
「貴女のサインも貰えるかしら?」

「は、はいっ……あっ、えっと……じゃぁ、こ、これを……」

サンプルで貰ったものを持っていたのか、
あるいは、自分がいるからと喜んで買ったのか。
持っていたグループのシングルCDにサインをした女の子は、それを手渡して。

「私、スクールアイドルだった朝香さんも、読モだった朝香さんも知ってて……ファンで」

だから、今日はご一緒出来て光栄ですって、嬉しそうに言うと離れていく。

「下ではなく前、ねぇ……」

嘲笑するように呟く。
語ったあの言葉は、自分にも言い聞かせたかった言葉だった。
高校生の時からずっと、私の本心は地面に吐き出すばかりで、一度も向けられていない。

好きな男性のタイプは? とか、同性だから大丈夫とか。

そんな言葉を聞くたびに、
踏み切らなかった過去の自分を容認している自分がいるのも、気に入らない。

「……前を向いてもいないくせに」

いつも人前でだけでは取り繕えてしまう。
本当に必要な時に、その堂々とした態度ではいられないのに。
でもだからこそ、ルームシェアというお膳立てをみすみす逃したくはないって思う。

「ルームシェア……ルームシェアって……」

同棲って言えないのも情けないなと……台本を見下ろした。
 
99: (茸) 2022/11/11(金) 07:45:47.29 ID:dLr3i6se
歳を重ねるに連れて、取り繕うのが余計に上手くなって言った私の演技は、そこそこ悪くない感触だった。

テストは一回だけで、すぐに本番をやっても運良く一発OKが貰えて……。

「夫が不倫してると知ったときの表情! あれが特に素晴らしかった!」

監督の大絶賛に、乾いた笑いが漏れてしまう。
正直、夫役の俳優にはこれっぽっちも好意はないけれど、
不倫という行為を知った際の嫌悪感を滲ませてみただけで、演技ではなく本心だった。

「ありがとうございます……緊張していたんですけど、上手くいってなによりです」

「ホテルのレシートを握り潰すところは真に迫っていて……妻の怖さが見えた気がしたよ……」

「すみません。その、つい……」

ホテルのレシートを見つけ、動揺するだけのシーンだったのに、
沸々と沸き上がる感情に呑まれて、レシートを握り潰しちゃって。
ハッとして慌てそうになる瞬間までが使われることになった。
 
100: (茸) 2022/11/11(金) 08:29:16.22 ID:dLr3i6se
そうやって順調に撮影が進んでも、かなりの長丁場。
予定では19時頃までの予定とされているけれど、他のところでテイクが重なったり、機材準備が滞ったりする場面もあって、ぐいぐいと押されていく。

お昼は14時からとちょっぴり遅く、現場でそのまま食事を取ることになった。

「……流石に今日は既読もつかないわよね」

昨日のように彼方に連絡を入れて見たものの、既読がつく様子はない。

彼方が勤めているのは飲食店だから、お昼のピーク真っ最中か、あともう少しで終わりってタイミングだと思う。
ピークが終わったって後片付けがあるから、休憩に入れるのはきっと、まだ先のはず。

ほんの少しの残念な気分を放るようにスマホを脇に置くと、他の俳優陣が近づいてきているのが見えた。
 
101: (茸) 2022/11/11(金) 08:46:11.54 ID:dLr3i6se
「朝香さん、せっかくだからご一緒にどうかな?」

「……ええ」

もちろん、断ってはならないなんてルールはないけれど、
近寄りがたい雰囲気ってだけならともかく、協調性がないと思われるのは今後のオファーにも関わって来たりしてしまうから。
正当な理由なしには遠慮します。なんていえないのがこの業界だ。

声をかけて来た若い男性は俳優を専業としているわけではなく、
人気のアイドルグループの一人で、俳優としても大ブレーク中だとか。

「朝香さんは差し入れ食べないの? 手作り?」

「いつもは違うけれど……今回は特別です」

「……今回は作ってあげたい人が一緒にいたとか?」

探りを入れているかのような質問に、他にもいた演者達が口を閉ざして、微かに緊張感が漂う。
ただの世間話かもしれないし、アイドルではない私には大して影響がない可能性だってあるけれど……デリケートな話題だから。
 
102: (茸) 2022/11/11(金) 08:58:43.48 ID:dLr3i6se
「いえ、高校からの友人が遊びに来ていたんです。このレストランに勤めてる女友達で……」

彼方が勤めているレストランのサイトをブックマークから開いて、周りに見せる。

「あー知ってる知ってる! ここ、元々情報ブログでも評価高いけど、アイドルの近江遥ちゃんも絶賛してて……」

遥ちゃんが「行きつけのお店」と公表したこともあって、
ただでさえ人気だったものがさらに過熱し、今では知らない人はいないお店にまでなっているとか。

「ここで働いてるって、シェフとして?」

「ええ。だから料理が好きで。遊びにくる=料理を振る舞いにくるみたいな感覚だから、お弁当まで用意してくれちゃって」

人気のあるレストランだからか、話題は一気にそっちに傾いて、
そこで働いてる人が友人であることや、
そんな人に料理をタダで振る舞って貰えるのが羨ましいって賑やかになっていく。
 
103: (茸) 2022/11/11(金) 09:44:11.80 ID:dLr3i6se
一般人だから名前は出てこない。

けれど、彼方のことが絶賛されているようで、嬉しくなる。
彼方は凄い子だ。
もっと誉められて良いし、もっと表に出てきたって良い。

なんなら料理番組とかに引っ張り出して、一緒に仕事だってしてみたいと思う。
彼方にはその力があるし、愛嬌がある。

――なんて、身内贔屓にも程があるかしら。

「なら、みんなで打ち上げとかどう? 朝香さんもさ。ここなら来られたりしない?」

「……スケジュールが合えばになっちゃうけれど、参加でそうならさせて貰うわ」

女優としての繋がりを持つ意味でもやっておいて損はないだろうし、
こういうところから近寄りがたい雰囲気を払拭していければと思って。
 
104: (茸) 2022/11/11(金) 09:44:29.47 ID:dLr3i6se
続きはまたのちほど
 
110: (茸) 2022/11/12(土) 20:41:05.29 ID:EkWNEz/1
「ただいま……って、そうよね」

玄関のカギを自分で開けたのに、なんとなく口にした自分に笑ってしまう。

ドラマの撮影と、打ち合わせ。
ドラマ自体が意外と長丁場になっちゃって、遅くなった帰り。
今日はもう、本当に彼方はいなくて、2日ぶりの独りぼっちな我が家。

いるわけがない。
玄関には、靴棚に納まりきらなかったヒールの高いパンプスがあるだけなのだから。

「……」

せっかく彼方が綺麗にしてくれたから。
なんて……人に聞かれたら、女らしくないとでも笑われるだろうか。

「彼方、怒りそうだし」

あんなに綺麗にしていったのにっ! なんて、
彼方は頬を膨らませたりして、自分で片づけてよ? と、言ってくると思う。
ううん、もしかしたら呆れた感じになるだけなのが彼方かもしれない。
呆れて、呆れて、呆れて……それで。

もし本当に2人で暮らすようになるのだとしたら、そうならないように気を付けないといけない。
そう思って、いつものように弾き脱ごうとしたショートブーツを丁寧に並べて横に置く。

まずは一歩。靴だけに。

「……なんて、愛みたい」

呟いた言葉を後に続かせるように高鳴る胸を押さえて、小さく笑った。
 
111: (茸) 2022/11/12(土) 21:24:30.13 ID:EkWNEz/1
彼方が作り残していってくれた夕食用のおかずを電子レンジで温める。
冷蔵庫に入ってるのは今日の内に。
食べられなかったら捨てちゃっていいからね。そう言っていたのに、
私が全然、食べきれる程度しか残しておかなかったのは彼方の思いやり。

「ん~……」

お昼に送った私のメッセージに対しての彼方の返信
それに対しての、私の返信。
数回のやり取りのあと、彼方からの連絡で止まっている。

――かすみちゃんが新しいのあげてるよ~。

様々な人が色んな情報を共有したり、あるいは、ただ単に写真や動画を共有したりするSNS
そこにアカウントを持っているかすみちゃんは数百万のフォロワーを持つ上位のインフルエンサーで、
同じくアカウントを開設しているしずくちゃんよりも多い。

それはたぶん、かすみちゃんがSNSに手練れているからだと思う。
 
112: (茸) 2022/11/12(土) 22:17:59.31 ID:EkWNEz/1
夕飯を食べながらかすみちゃんの新しい投稿を見てみる。
子供服の新しいデザイン画のラフと共に悩ましいって、呟き一つ。

期待していますとか、頑張ってくださいとか。
少しでも力になってあげたいと思っているような返信が並び、
瞬く間にリツイートやいいねが増えていく。

「……さすがね」

かすみちゃんは「可愛いの英才教育が必要だと思いません?」なんて相談してきたかと思えば、
服飾系の大学に通ったのち、子供服のデザイナーとして仕事に就いた。

歳を重ねるに連れて可愛いを選び続けるのは勇気がいるようになっていく。
けれどそれが " 流行 " なら触れられる。と、
かすみちゃんはそのスタンスで貫き、SNSを駆使して宣伝し、そうして、有名になっていった。

だからこそ手慣れてる。
 
114: (茸) 2022/11/12(土) 22:37:29.86 ID:EkWNEz/1
私もSNSやってみようかと思ったけれど、向いていないと思ったから、
やっているのはただ、写真や動画を投稿する程度のもので、
人と人とのつながりはそこまで深くない、電子日記のようなSNS。

「こういうところは、見習いたいものだわ」

かすみちゃんの、強かなところ。
努力家で、ずっとずっと先を見て、
無謀だって思えるような到達点にまっすぐ向かって行けるところ。

今も変わらず、自分の可愛いを追求し続けているところ。

かすみちゃんではなく、彼方に対して、
かすみちゃんの投稿を見たって連絡を返して、返事を待たずに次を打ち込む。

――引越し、許可貰えたから大丈夫

少しして既読がついて、喜んでいるスタンプが返ってくる。
 
115: (茸) 2022/11/12(土) 22:53:41.72 ID:EkWNEz/1
「楽しみにしてる」

その細やかな私の気持ちを彩る赤色のスタンプを押そうとして、
ほんの少しだけ、勇気を出して文字を打ち込んでいく。

――早く来て欲しいわ。

無機質にも感じられる文字列だけの気持ちを送ると、
彼方はすぐに反応して「もう寂しいの?」なんて、からかうような絵文字と一緒に流れてくる。

「そうだって言ったら、貴女は飛んできてくれるの?」

からかったんだから。
責任取って一目散に駆けつけてきてくれるの? と、
彼方が困ると分かっていることを思い、期待して、それでも飲み込む。

「……家事分担したいから」

なんて、心にもない言葉を返してスマホをテーブルの上に放り、ふて寝する。

彼方と私は友達。
高校生の時からずっと、友達。

虹ヶ咲学園の広い敷地の中、
道に迷った1年生だった私の前で、3年生のような貫録を彷彿とさせながらベンチで寝ていた同級生。

朝香さんと近江さん。

そう呼び合ったあの頃からずっと、私達は友達のまま。
 
116: (茸) 2022/11/12(土) 23:21:56.35 ID:EkWNEz/1
「困るよーほんとさーカリンが来る時は貸し切りにしてくれないと」

彼方と引越しの話をしてから、早2週間。
少しずつ話を進め、決まった時期はさらに半月後。
そんな中、仕事終わりにこっそりと立ち寄ったもんじゃ宮下で、愛と向かい合っていた。

「ほんと、かすみもしずくもそうだけど。自分が有名人だって自覚をもうちょっとさ~」

「自覚はしてるわよ。ただ、私も変わらないお客さんとして来たかっただけ」

そう言いながら御猪口に口をつけて、一口含む。
お米由来のほんのりとした甘みと、発酵した微かな辛味が舌の上を流れていく。

鼻を通って広がる日本酒の爽やかなアルコールの香りが心地良い。

「まぁいいけどね……聞いたよ? カナちゃんと暮らすんだって」

「耳が早いじゃない」

「あたし、良くカナちゃんち遊び行くからね。今度引っ越すんだーって喜々として話してくれたよ」
 
117: (茸) 2022/11/12(土) 23:36:53.84 ID:EkWNEz/1
「あたしさー、記憶違いかな? 大学ではカナちゃんとルームシェアして暮らすって聞いてた覚えが――」

「私はそんなこと言った記憶ないわね……お酒でも飲んでたんじゃない?」

「その時は高校生なのに飲んでるわけないじゃん! もうさー……」

呆れたように言いながら、
出来あったもんじゃを一口食べて、ほんのり熱そうにしつつ、美味しそうに食べる愛。
そうして熱を冷やすように、お酒を一口。
そんな愛から目線を下げて、自分用にもんじゃを小さく取って口に運ぶ。

本当は、大学の頃から彼方と一緒に暮らそうかと思っていた。
虹ヶ咲学園では寮に入っていたけど、大学生になったら一人暮らししようと決めていたから。
だから、彼方も一緒にどうかって、誘おうと思って。

でも結局、彼方のことは誘えないまま大学を卒業して……いまさら。

「どうせ、カナちゃんから言い出した流れでしょ?」

「さぁ?」

「ヘタレ」

「なっ……っ……違うわよ……互いの幸せを考えたうえで今まで誘わなかったし、今回はそうすることにしたってだけで、これはいわゆる合理的な――」

右から左へと聞き流しているかのような愛の視線を受けて、小さく咳払い。
とにかく私はヘタレじゃない。と、思う。
 
122: (茸) 2022/11/13(日) 10:31:02.12 ID:wq+JivhK
暫く会話が途絶えて、もんじゃが焼けていく音が弾ける。
香ばしい匂いが辺りに広がり、ハガシを使って一口分を取って口に運ぶ。

イカのコリコリとした食感と、こっそり隠れた桜エビのちょっぴりカリッとした香ばしさと。
紅しょうがの甘くてしょっぱい風味が染みる。

「美味しいでしょ。若店主が手ずから作るもんじゃ焼き」

「……愛は、友達のままが一番だって思わない?」

「ん? あー……それが妥協じゃないならいいんじゃない?」

自分の臆病さを誤魔化す言い訳にしかならない言葉を、
愛はバッサリと切り捨てて、窺うように私へと目を向けてくる。

「でも、尻込みする気持ちは分かるよ」

愛はそう言いながら、微笑む。

「愛は結婚しないの?」

「あと何年かしたらするかもね。今はほら、ここの店主になったばかりの若輩者だから、誰かを好きになるなんて余裕もなくて」

同好会のみんなだっていつまでも独り身でいるわけじゃない。

恋人がいる人もいれば、もうすでに結婚している人だっていて、
自分の夢を全力で追っかけているから、今までもこれからもそんな気はないって人もいる。

彼方も今は、夢を追いかけてる真っ最中で……きっと、そんな気はないと思う。
 
123: (茸) 2022/11/13(日) 10:51:35.91 ID:wq+JivhK
「言っとくけど、カナちゃん滅茶苦茶モテるよ」

「……知ってる」

「ふぅん?」

「知ってるってば……彼方がどうしようって返事に困ってるところ、私何回も見てるから」

大学生時代、同じ大学の人から声をかけられることが何度もあったのを知ってる。

アルバイト先の男の子から声をかけられたことも知ってる。
今仕事しているレストランでだって、声がかかったことがあるのも知ってる。

私と違って、フェミニンなファッションが似合うし、
男性が求めるだろう女の子らしい雰囲気を満たしている彼方は、
雰囲気だけでなく、その温和な性格も相極まって、気を惹きやすい。

「……彼方の意思を尊重したのよ。もし、付き合ってみようと思ってるとか彼方が言うならそれでもいいかもって」

でも結局、彼方は全て断ってきた。
 
124: (茸) 2022/11/13(日) 11:28:49.76 ID:wq+JivhK
私にはやりたいことがあるから、集中したいって理由で全部。
そしてその夢は、いつかは自分のお店を持って、料理人として生きていくことだって、私は知ってる。

「あのさぁ……」

「なによその顔……取り繕ってるわけじゃないわよ。本当に彼方がそうするなら良いって思ってたんだから」

本気でそう思ってるのかとでも言いたげな愛の呆れた視線にちょっとだけたじろぎながら否定する。

「はぁ」

愛はじとっとした目で私を見つめると、
ため息をついた口にお猪口をつけてぐいっっとひと息に飲み込む。

「いっそのことあたしがカナちゃん娶っちゃおっかなー。カナちゃんって調理系の資格持ってるし、あたしの仕事認めてくれるし、一緒に仕事できるし、新メニューだって開発できて新規開拓できるしでマンネリ回避もできるし、あたしが男だったら何が何でも口説き落としたい人材なんだよね」

愛は酔っぱらっているかのように長々と語る。
けれど、その表情も視線もしっかりと定まっていて、ただの酔っ払いではないのは目に見えて明らかだった。
 
125: (茸) 2022/11/13(日) 12:09:44.85 ID:wq+JivhK
「そうねぇ……」

彼方の夢がそれで叶うなら……そう思ってしまうのは、私が臆病だからなのだろうか。
愛はそんな私の気を引くように、鉄板をこんこんっっと叩いて音を鳴らす。

「焦がれるのは良いけどさ、焦げたら苦いよ?」

美味しいおこげもあるけれど、それも過ぎたら食べられないほどになってしまう。
もんじゃだって、お好み焼きだって、お米だって、恋だって。

「そうだ。引っ越し祝いに日本酒持って行ってあげるよ」

「……私、どちらかと言えばワイン派なのよね」

「っんの! あたしの特注の大吟醸飲みまくっといて~!」

もう飲むな! と、瓶をかっさらっていく愛の勢いに笑いがこみあげる。

「日本酒も好きよ。特に、優秀な店主さんが選んだ美味しい日本酒はね」

「ったくも~……酔い潰してやる!」

愛と私は友達。
かつては同じユニットを組み、スクールアイドルとして競い合った仲間。
その縁は今も繋がったままで変わらず、冗談を言い合える気の置けない友人。

その心地よさに甘んじて、ほんの少しだけ悩みを忘れることにした。
 
126: (茸) 2022/11/13(日) 12:23:45.12 ID:wq+JivhK
ふと、目を開けると灯りのない暗い天井が見える。

ややぼんやりとした視界、それとは真逆に鮮明な頭痛に吐き気
これはちょっと、少し、やらかしたかしら。と、数回瞬きをして、深呼吸。

水でも飲みに行こうかと体を起こしたところで「すぅ……」と、
自分以外の呼吸があることに気づいて、隣に目を向ける。

「彼方……?」

私のすぐ隣で横になって寝息を立てる彼方。
見慣れた目覚まし時計はまだ深夜帯を差していて、熟睡しているのが分かる。

「なんで……」

愛の家に泊まりこんでいるのかと思ったけれど、どう見たって彼方の家。
ズキズキと痛む額に手を宛がって、記憶の時間旅行に出かけてみる。

「確か、愛とお酒を飲んで……」

愛が次から次へと出してくるお酒の数々に付き合ってあげて、
それで……酔って。
愛の家に泊まる手はずを整えて貰ったはずなのに、そう、なぜか……。

――違う。酔ってたから愛が彼方に電話したのよ。

私は余計なことしなくていいと言ったのに、
どうせならカナちゃんも混ぜちゃえ! とか言い出して電話して、
呼び出されたあげく、泥酔女2人の介抱を任された彼方。
愛は自宅だから家で寝かせて、私は。

「はぁ……」

彼方から離れようとしなかったから、彼方の家に連れ帰って来られたんだった。
 
133: (茸) 2022/11/13(日) 22:04:58.54 ID:wq+JivhK
冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して、コップに注ぐ。
ひんやりとした冷たい刺激が喉を流れていき、
薄ぼんやりとしていた意識を鮮明にさせて、酔いを少し和らげてくれる。

「はぁ……」

彼方にかなり迷惑をかけたと思う。
呼ばれてきてくれたのに、解放して貰うだけだったし、
私は私で、彼方の家に行きたいなんて駄々をこねて、熟睡。
あれは本当に……酷かった。

幻滅されてないだろうか。
2人で暮らすのはやっぱり無理だって言われないだろうか。
そんな不安で胸が痛くなる。

「禁酒……禁酒しないと不味いわ」

これ以上は本当に、ダメだと思って決意する。
 
134: (茸) 2022/11/13(日) 22:31:54.77 ID:wq+JivhK
洗面所に行って、彼方のとは別に用意されている紫色の歯ブラシを手に取る。
泊まりに来るならあった方が良いからって、彼方の家には私が使うためのものがいくつかある。

歯ブラシ、枕、パジャマ、肌着一式数セットと私服。
色々と彼方の家には置いてあるから、突発的なお泊りでも、何とかなる。

……けど。

丁寧に歯を磨きながら、やっぱり申し訳ないって罪悪感が募る。
明日の朝になったら彼方に謝りたい。
でも正直、この酔っ払いの記憶は覚えてないことにしたい。

あと半月ほどで彼方と一緒に暮らすことになっているのに、
こんなことじゃ、先行き不安でしかないと思う。

口をゆすいで、うがいして、すっきりさせてから寝室に戻ると、
私が色々していたことは気づかなかったようで、彼方の穏やかな寝息が聞こえる。

彼方は高校生の頃、近江家全員で暮らしていて、
そのうえ、遥ちゃんと同じ部屋を使っていたというのもあって二段ベッドの下段を使っていた。

今は1人で1段のベッドを使っていて、
広めのベッドだってことに甘えて、私も遥ちゃんも彼方と並んで寝ることが多く、今日だってそう。
 
135: (茸) 2022/11/13(日) 22:47:04.96 ID:wq+JivhK
彼方の隣にある1.5人分くらいのスペースに自分の身体を割り込ませて、
仰向けではなく、あえて彼方の方を向いて横になる。

「……彼方」

小さく呟いて、彼方の反応を待ってみたけれど、
眉一つ動くことなく、寝息のリズムも変わらない。
ちゃんと眠っているんだって安心して……笑みが溢れる。

彼方は私のことを好きだと思う。
好きじゃない人にここまで気を許してくれないだろうし、突発的なお泊りを何度も許してくれないだろうから。

でも多分、それは友達としての好きでしかなくて、私と愛が互いに抱いている友愛的なものだと思う。

「私……」

私は。

寝ている相手に対して、自分の気持ちを囁くなんてテンプレな展開。
聞こえてないと分かっているからこそ踏み込むことが出来る。
その甘酸っぱいシーンは、けれど、私には難しくて、言葉を飲み込む。

「私、感謝しているのよ……本当」

彼方の目元にかかる前髪を優しく払ってあげながら、代替の感謝を口にする。
あの日、彼方が私の前に現れてくれたこと。
こんな私の友人になってくれたこと。
高校を卒業してからも、変わらずにいてくれたこと。
大きく、しっかりとした夢を持って、頑張ってくれていること。
そんな大変な時期でも、私を気遣ってくれていること。

全部、感謝してるって心から囁いた。
 
136: (茸) 2022/11/13(日) 23:07:39.54 ID:wq+JivhK
彼方の朝は早くて、
深夜に二度寝した私がもう一度目を覚ますころにはもう起きてることが多い。

それはもちろん、今日も変わらずで、
珍しく目覚まし時計よりも先回りしたのに、なんて、
ちょっとだけ残念に思いながら彼方の温もりがほんの少しだけ残る枕を撫でて、ぎゅっと抱きしめる。

「……彼方の匂いがする」

今は私も彼方と似た匂いなはずなのに、全然違って感じる心を落ち着かせてくれる匂い。
もうひと眠りしたくなってくるようなそれをどうにか手放して、ベッドから起き上がる。

「……おはよう。彼方」

「おはよ~」

ダイニングに行くと、彼方はこれから朝食を作るってところで、
腰の辺りの紐をキュッと結んでエプロンをつけるのが見えた。

「ちょうどいいや。果林ちゃん食べたいのある~? お弁当入れるか朝出したげるよ~」

「そうねぇ……普通の朝食が良いわ。シンプルなお味噌汁と玉子焼きとか。大根おろしがあるといいかも……お弁当は無理なければ、昨日の残り物が良い」

「残り物が良いなんて、果林ちゃんってば遠慮しちゃって~」
 
137: (茸) 2022/11/13(日) 23:26:35.85 ID:wq+JivhK
言ってくれれば全然作るのに~って笑顔な彼方に、別に遠慮してるわけじゃないって返す。

本当に遠慮するなら、そもそもお弁当は大丈夫だからって断る。
それに、私が残り物が良いって言ったのは……ただ、昨日の彼方の夕食の残りがあるなら、それを食べてみたいって思ったからで。

遠慮だなんて、とんでもない。

「昨日の夜は悪かったわ。私、彼方の家に行きたいって」

「んーん。良いよ~。酔ってる果林ちゃんってば、彼方の家に行きたいって……素直かわいかったよ~」

「からかわないでっ」

楽し気に笑う彼方から目を背ける。
自分で思い出すだけでも恥ずかしいのに、それを他人……しかも彼方から言われると、
どうしようもなく顔が赤くなってしまって。

「果林ちゃんご所望の朝食を作ってあげるから、先に顔洗って来た方が良いよ~」

「もうっ……子ども扱いして……」

鼻歌交じりに朝食作りに入る彼方を横目に、洗面所に向かう。
迷惑かけられたなんて怒っていない彼方。
むしろ、朝から他の人がいることが嬉しそうに感じられる。

一人暮らしは苦手だから。
そう言って私とのルームシェアを提案してくるくらいだし……迷惑よりも嬉しさが勝っているのかもしれない。
とは思うけれど、やっぱり迷惑かけっぱなしではいられないと、
少しくらい何か手伝おうと、早めい朝支度を済ませることにした。
 
142: (茸) 2022/11/14(月) 07:40:49.88 ID:h52KA1gh
「果林ちゃん大根おろしといて~」

「おろし金どこ?」

「全部こっちに出してあるよ~」

ダイニングに戻って、彼方の手伝いに入る。
おでんで良く見るそこそこの厚みに切られた大根とおろし金、それと受け皿の3点セット

おろし金と受け皿はセットの品物で、
手を擦らないようにと安全器具付きのようだった。
たぶん、遥ちゃんが手伝うことも考えてのものだろう。

「全部おろしていいの?」

「いいよ~」

安全器具があるならとそれを使って大根をおろしていく。
高校の寮を出てからほんの少し……いや、
多少は料理をするようになったとはいえ、
彼方に対して不馴れなことで見え透いた見栄を張る必要はない。

「~♪」

彼方の楽しげな鼻歌を聴きながら、
楽器を奏でるように大根を擦りおろして。
てきぱきと調理をする、今だけは私だけのシェフの揺れるポニーテールを眺める。

料理中の恋人を後ろから抱きしめるシーンはわりと鉄板な描写だけど、
そうなる理由もちょっとだけわかる。なんて、惹かれる姿だった。
 
143: (茸) 2022/11/14(月) 07:55:29.13 ID:h52KA1gh
「おろし終わったわよ」

「ありがと~」

こっちをチラッと見てお礼をする彼方の手元では、
熱されたフライパンの上で焼き上げられる卵焼きが心地良い音を弾かせていて、
こっそり抱きついて見ようかと思った企みが、鳴りを潜める。

「他にある?」

「ん~……あっ、ひとくち飲んでみて。いつもと違って赤だしだから」

小さなお皿に掬われたお味噌汁
いつも彼方が出してくれるものより、ちょっとだけ色が濃いような気がする。

「いただきます……」

ひとくち分のお味噌汁を頂く。

色合いと似て、普段よりは濃いような気がするお味噌汁はほんのりと甘くて、
小さな食感がある何かを噛むと、内包していた魚介類の味が染みる。
 
144: (茸) 2022/11/14(月) 08:19:48.83 ID:h52KA1gh
「果林ちゃん、昨日結構飲んでたみたいだからしじみ汁にしてみたの。どう? 美味しい?」

「ええ……とっても」

「良かった~」

本来は昨日の夜に飲んで貰うべきなんだけどって言う彼方は、
美味しいって言われたことが嬉しいのか、可愛らしい笑顔で。

彼方の手元の卵焼きがお皿に盛り付けられていくタイミングで、
そうっと、彼方の後ろから抱きしめる。

「わっ……えっ? なになに?」

「……ありがちなことしてみたくて」

「も~びっくりさせないで~」

後ろから抱きしめてみると、思った以上に小さく感じる。

枕からうっすら感じられた匂いが強く感じられて、
落ち着くはずなのに、どきどきとさせられる。
 
145: (茸) 2022/11/14(月) 08:35:53.65 ID:h52KA1gh
彼方はそのままお皿に盛り付ける手を止めず、
くすぐったいって可愛らしく笑う。

「まだ酔ってるの?」

「二日酔いかもしれないわ」

「そっか~」

あんまり飲んじゃダメだよって言ったのに。
彼方はそう言いながら笑って、けれど、私を振りほどこうとはしなくて。

でもきっと、ただの彼方の優しさってだけで、
満更でもないわけではないんだろうって、冷静になろうとする。

「果林ちゃん、これ持ってってくれる?」

「……ええ」

お願いを断るわけにはいかなくて、彼方から離れる。
変わらない、にっこりとした笑みを浮かべる彼方を直視できなくて、
2人分のお皿を持って足早に踵を返す。

腕と胸に漂う温もりが抜けていくのが名残惜しくて。

――本当にまだ、酔ってるのかもしれない。

と、熱くなった。
 
146: (茸) 2022/11/14(月) 09:29:08.70 ID:h52KA1gh
「果林ちゃんお休みは~?」

「丸一休みはないわね。明日は午後からだから午前休って言えるけど」

彼方が作ってくれたお味噌汁をひとくち頂いて喉を潤しながら答える。

「もう少しお休み増やせないの?」

「フットワークの軽さって結構大事だし、使い勝手が悪いって思われたら代替を用意されるのが、一般的業界人だから」

この人しかいないってポテンシャルがあるならともかく、
そうではないのなら、ひたすらに頑張るしかない。
少しでも多く、広く活動していかなきゃいけない。

特に、売れ始めの時は。

「でも、私をぎゅっとしちゃうくらい疲れてるよね?」

「疲れてなくても抱くわよ」

しれっと答えておきながら、目は合わせられなくて、
焼き鮭をお箸で小さくほぐし、口に運んで誤魔化した。
 
151: (茸) 2022/11/14(月) 19:13:24.31 ID:h52KA1gh
彼方の作ってくれた朝食は、
しじみのお味噌汁、大根おろしを添えた卵焼き、
焼き鮭、愛特製のお漬け物、白飯といった見事な和朝食。

流石というべきか、どれももれなく絶品な美味しさで。

「……流石よね。彼方の料理って」

他意なく称賛を口にする。
彼方が働いてるレストランはどちらかと言えば洋食を主体としているけれど、
大学時代の経験か、彼方は和食もかなり得意だった。

「お店はどうするの? 和洋中? やっぱりレストラン?」

「ん~そこは悩みどころかな~。お店を持ちたいけど、レストランのようなものにするか、下町の食堂のようなものも良いなぁ……って思ってて、あるいは、ビジネス街でのお弁当販売なんかも面白そうって思ってて……」

「そこしっかりしないと後が大変じゃない?」

「まぁね~でも、個人の飲食店って、やっぱりどうしても埋もれやすいって思うと中々ね……」

彼方は少し、悩ましげな表情を見せる。

私達は彼方の料理が一番良いって思っているけれど、
でもそれはきっと、少なからず身内贔屓が紛れ込んでいて
世に出た時に相応の評価が得られて成功できるかと言うと、そう簡単な話じゃない。
 
152: (茸) 2022/11/14(月) 21:14:55.46 ID:h52KA1gh
たとえ失敗したとしても、私がいるから。なんてありふれた支えの言葉は喜ばれない。

成功することを目標にして努力してきた人に、
失敗を前提とした言葉なんてあり得ないって私は思う。
努力を間近で見てきたからこそ、自分だけは信じていてあげるべきだと思う。

「個人的には食堂が良いって思うけど」

「どうして?」

「なんとなく、似合いそうだから」

「も~……果林ちゃん適当だなぁ……」

彼方はちょっぴりムッとするけれど、こればかりは理屈じゃないと言うか
純粋に割烹着が似合いそうって言うか、
雰囲気に合うような気がすると言うか。

「彼方の雰囲気が、食堂っぽいなって」

「そうかなぁ」

こてっと首をかしげる彼方。
私の意見なんて大して参考にならないし、趣向みたいなものだし。なんて思って。

そう思う。と、心の中で答えて代わりに微笑んだ。
 
154: (茸) 2022/11/14(月) 23:15:19.63 ID:h52KA1gh
「そうだ。ねぇ、明日の午前中はお休みなんだよね?」

「そうだけど……何? デートでもする?」

「デートはちょっと」

自然な流れで言えたのにばっさりと断られて、ほんの少し胸が痛む。

友達同士だってデートって言葉を使っても良いのに、
彼方は " したくない " って様子なのがなおさら傷付く。
けれど、極力圧し〇して笑みを浮かべる。

「まぁ、そうよね」

「そうだよ? せっかくのお休みなのに半休しかないんだから、デートなんてしてないで休まなきゃダメだよ~」

毎週しっかりと休みが取れている中で、
たまたま半休が取れたからって流れなら構わないけどって彼方は補足しつつ、
そうじゃないならって、心配そうに眉を潜める。
 
155: (茸) 2022/11/14(月) 23:27:38.98 ID:h52KA1gh
「でも……う~ん……そうだなぁ……」

うんうんと唸りながら、考えを巡らせているような彼方
流し見していたニュースが天気予報へと移ったところで、彼方が口を開く。

「おうちデートなら良いよ? 今日の夜は私の家にお泊まり。明日のお昼までゆっくりして貰って、お仕事行くの。どう?」

「彼方は明日仕事じゃないの?」

「私はお休みだから平気~」

ね? ね? と、
有無を言わせないって可愛らしさを見せてくる彼方のおねだりめいた催促に、頷く以外の選択肢は見当たらなかった。

「思う存分ぎゅってして良いから、ちゃんと休んでね?」

「ふぅん……? 夜になってやっぱりダメ。なんて許されないわよ?」

微かに色っぽく、
揚げ足を取るかのように言質を取った素振りで彼方へと目を向けてみる。

「もう……果林ちゃんってばすぐそういうオーラ出すんだから」

彼方の、慣れっこだってほんのちょっと呆れたみたいな塩対応に苦笑する。
彼方がいいよって言ってくれない限りは、
そんなことする気はなかった。
 
159: (茸) 2022/11/15(火) 07:41:40.11 ID:IF8AXm6z
ファッション雑誌の撮影、女優としてのオーディション、
今まさに時の人となっているからかインタビューがあったり、
バラエティ番組ではないけれど、ドラマ以外にも出演することもある。

多岐に渡って活動していれば、
決して狭くないこの業界でも、やっぱり、接する機会は多くなって。

「お久しぶりです。果林さん」

礼儀正しく、ペコリと頭を下げたしずくちゃん。

高校生の頃からやや垢抜けている印象を受ける子だったけれど、
もうすっかり大人になっていて、
あの頃見かけた大きなリボンはサイズダウンし、バレッタの装飾品に収まっているようだった。
 
160: (茸) 2022/11/15(火) 07:54:25.03 ID:IF8AXm6z
「本当ね……いつ以来かしら」

「去年の夏ごろにテレビ局で会ったのが最後かと……私、その後に海外行っちゃいましたから」

可愛らしく、それで綺麗な笑顔を見せるしずくちゃん。
演技力もあの頃から極まって、本心から笑っているのかと勘繰ってしまいそうになる。

演技力を極めることに邁進する一方で、
最近、演者としてではなく、脚本家として舞台に関わったという話だ。

「時々連絡をしてはいましたけど、やっぱり、こうして会える方が嬉しいですね」

「そうね。かすみちゃんなんて、エマに会うためにわざわざスイス行ったりしてるし」

「知ってます知ってます! かすみさんってば、グループメッセージにいっぱい写真送って来て、もうっ! ってなっちゃいます」

怒ったんだから。なんて様子で羨ましがるしずくちゃんは、
いつか会いに行きたいって思ってるんですけどね。と、呟く。

大人びていても、大人になっても。
しずくちゃんは変わらず私の後輩で、可愛らしいところは変わっていなくて、安心する。
 
162: (茸) 2022/11/15(火) 08:15:50.22 ID:IF8AXm6z
「それにしても、果林さんはやっぱり綺麗ですね。スタイルがもう、モデルって感じで……この間のドラマ――」

「み、観たの!?」

「当然じゃないですか」

何言ってるんですか当たり前ですよって堂々と胸を張るしずくちゃん。
周知した覚えはないのに、偶然かそれとも……。

「と言っても、私はただ後追いしただけなんですけどね。SNSでトレンドに上がってたじゃないですか。果林様」

「果林様はやめて……」

見られて恥ずかしい演技をしたつもりは毛頭ないけれど、
知り合いに見られ、そう呼ばれると恥ずかしくって顔が熱くなってしまう。

その一方で、からかうように笑うしずくちゃん。
やっぱり、子供っぽいところはまだ抜けていないみたい。
 
163: (茸) 2022/11/15(火) 09:08:51.82 ID:IF8AXm6z
「男性も女性も虜にする魅惑の女って感じで、今度は主演に抜擢されるかもしれませんよ? 銀幕デビューもするんじゃないですか?」

「出来たら嬉しいけど、あんまり期待はしてないわ」

期待して、吉報を待つだけなんて私の性には合わない。
私は私の出来得る限りを尽くして、勝ち取りたいと思ってる。

「果林さんなら大丈夫だと思いますよ」

私が演劇に興味を持ったとき、
一番に相談し、そしてアドバイスをくれたしずくちゃんのお墨付き。
身内だからだとしても、嬉しくなる。

「せっかくこっち戻ったんだし、時間があるなら夜一緒にどうかしら。久しぶりだから彼方も喜ぶと思うわ」

「良いですねっ。彼方さんさえ良ければぜひ!」

しずくちゃんは嬉しそうに笑みを浮かべる。
彼方に確認を取ってみると二つ返事で承諾が返ってきた。
 
171: (茸) 2022/11/16(水) 07:31:57.95 ID:ZHRxATZQ
「お邪魔しま~す」

「いいよいいよ~あがってあがって~」

仕事を終えて、しずくちゃんと一緒に彼方の家に帰る。

事前に連絡をしていたこともあり、大歓迎って様子の彼方に、
サプライズで連れ帰っても良かったかもしれないって、ちょっとだけ思う。

サプライズだと用意も何も出来ないから、
彼方からしたら普通に教えておいてくれた方が良いかもしれないけど。

「本物のしずくちゃんだ~久しぶり~」

「お久しぶりです彼方さん……もう、2年近いですよね」

ハイテンションな彼方に嬉しそうに答えるしずくちゃん。
しずくちゃんの方が落ち着いているからか、
なんだかしずくちゃんの方が年上に思えてきてしまう。
 
172: (茸) 2022/11/16(水) 07:45:13.45 ID:ZHRxATZQ
「テレビに映るしずくちゃんはたくさん観てたよ~すっかり芸能人さんだねぇ」

「ふふっ。それで言ったら果林様なんてもう……」

「ちょっと!」

ちらりとこっちを見たかと思えば、わざわざ掘り起こしたしずくちゃんはしたり顔で。
彼方はもちろん " トレンド1位の果林様 " を知っているから、にやりと笑う。

「果林様~サインください」

「果林様っ……どうか私を……私をお側に……!」

そんなからかい100%の要求を手で払う。

「着替えてくるから、彼方は芸能人のしずくちゃんを丁重におもてなししてあげて頂戴」

「そうだねぇ。しずくちゃんこっちこっち~」

付き合ってたら玄関から先に進めないまま日付が変わりかねない。
 
173: (茸) 2022/11/16(水) 08:50:23.70 ID:ZHRxATZQ
ダイニングに戻ると彼方としずくちゃんが並んでいて、
彼方はショックを受けているようだった。

「しずくちゃんの方が大きいのなんて今さらでしょ」

「ふぐっ……」

がくりと膝をつく彼方と、
その肩を優しく叩いて慰めるような素振りを見せるしずくちゃん。

ニジガクを卒業する頃にしずくちゃんの身長は159cm程になっていて、ほぼ変わらずにいた彼方と誤差の範囲だった。

そうして、すっかり大人になったしずくちゃんに完敗してもう数年。
さらに差が開いたらしい。
 
174: (茸) 2022/11/16(水) 09:00:01.31 ID:ZHRxATZQ
「果林ちゃんの身長から5cm欲しい……」

「彼方は良いのよそのままで」

よしよしと宥めてあげると、彼方はこっちを一瞥して。

「良いよねぇ。大きい子は」

「もう……面倒くさいんだから」

手を引いて立たせてあげてから、後ろから彼方の腰の辺りをぎゅっと抱く。

「今の彼方が一番、抱きやすいのよ」

丁度良い位置にある耳元で囁くと、彼方の体がビクッとする。
擽ったいかもしれないけれど、面倒臭い彼方がいけないんだからって、追い討ちをかけてみる。

「ね?」

「っ……う、うん……」

もう一度、ほんの少し強く抱く。
私よりも小さくて、優しい匂いがして、柔らかい、
干したばかりでふかふかな布団のような抱き心地を堪能してから離れる。

「ご飯にしましょ」

「そ、そうだねぇ」

スリッパをパタパタと鳴らしながら足早に歩く彼方を見送って、一息。
視線を感じて目を向けると、しずくちゃんがいて。

「彼方って時々、ああなのよ。面倒でしょ?」

「……はあ」

しずくちゃんは少し複雑な表情で「そうですね」と呟いた。
 
191: (茸) 2022/11/17(木) 07:31:02.93 ID:ioD2qsbi
「いただきます」

手を合わせてしっかりと。
感嘆を抑えているかのような声で口にして、しずくちゃんは煮物をお箸で摘まんで一口食べる。

里芋にあっさりとした塩気の利いた肉そぼろの絡んだ餡をかけ、
刻んだゆずがほんのりとアクセントになっている優しい煮物。

しずくちゃんは上品な所作ながら、
美味しいって気持ちを隠せていない笑みを浮かべる。

「ん~っ! やっぱり彼方さんのご飯は良いですねっ……母の味って感じがして……」

「そう言って貰えると作った甲斐があるってものだよ~。いっぱい有るからたくさん食べて良いからね~」

母の味って褒め言葉なのかって私には判断しかねるけれど、
でも、彼方が喜んでいるならそうなのかもしれない。

「ん……美味しい」

ひとくち頂いて、小さく呟く。
彼方の料理はやっぱり美味しいし、なんとなくだけれど下町食堂的なものが合う気がする。

最近は帰れていない、島でよく通った個人経営の小さな割烹食堂のような感じがするから。
 
192: (茸) 2022/11/17(木) 07:44:21.81 ID:ioD2qsbi
「しずくちゃんは実家には帰ってないの?」

「帰りたいとは思うんですけど、行き帰りが中々難しくて……」

そう言ったしずくちゃんは少し寂しげな笑みを浮かべる。
定期的に連絡は取り合っているとしても、
やっぱり顔を合わせたいって言っていたしずくちゃん。
私達だってそうだし、大切な両親ならなおさらだと思う。

「それにオフィーリアにも……」

大切にして、溺愛していたオフィーリアって名前のゴールデンレトリバー
流石にしずくちゃんが預かるわけにもいかなかっただろうし、それに……。

しずくちゃんははっとして、誤魔化すように笑う。
 
193: (茸) 2022/11/17(木) 07:54:00.83 ID:ioD2qsbi
「それにしても、果林さんが羨ましいですよ! 毎日彼方さんのお料理食べられて」

「流石に毎日ではないわよ」

「えっ? 果林さんもお料理されたりするんですか?」

まるで私が料理なんて出来ないみたいな反応をするしずくちゃん。
確かに彼方と比べて酷いし、同好会の中でも中央値付近だって自覚はあるけれど。

「彼方の家に泊まりにきた時くらいよ。今のところはね」

「えっ?」

「でもね~再来週あたりから一緒に暮らす予定なんだ~」

「あっ、えっ、あぁ……で、ですよねっ!」

さっきからずっと女優としての実力がひとかけらも感じられない感情そのままの百面相をさらけ出すしずくちゃんは、
一人で勝手に納得したようなことを言ったかと思えば、安堵して胸を撫で下ろす。

「正式にお付き合いされたなら一報くださればいいのに……お祝いの品もなにも用意出来なかったじゃないですかっ」

ぽとり……と、彼方の手からお箸が滑り落ちて、お箸が弾む小さな音が響いた。
 
194: (茸) 2022/11/17(木) 08:19:06.71 ID:ioD2qsbi
「別に私達付き合ってるわけじゃないのよ?」

「……えっ?」

さっきは一体何を納得したのかって問いただしたいほど突拍子もないことを言い出したしずくちゃんは、
彼方の反応が分からないのか、疑問符が見える。

ひとまず、訂正すべきところを訂正してあげると、
しずくちゃんは " なんの冗談ですか? " とでも言うかのような怪訝な表情を浮かべた。

「ち、違うよ? 果林ちゃんが言ってる通りで……」

「えっ……と、あっ……お、お酒に弱くなっちゃったみたいです! 酔いが回っちゃいました!」

声をあげて、手で扇ぐしずくちゃんだったけれど、
空気が静まり返る兆候を感じ取ったのか、
居たたまれない様子で顔を伏せる。
 
195: (茸) 2022/11/17(木) 08:48:30.86 ID:ioD2qsbi
「……すみません」

流石にと思ったのか、しずくちゃんは申し訳なさげに謝る。

けれど、多少空気が変わっちゃう可能性だってないわけではないものの、
仲が悪いって思われるよりはずっと良い。

それに、彼方がどう思っているかはわからないけれど、
私個人としては全然、嫌な気はしない。

「別にいいわよ。それくらい仲良く見えたってことでしょ?」

「そうそう! それにほら。通い婚? みたいなものもあるし、しずくちゃん物知りだからついつい思っちゃうこともあるだろうし、だから気にしないで~」

取り繕うように並べる彼方はお箸を拾うと、
取り替えるためか、台所の方へと駆けていく。

「冷めちゃうから頂きましょ」

私達が大丈夫と言ってもしずくちゃんはちょっぴり気まずそうなまま夕食を終えた。
 
196: (茸) 2022/11/17(木) 09:00:08.03 ID:ioD2qsbi
しずくちゃんは泊まるわけにもいかないため、
時間も時間だからと車で送ってあげることにした。

私の方向音痴を憂いてか心配そうだったけれど、
流石に何度も通っていれば間違えたりなんだり、なんてことは心配いらない。

「駅までなら送っていただかなくても大丈夫なのに……」

「そんなことないわ。何があるかわからないんだから油断しちゃダメよ」

しずくちゃんは「ありがとうございます」って答えると、
そのまま黙ってしまって、車内が静まり返る。
彼方の車だから、彼方の好きな曲、好きな匂い、彼方自身の匂いがある。

それでも間は持つけれど……。

「ねぇ、参考までに……どの辺りで勘違いしたの?」

しずくちゃんが気まずくなってる部分を、あえて突いてみることにした。
 
201: (茸) 2022/11/17(木) 23:05:10.37 ID:YPeyzXf2
しずくちゃん自身、そのことを聞かれる覚悟をしていたようで、驚いたりはしなかった。
ただ、落ち着いた様子ではあるものの、
その表情は少しばかり、呆れているように感じられる。

「彼方さんを面倒くさいって言っていた辺りが一番……ですね」

「別に抱くくらい普通じゃない? 大人な意味での話ならともかく、身体をぎゅってしてあげただけよ?」

前の車がブレーキランプを点灯させたのが見えて、ゆっくりとスピードを落としていく。
信号が赤になって、完全に車が止まったのを確認してから、しずくちゃんを見る。

あれのどこにそんな誤解させるようなものがあったのだろうか。

「友達同士だって、ある程度仲が良ければ多少なりとスキンシップも激しくなることもあります。でも、正直……いえ、もしかしたら私の認識不足かもしれませんけど……」

あくまでも自分の意見だって前置きをしたうえで、しずくちゃんは続ける。

「あの、愛を囁くような抱き方と声のかけ方は恋人くらいしかしないと思います」
 
202: (茸) 2022/11/17(木) 23:27:25.74 ID:YPeyzXf2
愛を囁いたつもりはないし、そんな雰囲気でもなかっただろうにって私は思うけれど、
それは私だからで、しずくちゃんはそうとは思わなかったってことかもしれない。

あるいは。

「それはしずくちゃんが年頃だからそう感じたんじゃなくて?」

「私だってもう、それなりに大人ですよ」

何言ってるんですか。なんて、
ちょっとだけむくれたようなしずくちゃんの視線を感じて、苦笑する。
そんなところが子供っぽいのって言ったら拗ねてしまうだろうか。

「肉食系が悪いとは言いませんけど、中途半端は質が悪いですよ。その気にさせるだけさせて、自分はそういうつもりがなかったなんて、そういうのは無しにした方がいいかと」

「でも、彼方とは長い付き合いだもの。あのくらい私となら冗談の延長だって思っててくれるでしょ」

「……え?」

「だって、彼方は誰にだって優しいし、受け入れてくれるし、囁いたりはしなかったけれど、抱いたり抱かせたりって平気なのが彼方だったじゃない」

高校生の頃の彼方はそうだった。
今となりにいるしずくちゃんも、かすみちゃんも、璃奈ちゃんやエマ……同好会のみんなに対してオープンだった。
私にだけ特別ではくて、それはきっと、今だって変わらないと思う。
 
203: (茸) 2022/11/17(木) 23:43:34.38 ID:YPeyzXf2
「はあ……」

「何よ。納得いかない?」

しずくちゃんの反応は誰がどう見たって納得できないと言ったもので、
そこにはほんのりと諦念めいたものがあるようにも感じられて。
信号が青になったのが視界の端に見えて、また運転に集中する。

「仮にですけど、彼方さんが今更一緒に暮らそうって思ったのが、果林さんの思わせぶりな態度に感化されていたからだとしたらどうしますか?」

「そんなことありえないって否定は無し?」

念のため確認してみると、
ミラーに映るしずくちゃんがこっちを見ることもなく頷いているのが見えた。

もしもそうなら……と、あり得ないってことは念頭に置きつつ、答える。

「まぁ……もし仮にそんなことになっていて、いつまでも思わせぶりな私に彼方が我慢しきれなくなって問い詰めてくるようなことがあったら、ちゃんと責任を取るわ」

仮にもそんなことは起こり得ないと思う。
彼方にはまだ叶えたい夢があって、私達は長く親友で、なにより、同性で。
だからあり得ないけれど、もしもそうなら……責任は取る。
 
204: (茸) 2022/11/18(金) 00:11:21.36 ID:61OrwIOL
「果林さん的には、彼方さんを恋人にしようって気はないんですか?」

「……そうねぇ。週刊誌とかに売らない? オフレコにする?」

あえて冗談っぽい雰囲気でそう訊ねると、しずくちゃんは「もちろん」と食い気味に首肯する。
大人だってアピールする癖に、こんな些細な恋愛トークに興味津々になっている辺り、
やっぱり子供心が残っているんだろうって、ちょっぴり失礼だって思いつつも考えて。

「いろんな理屈とか問題とか取り払ったうえでなら、あるわよ。あんな、全身全霊で支えになってくれようとする子なんて中々いないし、料理が上手いでしょう? 抱き心地だっていいじゃない? 声も雰囲気も性格も優しいでしょう? 朝起きた時に「おはよ~」ってにこやかに出迎えてくれるところも良いと思うし、彼方はこっちのために一生懸命になってくれるけど、喜んだりしてくれてる姿を見ているとこっちまで幸せになれる感じがするから、彼方のために頑張りたいってモチベーションにも繋がることもあるし、趣味にもしっかり付き合ってくれて、受け入れてくれるだろうし……」

「……な、るほど」

あるかないかだけを簡潔に答えるだけではしずくちゃんが満足しないだろうからって、
ぱっと思いついた辺りの理由を教えてあげたのに、
しずくちゃんは心底困り果てたような表情で呟くと「大体わかりました」なんて、断ち切る。

「けど、それってやっぱり諸問題を無視しての話だから」

「けどそれって彼方さんが良いなら気にする必要ないことですよね?」

「ふふっそうね……でもそんなことないからあり得ないって言ってるのよ」

丁度いいタイミングで駅に到着して、車を止める。

「一緒に暮らすのだって一人暮らしが寂しいからって彼方が言い出したことだし、私のことなんて遥ちゃんの代わりか、放っておけない友達くらいにしか思ってないわよ」

「……やっぱり面倒くさいですね」

しずくちゃんはそんなことを言いながらも「送ってくれてありがとうございました」と、
礼儀正しくお礼を言って、駅の中に向かって行く。

「でしょ? 彼方ってちょっと面倒なのよ……」

私一人だけの車内で、ぼそりと同意した。
 
205: (茸) 2022/11/18(金) 00:12:39.11 ID:61OrwIOL
続きはまた後日
 
212: (茸) 2022/11/18(金) 07:53:24.75 ID:MpAAz6yW
しずくちゃんの勘違いを何でもないように流したけれど、
しずくちゃんがいたからそうやって保っていただけ。
2人きりになったら、少なからず影響が出てくるのは間違いない。

そうは思うものの、不自然に帰りが遅くなったら心配させるだろうし、
急に仕事が入って……なんて手垢まみれの言い訳はしたくない。

しずくちゃんに責任を取って泊まって貰うのも悪くなかったかもしれないなんて今さら思う。

多少の気まずさはあるだろうけど、しずくちゃんのせいだから。

なんて考えているうちに気づけば彼方の家の近くにまで来ていて。

「……はぁ」

車を駐車場に停めて、素直に家に戻った。
 
213: (茸) 2022/11/18(金) 08:17:22.22 ID:MpAAz6yW
彼方はいつものように「おかえり~」と、ふわふわとした出迎えをしてくれた。

けれど、普段通りに戻ったって安堵したのもつかの間、
やることがあるからって一緒にお風呂に入ろうとしなくて。

「……なんともない、わけがないか」

広い浴槽に溜まったたっぷりのお湯に浸かりながら、溜め息が漏れる。

いつもなら、やることなんて後回しにして一緒に入ってくるのが彼方だったのに。
そうしてこないってだけで、
しずくちゃんの責任が重いことだけははっきりとしてる。

「……はぁ」

そもそも、彼方はあんな勘違いをされてどう思ったのか。

しずくちゃんに対しては嬉しいって感じの反応をしていたけれど、
それはしずくちゃんを気遣っただけで、本心ではない可能性だってある。
 
217: (茸) 2022/11/18(金) 08:53:42.65 ID:MpAAz6yW
あの反応そのままに喜んでくれているのか、
実は恥ずかしかったとか、あるいは、嫌だった……とか。

彼方に直接聞いたところで悪くてもはぐらかされるだけで、基本的にはポジティブな返事が聞けるだけだろう。

彼方のことだから、嫌でも嫌とは言わないでいてくれるだろうから。

「……私もなにもなかったって感じでいた方が良いのかしら」

せっかく、一緒に暮らすって話になって
それがもう間近のところまで来ているのに、拗れさせたくない。

かといって……。

「……ダメよね。ちゃんと話さなきゃ」

私達にとって、どれくらいが適切なのか。

ここで逃げたら気軽なスキンシップも出来ないし、
ルームシェアすら不適切かもって白紙になるかもしれない。
それだけは困る。

「拗れたらしずくちゃんに責任取らせましょ」

念のための保険を考えて、お湯を掬い上げて顔に叩きつける。
彼方が嫌なら仕方がない。
むしろ改めるべきことだからと決心して、お風呂をあがった。
 
218: (茸) 2022/11/18(金) 09:04:46.43 ID:MpAAz6yW
「私も入って来ちゃうねっ」

脱衣所から私が出てきたのを見たそばから、彼方は足早に入っていこうとする。
やっぱり、彼方は彼方で気まずいんだろうって分かりやすくて。

でも、だからこそ手を掴む。

「っ」

「待って。お風呂をあがったら話があるわ」

「う、うん……そうだよね。分かってる」

彼方はそう答えて、笑みを浮かべる。
ほんの少し恥ずかしさがあるのか、普段よりも血色の良い彼方の頬。

普段のように抱けたらどんなにいいかって、手を離す。

「待ってる」

「うん。できる限り早くあがるから」

彼方はそう言って、脱衣所に入っていった。
 
222: (茸) 2022/11/18(金) 19:07:14.14 ID:MpAAz6yW
40分くらい経って、彼方がお風呂から戻ってくる。
普段は30分程度で終えるのを考えると、
ちょっとだけ遅かったように思う。

「ちょっと遅くなっちゃった」

「大丈夫よ。全然」

しっかりと温まったからかほんのり上気していて、
普段よりも幾分か挑発的に感じられる彼方から目を背けて、
自分用に用意していたホットミルクを2人分に作り替える。

色違いのマグカップで揃え、向かい合わせにテーブルに置いて……彼方の対面に座った。

「別に、そんな深刻な話にはならないと思うけど……一つだけお願いがあるのよ」

「お願い……?」

マグカップを両手包んでひとくち飲んだ彼方の呟きに頷く。

「嘘はつかないで欲しいの」
 
223: (茸) 2022/11/18(金) 19:35:46.43 ID:MpAAz6yW
「……嘘つくって深刻な話じゃないかな」

「もっと言えば、私や他のなにかを気遣わないで欲しいのよ。彼方自身の本心が聞きたいの」

彼方はきっと私を気遣ってくれるし、
周りの誰か――例えば、発端のしずくちゃんとかを気遣って本心ではないことを言ったりする。

自分が嫌でも辛くても、自分がちょっと我慢したら良いとか考えて。
そういうのを、やめて欲しい。

「……わかった」

「ありがとう」

緊張した様子で答えてくれる彼方に笑みを返す。
場合によっては拗れることになるけれど……なにもせずに拗れるよりは正々堂々としているって言える。

「察しがついてるとは思うけれど、聞きたいのはしずくちゃんの誤解の件よ。本当はどう思ったの?」

「それって私から答えないとダメ? 果林ちゃんがどうだったかは教えてくれないの?」

マグカップをテーブルに置いた彼方は、私のことを真っ直ぐ見て訊ねてきた。
 
229: (茸) 2022/11/19(土) 20:12:44.14 ID:j2fRXhjb
彼方は真剣な話をする時も、必ず柔らかい笑みを浮かべている子で、
高校生の頃、遥ちゃんと色々あったときだって、
彼方は笑わないって選択肢を選ぼうとはしなかったくらいだ。

それはたぶん、周りに心配させないようにって彼方の配慮で、
本当はいつだって、内面に抱えてるものがあったと思う。

だから、彼方が神妙な表情を浮かべていることにどうしようもなく緊張して、
ほんの少し、空気が冷たくなったように感じてしまう。

――本当はそんな顔するくらい、不服だったんじゃないかって。

「……やっぱり、私から言うべきよね。ズルだったわ」

誤魔化さないでと言いながら誤魔化そうとする私がいるようで、、
愛の言う " ヘタレ " の正当性を痛感させられる。

「……私は、そうね。嬉しかったわ。当たり前だけど、仲が悪いって思われたり、ぎこちない感じがするって言われるよりは全然いいもの」

本当にそう思っているから、照れくさくて笑えてくる。
だけど、それが全てじゃない。
本当はもっと別に、言いたいことがあって……彼方の本心が分からないから、逃げたがっている。
 
231: (茸) 2022/11/19(土) 20:52:04.06 ID:j2fRXhjb
彼方は表情を変えることなく、ホットミルクをひとくち含む。
その仕草だけがいつもの彼方らしい。

「私は……」

彼方は静かに、口を開く。

「私は、あんまり……だったかな。しずくちゃんから見たらそうなんだろうけどって」

「……そう」

彼方は困ったような表情を浮かべていて、
ふわふわとした声音ではないのがまた、真実味を帯びていて、喉が渇く。

マグカップに口をつけて傾けても、
味の薄いミルクが喉を通っていくだけで、全然、癒されない。

「果林ちゃんはさ。付き合ってもないのに付き合ってるって言われて嬉しいんだ?」

「嬉しいって言ったら、彼方は不満?」

「結構、不満かな。高校生の頃ならともかく、大人になった私達を見て、付き合っているみたいだって思われて、でも、違うんだよって答えないといけないでしょ?」

冗談で付き合ってます。なんて答えることは出来るけれど、
でも、最終的には違うよ冗談だよって答えなくちゃいけないよね。って、彼方は続けて。

「果林ちゃんは良いんだ。別に」

彼方の " 別に " には棘が感じられて、つい、目を逸らしてしまう。
 
232: (茸) 2022/11/19(土) 21:08:32.64 ID:j2fRXhjb
私は嬉しい。
彼方のことが好きだし、彼方とはいつまでも仲良くありたいし、
彼方とは、出来るのなら……そういう関係でありたいと思っているから。

「……ごめんなさい」

「えっ?」

「私、彼方の気持ち考えてなかったわ。考えもせずに、嬉しいって思ってた」

彼方は嫌だったのに、私は嬉しかった。
私だけが嬉しかった。
その事実を知ってしまうと、どうしようもなく胸が苦しくなる。

「果林ちゃ――」

「でも、だったらどうして私とルームシェアしてくれるのよ」

「えっ」

「遥ちゃんの代わりなんて、別に私じゃなくたっていいじゃない。家に泊まらせたりお弁当作ってくれたり一緒にお風呂入ったりとか……寂しさを埋めたいだけならもっといろんな選択肢があるじゃない。なのに、どうして私にあんなこと……」

「えっと……」

自意識過剰だった見たいで、恥ずかしい。
やりなおせるならやり直したいほどにばかばかしい。

「勘違いするじゃない……っ」

「はあ……」

彼方のため息が聞こえて、身体がびくっとしてしまう。
大人のくせして、泣きたくなってくる。

「果林ちゃんって面倒くさいから嫌い」

「なんっ……」

「いいから黙って聞いて。本心、聞きたいんでしょ?」

聞きたくないって首を振っても、
彼方は「聞きたいって言ったのは果林ちゃんなんだから」って、拒否を許さなかった。
 
234: (茸) 2022/11/19(土) 22:12:23.89 ID:j2fRXhjb
「私が嫌なのは、しずくちゃんに勘違いだったって謝られたことだし、わざわざ否定しないといけなかったことなんだよ。分かる?」

「ええ……そんな勘違いされたくなかったんでしょう?」

「ん~~~~~~っ!」

彼方にしては珍しく、本当にイヤだって言うかのように悶絶する。

そんなに嫌ならルームシェアなんてやめましょうって言うべきなのに、
言いたくない、諦めたくないってわがままな気持ちが邪魔をする。

「果林ちゃんさ……私のせいで勘違いしたって言ったよね?」

「ええ……自意識過剰だったわ。ごめんなさい」

「勘違いしてたならこう……もっと、こうっ、もっと、なんかあってもよかったんじゃないかなっ!? 全然、果林ちゃん何にもなかったじゃんっ!」

「だって、勘違いだったら恥ずかしいじゃない……実際、勘違いだったわけだし。結果オーライだわ」

「結果オーマイだよ……オーマイゴッドだよ……」
 
235: (茸) 2022/11/19(土) 22:37:08.06 ID:j2fRXhjb
彼方は心底呆れたといった様子で、
しきりにため息をついては「愛ちゃんが正しかった」なんて呟く。

「なんなの……果林ちゃんって、私のことなんだと思ってたの?」

「どうって……それはもちろん、優しくて、気遣いが出来て、可愛くて、抱き心地の良い、傍に置いておきたい子よ」

他にもいろいろあるけれど、簡潔に言うならこのくらいだってすらすらと答えて、
すぐに、けれど、自分に対しては無理させていたのかもしれないって罪悪感がふつふつと沸きあがってきて。

「気遣ってくれてたのよね。ありがとう」

「くぅっ……」

彼方はテーブルに肘をつくと、両手で頭を抱えてしまう。
私のことじゃなかったらいくらでも声をかけられるのに……。
慰めてあげられるのに……なのに、私自身のことだから何にも出来ない。

「私が、誰にでもお弁当作ったりお家に泊めてあげたり、一緒にお風呂入ったりとかするって思う?」

「ある程度仲が良い相手になら、するでしょ?」

「するよ……するけど、お願いされたらするけど、自分からは……しない」

彼方はそう言いながら、私を見る。

「勘違いさせたかったわけじゃなくて……ただ、それを本気だって思ってくれればそれでよくて……私、すっごく頑張ってたのにっ、なんでっ、内心大喜びしてるくせに好きとも愛してるとも言ってくれなかったのっ!?」

段々と感情が昂って行っているのか、声が大きくなっていって
やや怒ったような声色と表情だったけれど、感情が滲んだ赤さが目立っていた。
 
237: (茸) 2022/11/19(土) 23:03:37.59 ID:j2fRXhjb
「だ、だって……勘違いだったら気まずくなるじゃない……全部失っちゃうじゃない……そうなるくらいなら、現状維持しておきたかったのよ」

「もうっ……もうっ、もうっもうっ……も~っ!」

彼方が珍しく、本気で怒ってるような感じがして。
彼方の感情の激しさにびくっっとしてしまう。

「果林ちゃんのヘタレっ!」

私の勘違いは勘違いなんかじゃなくて、
ましてや自意識過剰なんて物ですらなくて、
調子に乗って、一歩を踏み込んでもよかったのかもしれない。

「愛ちゃん達には私のこと好きだとかなんだとか言って、べた褒めして、凄く凄く気持ち一杯だった癖に、私にはなんにも言ってくれなかったの……酷いよ」

「か、彼方……そのっ……」

「好きって言われたかったのにっ、愛してるって言われたかったのにっ……お風呂ですっごく緊張してたのにっ! バカッ!」

「あっ、えっと……っ……」

完全に怒り心頭と言った様子の彼方に言葉が詰まる。
私のことを好きで、特別に思ってくれていた彼方のアピールを誰にでもするものだなんて思っていた自分を叱りたくなる。

「ごめっ……」

「違うじゃんっ……謝るのは違うじゃん……」

「……す、好きだったのよ。ずっと」

ずっと隠してた本心を囁きながら、彼方のことを抱きしめに行く。
優しく抱いて、背中を摩って、ちょっとだけ強くぎゅっとしてあげる。

「遅い……」

突き飛ばしたりして拒絶するんじゃなく、応えてくれながらもぼやく彼方を抱きしめる。
彼方は面倒くさいところがあるけれど、たぶん、それよりも私の方が面倒くさかったのかもしれない。
 
244: (茸) 2022/11/19(土) 23:41:26.00 ID:j2fRXhjb
ずっとずっと好きだった。
大切にしたかったし、守っていきたかった。
傍にいてくれるのが特別だと信じて疑っていなかったし、
私の無謀な勇気がそれを壊してしまうのが嫌で、どうにもならなかった。

――全部、言い訳だわ

「悪かったわ……彼方。好きよ。本当に、ずっと、ずっとよ……」

もっと早く言っておけばよかったと、後悔したって遅い。
だから、これからはちゃんと言いたい。

不甲斐なくてヘタレな私のことを彼方が許してくれるならだけど。

「知ってた。知ってたよ。ずっと……だからアピールしてたのに……」

「ええ。ほんと……思えば、彼方ってずっと積極的だったわよね。いくら友達だとしてもってくらいに距離が近かった」

だけど、私はそれを友達だからしているだけだって、
彼方がそういうことを出来る優しい子だからって現実逃避していただけ。
思い出せば思い出すほど酷い。

「ねぇ、彼方。これからも一緒にいてくれる? 今日も一緒に寝てくれる? 今度から同棲、してくれる?」

「……うん」

彼方も私の背中に腕を回して、ぎゅっとしてきて、
お風呂上がりの清潔な匂いと彼方自身の優しい匂いがする。

「好きよ」

耳元で囁いて、そうっと頬に口づけをする。
今までは避けていたもう一歩を、踏み込んでいきたいって気持ちが止められなかった。
 
252: (茸) 2022/11/20(日) 17:22:38.22 ID:FW3PLKta
付き合い始めてから関係が深まる人達もいれば、深い関係になっていた2人が付き合うっていうこともある。
私と彼方はその後者のタイプで、それゆえに、付き合い始めたばかりだって初心な想いはそこになかった。

「んっ……っ……果林ちゃ……っ」

ダイニングテーブルに追い詰めるようにして彼方の身体を抑えながら、
首のあたりに唇を這わせて、血を吸う吸血鬼のように甘噛みする。
ぴくんっとする彼方の身体をぎゅっと抱いて、潤んだ唇をわざと弾かせて音を聞かせて。

もう一度唇を触れさせて、彼方の首筋を吸う。

「っ……ぃ……」

「彼方……」

囁いて、キスをしてあげた頬を優しく摩り、意識をこっちへと向けさせてから、鎖骨のところを唇で挟んで、吸ってあげる。

彼方の小さな声がすぐそばから聞こえる。
可愛い声、ちょっとだけ艶めかしさの含まれている吐息。
もっと、もうちょっと、もう少し。
お風呂上がりなんて比にならないくらいに、熱くさせたいって、気持ちが昂る。

「彼方……好きよ……」

彼方の柔らかくて暖かい身体を抱き、ボディーソープの清潔な匂いを私色に染めて、浮かび上がる薄い汗をぺろりと舐める。
 
253: (茸) 2022/11/20(日) 17:50:46.18 ID:FW3PLKta
自分の体温と彼方の体温が重なって熱く、
場所なんて気にせずに脱いでしまいたいって気持ちが湧き上がってくる。

仄かに熱を帯びた彼方の吐息を肌に感じ、唇を重ねて潤んだ唇同士を絡ませるようにキスをして、
大げさに音を弾かせながら、彼方の手を握り、もう一方の手で身体を抑えて密着していく。

「んっ……っ……はっ……っ……」

彼方のおしりの辺りを優しく撫でながら、首にキスをして。

「彼方……」

「果林ちゃ……っ」

どうしようもなく、艶っぽくなってしまう声で名前を呼び、
お返しにって名前を呼んでくれる彼方と唇を重ね、離れた時にだけ見える彼方の柔らかい瞳と見つめ合う。

「果林ちゃ……待って……ここじゃ、やだ……」

彼方の服を脱がそうとしていた手が、彼方の手で止められて、
見上げてくる彼方の可愛らしい唇から零れ落ちたおねだりのような言葉に笑みを浮かべて頷く。
 
261: (茸) 2022/11/20(日) 19:10:54.34 ID:FW3PLKta
ダイニングから寝室へと場所を移す。
ダイニングに比べれば手狭で薄暗さのある寝室は、よりそれらしい雰囲気が感じられて、余計に胸が高鳴る。

寝室に入り、ベッドが近づいていく日常的な流れなのに、
火照った身体と、その為に来たって理由が緊張を誘発して、ごくりと息を飲む。

「果林ちゃっ……っ……」

彼方をベッドの上に押し倒すと、布団の上に彼方の長い髪が広がって、
抵抗する気のない無防備な姿を見せる彼方の上に馬乗りになるようにしてベッドを軋ませる。

隠す気どころか、誘っているとしか思えない晒された首筋には汗が滲んでいて、誘いに乗って口づけをしてあげると、彼方の身体が小さく弾む。

さっきまでの熱がまだ抜けていない彼方の身体にもう一度私の唇を触れさせる。
料理人として努めた経験が色濃い手の甲に、首に、頬に、唇に。彼方の全部を愛しているんだって分かって貰えるようにキスをして。

手を握り、握られて、握り合って、唇を重ねる。

「んっ……っ……んっ……」

このまま死んでしまうかもしれないってくらいに、深く、長く唇を重ねて、
彼方のちょっとだけ息苦しそうな唇の動きをそのままにして……ゆっくりと離れる。
 
262: (茸) 2022/11/20(日) 19:53:09.79 ID:FW3PLKta
熱いキスで激しく上下する彼方の胸が押し上げる寝間着をちらりと見て、
汗の浮かんだ頬を摩り、もう一度唇を重ねる。
まだ呼吸が乱れているからか、唇が吸われるような感覚があって、
それに反発するように彼方の唇を吸ってあげると、手を握る力が少しだけ強くなって。

「んっ……っ……」

ぴくんっと震えた彼方から唇を離すと、うっすらと糸が伸びる。

どちらのものとも分からない潤いの名残りがぷつりと切れて、汚れた彼方の口元を指で拭ってあげてから、
もう一度唇を重ねて、彼方の指と指を絡めるようにしながら繋がりを密にしていく。

「っは……ぁ……っ……」

熱を帯びた彼方の吐息が私の耳を擽る。
キスをするほどの距離だからか、
呼吸のたびに胸が触れ合って、押し付け合って、どきどきとさせられる。
 
263: (茸) 2022/11/20(日) 20:04:22.73 ID:FW3PLKta
朱色に染まった頬、艶のある唇、潤んだ瞳。
可愛らしいときと、綺麗な時とが混在している彼方の、特別な関係でなければ見られない、魅惑的な表情が目の前にあって。

「果林ちゃん……」

その唇が私の名前を呼ぶだけで、感情が高まってしまう。

「ダメよ……名前を呼ばないで」

呼ばないでって、彼方の耳元で囁く。

少しずつ、丁寧に身体を重ねていたいのに、
ずっと抑え込んできた気持ちが溢れ、理性的な交わりから情欲に満ちたものへと変わってしまいそうになる。

「どきどき……してるの……」

彼方の声がすぐそばで聞こえる。
仄かに熱のある囁くような声に私の心が揺さぶられているって彼方は気づいているのかもしれない。

私の手を握りながらもう一方の手で私の頬に触れてくると、可愛らしい笑顔を浮かべて。

「……もっと、して?」

彼方から、唇を重ねてくる。

立ち止っていた足を踏み出させるみたいに、どこかへと誘うみたいに……優しく手を引くかのような、柔らかい数秒に満たない程度のキス。

離れて見えた彼方はまた、笑みを浮かべていて。
その誘いを断れるほど、私の積もり積もった想いは軽くなかった。
 
264: (茸) 2022/11/20(日) 22:22:33.33 ID:FW3PLKta
「彼方……っ……ちゅ……っ……」

唇を重ね、絡めるようにして唇を開いて舌を触れさせる。
ミルクの甘味が残っていて、ねっとりとしたいやらしさのある彼方の舌

私からの一方的な侵入じゃなく、彼方から受け入れながらも誘うような動きがあって、
小さな隙間から微かに音が漏れる。

「っは……んっ……っ……」

「っん……ちゅ……」

手を握り合いながら、キスをする。
ただ触れさせる子供のようなキスから踏み込んだ、舌を使った深みのあるキス。
舌と舌が触れ合い、絡まって、少しずつ息苦しくなっていくのに、
離れたくないって手の力が強くなる。

もう少し、もう少しって……このまま心臓が止まっちゃうんじゃないかってくらいに彼方と唇を重ねる。

「っ……んっ……っぁ……」

ゆっくり離れると、まだ残る繋がりがうっすらと煌めきながら彼方の口の中へと伝い落ちていく。

「んっ……っ……」

それを追いかけるように、彼方と唇を重ねる。
 
265: (茸) 2022/11/20(日) 22:42:51.93 ID:FW3PLKta
互いの熱の籠った吐息が重なり、寝間着と肌着の張り付く汗ばんだ身体と身体を密着させながら、
唇を触れさせ、舌を絡めるようにキスをしていると、肌寒い時期なのに夏場のような暑さが部屋に満ちる。

「はっ……っ……」

「っ……んっ……」

彼方の艶っぽい表情にドキドキとさせられる。
いつまでも見ていたいのに、見ていたくないって思わせる雰囲気があって、
まるでそれに気づいているかのように浮かべる笑みに、取り込まれそうになる。

「果林ちゃん……熱く、ない?」

「……もうっ……彼方ってば……」

額と首筋に汗を浮かばせながら囁いてくる彼方の誘いに笑みを返す。
もっと先に進んじゃおうって言われているんだって……言われなくても分かってしまう。

「そんな彼方も、好きよ……愛してる……」

耳元で囁き、唇を重ねながら彼方の腰の辺りを撫でる。

彼方が寝間着としているのは、ワンピース丈のルームウェアでボタンがないから、
腰やお腹の辺りを摩って刺激してあげるついでに、彼方の寝間着の裾を引き上げていく。
 
266: (茸) 2022/11/20(日) 22:56:27.97 ID:FW3PLKta
脱がしてあげると、彼方は私の寝間着のボタンを1つ1つ外して、脱がしてくれる。
ズボンだけは自分で脱いで2人して下着姿になると、
寝間着の中に籠っていた熱が周囲に広がったからか、仄かに〇靡な匂いが満ちたような気がして……。

性的な欲求を貯め込んだ、女の子だけが持つもう一つの心臓がきゅんっとする。

「彼方……」

下着姿になっても、全然寒さを感じないどころか、まだまだ熱くて、
冷めないままに彼方とキスをする。
重ねるたびに燃料が追加されたみたいに熱が上がって、
唇を離すと、唇が触れていた名残が薄れていく切なさに押され、また唇を重ねて。

「んっ……っ……」

優しく、彼方の胸に触れる。
私が勧めた夜用のブラジャーに包まれた彼方の乳房。
掴んだり、揉んだりってせずに……ただただ触れて刺激を与えてあげると、
彼方はぴくっとした反応を見せてくれる。

「んっ……っ……っは……」

唇を重ねながら、徐々に身体に触れて、
慎重に、丁寧に、念入りに、彼方の身体に私の熱をしみ込ませていく。
 
267: (茸) 2022/11/20(日) 23:14:47.50 ID:FW3PLKta
「彼方……好きよ……」

言葉にして吐き出しても、次から次へと気持ちが溢れていく。
唇を重ね、首に口づけをし、乳房に触れて欲求を満たしてもすぐに乾いて……彼方のことを求めてしまう。

「ん……私も……っ」

彼方の嬉しそうな返事が返ってくる。
もっと、もっと……って、彼方の身体と心が迎え入れてくれて。キスをして、身体を触れあうたびに大事なところを覆う下着が湿り気を帯びて、いやらしい匂いをあたりに広げていく。

「はっ……っ……んっ……」

「ちゅっ……」

ミルクの味がしたキスは、いつの間に彼方の味に満ちて、
けれど、とても甘く、熱く、私の身体に流れ込む。

「んっ……果林ちゃん……っ……」

彼方が私の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくる。
ただでさえ近かった距離が完全に縮まって密着し、互いの体温がより高まっていく熱を抑えるかのように唇を重ねて、舌を絡める。

ねっとりとした〇猥な音を零れ落としていきながら、離れて……見つめ合う。

「……彼方……っ……」

互いに身体を重ねる関係でなければ触れないようなところ。

本当に一歩を踏み込んでこその場所へと、
そうっと……下腹部へと手を伸ばして、優しく刺激してあげると、
彼方の一際可愛らしい小さな声が部屋に零れる。

「……愛してる」

明日が午前休でよかったと……まだほんの少しだけ残っていた理性が安堵しているのを横目に、
時間なんて今は気にしたくなんかないと、目覚まし時計を伏せた。
 
276: (茸) 2022/11/21(月) 07:49:16.74 ID:2xskO0PJ
体を押さえ付けられているかのような、重い気怠さを感じながら目を覚ます。

途中でお役御免になっていた目覚まし時計は堂々と時間を刻んでいて、
9時半過ぎを指している。

思いの丈を打ち明けて、触れ合った昨夜。

少し熱が入り、
溺れることも厭わずに浸って、疲れ果てた体を綺麗にしようとシャワーを浴びて……。

「……ちょっと仕事に影響出そうだわ」

まだ、昨日の余韻が抜けきっていないように感じる体には彼方の匂いが染み付いていて、
どうしても、どきどきとさせられる。

ただ " 恋人 " って肩書きを手に入れただけなのに。
 
277: (茸) 2022/11/21(月) 08:08:34.60 ID:2xskO0PJ
同じ疲労を感じているはずの彼方はすでに起きているようで、隣にはその分の隙間が空いていて。
擦ってみるとほんのりと温もりを感じて……ついつい、笑みが溢れる。

彼方の身体の温もり。

昨日の夜にさんざん貪っていたのに、
それが薄れていく切なさを心が訴えているように感じられる。

彼方さえ良いなら……とはなるけれど、
いつだって彼方に触れられるし、与えて貰うことができるし、
今までは平気で離れていられたのに。

「……ダメね。ほんと」

今まではもう少し寝ていたいだなんて思っていたのに、
寝室を出たらすぐそこに彼方がいるって分かっていても早く会いたいって思ってしまう。
 
278: (茸) 2022/11/21(月) 08:58:52.00 ID:2xskO0PJ
ダイニングに出ると、彼方はいつものように料理……しているのではなく、
テーブルでコーヒーかなにかを飲んでいた。

「おはよう彼方」

「おはよ~……」

彼方は私の方を見ないで返事を返すと、
マグカップを口に近づけて顔を隠す。
私がそうであるように、彼方も昨日のことがまだ鮮明なのだろう。

「……コーヒー?」

「うん……果林ちゃんも飲むなら入れるよ?」

「じゃぁお願いしようかしら」

はーいってキッチンの方に駆けていく彼方を見送ってから、
洗面所で顔を洗い、うがいをして、軽く歯を磨く。

「……ふぅ」

胸に手を当てて深呼吸。
どきどきと高鳴ってる気持ちを押さえようと、もう一息。

彼方と気持ちをあわせて初めての朝だ。
 
282: (茸) 2022/11/22(火) 07:44:38.68 ID:qY0OQDyw
ダイニングに戻ると、テーブルの上には彼方とは別に私の分のマグカップが置いてあった。
うっすらと湯気が出ていて、つんっと鼻にくる香ばしい匂いがする。

「ありがと……彼方もブラックなの?」

「ん? ん~……うん……」

曖昧で歯切れの悪い返事。
目を合わせようとしない可愛らしい仕草に、心が癒される。

「気持ちは分かるわ。まだ……余韻が抜けていないんだもの」

触れていた腕や胸にはまだ熱を感じるし、唇には艶々と潤う柔らかい唇の感触があって、
一番深くに届かせた指には彼方の匂いがまだ残っているように錯覚する。

もう、綺麗さっぱり流したはずなのに。
 
283: (茸) 2022/11/22(火) 07:52:34.68 ID:qY0OQDyw
「果林ちゃんさあ……」

「ん?」

「あそこまで出来るならさ……」

「悪かったってば」

私の熱意が伝わるくらいに身体を重ねた夜だったから、
彼方はそれを照れ隠しに使って、つついてくる。

「……彼方が可愛かったから、スイッチ入っちゃって。仕方がないでしょ?」

「……」

黙り込んで、ただただ耳を赤くする彼方に笑みを浮かべる。

もういっそ、一週間くらい仕事を休みにしてずっと彼方と一緒にいたい。
家にいても良いしデートしたって良いと思う。
近場でも良いし、遠出しても良い。
なんならホテルや旅館にでも泊まったりとかしたって良いと思う。

どこでも良いから、一緒にいたい。
 
284: (茸) 2022/11/22(火) 08:17:34.92 ID:qY0OQDyw
「……彼方。ソファの方に行かない?」

「え~?」

「ね?」

彼方は小さく頷いて先に席を立った私の後を追いかけるようについてきてくれて、
私が座った隣に並んで座る。

ダイニングで向かい合っているのだって別に構わない。
今までは平然としてた彼方が照れたりしてるのは可愛いし、見ていたいし、見ていられる。

けれど……。

「やっぱり、こっちね……」

彼方の身体をぎゅっと抱いて、引き倒すようにソファに横になる。

彼方の温かさと、柔らかさと、匂いが強くなって、
どきどきとするのに、気持ちが和らいでいく。
 
285: (茸) 2022/11/22(火) 09:01:04.32 ID:qY0OQDyw
「どうしたの?」

私がいつもと違うって感じたのか、私の腕の中でもぞもぞと動く彼方をぎゅっとする。

どうかしたかしていないかで言えば、特別変化はないけれど、
でも、今はこうしていたい気分だってだけで。

「彼方言ったでしょ? 思う存分ぎゅっとして良いから休んでって」

「ん……確かに」

「それに、こうしてると落ち着くから」

そう言うと彼方は這うように動いて私の肩を掴み、耳元で囁く。

「……本当に落ち着く?」

ふっっと……耳を擽られてびくっとしちゃう。

「意地悪なことしないで頂戴……我慢はしたくないわ」

午後から仕事だから、どうしてもお預けになる。
それはちょっと、気分がよろしくない。
 
293: (茸) 2022/11/23(水) 18:13:14.35 ID:ocBb7/UI
私の心を揺さぶろうとしてくる彼方の身体をぎゅぅっと抱きしめる。
まだ少しだけ寝癖が残っているように感じる彼方の髪に顔を埋めながら、口を開く。

「これはね、彼方……ある種の代償行為のようなものなのよ」

午後から仕事があるし、大きく消耗するようなことは可能な限り控えたい。
というより、控えないと仕事に支障が出てしまう。
だから、彼方のことを抱きしめるだけで我慢しようってしているのに、
誘うようなことをされてしまっては……困る。

今は、彼方の温もりと匂いで満足しておきたい。しないと困る。私が。

「お願いだから私を挑発しないで。かわいい眠り姫」

「……もうっ、果林ちゃんが我慢してるってことは、私も我慢するってことなのに」

そんな気持ちを擦りつけるみたいに、抱き返してくる彼方
いつもより弱弱しく感じられるのは寝起きだからって言うのもあるかもしれないけれど、
でも、きっと……寂しいからだと思う。

ほんと、可愛くて堪らない。
 
294: (茸) 2022/11/23(水) 18:32:02.87 ID:ocBb7/UI
「今日、仕事終わったらこっちに帰ってくるから」

「ん~……無理しない?」

「そうねぇ……」

あえて考える時間を作ると、彼方がぎゅっと抱き着いてくる。
私の身体にすりすりと頬擦りをしたかと思えば、すぅーっっと、胸が膨らんで。

「……無理するなら、大丈夫」

大丈夫……我慢するから大丈夫。
彼方のそんな気持ちを宥めるように頭を撫でる。

「無理はしないわ。ほんとよ。私が会いたいの」

無理をしてでも。と、不要な添え物は避ける。
痕もう少しで無理なく、家に帰れば彼方に会える生活が始まるけれど、それはそれ、これはこれ。
今までは一線を越えるべきではないって自制心を頼りに、ある程度の距離を置いていたってだけだから。

せっかく、もう、全部ぶちまけてしまったんだから。
可能な限り我慢はしたくない。
 
295: (茸) 2022/11/23(水) 18:46:41.62 ID:ocBb7/UI
「今日の夕飯はロールキャベツが食べたいわ」

「ん。作る……けど、なんで急に?」

「なんとなく……彼方を抱いてるから?」

ロールキャベツ系……なんていう、
見た目は草食系っぽいのにもかかわらず、実際には肉食系的な感じの言葉があって、
彼方がそれに適してるような気がしたから……とは、口が裂けても言えない。

多分、彼方は知らないだろうし。

「お昼は何か食べたい? ご飯? パン? 麺類? それとも――わ・た・し?」

「最後のは胸しか膨らまないじゃない……もうっ」

照れくさそうな笑顔で冗談を吐いた唇を唇で塞いであげる。

「んっ……」

「っは……っ……なんでもいいわ。一緒に作りましょ」

そう答えて、もう一度。
柔らかく、優しく、ほんのりとブラックコーヒーの苦みを感じるキスの味がした。
 
296: (茸) 2022/11/23(水) 19:29:02.22 ID:ocBb7/UI
「そう言えば、彼方ってある程度整えはしても短くしたことないわよね」

「ん~? ん~……そうだねぇ」

料理の時は基本的に後ろで束ねられている彼方の長い髪。
ちょっとだけテンション上がってるときには、
左右に揺れる身体にあわせてゆらゆらと揺れていることもあって。

私はいいけれど、料理人として立つにはかなり邪魔になるような気がしてならない。

「果林ちゃんは、短くしても平気?」

「そうねぇ……」

短くすると言っても極端に短くはしないと思う。
肩辺りのセミくらいか、もう少し……いってもショートとか。
今までずっと長かった彼方の短めヘアスタイルは中々想像つかない。

でも。

「肩くらいまでなら短くても良いと思うわ。手入れも大変だろうし……ショートはちょっと、想像できないわ」

彼方は長い方が良いって私は思ってしまう。
もちろんショートでもボブにしたりとか似合うかもしれないけど。
 
297: (茸) 2022/11/23(水) 19:49:39.97 ID:ocBb7/UI
「肩か~やっぱり、長めが好き?」

「どちらかと言えば……というより、見てみないと分からない、し……」

昨日の夜、ベッドに広がっていた彼方の髪を思い出して、顔が熱くなる。
敷布団のようなオレンジブラウン。
あれが見られなくなると思うと、少し……。

「どうしたの?」

「……自営業なら、悩まなくていいのに」

「果林ちゃんが決めてくれたら、悩まなくていいのになぁ~」

にやりとしながら私の服をくいっと引く彼方。
その悪戯な笑顔に応えてあげるふりをして、彼方の髪を手のひらで拾い上げながら、鼻をつける。
散々嗅いだ彼方の匂いに、今は少し、若干焦がしを入れた醤油のような匂いが混ざっていた。

「……専業主婦にしてあげてもいいのよ? 無理矢理」

「え~? しちゃうの? 私のこと……ママに」

彼方の、分かり切ってる言葉に笑ってキスをする。
そうして、腰に手を回して優しく抱く。

私は男の子ではないから普通には出来ない……けど、やろうと思えば出来なくもない。
けれど、彼方の夢を潰したいわけではないから、それはまた、いつの日か。
 
302: (茸) 2022/11/24(木) 07:52:01.57 ID:hLIm38zU
「……不味いわ」

「えっ!? 嘘……焦げてた?」

「不味いのは私よ……仕事に行きたくない」

彼方と一緒に作った焼きうどんは十分に美味しい。
けれど、それはそれとして
仕事へのモチベーションが刻一刻と低下しているのをひしひしと感じる。

もちろん、急遽病欠しますなんて話を簡単に出して良い仕事ではないから、
ちゃんと行くつもりではあるし、行かざるを得ないけれど、
けれど……だ。

「休みたい……」

「急に来たねぇ……大丈夫?」

「大丈夫よ」

心配そうな彼方に、努めて普段通りに答える。
何か嫌なことがあったとかではなく、
むしろ良いことがあったからってだけだもの。
 
303: (茸) 2022/11/24(木) 08:15:53.06 ID:hLIm38zU
「彼方は経験ないかしら? 欲しかった物を手に入れた次の日仕事とかがあると、行きたくないってなる感じの……」

「私は基本、仕事に関するものが欲しいから」

でもね。と、彼方は私の頭を撫でる。

「気持ちは分かるよ。仕事に行って欲しくない」

せっかくの記念日を潰されるような感じだって彼方は言う。

仕事だから仕方がないって分かっている一方で、
でも、だけどって……内心、不満が募っているような。
必要なことだし、それを頑張ってくれているからこそお金があることも理解してる。

けど、むっとしちゃう感覚みたいな。

「理屈じゃないよねぇ……理不尽に怒っちゃいそうな感じ」

「感情が前に出てきてるあれよね……はぁ……」
 
305: (茸) 2022/11/24(木) 08:49:07.85 ID:hLIm38zU
憂鬱だとか当てはまる言葉は色々とあるけれど、
素直な言葉にしてしまえば結局のところ、彼方と一緒にいたいってだけの話

大人のくせに子供染みた欲求だって思うけれど、
でも、どうにもならない感情の波が押し寄せる。

「ん~……じゃぁ、はいっ」

彼方は両手を広げると、私をじっと見つめる。

「……何?」

「好きなだけ私を抱いて良いよぉ~」

「何言ってるのよ」

そう言いつつも、
素直に彼方の身体をぎゅぅっと抱き締める。
柔らかくて温かい、彼方の身体。

シャワーを浴びた清潔な匂いと柔軟剤の甘い匂い。
それと……彼方の匂いがする。
 
306: (茸) 2022/11/24(木) 09:00:20.53 ID:hLIm38zU
「落ち着いた?」

「落ち着かないわよ……むしろ、悪化しそう」

「代償行為って話はどこに行っちゃったの~?」

彼方を抱いておくだけで済むのなら良いけれど、
実際にはそれだけでは物足りないし、むしろ手放したくなくなっていく。

「そんなもの、彼方に消えたわ」

「愛ちゃんかな……?」

「愛だけに……ふふっ……」

まずいまずいって慌てた様子の彼方は私を抱き締めると、頭を撫でる。

半分冗談で言っただけだけど、
彼方の優しさに少しだけ甘えることにした。
 
311: (茸) 2022/11/25(金) 07:43:27.32 ID:5K4ZuVKY
いつまでもうだうだとしていても仕方がなくて、
準備を済ませて、一息つく。
気乗りはしないものの、必要なことだからって割りきって。

そもそも、今の仕事は過去の自分がやりたいと思っていたことだし、
今のこの憂鬱さは一過性のものだと思いたい。

例えば彼方が専業主婦になってくれたとして、
結局のところ、仕事に行く必要があるのだから。

最低限、慣れておくべきだとも思う。

「果林ちゃん、次のお休みは? ちゃんとしたやつ」

「ん……そうねぇ……引っ越しの日?」

「休めないよね?」

呆れた様子の彼方に笑って、ぎゅっと抱き締める。
エレベーターがあるし、荷運びは業者がやってくれるから大丈夫。
荷解きはあるけど……別に苦にはならない。
 
312: (茸) 2022/11/25(金) 08:09:26.23 ID:5K4ZuVKY
「遥ちゃん達だって似たようなものだし、むしろ私より激務なことだってあるのよ? 大丈夫よ」

私は女優とモデルを兼任しているけれど、
どっちも激しく動くようなものじゃない。
でもアイドルにはライブがあって、
mvがあって、その練習の日々があって……。

激しい分、体力はあるだろうけれど、それをごっそり削られるものだと思う。
そんな遥ちゃん達に比べたら、このくらいってなる。

「遥ちゃんは遥ちゃんで、果林ちゃんは果林ちゃんだよ。あんまり無理しないでね」

「分かってる」

「ほんとに~?」

「分かってる分かってる」

ぎゅっとしながら、彼方の肩に辺りに頭を預ける。
柔らかくて温かくて、いい匂いがする。
 
313: (茸) 2022/11/25(金) 08:58:31.39 ID:5K4ZuVKY
「その分かってるって、分かってない時の分かってるだよねぇ~」

私の頬をつんつんとする彼方の笑い混じりの声
私が2回言ったから、3回のつもりで言ったのかもしれないって思うと、
可愛らしく思えてちょっとだけ笑ってしまう。

「分かってるならしゃっきりしないと」

「もうちょっとだけ」

ぎゅっと彼方を抱く。
今すぐ行かないと遅刻するって話じゃないし。

なんて、甘える。
 
314: (茸) 2022/11/25(金) 09:05:41.89 ID:5K4ZuVKY
「これ、あれだわ……」

「ん~?」

「二度寝したいときの気分」

彼方の柔らかさと、温かさと、匂いを感じ、
包まれながらも、自分で抱き寄せて手放したくないってする感覚

まさにそれそのものだと感じて呟くと、
私の胸に頭を乗せる彼方は困ったように見上げて。

「それ遅刻するやつだよね?」

「……そうね」

「そうね。じゃないよ~」

まだ遅刻するってほどじゃないけれど、
するのも厭わない心地よさ。

――なんて。

「ねぇ……駅まで送ってくれない?」

「送ってあげるから寝ちゃダメだよ~」

ゆさゆさと。
私を揺さぶる彼方に微笑んで、目を瞑った。
 
322: (茸) 2022/11/27(日) 22:56:19.68 ID:vljPKzN/
「ねぇ……彼方って、街中で抱き合ったりしてるカップルって見たことある?」

急に何の話なんだろう。なんて、困惑した様子の彼方の頬をすりすりって触る。
ちゃんとお手入れしているからかさついていない、柔らかくてぷにっとする心地よい感触。

すりすりと、むにむにとして――軽く、口づけ。

「ん……果林ちゃん?」

「私達……というか、こんな私でも一応は芸能人だから、週刊誌とかに狙われることもあるのよ。だから、街中では気を付けないといけないって思って」

「果林ちゃんは十分、立派な芸能人さんだからねぇ」

彼方は自分のことのように嬉しそうな笑顔を浮かべる。
その笑顔がまた、一段と可愛らしくて、むにっっとほっぺを抓んでしまう。

「にゃぁに? かひんひゃん……外でもしたいの?」

「そういうわけじゃないわ。私にも羞恥心があるもの」
 
323: (茸) 2022/11/27(日) 23:16:29.63 ID:vljPKzN/
別に、外でイチャイチャとしている人達に羞恥心がないって思っているわけではないけれど、
それが出来るだけの度胸が自分にあるとも思えないし、
そもそもの話、私にはそれをしてしまった場合のリスクがあるからするわけにはいかないというのもある。

……だけど。

「外で手を握ってたり、抱き寄せていたり、身体を預けていたり……ちょっとしたことでも熱愛って思われるんじゃないかって思うと中々ね」

「一般人から見た、どの程度が熱愛なのかが知りたいってこと?」

そう言った彼方は、私の身体の上でぐるりと身体を動かして仰向けになる。
顔が見えなくなってちょっとだけ残念だって、彼方の身体をぎゅぅっとすると、
彼方の手が、私の手に重なった。

「これは間違いなく熱愛感あるかもねぇ~……あと、街中で抱き合ってるとか、変に距離が近いとか、抱き寄せるときに腰やおしりに手を回してる人とか。あーこの人達付き合ってるんだろうなぁって思っちゃう」
 
324: (茸) 2022/11/27(日) 23:51:52.12 ID:vljPKzN/
彼方は笑い交じりの声色でそう言いながら、私の手をすりすりと摩るように撫でる。

「……ずっと、良いなぁって思ってた」

「彼方……」

「でも、確かに、果林ちゃんは芸能人さんだから外では友達のままの方が良いよね」

彼方の身体をぎゅっと抱きしめる。
彼方が全然、そんな素振りも見せてくれていなかったなら、彼方だって……なんて言っていたかもしれないけど、そんなことはなくて。

私が臆病にも踏み出さずにいた間、ずっとアピールしていた彼方。
例え踏み込んだとしても、私の肩書が彼方を寂しくさせてしまうなら。

――なんて。

「友達の距離感って、どのくらいなのかなぁ……」

「今まで通り――……あぁ……」

「ね~」

私の察した反応に、彼方は合わせるようにゆったりと呟く。
 
325: (茸) 2022/11/28(月) 00:05:18.77 ID:sA+Lczcv
今までの私達は友達だって思いながら付き合ってきたわけだけれど、
それでも彼方のアピールは露骨だったらしいし、私は私であからさまな距離感で、
その結果が、しずくちゃんのあの反応だった。

ということは、私達の普段の付き合い方は完全に恋人のそれだってことになる。

外で抱き合ったりキスしたり変な距離感だったりするわけではないとはいえ、
独特の雰囲気があるのかもしれない。

「どうしようねぇ~」

「……ぎこちなくなるのは嫌よ」

「そうだねぇ……今度、愛ちゃんと飲み会とかどうかな。かすみちゃんからも、近いうちにどうですか? ってきてるし、集まれる人で集まってついでに聞いてみようよ」

「かすみちゃん……? 私に連絡無いんだけど?」

彼方は「嫉妬してる?」なんて笑って。

「果林ちゃんは忙しいから。遠慮してるんじゃないかな」
 
326: (茸) 2022/11/28(月) 00:13:59.68 ID:sA+Lczcv
「どうかしらね。本当は彼方のこと狙ってたりして」

私よりもきっと、彼方の方が求められると思う……忙しい人からは特に。
だって、全力で支えようとしてくれるんだから。

「……だめよ。彼方はあげない」

「え~ないない……かすみちゃんはむしろ、果林ちゃん狙ってたと思うよ~ファッションデザイナーとして」

明るく笑う彼方。
温かくて、優しい匂いのする彼方。
あげないわって抱きしめると、彼方はそんなことを言う。

「それにかすみちゃんは結構、察しが良いから」

「……それって」

「まー……気づいてたよねぇ。私達のこと」

彼方は苦笑してるってわかりやすい声色だったけれど、
私としては何とも言えないものが湧き上がってきて、目を覆ってしまう。

会いたくない。凄く会いたくない。
かすみちゃんとどんな顔して会えばいいのかが分からない。

「久しぶりにみんなで集まりたいし……ダメ?」

「……行けたら行くわ」

お断りの常套句ともされる返しをすると、
彼方は「じゃぁ果林ちゃんのスケジュールに合わせてみるね」と、スマホを手に取った。
 
333: (茸) 2022/11/30(水) 07:35:27.13 ID:TWg51jVe
彼方との時間を過ごしていると、
いつの間にか家を出ないといけない時間が来ていて、辟易とする。

この初恋のような名残惜しい気持ちも、
付き合いが長くなれば薄れていくだろうけれど、
今はまだ、燻ってしまう。

「か~り~ん~ちゃ~ん~」

ゆさゆさと、私を揺さぶる彼方の声。
もう家を出ないといけないのにそんな素振りが全くないからか、
彼方は困った様子で。

「果林ちゃん、そろそろ時間だよ~」

なんて、久しく聞き覚えのない台詞と共に身体が揺さぶられる。
あのころとは違って二度寝をしていないけれど「分かってる」と、返して彼方の身体をぎゅっと。
 
334: (茸) 2022/11/30(水) 07:38:35.24 ID:a151yWJc
「……よく考えたら、午後から仕事って辛いわよね」

「そうだねぇ」

彼方はそう言いながらも、私の手を自分の身体から剥がすように握る。

「でも、お仕事にはいかなきゃ。ね?」

「……分かってるわよ」

子供のように駄々をこねたいわけじゃない。

仕事は仕事で、私は大人で、
そもそもやりたいからって選んで、幸いにも成功していけている今を捨てたいとは思っていないから。
ただほんの少し、癒しが足りていないだけ。

「はぁ……」

ため息をついて、彼方の身体をぎゅっとする。
それから数秒経って……放す。

「行くわ」

彼方から離れて体を起こし、軽く伸ばしてから彼方の手を取る。
いつもは歩きだったりマネージャーの迎えがあったりだけれど、今日は駅まで彼方に送って貰う。
 
335: (茸) 2022/11/30(水) 07:48:15.30 ID:a151yWJc
数時間あまりの記憶喪失期間に乗っていたらしいけれど、
ちゃんとした状態で彼方が運転する車に乗るのは久しぶりだった。

朝香果林、助手席に座るか、後部座席に隠れるか……と、逡巡して助手席を選ぶ。
以前までは後部座席だったからか、彼方は少し驚く。

「後ろじゃないの?」

「今日は前の気分なのよ……気が散る?」

「んーん。平気だよ」

ならお願いって言うと、彼方は「はいよ~」なんて、
ちょっとだけ茶化すように返事する。

「駅で良いんだよね?」

「ええ」

簡単に確認だけして、車が動く。

いつも後ろから見るだけだった彼方の運転している姿を、せっかくだからってじっと見つめる。
 
336: (茸) 2022/11/30(水) 07:58:15.34 ID:a151yWJc
「なぁに~?」

「……新鮮だと思って」

車を運転する彼方を横から見たことがない。
もともと、真剣なときは真剣だけれど
いつも以上に気を張っているかのような彼方の表情。

普段は可愛らしいのに、少しだけ格好よく見える。

「え~? そんなに私のこと直視できてなかった?」

「恋は盲目って言うし」

「そうだけど、そういう意味じゃないよねぇ」

慎重になりながらも、楽しげに笑う彼方。
それが可愛らしくて私もついつい笑ってしまう。

可愛いから抱きたいし、それを手放したくないって思うからところ構わず抱き合うのかもしれない。

なんて、ところ構わず抱き合う人を少し理解したような気になる。
 
337: (茸) 2022/11/30(水) 08:18:39.23 ID:a151yWJc
しずくちゃんを送った時よりも早く駅に着く。
道が混んでいなかったし、信号で止められなかったし、
なによりも、彼方とだったからだろう。

「果林ちゃ……」

「はぁ……」

「果林ちゃんダメだよ~」

座席を倒して横になろうとした私を引き留める彼方を見上げる。
このくらい倒せば週刊誌にも盗撮されないんじゃないかって……少し欲が出る。

「彼方」

「だ~め」

「寝るんじゃなくて――」

「それもダメだよ~誰が見てるか分からないから」

そう言った彼方は、小さく笑って。

「果林ちゃんの可愛いところ、他の人に見られたくないから」

誰にも見えないだろう手をぎゅっと握った。
 
338: (茸) 2022/11/30(水) 08:57:34.86 ID:a151yWJc
結局のところ、私は大人しく現場に向かった。

彼方の可愛らしい独占欲めいた願いもあったし、
私自身、今の生活を壊したいとは……やっぱり、思えなかったから。

家の中だけだなんて、ヘタレだって思われるかもしれないけれど。

「……下手にスクープになったら」

芸能人の私はともかく、彼方がやり玉にあげられるのだけは避けたい。
だからやっぱり、大人しく家まで我慢するべきだと思う。

「よしっ」

家まで我慢するためには限りなく丁寧にかつ慎重にかつ正確に、
それでいて迅速に仕事を終えられるようにしないといけない。

「……ん」

出来る限り早く帰るから。

彼方にそうメッセージを送って気合い十分に、控え室を出る。
 
343: (茸) 2022/12/01(木) 08:38:40.40 ID:KP54E+Rw
私1人が上手くやれば全てが滞りなく進むかと言うと、もちろんそんなことはない。

モデルとしての撮影でだって、環境面が意地悪したらいくらでも撮り直しになることもあるし、
ましてや、他の演者達が関わるドラマ等の撮影は難航することも多々ある。

そして当然、リテイクが重なればその分時間がかかる。

「んー……」

彼方に、少し遅くなるかもしれないって連絡を入れると、
璃奈ちゃんボードの " 悲しい " ってスタンプが返ってくる。

「……もうっ」

同じスタンプを送り返して、
椅子の背もたれに思いっきり身体を預けてふんぞり返る。

怒ったってどうしようもないけれど、不満が募ってしまう。
 
344: (茸) 2022/12/01(木) 08:59:53.11 ID:KP54E+Rw
帰りが遅くなるのは良くあることだし、
そもそもいままでは彼方のところに帰ろうって認識もなかった。

必ずしも会えるわけでも……。

だから、別に今まで通りのはずなのにどうしようもなく濁る。

そんな私の心中を察したかのように、
彼方からは "元気出して!" なんて メッセージが飛んでくる。

「……元気よ。全然」

彼方は今、どんな顔をしてるんだろうか。

大変だなぁ……なんて、心配してる?
元気ないんだろうなぁ……なんて想像して、ちょっぴり呆れてる?

それとも、彼方も寂しいって思ってる?

「……ふふっ」

彼方のことを考えて、勝手な想像して、つい笑って。
濁ったものが綺麗さっぱり消えていく気がした。
 
345: (茸) 2022/12/01(木) 10:11:37.47 ID:KP54E+Rw
少し電話できる? と、小さな欲求を送る。
彼方はお休みだけれど、何かあったら電話は難しい。

……でも。

ほんの少し、それよりも私の方をって思っちゃう。

「……面倒くさいわね」

それが私自身特有でも、女だからでも、恋をしているからだとしても。
面倒くさいっておもってしまう。

なのに、もし彼方が同じように思っていて、
スマホを片手にムッとしてるって思うと可愛いってなる。

「……ん」

スマホの画面にポップアップする着信通知
彼方の名前を見て、軽く咳払いしてから通話に入った。

「……彼方?」

分かっていてもなんとなく。
確認すると『どうしたの~?』と、彼方の声が聞こえてきた。
 
346: (茸) 2022/12/01(木) 10:54:23.48 ID:KP54E+Rw
「別に、どうかしたわけではないんだけど……今、出番がないから手持ち無沙汰だったのよ」

もう少しあとにまた出番があって待機中なのは本当のことだし、
手持ち無沙汰だったのも嘘じゃない。
けれど、どうもしてないかと言うとそうでもなくて。

……。

「何かしてた?」

そう聞くと、彼方は『ん~ん』と、穏やかに答える。
リラックスしてそうな声なのが、ちょっぴり残念に感じてしまう。

「そう……お休みなんだから、そうあるべきよね。かすみちゃん達には連絡したの?」

とにもかくにも話題がないとと思って、出る前に話していたことを掘り返す。
 
356: (茸) 2022/12/05(月) 07:45:46.13 ID:nkvliVRJ
彼方は少し間をおくと『すぐに既読になったよ~』と返してきた。

電話ではなくメッセージでやり取りをしたようで、
かすみちゃんはかなり乗り気で日程を聞いてきたらしい。

私の直近の全日休は引っ越しの日
その日の夜に引っ越し祝いでどうですかとなったそうだ。

本来なら引っ越し当日は避けて貰いたいと思うものだけれど
どうしても私の日程に問題があったからだ。

「私より彼方が大変じゃない?」

そう言うと、彼方は『私はちゃんとお休み貰ってるから』と、答えた。
 
357: (茸) 2022/12/05(月) 08:01:27.97 ID:nkvliVRJ
私の日程的な余裕のなさを聞いたかすみちゃんは、
茶化すように「ワーカホリックじゃないですか? いいカウンセリング紹介しますよ?」なんて言っていたらしい。

けれど、私の多忙は業務上の致し方ないもので、
かすみちゃんが言うそれとは違う。

「要らないわよ。大丈夫」

カウンセリングなんて必要ない。

「……必要な世界があったかもしれないけど」

私に踏み出す勇気があって、彼方にその気がなかった時とか、
私に踏み出す勇気がなくて、彼方が普通に誰かと寄り添っていた時とか、
私はきっと、仕事を理由にしていただろう。

けど、そうはならなかったから。
 
358: (茸) 2022/12/05(月) 08:49:52.40 ID:nkvliVRJ
彼方は『そっかぁ』と、なんでもないことのように、けれど、分かっているみたいに呟く。

その彼方の分かってるけど分かってないって感じさせる声色は心地いいけれど、意地悪で。

「そうよ。優秀なカウンセラーなら、家にいるもの」

意地悪には意地悪で返したいってなってしまう。
ほんの少しの余白
行間を読めとは良く言ったもので、目の前にいないのが残念だって思う。

「ねぇ、彼方……私、本当に彼方のことが好きよ」

まるでそこに彼方の耳があるかのように。
たった数センチの板を挟んで囁く。

「……愛してる」

繋げて良いと分かってしまえば簡単で、
見られていないと分かっていれば簡単で。

彼方の小さな吐息だけしか返って来なくても、私は満足できてしまう。

私の心はそういうものなんだろう。
 
359: (茸) 2022/12/05(月) 09:06:54.69 ID:nkvliVRJ
出番だと、私を呼ぶ声がする。

彼方ともう少し話していたいけれど、
この勢いのままだと、私はもっと意地悪になる。

家に帰った後が怖いくらいに。
だから、名残惜しいけれどここまで。

「……呼ばれたから、またあとでね」

そう声をかけると、彼方の小さい声がした。
聞こえたけれど聞こえていない。
そんな流れでなにも言わずに電話を切る。

「……ふふっ」


帰ったら彼方はどんな顔をしてるのだろう。
何を言って来るのだろう。
余裕を感じさせた彼方に、私はどれくらい影響を与えられたのだろう。

――早く帰りたい。

ネガティブな感情なしに、そう思った。
 
360: (茸) 2022/12/05(月) 09:07:23.59 ID:nkvliVRJ
続きはまたのちほど
 
364: (茸) 2022/12/06(火) 08:40:09.38 ID:fYYn/aIn
そうして、どうにかこうにか帰って来た私を出迎えたのはツンツン彼方だった。

「お帰り」

と、いつもの伸びやかな声ではなく淡々としていたからあからさまだ。
普段の彼方なら「お帰り~」だし「お疲れ様~」だし、ぎゅっとさせてくれるし。

「果林ちゃ――」

「待って彼方。大丈夫よ……私の意地悪が過ぎたのよね。分かってるわ」

彼方がツンツンする理由と言ったらこれしかない。
あれ以降は長く話せる時間がなかったし、メッセージは淡々と状況報告だけだったから。
 
365: (茸) 2022/12/06(火) 09:03:05.06 ID:fYYn/aIn
彼方は私をじっと見つめる。
分かってるなら分かるよね? とでも言いたげな視線
彼方のこういうところも可愛らしいけれど、ちょっと面倒で、でも可愛らしい。

「まず、冗談じゃなくて本気で言ったことは信じて欲しいわ」

「うん」

「……それでも、そうね。急に畳み掛けて切られたら嫌よね」

「はいぶっぶー」

彼方はため息混じりに首をふると、茶化すような言葉遣いで否定する。

「間違ったので今日はロールキャベツじゃなくなりました」

「えっ」

彼方は心底残念と言った様子で、
私なら正解を言うと信じ……てはなかったような気がする。
むしろどうせ間違えるだろうみたいに思ってたかもしれない。

「果林ちゃんさぁ……外ではあんまりダメだって話したよね? メッセージならともかく、電話なんて聞かれてるかもしれないのに」

「……あっ」

ほらやっぱり。みたいに彼方は呆れた笑みを浮かべる。
私を心配しているからこそのツンツン彼方は、仕方がないって呟いて。

「まずは着替えて来て、それからお夕飯にしよ?」

いつものふんわり彼方の声に戻った。
 
366: (茸) 2022/12/06(火) 12:48:03.82 ID:fYYn/aIn
着替えてダイニングに戻ると、
彼方はもう夕食の準備をほとんど終えていて、座っててと誘導された。

「……これなに?」

ロールキャベツはないって言っていたのに、一見ではロールキャベツのような固まり。
焦げ色のロールキャベツはあんまりみたことがない。

彼方は「まあまあ」と言っていくつか取り分けると、ナイフとフォークを渡してくる。

「……いただきます?」

なにかサプライズでもあるのだろうか。
ケーキの中の指輪とか、そういう類いの……なんてドキドキとさせられる。
 
367: (茸) 2022/12/06(火) 12:58:21.26 ID:fYYn/aIn
もし指輪があったとして、ナイフで傷つけないようにと慎重に一口分サイズで切り取ってみると、抵抗らしい抵抗はなくて。

切り取った断面はキャベツが2層、お肉が1層、そして埋め尽くす白米といった状況だった。

「……なにこれ」

「肉巻きおにぎりのキャベツ包み」

「えっ?」

にっこりと「肉巻きおにぎりのキャベツ包み」と繰り返す彼方

お寿司一貫程度のご飯に豚肉を巻き、それをキャベツで巻いたもので、
塩コショウでの味付けがメインのものと、タレを使ったものとがあるらしい。

ロールキャベツがいいといった私へのかわいい仕返しだ。
 
370: (茸) 2022/12/07(水) 07:39:50.75 ID:efYSQs+X
肉巻きおにぎりは普通にあるものだし、
そもそも彼方がオリジナリティを発揮したところで破滅は訪れない。

その昔に起こったとある人物主催の通称 " ラグナロク " が起きたりすることはないから安心して食べられる。

「美味しい……ごはんが少なめなのもありがたいわ」

「でっしょ~?」

仕返しとはいえ、誉められて嬉しそうな彼方に思わず笑みが溢れる。

「塩コショウの方、キャベツは炒めてないのね」

「ん~塩ゆでしただけだよ。タレの方は、薄めたタレで軽く煮たから色が染みてるの」

「なるほど……そっちも美味しそうね」
 
371: (茸) 2022/12/07(水) 07:54:30.02 ID:efYSQs+X
彼方の楽しげで喜びに満ち、可愛らしい反応を楽しませて貰いながら食事を終え、
さすがに後片付けは手伝う。

今はまだ招かれているお客さんかもしれないけれど
お邪魔しているお客さんでもあるし、もう少ししたら一緒に暮らすのだから。

ある程度片付けを終えた辺りで、ふと、彼方が口を開いた。

「さっきの話だけどね? 私だって果林ちゃんのこと好きだよ」

食事中のではなくて、帰って来たときの……あれの続きだと察して緊張する。
やっぱり、一緒になるべきじゃないって言われるかもしれないと思って。

「好きだけど、それが果林ちゃんの夢の邪魔になるのは嫌だなって思ってる」

「待って彼方、私は」

――彼方を諦めないといけない夢なら叶わなくたって良い。

そう続けようとした私を、彼方は「しーっ」と、唇に指を立てて笑みを浮かべる。
 
372: (茸) 2022/12/07(水) 08:12:20.18 ID:efYSQs+X
「やっぱり止めよう。なんて言わないし、言わせないよ。私だって果林ちゃんのこと好きなんだから」

好きだからこそ諦めるという道もあると言えばあって、
それを美徳とするような物語だってあるけれど、
そんなことはどうでもいいし関係ない。

「でもね。果林ちゃんのお仕事は人気があってこそのものだと思うから……その業界からさっぱりいなくなっちゃうみたいなの、嫌だなって」

だから、外ではやっぱり、ああいうのはない方がいいと。
彼方は濡れた手をタオルで拭きながら私の方に体を預けた。

「幸せが良い。私も、果林ちゃんも」

「……私は別に、彼方のお店で従業員をやっていたって幸せよ」

彼方をぎゅっとしながら、わりと本気でそう言ったのに……彼方は冗談だと思ったかのように笑う。

「ダメだよ~」

彼方はそう言って。

「スキャンダルで居なくなるのはね。みんなが幸せな引退なら良いけど」
 
373: (茸) 2022/12/07(水) 08:42:06.39 ID:efYSQs+X
彼方は円満解決を望んでる。
というよりは、それを望まない人なんていないと思うし、私だってそうできるならそれが良いと思ってる。

人気があるから売れるし扱って貰えて、
そうでない場合はやっぱり、その逆なのはどの業界でもそう。

ただ、表に出ているからこそ、声が届きやすいのが私の仕事。

……でも。

「事務所に言っちゃおうかしら」

「えっ?」

「人生のキーアイテムはこの子に決めたのって」

つい、恥ずかしくなって冗談めかすと、彼方は笑ってくれた。

「え~? 私は果林ちゃんのものなの?」

「そうよ。私の」

そう答えてぎゅっとする。
彼方は抵抗せずに受け入れて、可愛らしく小さな笑い声を溢した。
 
374: (茸) 2022/12/07(水) 08:59:27.04 ID:efYSQs+X
週刊誌に抜かれて晒されてから事実関係の確認だのなんだので後手に回る前に、
どうするかを話し合うことが出来るし、認めてくれないなら引退や移籍するし。

……なんて。

後者はともかく、そもそも抜かれるようなことを避ければ良いとは思うけれど、
つい緩むことだってあるだろうから。

「ダメ?」

「果林ちゃんが大変にならない?」

「相談するだけだから平気よ。もちろん、彼方のことは一般人女性として伏せるわ」

「ん~……そうだよねぇ。黙ってるわけにはいかないよねぇ」

彼方は私の立場に影響がないのかって再確認したものの、
報連相も大事だからって心配そうに許してくれた。

私も彼方も外堀は埋めておきたいのは一緒だった。
 
386: (茸) 2022/12/11(日) 21:26:36.50 ID:4Jr9fAfm
「良いんじゃない?」

単刀直入に「交際しても良いですか?」と聞いた私に返ってきたのは、
夕食のメニューを訊ねた時の適当な返事に似た簡素な答えだった。

ブレイク中と言える私は控えめに言っても事務所の中で上位に入れるくらいには貢献できている……らしいのに、
それを失うかもしれないことをあっさりと認める代表の反応に、
私もマネージャーもつい、呆然としてしまう。

「……良いんですか?」

私の担当マネージャーが息を飲んで再確認すると、代表は私を見て頷く。

「べっつに、恋愛禁止なんて縛ってるわけではないし、朝香ちゃんはそもそも、アイドルで売り出してるわけじゃないんだから恋愛したければしたらいいのよ。ああもちろん、クズみたいな相手なら駄目だって言うけど……違うでしょ?」

「違います、けど……」

「もちろん籍を入れるだの妊娠だのはまた別の話になるけどね。急にそんな発表したら事務員と電話回線増やさなくちゃいけなくなるから」

代表は冗談っぽく言いながら、軽く笑う。
 
387: (茸) 2022/12/11(日) 21:53:07.29 ID:4Jr9fAfm
「とはいえ朝香ちゃんの場合、男性より女性のファンの方が多いからそこだけ心配かな……相手はどんな人なの?」

相手がどんな人かも聞かずに、まず肯定から入った代表の問いに少しだけ遅れて答える。

「……高校時代の友人で、芸能人とかではない一般人で……」

勇気を出して踏み込んだのに、あと一言が言えない。
相手は男性ではなくて女性なんだって、大切な一言が言えない。
それを言ったとたんに、2人の反応ががらりと変わるんじゃないかと……少し、臆病になる。

「長い……」

高校時代からの長い付き合い……? と、呟いたマネージャーが気付いたようにはっとして、代表は変わらずの笑顔のままで何を考えているのか分からない。
その目が細められると、私の隣にいたマネージャーは口を閉じた。

「その人は、朝香ちゃんの力になってくれる人?」

「はい」

「ならいいんじゃない? 大丈夫だろうし」

代表はそう言うと、マネージャーに向かって「そういうことだから」と言葉を投げる。
 
388: (茸) 2022/12/11(日) 22:34:27.93 ID:4Jr9fAfm
代表があっさりしているからか、マネージャーはもう何とも言えないと言った様子で、
事務所の方針として問題がないならいい。と割り切ったみたいだった。

もしダメなら、退所も視野に入れていた私としては、
何事もなく受け入れて貰えたのは嬉しい反面、少し不安になる。
本当に、大丈夫なのか。

白日の下に晒された時、ファンのみんなは――。

代表が懸念しているのは相手が一般人だってところだ。
芸能人同士の交際の場合は賛否が表に出てきてもある程度は仕方がないとなるし、矢面に立たされたってなんてことはない。
けれど、芸能人ではない一般の人がその立場になってしまったとしたら?
もちろん、私は私自身がそんなに入れ込まれるほどではないと思ってるけれど、
その評価を超えてきている人もいるだろうから、難しい。

「――週刊誌だって、藪蛇になるのは避けるだろうから大丈夫」

「え?」

「もし仮に何かあっても、朝香ちゃんが " 大変な時期を支えてくれた大切な人 " なんて、幸せそうに発表しちゃえば何の問題もないから」

多少は騒ぎにもなるだろう。
大げさな反応をする人だっていないとは限らない。
けれど、二股でも、不倫でもないただただ純粋なものであれば、多くは祝福をしてくれるはず。

「その一般人のお相手だって、羨ましがられるだけで余計なことにはならないはずだし、それも覚悟のうえでしょ?」

彼方は自分のことよりも私のことを気にしてくれてる。
私が酷く言われないか、業界から切り離されてしまわないかを気にしてくれている。
そしてきっと、彼方はちゃんと覚悟を決めてくれている。

……だけど。

表に出ている私がどんな様子かで彼方扮する一般人女性への反応は変わるだろうから、
ごく普通に、当たり前に、何よりもそれがファンが望む私のパフォーマンスをより高めてくれていると示していけるようになればいい。

「そうですね。私が守ります」

私はより、自分を高めていこうと意を決した。
 
389: (茸) 2022/12/11(日) 22:57:08.48 ID:4Jr9fAfm
「もし週刊誌に晒されたり自分から発表することになっても、彼方が批判されたりなんだり……悪いことにはならないように一層努力するから大丈夫よ。彼方のことは私が守――っ」

事務所に交際を打ち明けてそれが認められたことを彼方に話すと、頬を両手で挟み込まれてせっかくの言葉が押しつぶされてしまう。

「私、果林ちゃんに無理して欲しいから一緒になるわけじゃないよ」

「……彼方」

守られたいわけじゃない。
そんな気持ちが表に出てきている彼方のむっとした表情を見つめる。

「果林ちゃんが頑張らなくたって、その相手と一緒だから果林ちゃんの演技が良くなってるんだって、スタイルが維持されてるんだって、健康で居られてるんだって、何よりも……幸せなんだって思って貰えるように過ごしていけば大丈夫」

ね? と、彼方は微笑む。

その笑顔が可愛らしくて、柔らかそうな頬がちょっぴり赤らんでいるのが可愛らしくて、
でも、だけど……なんて接続詞を使わせない。

「……そうね」

彼方の頭をそうっと撫でる――のではなく、
実際に柔らかい頬に触れて、私の手のひらの熱を感じるように瞳を閉じた彼方に口づけをする。

「ん……」

彼方は驚いた様子もなく受け入れてくれて、
そのままもう一方の手で彼方の腰を抱き寄せて……数秒。

離れて漏れた熱を取り戻すように、もう一度唇を触れさせた。
 
399: (茸) 2022/12/14(水) 08:11:03.98 ID:4o5mvKwN
それから数日経ち、長く得られなかった丸一日お休みの日がやってきた。

彼方が前から使っていた冷蔵庫などの大型家電は、私の元々のものを新調しておくことにしたため、
引っ越しの荷物から取り除かれ、普通の引っ越しに比べたらかなり小規模な引っ越しとなって。

家電が無いため、再設置や配置換えといったものもなく
業者の人達に中の方まで入って貰う必要もなく……思っていた以上にすんなりと済んだ。

「結構、時間余ったわね」

引っ越し業者の出入りがなくなって静まり返った室内
ソファに並んで座りながらほんの少しだけ彼方の方に身体を寄せる。
 
401: (茸) 2022/12/14(水) 09:14:10.96 ID:4o5mvKwN
「ん~荷解きがあるんだよねぇ」

私の身体を受け止め、支えるように私の方に傾いてくる彼方はもうひと踏ん張りだって身体を伸ばす。

衣類、食器類、小型の家電……とか。
ある程度は新調したらいいよねってなりはしたけれど、
お気に入りのものだったりなんだりと、どうしてもってものは段ボールに詰め込んで運ばれてきた。

それをあるべき場所に移さないといけない。

「……それはゆっくりやれるでしょう?」

私と違って。と言うとかなり意地が悪いけれど、
私がいない日にだってやることは出来る。
早めに終わらせたい、憂いを絶ちたいって気持ちは分かるけれど。

「果林ちゃん、こんなに甘えん坊さんだったっけ~?」

彼方のからかうような声色を聞き流してぎゅっとして。

「……そうだって言ったら、幻滅する?」

耳元でそう囁く。
 
413: (茸) 2022/12/18(日) 23:02:15.04 ID:Dpz2iwUN
「幻滅はしないけど……何かあったのかなって心配になるかも」

そう言った彼方は私に身体を預けるように委ねて来て、
そのままソファの上に二人して倒れる。

「優先順位は1番でありたい面倒臭い女心がふつふつとしてるだけよ」

「なるほど~」

可愛らしく笑う彼方は、分かってくれていないみたいに思えてぎゅっとする。
緩めたらこのまま平気で離れていってしまいそうだから。

「彼方は1番が良いって思わない?」

「ん~……私はあんまり気にしないかなぁ。幸せならいいよって思っちゃうねぇ」

「……相手が他の人に構ってばかりでも? 蔑ろにされてるのに相手が幸せそうならそれでいいの?」

「ん~……うん……」

やっぱり相手には幸せでいて貰いたいって彼方は言う。
私とは違う、彼方の性格がそうなんだろうとは思うけれど。

でも、それは――。

「ふとした時に爆発しそうね」

私がそう言うと、彼方はからかうように笑って。

「ある日帰ってきたら、書置きしか残ってないと思うよ」

「あー……やりそう。実家に帰りますとか、もはや書置きじゃなくて相手からの連絡もなかった翌朝くらいにメールで別れそうな感じする」
 
414: (茸) 2022/12/18(日) 23:24:20.72 ID:Dpz2iwUN
どうせすぐに帰ってくるだろうとか高をくくっていたり、
あるいは、飯も作らないで何してんだって怒り心頭なところに届くお別れメール。

いや、もっと簡易にメッセージだろうか
あるいはそれすらなく、ブロックされるだけ……とか。

彼方は我慢して我慢して、我慢して、
自分はこの人には必要ないんだってなって別れそうな感じがする。

私はそんなに我慢強くない。
相手が、他の誰かと恋人に近い距離感でいると知ってしまった時点でだめになってしまうと思う。

「……果林ちゃんは書置きとメールどっちがいい?」

顔が見えないような体勢のせいで声しか聞こえないのが、少し不安にさせる。

彼方はただ、話の流れでそれを聞いてみようと思っただけなのかもしれないけれど、
私には、念のため……みたいな感覚に思えて。

「どっちも嫌よ」

答えて、ぎゅっとする。
絶対に離さないって力は思いのほか強くて、彼方が困ったように私の腕を摩る。

「私より、果林ちゃんの方が選び放題なんだよ? 愛人でもいいって人はたくさんいるだろうし、凄く立派で、見合っていて、格好いい人、綺麗な人、可愛い人が果林ちゃんのいる世界にはたくさんいるんだから」
 
416: (茸) 2022/12/19(月) 00:15:42.03 ID:Hh+SSU++
それが実在するかはともかく……私とそうありたいって人は少なからずいる気配はする。
私が公表していないから仲良くなりたいって気配。

でも、それは彼方だってそうだと思う。
彼方はホールスタッフではないからお客さんからどうこうってことはないものの、
お店の同僚とか……言い寄られていたって不思議じゃない。

創作でありがちなのが、仕入れのお兄さんとか――。

「果林ちゃん力強いよ~」

ぺちぺちと、可愛らしい力で手が叩かれる。
無意識に彼方をより強く抱いてしまっていたようで、
慌てて力を緩めると、私の胸の上で彼方がくるりと寝返りを打つ。

「果林ちゃんは、ほんの10年程度の恋心じゃ信用ならない?」

彼方は、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
ほんのりと赤らんだ頬が愛おしい。
そんなまるで縋るような口ぶりをされては……何を言っても取り繕ってるように感じさせてしまう気がする。

なんて……逡巡することもなく。

「そんなわけないじゃない……そんなことありえないわ」

答えて抱く――と、また力を入れてしまうからって、彼方の頭を優しく撫でる。
 
430: (茸) 2022/12/23(金) 07:57:36.78 ID:JR//ZB61
「そんな長い間待たせた意気地なしな私を、ずっと好きでいてくれたんだもの……むしろ、私の方が信用できないんじゃないかって」

確かに彼方からすれば、私は選り取り見取りで自由な立場に思えると思う。

けれど、それは彼方だって変わらない。
年齢的な隔たりが多少は生じてくるかもしれないけれど、
まだ全然、問題がないって気にしない人はいるだろうし、
そんな一般的にはマイナスイメージを持たれやすいところなんて、
補って余りあるくらいの魅力が彼方にはある。

だから……。

「果林ちゃんは考えすぎ」

思考を遮る彼方の声。

目の前には彼方の大きな丸い瞳が私を映していて、彼方の努力が感じられる細い指が私の頬をぶにゅりと押す。

「果林ちゃんは私のこと好き?」

「それはもちろん……大好きよ」

「私も果林ちゃんのことが好き。大好き……それ以外に考える必要ある?」
 
432: (茸) 2022/12/23(金) 08:15:33.28 ID:JR//ZB61
あるかないかで言えば、たくさんあるはずだ。

彼方は本当に私 " だけ " なのか。
私は本当に彼方 " だけ " なのか。

私はもちろん彼方だけだけれど、彼方はそれが分からないし、それは逆も然り。
当たり前な話、私は彼方を信用しているけれど……でも。

「ほらまた……めっ」

ぶにゅ……と、頬が潰されて空気が漏れる。
公では晒せないような酷い顔になってるかもしれない。なんて、彼方の手を優しく掴む。

「彼方……」

「果林ちゃんは私が信用出来ない?」

そんなことはない。
たとえ……そう、たとえ明日世界が終わるとしてもそれだけは絶対にあり得ない。

「信じてる」

「なら、そんな難しい顔はしないで。ね? せめて、私のことではしないで欲しい」

彼方は自分が私の負担になるのを嫌がってるんだろう。
余計な悩みを抱えさせたくないし、自分のことで不幸にもなって欲しくない。
だから、私達は簡単でいようと。
 
440: (茸) 2022/12/26(月) 10:13:55.77 ID:V6SY1jsP
「どうしても悩まないといけないことがあるなら、ちゃんと話し合おうよ」

彼方はそう言ってにこりと笑う。
いつだってそう……彼方はとても柔らかくて、見た目的にも身に纏う雰囲気的にも凄く柔軟に感じられるから高校の時も大学の時にも彼方は周りの相談役だった。

完璧な回答が必ず貰えるわけではないって分かっていても、悩みを吐き出して、受け止めてくれるって存在だったから。

――私が好きな、彼方の一つ。

「……そうね。どうしても悩まないといけないことがあるのよ」

「ほうほう……それで?」

「私、彼方のことを独占したいのかもしれないの。他に仲の良い人がいるのが嫌とか、一緒じゃない時間があるのが嫌だとか、誰かからもらったものを身に付けているのが嫌だとか、そういう窮屈なものではないけれど……常に、私が一番でありたい」

長々と、まるで言い訳のように吐き出してしまった悩み。

言い切ってからこれは失敗しちゃったかもしれないと心臓が力強く高鳴って一瞬だけ息が詰まる。
私を見る彼方の瞳が、私を見てくれなくなったらどうしようと、怖く――。

「だったら、一番になってみせて」

彼方の瞳は見えない。
眠ったように瞼を閉じて、あとは任せたって言うかのように沈黙する。
一番になりたいなら分かるよね。今期待されてることは分かるよねって……そう、試されているみたいで。

「……ん」

私は迷いなく、彼方の柔らかい唇を塞いだ。
 
442: (茸) 2022/12/26(月) 10:54:29.87 ID:V6SY1jsP
一度重ねてしまうと、二度目が欲しくなる。
二度重ねてしまうと、もう一歩踏み込んだ繋がりが欲しくなる。
あと数時間もしたら皆に会うって分かっているのに、彼方の身体を抱きしめているだけでは終われない。

「んっ……っ……果林ちゃん」

熱の籠った彼方の吐息交じりの声が耳元で聞こえてきて、湿ってくすぐったい空気に私の芯が揺らぐ。

「待って……っ、んっ……っ……ソファ、汚れちゃう……」

普段はベッドの上だし、それでもシーツを汚さないようにって下準備をしてから触れ合うようにしていた。
けれど、知らない。

「むしろ、彼方の匂いでいっぱいにしちゃえばいいのよ」

昨日までは私の家だったとしても、今日からは彼方と私の家。
私達が生活をする空間になる。
長く私だけだった場所に彼方の匂いが染みつくだけなんだから何の問題もない。

本当なら一緒だった、諦めた数年分を取り戻せたら嬉しい。

柔らかく、温かい彼方の身体を抱く。
抱きながら、背中を摩るように手を動かして、唇を重ねる。
少しずつ……少しずつ、元から解れている彼方を温めて、解していく。
 
444: (茸) 2022/12/26(月) 11:16:14.28 ID:V6SY1jsP
天井から……ぽたりぽたりと水滴が落ちる。
湿気の多い、蒸し暑いその場所は今までは私一人だった広い浴室。
一人暮らしなのに無意味に広かった湯船には、今は2人で――。

「果林ちゃんさぁ……この後みんなに会うって分かってる?」

「ええ」

「お引越しのお片付けも全然終わってないって分かってる?」

「着替えなら私のを使えばいいじゃなぶっ……」

ばしゃり。と、彼方の指でっぽうから吹き飛んだお湯が顔にかかって間の抜けた声が漏れる。
分かってる。そういう問題じゃないって言いたいのはもちろん、ちゃんとわかってる。

でも、別に本気で怒ってるわけでもないってことも。

「仕方がないじゃない。彼方があんな……美味しそうな雰囲気だすから」

「一回だけちゅっってしてくれたらそれで十分だったのにさ……もうっ、果林ちゃんって結構、工  だよね」

そうさせてる人にそう言われても……と、口には出さずに垂れた前髪をさっと払う。

「彼方だってやらしいじゃないの。私の責任みたいなこと言うけど、誘ったのそっちじゃない」

そうだけどと呟きながらさっと目を逸らす彼方。
暖かくて上気した彼方の健康的な頬の色をじっと見つめていると、彼方がそうっと手を握ってきた。
 
446: (茸) 2022/12/26(月) 11:44:01.01 ID:V6SY1jsP
「本当は、そんなの今更だよって言おうと思ってた。果林ちゃんが一番がいいとか、負けたくないって思うとか……今までずっと見てきたからちゃんとわかってるから」

目指すと決めたことに一生懸命になって、凄く負けず嫌いなところがある。
だから、彼方の中の一番になりたいと思っていることだって、彼方からしてみれば今更なことで、分かっていたことで、
特別、悩むようなことでもなかったって。

「……でも、ああ言えば、果林ちゃんがしてくれると思っちゃった」

「そう……彼方のやらしさには敵いそうもないわね。大人しく食べられるわ」

「も~っ! 違うのっ、ほんのちょっとした出来心的なものだからっ」

普段は違うんだからって、弁明するかわいい恋人。
はいはいわかったわかった。なんて、適当にあしらう素振りを見せると、頬がどんどん膨らんでいく。

「彼方ちゃん、超怒っちゃうよ」

「あら、彼方の彼方ちゃんなんていつぶりかしら」

「スクールアイドル辞めてからはねぇ……最初の頃はなかなか抜けなかったけど、お店で彼方ちゃんです。なんて言ったら目も当てられないって言うか……」

高校でも、半分は大人の仲間入りをして大学生になってさらに踏み込んで……今ではもうすっかり大人になった。
私達の業界でならまだ少し理解も得られるかもしれないけれど、普通ではやっぱり……。

「ついでに私ももう大人なんだけどなぁ……的なアピールもできたらいいなぁと思って」

ちらっとする彼方の悪戯な様子にちょっぴり安堵する。

「ええ、ええ。どうせ私は朴念仁だもの。何か欲しいものある?」

「え~? ん~……じゃぁ、果林ちゃんの時間をください」

「プライスレスを攻めてきたわね……頑張るわ」
 
448: (茸) 2022/12/26(月) 16:44:25.83 ID:V6SY1jsP
元々、彼方は普通に自分のことを呼んでいたらしいけれど、
遥ちゃんが生れてからは遥ちゃんに認識して貰う為に「彼方ちゃん」って言うようになって、
それからずっと、そのままだったそう。

遥ちゃんが小学校中盤くらいになるまでは遥ちゃんも「彼方ちゃん」だったとか。

「ねぇ、彼方ちゃん」

なんとなくそう呼んでみると、彼方はあんまりよくないって表情を浮かべて小さく身震いする。

「え~なんか……ぞわっとする」

「なんでよ。かすみちゃん達のことちゃん付してるんだから馴染んでるはずなのに」

「それでも私は彼方が良い」

彼方にそう言われると、出逢った当時の " 近江さん " からだいぶ距離が近くなったんだってしみじみと感じる。
ぎこちなかった私と、他人行儀だった彼方から……。

あの頃の私はまだ、私達がここまでくるだなんてちっとも思っていなかった。
 
449: (茸) 2022/12/26(月) 16:50:09.11 ID:V6SY1jsP
「そうね。私も彼方が良い」

呼ぶのも呼ばれるのも目の前にいるのも、隣にいてくれるのも。
私はずっと、彼方が良い。

「でも、私は果林ちゃんって呼ぶ~」

「ふふっ、いつまで呼べるのかが見ものだわ」

「え~」

茶化すように言って、笑う。
朝香さんから果林ちゃんに変わったように、いつかきっと、果林ちゃんではなくなると思う。
だけど、いつまでもその移ろう言葉を聞いてあげられる私でありたい。

いつまでも、いつまでも。

だから。

「私を健康でいさせて頂戴。彼方」

私の手を握る彼方の手をそのまま引っ張ると、お湯がさざ波立って溢れていく。
ちょっぴり驚いた彼方の小さな声ごと、柔らかくて暖かくてすべすべとした身体を抱き締めた。
 
456: (茸) 2022/12/27(火) 09:51:54.22 ID:zB6kztzM
お風呂を上がってから、ソファ……ではなく、食事用のテーブルと合わせて設置していた椅子の方に向かい合って座る。
はちみつを溶かした紅茶で喉を癒して、ほぅっとひと息。

「あのソファ、今後普通に座れるかしら」

「ん~? ベッドで寝られなくなる?」

あまりにも簡潔な返し言葉に「確かに」と頷く。
初めてだろうと何だろうと、ベッドでそういうことをして以降、ずっとフラッシュバックして気分が高まってしまうなんてことはあんまりない。

ベッドが元からそれをするのに適した場所だとか、こう言ってはあれだけれど、そういう場所だっていうのは抜きにしても。

だから、たとえソファに彼方の匂いが色濃く染みついてしてもこれからもあの場所は普通に過ごせる……とは限らない気がしなくもない。

「そういえば、彼方ってあんまり口説かれたりはしないの?」

「えっ……その話しちゃう?」

「気になるじゃない。やっぱり、色々」

彼方が務めているお店は名の知れた飲食店で、食レポ番組でも取り上げられたことがあるし、
それを好機と見て遥ちゃんが名前を出したことで、かなりの有名店だ。

好調ゆえに忙しく、しかしながら誰でもいいからスタッフを雇わないと……とはせずに不真面目な人等は雇わないようにしている。

だから、彼方が何か嫌な思いをするなんてことはないと信じてはいるけれど。
 
458: (茸) 2022/12/27(火) 10:07:47.72 ID:zB6kztzM
彼方は私の知る限りでは交際した経験がない。
思えば、常日頃から私にアピールしてくれていたから、たとえ誘ってくる相手がいたとしても断っていただろうとは思う。

彼方は「そうだねぇ」と考え耽るような口ぶりでマグカップに口をつける。

「大学の頃もそうだけど、普通にあるよ。口説かれたって言うよりは、なにがしかのイベントが近づくと、一緒にどうですか? みたいな誘いだけど」

「それは知ってる。それ以外のよ」

彼方からは結構、そう言う話を聞かされた。
結局誘いは断っていたし、今思えばやっぱりそれも私に対するアピールだったに違いない。
こんなに誘われちゃってるんだよ? みたいな……。

もしかしたら私を焦らせたかったのかもしれないし、
あわよくば、果林ちゃんから誘ってくれたら……なんて考えていたかもしれない。

私が知りたいのはもっと直接的なもの。

「あったら果林ちゃんに言ってたと思うよ。受けてみても良いかなぁって」

「……そうしたらきっと、私は彼方が良いと思うならって答えてたでしょうね」
 
459: (茸) 2022/12/27(火) 10:20:33.74 ID:zB6kztzM
彼方のことを独占する権利はないし、彼方がその人が良いって思っているなら止める権利もない。
だから、そうしたいならどうぞって……言うだけ言って。

「それで愛のところで泥酔するのよ」

「あ~……それで私に電話が来るんだろうなぁ……」

何があったか聞いたのか、それとも私が酔っぱらってぶちまけたのか。
愛のフォローで私を介助する役目を負わされる彼方の姿。
私の情けなさはともかく、目に見えてしまうのがちょっと申し訳ない。

なんて、からかうように笑ってしまう。

「もしそうなってたら、もっと早かったかもしれないねぇ」

「そうね」

ことの顛末を聞いた彼方から「ちゃんと断ったよ~」とか、何とか言われて、
それできっと、私が朴念仁だからって結末に至る。

……。

「もしかして私って相当……」

「まぁまぁ~……ね? 結果オーライってことにしておこ~」

はっとした私の呟きから察した彼方の宥めるような声。
ちょっぴり困り顔でも可愛らしい彼方の優しさに甘えて「ありがとう」と答えておく。
 
462: (茸) 2022/12/27(火) 10:54:10.81 ID:zB6kztzM
「ねぇ、私あんまり詳しくないからアレなんだけど……彼方達のような人って調理中は装飾品外すのよね?」

「うん。髪だって長くても良いけどちゃんとまとめ上げてしまってないとダメ。セットしてないと怒られるし、出来ないなら切って来いって言われるし、数回注意されると是正する気がないって思われて……」

首のあたりに手を当てた彼方は、それを横にしゅっっと引く。
つまるところ、そのお店で二度と見ることはなくなるだろうってこと。
彼方は髪が長い方だけど、いつも丁寧にまとめて隠しているからセーフらしい。
それでも、やっぱり切った方が良いんじゃない? とは何度も言われたことがあるみたいで。

「果林ちゃん的には短い私ってどう?」

「短いってどのくらい? 歩夢ちゃんとか? それとも私くらい?」

「ん~……そのくらいかな。落とすなら肩くらいまでで落とすべきかなぁって思ってる。どちらかと言えば歩夢ちゃんくらいかな」

私的には、長い方の彼方しか見てこなかったからやっぱり今のままが良いってなってしまうけれど、でも、彼方が……。

――これか。

この思考回路がそもそも間違ってるんじゃないの? と、
思わず頭を抱えて、すぐに首を振る。

「彼方ってどうしても癖っ毛でしょ? 肩下まではあった方が良いって思うわ。正直……私は長い方が好みだから」

「そっか……ん。じゃぁ、今度そうしようかなぁ……えへへっ」

髪を触って、このくらいって笑う彼方のほんのちょっとの照れくさそうな姿。
彼方を優先して彼方が良いならって言うよりも、私はこう思うからこうして欲しい。

彼方はきっと、ずっと私にそう言われたかったのだろう。
 
464: (茸) 2022/12/27(火) 11:46:40.64 ID:zB6kztzM
「彼方――」

声をかけようとしたのを遮るように、インターホンが鳴る。
玄関口に直接ではなく、フロントに通るための、マンション自体の玄関口の入り口で誰かが私の部屋番号を押したらしい。

誰か、他に来客予定がないのもあって間違いかとも思ってみてみると
段ボールを持った人が立っていた。

「……はい?」

念のために出てみると『朝香果林さんのお部屋でよろしいでしょうか? 近江遥さんからお届け物です』と女性が言う。
どうやら宅配業者だったようで、ひとまず安どしてマンションの入り口を開けて通す。

けれど、彼方の方を見てみると怪訝な表情だった。

「引っ越すことは伝えてあるのよね?」

「え? うん……でも何だろう……」

「爆発物の可能性も考えて遺書を残した方が良いかもしれないわ」

冗談めかして言うと、彼方は「えー」と、そんなことはないと思っているように苦笑したけれど、
もしかしたらこう " シュールストレミング " くらいは送ってくるかもしれないと呟く。

もちろん、彼方も冗談だ。

暫くしてもう一度インターホンが鳴ると、先ほどの女性配達員の声が聞こえる。

「……あっ」

彼方の小さな呟きだった。
それに気を向けて、開けるのを止めておけばよかったのだろうか。
いやきっと、どちらにせよ駄目だっただろう。

玄関のドアを開けた先、小さな段ボールを持っている配達員の女性は思っていたよりも小柄で。

そして――。

「近江遥さんから、小姑のお小言のお届けで~す」

帽子を外し、見知った顔と声の女性はにこやかにドアを掴んだ。
 
466: (茸) 2022/12/27(火) 11:58:50.00 ID:zB6kztzM
「あーっ! やっぱり遥ちゃんだーっ!」

「なんだ~お姉ちゃん気付いてたんだ」

「だって、声変えてたけどどことなく遥ちゃんって感じだったから……」

声を変えていたから確信を持つことは出来なかったらしいけれど、玄関口での声を聞いて確信した「あっ」だったようだ。

「果林さん、セキュリティ大丈夫ですか? やっぱりお姉ちゃんは私と一緒の方が良いんじゃないですか?」

「だって、遥ちゃんの名前が出たら大丈夫だって思っちゃうじゃない」

早速のお小言に弁明をしてため息をつく。

玄関で立ち話もなんだからって、とりあえず家に上がって貰う。
宅配業者らしい風貌ではあるけれど、思えば、その業者特有のマークが見当たらない服装の遥ちゃん。
これは確かに、招いちゃダメだった気がする。

「果林さんだって有名なんですから……ちゃんと見ないと危ないですよ。私だって……3回くらいこれありましたから」

宅配業者を装った訪問。
しかも遥ちゃんの場合は高校生時代のこともあって、彼方が姉であることが知られている為か " 近江彼方さんからのお荷物 " というものだったという。

「今回は私だから平気ですけどね。不安なら居留守使って調べてから再配達がベストです。業者の方には申し訳ないですけど……それはそうと、これ私の好きな洋菓子屋さんのプリンです。明日までに食べちゃってください」
 
473: (茸) 2022/12/28(水) 07:42:14.65 ID:vLOPPn+2
「わ~ありがと~」

「喜んでもらっ――」

「誤魔化されないよっ!?」

彼方はいつものふわっとした態度から一変してがっしりと遥ちゃんの肩を掴むと、優しくも激しく揺さぶる。

「私聞いてないよ!?」

「心配させると思って言わなかったから……」

「彼方があんまり遥ちゃんに会えないって言ってたけど、それもあって暫くいろんなところに飛んでたんでしょうね。つまり、わざとホテル暮らししてたってことかしら」

仕事があったことは嘘ではないけれど、
遠いツアーなどになったのは、遥ちゃんの件を知った事務所等が対応してくれたからだったらしい。

遥ちゃんはただ頬を膨らませるだけにとどまらない、
本当に怒っているって様子の彼方をちらりと見ると、私に助けを求めてきた。

けれど、これは怒られておくべきことだと思う。

「遥ちゃん!」

「ぁっ、ぅっ……うん……ごめんなさい」

「そういう大事なことは言ってくれなきゃダメ!」

「言おうと思ったけど……お姉ちゃんのことだから絶対、何が何でも対応すると思ったから悪い方に転がると思って」

「む~~~~~~~っ!」

「だ、だってっ……ぁっ、ごめんねっごめんね……お姉ちゃん」

遥ちゃんをぎゅっと抱きしめて、胸に顔を埋める彼方。
絶対に押し寄せた不安で見せられない顔をしていると分かって、遥ちゃんはその背中を優しく摩りながら何度も謝る。

悪いのはどう考えてもその厄介さんではあるけれど。
 
475: (茸) 2022/12/28(水) 07:48:43.71 ID:vLOPPn+2
「でも、騒ぎにならないようにしっかりと対応して貰ったからもう全然平気だよ。本当、だから安心して」

遥ちゃんは彼方を宥めながらそう言って、けれど、罪悪感に眉を潜める。
彼方まで巻き込まれる可能性が間違いなく有ったのかもしれない。

けれど、だからといって蚊帳の外にはするべきではなかったって遥ちゃんは痛感しているようだった。

「だから、ニュースになっていないのね……私も全然知らなかったし」

「一応、騒ぎにならないようにって形で対応したので」

遥ちゃんはそう言いながら彼方をぎゅっとする。
一人でどうにかするんじゃなく、周囲に相談して対処したのだからまぁ……ちゃんとしたと言えるかもしれない。

それにしても騒ぎにならないような対応……?

なんて、ニヤリと笑って。

「なるほど……東京湾?」

「物騒なこと言わないでくださいっ」

違ったらしい。
 
476: (茸) 2022/12/28(水) 08:01:24.31 ID:vLOPPn+2
「何が言いたいかって言うとね。私も引っ越そうと思ってるし、お姉ちゃんは果林さんに任せても良いかなって……あぁでも、住所特定されないように気をつけてくださいね」

遥ちゃんは心底困ったように言う。
私に関して言えば女優とモデルといった比較的安全な部類の業種だけど、遥ちゃんはアイドルだから。

だから、ほんの少し……出待ちとか色々あったりもするようで。

「あともし何かあったら警察に直接じゃなくて、事務所に言って事務所に動いて貰うと良いですよ。色々サポートもしてくれますから」

「ええ……でも、私は平気よ。遥ちゃんみたいに可愛くないもの」

「そうですね」

「ふふっ……普通肯定する?」

「アイドルですから」

遥ちゃんはにっこりと笑った。
 
477: (茸) 2022/12/28(水) 08:06:28.17 ID:vLOPPn+2
いつの頃からか、彼方の身長を追い抜いた遥ちゃんだけれど、それでも私よりは小さい。

義妹になるし、なんなら小姑になる遥ちゃんは私の前に立っても堂々としてる。
元から、高校1年生でセンターを任され全うするほどの度胸があるから当然かもしれない。

「嫁姑戦争する?」

とはいえ、昼ドラと呼ばれるものとかでありがちな本気で嫌なあれじゃないのは私も遥ちゃんも彼方も分かってる。

遥ちゃんは自分を小姑だなんて言っていたけれど、
彼方のことを任せてくれたりして……信頼してくれていて。

「ん~……」

遥ちゃんはすんすんと鼻を鳴らして。

「なにか変なにお――」

「しゅうりょ~! 終了っ!」

パンッと、両手を叩いて大きな音を響かせた彼方によって、
嫁姑戦争は一瞬で終戦を迎えた。
 
479: (茸) 2022/12/28(水) 08:25:11.09 ID:vLOPPn+2
「そう言えば、果林さんがお嫁さんってことで良いんですか? 私てっきり、お姉ちゃんがそうかと」

「……そうね。なんとなく言っただけだから遥ちゃんが正しいわ」

「待って~、この話止めようよ~」

絶対に恥ずかしい思いをすると確信している雰囲気の彼方の制止。
それをチラッと見るや否や、アイドルらしい可愛い笑顔を浮かべた遥ちゃんは「え~?」なんてからかうつもり満々だった。

「今日、こっちに引っ越したんだよね? 昨日からこっちにいたとかじゃなくて」

「うん? そうだよ~。前のお家よりずっと広くて~」

「お風呂が?」

「うっ……う、うんっお風呂も広いよ!」

目を細めた遥ちゃんは、絶対に分かってて言ってるんだと私の勘が訴える。
彼方は誤魔化そうとしてるけど……。

「ねぇ、分かりやすい?」

「だってまだお昼ですよ? 荷解きし終えて……とか、昨日からいたからなら分かりますけど。まだお昼ですよ?」

「……そ、そうね……」

言葉で刺されて目を反らす。
私と彼方が二人とも同じ匂いがするから、遥ちゃんはまぁそうだろうと思ったらしかった。
 
493: (らっかせい) 2023/01/01(日) 20:51:38.99 ID:murlXOmr
「あ~あ。もうちょっと早く来るんだった」

ほんとに残念と言った様子でため息を零した遥ちゃんは頬杖をつく。
もう少し早く着いたって部屋に入って来られるわけではないけれど、邪魔は出来るから……なんて考えているのだろうか。
もしかしたら、遥ちゃんとしては認めたくないのかもしれない。
奪われた……って、思っているのかもしれない。

――なんて。

「冗談ですよ。冗談」

流石にそんなことは思いませんって遥ちゃんは振り払うように言う。

「本当にお姉ちゃんを幸せにしてくれるなら良いって思ってるんですよ? もちろん、一方的にお姉ちゃんを幸せにするんじゃなくて、2人で幸せなものじゃないなら……絶対に嫌だけど」

遥ちゃんはそう言いながら私を見る。

「でも、果林さん待たせるからなぁ……」

「くっ」

言い返せるわけもなく歯噛みすると、遥ちゃんは楽しそうに笑う。遥ちゃんは彼方とずっと一緒だったからこそ、彼方が誰を想ってどれだけ待っていたのかを知っているんだと思う。
 
495: (らっかせい) 2023/01/01(日) 21:01:21.82 ID:murlXOmr
「お姉ちゃん、あんなに露骨だったのに……大学生になったらお化粧とかもした方が良いのかなぁ。とか、格好いいお洋服選――」

「わーっ! わーっ! 言わなくていいから~っ!」

叫び声と共に身を乗り出した彼方は、遥ちゃんの口を手で押さえて黙らせる。
色々と買い物に付き合わされたりした日々を思い出させるその言葉に真っ赤な彼方は可愛らしくて。

「もういっそ……私だけのお姉ちゃんでいてっ! ってやっちゃおうかと思ったくらいで……」

「遥ちゃんも知ってるんだ……」

「お酒の席で持ちネタのように話してたから」

とある2人の、高校時代に起こったある出来事。
その片方……それをされた側の方が、お酒の席で酔うとほぼ毎回それをネタにしつつ、
みんなは注意しようねーと大っぴらに言うものだから
一緒に飲み会に参加したりした人は大体が知っていることだった。
遥ちゃんは「十数回は聞いたかなぁ」とあきれた様子で呟く。

「私が血の繋がっていない姉妹だったらどれだけいいかって思ったくらいですよ。よくあるじゃないですか。ヒロインとルームシェアしてるお友達が実はヒロインのことを……的な」

「九割くらいフられる系統じゃないの?」

噛ませというか、起爆剤というか。とにかく、ヒロインの考えを変えたり改めさせたりする役割を担い、結局は一緒になることが出来ない立場の子。

大体そういうイメージだって言うと、遥ちゃんは反発することなく頷いた。
 
499: (らっかせい) 2023/01/01(日) 22:00:31.63 ID:murlXOmr
「現実的には血がつながってますから。それが良いかなって……でも色々回り道はあっても、落ち着くところに落ち着いてくれたなら良いですよ」

「猛省してるわ……ほんと」

本当に。
色々考えてみて、彼方は結果オーライだって言ってくれたけれど
でも、今後のためにも省みるべきだし、実際にそうしてみたらもう、酷くて。

遥ちゃんは怖い笑顔を隠すと、ほっと安心したように息を吐く。
彼方の気持ちを知っていたなら私を急かすことだってできたのに、遥ちゃんはそれをしなかった。
私と彼方が自分の意思でちゃんと出来るのを待っていてくれた。

その心労は私が計り知って良いものではないと思う。

「これからを大事にしてくれればそれでいいんです。さっきは小姑とかお小言だって言いましたけど、別にそんなことする気はないですし……お姉ちゃんを大切にして、幸せにしてくれればそれで」

遥ちゃんは彼方を見つめてほほ笑む。
彼方と血の繋がりを感じる、優しくて柔らかい笑顔。

「お姉ちゃん、いつでも愚痴言って良いからね」

「何言ってるのよ」

「うん、ありがと」

「ちょっと!」

揃って笑う2人に折れて、冷めた紅茶を一口飲む。
愚痴くらいならあっても良い、喧嘩だってあっても良い。けれど、本当に枝分かれしてしまうようなことにだけはならないようにしようと、改めて思った。
 
505: (茸) 2023/01/04(水) 07:44:39.98 ID:0CVQVkFb
「遥ちゃん、今日の夜は時間ある~?」

「えっ……聞こえないふりはしないよ?」

「そうじゃなくてっ」

遥ちゃんの冗談に彼方はかぁっと顔を赤くして首を振る。
夜の私達のいかがわしい行為が発覚しようものなら邪魔に入るつもりと言わんばかりの遥ちゃん。

彼方が「夜にニジガクのみんなで集まることになってるから」って言うと、遥ちゃんは残念そうに笑って。

「夜は無理かなぁ……あとちょっとしたら移動しなくちゃいけないし」

「そんなギリギリなの?」

「明日、東北の方でちょっとあるので」

可能なら今日の集まりに参加したかったらしい遥ちゃんだけれど、
明日の仕事のための移動もあって夜までこっちにいるわけにはいかないようだった。
 
507: (茸) 2023/01/04(水) 07:52:59.75 ID:0CVQVkFb
「朝一に現地入りするのでも間に合うと言えば間に合うけど、やっぱり体力的には今日中に向こうに着いておきたいし」

「他のユニットの子も?」

「えっと……他の子はもう現地です。私はちょっと別件があったのでついでにお姉ちゃんのところ寄っちゃおうかなぁって」

私も結構、ギリギリなスケジュールだったりするけれど、遥ちゃんも同じく……もしかしたらそれ以上に過密なのかもしれない。

「あんまり無理しちゃだめよ? 」

「果林さんだってそうじゃないですか。私の場合はこう、ツアーとかがあると詰込みってなるだけでそうじゃなければある程度お休み貰えてるんですよ。そもそも、休んでこそって部分がありますからね」

分かってます? なんて、事情をしってる口ぶりの遥ちゃんから彼方に視線を移すと、
彼方はにへらと笑う。

果林ちゃんが仕事ばっかりだとか、あるいは、全然お休みしないのとかなんかそういうことを言っていたのだろう。

「私も今しばらくよ。もう少ししたら落ち着くと思うから大丈夫」

「……なら良いですけど。無理したらだめですからね。お姉ちゃんに心配かけないでください」

「だからって大事なこと黙ってたら怒るよ」

明らかに視線を感じたらしい遥ちゃんは焦った様子でごめんねって謝り倒す。
仲の良い姉妹は、このくらいでは別たれることもなくて。
ほんの少し、その深い繋がりが羨ましく感じる。

――なんて。

ずっと前から、羨ましかった。
 
509: (茸) 2023/01/04(水) 10:01:47.76 ID:0CVQVkFb
「ねぇ、遥ちゃんはこれからも私のことは果林さんなの?」

「え? あー……たぶん、そうですね」

さっきは冗談で " お義姉ちゃん " と呼んでいたけれど
結局はいつも通りの方がしっくり来るという遥ちゃん。

「お義姉ちゃんって呼んだ方が良いですか? ……うーん」

改めて口にしてから少し考える素振りを見せて。

「どちらかと言えば、お義姉さんの方がしっくりくる……あと、お姉ちゃんとお義姉ちゃんでほとんど同じだから……」

「じゃぁさ~果林ちゃんをお義姉ちゃんで、お姉ちゃんをお姉さんって呼ぶのは~?」

ちょっぴり期待してる彼方に遥ちゃんはにこりと笑う。
笑った顔は彼方と血の繋がりを感じさせるからか、
期待を裏切るんだろうと察することが出来てしまって、つい口許が緩む。

「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。お姉さんはちょっとだいぶ違うから」

「え~? なんでなんで~?」

残念そうに遥ちゃんを揺さぶって迫る彼方。
遥ちゃんはそんな彼方をぎゅっとして……。

「だってお姉ちゃんの方がかわいいから」

なんて、私を見て「ね?」と笑った。
 
512: (茸) 2023/01/04(水) 10:24:14.73 ID:0CVQVkFb
「えーっ! 果林ちゃんの方がかわいいよぉ~!」

「そうかしら?」

「果林さ……お義姉さんはかわいいより綺麗だし格好良いから」

私はもちろん、遥ちゃんからも同意を得られなかった彼方は、それでも納得いかないって様子で眉を潜める。

そうしておもむろに顔をぐっと握りこぶしを作って。

「決めた。私は格好良いお姉さんを目指します」

「もうその反応がかわいいよ」

「えっ」

「そうね。かわいいわ」

遥ちゃんに同意してかわいいお姉ちゃんの頭を撫でる。
妹に抱き締められながら、かわいいと言われて撫でられるお姉ちゃんこと彼方は、
耳を赤くしながら遥ちゃんの胸に顔を埋めた。

「くぅ……」

「ふふっ」

小さく呻いた彼方に思わず笑みが溢れる。
遥ちゃんとは反対側からそうっと肩に手を置き、ぐっと体を寄せて。

「もう……かわいいんだから」

耳打ちすると、彼方はびくっとする。
どこまでもかわいいから、やっぱり彼方はお姉ちゃんのままだろう。なんて思ったのもつかの間――

「……せめて私が帰ってからにしてくださいね」

遥ちゃんは可愛らしい笑顔でそう言った。
 
513: (茸) 2023/01/04(水) 10:33:39.12 ID:0CVQVkFb
続きはまたのちほど
 
524: (らっかせい) 2023/01/08(日) 20:31:06.15 ID:H/8QmZPA
「じゃぁ、そろそろ帰……るわけじゃないけど、帰ろっかな」

「もう行くの? もうちょっといても……」

「ん。余裕を持っておきたいからね」

仕事だし、遠くに行くからある程度の余裕を残したスケジュールで動きたいっていうのは普通だと思う。
私だって……諸事情があるけれど、多少のイレギュラーがあったとしても問題ないように行動するようにしているし。

だから名残惜しくても遥ちゃんはそう言いながら、彼方のことをぎゅっとする。

普通の姉妹よりは距離の近い2人。
でも、引っぺがす気にはならない。

「また電話するし、余裕が出来たら会いに来るから果林さんがいない日教えて」

「何言ってるのよ」

「寂しさ埋めてあげようと思って」
 
525: (らっかせい) 2023/01/08(日) 20:36:06.81 ID:H/8QmZPA
遥ちゃんは彼方の背中を撫でるように抱いて悪戯な笑みを浮かべる。
嫌ならちゃんと休めばいいって暗に要求されてるようで、頷く。

「分かってるから」

「ほんとう、お願いしますね。お姉ちゃんのこと。いつも私達のために頑張ってくれて、我慢してくれて、そんなお姉ちゃんがこれだけは譲れないってなったのが果林さんなんですから」

「は、遥ちゃっ……」

止めようとした彼方に、遥ちゃんは可愛らしく笑って。

「ええ、もちろんよ。私だって譲れないものがあるんだから」

遥ちゃんの手から彼方を引き取って。腕の中で驚き、困惑しているだろう温かくて柔らかい存在を優しく抱いて遥ちゃんに目を向ける。

「そういうの、もう数年早くやっておいて欲しかったですけどね」
最後にぐさりと一言突き刺してきた遥ちゃんは、勝ち逃げとばかりに玄関から出て行く。
名残惜しんで、ドアが閉まる前に手をひと振りする来た時と同じ、まるで宅配業者のような風貌の遥ちゃん。

「……小姑、怖いわね」

ぼそりと呟いて、耳の赤い彼方の耳元に口を近づける。

「する?」

「っ……し、しないよっ!」

かなり強く、可愛らしいお断りだった。
 
527: (らっかせい) 2023/01/08(日) 22:36:18.09 ID:H/8QmZPA
私としては電車やバスでも構わなかったけれど、
私の立場的にそういう多くの人の目に触れる移動手段は避けるべきだってことで、
家の前ではなく、少し歩いたところにある適当なお店のところでタクシーを呼んで愛のお店へ向かうことにした。

元々大した距離があったわけでもなく、20分もかからずにお店に到着。
お店の入り口には本日は臨時休業との張り紙がされていて、
彼方と一緒に入ると、もうすでに何人かは集まってきているようだった。

「来たよ~っ」

「ご健勝で何よりです。彼方さん。果林さん」

彼方が明るく一声を投げ込んですぐ反応したスーツを着込んだ女性は、
お姉さんほどいい感じのスタイルには惜しくも届かなかったけれど、すらりとした美しさのある大人に成長した栞子ちゃん。

「久しぶりね。いつ以来かしら」

「昨年末ですね。あの時は運良く集まることが出来たので……ふふっ」

栞子ちゃんはふと、ちょっとだけ照れた笑みを浮かべて。

「やっぱり、有名な芸能人と直接会うのはなんだか緊張しますね」
 
528: (らっかせい) 2023/01/08(日) 23:04:29.32 ID:H/8QmZPA
「何言ってるのよ今更じゃない。サインでも書いてあげましょうか?」

「それは、欲しいですね」

美人に育って、けれど可愛らしい面影がまだ感じられる栞子ちゃんの笑み。
それはきっと、栞子ちゃんを大事にしてくれる相手がいるからだろう。

「自慢にもなりますし、ぜひ……色紙があれば――」

「あるよ」

ぬっっと横から割り込んで来たもんじゃのにおい。
多くの著名人が来たりするお店特有の、まるで備品のように置かれていただろうものを持ってきた店主から色紙とペンを受け取る。

「あーっ、栞子ちゃんがサイン貰ってるー! 私も私も!」

「じゃぁわたしも」

彼方と話していたかと思えばこっちに口を挟む侑と璃奈ちゃん。
狡い狡いといった様子の侑ちゃんの一方で、どうせならって相乗り気味の璃奈ちゃんだけど……。

「2人には前にあげたでしょ」

「そうだったかなぁ……もう一枚くらい欲しいなぁ」

「高く売れる」

「何言ってるのよもう……すぐに分かるから止めて頂戴」
 
529: (らっかせい) 2023/01/08(日) 23:35:47.05 ID:H/8QmZPA
撮影などで立ち寄ったお店を除くと私がサインをするようなことはまったくなくて、
そうなると璃奈ちゃんが言っているように高く売れるかもしれないけれどその希少さからプレミアになってSNSなどで色々言われることになると思うし……。

「絶対にろくなことにならないから。フルネーム入れておいてあげる」

「わたしのは宮下愛で」

「りなりーっ!」

愛の叫びに、璃奈ちゃんは小さく笑みを見せる。

最初の頃は本当に、全然って様子だった璃奈ちゃんは、
同好会での経験と私達との長い付き合いを経て段々と笑ったりすることが出来るようになって、
今では、もう……ちゃんと。

「もんじゃ宮下にしておくわ」

「やめて! 炎上するから!」

「そう言えば侑ちゃん侑ちゃん。歩夢ちゃんは一緒じゃなかったの~?」

ちょんちょんって侑の気を引いた彼方の疑問に、侑は「仕事が長引いちゃったみたいで」と困った顔をする。
何時間も遅れるってわけではないけれど、
少し後に来るらしい。
 
530: (らっかせい) 2023/01/09(月) 00:27:50.94 ID:kwVbSD9O
「あと来られるのって? しずくちゃんとかすみちゃん?」

「いえ、菜々さんも来られる予定ですよ。歩夢さんと同様に少し遅れてしまうかもしれませんってご連絡がありましたが」

当たり前といえばそうなんだけれど、
流石にエマやミア、ランジュは気軽にこっちに来るなんて出来ないから会うことは出来ない。

でも……。

「そっか~どうしよう。待ってた方が良いかな~?」

「ううん。彼方さん達が先に着いたら始めておいて欲しいって」

「さすがに主役を待たせるわけにはいかないからね! 店主直々のおいしいもんじゃパーティはっじっめっるよー!」

そう声を上げた愛は、鉄板に油を垂らしてヘラで伸ばす。

璃奈ちゃんと愛、そして侑
その向かいに栞子ちゃん、彼方と私って並びで座って、愛の調理を見守る。
もう長くここにいる愛の手つきは素早く、丁寧で、無駄がないけれどしっかりとしていてとても鮮やかで。

「あ、彼方さんと果林さん今日って飲めます? 愛ちゃんのお店のとは別に、私、持ってきたんですよ!」

侑はそう言いながら一升瓶を取り出す。

「果林さんの地元の島焼酎! ドンッ!」

「……侑、貴女もう酔ってる?」

「さっき別のやつ味見してたから」

告げ口した璃奈ちゃんに「味見だから」と同じことを繰り返した侑は、
よく見れば少し、頬が赤い気がしなくもなかった。
 
552: (らっかせい) 2023/01/17(火) 23:05:08.50 ID:JB00vRA0
侑は特別お酒に弱いわけではないけれど、強いかといえばそうでもなくて、
何が言いたいかと言うと、ペースによっては普通に酔ってしまう。

愛お手製のもんじゃも美味しく、それに合うお酒があるとなればもう、ペースは早くて。

「でさでさ! 歩夢ってば今日はちょっと……って言うと受け入れはするけど、すっごく残念そうな顔してさー」

楽しく酔っぱらって声が大きくなった侑は、いつものように軽快に語る。

「それがもーほんとね。しかも笑ってるんだけどさー」

「侑さん……歩夢さんが来たら怒られますよ」

ゆっくりとマイペースに飲み進めていた栞子ちゃんの制止が入る。

「えーまぁ大丈夫大丈夫」

「ふぅん……大丈夫なんだ」

ぽんっ……と、言うか、ぽむっ……というか。
侑の肩に手を置いたとある女性の笑い交じりの声を聞いたとたん、侑は顔を硬直させてしまう。

「大丈夫なんでしょ? 続けて良いよ」

「……えっと」

「続けて?」

冷や汗が目に見える侑の一方で、その隣に座った女性――歩夢は満面の笑みだ。

「続けて?」

「……ま、まぁまぁ……今日はそういう日じゃないから」

なんて、おちゃらけた様子で逃れようとした侑の頬をグイっと引っ張った歩夢はため息をつく。

「侑ちゃんのせいで私が " 例の女 " って呼ばれてたの忘れたの?」
「本当ですよ。侑さんはもうお酒はやめた方が良いんじゃないですか?」

「えーっ! 菜々もそっちの味方するのー?」

「菜々って……もう、完全に酔いが回ってますね」

歩夢ちゃんと一緒に来たらしい、しっかりとしたスーツに身を包んだせつ菜ちゃんでもある菜々ちゃん。

ジャケットをハンガーにかけてから姿勢を正して座る姿は、本当に……良い大人って雰囲気だった。
 
566: (らっかせい) 2023/01/18(水) 21:59:48.45 ID:ByOKqjVl
>>552修正

侑は特別お酒に弱いわけではないけれど、強いかといえばそうでもなくて、
何が言いたいかと言うと、ペースによっては普通に酔ってしまう。

愛お手製のもんじゃも美味しく、それに合うお酒があるとなればもう、ペースは早くて。

「でさでさ! 歩夢ってば今日はちょっと……って言うと受け入れはするけど、すっごく残念そうな顔してさー」

楽しく酔っぱらって声が大きくなった侑は、いつものように軽快に語る。

「それがもーほんとね。しかも笑ってるんだけどさー」

「侑さん……歩夢さんが来たら怒られますよ」

ゆっくりとマイペースに飲み進めていた栞子ちゃんの制止が入る。

「えーまぁ大丈夫大丈夫」

「ふぅん……大丈夫なんだ」

ぽんっ……と、言うか、ぽむっ……というか。
侑の肩に手を置いたとある女性の笑い交じりの声を聞いたとたん、侑は顔を硬直させてしまう。

「大丈夫なんでしょ? 続けて良いよ」

「……えっと」

「続けて?」

冷や汗が目に見える侑の一方で、その隣に座った女性――歩夢は満面の笑みだ。

「続けて?」

「……ま、まぁまぁ……今日はそういう日じゃないから」

なんて、おちゃらけた様子で逃れようとした侑の頬をグイっと引っ張った歩夢はため息をつく。

「侑ちゃんのせいで私が " 例の女 " って呼ばれてたの忘れたの?」
「本当ですよ。侑さんはもうお酒はやめた方が良いんじゃないですか?」

「えーっ! 菜々もそっちの味方するのー?」

「菜々って……もう、完全に酔いが回ってますね」

歩夢と一緒に来たらしい、しっかりとしたスーツに身を包んだせつ菜ちゃんでもある菜々。

ジャケットをハンガーにかけてから姿勢を正して座る姿は、本当に……良い大人って雰囲気だった。
 
554: (らっかせい) 2023/01/17(火) 23:38:03.09 ID:JB00vRA0
「彼方さん果林さん、お引越しお疲れさまでした。ようやくですね」
「ええ、ありがとう」

「ありがと~。菜々ちゃんどぞどぞ~」

侑の持ってきた焼酎の瓶を持って菜々ちゃんに近づくと、お酌しますって仕草でお猪口に注ぐ。
今の彼方は普通に外向けの洋服を着ているけれど、それでも、なんだかお酌をする姿が似合って見える。

古き良き、割烹着を着ての日本料理を出してくれるお食事処の女将のような……。

「ありがとうございます」

菜々ちゃんのお礼にぴしゃりと意識を叩かれてはっとする。
いつか見られる彼方の姿を空想してしまうのは、お酒に酔っているからだろうか。

「改めて、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

ちょんっっとお猪口やジョッキを触れ合わせて細やかな乾杯。
歩夢ちゃんはひと口含むと、味わうようにくっと飲み込む。

「それにしても、果林さんすっごく有名になって……同僚もあこがれているみたいで、サイン貰えないかって毎日のように聞かれるんですよ?」

「あら……そうなの?」

「果林さん格好いいですから……働く女性のあこがれみたいなものがあるんですよ」
 
567: (らっかせい) 2023/01/18(水) 22:01:22.56 ID:ByOKqjVl
>>554修正

「彼方さん果林さん、お引越しお疲れさまでした。ようやくですね

「ええ、ありがとう」

「ありがと~。菜々ちゃんどぞどぞ~」

侑の持ってきた焼酎の瓶を持って菜々に近づくと、お酌しますって仕草でお猪口に注ぐ。
今の彼方は普通に外向けの洋服を着ているけれど、それでも、なんだかお酌をする姿が似合って見える。

古き良き、割烹着を着ての日本料理を出してくれるお食事処の女将のような……。

「ありがとうございます」

菜々のお礼にぴしゃりと意識を叩かれてはっとする。
いつか見られる彼方の姿を空想してしまうのは、お酒に酔っているからだろうか。

「改めて、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

ちょんっっとお猪口やジョッキを触れ合わせて細やかな乾杯。
歩夢はひと口含むと、味わうようにくっと飲み込む。

「それにしても、果林さんすっごく有名になって……同僚もあこがれているみたいで、サイン貰えないかって毎日のように聞かれるんですよ?」

「あら……そうなの?」

「果林さん格好いいですから……働く女性のあこがれみたいなものがあるんですよ」
 
557: (らっかせい) 2023/01/18(水) 00:22:21.49 ID:ByOKqjVl
そう言いつつ、むしろ憧れられていそうな菜々ちゃんは、マナー講師にも失点を認められないくらいにキレイな所作でもんじゃを口に運ぶ。

歩夢ちゃんは保育士として勤めていて、菜々ちゃんは都庁の数ある局の一つに勤めているエリート中のエリート。
働く女性という点では、間違いなく菜々ちゃんが上だと個人的には思っているけれど……。

歩夢ちゃんの同僚としてはテレビで見かける顔の方があこがれになるのだろうか。

「私としては、菜々ちゃんの方が格好いいって思うんだけど」

「私はそうでもないですよ。一概に努力すればいいだけとは言えませんが……私は不特定多数の目に見えない人々にも認められるべく邁進してはいるものの、実際には、この職に就き、働くこと自体はその多くに認められていなくても可能ですから」

菜々ちゃんは静かに答えて。

「だからこそ、私とは逆に周囲に認められてこそ輝くことのできる芸能界で、より強く輝く一等星のような果林さんに憧れています」

「ふふっ……それは過大評価って言うのよ」

「何を言っているんですか。それは謙遜と言うんですよ」

静かで、礼儀正しく……けれど、ほんの少し昔に戻ったかのような菜々ちゃんとの言い合い。
私が菜々ちゃんを認めても、菜々ちゃんはそれを下して私を認める。互いに、互いが目指したいものを目指し、どちらが先かと賭けをしたのはもう、何年も前の話だ。
 
568: (らっかせい) 2023/01/18(水) 22:05:07.49 ID:ByOKqjVl
>>557修正

そう言いつつ、むしろ憧れられていそうな菜々は、マナー講師にも失点を認められないくらいにキレイな所作でもんじゃを口に運ぶ。

歩夢は保育士として勤めていて、菜々は都庁の数ある局の一つに勤めているエリート中のエリート。
働く女性という点では、間違いなく菜々が上だと個人的には思っているけれど……。

歩夢の同僚としてはテレビで見かける顔の方があこがれになるのだろうか。

「私としては、菜々の方が格好いいって思うんだけど」

「私はそうでもないですよ。一概に努力すればいいだけとは言えませんが……私は不特定多数の目に見えない人々にも認められるべく邁進してはいるものの、実際には、この職に就き、働くこと自体はその多くに認められていなくても可能ですから」

菜々は静かに答えて。

「だからこそ、私とは逆に周囲に認められてこそ輝くことのできる芸能界で、より強く輝く一等星のような果林さんに憧れています」

「ふふっ……それは過大評価って言うのよ」

「何を言っているんですか。それは謙遜と言うんですよ」

静かで、礼儀正しく……けれど、ほんの少し昔に戻ったかのような菜々との言い合い。
私が菜々を認めても、菜々はそれを下して私を認める。互いに、互いが目指したいものを目指し、どちらが先かと賭けをしたのはもう、何年も前の話だ。
 
558: (らっかせい) 2023/01/18(水) 00:38:57.97 ID:ByOKqjVl
「む~……彼方ちゃんはねぇ~そういう空気に不満がありま~す」

「ちょっ、ちょっと……零れるっ」

隣からふわっと香った彼方の匂い。
ほんのりとお酒の匂いが混じった吐息が耳を擽って、揺さぶられる肩から繋がる手元の御猪口でさざ波が立つ。

「不倫だ~」

「待って、彼方、それは違うわ」

ぐいぃっと寄りかかってくる彼方を支えながらこぼれそうなお猪口に口をつけようとすると、
ついばむように彼方が口をつけて、ほんの少し啜る。

「果林ちゃんってば、負けず嫌いだもんねぇ……どんどん上に行く菜々ちゃんをすっごくライバル視してたよね」

「まぁね……」

「菜々さんは本当……はるか上に進んでいきますからね。私が並び立てたのは後にも先にもあの生徒会室だけでした」

「でも、栞子ちゃんの目標はお姉さんだよね」

「ん……」

璃奈ちゃんに突かれた栞子ちゃんは、気恥ずかしそうにお酒に口をつけると、
そのせいだと言わんばかりに頬を赤くしながら目を逸らす。
 
569: (らっかせい) 2023/01/18(水) 22:07:29.81 ID:ByOKqjVl
>>558修正

「む~……彼方ちゃんはねぇ~そういう空気に不満がありま~す」

「ちょっ、ちょっと……零れるっ」

隣からふわっと香った彼方の匂い。
ほんのりとお酒の匂いが混じった吐息が耳を擽って、揺さぶられる肩から繋がる手元の御猪口でさざ波が立つ。

「不倫だ~」

「待って、彼方、それは違うわ」

ぐいぃっと寄りかかってくる彼方を支えながらこぼれそうなお猪口に口をつけようとすると、
ついばむように彼方が口をつけて、ほんの少し啜る。

「果林ちゃんってば、負けず嫌いだもんねぇ……どんどん上に行く菜々ちゃんをすっごくライバル視してたよね」

「まぁね……」

「菜々さんは本当……はるか上に進んでいきますからね。私が並び立てたのは後にも先にもあの生徒会室だけでした」

「でも、栞子ちゃんの目標はお姉さんだよね」

「ん……」

璃奈ちゃんに突かれた栞子ちゃんは、気恥ずかしそうにお酒に口をつけると、
そのせいだと言わんばかりに頬を赤くしながら目を逸らす。
 
559: (らっかせい) 2023/01/18(水) 00:39:13.49 ID:ByOKqjVl
「違うと言えば嘘にはなりますが……」

「栞子ちゃん照れてる~」

「照れてるーっ」

歩夢ちゃんのからかう一声に続く、酔っ払い……侑の一声。

それから少しだけ静かになって、愛の焼くもんじゃの、香ばしい匂いと心地の良い鉄板の熱に焼かれる音が広がっていく。

「みんなそれぞれ目標はあるんだよ。今までもこれからも、ずっとずっとたくさんね」

愛はそう切り出して、笑みを浮かべる。

「その一つにたどり着いた若き……いや、もう若くはないか……」

「ちょっと!」

「あはははっ、自称若い三十路カップルにかんぱーい!」

「かんぱーい!」

「言い直しなさいよッ!」

愛のふざけた音頭と、それに乗るみんな
声を上げつつも、まぁいいか……なんて、軽く許せてしまう笑い声が隣から聞こえる。

ほんのちょっと照れ臭そうで、でも楽しそうで、嬉しそうな。
そんな彼方を見つめていると、彼方が気付いて。

「まだまだこれからだよ~」

彼方は明るく、そう言った。
 
570: (らっかせい) 2023/01/18(水) 22:13:16.78 ID:ByOKqjVl
>>559修正

「違うと言えば嘘にはなりますが……」

「栞子ちゃん照れてる~」

「照れてるーっ」

歩夢のからかう一声に続く、酔っ払い……侑の一声。

それから少しだけ静かになって、愛の焼くもんじゃの、香ばしい匂いと心地の良い鉄板の熱に焼かれる音が広がっていく。

「みんなそれぞれ目標はあるんだよ。今までもこれからも、ずっとずっとたくさんね」

愛はそう切り出して、笑みを浮かべる。

「その一つにたどり着いた若き……いや、もう若くはないか……」

「ちょっと!」

「あはははっ、自称若い三十路カップルにかんぱーい!」

「かんぱーい!」

「言い直しなさいよッ!」

愛のふざけた音頭と、それに乗るみんな
声を上げつつも、まぁいいか……なんて、軽く許せてしまう笑い声が隣から聞こえる。

ほんのちょっと照れ臭そうで、でも楽しそうで、嬉しそうな。
そんな彼方を見つめていると、彼方が気付いて。

「まだまだこれからだよ~」

彼方は明るく、そう言った。
 
571: (らっかせい) 2023/01/18(水) 22:47:41.84 ID:ByOKqjVl
歩夢と菜々が合流してからほんの十数分経った頃にかすみちゃんからもうすぐ着きますって電話が璃奈ちゃんに届いて、、
もう始めちゃっていてだいぶ盛り上がってると璃奈ちゃんが言うと……自分たちの分も残しておいてくださいってしずくちゃんの声が聞こえてきた。

「かすみちゃん、しずくちゃんも一緒なの?」

『んーそう。車で拾ってきた……っていうか、しずくを一人で歩かせたりタクシーのせたりするわけ行かないからさ』

遥ちゃんや私と同じように芸能活動をしているしずくちゃんは変装していたりしてもなんとなく気づかれがちな雰囲気があって、
夜に1人で……というのは心配だったらしい。

『そだ。パソコン持ってくから、頼んどいたやつお願いしていい? っていうか、璃奈酔ってないよね?』

「だいじょうぶ~」

璃奈ちゃんがちょっとふざけた酔ったような声色で返すと『冗談止めてよ』とかすみちゃんが返す。
かすみちゃんの声は少し遠く、外の音がかなり拾われているから車内に設置したスマホで通話しているのだろうか。

『彼方さん、果林さん。今日って遥さんそっちにいます?』

「いないよ~」

『ほらやっぱりいないって……』

しずくちゃんのちょっと笑い交じりの声はかすみちゃん向けだったようで、
かすみちゃんが何かを言うと、しずくちゃんの「おごりー」って楽しそうな声がかすかに聞こえて。

『あと5分もかからないと思うので、愛さん。お願いしまーす』

「はいよー」

愛が返事を返すと、電話が切れた。
 
572: (らっかせい) 2023/01/18(水) 23:03:26.18 ID:ByOKqjVl
「かすみちゃんが頼んでたって何の話? もしかして、聞いたらいけなかった?」

何らかのサプライズプレゼントとか。

ただの引越し……けれど、数年越しの同棲はきっとみんなにやきもきとさせてしまっただろうし、
お祝いの一つでもしてやろうみたいなことを考えたかもしれない。
それを聞いてしまってもよかったのかと念のため確認すると、
璃奈ちゃんは飄々とした様子でお猪口に口をつける。

「何も問題ないから大丈夫……ちょっとサプライズも考えはしたけど」

「え~気になっちゃうよ~」

「すぐにわかる」

彼方にゆさゆさと身体を揺さぶられる璃奈ちゃんはその流れに身を任せながら定型文のようにさっぱりと答える。

「じゃ、あたしはちょっと出てくるね」

「それなら私がヘラをお預かりします」

「いえ、私が預かります」

すっと手を伸ばした菜々の手に被せるように手を出した栞子ちゃんは愛が置いたヘラを掠め取る。
ちょっとだけ不服そうな菜々の視線を感じた栞子ちゃんは「私の方が年下なので」と、年功序列を引っ張り出す。

「では先輩を立ててヘラを渡してください」

「いえ、私の飲み会で培ったもんじゃ焼きスキルを披露したいんです」

ちょっとだけ恥ずかしそうに、菜々が喜びそうなことを言った栞子ちゃんは、
愛に比べるとさすがに囮はするものの、手慣れた感じで作業を進めていく。

「ほんとだ……栞子ちゃん慣れてる……っ」

「街コンのおかげかな~?」

「職場の飲み会ですよ」

侑のちょっかいをぴしゃりと叩き落とした栞子ちゃん。

お姉さんである薫子さんの姿を追いかけたわけではなく、ただ純粋に、自分には何が向いているのかというのを考えた時に、教え導く道こそだと考えた結果……教師になった。
教師を目指すと決めてから、お姉さんを目標に頑張り……そして、今はかつて学びの場としていた虹ヶ咲学園で教鞭をとるにまで至っている。
 
574: (らっかせい) 2023/01/18(水) 23:21:33.55 ID:ByOKqjVl
「栞子ちゃんの手料理だね~」

「もうっ……侑ちゃんお水飲んでお水……違っ……それお酒でしょっ」

ふわふわとした様子の侑を介助する歩夢を横目に彼方に目を向ける。
彼方はほんのりと赤い顔をしてはいるものの、酔っぱらった様子はなく平然とそれを眺めていて。

「果林ちゃんが酔っぱらっても私が助けてあげるから、じゃんじゃん飲んでいいよ~?


「明日に響くから遠慮するわ……お酒はほどほどに楽しむから良いのよ」

一気に飲み干していくのは身体に悪いが、悪いわけではないって思っている。

彼方のことで愚痴を言いに来ていた時こそ、どんどんとお酒が進んでしまっていたし、
彼方にはその後の悪酔いした情けない私を見られ慣れているから、見せられないってこともない。

とはいえ、どちらかと言えば、少しずつ味わってじっくりと楽しむのが良い。

「……宅飲み出来るといいねぇ」

「あぁ、そうね……家ならゆっくり出来そう」

選りすぐりのお酒は、ワインか日本酒か…それともまた違ったものか。
彼方はきっと、そのお酒に合うおつまみを簡単に作ってくれて……軽くグラスを合わせて細やかな乾杯。

ひと口含んでお酒を味わい、おつまみを口に運んで……もうひとくち。
おつまみもお酒も美味しいって褒めて、嬉しそうな彼方に笑みを貰って……。

そして――グラスに注がれたお酒を通して、彼方に酔う。

なんて。

「今度、出来たらやりましょ」

「ん……そうだねぇ……」

目の前でもんじゃを作り上げる栞子ちゃんの手つきをパフォーマンスを見るかのようにまじまじと見つめる菜々や、なぜか動画を取る璃奈ちゃん。
侑に無理矢理水を飲ませて、背中を擦る歩夢ちゃん。

皆がいる。
けれど、それとなく肩を寄せ合って小さな声で2人だけの小さな予定を立てた。
 
576: (らっかせい) 2023/01/18(水) 23:43:59.55 ID:ByOKqjVl
それから間もなく車の音が聞こえて、貸し切りにされているお店のドアが開く。

「お待たせしましたー! 主役の登場ですよー! 中須か――」

「ご紹介に与りました。桜坂しずくです」

「なーっ! もーっ!」

打ち合わせと違うじゃんっ! と、不満を漏らすかすみちゃんをよそにしずくちゃんは笑いながら適当な場所に腰を下ろして、
かすみちゃんはため息をつくと少し不釣り合いな大き目の鞄を床に置き、そこからノートパソコンを取り出して璃奈ちゃんへと手渡す。

「愛さん。そこのコンセント使って平気?」

「いいよー」

璃奈ちゃんはノートパソコンの充電器を差して起動し、かすみちゃんに認証を通して貰うと何かの機械を取り付けたりして操作していく。

「璃奈さん、やっぱり都庁に来ません? ホワイトハッカーの資格も持ってますし、実績的にも問題ないと思いますよ」

「フリーでやるのが気楽でいい」

菜々の好待遇と思われる誘いを片手間に蹴った璃奈ちゃんは作業を終えたようで、パソコンに取り付けたカメラらしきものに向かって手を振る。

「やっほー、エマさん聞こえる? 見えてる?」

「え――」

『うん! 見えてるよ~』

ノートパソコンの画面には、久しく話もできていなかったエマと。

『ランジュも良好よ。久しぶりね。みんな』

そして、ランジュまでもが映っていた。
 
589: (らっかせい) 2023/01/23(月) 22:29:56.49 ID:D/wa9XRv
『彼方ちゃん、果林ちゃん久しぶり~』

「久しぶり~」

モニターの奥に映る久しく会えなかったエマ
最後に会った時よりもさらに大人になったエマは、
けれど、浮かべている笑みはあんまり変わらない柔らかいもので。

ひらひらと手を振る彼方につられるようにしてエマも手を振っていた。

「久しぶりねエマ……元気してた?」

『うん~元気元気~。果林ちゃんも元気そうでよかった~……一応、かすみちゃんから近況の話は聞いてたんだけどね。やっぱり、顔が見られた方が安心する』

名前が挙がったからか、エッヘンと鼻高々な顔をするかすみちゃん。

かすみちゃんも仕事はあるけれど、
繁忙期もあれば閑散……とまではいかなくても落ち着く時期もある。

そういう時に自由に旅しているため、私達、元虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の中では一番、みんなとの繋がりが太く長い。

それは国内だけではなくエマやランジュ、ミアとも時折会っている。
 
590: (らっかせい) 2023/01/23(月) 22:44:35.22 ID:D/wa9XRv
『ほんとよね! あたしもまた今度そっちに遊びに行きたいわ……』

『ランジュちゃんも久しぶりだね~今どこにいるの? 香港?』

『今はアメリカよ。アメリカ! ほらミア!』

ぐいっと、ランジュが画面の外から荷物でも引きずるように引っ張り出してきたのはミアだった。
寝ぼけ眼ですらなく、まだ寝ていると言った様子のミアはだらんとしていて。

「アメリカって…そのどこにいるのよ」

『ミアの家よ。遊びに来てたの!』

日本との時差は14時間とかそのあたりだったはず。
ランジュ達のところは朝の6時とかそのくらいだろうか。

つまり、早朝によく見たテンションで盛り上がってるランジュと死に体のミア…。

「ミアさん死にかけてません……?」

画面を覗いたしずくちゃんが心配そうに呟くと、
ランジュは大丈夫大丈夫と、笑って『2時間前まで起きてたから平気』と、とんでもないことを口にする。

「寝かせておいてあげなよー」

『ミアも一緒の方が良いと思ったんだけど……仕方がないわね』

ランジュがフェードアウトすると、ベッドにでも転がしたのか、ぼふんっと音が聞こえた。
 
591: (らっかせい) 2023/01/23(月) 23:01:09.92 ID:D/wa9XRv
「エマの方も大丈夫なの? まだお昼くらいでしょ?」

『Bene……あっ、大丈夫だよ~。やることは一通り終わってるから。子供達も今はいないし』

「そう……でも、さすがにお酒は飲まないでしょ?」

『そうだね~』

『あら、ランジュは全然飲むわよ?』

ほらほら……と、乾杯を催促するようにグラスを持つランジュ
画面の端にはウイスキーらしきボトルがちらりと見えている。

「ランジュさんもう飲んでるんじゃない?」

『ちょっと味見しただけよ。ちょっと』

ニコッと笑うランジュを見た歩夢は、隣でほんのりグロッキーな幼馴染を見て、表情を暗くする。
たぶん、その傍らに転がっているであろうミアに自分を重ねたんだと思う。

『わたしは飲まないけど、乾杯するよ~』

「じゃぁ、元同好会の再会とこれからの健勝……あと、ついぞ並んだKKの今後の幸せを願って――かんぱ~い!」

愛の大雑把な乾杯の音頭

PCのモニターに直接ぶつけ、キーボードにぶちまけたアメリカの誰かと、
手元で別のグラスとぶつけて音を出してそれっぽくするエマ
あとは、もう、各々好き勝手にグラスをぶつける私達。

「……ねぇ。KKってなんなの?」

「えー? 彼方と果林」

「近江彼方と近江果林だと思った」

「でもそれだと朝香が消えちゃうじゃん」

「そう言えば、どっちにするとか決めてるんですか?」

まだ、全然先のことを問いただしてくるみんなを手でしっしっと払って、いつの間にか発泡酒になっていたグラスに口をつける。
 
594: (らっかせい) 2023/01/23(月) 23:22:02.42 ID:D/wa9XRv
「そーいえば、遥ちゃんって最近会えてます?」

かすみちゃんはふと、思い出したように切り出した。

「ええ、お昼に会ったけど…どうかしたの?」

「遥ちゃんとコラボしようかと思ってるんですよ。遥ちゃんってアイドルとしてそりゃぁ大人な人達の人気もありますけど、若い子達にも人気あるんですよねー。だから、ちょっと唾つけとこうかなって」

事務所を通して話をするべきではあるのだが、
かすみちゃんはそもそもまず、遥ちゃん自身に声をかけておきたいらしい。

自分のブランドについて、必ずしも喜ばれるものではないと思っているからだろう。
遥ちゃんがあんまり好きじゃないと思っているなら、
そこに無理を通してまで……とは思っていないようだ。

「遥さんはまず私と…そう、わ・た・し・の、舞台に立つからね。かすみさんはあとあと」

「むーっ、それとこれとは関係ないじゃんっ!」

「遥ちゃんが人気で何より何より~」

左右に身体をゆらゆらとさせながら、遥ちゃんの人気っぷりを喜ぶお姉ちゃん。
それでも、酔っているというほどではないようで目ははっきりとしていた。

「けど、遥ちゃん舞台出るの?」

「そうなんですっ! そうっ……私が直々にオファーしたんですっ! 私の書いた脚本……そのヒロインにぜひとも遥さんを! って」

アイドルとしての活動をしながら舞台に出る。
ドラマに出たりなんだりというのもあるから、無い話ではないけれど、また一つ、遥ちゃんは忙しくなるだろう。

「あーっ、だから今日、遥ちゃん別件があったって言ってたんだ~」
「そうですそうです。遥さん、また一段と可愛らしくなられて……さすがアイドル……」

「そこでちらっとかすみんを見た理由を言えーっ!」

もんじゃの一口分をしずくちゃんの口に突っ込んだかすみちゃん。
それをいつも通りとばかりに気にしない璃奈ちゃんは、エマとランジュと楽しげに話していた。
 
603: (らっかせい) 2023/01/25(水) 22:38:04.54 ID:rSeYnzIj
貸し切りの店内に響くかすみちゃんたちの声。
お酒の入った大人たちの、でも、まだ若い――と思いたい声は良く弾んでいて、
マイクで音を拾うPCの中にいるランジュは、賑やかで羨ましいわ。と、ちょっとだけ寂しそうに言う。

同じくらいの画面サイズに納まっているエマは同意するように笑みを浮かべて、私の名前を口にした。

『わたしね、ずぅっと果林ちゃん達のこと気になってたんだよ? 卒業式の時、果林ちゃんは " 大丈夫よ、エマ " って言ったでしょ? なのに……その少し後に言ったこと覚えてる?』

「そんな昔のこと忘れたわ」

『嘘だ~』

エマは泡立っている、炭酸に見える飲み物を口に含んで笑って否定する。
もう何年も前だけれど意外とまだ鮮明な記憶。
エマはもうスイスに戻っていた大学の初めの頃だ。

『果林ちゃんってば " 大丈夫よ、エマ。まだ時間はあるから " って』

『そうだったの? 果林って意外と臆病なのね……ランジュだったら卒業式の時に気持ちを打ち明けてたわ。たとえ進む道は違えても、あたしは貴方と共にある人生でありたいって』

言い切って、からんっ……と、氷を鳴らしながらぐいっっとグラスを空にするランジュ。

『わー』

ぱちぱちと小さな拍手をするエマの一方で、私の頬をつんつんと突いてくる彼方は「だって~」と、欲しがる。

「貴女は私と違って帰国するでしょ。条件が違うのよ。条件が」

『ただの言い訳でしょ。それ……ねぇ、彼方。どうかしら。あたしなら彼方を絶対に満足させてあげられるわ』

「え~? どうしよっかなぁ」

「駄目よ。彼方は私のなんだから」

目の前にはいないランジュ。
そこに見せつけるように彼方をぐいっと抱き寄せて、その頬に口づけをする。

「か、果林ちゃっ……」

「ランジュには渡さないわ」
 
604: (らっかせい) 2023/01/25(水) 22:55:28.89 ID:rSeYnzIj
「果林ちゃん、ちょっと酔ってるでしょ……」

酔っているかどうかと言われれば、ほんのり身体が温かい程度。
だから酔っているわけではないが、完全に素面とも言い切れないかもしれない…なんて。

「大丈夫よ。大丈夫……彼方が温かいだけだもの」

「も~」

「これは酔ってますね~」

隣で頭を突き付けてぐりぐりとしてくる彼方をぎゅっと抱きしめると、
かすみちゃんと戯れていたはずのしずくちゃんがニコニコとしながら隣に座る。
気付けばみんな、最初に座っていた位置から大幅に入れ替わっていてばらばらだった。

「彼方さんに」

「からかわない~」

「良いじゃないですか良いじゃないですか。乾杯しましょう、乾杯」
そう言いながら、それぞれの手に持っていたグラスをこつんっとぶつけ合わせたしずくちゃんは彼方に右手のを差し出し、私に向かって左手のを差し出す。

受け取って一口飲むと……ほとんど無味の、冷たさが喉を通って頭に響く。
 
606: (らっかせい) 2023/01/25(水) 23:13:08.29 ID:rSeYnzIj
ただの水を飲まされて、ちょっぴり頭が覚醒に近づいたところに、
PCの方から、辛そうなうめき声が聞こえてきた。
エマはにこやかに私達を微笑ましげに見ているけれど、ランジュはどこかを見ていて。

『ランジュ……朝っぱらからゲームは止めてくれって言ってるじゃないか……昨日もFPSだなんだって……くっ……』

そんな声はランジュの方の画面の外からで、ミアのものだろう。
私達とオンライン飲み会的なことをしているとは気づいていないらしい。
2時間前……時間的には約3時間ほど前だろうか。
それまで起きていたミアはもしかしたら、ゲームにひたすら付き合わされていたのかもしれない。

『頭痛い……何か飲み物をくれないか……』

『ちょっと待って』

画面の中で、グラスにウイスキーを注ぎ、それを持って席を立つランジュ。
明らかにヤバいと察して止めようとするエマと、私達。
けれど、声だけでは酔ったランジュは止められなかった。

『サンキュー、ラン――ごほっ……なっ……これなんっ……ごほっ……ウイスキーか!?』

『ロックの方が良かったかしら』

『waterだろっ! くそっ……この酔っ払いめっ……って……これボクがこの前買った高いやつじゃないか!』

『目が覚めたのねっ!』

『shit! 泊めるんじゃなかった……っ!』
 
607: (らっかせい) 2023/01/25(水) 23:38:59.37 ID:rSeYnzIj
『……醜態を晒した……忘れてくれ……』

私達とのオンライン飲み会みたいなものだと気づいたミアはモニターの前に来ると、疲れたようにため息をつく。
それでも呆れる程度で終わるのは、ミアとランジュの付き合いが長く、今更なところがあるからだろう。

「ミアチ顔ヤバいよ? もうちょっと寝てた方が良いんじゃない?」

『いや……平気さ。このくらい』

「でもさー、ミア、かすみんがこの前会った時よりやつれてない?」
『そうか?』

「かすみちゃんほんっとアクティブだね。エマさんにもランジュちゃんにも会いに行って、ミアちゃんにまで……」

羨ましそうに言う歩夢に、かすみちゃんは「なら今度一緒にどうですか?」と誘いをかける。

「行きたいのは山々なんだけど、お休みが取れないの……取れないわけじゃないんだけど、長期旅行は中々ね」

「歩夢も大変だからねー、お疲れ様歩夢~」

ぎゅぅっと歩夢を抱きしめた侑は、そのまま頭をよしよしと撫でる。ほんのり顔色が戻った侑は、それでもまだ、完全には酔いがさめていないようで。
 
608: (らっかせい) 2023/01/25(水) 23:50:42.94 ID:rSeYnzIj
「そういえばさー、かすみちゃん。ミア子って呼ぶの止めたの? しずくちゃんもしずくだし、璃奈ちゃんも璃奈、栞子ちゃんも栞子になってたよねー」

「あー……」

『ボクがいい加減やめてくれって言ったんだ。良い大人になったからにはもう、そう呼ばれるのはちょっと恥ずかしいって』

「私は別にかすみさんらしくてよかったんだけどな~」

『しずくは子もくもほとんど変わらないから違和感が薄いだけだろ』
「……言われてみれば」

今更気づいたとばかりに得心の言った表情を浮かべたしずくちゃん。
それが演技だと気づいているだろうかすみちゃんはそれについて特に何も言うことなく「私も大人になりましたし」と切り込む。

『ランジュはいいわよ? ラン子でも』

「え? ウンk――」

「侑ちゃんっ!」

ぐぎっ……っとは言わなかったものの相当な力で口を塞がれた侑は、
流石に飲食店経営者としては見逃せなかった愛もそこに加わって、苦しみにもがきながら従業員以外立ち入り禁止のエリアへと引きずり込まれていく。

「ランジュ先輩はランジュ先輩ですよ」

『あら。そう? 先輩オーラがあるのかしら』

「相変わらずですねランジュは……ミアさんも苦労が多いでしょう」

『まったくだ。いい加減、送料無料で受け取ってくれないか? 特別に0円で構わないぞ』

「いえ、お断りします」

栞子ちゃんとミアの辛辣な反応も、まるで自分のことではないかのようにニコニコなランジュは、確かに手強そうだった。
 
609: (らっかせい) 2023/01/25(水) 23:51:34.24 ID:rSeYnzIj
続きはまた後日
 
619: (らっかせい) 2023/01/28(土) 21:37:10.10 ID:GsNpAKna
『そう言えば聞いたよ果林、ようやくだって。彼方はランジュとは違うから羨ましい限りだよ』

『ランジュとは違うってなによ……酷いじゃない』

「耳が早いのね」

『時差だって1日もないし、対面はともかく言伝ならいつでも出来るからね。まぁ、今回は号外号外だって突撃してきたMessengerがいたんだけど』

ミアはそういいながらモニターの一点、かすみちゃんの方をじっと見る。

ランジュほどではないにしても、
それなりに快活なかすみちゃんの突撃は疲労たっぷりのミアにとって騒がしかったのかもしれない。

『ねぇ~ランジュとは違うってなによ~』

『そういうところだよっ』

いい加減鬱陶しく感じたのか、後ろから覆い被さるようにしていたランジュの顔を押し退けようとするミアと、
それに対抗して頭を押し付けようとするランジュの些細な攻防戦
勝敗は明らかで、肩にランジュの頭を乗せたミアは疲れたようにグラスを傾ける。
 
620: (らっかせい) 2023/01/28(土) 21:48:19.18 ID:GsNpAKna
『彼方は支えてくれるだろ。これと違って……まぁ、たまにこうしてきてもかわいいからな……多忙な身の上としては良妻賢母……だったか? そんな相手は羨ましい限りさ』

「えへへ~」

良妻賢母
そう言われて嬉しそうな彼方を横目に頷く。
これ以上ないくらい近い距離でもまだ不満だって肩を抱いて。

「羨んでも渡さないわ」

『……ふっ。酒が甘くなるな』

『果林ちゃんはもうすっかりだね~……そうだ。ランジュちゃん今度、わたしのところおいで~』

『行く行く! なんならこの後行くわ!』

『今度って言われただろっ』

徹夜明けのハイテンションに近いランジュと、
それを押さえ込むミアそして楽しそうに笑うエマの三者三様なモニターの中の3人。

私の右隣に来ていたしずくちゃんは「楽しそうですね」と呟く。
 
621: (らっかせい) 2023/01/28(土) 22:10:10.20 ID:GsNpAKna
「ランジュさんがいたら退屈しないと思う」

「いや……あれは休まらないって言うんだよ。毎日このテンションはかすみんでもキツいかも」

「ランジュも毎日こうなわけじゃないらしいけどねー。ま、今日は特にめでたいからって盛り上がっちゃったんだよ――」

「あっ」

いつの間にか戻ってきた愛が笑顔になった途端、察した声を漏らした璃奈ちゃん。
分かる……もう長い付き合いだからこの後が容易に想像できる。と、
そう教えるように私にとっては小さな肩を軽く叩いてあげたのと同時に、愛の声が高らかに響き渡った。

「酒盛りだけにー! あっはっは!」

「盛り上がるっっ酒盛りだけにっっっぁっははははっ!」

愛の相変わらずのだじゃれに侑は大爆笑で、その隣の歩夢は「またぁ……」と、呆れ顔。

璃奈ちゃんはそんな歩夢の開いたグラスに、ほんの少しお酒を注ぐ。
 
622: (らっかせい) 2023/01/28(土) 22:43:07.62 ID:GsNpAKna
「歩夢さんも苦労してるみたいだから」

「うぅ……璃奈ちゃんっ」

ぐいっっと一気に飲み干した歩夢のグラスに、もう一杯。
それをまた飲み干して、もう一杯。
わんこそばのごとく、次から次へとお酒を飲ませようとする璃奈ちゃんの危うさに、思わず歩夢のグラスに手が出る。

「飲ませすぎよっ」

「……惜しい」

「歩夢ちゃんを酔い潰させようとするなんて……」

「お持ち帰りしようと思って」

「こらこら」

冗談でもやめなさいと璃奈ちゃんを制すると、彼方がお水を注いだグラスを歩夢に手渡す。
ちびちびとお水を飲む歩夢から目を離した璃奈ちゃんは細やかに笑う。

「冗談。でも、このあと、かすみちゃんとしずくちゃんはここに泊まるらしいから、わたし達もって思って」

「あら……そうなの?」

「あー2人はダメ。あたしの家は111人しか入れないんだ」

「なんでよ」

愛、かすみちゃん、しずくちゃん、璃奈ちゃん、歩夢、せつ菜、栞子ちゃん、侑で8人
11人まではあと3人も余っているのに――。

「っ」

ぎゅっと、腕を抱きしめられて目を向ける。

「……そうね」

なにも言わないし、私の顔を見てもいない。
けれど、私の腕を抱いて離さず身体を寄せる彼方の姿で答えが決まった。

「――あとエマっちとミアチとランジュが泊まるしね。モニターで」

「はいはい。そうね……じゃぁ、仕方がないわね」

愛の冗談に付き合うのは片手間に、彼方の頭を優しく撫でて、こつんっと頭を重ねる。
 
624: (らっかせい) 2023/01/28(土) 22:47:04.88 ID:GsNpAKna
>>622修正

「歩夢さんも苦労してるみたいだから」

「うぅ……璃奈ちゃんっ」

ぐいっっと一気に飲み干した歩夢のグラスに、もう一杯。
それをまた飲み干して、もう一杯。
わんこそばのごとく、次から次へとお酒を飲ませようとする璃奈ちゃんの危うさに、思わず歩夢のグラスに手が出る。

「飲ませすぎよっ」

「……惜しい」

「歩夢ちゃんを酔い潰させようとするなんて……」

「お持ち帰りしようと思って」

「こらこら」

冗談でもやめなさいと璃奈ちゃんを制すると、彼方がお水を注いだグラスを歩夢に手渡す。
ちびちびとお水を飲む歩夢から目を離した璃奈ちゃんは細やかに笑う。

「冗談。でも、このあと、かすみちゃんとしずくちゃんはここに泊まるらしいから、わたし達もって思って」

「あら……そうなの?」

「あー2人はダメ。あたしの家は11人しか入れないんだ」

「なんでよ」

愛、かすみちゃん、しずくちゃん、璃奈ちゃん、歩夢、せつ菜、栞子ちゃん、侑で8人
11人まではあと3人も余っているのに――。

「っ」

ぎゅっと、腕を抱きしめられて目を向ける。

「……そうね」

なにも言わないし、私の顔を見てもいない。
けれど、私の腕を抱いて離さず身体を寄せる彼方の姿で答えが決まった。

「――あとエマっちとミアチとランジュが泊まるしね。モニターで」

「はいはい。そうね……じゃぁ、仕方がないわね」

愛の冗談に付き合うのは片手間に、彼方の頭を優しく撫でて、こつんっと頭を重ねる。
 
625: (らっかせい) 2023/01/28(土) 23:17:51.14 ID:GsNpAKna
「あーそうでした。そうでした。彼方さんと果林さんにお祝いの品をですね。持って来てるんですよ」

せつ菜モードになりかけの、酔い半分な菜々は鞄の影に隠していた紙袋を差し出す。

「テーブルランプです。明るさ調節できるので、寝室にどうぞ」
「あら、ありがとう」

「じゃぁ私も」

「ありが……って、ちょっとっ!」

便乗するように璃奈ちゃんがカバンから取り出したポストカード。
表面は普通なのに、裏面には私と彼方の写真を合成しての"私たち結婚しました"が載せられている、悪戯な一品だった。

「もう……違うのに」

「なら、かす……私も出す時が来たかなー」

「えっ?」

自慢げな表情を浮かべたかすみちゃんは驚いた声を漏らしたしずくちゃんを一瞥すると、にやりと笑う。

そして、愛がどこかから持ち出してきた紙袋の中から、
かつての同好会を思い出させる、各々のイメージアイコンを柄に用いたエプロンを2着取り出した。

カラーはそれぞれ私と彼方の色だ。
 
626: (らっかせい) 2023/01/28(土) 23:26:46.11 ID:GsNpAKna
「かすみんブランドにおける唯一無二のエプロンですよー。もちろんペアなのでぜひお二人でどうぞ」

「わぁ~! ありがと~! うれし~ね~?」

「……私の分は良かったのに」

「良いじゃないですk――ぃだだだだだだっ! しずく痛いっ! 耳引っ張らないで!」

「かすみさん持ち帰るの大変だろうからなにも準備してないって言ってたじゃんっ! だから私、そうだねって思って今度家に持っていくことにしたのにっ!」

「えー? 素人のえんぎっぃったたたたたぁっごめんっ、ごめんってばぁっ!」

「もーっ!」

嘘か真か涙目なしずくちゃんはぷくーっと頬を膨らませる。

「もーっ。もーっ……どうしよう。あの、今度の私の舞台とかどうですか? 関係者席開けて頂いているので……美味しいお酒も用意したんですけど、家に届けたらいいかと思って手元にないんですっ」

本当に焦っていそうな可愛いしずくちゃん。
たぶん、演技ではなく本当だろうからからかったりすることはしないけれど、ついつい笑みが零れてしまう。

「無理しなくていいのに……でも、そうね。日程教えて貰える? 彼方と……」

そうね。と、ひと息置いて。

「彼方とデートするなら、観劇するのも良いと思うから」

照れる彼方と飛びかう野次、エマは嬉しそうで、ミアは見てられないと目を逸らす一方で、ランジュは酒の肴とでも言わんばかりにグラスを傾けていた。
 
627: (らっかせい) 2023/01/28(土) 23:37:50.42 ID:GsNpAKna
「そう言われると私もですが……すみません。今度、お家に行かせてください」

「ありがとう。栞子ちゃん」

「侑ちゃんがアレだから私から渡しますけど……これ、侑ちゃんが作曲した曲を私が弾いたやつです」

「ふふっ、帰ったら真っ先に聞くわね。ありがとう」

恥ずかしそうにしながら、でも、渡してくれたCDを大事にしまう。

「そろそろお暇しようかしら。これ以上は彼方も潰れちゃうかもしれないし」

「おーそっか……」

気付けばだいぶいい時間で、明日も仕事となれば帰らないといけなくて。

この賑やかなひと時はいつまでも続けば嬉しいけれど、でも、いつまでもは続けられない時間。
でもきっとまた、私達は集まることが出来るだろうから、寂しくはない。

『またね~』

「ええ、今度……そうね。今度そっちに遊びに行くわ。彼方も連れて……でも、待ちきれなかったら会いに来て頂戴」

『うん~準備しておくね~』

エマともランジュともミアとも挨拶を交わして、
そうして、みんなとも最後に一つ。

「これからのみんなの健康と、さらなる躍進を願って――」

――乾杯

音頭を取り、少しだけのお酒をみんなで乾杯し、ひと息に飲み干して、
主役が帰るならと皆も解散ってしようとしていたけれど、
せっかくだから、続けた方が良いって促して私と彼方だけは一足先にお店を出て、帰路についた。
 
632: (らっかせい) 2023/01/29(日) 22:15:45.84 ID:WOlEzqEY
お店の前でタクシーに乗り、家の近くで降りて少しだけ歩く。

彼方はお酒を飲むペースこそゆっくりではあったけれど、
それでもたくさん飲んでいたはずなのに、足取りは軽やかでしっかりとしてる。

でも、念のために声をかける。

「大丈夫?」

「ん~……大丈夫~」

「そんな語尾伸ばしちゃって、本当は酔ってるんじゃないの?」
「んふふ~ちょっとだけね~」

彼方はほんのりと赤らんだ頬を月明かりに照らしながら、私を振り返って笑みを浮かべる。

彼方はお酒に強い。
たぶん、私の倍の量を飲んだとしてもほろ酔い程度で留められるだろうし、すぐに酔いを醒ませられる。
だからもしかたらもう、酔いは醒めているかもしれないし、ほろ酔いかもしれない。

「……あんまり先行かないで頂戴」

「ん」
 
633: (らっかせい) 2023/01/29(日) 22:51:37.64 ID:WOlEzqEY
ぴたりと立ち止まった彼方の隣に並ぶ。
でもそれが限界で、手を繋いだりは出来ない。
その繋いだ手がもし、私達の関係を知らしめてしまったとしたら、色々と破綻することになってしまうから。

「もし、少しでも先に行ってしまうなら――私は間違いなくその後を追うわ」

「怖いこと言うねぇ~」

その言葉の意味を知っていながら茶化すように笑う。

「一緒が良いのよ。これからは」

「そだねぇ……でも、そういうこと考えるのは~……めっ」

ぐいっと、頬に指を突き付けてきた彼方はやっぱり笑顔で。
手を引きたいし、抱きしめたいし、何なら口づけをしたいって思わされる。
陰りの少ない点々とした星の輝きと、妖艶な月光が私の心を誘う。

「果林ちゃんってば、意外とネガティブだよね」

「慎重と言いなさい」

「私……ううん。彼方ちゃんはいつだって果林ちゃんのそばにいるよ。これまでだって、これからだって。もちろん、これからは今までよりもすぐそばにいる」

――だから大丈夫。

彼方はそんな笑みを浮かべながら「早く帰ろ?」と、一歩進む。
「そうね……」

私も今は早く帰りたい。
そう思って、大きく踏み出して、もう一度彼方に並んだ。
 
634: (らっかせい) 2023/01/29(日) 23:00:33.37 ID:WOlEzqEY
何事もなくマンションに着いて彼方、私の順に玄関に上がる。
わき目もふらずに施錠をして――。

「わっ……」

彼方の身体を後ろからぎゅっっとする。
外の冷気に当てられて冷たいけれど、その中に蓄えられている彼方の温もりが感じられて……心地が良くて。

ウェーブがかかった長い髪は、いつもと違ってほんのりと香ばしい、もんじゃの匂いがする。

「……果林ちゃん?」

「もう少し」

「先に着替えようよ~」

「良いの。このままが良いの」

「もう……果林ちゃん酔ってる~?」

彼方の柔らかい声がして、小さな手が私の頭を優しく撫でる。

それなりに飲んだから多少は酔ってしまっているかもしれない。成人したばっかりの時、お祝いで飲んで以降口にしていなかった地元のお酒もあったから。

懐かしくて、少し、ペースも早かったかもしれない。

「……酔ってるわけではないわ。でも、ただ、こうしたいの」

そう言うと彼方は「そっか」と小さく呟く。
 
636: (らっかせい) 2023/01/29(日) 23:40:50.00 ID:WOlEzqEY
「……好き」

「うん」

「もう、離れたくないわ」

「そうだねぇ……」

離れたくないって言ったって何かをするときにはこうしてはいられないし、
私にも彼方にもそれぞれ仕事がある。
だから、学生の頃のように好きなだけそばにいるなんてことは出来ない。

だからなおさら、惜しいって感じてしまう。
もっと早くこうしていればよかったって。
無駄に慎重にならないで、ただただ、わがままに踏み込んでいってしまえてればよかったって。

――だから。

「彼方……結婚しましょう」

「うん……んっ、えっ!?」

「今は指輪……ないけれど、でも、ちゃんと用意するから」

「飛んでる飛んでる。色々飛んじゃってるよ果林ちゃん」

驚いて戸惑ってる彼方の身体を抱く力をほんの少し強くしてから手放し、私の方を振り向かせる。

逃したくない。
今踏み込めている自分を止めたことを後悔したくない。
 
638: (らっかせい) 2023/01/29(日) 23:59:19.68 ID:WOlEzqEY
「彼方は――嫌?」

「そ、それは……嫌じゃ、無いけど……でも、もうちょっと……こう……」

「そうね」

ムードがあった方が良い。そう続くとみて――唇を重ねる。
最後に口にした日本酒のわずかに甘く発酵した香りが突き抜けていく。

「これからもずっと――今までよりもずっと近い、私の隣にいて欲しい。朝も、夜も。顔を合わせて笑顔になれる私達でありたいわ」

「……もうっ。果林ちゃんってば。ちゃんと覚えててくれるのかなぁ?」

彼方は私が酔っぱらっているから、その勢いでこうしていて、
明日の朝になったら忘れてるかもしれないって、思っているみたいだけれど……半分正解。

でも、忘れない。
これは私の心のことだから。

「絶対に忘れないわ。大丈夫……でも、心配なら、ね?」

「も~……」

彼方はしずくちゃんみたいに可愛らしく頬を膨らませて不満をあらわにすると、
仕方がないなぁって言うかのように私の肩に手を添える。

高校生の頃から小さくて、すっかりそのままな彼方とちょっとは伸びてしまった私。
その身長差を埋めるべく背伸びする彼方のために少しだけ屈むと、唇が触れて。
私の首に腕が絡んできて、起こそうとした身体にもう一人分の重さがついてくる。
 
639: (らっかせい) 2023/01/30(月) 00:05:20.42 ID:UOgFyYpd
「んっ……」

腰とおしりの方に手を回して抱き上げるように支えて、一瞬だけ唇を離し、見つめ合ってもう一度。

「……果林ちゃん……っ」

「彼方……」

唇を重ねて、離れて、もう一度唇を重ねる。
彼方の上着を脱がして、私の上着を脱がされて……少しずつ、薄着になっていく。

「――ベッド、いこ?」

寒さではなく、上気した彼方の上目遣い。
その酔わせるような甘い誘いに従って、すぐそばの扉を開け、ベッドの上に彼方を押し倒す。

「んっ……果林ちゃん……っ」

頬は紅く、うっすらと浮かぶ汗と、張り付いた前髪。
そうしてはだけた格好のまま、私を受け入れるように両手を広げる彼方。

「好きよ。彼方……ずっと、ずっとよ」

「うん……私だって、好き」

そうっと前髪を払い、額に口づけをして、頬に口づけをして、
露わにあっている首筋にキスをして。

「……結婚しましょう」

「んふふ……も~……果林ちゃんはせっかちさんだねぇ」

笑いながら私の首に腕を回して抱き寄せた彼方は、
耳元で小さく口を開く。
 
641: (らっかせい) 2023/01/30(月) 00:30:29.82 ID:UOgFyYpd
「……良いけど。でも、まずは婚約。それからゆっくり……ゆっくり、付き合って行こうよ。恋人期間を楽しみたいから」

「それもそうね……」

唇を重ねて頬を撫でる。
目を合わせて、ちょっぴり笑いあって、唇を重ねる。

「ねぇ、彼方」

「ん~?」

「……ごめんなさい。呼んだだけ」

かつては近くても、込められなかった想いを込めて名前を呼ぶ。それに彼方は答えてくれて、可愛らしく笑顔を見せてくれる。
愛おしい私の恋人。

「ねぇ、果林ちゃん」

「なに?」

「ん~ん……呼んだだけ~」

「なによもう……明日も仕事なんだから、挑発しないで頂戴」

仕返しのように甘く囁くように名前を呼んできた彼方の頬に口づけをする。
ほどほどに抑えなくちゃいけないって思っても、我慢しきれなくなることだってたくさんあるんだから。

――でも。

「まぁ、明日の私が何とかするでしょ……きっと」

彼方の家から持ち込んだスタイリッシュなデザインのデジタル時計
それと全く同じ型で、色が違うだけの時計
その二つのアラームをセットして、彼方の身体に覆いかぶさる。
「――いいでしょ?」

今まで触れられなかった分、深く、長く、広く、大きく。
彼方の身体に触れて、愛して、じわりじわりと溢れてくる甘い感覚に浸り、溺れて、交わっていく。

そうしてまた、私はきっと馴染みある目覚まし時計のけたたましい音に叩き起こされるようにして目を覚まし、
夜の仕返しとばかりに " ホットミルクチョコレート " を飲まされるのだろう。

でも大丈夫。

――だって。

その分のカ口リー消費は、今ここでしてしまえばいいのだから。
 
642: (らっかせい) 2023/01/30(月) 00:40:51.21 ID:UOgFyYpd
終わりがないので、以上で終わりとなります
途中抜けてしまいましたが二ヶ月間お付き合いありがとうございました
 
643: (しうまい) 2023/01/30(月) 00:43:32.26 ID:mLGy4rJ+

滅茶苦茶良かった
 
646: (光) 2023/01/30(月) 07:33:10.08 ID:MMUsUqUq
甘々だよ果林ちゃん
 
647: (茸) 2023/01/30(月) 07:46:46.74 ID:k6LFHbxz
最高でした
お前はかなかりの柱になれ
 
648: (もんじゃ) 2023/01/30(月) 07:54:16.06 ID:b+RLhdvl
さすがだなぁ、タイトル通りの甘さだった
次回作にも期待してるぞ
 
649: (光) 2023/01/30(月) 08:22:24.20 ID:LniDeMpt

甘々なかなかりをありがとう
彼方のママみと果林の素直になれない&なった途端甘々になるかなかりの素晴らしいところが凝縮された作品だったわ
 

引用元: https://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/lovelive/1667777425/

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