にこ「すれ違っても分からないくらい」【長編SS】

フェス限にこ SS


1: 2020/05/06(水) 09:18:42.50 ID:9bQua4pe
にこ「……。」テクテク


μ'sが解散して、もう10年と少しが経った。気が付いたら30歳も目前に迫った29歳の春。


私は高校卒業後バイトをしながら大学に通ってアイドル活動を続けていた。その3つの掛け持ちは大変ではあったけど、毎日が充実していたし何より楽しかった。


そんな中ママが倒れた。過労だった。

2: 2020/05/06(水) 09:20:04.57 ID:9bQua4pe
幸い命に別状は無く少しの入院だけで済んだけど、私は思っていた以上にママに無理をさせていたのだと知り、それまでの人生全てを費やしてきたアイドルを、辞めた。


ママは申し訳無さそうにしていたしその事で何度も謝られたけど、気にしていない。仕方が無かったのよ。


未だに家計は安定した訳じゃないし、妹達が大きくなればその分学費も増える。


もし皆が大学まで行く事になったらどうにもならなくなってしまう。


妹達が進路を諦めないといけないなんて事になってはいけないし、それなら私が大学を最短で卒業してママの助けにならないといけない。


それが女手一つで育ててくれたママに私が今できる唯一の恩返しだから。

3: 2020/05/06(水) 09:22:07.85 ID:9bQua4pe
アイドルに費やす時間が無くなってからは、それを苦手としていた勉強に費やした。


その甲斐あって大学を最短で卒業する事が出来て、就職活動も上手く行ったことで割と大手の企業に勤める事が出来ている。


給料にも文句ないし、ホワイトでは無いかもしれないけど間違いなくブラックでは無いそれなりに安定した会社。


その甲斐あってこころもここあも大学に通わせてあげられている。もうあまり頻繁には会えなくなってしまったけど、たまに写真を送ってくれる。あの子達が楽しそうにしている写真を見ると私まで楽しくなる。


私が家を出て就職してからは母親の負担も少しは減ったみたいで、毎日早く帰る事が出来ているみたいだ。


負担を減らす事ができた。それだけで私が夢を諦めてよかったって………そう思える。

4: 2020/05/06(水) 09:23:08.54 ID:9bQua4pe
……μ'sの皆とは、もう7年くらい会っていない。大学を卒業し、一人暮らしを始めた時から。いや、もっと言うとアイドルを諦めた20歳の夏からと言ってもいいかもしれない。


…スーパーアイドルになるってあれだけ言っていたのに、それを皆期待してくれていたのに裏切る形になってしまったのが申し訳なくてどうにも気まずくなって私の方から連絡を絶った。


それでも大学を出るまでは数回メンバーの誰かと顔を合わせる事はあったような気がする、って言っても直ぐに私が離れるから、会話という会話をした覚えはないけど。


それから先は皆が何をしているのかは知らない。


同じ東京とはいえ実家を離れている私にとっては、恐らく実家に住んでいるであろう穂乃果や海未、真姫なんかに会う心配はよっぽどない。


それにそれ以外の子達にも会っていないってことは多分近くに住んでいる子は居ないんでしょうね。

5: 2020/05/06(水) 09:23:38.50 ID:9bQua4pe
にこ「……。」テクテク


雑踏の中。


辺りはワイワイと騒ぐ学生や覇気の無くとぼとぼと帰路に付くサラリーマン達(まぁ私も同じなんだけど…)で溢れていた。


そんな中、スッとすれ違った人から何か嗅ぎなれた、懐かしくてどこか落ち着くような匂いがした。


にこ「……っ!?」バッ


振り返って見てみるけど、雑踏の中に入っていく女性を目で追いかける事は叶わず私も向き直り帰路に付く。


にこ「…まさかね」


私の記憶にある彼女は綺麗な長い髪の毛であった。だから気の所為だろう。


それにツインテールをやめたとはいえ、私の思っている相手だとしたら向こうも気が付かないなんて事無いだろうし。


それに勘違いかもしれないのに走りだして彼女の手を掴む、そんな熱い衝動はすっかり歳を取ってしまった私の中にもう残されていなかった。

6: 2020/05/06(水) 09:24:15.21 ID:9bQua4pe
明けて翌日。


今日は仕事も休みな事だし、久しぶりに録り溜めた音楽番組でも観ようかしら。


アイドルを諦めてからも、趣味としてアイドルを追いかける事は続けている。


ツバサなんかはプロとしてデビューした頃からアイドル界でもトップ中のトップとして君臨し続け、20代半ばになると女優に転身し現在でも活躍を続けている。それに……いや、なんでもないわ。

7: 2020/05/06(水) 09:29:24.50 ID:9bQua4pe
にこ「そういえば、今日隣に誰か越して来るって言ってたっけ」


面倒ね…挨拶に来るにしても今日来られるのは面倒だし、折角の休みだからゆっくりしたいわね。


引っ越してくる人には悪いけど、こっちにもこっちの時間があるのよ、と呟いて表札を外した。


平日の仕事に行っているうちに引っ越して来てくれればよかったのに…とボヤいた所でもうその事はどうでもいい、私は私の休日を楽しもうと思考を掻き出すように頭を左右に振った。

8: 2020/05/06(水) 09:30:21.99 ID:9bQua4pe
ピンポーン


アイドル番組を延々と流すテレビを眺めていると、折角表札を外したって言うのに無情にもチャイムが来客を知らせる。


「あれ、鳴った…ということはやはりここにも誰か住んで……?」


鳴らした本人も本当に鳴ってしまった事に驚いているようだった。


…たく面倒ね、そうなってしまったらこれからの近所付き合いの事を考えて居留守を使うわけにもいかないじゃない。


にこ「ったく面倒くさいわね……はーい、今出ます」ドタドタ

9: 2020/05/06(水) 09:32:36.80 ID:9bQua4pe
ガチャ


にこ「どちら様で……すか……?」


「あ、急に訪ねて来てごめんなさい。私隣に越してきたものです。これ、つまらない物ですが……」


にこ「……ぁ…え…。」


衝撃。


…この間のはやっぱり勘違いじゃなかった。



髪を短く切り揃え、どこか懐かしい匂いを携えて


海未「……?」


綺麗な青みがかった黒髪に蜂蜜色の瞳をした、私の10年来の仲間…園田海未がそこに居た。

10: 2020/05/06(水) 09:33:11.16 ID:9bQua4pe
海未「どうか、されましたか…?」


狼狽え、たじろぐ私に海未は異変を感じたようで心配される。


そういう律儀な所、相変わらずよね……


どういう訳か私には全然気付いていないみたいだけど。


にこ「あ、いや……なんでもないわ」


海未「そうですか、それは良かった。…それにしても、何だか聞き覚えのある……」


にこ「あぁ!ありがとうね、わざわざお土産なんて!有難く頂くわ」


海未「えっ、あぁ…いえ、これからよろしくお願いします。」


にこ「よろしくね、それじゃあ」

13: 2020/05/06(水) 09:33:57.19 ID:9bQua4pe
海未「…待ってください!」


声で私が手早くドアを閉めようとすると、がしりと右腕を掴まれる。


にこ「な、なに?私今少し忙しいんだけど」


海未「あっ、すみません…もし宜しければ、貴女のお名前を伺ってもよろしいですか?…こちらに表札が無いみたいなので」


にこ「え、いや、えーっと……」


海未「やはり………少しこちらで待っていて貰っても宜しいですか?15秒で戻ってきますので」


名前への問いに少し言い淀むと海未はそう言い残し私の答えも聞かずに駆け出して自分の部屋に戻っていった。


そのままドアを閉めて鍵をかけることも出来たはずなのに、なんとなく私も部屋に戻る事ができず意味は無いのに秒数を数えていた。


海未は確かに15秒で戻ってきた。

14: 2020/05/06(水) 09:35:17.10 ID:9bQua4pe
海未「……お久しぶりです」


15秒振りじゃないの、なんて冗談を言える雰囲気じゃなかった。


少し息を切らし部屋の前に戻ってきた海未は眼鏡を掛けていた。


なるほど、あの時もたしか眼鏡を掛けていなかった。


だから私に気付かなかったのか、なんて事を考えながらふと海未の顔を見る。


海未「…やっぱり、にこだったのですね」


眉間に皺を寄せ、絞り出すように震えた声だった。


怒っているのか悲しんでいるのか私には分からない。でもどこか辛そうな顔だった。


にこ「……とりあえず、入りなさい」


私はその言葉をやっと出す事しか出来なかった。

15: 2020/05/06(水) 09:35:57.43 ID:9bQua4pe
海未「…それで、今まで貴方は何をしていたんですか」


語尾を上げるような優しい聞き方では無かった。例えるんなら、子供のいたずらを叱る親の様な……いや、それよりももう少し厳しいか。


こうなる事が怖くて会わないようにしてたんだけど……


いや、そうじゃないわね。本当を言うともういいんじゃないか、説明をして皆の前に姿を現してもいいんじゃないか、って思った事は何度かあった。


些細な理由からだったからかも知れないけど、年を追うごとにそれが説明しきれない程大きな理由に変わっていく。


海未に話したらなんて言われるだろうか、そんなしょうもない事の為に自分達から離れたのか。と非難されるかな、私達の友情はそんな程度の物だったのかって呆れられるかもしれない。


約10年間仕舞ったままにしておいた氷の様な感情は、今や他の物までのしかかり、今更取り出すには少し大きくなり過ぎてしまった。

16: 2020/05/06(水) 09:36:42.29 ID:9bQua4pe
にこ「…別に普通よ、大学を卒業してからは仕事して、家の事をやって。その繰り返し」


海未「……聞き方を変えた方がよろしいですか?…何故私達の前から姿を消したのです」


にこ「…別に理由は無いわよ。よくある事でしょう?卒業した後疎遠になってしまう事なんて」


海未「にこ」


にこ「…何よ」


海未「本当の事を教えて下さい。今ここでまたにこと話をする事が出来ている、その事が私にとってどれだけ喜ばしい事か貴方にわかりますか?」


海未「どんな理由だって受け入れます。にこがどれだけの想いを抱えていたのか、私には分かりませんから。…こんな言葉を言うには、私達は歳を取りすぎてしまったのかも知れませんが……仲間ではないですか」


にこ「…っ」


少し照れくさそうに、それでも確りと私の目を見つめてそう言う海未の言葉に私は重たい口を開いた。

20: 2020/05/06(水) 09:40:49.75 ID:9bQua4pe
私が今までの事。夢を諦めた事から皆から離れた理由、それから現在に至るまでを伝えると、海未はその胸にどんな感情を秘めているのか分からない微妙な顔をしていた。



海未「……。」


にこ「…悪かったと思ってる。でも、時が経つにつれて余計に今更姿を現すなんて…って思ったのよ」


海未「そうだったんですね…そんな事で……」パッ


海未が突然立ち上がりつかつかとこちらに近づいて、にこの目の前で立ち止まる。


にこ「ちょっ…なに?」


海未「……。」スッ


にこ「…っ!!」ギュッ


手を上に上げる海未。


もしかしたら叩かれるかも知れない、と思って咄嗟に目を瞑る私。


海未「……。」ギュッ


1秒、2秒。時間が経っても何も起きない、と不審に思った瞬間、突然体が柔らかい物に包まれた。


一瞬何が起こったのか分からずにパッと目を開けると、海未に抱き締められていた。


やっぱりどこか落ち着く匂いがした。

21: 2020/05/06(水) 09:46:32.07 ID:9bQua4pe
にこ「えっ……」


海未「辛かったでしょう、寂しかったでしょう。アイドルに対する熱意が1番高かったにこのことでしょうから、その選択によって身を焼くほど辛い思いをした事でしょう」


海未「にこは私達に失望されたんじゃないかと言いましたが、誰がそんな事でにこを見損なうというのですか。自分の夢よりも家族の幸せを願った、そんな優しいにこに誰が失望しますか」


海未「皆ずっと心配していましたよ。もっと自分に出来る事があったんじゃないか、にこの力になれたんじゃないかって…勿論私も含めて、です」


海未「にこのお母様が倒れたという話は聞いてました、それなのにそんな辛い時に傍に居てあげられなかった事を後悔していたんです。」


未だ包まれている優しい匂いと海未の慈しむような優しい声色に。


まるで今まで抱えていた氷が溶け出したかのように、私は数年ぶりに涙を流した。

23: 2020/05/06(水) 09:48:07.39 ID:9bQua4pe
海未「…落ち着きましたか?」


にこ「ええ、ごめんね海未。勝手に悪い方向に考えて皆から離れて」


海未「いいんですよ。……それに、私も人の事を言えませんから」ボソリ


にこ「…?……なにかいった?」


海未「いいえ、なんでも。…それでは今日はお暇するとしましょうか。テレビ、見ている途中だったんでしょう?」


あれ、なんで私が今までテレビを見ていた事を知ってるんだろうと疑問に思っていると、海未は一時停止されたアイドル番組が映るテレビを指差した。


にこ「あ、そういう事ね…じゃあ見送るわ」


海未「ありがとうございます。…表札はちゃんと直しておいてくださいね?」


にこ「はいはい、悪かったわよ。引越しの挨拶やり過ごそうとして」


海未「ふふっ、分かってくれればいいんです」

24: 2020/05/06(水) 09:48:43.36 ID:9bQua4pe
にこ「それじゃあ、またね。隣だしすぐに顔合わせる事になりそうだけど」


海未「そうですね、それでは失礼します」


にこ「あ、ちょっと待って」


海未「…?」


にこ「穂乃果達とは、今でも仲良くしてるの?」


海未「…………はい、していますよ」ニコリ




間と表情に少し、違和感を覚えた。

25: 2020/05/06(水) 09:49:45.21 ID:9bQua4pe
海未「にこ?…それがどうかしましたか?」


にこ「あ、いや…私と会った事、まだ皆には言わないでおいてくれない?」


海未「あぁ、そう言う事でしたか。大丈夫です、この事は私の中だけに留めておきます」


にこ「…よかった、いつかちゃんと自分から皆の前に姿を見せるから……それまでは待ってて」


海未「ええ、確りと自分の口から伝えてあげてください。……きっと、皆も喜びますよ」


にこ「そうね、ありがとう。…それじゃあ」


海未「ええ、それではまた」


その後の海未は、自然だった。きっとさっきの違和感は私の気のせいなんだろうと無理やり納得して、扉を閉める。


なんだか今日はもうそんな気分になれなくて、笑顔でアイドルが映っている所で止まっていたテレビを消した。

28: 2020/05/06(水) 10:15:19.06 ID:9bQua4pe
海未と再開したあの日から2週間程が経った。それから何があったかっていうと出勤する時や帰って来た時にたまに海未が顔を見せに来て、何度か話をしたくらい。話をしたと言っても数分だけど。


関係の変化はそれくらい。だけど、私はあの時感じた違和感がどうしても忘れられなかった。


この2週間の間、出社する時にも帰って来た時にも海未は家に居た。


私が今日のように休みの日家でゆっくりしてた時も隣の部屋から扉が開く音がする事は無かった。


あの海未がずっと家に籠っているという事が、どうにもおかしい気がして仕方が無くて。


この前の違和感と関係あるんじゃないかと、不安になった。

29: 2020/05/06(水) 10:16:02.53 ID:9bQua4pe
にこ「……。」


そう思うといてもたっても居られなくなって、つい海未の家の前まで来てしまう。家に上がる為の口実としてわざわざ晩御飯として作ってきたカレーの鍋と炊飯器を抱えて。


どれだけなのよ、とも思うけどね。


私の思い過ごしならそれに超したことはないけど、もしかしたらなにか海未の力になれる事があるかも知れないし。


……それに、海未はこんな私の事を今でもまだ仲間、と言ってくれたから。


にこ「ええい、女は度胸よ!」ポチリ

30: 2020/05/06(水) 10:17:33.67 ID:9bQua4pe
ピンポーン


と何とも気の抜ける音が聞こえて少し肩の力が抜ける。そう言えば昔私達の歌に押してポチリなんて歌詞があったわね、なんて考えているとドアの奥の方からトタトタと歩いてくる音が聞こえた。


ガチャリ


海未「おや、にこですか?こんばんは」


にこ「こんばんは、在宅中でも鍵は掛けておいた方がいいわよ」


海未「ふふっ、そうですね、今日から気を付けますね。それで、にこはどのような…カレー?」


にこ「そ。今日はカレーの気分だったんだけど、折角作るんなら沢山作っちゃって海未も一緒にどうかなって思って。晩御飯もう食べちゃった?」


海未「いいえ、助かります。久しぶりですね、にこの手料理は」


にこ「それなら良かった。じゃあ、上がってもいい?」


海未「…………ええ、何にもない部屋ですがゆっくりしていってください」


またもや変な間があったものの、部屋の中に招かれる。

31: 2020/05/06(水) 10:18:12.48 ID:9bQua4pe
海未の部屋に足を踏み入れると、前置きされた様に本当に何も無い部屋だった。あるのは机と布団、冷蔵庫、古い洗濯機位でテレビすらもない。


こんな無機質な部屋に海未が住んでるだなんて、何かの間違いでしょ?


嫌な予感が段々と確信に近づいているのを感じた。


顔に出すのはダメ、とりあえずご飯でも食べながら話をしましょう。


にこ「じゃあ、早速食べましょ。私もう腹ペコなのよ」


海未「実は恥ずかしながら私も……」


照れくさそうに頬を掻く海未。ふと注目した時に、頬が痩けている事に気が付いた。


にこ「それなら沢山食べていいわよ、お代わりなら沢山あるからね。」


海未「ありがとう、ございます。とても助かります」


さっきも同じことを言っていたけど、助かる。という言葉にまたもや嫌な感じがする。


海未の笑顔にはどこか力が無いように見えた。

32: 2020/05/06(水) 10:19:19.37 ID:9bQua4pe
にこ「ふぅ…お腹いっぱい。…ダメね歳を取ると量食べられなくなるわ」


海未「ご馳走様でした、にこ。…やっぱり相変わらず貴女の手料理は絶品ですね」


にこ「アンタ私と同じ量で足りるの?…気遣ってんじゃないわよ、ほら、よそってあげるからお腹いっぱいになるまで遠慮せず食べなさい」


海未「……すみません、ありがとうございます。いただきます。」


結局海未はその後申し訳なさそうに2杯お代わりした。

33: 2020/05/06(水) 10:20:16.11 ID:9bQua4pe
美味しそうに食べてくれるものだから、私も飽きもせずに子どもみたいに食べる海未を見つめていた。


海未「改めて、ご馳走様でした。とっても美味しかったです」


にこ「お粗末さまでした。海未が沢山食べてくれるからこれだけ作ってきた甲斐があるってものよ」


海未「はは…お恥ずかしい限りです」


にこ「鍋と皿は持って帰って洗うからそこに重ねておいて」


海未「そんな!悪いですよ、洗い物くらいさせて下さい」


にこ「いいから、そんな事より話でもしましょう。」


海未「…分かりました。どんな話をしましょうか、やっぱりあの1番楽しかった頃の……」


にこ「アンタ、どうしてここに引っ越して来た訳?」

34: 2020/05/06(水) 10:20:53.81 ID:9bQua4pe
海未「あ、えー…っと……はは、どうしたんですか急に?」


ここまで来たら様子を見る必要もないといきなり確信に踏み込むと、海未は困った様に笑ってそう言った。
驚くくらい乾いた声をしていた。


にこ「どうしたもこうしたも無いわよ、例えばこの部屋!引っ越して日が浅いにしても何も無さすぎる。それにその痩せこけた頬、あまりまともにご飯食べてないんじゃないの?」


海未「…………。」



にこ「私が知ってる中でこの2週間海未が外出しているのを見た事がないっていうのもおかしいわ。…ねぇ、何か隠しているんなら教えて。私も貴女の力になりたいの、分かるでしょ?」


海未「そうですね、どうせ隠し通せるものでも無いんです。白状します」

38: 2020/05/06(水) 10:46:07.10 ID:9bQua4pe
それから海未はゆっくりと、言葉を選ぶように事の経緯を話してくれた。


25歳で日舞の家元を継いだ事、それから忙しくも充実した日々を送っていた事。


そして3年が経って28歳になった先日、親から許嫁を紹介され、跡継ぎの催促があった事。


気が乗らないながらも会いに行った事、何度か会ったけどその相手の事をどうしても好きにはなれなかった事。


親にその事を伝えたら酷く怒られた事、失意の中思わず家を飛び出してしまった事。





……穂乃果やことりにはそれを伝える時間が無く、何も言わずに行方を眩ませることになってしまった事。


それは私の全く知らない世界だった。


軽々しく聞いてはいけない事だったのかも知れない、そんな中でも海未は、悲しそうに笑顔を浮かべていた。

39: 2020/05/06(水) 11:34:29.12 ID:9bQua4pe
海未「すみません、隠していた訳では無いのですが、こんな話をしてにこを困らせる訳にもいかなくて」


にこ「じゃあ、極力外に出なかったのはもし探されたりしていたら連れ帰られるかもしれないからってこと?」


海未「はい、その通りです。恥ずかしながら自分の通帳や印鑑等必要なもの以外何も持たずに出てきてしまったのでなるべくお金を使う訳にもいかなくてとりあえず必要なものだけ購入したんです」


にこ「それで食費を切り詰めてちゃ意味ないでしょうが…ここの家賃も安くないでしょうに」


海未「ええ、最短で入居出来るのがここだったので選びましたが…制限時間はもう長くないですね」


にこ「…なるほどね、分かったわ。…海未、なるべく早くこの部屋引き払いなさい」


海未「そ、そんな……まさかにこ……!」

40: 2020/05/06(水) 11:35:00.33 ID:9bQua4pe
にこ「勘違いしないで、海未の事を引き渡そうなんて思ってないわ」


海未「それでは何故……」


にこ「…私の所に住めばいいでしょ。これでも割と稼ぎはいいのよ?」


海未「えっ…?そんな訳には……!!」


にこ「今はそんな事言ってる場合じゃない、そうでしょ?…私は海未とまた会えて救われた気がしたのよ、これくらいの恩返しはさせて」


海未「にこ……うぅ、ううぅ…………!!」


堪え切れなかったのかくしゃりと顔を歪めて涙を流す海未。私が力になれる事はあまり無いかもしれないけど、せめて寄り添ってあげたいと思い海未を抱き締めた。


私の記憶の中にいる彼女とは違い少し痩せ細ってしまった海未の身体は震えて、大きく声をあげて泣いていた。


見た事も無い海未の弱い部分をようやく見た気がした。

41: 2020/05/06(水) 11:35:49.21 ID:9bQua4pe
にこ「ねぇ、そろそろ泣き止みなさいよ」


海未「すみ…すみま、せん……で、ですが……」


にこ「あのねぇ、確かに諦めたけどそれでも私は心の中はいつでもアイドルなの。泣いてる仲間一人笑顔にさせられなくて、何がアイドルだってのよ」


にこ「…まぁ、もうあのキャラをやれるほど若くは無いけどね……」


海未「グスッ……ふふっ、スーパーアイドルも歳を取ったものですね……」


にこ「うっさいわよ、鼻声で。…あんたもあんまり変わらないでしょうが」


海未「確かにそうですね……私も、歳だけ重ねてしまいました」


にこ「そんなもんよ、多分」

42: 2020/05/06(水) 11:36:48.05 ID:9bQua4pe
海未「にこ」


にこ「なによ?」


海未「……ありがとうございます」


にこ「別にいいわよ、丁度一人暮らしにも飽きてきた所だしね」


海未「いえ、それだけではなくて……先程私に会えて救われた、と言ってくれましたが…本当に救われたのは私の方なんです」


海未「知り合いも頼れずただ孤独の中ここに引っ越して来て、たまたま隣に挨拶に行った時に貴女に会えた。この前も言いましたが、どれほど私にとって嬉しい出来事だったか……」


にこ「お互い様、よ。」


海未「表札を隠されたのは少しいただけませんが……ね」


何となく照れ臭くってふい、と顔を背けた私を軽く非難するかのように海未がボヤく。表札の事根に持ってるんじゃないの……と呟くと、何だか学生の頃を思い出してどちらからともなく笑みが零れる。


懐かしい記憶。昔は良く海未に色んな事を正されたな、と少し感傷に浸る。


あの頃と比べて、お互いに歳を取って見た目も少し変わってしまったけれど……変わらない光景が、そこにあった。


海未「それではこれから、よろしくお願いします」


にこ「ええ」


短く海未に応える。こうして秘密を抱えた私達の、共同生活が始まった。

45: 2020/05/06(水) 12:20:33.94 ID:9bQua4pe
海未との生活は今まで以上に楽しかった。平日は私が起きる頃にはもう起きていて、朝食を作ってくれる。


そして夜帰って来る頃には夕飯を用意して待っていて出迎えてくれる。


買い物は私の役目だ。共同生活を始めて二日目に夜帰って来た時に冷蔵庫の中身が朝と全く同じだと気づいて遠慮しないで昼も自分で作って食べなさい、と海未を叱った。


それからはちゃんと三食食べている様で、1週間が過ぎる頃には痩せこけていた頬は元に戻っていた。


私の生活にも少し変化があった。帰りを待っていてくれる人がいる、って言うのは私が思っていた以上に嬉しいものでこれまでより仕事をするのが楽しくなってきた。


家庭を持つサラリーマンはこんな気持ちなのかな、と思った。


休日は私が料理を作った。海未は申し訳無さそうにしていたけど、全然苦じゃなかった。海未は本当に美味しそうに私のご飯を食べてくれる。人に料理を作るという事の楽しさを久しぶりに感じた気がした。


外出させる訳にもいかないので海未の髪の毛が伸びてくると私が短く切り揃えてあげた。似合いますか?と心配そうに聞いてくる海未に可愛い、私には適わないけど、と伝えると嬉しそうに笑った。


そうしてあっという間に二ヶ月程が経った。

48: 2020/05/06(水) 13:21:06.46 ID:9bQua4pe
にこ「ご馳走様、いつもありがとうね」


海未「いえ、仕事に出ているにこの方が遥かに大変ですから。こちらこそいつもありがとうございます」


にこ「ねぇ、海未?」


海未「何ですか?」


にこ「今までだらだらと決心出来ずにいたけど、今度の休みに私、穂乃果に会いに行くわ」


海未「えっ……!?」


にこ「ほら、ずっとこのまま…って訳にもいかないでしょ?私もそろそろ腹を括って皆に謝りに行かなきゃなって思ってね」


海未「…………私の為、ですよね」


にこ「…何の話?」


海未「私の実家の事を探って来てくれようと思っているのですよね?穂乃果とは家族ぐるみの付き合いでしたから…」


にこ「……ま、正直に言うとそれも一つの理由だけどね。……でも、海未の事を理由にしないと……私が皆に会いにいけないの。ごめんなさい、私貴女の事を言い訳にしてる」


海未「そんな、私がにこに感謝こそすれ謝られる理由なんて何一つありません!……本当に、優しいですねにこは」


にこ「ちょっと、買い被り過ぎ。情けない話だけど、ホントにビビってるだけだから」


海未「それでも、ありがとうございます。にこには助けて貰いっぱなしです、この恩をどう返したらいいか……」


にこ「もう、大袈裟だってば…でもそうね、じゃあ恩返しでもしてもらおうかしら」


海未「はい、私に出来ることならなんでも」


にこ「これ……一杯付き合わない?」

49: 2020/05/06(水) 13:21:39.80 ID:9bQua4pe
酒は飲んでも飲まれるな、なんてよく言うけど偶には飲まれる程飲みたいなって時があるじゃない?


それは、例えば仕事でどうしても上手くいかない時、楽しみにしていた番組が終わった時。それと私は経験無いけど失恋してしまった時とかもあるわね。


そんな時に衝動的に買って、普段飲まないせいで冷蔵庫の肥やしになっていたお酒。


偶には過去の思い出を肴に、お酒を嗜むのも乙なものじゃない?


…と、思っていたんだけど。



海未「にこぉ~、お酒が減っていませんよ!ほら早く、日本酒アタックです!」


にこ「…やっぱり昔の偉い人言う事は正しいみたいね」

50: 2020/05/06(水) 13:25:43.89 ID:9bQua4pe
海未「何をブツブツ言っているんですかぁ~、私の注いだお酒が飲めないっていうんですか?うぅ~……」


にこ「だぁあ、わかったわよ!ンぐっ……ほら飲んだ!」


海未「嬉しいですぅ、にこが私のお酒を飲んでくれましたぁ…」



今にも泣き出してしまいそうな海未を宥める為にグラスに注がれた日本酒をグイッと喉に流し込む。
喉の奥に微かな熱さを感じ、口をぎゅっと噤む。こめかみの辺りがきゅっと締め付けられた様な感覚を覚え、頬の上の方に熱を帯びているのを感じる。

宥める為とはいえ一息に飲むのはやりすぎたかも知れない。

51: 2020/05/06(水) 13:26:27.65 ID:9bQua4pe
にこ「もう…弱いんなら最初に言っておいてよね……。っと、そう言えば確かあんまり飲んだ事ないとか言ってたっけ」



______これは…お酒ですか?と聞いてくる海未にそうよ、と返すと改めて一杯付き合わないかと誘う。


海未は困った様にあー、えーっと…と言い淀んでいた。


嫌だった?と聞くと余り飲酒をした事が無いそうだった。


じゃあ、やめておこうか、と私がグラスを仕舞おうとすると少し慌てた様子で飲みます!と私を引き止めたのだった。


…これ思い出すと私が悪い様な気がしてならないわね。

52: 2020/05/06(水) 13:26:58.68 ID:9bQua4pe
海未「んふふ、何だか頭がぷわぷわして楽しいです!にこは楽しいですかぁ~?」


にこ「えぇ、楽しいわよ」


海未「良かったです~、ようやくにこの役に立てましたぁ…」


にこ「は……?」


海未「いつも私はにこにお世話になりっぱなしで…でも今日お酒にお付き合いする事が出来て良かったです~!」


にこ「…海未、私は貴女が思っているより貴女にお世話になってるんだから、そんなに気を遣ってくれなくってもいいのよ」


最近になってようやく遠慮が無くなって来たと思っていたけど、心の中ではそんな事を考えていたのね…


海未の存在が自分にとっても大きな物になっているというのに、まだ気にしていたなんて。明日にでもきちんと話し合わないといけないな、と思った。

53: 2020/05/06(水) 13:27:30.86 ID:9bQua4pe
にこ「ったく、酒飲むのすら初めてだってのに無理しすぎなのよ、あんたは……」


海未「初めてで何が悪いんですか…どうせ私なんて経験少ないですよぉ……」


にこ「げ、聞こえてた」


海未「大体経験が少ない事の何が悪いというんですか!お酒を飲まずとも生きていけますし恋愛経験が無くたって……」


にこ「誰も恋愛の話なんでしてないでしょうが…」


海未「むっ……にこには恋愛経験があるというんですかぁ?」


にこ「……少しは、あるわよ」


見栄を張ってしまった。本当は恋愛経験なんて全くない。
告白を受けた事は何度かあるが、興味が持てなくてその全てを断っていた。なんなら許嫁と数回会っている海未にも負けているくらいだった。

54: 2020/05/06(水) 13:30:16.51 ID:9bQua4pe
海未「……やっぱり口付けというものは尊いものなのでしょうか……?」


にこ「そ、そうよ。…この歳なら一度は経験しておきたいものよねぇ……」



見栄を張って海未の話に適当に相槌を打っているとどうしてか口付けの話になっていた。


今更正直に経験無いです、なんて風に言ったらかっこ悪いと思って、やっぱり嘘を重ねた。


海未「やっぱり経験してないとおかしいのですね……私は自分が情けないですぅ……」


にこ「だ~もう、わかったから。そろそろ寝るわよ。明日も早いんだから」


海未「にこ………」


にこ「なぁによ」


海未「お願いがあります…私に、口付けを教えて下さい……」


にこ「……はぁ!?」

55: 2020/05/06(水) 13:31:04.34 ID:9bQua4pe
海未「…許嫁に、言われたんです。キスも知らないような女が偉そうに恋愛を語るなって」


…なるほど、ようやく理解した。今日慣れないお酒を飲もうとしたのも、今の発言も、心の無い許嫁に何事にも経験の少ない事を貶されてずっと気にしていたんだろう。
生真面目な海未の事だから、多分何気無く言ったそいつの一言に本気で傷付いて、これではいけないと今まで考えてしまっていたんだろう。


にこ「海未……」


海未「お願いします…にこ。」


机に乗り出して顔を少しずつ近づけてくる海未。
上気した頬が妙に色っぽい。
そんな海未の表情に……私まで、熱に浮かされていた。


少し、また少しと近づいてくる海未の唇。


ダメだ、こんな形でお互いのファーストキスを奪い合うのは…頭はそう考えているのに、まるで固まってしまったかのように身体が動かなかった。

56: 2020/05/06(水) 13:32:03.70 ID:9bQua4pe
少し……あと、少し。



後数センチで重なり合ってしまう唇。



お互いの目を見つめ合う。幼い少女のように潤んだ蜂蜜色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。



後……1センチ…………。

57: 2020/05/06(水) 13:32:34.62 ID:9bQua4pe
ボーン、ボーン



にこ「っ……!!」


にこ「なに冗談やってんのよ、もうにこは寝るからね!」


海未「あっ……」



12時を回った事を告げる、掛け時計のベル。
今、鳴らなかったら私は…私たちは一体何をしていたんだろう。



お酒は、当分辞めておこう。そう思った。

58: 2020/05/06(水) 13:51:10.41 ID:9bQua4pe
ピピピッ、ピピピッ



無機質なアラームの音に起こされる。


にこ「っつ……」


ズキッと頭が痛む。昨日は気づかないうちに飲み過ぎてしまったようだった。


いつもは起きている海未も、布団の上で横になっていた。
……仕方ないか、初めての二日酔いだもんね。


自分の為、そして後から起きるであろう海未の為に味噌汁を作る。しじみは残念ながら無かったので、具材も少なく味噌も薄めのお味噌汁。


ズズっと啜ると出来たての味噌汁の熱が舌を焦がす。
すー、すー、と舌を冷ますために空気を取り込む。幸い火傷まではしていなかったようで、ヒリヒリとした痛みは熱と一緒に引いていった。


ふぅ、と大分落ち着いて来た頭をさする。昨日の記憶は確り頭に残っている。


どうか海未の記憶は無くなっていて欲しいと思った。

59: 2020/05/06(水) 13:51:55.75 ID:9bQua4pe
海未に宛てた手紙を書いて机の上に置いておく。
昼は軽めに、胃にいい物を食べてね、と。


時計を確認すると少し時間に余裕が無い。急いでシャワーを浴びて、スーツに着替える。薄く簡単な化粧を施したら準備完了。


ふと海未の方へ目を向けると、もう28歳だと言うのにまだ少し幼さの残る寝顔でスースーと規則正しい寝息を立てていた。


さら、と海未の綺麗な髪を撫でる。それも気に留めず眠り続ける海未の前髪を分け、頭に最後にポン、と手を添えて。


音も立てず、額に口付けを落とした。


にこ「行ってきます、海未」


そう海未に対して呟くと、まだ昨日の酒が残ってるかも知れないわね……と熱を帯びた頬に手を当て、家を出た。


ムクリと身体を起こす背後の気配に気付かないまま。

63: 2020/05/06(水) 14:44:52.07 ID:9bQua4pe
海未「…………。」



にこが出ていって鍵が閉まった事を確認すると、身体を起こす。ふと昨日の事を思い出しては頭をブンブンと振って考えを振り払う。


海未「にこには、また迷惑を掛けてしまいましたね……」


先程にこの唇が触れた額に手を当てる。かぁぁ、と頬が熱を帯びていくのが分かる。どういう意味だったんだろう、と答えの出ない問いに思考を巡らせる。


今まで額に当てていた手を降ろし、何があるわけでも無いのに呆然と見つめると、すっと自らの唇にあてがった。


はっ、と我に返る。な、何を……!と呟いて両手で顔を覆う。


とにかく、冷静になろうと周りを見渡すと机の上に手紙が置いてあるのを見つけた。

64: 2020/05/06(水) 14:45:29.98 ID:9bQua4pe
海未へ、昨日は無理に付き合わせちゃってごめんね。


昨日の事、覚えてるか分からないけど貴女の言ったことを一つ訂正させて。


海未は迷惑ばかりかけて私の役に立ててないなんて言っていたけど、そんな事ないわ。


貴女が家で待っているって思うと仕事も頑張れるし、貴女の作ってくれる料理の事を考えると面倒だった買い物も楽しくなるの。


だから海未は私に負い目を感じなくっていいの。これから、そういう事を口にしたら私怒るからね!


お味噌汁作っておいたから食べてね。お昼は軽めに、胃にいいものを食べてね。


にこ

65: 2020/05/06(水) 14:47:05.77 ID:9bQua4pe
丸みを帯びた可愛らしくも綺麗な文字で書かれた文章を最後まで読みきると、自然にぽろぽろと涙が零れた。


手紙の中ににこの優しさを感じる度に、胸がきゅーっ、と引っ張られるような感覚を覚えた。


それが何かは私には分からなかった。


とにかく文字からにこの優しさが伝わるこの手紙は大切にしまっておこう、と思った。


涙を服の袖で拭い、顔を洗おうと洗面台に向かう。


鏡の中の自分の顔を覗くと、額にグロスの跡が薄らと残っていた。

76: 2020/05/07(木) 09:34:12.92 ID:dn9xZf/y
その日私が家に帰ると、海未が上機嫌で料理を作っている所だった。二日酔いは大した事が無さそうでよかった。


海未は私が帰って来た事にまだ気付いて居ないようで、鼻歌を歌っていた。あの頃のユニットの曲…そう、確か……ふたりハピネスだったかな。


私が海未、と呼び掛けてみるとこれがまた面白くて、ビクッていう擬音がとっても似合うくらいに背中を反らせて、料理に使っていたヘラを右手に掲げて自由の女神像みたいになっていた。


おかえりなさい、とこちらに向き直る海未は、鼻歌が聞こえていたのが恥ずかしかったのか頬を赤らめて照れ臭そうに笑っていた。

77: 2020/05/07(木) 09:34:58.16 ID:dn9xZf/y
にこ「今日のご飯は…中華丼かしら?」


海未「そうですよ、具材も丁度残っていましたしお腹にも優しいかと思ったので」


にこ「…うん、匂いもバッチリ美味しそう。海未の中華料理は絶品だから、楽しみね」


海未「お褒めに預かり光栄です。にこの期待に応えられる様に頑張って作りますね」


にこ「ありがと、愛情たっぷりでよろしくね」


海未「ええ、それはもう」


軽いノリで言ってみたはいいけどなんだか恥ずかしくなってしまって、流れていたテレビに目を移す。


夕方のニュース番組が淡々と進んでいた。

78: 2020/05/07(木) 09:35:53.20 ID:dn9xZf/y
ご飯を食べ終わりお風呂を済ませる。ちなみに中華丼はとても美味しかった。海未の料理らしい優しい味がした。


お風呂に入る時にはどちらが先かで一悶着あった。結局私が言いくるめて海未に先に入って貰った。お風呂上がりの海未は顔が上気していて、昨日の事を思い出してしまい少しドギマギしてしまう。


私がお風呂から上がると、海未が椅子に据わってテレビを眺めていた。何か見てたのかなと思ったけど、私が来た途端に電源を落とした。



にこ「…?どうしたの?」


海未「あ、いえ……にこは明日秋葉原の方に行くんですよね?」


にこ「あ~、そうね」


海未「帰りは明後日になるでしょうか?」


にこ「ん~、どうだろ。でももしかしたらそうなるかも」

79: 2020/05/07(木) 09:38:27.97 ID:dn9xZf/y
海未「それでは……もしよろしければ、今日は一緒に寝て貰えませんか……?少し、寂しくて」



海未がここに引っ越してきて、初めての頼み事だった。
あ、勿論昨日の事は除いて。


でもそうか、それもそうよね、今の海未にとってはこの部屋が世界の中心なんだもの。


一応留守にしていても大丈夫なように今日は多めに買い物を済ませて来てはいるけど、家から出る事の無い海未からしたら私が居なくなるだけで大分味気ない生活になってしまうのかも知れない。


にこ「そうね、それじゃあ一緒に寝ましょうか」


海未「ありがとうございます。すみません、ワガママを言って……」


にこ「いーの。あんたはワガママ過ぎるくらいが丁度いいんだから」


海未「ふふっ、これ以上ワガママを言ったらバチが当たってしまいますよ」


にこ「大袈裟ねぇ……」


昔からどうも遠慮がちな海未だけど、私にだけは気を遣わないでいいのに。って、そう思った。

80: 2020/05/07(木) 09:39:20.08 ID:dn9xZf/y
にこ「大丈夫?狭くない?」


海未「ええ、大丈夫です。にここそ、寝苦しくありませんか?」


にこ「大丈夫よ、私達スリムで良かったわね」


普段私が寝ているベッドに2人で寝転がる。幸い1人で使うには広いベッドだったので、ギューギュー詰めは避けられた。


海未の髪の毛からは私と同じシャンプーの香りがして、なんか変な感じがする。同じ家で生活してるから当たり前なんだけどね。


海未「あの、にこ?」


にこ「なに~?あんまり夜更かしするとお肌に悪いわよ?」


海未「にこは昨日の事、どこまで覚えていますか?」

81: 2020/05/07(木) 09:40:53.82 ID:dn9xZf/y
にこ「どこって…最初から最後までよ」


海未「やはりそうですよね……はは、忘れてくれていればと思ったんですけど…醜態を晒しました、すみません」


にこ「ふふっ、別にいいわよ、酔っ払った海未も新鮮で可愛かったしね」


海未「…………。」


にこ「…………。」


お互いにどこまで話していいものか考えて押し黙る。


私は危うく口付けを交わしてしまいそうだったあのお願いについて聞きたくて、海未は…どう考えているのか分からないけど。


にこ「あのさ…」 海未「あの……」



二人の発言が被った。
少しの気まずさの後になんかの物語みたいだなって何となく思って軽く笑みが零れる。


にこ「ごめん、先いいわよ」


海未「あ、すみません…それでは」


海未「今朝の事、なんですけど……」

82: 2020/05/07(木) 09:42:13.29 ID:dn9xZf/y
今朝の事……。
と考えて横に寝転がる海未の顔を覗いてみる。顔を真赤に染め、目をきゅっ、と瞑って振り絞る様子にようやく気付く。




…しまった、気付いてたのね。



にこ「まさか……起きてた?」


ぱちぱちと二度瞬きを繰り返した後、こく、こくとこちらも二度頷く。


っと…これは弱った。今朝の行動の意味なんて、私にだって分からないのだから。


海未「もし昨日の事を憐れんでしてくれた事なのだとしたら、やっぱりお礼を言っておかなくては、と思いまして」


はは、と乾いた笑いを浮かべながら海未の表情は何度も見たどこか寂しげなものだった。

83: 2020/05/07(木) 09:43:10.58 ID:dn9xZf/y
にこ「あのね、昨日私嘘ついちゃった」


海未「嘘……?」


にこ「私もね、恋愛経験ないの。…一度も。」


にこ「でも後輩の前だからって少し格好つけちゃったのよ」


海未「……それなら、尚更…」


にこ「なんであんな事したのかって、そんなの私が知りたいわよ…だって、今まで誰に言い寄られてもピクリとも動かなかったのに、貴女の事を考えると殴られたかってくらいに心臓が鳴るんだから」


海未「……。」


にこ「でもね、これはもしかしたら勘違いなのかもしれない。ほら、こういう状況でしょ?お互いに縋る所がそこしかないから、だから今は言葉には出来ない」

84: 2020/05/07(木) 09:46:40.61 ID:dn9xZf/y
また嘘を吐いてしまった。でも、今のは半分本当だ。
この生活が始まってからも今まで通りの生活をしている私は違うけど、海未は家からも出られなくて心の拠り所が私しかないんだから。


海未は今、恋に恋する少女なの。この歳で?って言われるかも知れないけど、今まで恋を無意識に遠ざけて来た海未だから。


もしも今ここで関係をはっきりさせたとして。
問題が解決したら、海未の心は私から離れていってしまうかもしれない。その時に一番辛い思いをするのは、別れを告げられる私よりもきっと別れを告げる海未だ。


だから今は、二人のこの曖昧な心に名前を付けるのは辞めておこうって、そう思った。


海未「私、嬉しかったんです。にこがどう思っていようと、それだけは変わらない事を知っておいて欲しくて」


にこ「……ありがと」


海未「……こちらこそ、です」

85: 2020/05/07(木) 09:50:19.75 ID:dn9xZf/y
そしてまた沈黙。
昔から言葉は上手い方じゃないけど、上手く伝わっていてくれたらいいなって思った。
私達に関係する不安はそれだけじゃないし、ね。



にこ「ねぇ、海未…実は私、明日の事少し不安なの」


海未「不安…ですか?」


にこ「そ、もし拒絶されたらって思うと…ね」


海未「大丈夫です、ほら、1番厳しかった私がこんなに簡単に受け入れたんですから」


にこ「ふふっ、それはそうかもしれないけどさ。……海未」


海未「なんですか?」


にこ「少しだけ、抱き締めて」


海未「…お易い御用、です」


海未の温もりを感じるその腕の中で、先程までの不安は嘘のように暖かい感情に変わる。
例えもし何かを拗らせた勘違いだったのだとしても、今の幸せは間違いじゃない、そう思いたい。
心地良い心臓の高鳴りを感じながら、私は意識を手放した。

86: 2020/05/07(木) 10:52:27.95 ID:dn9xZf/y
すっかり自分の腕の中で眠ってしまったにこの頬を撫でる。年齢を感じさせない肌艶を見て思う、あの頃のきゅうりパックが効いているのかも知れないな、と。


目を瞑って居ることによってより強調された長い睫毛を見ているとあの頃の合宿を思い出して微笑ましい気分になる。


先程のにこの話を思い出す。にこは勘違いかも知れないと言ったが、私の感じるこの気持ちは、その言葉でしか言い表せないと思った。


しかしにこの言う事も尤もであって、私から伝える事は定職に就いているにこの迷惑になってしまう事が分かる。


今抱えている問題が解決してその後でもにこが私と同じ気持ちで居てくれるとしたら…その時は彼女の気持ちを尊重しよう、と決めた。

87: 2020/05/07(木) 10:53:44.50 ID:dn9xZf/y
決意の現れからかにこの小さい身体をきゅっ、と抱き寄せると。





ふと、正面から抱き締めて居ることによってお腹の辺りに感じる柔らかさに、思わずドキリとしてしまう。






あの頃よりも明らかに成長したそれに気付いてしまったら、もうその事を頭から離す事が出来なくなってしまっていた。

88: 2020/05/07(木) 10:57:20.73 ID:dn9xZf/y
ドク……ドク……と身体に血が巡るのを感じる。息が上手く吸えない。




身体が熱い……自分が自分で無いかの様な変な感覚を覚える。


熱に浮かされぼんやりとした思考でその感覚に身を任せた。





身を捩って隙間を作る。もう身体の制御は効かなかった。
ひとりでに手が動き出しすっ、とにこの胸元へあてがう。あと数センチで触れてしまう所まで持ってきて正気を取り戻した。


しかし正気に戻ったとはいえ自分の欲に逆らう事はもはや出来ず、にこを起こしてしまわないようにゆっくり、ゆっくりと近づける。

89: 2020/05/07(木) 10:58:46.47 ID:dn9xZf/y
ふに、と手のひらにようやく待ち焦がれていた柔らかい感触を感じた所で気付く。




先程までは注目していなかった為に気付いていなかったがにこは下着を着けていなかった。



夢中でふに、ふにとその感触を楽しむ。
右側から左側へ、その手を移動させた所でようやくにこの心音を感じた。



バクバクと破裂寸前の心臓。





これが私のものではない事に気が付いたのは、それから数秒後の事だった。

92: 2020/05/07(木) 11:37:00.23 ID:dn9xZf/y
海未「っ……!?」





にこは起きていた。


いつから…?や、なんで何も言わずに……?という疑問はもはや次のにこの発言にかき消されてしまった。





にこ「………………え ち」




まるであの頃のように、ジトリと自分を見つめるにこの顔はまるで素直じゃない共通の後輩が好きな食べ物の様に真赤に染め上げられていた。

93: 2020/05/07(木) 11:45:09.18 ID:dn9xZf/y
海未「申し訳ありません、なんてお詫びすればいいか……」


にこ「…別に気にしちゃいないわよ。こんな隙のある格好で寝てた私も悪いしね」


海未「…すみません、こんな事しておいて虫のいいことを言っていると思いますが、どうか見捨てないで下さい……」


にこ「待て待て、何バカ言ってんのよ。そんな事するわけないでしょ」


こつん、と頭を小突かれる。あんな最低な事をした私の事を一切責めずに、優しく怒ってくれるにこ。


冷静になった私はなんて最低な事をしていたのかと自分が情けなく感じた。


にこ「だからぁ、そんなにしょんぼりしないの。…言っておくけどもう29のおばさんよ?私の胸なんて触っていい事なんて無いでしょうに……」

94: 2020/05/07(木) 11:45:38.75 ID:dn9xZf/y
海未「いえ…今でもにこは若くて……とても、綺麗ですから」


にこ「っ……!…そ。とにかく、私はちょっともう1回シャワー浴びて着替えてくるから、海未はもう先に寝ていて。ちゃんと戻るから」


海未「…?何故…………」


にこ「……言わせないでよね、ばか」



にこが言った事をベッドに戻った後でもしばらく考えていたけど、結局私が眠気に負けるまでに答えは出なかった。
ただ許して貰えた事に安心して、忘れていた眠気に抗いきれずにこを待つ事が出来ずにすっ、と意識を失う。







にこ「…寝てるわね」





にこ「ったく、男子中学生かっての」





再びこつり、と頭を小突かれた事に気付くことは無かった。

102: 2020/05/07(木) 14:15:02.02 ID:dn9xZf/y
にこ「ん……ぅ」


海未「あ、起きましたか?」


にこ「…うみ…………?」


海未「ええ、おはようございます」


にこ「…あっ」


目を覚ますと海未はもう起きていて、私が抱き締めて離さないものだから少し窮屈そうに笑っていた。


慌てて起き上がって謝ると、寧ろ謝るのは私の方です、と返された。


…多分私も不安だったんだと思う。昨日の事を海未が気にしていてそのまま出て行っちゃったらどうしようって。


とりあえずは、海未がここにいてくれて良かった。

104: 2020/05/07(木) 14:17:02.36 ID:dn9xZf/y
にこ「……じゃあ、そろそろ私は行くから…鍵は絶対に閉めて、外には出ないようにしなさいよね」


海未「分かってます。…少し寂しいですが、こんな私を見離さずに力になってくれるにこを裏切るような真似は絶対にしません」


にこ「よし、それならいいわ。信じてるからね」


それだけ言って家を出ようとする。


にこ「あ、食材多めに買ってあるから三食ちゃんと食べるのよ?」


海未「分かっています、にこに怒られましたから」


にこ「なにか体調とかに異変があったら直ぐに連絡してね、携帯の番号は交換したから分かるわね?」


海未「分かりました。はい、しっかりと登録し直していますよ」


にこ「……ちゃんとお饅頭買ってきてあげるから、出ていっちゃダメよ」


海未「分かっていますって…ふふっ、随分と心配性ですね」


にこ「……悪い?」


海未「いいえ。……お饅頭、楽しみに待ってますね」


にこ「…ん。行ってきます」


海未「はい、行ってらっしゃい」


私の心配をよそにすっかり平気そうにしている海未に見送られて、家を後にした。

128: 2020/05/07(木) 17:18:54.59 ID:dn9xZf/y
>>104
これをこれに変更で


にこ「……じゃあ、そろそろ私は行くから…鍵は絶対に閉めて、外には出ないようにしなさいよね」


海未「分かってます。…少し寂しいですが、こんな私を見離さずに力になってくれるにこを裏切るような真似は絶対にしません」


にこ「よし、それならいいわ。信じてるからね」


それだけ言って家を出ようとする。


にこ「あ、食材多めに買ってあるから三食ちゃんと食べるのよ?」


海未「分かっています、にこに怒られましたから」


にこ「なにか体調とかに異変があったら直ぐに連絡してね、携帯の番号は冷蔵庫に貼っておいたから、家の電話から掛けてね」


海未「分かりました、ありがとうございます。」


にこ「……ちゃんとお饅頭買ってきてあげるから、出ていっちゃダメよ」


海未「分かっていますって…ふふっ、随分と心配性ですね」


にこ「……悪い?」


海未「いいえ。……お饅頭、楽しみに待ってますね」


にこ「…ん。行ってきます」


海未「はい、行ってらっしゃい」


私の心配をよそにすっかり平気そうにしている海未に見送られて、家を後にした。

105: 2020/05/07(木) 14:21:17.42 ID:dn9xZf/y
電車に1時間程揺られて生まれ育った故郷へと降り立つ。


辺りは休日な事もあって家族連れやカップル、友達グループらしき様々な人で賑わっていた。


10年前と比べたら少しは街並みも様変わりしてしまったけど、久々に見たこの光景は、いつ見ても変わらないなと思った。


前に帰ってきたのは三年前のお盆だったかしら。
そろそろまた家にも顔出さないとね。
三年前はまだ小さかった虎太郎ももう中学生だし大分大きくなってるんだろうな。


これから会いに行く人物のせいか、まだピークには程遠いっていうのに燦々と照りつける太陽に辟易としながらとりあえずコンビニでミネラルウォーターを購入して、歩き出した。

106: 2020/05/07(木) 14:22:03.97 ID:dn9xZf/y
にこ「…さて、まずは本題よね」


私の性格上後回しにしておく事も出来なくて、心無しかあの頃よりも少し古くなった様にも見える老舗の和菓子屋を前に覚悟を決める為に呟く。威勢の良さとは打って変わって、マスクを着けた状態ではあったけど。


この引き戸を開けたら私達のリーダー、穂乃果が居ると思うと膝が震えてくる。


私が踏ん切りがつかず店の前でうろうろとしているとお客さんであろうおばあさんがガラガラと扉を開け中に入っていった。


「いらっしゃいませ!あ、××のおばあちゃん、こんにちは」


聞こえてきた声にぐっ、と体が強ばる。こんな声だったかしら、10年前の記憶は朧げで少々自信が持てない。


「あれ、お姉さんもお客様ですか?」


にこ「あ……すみません」


と、扉の前で呆然としている私にお店の奥から声をかけられる。こちらからは逆光になってよく見えない。


咄嗟に店内に入ってしまうと、やっと向こうの姿を確認する事が出来た。

107: 2020/05/07(木) 14:22:58.09 ID:dn9xZf/y
雪穂「いらっしゃいませ!」


カウンターの先で店番をしていたのは雪穂ちゃんだった。
どうりで少し声に違和感を感じた訳ね。少し肩透かしを食らった気分だけど、ほっ、と一息。


にこ「こんにちは、あの……」


雪穂「はい?ご注文ですか?」


にこ「あ、いえ……えっと、穂乃果さんはいらっしゃいますか?」


雪穂「姉ですか?…はい、居ますけど……すみません、失礼ですけどどちら様で……」


にこ「あ、私穂乃果さんの高校の頃のクラスメイトで…」


雪穂「あぁ、そうだったんですね、丁度昼の休憩中なので呼んで来ますね」


にこ「あ、ごめんなさい、よろしくお願いします」


咄嗟に嘘をついてしまった。雪穂ちゃんとも面識はあったし、気付かれてしまうかなと少し不安ではあったけど、流石にあの時はまだ中学生だったし流石にマスク越しではバレなかった。

108: 2020/05/07(木) 14:24:45.91 ID:dn9xZf/y
パタパタと奥へ走っていく雪穂ちゃん。しばらくすると


『お姉ちゃーん、お客さん来てるよー!』


『えぇ?誰~?』


『分かんないけど、綺麗な人ー!』



と、姉妹の会話が聞こえてきた。久々に聞いた穂乃果の声に緊張するかと思ったけど、二人の会話を聞いていると…なんだか相変わらずね、と思って少し肩の力が抜ける。


店内に残された私。イートインスペースで美味しそうにお婆さんが頬張る和菓子を見ていると、穂乃果も立派に社会人してるのね、なんて思った。



穂乃果「ん~、誰だろ。今日は誰とも約束してないと思うんだけど……」


トタトタとこちらへ向かう足音が聞こえる。


いよいよ対面だと思うと足が竦んで今にも逃げ出したくなってくる。


それでも自分の事はすっかり忘れ、海未の為、と気合いを入れると足の震えが多少マシになった気がした。



穂乃果「はーい、お待たせしました~……って……」


雪穂「どうしたのお姉ちゃん?そこで止まられると邪魔なんだけど……」




穂乃果「……にこちゃん…?」


にこ「……久しぶり、突然押し掛けてごめんね」




マスクを外して私がそう言うと、後ろでは雪穂ちゃんが、うぇえ!にこさん?!と驚いていた。






穂乃果「……とりあえず、上がってよ。雪穂、昼休憩少し長く取るから店番お願いね」

112: 2020/05/07(木) 15:05:49.62 ID:dn9xZf/y
久々に見た穂乃果の部屋は、あの頃とは違って綺麗に整えられていた。


かと思ったら前から大切にしていた熊のぬいぐるみが置いてあったりと、変わらない部分も少しあって。


そして壁やコルクボードには、あの頃の写真やポスターが大事そうに飾られていた。


そして本人は、あの頃のまま変わらない美しさだった。


ただ変わった所といえば少し癖のあるミディアムヘアにあった彼女の代名詞とも言えるサイドテールは解かれて、あの頃の誰をも包み込む笑顔は、私には向けられていなかった。


穂乃果「…はい、麦茶でいいかな?あとこれ、私が作ったものの余りで悪いけど」


にこ「あ、お気遣いなく。…さっきも言ったけど、突然押し掛けてごめんなさい」


穂乃果「そんな事どうだっていいよ、大事なのはどうして今更私に会いに来たか、だよね?」


久しぶりに聞いた穂乃果の声色は、本当に彼女のものなのかと言うくらい冷たいものだった。



平静を装ってはいたけど、内心は恐ろしくて嫌な汗が流れ歯が震える。

113: 2020/05/07(木) 15:07:03.07 ID:dn9xZf/y
にこ「そうね、なんでここに来たのかって言うと少し説明がしづらいんだけど……まずは一つだけ言わせて」


穂乃果「…なに?」


にこ「……ごめんなさい」


この言葉を皮切りに、私の口は穂乃果の返答を待たずに回り始める。


まずは今まで何をしていたか。


そしてこれまで皆を避けてしまっていた理由、そして私にとっても大事な思い出だったからずっと謝りたかった事。


それでも謝る事が出来ずにいた私だけど、このままではいけないと思ってまずはリーダーであった穂乃果に会いに来たこと。


海未のこと以外は全て包み隠さずに伝えた。



穂乃果「…………。」


にこ「今更何を言ってるんだって言われるかも知れないけど…本当に、ごめんなさい」


穂乃果「……。」


にこ「……ほ、穂乃果…………?」

114: 2020/05/07(木) 15:10:47.63 ID:dn9xZf/y
穂乃果「……うん。」


実際は数秒だったんだろうけど永遠の様にも感じられた沈黙を破り、


前置きをおいて、穂乃果が話し始める。



穂乃果「うん……!全然いいよ!えへへ、にこちゃんが変な商売でも勧めてきたら追い出しちゃおうかなって思ってたけど、正直に伝えてくれたから…穂乃果は許すよ!」


穂乃果「あ、自分の事穂乃果って言っちゃった……もう、久しぶりに見るにこちゃんのせいだからねー?」


と言って、ようやく見ることが出来た穂乃果の笑顔。緊張で張りつめていた分がくりと筋肉が弛緩する感覚。


記憶の中と同じように朗らかに笑う穂乃果の顔は今日の太陽と一緒で私にはとっても眩しかった。


海未の事を隠しているという事に罪悪感を覚えたけど、許して貰えて本当に良かった。


ビビっていた反動からかほっとしたらポ口りと涙が出てきてしまう。

115: 2020/05/07(木) 15:13:21.04 ID:dn9xZf/y
にこ「ありがとう、穂乃果……」


穂乃果「お礼なんて言われる事じゃないよ、何年経っても私達は仲間なんだから!…あ、私の所に最初に来たって事は皆にはまだ言えてないんだよね?」


にこ「ええ、そうね。……もし良ければ皆の連絡先を教えてくれない?」


穂乃果「それなら、いい案があるよ!…ねぇ、にこちゃんはこれから暇?」


にこ「?……ええ、特に予定は無いけど……」


穂乃果「それなら夕方から私と出掛けようよ、それまでここで待ってて?」


にこ「へ?なんで……」


穂乃果「いいから!ほら、あと何時間かで今日は終わりだから…漫画でも読んで待っててよ!」


穂乃果がじゃあまたちょっと仕事に行ってくるから、と下に降りていく。久しぶりの穂乃果はやっぱり強引で、でもそんな穂乃果がとても懐かしくて。私から離れていったっていうのにあっさりと……あの頃と変わっていない関係に安心して私は少しだけ泣いた。

122: 2020/05/07(木) 16:25:10.89 ID:dn9xZf/y
穂乃果「お待たせ」



仕事が終わって戻ってきたと思ったらお風呂上がりで。


あたふたとしている私に構いもせずに先程まではしていなかった化粧をして、格好もお洒落な服に着替えた穂乃果がやっと口を開く。


あの頃と較べて大人になっただけあって、格好だけは私がハッとしてしまう位に美しい穂乃果。


しかし締まらない表情とテンションの高さにどうにもカッコがつかない。



にこ「本当にね……一体なんなのよ全く」


穂乃果「まぁまぁ……こういうのはサプライズじゃないと面白くないでしょ?お互いに、ね」


にこ「はぁ?…ちょっと本格的に意味がわかんないわよ」


穂乃果「いいから!…さ、いくよ~!」


ガシッと腕を掴まれ、連れられて家を去る事になる。
あぁ、まだ雪穂ちゃんにもお礼と謝罪が出来ていないのに…なんて思ってお店の方に目を向けると、雪穂ちゃんは良かった、とでも言いたそうにこちらを見つめて微笑んでいた。

……全く、どちらが姉か分かったもんじゃないわね。

123: 2020/05/07(木) 16:25:55.16 ID:dn9xZf/y
にこ「ここは……?」


穂乃果に連れられてやってきたのは、居酒屋?
…っていっても大衆居酒屋ではなくて、外観を見るに所謂個室居酒屋のような所なのかしら。


ってそんな事はどうでも良くて。なんでこんな所に連れてこられたんだろう、ただ飲みたいだけだったらわざわざこんな所に連れてこなくてもいいわよね……?


穂乃果「ちょっとだけ入口で待ってて!確認してくるから!」


にこ「いや確認って何……って待って!ホントに置いてくの!?」


穂乃果に置いていかれたせいでポツン、と店の前で一人ぼっちに。確認っていうのも意味が分からないし、まずさっき言ってたいい案ってホントにコレのことなの?

124: 2020/05/07(木) 16:42:33.80 ID:dn9xZf/y
穂乃果「…お待たせ!じゃあさ、ちょっと穂乃果の後ろに隠れて着いてきてよ!」


にこ「はぁ?何言ってんのよ、まず説明してくれる?」


穂乃果「実際に見てもらった方が早いからさ、ほらほら。あ、にこちゃんも目を瞑っていてね!」


何が何だか分からないままにとりあえず穂乃果の言う通りにする。肩に掴まり、目を瞑りながら縮こまって穂乃果の背に隠れている私は恐らく周りから見たら不審人物極まりなかった。


しばらく穂乃果の導くままに道なりに進むと、突然立ち止まる。



穂乃果「じゃあ、せーので前に出てきていいよ!」


何だか嫌な予感がしてきた。こういう時の穂乃果って突拍子の無いことをしたりするのが常だ。


穂乃果「せーのっ!」


ええい、と覚悟を決め込んでバッと穂乃果の背から飛び出す。


瞬間、穂乃果ならやりかねないと思って少し予想はしていたけど、まさか本当にやるなんて。


そんな展開にビキッと音を立てるんじゃないかってくらいに身体が固まる。


嫌な予感的中……少しくらい私のペースでいかせてよ…



「えっ…………!!?」


これまた久方振りの、とろけるようなその可愛い声にあの頃と変わらずとさかのような髪の毛を残した女の子らしい女の子。



ことり「にこちゃん……?!」


南ことりが心底驚いた顔で座っていた。

125: 2020/05/07(木) 16:47:03.72 ID:dn9xZf/y
にこ「大変申し訳ありませんでした……」


ことり「あはは……私は全然いいけど…穂乃果ちゃん大丈夫?」

穂乃果「もー!ひどいよにこちゃん、思いっきり頭を叩くんだから…バカになったらどうするのさ!」


にこ「それ以上はならないでしょ…全く、私だって気にしてるんだから、もっと段階踏むとかあるでしょ」


穂乃果「だってぇ…ことりちゃんは絶対に許してくれるって思ってたんだもん……」


にこ「確かにあっさりと許してくれたけど、これで雰囲気悪くなってたらどうするつもりだったのよ」


穂乃果「ことりちゃんに限ってそんなことは無い!…と思う」


にこ「自信無くなってんじゃないの…」


ことり「それにしても、本当に久しぶりだねにこちゃん…もう10年くらい?」


にこ「そうね、大体それくらいかしら。…あんた達が変わって居ないせいで高校時代に戻ったみたいよ」


穂乃果「にこちゃんは少し大人っぽくなったねぇ…」


にこ「少しって何よ!これでも色々成長してんのよ?」


ことり「確かににこちゃんはちょっと変わったかも、すっごい綺麗になったね」


にこ「そうでしょ?」


穂乃果「ひひっ、そういう所は変わってないけどね~」


にこ「うっさいわね、もう1発いくわよ」



軽口を叩きあう。穂乃果が無茶をやって叱られて、ことりがたしなめる。


でも私が担っている所は、違う人物の方が良く似合う。

126: 2020/05/07(木) 16:52:15.53 ID:dn9xZf/y
穂乃果「それで、私達が今日こうやって集まったのには理由があるんだ」


ことり「折角だからにこちゃんにも聞いて貰って、手伝って貰えないかな……」


にこ「なに?私に手伝える事なら手伝うわよ」



これから話される事、多分私は知っている。私が今日ここに来たもうひとつの理由。


穂乃果「あのね、驚かないで聞いてね」









穂乃果「海未ちゃんが、行方不明になっちゃったんだ」



予想通り、私が隠している事。


二人の大切な幼なじみ、海未の話だった。

147: 2020/05/08(金) 00:51:55.48 ID:tET5xEop
にこ「…それで?状況はどんな感じなの?」

ことり「私達も少し前に聞いたんだけどね、2ヶ月くらい前から行方不明らしくて」

穂乃果「そう、私達に何も言わずにどこかに言っちゃったんだ……携帯も解約しちゃったみたいで繋がらないし…ってにこちゃん、なんか思ったよりも冷静だね?」


にこ「え?…あぁ、まずは詳しく聞かない事には役にも立てないかと思って」


ことり「私がお母さんから聞いた話だと、どうも結婚が嫌で家出したんじゃないかって話なんだけどね…」

穂乃果「……うん、私もそう聞いてるよ」

ここまでは海未の話と同じだ。穂乃果やことりが信用に足りるようなら、話をしてもいいかもしれない。


もしかしたら海未の実家と繋がっているかも知れないから、今はまだ話せないけど。


にこ「…それで?あんた達は海未を見つけてどうするつもり?」


穂乃果「え?」


ことり「どういうこと?」


にこ「今の話を聞いた感想だけど、確かに心配だけど海未がそれを望んで姿を眩ませたんだとしたら、無理に探す必要も無いんじゃないかって思うんだけど」


穂乃果「うーん…そこまで考えて無かったや、やっぱりにこちゃんは頼りになるね!」


ことり「うん、私たちに出来ない冷静な判断をしてくれるから、やっぱり話を聞いてもらえて良かった」


にこ「心配だからとりあえず探そうって思ってたのね。あんた達は海未の結婚についてはどう思う?」


穂乃果「海未ちゃんの家が厳しいのは知ってるけど、嫌がってるのに結婚なんてあんまりだよ、絶対に許せない!」


ことり「私も、海未ちゃんには幸せになって欲しいかな」


にこ「……なるほどね。やっぱりあんた達はそうよね」


ことり「えっ…?それってどういう……」


穂乃果「……もしかしてにこちゃんなにか知ってるの?」



やっぱりこの二人は何があっても海未の事を尊重して物事を考えてる。私には幼なじみはいないけど、こんな幼なじみが居たら毎日が楽しかっただろうなって。そう思った。

この二人にだったら、話してみてもいいかもしれない。

148: 2020/05/08(金) 00:53:37.25 ID:tET5xEop
にこ「…あんた達の今の言葉、信じるわよ」



穂乃果とことりの海未への気持ちを信じて、私は知っている事を伝える。


家から逃げるようにしてたまたま私の隣に引っ越して来た事。


再会した時には必要最低限のものしか持ってきていなくて食事もまともに取れていなかった事。


今は私の家に住まわせていること。


追っ手がいるかもしれなくて外出も出来ない状況。


全部を話した後で最後に付け加える。二人には海未の家の現状について探ってほしいと。


ことり「よかったぁ……無事だったんだね。私達にも何も言わずに行っちゃったから、本当に心配してたんだ」


穂乃果「うん、にこちゃんが匿ってくれているんなら安心だよ」


にこ「それでも根本的な解決にはならないわ。…申し訳ないんだけど、二人にも協力して欲しいの」


穂乃果「勿論だよ!」


ことり「私も、とりあえずお母さんに色々と聞いてみるね」

149: 2020/05/08(金) 00:54:25.03 ID:tET5xEop
にこ「ありがとう、海未が私の所にいるっていうのは誰にも言わないようにね。…これ、私の携帯と家の番号。海未に用事がある時はここに掛けて」

穂乃果「今から掛けてみてもいい?」

にこ「驚くだろうからやめておいてあげて。帰った時に今日の事を伝えておくから」


ことり「そうだね、きっとお家の事考えて動揺しちゃうよね」

穂乃果「そっか、それもそうだね!」

にこ「じゃあ、そろそろ私は帰るわね」

穂乃果「えー、もう行っちゃうの?今日は私達と飲もうよ~!」

にこ「嬉しい誘いだけど、折角だから実家に顔をだそうと思ってね」


ことり「そっか…残念だけど仕方ないね……」

穂乃果「じゃあまた今度、約束ね!」

にこ「ええ、情報を纏めるために1ヶ月後くらいにまた落ち合いましょう?」



ことり「あ、にこちゃん。暇な時があったらここに連絡してあげてくれないかな…にこちゃんの事心配してたから……」


帰り際にことりから誰かの連絡先を渡される。多分μ'sのメンバーの。


誰のかは分からないけど、連絡してみたら分かる事だから聞かない。わざわざ渡してくれたって事は本当に心配を掛けてしまった相手だろうから、明日までにはちゃんと連絡しなきゃね。


にこ「…?……ありがとう。そうね、私はそっちの方もちゃんと解決しないといけないものね」


穂乃果「私が言えたことじゃないけど、ゆっくりで大丈夫だよ。…きっと、一筋縄じゃいかない子もいるだろうから」


にこ「……うん、覚悟はしてるわ。」


ことり「それだけにこちゃんの事が皆大好きだったから…でもきっと、分かってくれるよ」


にこ「そうね、ありがとう。…じゃあ、これ置いて行くわね」


と言ってお札を置いていく。久しぶりの再会だから、たまには先輩らしくしないとね。


えぇ!?受け取れないよ!と追いかけてこようとする穂乃果を片手で制して、そのまま店を出た。


私の事も、海未の事も。


きっと何とかなる。μ'sのリーダーとの再会はそんな事を思わせてくれた。

150: 2020/05/08(金) 00:55:22.44 ID:tET5xEop
にこ「ただいま」


にこ母「おかえりなさい、にこ。思っていたより早かったのね」


ここあ「お姉ちゃんおかえり!久しぶり~」


こころ「おかえりなさいお姉様。もう、もう少し沢山帰ってきて下さい…寂しいんですから」


にこ「ごめんね、これからはちょくちょく帰るようにするから…」


こころ「約束ですよ?」


母と可愛い妹達に迎えられて帰宅する。皆の嬉しそうな顔を見ていると、今までこの街に出来るだけいたくなくてあんまり帰って来れなかったけど、これからはもっと沢山顔を見せに来ようって思った。


虎太郎「……。」


もう一人の大事な家族である虎太郎はどこかな、と思ってきょろきょろと周りを見渡してみると、柱の向こうに隠れてちょこっと顔を覗かせてソワソワとしていた。もしかしたら思春期に入って久しぶりに会った姉が少し気まずいのかもしれない。


にこ「こた、おいで」


虎太郎「……なに?」


にこ「おっきくなったわね。ついこの間までは勝ってたのに、身長ももうとっくに抜かされちゃって」


手招きしてこちらへ来させると、もう私よりもうんと大きくなってしまった虎太郎の頭をさら、と撫でる。
前に会った時よりも声も変わってしまって、やっぱり男の子何だなぁって思った。


虎太郎「…子供扱いしないで」


にこ「もう、変に大人ぶらないでよ。私から見たらあんたなんでまだまだ子どもなんだからね?」


虎太郎「……。」


ムスッとした顔でくすぐったそうに私の手を受け入れる虎太郎に、なんだかあの頃の後輩の姿を思い出す。


…一筋縄じゃいかないって言っていたのはあの子の事かもしれないな、とも思った。

152: 2020/05/08(金) 00:57:00.85 ID:tET5xEop
虎太郎「にこに……姉さんは今日は泊まっていくの?」


にこ「うーん、今日はやめておく。その代わりまた近いうちに帰るから、寂しがらないで」


虎太郎「…寂しがってなんかないよ」

私の事を昔のようににこにーって呼ぼうとしたくせに生意気な口を聞くわね、と思ったけど、口には出さないでおいた。

にこ母「あら、泊まっていかないの?折角ご飯も奮発しようかと思ったのに……」


にこ「うん、ごめんね。今日は帰らないと」


にこ母「なぁにー?いい人でもできた?」


にこ「なっ…そんなんじゃないわよ」


にこ母「恥ずかしがらなくたっていいのに……」

恥ずかしがってなんかない!って返したけど、それは上手く流されてしまった。

にこ母「……いい顔に戻ったわね」


にこ「……?」


にこ母「実を言うと少し心配してたの。私のせいでにこの人生を楽しくないものにしちゃったんじゃないかって」

にこ「…そんな事ないよ。次そんな事言ったら拗ねるから」


にこ母「……ありがとう」


目尻に少し涙を溜めてそう言う母に、私も歳を取ったな。と思った。

ここあ「ねぇお姉ちゃん!久しぶりにファッションチェックしてよ!」


こころ「あ!ずるいですよここあ!私もお願いします」

にこ「ふふっ、分かったから、二人とも喧嘩しないの。ほら、こたも一緒に行くわよ」


虎太郎「…僕も?」


私の事を取り合う妹達に微笑ましさを感じながら、昔にしてあげたようにファッションチェックと称したお喋り会をする。自分からは言い出しづらいだろうと虎太郎の事も誘うと、少し嬉しそうにトテトテと着いてきた。


久しぶりに家族と会うと、やっぱり皆の事が好きなんだな、と再確認出来る。


ほんの少しの時間だったけど、色んな事を忘れて本当に楽しむ事が出来た。

153: 2020/05/08(金) 01:07:31.18 ID:tET5xEop
にこ「ただいま」


やっと家に着いたのは日付が変わろうとする頃だった。滑り込みセーフでギリギリ本日2回目のただいまを言って家の中に入ると、海未が私のベッドの上で体育座りをして待っていた。


海未「にこ、よかった。帰ってこれたんですね」


にこ「ええ、ただいま。…寂しかった?」


海未「……はい、寂しかったです。…ここがにこの事を一番感じられるので、勝手に使ってしまいました、すみません」


随分と甘えん坊になって…と考えていると、ささ、と私の傍まで来た海未がきゅ、と袖を掴んできた。


海未「にこ、昨日の今日で図々しいお願いなんですが、今日も一緒に寝てくれませんか……?」


にこ「何よ、ホントに甘えん坊ね。…分かった、でも今日は色々あって疲れてるから…あんまりおいたしちゃダメよ」


海未「分かりました。ありがとうございます」


あの頃の海未だったら、顔を真赤にして否定するものを…


つい数日前まではまだ遠慮が残っていた海未と同一人物には思えないような態度にくす、と苦笑が漏れた。


にこ「じゃあ、お風呂入ってくるから。少しだけ待ってて」


海未「はい、お待ちしていますね」

154: 2020/05/08(金) 01:20:29.37 ID:tET5xEop
私がお風呂から上がると、海未は私が帰ってきた時と同じ様にベッドに体育座りをして待っていた。


そこまで狭くもない部屋に態々縮こまって座っている姿が何だか可笑しい。もう三十路も近いって言うのに、まるで小さな子供のような海未にまた笑いが込み上げて来た。


ぱぁ、と表情を輝かせ自分の隣を空けてぽんぽん、とベッドを叩いてみせる海未に従ってベッドに潜り込むと私は今日の出来事について話し始めた。


にこ「今日穂乃果とことりに会ってね、あの子達が本気で海未の事を心配していたから貴女の事を話して協力してもらう事にしたの」


海未「二人が……?…よかった、伝えられていなかったことが心残りだったので、とりあえず一安心です」


にこ「家の番号を教えておいたから、近い内に穂乃果から電話が掛かってくると思うわ。声を聞かせてあの子達のことも安心させてあげて」


海未「はい……ありがとうございます。またにこにはお世話になってしまいましたね」


にこ「穂乃果とことりに許してもらえたのは、行こうって思わせてくれた貴女のお陰よ。だからお互い様」


海未「…………ありがとうございます」


何度もお礼を言う海未。私は貴女と再会しなかったらこのまま皆に謝る事も出来なかったっていうのに、謙虚なのも考えものね。


海未「…にこ、もう少しそっちに寄ってもいいですか?」


にこ「…いいわよ。ふわぁ……そろそろ寝ちゃいそう」


海未「明日は休日ですが、私にご飯を作らせてください。…せめてものお礼がしたいんです」


にこ「律儀ねぇあんたも。…わかった、楽しみにしてる」


海未「それではにこ、おやすみなさい」


にこ「うん、おやすみ……」


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